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浅井井頼の事

2022年04月30日 15:47

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/30(土) 12:12:18.84 ID:LMmnjRoW
或る記によると、浅井周防守(井頼)は淀殿の弟であり、大阪落城後、遁れて京極家に行き、剃髪して
作庵と称したという、

或る本では、豊臣秀次公の臣であった浅井周防守は、勇功の士であったが、秀次校に仕える少童たちの
目付けであった所、元来男色を好んでおり、ある少年を犯して通じた。
この事を秀次公が聞き召され、大いに怒り、浅井を殺すべしと命ぜられた。

これを聴いた周防守は、立ち去るべきと思ったが、
「我武勇の名を得て禄を食む。おめおめと退きては、命おしさに、などと人の誹りも口惜しい」
と、城に登り大声を上げて

「君、人をしてそれがしを殺し給うという。一体誰がその命を承れたか!?
急ぎ出て私を殺害されよ!」

と言い駆け回ったが。彼の勢いに恐れたのであろうか、敢えて手差しする者も無かったので、すぐに
立ち退いた。だが日本に在れば尋ね捜され、恥を見るのも心憂しと思い、朝鮮に渡って住んだ。
そして毎朝浜辺に出て、「日本大乱国家滅亡!」と叫びながら、薙刀を振り回したという。

秀次公御生害の後に帰国し、浪人していたが。去る年に籠城して、夏の陣の時に戦死したとも言う。

(新東鑑)



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