fc2ブログ

大内義隆、方角を忌説

2020年04月24日 17:26

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/24(金) 10:24:21.43 ID:T4UpEmkq
大内義隆、方角を忌説


 大内左京太夫義隆は並びもなき大名で、周防国山口に住んでいた。
武道を忘れて、華奢を好んでいた。
常に甚だしいほどのの物忌みを行っており、
家人に屋敷を与える時は、
水性の者は北、木性の者は東、
火性の者は南、金性の者は西と定めていた。
もし木性の者は金性の子を産んだ時は、西の方へ預けていた。

 今按ずるにこれは大内氏のみの話ではない。
今の世(正徳頃)にも、この類はある。
 ある者は家を建てて地を移すのときに、
東北の間は鬼門なり、今年はあっちは金神なり、土用には土は動かさないとしたり、
水神・荒神の祈り、疫病・疱瘡の呪い、矢違・愛敬守、男女の相性、葬送の友引、名鑑・判占い等と忌み、
夢見、カラスの鳴き声、鶏の宵鳴き、犬の長吠え、幽霊、化物、野狐、金花?(ねこまた)などを恐れる。
 尼姥はもとより理に暗い者なのでさもありなん。
武夫がこのようでは、見る目も浅ましく、聞く耳も情けない。
もし書を読み理をわきまえ、吉凶禍福を請い求め逃れ避けようとする思いもせず、
万事万物全て天に任せていたら、宇宙の間に何を疑う事があるだろうか。

(広益俗説弁)

矢違はなんなのかわからないけど、お守りの一種ですかね
武士が迷信にとらわれるなって話なのでしょうが、割と信心深いエピソードありますよね



5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/25(土) 06:55:07.49 ID:e5r/qk9y
矢違は敵の矢が当たらないという御守りのことですよ

毛利元就が石見の山吹城を攻めたときにこの御守りで九死に一生を得たエピが地元に伝わってます

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/25(土) 20:53:04.74 ID:0aAtX73o
>>4
矢違のお守りについて
ttp://www.chofuku-ji.jp/temple
スポンサーサイト



大内とは 目出度き名字 今知れり

2019年04月03日 18:04

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/03(水) 13:51:06.14 ID:5i1rn27A
大内多々良の義隆は、防州山口、鴻ノ峰の御館を普請し、並びに新造に屋形を輝くばかりに磨きたて、
北の方(室町殿物語は持明院基規娘とする。万里小路秀房娘の誤認か)を移し参らせ、築山の御前と
号してかしずいた。

しかし姫君は都を恋しく思い、事の折に触れては言い出されたため、義隆は「ならば当初に都を移そう」と、
一条から九条までの条里を割り、四カ国の大身、小身の屋形を、いからを並べて造った。京、堺、博多の
商人たちも、軒を争い続けて店舗を建築した。大内領国の諸侍は、朝暮に出仕を遂げ、彼らがこれを
大切にすること記すにいとまあらず。

それだけではなく、諸門跡をはじめ、公卿、殿上人、又は五山の惟高和尚達を請待し、ある時は和歌、管弦の
遊び、またある時は詩、連句の会を朝夕の業とし、その他京都、南都(奈良)よりも申楽の名人を
呼び下し、能芸を尽くさせ、さらには茶の湯を催し、和漢の珍器を求めて弄んだ。

さるほどに、国々より諸商人が山口へ到来して、毎日のように市町が立った。されば防州には時ならぬ
春が来て、山口は「花の都」と唱えられた。

この当時の京都は廃れ果てており、山口の繁栄に及ぶべくもなく、であれば山口の一条の辻に、いかなる人の
手によるものであろうか、このような札が立った。「九重の天こゝにあり」として

 大内とは 目出度き名字 今知れり
         裏の字略せし 大内裏とは

(室町殿物語)

大内義隆の時代の、山口の繁栄の様子。



770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/03(水) 13:55:12.43 ID:xCkas3Ae
文化方面に行く人は……ね

“大内本”

2019年04月02日 18:09

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/02(火) 17:44:28.73 ID:caEwBzl0
大内介(大内氏)は西国一の大名であった。周防山口の城に居住した。紙を大明に遣わし、書物を
刷らせて取り寄せた。今に至って“山口本”とも“大内本”ともいう。

この家臣に陶氏あり。陶は後に大内を取って除け、繁昌した。大内は子孫かすかにして信長の時分
まではいたという。

毛利元就は陶・尼子などを滅ぼして大名となる。元就の父を弘元という。弘元の時は、いまだ微々
たるものであった。

――『老人雑話』


大内家滅亡

2018年04月05日 17:54

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/04(水) 20:58:14.12 ID:Y93a5UA7
天文二十年七月、細川右京太夫晴元の軍勢が近江坂本より打ち立て京の相国寺に陣を取った。
しかしこれに敵対する三好筑前守長慶は、七月十四日、相国寺へ押し寄せ火をかけ攻め込むと、
晴元勢は一戦にも及べず散々に落ちていった。(相国寺の戦い)

この時、京はこのように乱れきっているが、西国は猶静謐であるため、公方足利義輝、および
細川晴元は、猶も三好が京に迫ることあらば、慧林院殿(足利義稙)の時のように、中国の
大内の元へ御動座あるべき由、内々に評定がなされた。

ところが、その年の天文二十年九月二日、大内義隆の家老である陶晴賢が謀反を起こし、
大内殿を攻めたところ、不慮の一戦叶わずして、義隆は長門国に落ちていった。

その頃、京都の大乱の故に、公家衆も多く大内殿を頼んで周防へ下向され、
禁裏様(天皇)をも山口に行幸されるようにと、大内は多年に渡り支度をしていた。

しかしこのような災い起こり、前関白二条尹房、持明院中納言元規、前左大臣三条公頼といった
人々がここにて自害した。
大内殿は長門国深川にて自害。御年四十五歳であったという。藤三位親世、藤中将良豊も
自害された。

