465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/30(土) 12:12:18.84 ID:LMmnjRoW
或る記によると、浅井周防守(井頼)は淀殿の弟であり、大阪落城後、遁れて京極家に行き、剃髪して
作庵と称したという、
或る本では、豊臣秀次公の臣であった浅井周防守は、勇功の士であったが、秀次校に仕える少童たちの
目付けであった所、元来男色を好んでおり、ある少年を犯して通じた。
この事を秀次公が聞き召され、大いに怒り、浅井を殺すべしと命ぜられた。
これを聴いた周防守は、立ち去るべきと思ったが、
「我武勇の名を得て禄を食む。おめおめと退きては、命おしさに、などと人の誹りも口惜しい」
と、城に登り大声を上げて
「君、人をしてそれがしを殺し給うという。一体誰がその命を承れたか!?
急ぎ出て私を殺害されよ!」
と言い駆け回ったが。彼の勢いに恐れたのであろうか、敢えて手差しする者も無かったので、すぐに
立ち退いた。だが日本に在れば尋ね捜され、恥を見るのも心憂しと思い、朝鮮に渡って住んだ。
そして毎朝浜辺に出て、「日本大乱国家滅亡!」と叫びながら、薙刀を振り回したという。
秀次公御生害の後に帰国し、浪人していたが。去る年に籠城して、夏の陣の時に戦死したとも言う。
(新東鑑)
或る記によると、浅井周防守(井頼)は淀殿の弟であり、大阪落城後、遁れて京極家に行き、剃髪して
作庵と称したという、
或る本では、豊臣秀次公の臣であった浅井周防守は、勇功の士であったが、秀次校に仕える少童たちの
目付けであった所、元来男色を好んでおり、ある少年を犯して通じた。
この事を秀次公が聞き召され、大いに怒り、浅井を殺すべしと命ぜられた。
これを聴いた周防守は、立ち去るべきと思ったが、
「我武勇の名を得て禄を食む。おめおめと退きては、命おしさに、などと人の誹りも口惜しい」
と、城に登り大声を上げて
「君、人をしてそれがしを殺し給うという。一体誰がその命を承れたか!?
急ぎ出て私を殺害されよ!」
と言い駆け回ったが。彼の勢いに恐れたのであろうか、敢えて手差しする者も無かったので、すぐに
立ち退いた。だが日本に在れば尋ね捜され、恥を見るのも心憂しと思い、朝鮮に渡って住んだ。
そして毎朝浜辺に出て、「日本大乱国家滅亡!」と叫びながら、薙刀を振り回したという。
秀次公御生害の後に帰国し、浪人していたが。去る年に籠城して、夏の陣の時に戦死したとも言う。
(新東鑑)
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