fc2ブログ

高森伊予守、志賀親度に加勢所望のこと

2022年05月26日 16:30

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 20:11:44.38 ID:yj+RKTrs
「大友興廃記」より「高森伊予守、志賀親度(「道懌」表記を「親度」に統一)に加勢所望のこと

肥後国の高森伊予守は大友宗麟公の幕下であり、先年小原鑑元の逆心が現れ罰せられたのも彼の働きであった。
島津義久公の家老・新納武蔵守(忠元)の計略により、島津方の稲富新助が花山にて甲斐相模守(甲斐親英、甲斐宗運の嫡男)と合戦したが、島津方は敗れた。
その遺恨により新納武蔵守は高森の城を落とそうと、天正十二年十二月十三日(1585年1月13日)に三千騎で高森伊予守の城に攻め寄せた。
伊予守も奮戦し互いに鉄砲を撃ち合ったが、とうとう大手門を破られ、伊予守は降伏し城を明け渡した。
もとより伊予守は武略の上手であったため、これは一旦城を取らせて油断させる策略であった。

十五日に伊予守は樽肴種々の土産を調えて「和睦の盃を酌み交わしましょう」と城に行ったところ、稲富はよろこんで城に入れて宴会となった。
盃をさしかわしながら稲富が言うことには
「われわれも攻城の時、大剛の者が取り囲まれ若干の負傷者や死人が出ました。
詰めの城まで攻めていたならば、最後には落城させていたでしょうが、こちらも過半が討たれていたことでしょう。
伊予守の御芳志により死なずにすみました」
このとき、伊予守はみずからを智慧才覚のない無分別者と思わせるためこう尋ねた。
伊予守「島津義久公は隣国から徐々に智略をめぐらし、諸国の侍に内通させ、彼等が味方についたのちに豊後に御出兵なさるとうかがっております。
武士の習いとして「昨日の矢先に今日はひかゆる(昨日の敵は今日の友、の意?)」と言いますので
それがしも義久公御出兵の時には稲富殿の組に入りたいと思います」
稲富「義久公の豊後御出兵はありません。
肥後は島津の隣国なので、武蔵守が才覚をもっていろいろ調略をしましたが、それでも本当の味方は少数です。
まして豊後は宗麟公が御在国なので調略ののちに出兵など思いもよらぬことです」
それを聞いた伊予守は話題を変えたのち、次のように問うた。
伊予守「さる天正六年の冬、日向国高城において豊後の諸勢に若干の死者が出ました。(耳川の戦い)
敵味方いかばかり討ち死にしたでしょうか?」
稲富「敵味方六万六千人余りの討ち死にだったそうです。
中務(島津家久)が豊後勢の死骸を讃嘆して言うには
「武士の強弱は死骸でわかるものだ。
勝負は時の運。豊後勢は敵陣に頭を向けており、味方に向かった死骸はない」と感じられたそうです。
また、義久公の命令で弔いをしました」
伊予守「おもしろいお話です。私などはただの死骸としか見ないのに、中務がそのように気づかれるとは、屍にとっての面目といえましょう」

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 20:16:39.85 ID:yj+RKTrs
そののち伊予守は家中の高森右京進を呼び出して
「お前は今回の降伏を無念に思っておるだろうが、これは稲富をだまして討つための策略である。
お前は密かに豊後に行って、志賀親度に我が意志を伝え、加勢を頼め」
と言うと、右京進は了承して豊後岡の城に行き、高森伊予守からの書状を披露した。
親度は書状を読むと、家中七組の頭(省略)に誰を遣わすべきか談合した。
談合の結果、大軍を差しむけ島津方をことごとく討ち取ろうと定まったところで
親度の嫡子・志賀太郎親次はその時十六歳であったが、こう発言した。
志賀親次「高森への加勢のために大軍を差し向けるのはもってのほかであります。
そのわけですが、肥前・肥後も薩摩に味方しているのは明らかです。
このたび高森を攻めているのは伊予守を敵としているのではなく、最終的に豊後をとろうと企てているからです。
わたしは遊山をすると、狩り、釣りの次には敵を討つ方法を考えるようにしておりますが、それは戦は猟に似ているからです。
猪は寝ているうちに勢子で取り囲み、魚は騒がないように遠くから網を回し、それぞれ囲いを狭めていきます。
もし初めから近くに網を回すと魚が騒ぐため、大漁は見込めないでしょう。
薩摩は名高い大将ですので、豊後を取るために周辺の国から大きな網を巡らせているのでしょう。
今、薩摩が高森を攻めているのは網の中の石を取り除いているようなものです。
島津義久は二、三年のうちに豊後を攻めようと考えております。
もしここで肥後に大軍を出しては、いくらか討たれて味方が弱体化してしまいます。
最後に大敵と戦わなければならないのに、いま人数を損なうのは不可であります。」
親度「わしもそう思うが、薩摩勢は三千ばかりあり、高森伊予守が援軍を請うているのだ。どうしたものか」
七組頭一同は親次の言葉に親度も同意したことで、お家の行く末は安泰だと感涙の涙を流し、
「親次様はまだ若いのにこのような名言を仰られるとは、お年を経ればどれだけの御分別が出てくることやら。
おそらくは九州に肩を並べるもののない名大将になるでしょう」と申した。
親度「それでは二千の兵を出そうと思ったが、親次の異見により雑兵を加えて千五百の兵を出そう。
侍大将には親次、朝倉土佐守(「留守の火縄」の朝倉一玄だろうか)、大森弾正を命じる」