この人々は都の乱を避けてこの国に下られ、このように亡んだこと。一業所感(人はいずれも、
同一の善悪の業ならば同一の果を得るということ)とも言うべきであろう。

陶晴賢は主を亡ぼし、豊後の大友義鎮(宗麟)を頼み、次弟を申し受けて大内八郎義長と号し、
山口の館に移しこれを主とし、自分は執事となり、心のまま振る舞った。
そして子息の阿波守(長房)に家督を譲り、入道して法名全羨と号した。

(足利季世記)

足利義輝細川晴元の周防亡命の計画が有ったとか、大内は山口に天皇まで迎え入れようとしていた
らしいとか、大内が亡びなかったら戦国史はどうなっていたんでしょうかね。



雲州侵略会議、大内家終わりの始まり

2016年10月09日 12:33

188 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 01:11:35.87 ID:IrCiT5D0
雲州侵略会議、大内家終わりの始まり

1541年正月14日、前年より吉田郡山城を攻めていた尼子晴久の率いる三万の雲州勢は長き攻防の末、毛利元就と陶隆房率いる大内方の援軍の前に撤退を余儀なくされる。
余勢を駆った毛利元就と陶隆房はそれぞれ芸州の反大内勢力である、佐東銀山城の安芸武田氏と、桜尾城の友田氏を滅ぼし芸州の勢力はほぼ大内方へ靡く事となった。
また、先の吉田郡山城合戦まで尼子方だった芸備雲石の国人13名(三吉広隆、福屋隆兼、高野山久意、三沢為清、三刀屋久祐、本庄常光、
宍道正隆、河津久家、吉川興経、山内隆通、宮若狭守、古志吉信、出羽助森)が陶隆房に
「義隆卿が自ら雲州を攻められるならば、我ら13名は味方し先陣いたします。尼子を退治した暁には備雲石の三国から身分の大小に関わらず今の所領と同じだけの所領を御加増下さい」
と内応を申し出た。
是を受け陶隆房は直ちに主君義隆にこの事を申し上げ、雲州攻めを上申。義隆は叔父の大内高広、杉、内藤、青景以下の家臣や子らを集め相談した。
隆房は他の意見を聞こうともせず、尼子攻めを主張。その主張はこの機を逃しては先の13名の国人どもに義隆様は父君義興公に智勇劣ると侮られ、再び尼子へ掌返され今後当家に味方する者は無くなるでしょう。
1日も早く雲州を攻める決を下されます様にと、大変強い物であった。
誰もが押し黙る中、相良武任が進み出て、
隆房殿の仰る事はもっともながら、幾ら13名の国人が味方しようと今我らが雲州を攻めれば先の尼子晴久が毛利の吉田郡山を攻めた二の舞となるでしょう。
先代義興公も雲州攻めを画策したものの九州の敵が筑、豊を攻めた事に妨げられ、事を為し得ませんでした。また今の尼子方の郎党には英雄豪傑数多く、軍勢も当家が殊更多い訳ではありません。
ここは石州から陥れ、一城ずつ落として兵を堅め徐々に雲州を攻略してはどうだろうか?
隆房殿が戦いを急がれ敵をたちどころに打ち破ろうとするのは戦法として危うい。
先ずこちらが負けぬ工夫をし、戦わずして勝つと常々おっしゃっておられる事こそ、隆房殿の御父興房殿もご存知のところです。
今義隆公のご智勇、先代義興公に劣っておられる筈はありませんが、老功の将と若年の将とでは、世間の対応からして全く違います。
若き義隆公のご武勇のみを頼りに、敵を打ち破る事容易く思い数カ所の敵城を越え月山富田城まで進攻の作戦を立ててもご勝利かどうか甚だ確かではありません。
それにしても隆房殿が武勇を誇り敵を侮られるのは頷けない事です。
今少し他の国人の意見も聞くべきです。
と意見を述べた。次に冷泉隆豊
隆房殿、武任殿お二人の言い分どちらも理にかなっています。隆房殿が言われる通り敵の国人数名が同心して味方に加わりその上敵軍が吉田表で敗軍した折ですから、この破竹の勢いに乗り敵国を攻めるは道理にかなっています。
また武任殿が義興公の遠路ご進行の経験を例に出されたのもごもっともです。私からご両人の議を相兼ている謀りごとを申し上げましょう。

まず芸州へ進攻し、味方に与する国人たち、同じく備後の侍達から人質を取り堅められ、次に石州に暫く在陣して本庄、小笠原、更に雲州の三沢、三刀屋、河津などの人質も取り、
赤穴の城を攻め落として軍士を入れ、その後出雲に攻め入り降る者から人質を取り、敵するものは城を攻め、尼子の本拠を攻め急ぎする事なく、国中の城々を味方で守り堅め、謀りごとを先にして戦いを後にすれば敵は士気衰え、やがて降旗を立てるでしょう
と述べた。満座の者はこの意見に賛同し、その日の評定はこれで決着がついた。
しかしながら、隆房と武任とはこの時の議論に互いに含むところがあり、泥中に荊あるがごとく、たちまち不和となって、これがついには大内家滅亡のもととなったという事である。



189 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 08:24:07.32 ID:Xify1bNh
相良のが陶よりまともな事言ってる気がする

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 08:39:49.17 ID:t9v3aFpB
冷泉発言は後年元就が行った尼子十旗&月山富田城攻略戦そのものだったりする
でも陶の性格からして相良や冷泉のような戦略を取るのは無理だろうな

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 11:40:43.39 ID:Oau9qfpR
>>189
ただの慎重論、臆病者あるあるです

192 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 11:49:45.17 ID:YB5Da6Hm
>>191
お晴カス

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 14:26:28.85 ID:Oau9qfpR
>>192
臆病者久幸おつ

197 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/09(日) 15:07:23.02 ID:YB5Da6Hm
>>196
(晴賢の晴だったんだけどなぁ…まいっか)
その臆病尼子比丘尼に救われたのは誰でしたかのう?

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 21:57:38.33 ID:Oau9qfpR
臆病者あるあるですね

199 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/10/10(月) 07:43:12.23 ID:dtnoel3P
経久「晴久君、ちょっと話があるから雪隠裏行こうか」

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 11:04:09.18 ID:M8uKGH4G
老害おつ

鷹羽の心根

2016年03月08日 13:11

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/07(月) 22:17:29.27 ID:iMfW4Wz6
(大内)義隆公は、ことのほか芸能や美しいものを愛し、講西寺に立ち寄った際に
その境内で演奏をしていた流浪の芸人の笛吹きを召し抱え、さらにはその者の子供が
美童であり鼓に秀でていたため小姓として、鷹羽と名乗らせた。
陶(隆房)殿が兵を挙げると、義隆公は吉見(正頼)殿を頼って長門の大寧寺まで
落ち延びたが、そこで塀に囲まれ自害することとなった。
鷹羽も義隆公に従っていたので同地で殉死するか戦って死んだと思われたが、ある日、
山口の地でこれを見かけた者があった。
「義隆公のお伴をしたのではなかったのか」と問うと、「我が死んだごときではご主君への
恩は返せぬ。かと言って戦う力もないので、私のような者でもご主君の敵を討つことができる
機会を探しているのです」と語った。
それを聞いた相手は、他の者に「命を惜しんであのような嘘をつくとは、生まれが賤しい者は
心情も賤しい」と語り、それを聞いた者たちも鷹羽を臆病者・恩知らずと罵り嘲った。
半年後、陶殿を毒殺せんという企みが発覚し、その下手人として台所に紛れ込んでいた
鷹羽が捕えられた。
陶殿は豪気なおかただったので、主君のために尽くそうとした鷹羽に感心し、右腕の肘から
先を切り落とすだけで、鷹羽の命を許した。
鷹羽が臆病者であるという悪評はおさまったが、片腕となった鷹羽は得意の鼓で稼ぐことも
できず、乞食などして糊口を凌いでいたので、口が悪い人は「身の程知らずのことを企んだ
罰である。元の身分に戻っただけのことよ」と笑いあった。
そうこうするうちに、鷹羽の姿は山口から消え、誰もそのことを忘れてしまった。
弘治元年、陶殿は大軍を率いて安芸厳島に上陸したが、そこで毛利軍に敗れ自害なされた。
厳島から引き揚げの際、毛利軍は自軍の中に見慣れぬ怪しげ者が紛れ込んでいるのを見つけ、
大内方の兵が毛利軍の振りをして逃げ延びようとしているのだと思い、これを殺した。
殺された者は右腕が無く、素性を問われて「義隆公の恩に預かった鷹羽という者である」
とだけ名乗り、後は経文を唱えるだけで何も語らなかったという。
これを伝え聞いた(鷹羽親子が召し抱えられた場となった)講西寺の和尚は、鷹羽の心根を
哀れに思い、小さな墓を建て祭ったということである。
(防長古老説話集)

非力な美少年が、何としてもご主人様の仇を獲ろうとして果たせなかった(あるいは
果たせた?)哀しくも美しい話



439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/07(月) 22:49:39.00 ID:ZeNQm+KB
史記の刺客列伝か侠客列伝に出てくるような剛の者だな。
結果、名が高く残ったいい話だと受けとりたい

茶入・玉堂

2016年01月07日 08:17

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 21:52:48.17 ID:H+6WH/5C
 周防の山口太守大内義隆公、陶尾張守の謀反によって、同国の菩提所大寧寺にて自害した。
さらに尾張守は大寧寺を焼き立てて、僧俗によらず切り捨てた。

その内の出家の者であった玉堂和尚は、大寧寺へ義隆公から寄付された名茶入を三、四つに割り、鉄鉢の底に入れ、
危ういところから命からがら助かり都へ上り、茶入をくっつけて売り払った。
この茶入は継ぎ手があるというのでかえって値段も上がったという。

 この和尚は玉堂と申すので、そのまま茶入の名となった。

 この僧は尾張守が滅亡の後、この金子で大寧寺を再興し今も残っている。甚だ殊勝な出家のものである。
(本阿弥行状記)

この茶入と思しきものが徳川ミュージアムにあるのですが、
特につなぎ目みたいなものは見当たりませんでしたね..



150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/06(水) 22:35:33.17 ID:L9nbHTsQ
大寧寺と言う法灯を今に繋いだと言うことか

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 02:53:24.13 ID:VhdIqWPd
そして宗教へと続く

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/07(木) 03:58:53.66 ID:8GTdO5fn
継ぎといったら古織という勝手な思い込みがあるが、先人がおるんやな

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/08(金) 03:23:54.44 ID:iX36EQHW
必要もなく壊してくっ付けたのと一緒にすべきなのだろうか

大内晴持の死

2015年04月15日 18:32

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/14(火) 19:58:05.31 ID:xEnJ2PJf
大内義隆による尼子氏の富田城攻めは、大内方として在陣していた備・芸・雲・石の国人である、
三澤、三刀屋、宮山、山名、出羽以下、13人が一同に心変わりし、尼子に内通、
天文12年4月晦日、彼らが一斉に富田城に入ったことで一気に形勢が変わった。
この時尼子に内通しなかったのは、毛利、平賀、三吉、福屋、熊谷、天野、益田と言った人々であったが、
彼らもこの内通劇に驚き、翌5月1日は諸陣以ての外の騒動となったが、ここは陶尾張守(隆房)が
固く下知して、翌日には静まった。