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 20:19:35.96 ID:yj+RKTrs
肥後国高森の近くにきた志賀親次は兵を陰に隠し、使者の高森右京進とともに高森伊予守の宿所を密かに訪ねた。
伊予守「城を攻めれば負傷者や死人が大勢出るでしょう。
一口を空けて夜討ちにして城を焼けば、敵は空いている口から出ようとするでしょうから、
われわれは城の案内はわかっておりますので搦手から詰めかけて尽く討ちましょう」
こうして豊後勢は同士討ちを防ぐため、同じ装備で合言葉を決め、夜討勢を五百、城から出てきたところを討つ伏兵を、志賀勢・高森勢でそれぞれ千おいた。
こうして十二月二十九日の明け方、伊予守はかねて用意していた火矢や松明を忍び口より投げ込んで、城中の大部分を占めていたボロ屋を炎上させた。
そこで前方・後方から鬨の声を挙げたところ、城中の稲富勢は慌てふためき兵を出してきた。
味方の兵は血気さかんに闘い、互いに敵を多く討とうと争った。
稲富勢も命を惜しまず、味方が倒れても顧みず、ここを死に場所と定めて戦ったが、どんどん討たれ少なくなった。
しかし稲富は戦巧者のため、わずかの勢で戦場を横切ったため討ち損じてしまった。
戦が終わり、死骸を数えると千八百余りを討ち取っていた。
志賀勢も負傷者は多数出たが、死人は五、六人もいなかった。
城は再び高森のものとなり、志賀勢は豊後に帰還した。
志賀親次は「このたびの戦では大いなる不覚をいたしました。薩摩勢は多く討ち取りましたが、大将である稲富を討ち損じました。」
と志賀親度に申したが
親度「悔やむでない。戦というものは必ずしも敵を討つのが勝ちではない。殺さずして退散させるのも勝利である。
それにしても高森伊予守の武略のために大勝利を得たものだ」と喜んだ。
そののち伊予守から志賀親度に加勢の礼があった。
親度が大友義統公に詳細を告げると、義統公は大いに感悦した。
義統公から親度と高森に御感状が与えられた。

のち天正十四年に肥後国を新納忠元が、豊後国を島津中書(家久)が討ち入った時、志賀から高森に援護の兵が出され、豊後国に高森を引き取った。
翌年、薩摩勢が退いた後、高森は肥後国に帰還した。
甲斐宗運御逝去ののち、「策を帷幄の中に巡らし、勝ちを千里の外に決す」とは高森伊予守のことであろう。



スポンサーサイト



志賀親度裏切りについて

2022年05月16日 18:08

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/16(月) 15:38:23.73 ID:5/c1FEL1
2020年から新名一仁氏による現代語訳が出版されてきていることでも有名な
島津の老中・上井覚兼による「上井覚兼日記」から>>473の志賀親度(道益)裏切りについての箇所
(現在現代語訳が出版されているのは天正十二年十二月まで)

天正十四年(1586年)二月五日
…豊後の志賀道輝(親守)、近頃大友義統から勘気をこうむったため、迦住城遠方に隠遁となっていた。
そこですでに島津に内通していた入田(義実)と同心のよしを申してきた。