しかしこの事態に、陶は大内家の老臣を集めこう申し述べた
「今度国人達の心変わりによって、家城に残っている彼らの一族が、防州との通路を塞ぎ兵糧を断ってしまえば、
我らが軍士が飢餓に及ぶこと確実である。先ず今回は、この陣を引き払い、再び九州の味方を催して
出陣すべきと考える。」

この事、大内義隆に伺いを立て、5月7日未の刻(午後2時頃)、大内義隆・義房父子は経来木山を引き払った。

義隆父子は、湯屋より別々の船にて退いた。この時、義隆の船に、取り残された者達が乗り込もうと
取り付いたが、冷泉隆豊が長刀で彼らを切り払い、無事漕ぎ出した。

陶・杉・内藤といった重臣たちは、湯屋まで義隆父子を見送って、再びの雲州出陣の為であると、
船には乗らず、その勢三千ばかりにて、白潟に廻って引き退いた。

大内義隆の養子である周防介義房(晴持)の船には、あまりに多くの者達が乗り込み、船子たちは
猶も乗り込もうとする者たちを、櫓で打ち払い漕ぎ出そうとしたが、なおも慕い来て取り付いたため、
ついに船は転覆し、義房を始めとして一人残らず溺死した。

この周防介義房は、土佐の一条大納言房家卿の子息で、義隆姉の腹であったのを、三歳の時より
大内家の養子として、従五位下に叙せられていたが、この年十一歳になられたと聞く。あるいは二十歳という。

異書に曰く、この時義房は雲州得ノ浦に落ちたが、敵が夜に入って大勢にて押しかけて来たため、
味方の者達は周章狼狽し、義房も危うき所に、篠山九郎左衛門という、義隆寵愛の扈従が駆け上がり、
「我こそ周防介である!」と名乗って、手の者2,30人と共に防戦した。

この間に義房は落ち延び船に乗ったが、この船が転覆し溺死したのだという。
篠山は暫く防ぎ戦ったが、従兵達は皆討ち死にし、逃げるべき方法もなく、今は義房も落ち延びたであろうと
考え、自ら太刀を胸に当て、そのまま伏せて倒れ、貫かれて死んだ。

その後、篠山はその浦の祠に祀られ、浜の宮と号し、それは今も存在している。
(芸侯三家誌)





富田城攻めの陣取り

2015年04月14日 18:37

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/13(月) 19:36:33.44 ID:WbwXWuQx
大内氏による出雲攻めの時のこと。

異書に曰く、山口勢は出雲の畤地という所に到着すると、評議の上、そこから富田の向こう、経来木という山に
陣を寄せるべきとの話になったが、これに毛利元就が反論した

「尼子は近年、武威が少し衰えたといえども、未だ数カ国を領し、近国の武士の大半は旗下に属し、
そのほか家中の諸士に至るまで、経久以来代々の武備に慣れて、武辺剛者の侍ども、多勢立て籠もって
おりますから、味方に卒爾の働きがあっては、却って落ち度があるでしょう。

であれば、城を急に攻め抜こうとの戦略では、勝敗は甚だ測りがたいと言えます。

ここは、富田より4,5里も隔てて陣を据えられ、諸所に軍勢を分けて置き、近国より尼子への
兵糧運送の通路を差し塞ぎ、防州との通路には、つなぎの城々をかまえ人数を籠め置き、兵糧を運送せしめ、
長々在陣の覚悟にて、次々と奇計を設けて、攻め悩ますようにすれば、敵は次第に弱り、
必ず落城の功を経てられます。これこそ、味方必勝の謀というべきです。」

そう、再三意見を加えたものの、大内義隆の寵臣である田子兵庫助(あるいは豊後)が
「経来木山は地の利完全であり、ここに陣を据えれば、たとえ城中より敵打ち出て付懸ってきても
危うい事はなく、城下の建物を放火して、取り巻いて攻めるにおいては、他所より兵糧を運送することも、
城内に取り入れることも叶わないだろう。ならば城中耐え難く、すみやかに落城するであろう。

そのように敵を、奥深く怖れるように計らうのは、却って味方の勇気を挫く端緒とも成る。」

そう頻りに申すによって、遂に義隆は経来木山に陣を寄せたのだという。

(芸侯三家誌)

結果は言わずもがなである



667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/13(月) 23:56:02.71 ID:i2yHmMl5
大内に従わない豪族が背後を脅かして補給線を寸断したことが敗因ですね
陣地にした山は確かに良かった

大内義隆の娘・珠光

2014年09月14日 18:51

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 13:08:41.55 ID:8tyGaRkz
大内義隆の娘・珠光


大内義隆のいえば、陶晴賢の下克上を受けた人、陶晴賢とアッー!した人として有名である。
彼は衆道も好きだが女道も好む両刀使いであった。
そんな彼にも子供はいた。

長男・義尊、次男・義教(問田亀鶴丸)、そして長女・珠光である。

珠光の母は不明であるが、珠光は成長すると、家中でも美貌がとても評判の娘になった。

時は1550年、大内家中が不穏な空気に包まれていた中、相良武任はこちらも美貌で
評判になっている娘を陶隆房の子・長房に嫁がせようと画策した。
しかし、隆房は格の違いを理由に拒否。
更に大内家中は混沌とした空気となってしまった。

年は明け、1551年になると義隆は決断する。
自分の娘を隆房に嫁がせてやろう、と。
しかし、隆房は適当な理由をつけてこれを辞退してしまう。

そこから先は義隆はほとんど対策もとらないまま運命の8月を迎えてしまった。

20日に隆房挙兵、29日に山口を放棄。珠光は父に従い大寧寺に入った。

9月1日、大寧寺も落ち、義隆は子供たちに落ち延びるよう促す。
嫡男・義尊は若年の武将・小幡義実に託した。
次男・亀鶴丸も他の武将に託し、長女・珠光にも落ち延びるよう促した。
しかし、珠光はこれを拒否して父らと運命を共にする決断をする。

かくして大内義隆・珠光父娘らは自害して果てた。
珠光は享年わずか15歳の若さだったという。



263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 13:25:51.01 ID:cbRYxJFg
あーあ田亀丸かわいそう

学問も悪く学んでは

2014年06月16日 18:58

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 23:23:36.67 ID:JL0uWGGY
学問をするものは、その国その家の知性であるのだから、何よりの宝である。
しかしこれも、悪く学んでは、中国の大内殿のようになってしまう。

どういう事かといえば、大内義隆殿は書籍に関してどんなものでも暗いということがなく、
七書などは空で覚えて、「良将は戦わずして勝つ道理なり、また戦って勝っても不慮の勝ちである」
などと言って、はかりごとの沙汰ばかりをしていた。
そのため大内殿の家中の者達は、近習も外様も皆、はかりごとの吟味ばかりしていた。

せめて一手の大将をするほどの者であれば、はかりごとを心にかけるのも当然であり、
開戦して討ち取れない敵にはかりごとを入れるが、こういう事は大将、あるいは家老、侍大将が
行うことである。
もし外様の侍たちが、計略を心がけて戦場での働きを心がけないなら、その大将の下に槍を突く者は
いなくなってしまうであろう。

学問をするのは良きことである。しかし、大内義隆殿の学問は滅亡の原因となった。
それは、大内家の大身者である相良遠江守、陶尾張守という二人が不和となったが、義隆殿は
相良を愛して、陶を殺そうとした。そのため陶は大軍を擁し義隆殿を攻めると、義隆殿は
かねてから心がけていたはかりごとをすることも出来ず、打ち負けて石見国の吉見氏を頼って、
その勢二千あまりで落ちていった所を、陶が追撃したため落ち延びることが出来ず、ついに
自害した。

しかし、もし日頃から槍の柄を取って戦う心がけのある士がいたなら、時の運で合戦に負けたとしても、
義隆殿の身はつつがなき様に防いで落とすことは容易かったであろう。
ところが、いらざる知略の工夫建てに年を暮らした為に、属し、従う武士まで言い甲斐のない死を
してしまったのである。

このたぐいの学問は、しないほうが良いのである。
(武道心鑑)


「学問で滅んだ」大内家に関してのお話しである。




521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/15(日) 23:44:12.83 ID:27sVN4UV
朝廷や幕府に対するはかりごとだろうな
公家化を戒める内容だ

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 00:41:25.49 ID:isHC7Fml
宇喜多某「謀ばっかやっとったらアカン言うこっちゃ」

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 02:30:02.46 ID:ihIZy5HE
あほう
大内のと田舎侍の宇喜多のとでは次元が違うわ

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 02:37:32.72 ID:Z2Z46jPS
× この類の学問はしない方がいい
○ 直接戦う人間は学問より武芸の方が重要

あと、陶を殺そうとしたことは不問なのが興味深いな。

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 07:09:15.53 ID:2H/v/CvX
謀反を正当化されたら困るでしょ

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 07:38:12.16 ID:wUphW9SS
平安時代には、とにかく大地から芽ばえたものはなかった。
武家が公卿に代わったというは、腕力が観念に代わったという意味にとられてならぬということは、さきにちょっと記した。
武家は腕力をもってはいたが、武家の強さはそれではない。
武家の強さは、大地に根をもっていたというところにある。
武家はいつも大地を根城としていたのではない。武家は腕力はある、武家と腕力とは離れられぬ。
が、大地に根ざさぬ限り、腕力は破壊する一方だ。
公卿文化は、繊細性の故に亡びる。
武家文化は、その暴力性・専横性などの故に亡びる。
腕力と大地とは一つものではない。腕力だけしかないものもある。
公卿たちでも大地が顧みられていたら、平安時代のようなことはあるまい、この点を深く考えなければならぬ。
平安時代に取って代わった鎌倉武士には、力もあり、またそのうえに霊の生命もあった。
力だけであったら、鎌倉時代の文化は成立しなかったであろう。
鎌倉文化に生命の霊が宿っていたということは、その宗教方面に見られる。
平安時代は、あまりに人間的であった。鎌倉時代は、霊の自然・大地の自然が、日本人をしてその本来のものに還らしめたと言ってよい。
『日本的霊性、鈴木大拙、岩波文庫より抜粋』

この文章を第二次世界大戦敗戦直前(昭和19年、東條内閣解散の年)に書いて出版した鈴木大拙

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 07:39:45.02 ID:wUphW9SS
>>526は>>520の関連レスね
もちろん逸話投稿ではない

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/16(月) 12:31:13.34 ID:L2n+DHhu
>>525
神君氏真公「えっ」

大内とは目出度名字今知れり

2013年06月21日 19:51

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/21(金) 17:46:09.97 ID:6zvdUWEe
大内義隆は防州山口鴻の嶺の御館を普請し、並びに新造に屋形を輝くばかりに
磨き立てて夫人を移し参らせ、築山の御前と名付けて大切に扱った。

けれども姫君は都を恋しく思って事の折に触れては口に出すので、
義隆は、それならば当所に都を移そう、と一条より九条までの条里を割り、
四ヶ国の大身小身の屋形を甍を並べて造った。

京、堺、博多の商人は軒を争って建て続け、領国の諸侍は朝暮に出仕を遂げ、
囲繞渇仰は記すに遑なく、これに加えて諸門跡を始め公卿殿上人、
または五山の惟高和尚達を請待し、ある時は和歌管弦の遊び、

またある時は詩連句の会を明け暮れの業とし、その他、京都、南都よりも
猿楽の名人を呼び下して能芸を尽くさせ、さては茶湯を興行し、和漢の珍器を集めて
弄んでいるうちに、国々より諸商人が山口へ到来して日毎に京町が立った。