同年同月十六日
志賀道益(親度)と申す者は、道輝の子息である。
かの者は大友義統に召し仕われていた一之対(おそらく妾)を盗み取り扶養していたが、
慮外の振る舞いということで義統の勘気をこうむり、菅迫というところに籠居となっていた。
そこで入田方と一味のよしを申してきて、今年の春中に島津義久公の出兵があれば豊後平定のために案内すると言ってきた。
この者に限らず、大友の国衆はまとまりがなく、統制がとれていないようだ。
そこで使者に見参し、お酒をよこして閑談した。
使者は豊前・豊後国の絵図の写しを持参し、ここかしこの情勢をくわしく話した。
拙者は道益あての書状を託し、内通を承諾したよしを使者に申して帰らせた。
使者の申したことは重要な点も含めて、昨年の入田が内通した時の情報と一致していた。
皆知っているように豊薩和平のことは(天正八年に)京都(織田信長・近衛前久)により定められたが、
昨年の冬以降、大友義統が当家に対して筋目違いが歴然であった…

志賀親度が義統の妾を奪った理由
名馬を事後承諾で貰えたから、味を占めたわけじゃないと思うが



志賀道択、御馬を拝領と偽り取り帰る事

2022年05月14日 16:44

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/14(土) 16:10:03.34 ID:4gpgNxON
「大友興廃記」から志賀道択(志賀親度)、御馬を拝領と偽り取り帰る事

天正三年乙亥二月に信長公が信濃黒という名馬をくださった。
信長公の御意には「去年遣わした鬼月毛は世に過ぎたもので、遊覧用にしかならなかったであろう。
この信濃黒はいつもはのどかな馬で、体を飾って舎人をおおく付けてもなんの反応も示さない体たらくであるが、乗ると意のままになる、足の速い名馬である。
信長秘蔵ではあるが、わざわざ使者を送ってこられたので特別に遣わす」との仰せであった。
信長公の御意よりも優れた馬であったため、宗麟公のお召しの馬の中でも第一とされた。
ここに南郡岡の城主、志賀兵部親教入道道択(志賀親度入道道益)、丹生島登城の時、宗麟公は御機嫌であったので、暇をもらい、吉光の御脇差も拝領した。
道択はすぐに御厩舎の別当・雄城無難を訪ねたが留守だったため、御厩舎の舎人に馬を案内させた。
舎人「これは薩摩鹿毛、肥前黒、龍造寺粕毛、あれは山口黒、河辺岩石落…」と二百余の究竟の逸物の名馬を見せたあと
「これは御召料第一の御馬、信濃黒と申します。この春に信長公より参った馬でございます」
と言うと、道択はしげしげと見て、この馬以上の馬はないと思いいって、
道択「やあ舎人、この馬はそれがしが今朝拝領せよと宗麟公から仰せつかった馬であるぞ」
舎人「お言葉を疑うわけではありませんが、別当の無難も留守なのであい渡すことは、わたくしの分別ではできません」
道択は大いに怒り「殿から拝領を仰せ付けられたのに、無難が留守だからと言って渡せないとは何事だ」
と責めて、鞍をかけて打ち乗って「これは心地がよい」といいながら居城の岡の城に帰ってしまった。
そののち無難が帰ったので、舎人が「しかじかで…」と申した。
無難は不思議に思い、急いで登城しこのことを皆に尋ねると
「吉光の御脇差を拝領したことは聞いたが、御馬のことはなんとも存ぜぬ」と皆が言ったので無難は仰天し、ことのしだいを申し上げた。
吉岡掃部介(吉岡鑑興)、吉弘嘉兵衛尉(吉弘統幸?)、田北新介(田北鎮周には新介の名乗りはないようだ)といった老中衆は談合の結果、
「宗麟公の御機嫌を損ねるのを覚悟でありのままに伝えよう。
十のうち一つは本当に馬を遣わされたのかもしれない、十のうち九は道択がたばかって取ったのであろうが」
ということで、無難と老中がそろって汗をかきながら宗麟公にありのままに申し上げると
宗麟公はしばらく考えたあと「古くから軍の先を駆けんとするものは龍馬を求めると聞いておる。脇差を遣わした時の折紙に、信濃黒についても拝領遣わす、と書いておけばよかったものを」
とかえって興にいったように仰せられた。
思いの外の御返答で、無難も放心したように帰った。
良将の考えなさることは、諸人の智とは違うものだ。

※志賀親度(道益)は豊薩合戦の時に大友を裏切ったため、息子(養子)の親次により自刃させられた