そのため防州は時ならぬ春が来て花の都と唱えた。京都はむしろ廃れ果てて
及ぶはずもなかった。故に、山口一条の辻に何者かが、九重の天はここにありとして
「大内とは目出度名字今知れり裏の字略せし大内裏とは」と表現したほどであった。

――『室町殿物語』

夫人は持明院基規の姫君ということになってるが、たぶん万里小路秀房の間違い。




548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 10:23:44.97 ID:RnYjbJRF
夫人を大事にする義隆さんだと・・・・

549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 10:36:41.69 ID:Lt0Z5tqH
ここまで大事にした嫁さんなのに、子供が生まれなくて嫁さんの侍女に手出して離縁されちゃったりするのが義隆クオリティ。
別にガチホモってわけじゃないんだぜ?
衆道は上流階級のたしなみです(キリッ

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 11:41:21.16 ID:I7iHMNEh
>>549
それ知っちゃうと何だかな~

大内滅亡のこと

2013年04月07日 19:02

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 15:46:13.00 ID:PtH2bR3D
中国の大内殿は、阿波の徳雲院(細川持隆)殿の舅の御家であったが、この御家が滅んだ様には、
こんな事が有った。それは天文20年(1551)の事である。

大内(義隆)殿が御茶数寄をなさろうと、堺の町のせうおう(武野紹鴎か)と申す侘び数寄の者を呼び下し、
四畳半の数寄屋を建てて、茶の湯を行った所、御内の家老に須江(陶隆房)殿と申す人があり、この人が

「大内家は16ヶ国の守護であるのに、四畳半ばかりの場所で茶の湯をするなど、沙汰の限りである!」

そう申して、陶殿は自分の茶の湯のやり方を紹鴎に見せた。
彼は大きな広間にかんす(茶釜)を数多据え、茶臼を数多取り並べ、大勢の小姓に茶を轢かせて
点てさせ、運ばせて紹鴎に飲ませ、

「陶が数寄はこの如くである!」

と言い放った。これに紹鴎は面目を失い、大内殿に暇乞いすらせず堺へと帰った。
このことは大きな遺恨と成り、大内殿は陶に対して悪心を起こし、また陶の方もそれを感じて、大内殿に対して悪心を持った。
そして両者の悪心は重なっていき、終に陶は大内殿を切腹させ、16ヶ国を陶が進退したのである。

ところが森(毛利)殿は陶に従わず、このため陶が毛利殿の城を取り囲んだ所、伊予の野島、来島といった者達が
毛利殿の味方をし陶殿の兵糧船を遮断したため、兵糧が欠乏し、陶軍が撤退を始めた所を毛利は討って出て
陶殿を討ち果たした。

これ以後毛利殿が中国西国13ヶ国を、太閤様の御代頃まで持ち伝えられた。
(三好記)

三好記より、大内義隆の滅亡についての逸話である




194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 16:55:51.90 ID:lWQzATh/
毛利が13ヶ国・・・だと

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 17:25:42.09 ID:QgSSx+3i
大内16ヶ国って確実に大友と尼子の領地も入れてるだろ

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 18:28:00.18 ID:WEgCBbGA
陶が居なきゃ、元々大内は持たなかったんじゃないの

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 19:01:24.04 ID:6e0cDLXg
最後の当主<筒だっけ

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 21:37:29.78 ID:CrUnkdXS
>>196
んなこともねえだよ。内藤とか実績のある重臣は他にもいる。
毛利は陶とやる時にそいつらを切り崩すのに全力を突っ込んでる。

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/07(日) 23:13:19.35 ID:jTQp3WsN
てか、元就は隆房につく気満々じゃなかったっけか

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 00:24:39.86 ID:mnZw7MK7
毛利側資料によれば、陶から義隆を諌めるために隠居させ、嫡子に跡を継がせるから協力して欲しい、という要請があって応じたけど、蓋を開けてみたら主殺しだったので引いた、ってことになってる。
かけらも信憑性無いけどな

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/08(月) 07:21:10.48 ID:LZJGEpGb
>>199
元就は陶につくと見せかけて他の国人調略のために時間稼ぎしてた
反旗翻してからの行動が非常に鮮やか

二人の義死

2013年03月27日 19:53

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 20:34:52.29 ID:IpqSO+4J
大内義隆の家臣に、宮部久馬介浅茅鹿馬介という、二人の小姓があった。
義隆はこの二人を別して大切にしていたのだが、ある時、とある女中からの支え口(中傷)により、
この鹿馬介を討つようにと、義隆より宮部久馬介に命ぜられた。

宮部は承って自分の宿舎に帰り考えた

「それにしても、なんと黙し難い仰せを被るものだろうか。私は鹿馬介と一緒に奉公仕り、
片時も放れたことはなかった。本当に入魂浅からぬ関係であるのに、彼にこんな事を一言も
知らせずして空しく討ち果ててしまえば、草葉の陰で、自分たちの契りはこんなものではなかったはずだと
どれほど恨むだろうか。

彼に知らせるなら、我も諸共に死ななくては面白くない。どうせここで死ぬのも主のため
なのだから、悪いことではない。」

そう思い定めると、浅茅の部屋へ行き、彼に言った

「私は大変情けなき仰せを被ってここに来た。義隆公より、それがしにあなたを討って来い、との仰せを
受けたのだ。しかし日頃から、親しくしていること他に異なる程の仲であるのに、一言も
あなたに知らせず、空しく討ち果たしては、冥土にて私は必ず恨まれるでしょう。
その上、あなたを討った私のことを、朋輩たちがどのように思うか、如何とも辨え難い。

こうなればあなたと刺し違えて、死出の旅路に赴こうと思う。」

浅茅はこれを聞くと

「さてもさても、日頃から互いをなおざりにしない関係であったのが、今ここに現れたのであろう。
あなたの心底は長く後の世までも忘れてはならない。
そして、かの女中の中傷に対して、真実を主君に申し開きをして死のう、と思ったが、
女を相手に論じても意味があるだろうか。

私は自害をしようと思う。なのであなたには、介錯を頼む。」

宮部はそのように言われて、笑い出して言った

「私の胸中を定めないまま、どうしてこの事をあなたに知らせるでしょうか?
仏神三宝も御照覧あれ!私はあなたとともに、相果てなければならない!」

浅茅、このように言われ「それならば仕方がない。であれば…」と、二人共に思い思いに
その意趣を細々と書き置きし、川の中瀬に行き、二人はしっかりと体を組んで、川の中に飛び込み
立つ白波と消えた。彼らの死を人々はみな、なんと殊勝な義死を遂げたものかと、褒めぬ者は
居なかった。

義隆は彼らの書き置きを見て千悔したが、もはや取り返しのつくことではなかった。
彼は中傷をしていた女を召し出すと、「あの者たちの追善にせよ」と、彼らが入水した中瀬にて
柴漬け(ふしつけ:簀巻きにして水中に投げ入れること)にして水の中に投げ捨てた、
と言われている。
(義殘後覺)




77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 20:43:58.53 ID:esRjIJAv
義隆絡みだとどうしても女中が言い寄っても衆道一筋で目もくれなかったので逆恨みとかそういう痴情のもつれとかの想像をしてしまう

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 21:38:31.77 ID:q4qhv8R/
>>75
こういう名を重んじる潔さはいいね。

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 22:20:11.63 ID:po4Uwlxd
義隆さんは調べもしないで気分でお裁き

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/26(火) 22:21:54.59 ID:5gvxey5X
>>75
:::::::::::::::男 は こ            {::::::{
:::::::::::::::坂 て の      _ ,-v   、::::::、
::::::::::::::::を し       _/rァ  ̄ヽn  ヽ::::::ヽ
::::::::::::::::よ な     -こヽ__)ヽ へフ -‐':::::::::::}
::::::::::::::::::  く   /::::::://, 7′:::::::::::::::::::::/
::::_n_  遠   、:::::::::ー' //-‐  ば の よ オ
:::`ニl lニ  い   ヽ::::://\   か ぼ う  レ
::::`フ \:::::::::ヽ __ ノ:::ー':::::::::::::ヽ  り  り や 達
/'´|_|`ニ_::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::l  だ は く  は
:::::::ノ'r三7/::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::} か じ
::::::::`フ, 匸/l::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/  ら め
:::::: ̄´::: ̄´:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/   な  た


大内義隆公の山口退去

2013年01月17日 19:51

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/17(木) 01:57:41.77 ID:Qg3I4pHf
最近ものの本を手に入れたので、陶隆房の謀反から変な意味で有名になってしまった
大内義隆公の山口退去までを。

天文二十年八月二十八日、陶隆房は遂に謀反の軍を挙げ、それぞれ山口の西と南西より兵を進発させた。
山口の大内氏館に集った義隆方の緒将はここで一戦し館を枕に自刃することを主張たが、館は
防ぐに向いていないため法泉寺に拠を移すことを薦める者も居た。
また寵臣ら(纏めにあるアイツとか)がそれを推したため、義隆は館を捨て、大内氏館の北、山間の
法泉寺に入ることを決した。
それに従った兵三千余。本営を法泉寺に定め、迎撃のため冷泉隆豊らの緒将を近隣に配した。
ところがその夜、大内氏館退去を聞いた内藤興盛は叛旗を翻して陶方に参陣し、また
法泉寺にあった義隆方の兵はその多くが逃散してしまった。

明けて二十九日、本営の守りを補強するため隆豊ら緒将を本営に呼び戻すことになったのだが、
その使者に立ったのが阿川隆康
義隆の侍大将・先手衆であり、平素より自ら十人力を誇っていた人物である。
皆その最期の戦闘はどれほどのものになるかと期待していたのだが、彼は本営召還の命を隆豊らに伝えた後、
鎧兜を脱ぎ捨てて逃亡してしまった。
衆これを見て更に意気消沈したという。
昼頃になり、山口へ陶方の兵が押し出してきた。その数五千余。
それを迎えた隆豊らの緒将がいざ最期の戦と出戦しようとしたその時、ついと一人の兵士が進み出で、
陶方の不忠を罵り責めた。
陶方の兵はこれに恥じ入って進まず、また義隆方も敢えて出戦せず、矢戦のみ行ったあと
互いに退いたという。
その日、義隆は捲土重来を期して長門に逃れることとなる。
法泉寺に残った陶隆康(隆房の伯従父)は義隆の名を騙って陶方を引き付け、
その嫡子隆弘や貫隆仲と共に戦死した。

名があろうとあるまいと、その人の生き様は土壇場に現れるのだなぁと思った次第。




山口築山館の怪異

2012年04月27日 21:18

848 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/04/27(金) 06:55:28.68 ID:q7I+YgjL
史料価値なんて知ったことか!
ってことで角川書店の日本の伝説 35巻をソースにして一つ。

かつて応永の乱の主役たる大内義弘が築いた山口の築山館。
その庭園には「月見の松」なる名木があり、
その月影に映える枝ぶりは代々の当主の心を大いに和ませるものであった。

さて、天文十五年。大内義隆公の御世のことである。
この築山館にて松の枝に掛かる秋月を肴に義隆公が月見の宴を開いていたところ、
館の塀の上に怪しげな影の一つ、蠢くものがあった。
義隆公は大いに怪しみ、急ぎ宿直の者を呼びつけてこれを撃つように命じる。
命ぜられた武士、松原隆則は弓矢を取り出してひょうと射放つと、矢は狙いあまたず影を射抜き、
射抜かれた影はどうと庭へと崩れ落ちた。
この時射殺された影を改めて見ると、それはまごう事なき天花畑の山奥に潜む山姥の姿で、
これを見事退治した松原隆則は大いにその面目を施したという。

だが、常日頃になき妖怪の出没は、周防の人々によからぬ事が起きる予兆を強く感じさせた。
そして果たして五年後の天文二十年、陶晴賢の謀叛により大内義隆公は太寧寺に自刃に追い込まれ、
件の松原隆則も主君を守って遭えなく討ち死にを遂げてしまうのである。

大内家の衰運が妖怪を呼び込んだか、
はたまた妖怪の呪詛が大内家を衰亡に導いたか、
どっちにしてもいい話じゃなさそうなお話




849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/27(金) 09:10:13.58 ID:iboM5bqg
認知症の婆ちゃんが迷い込んだだけだったりしてな

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/27(金) 12:27:53.45 ID:ElSl2FII
>>849
ありうるw

大内義隆婦人貞子、義隆が下女に出したラブレターに

2011年05月14日 00:01

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 10:52:59.77 ID:zg7sWHRw
大内義隆と言えば男色女色区別なく、色事に実に名を馳せた人でもある。
そんな義隆があるとき、人もあろうに正妻・貞子(万里小路秀房(公家)娘)の侍女、おさいに
ラブレターを出した。

この亭主の浮気を知った貞子は、おさいにこのような和歌を送った

『頼むなよ 行く末かけてかはらじと われにもいひし言の葉の露』
(義隆様の言うことを信用してはいけませんよ?自分の愛は将来にわたってずっと変わらない、
なんて事をあの人は、私にも言ったのですもの)


大内義隆がどんなふうに女性を(もしかすると男性も)口説いていたか、みえてくるような
話であるw




137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 11:34:27.35 ID:W69l+B63
陶さんが八方美人ぷりに嫉妬するわけだ

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 11:59:23.99 ID:sdfBJIpw
生まれる時代を間違えたな、義降さん

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 12:07:25.13 ID:P1kJUoGw
陶さんには、お手紙こなかったから…

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/13(金) 17:31:05.27 ID:1EOL3Cdz
山口の王の色狂い、ザビエルもあきれた。

大内義隆が子どもだった頃

2010年10月25日 00:01

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 22:32:20 ID:gTWJuGdj
大内義隆が子どもだった頃、義隆は子どもたちが銭を玩具にして
遊んでいるのを見て自分も銭で遊んでみたいと思っていた。

これを聞いた義隆の守り役、杉重矩
「銭なんて汚らわしいものを、主君となるお方が見てはいかん!」
と思い、黄金の笄で銭を突き刺した。

そして「こんなものはポイだ!」と、
笄と一緒に銭を汚物の中に投げ入れる様を義隆に見せてやった。




883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 22:40:25 ID:MD5hxvLH
>>882
いい話…なのか?w
義隆の金銭感覚のなさを見ると教育方法を間違ったようにしか見えん

日本人と眼鏡

2010年05月27日 00:04

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 07:43:22 ID:rgaMkLOr
ついでにさっきNHK教育のシャキーンという子供向け番組でやってた話なんだけど
戦国にも関係あるから投下してみる

日本人と眼鏡

日本に眼鏡が入ってきたのは天文二十年(1551年)、
ザビエル御一行が西国の大名・大内義隆に献上されたのが始まりと言われている。
ザビエルの配下が身につけていたこともあり、山口の庶民も見かけることがあった。
が、今まで眼鏡を見たことのない人々にとって眼鏡をかけた人間は恐怖の存在でもあった。
「こいつ目が4つもあるぞ!バケモンだ!」
当時はこう噂されていたとか。

この後眼鏡は徐々に浸透していき、江戸時代の頃には日本産の眼鏡も作られる事になる。
しかし元々は西洋で開発されたもの、日本人にはどうしても馴染めないところがあった。
それは「日本人は西洋の人に比べ鼻が低いため、レンズがまつ毛に当たってしまう」という問題だ。
同じく「鼻が低いため眼鏡がずり落ちてしまう」という問題には比較的早く気が付き
紐をつけて耳で支える方法を思いついたものの、
このレンズが当たってしまう問題の解決方法「鼻あて」を思いつくには
義隆に眼鏡を献上されてから350年後、1900年代に入ってからのことだったという。

眼鏡の進化にも歴史があるという話。
どっちに投下しようか迷ったけどこっちで。




39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/26(水) 18:09:42 ID:vFugsoZi

>>35
ネギ先生の丸眼鏡にはそんな歴史があったのか
今じゃヲタ系漫画でしか見ないな

大内義隆と太寧寺の井戸

2010年04月14日 01:14

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 22:54:05 ID:2dZo3b8J
さて、最近すっかりアッーのイメージが付いてしまった大内義隆の最期にまつわる伝説。

ご存じの通り、陶に反逆された揚句重臣一同に見捨てられ、北長門まで落ちのびてきた義隆一行。
海路石見か九州へ逃れようとしたが、海が荒れて進めない。
仕方が無いので陸路を15kmぐらい引き返し、三方が山、一方が川というちょっとした要塞みたいな太寧寺に籠ることにした。
色々あっていい加減疲れた義隆殿、水を所望して何気なく参道脇にある井戸を覗き込む。
するとその水面には、あるべきものが映っていなかった。

「……首がない」

これで駄目押しされた義隆殿、見事腹を斬ったそうな。

後の参道改修の折にこの井戸は潰されたが、今は境内の隅の方に、この時兜を掛けたという兜掛けの岩(ママ)と共に
姿見の池として再現されている。
もし行かれる機会があれば、湯治のついでにでも覗き込んでみては如何だろうか。
ある大名の最期にまつわる、縁起の悪い話。

ちなみにこの寺、元関東管領・上杉憲実の墓もある。誰得。




101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 23:02:43 ID:ees48gsC
>>100
ああ、悲劇の忠臣上杉憲実。この人の生きざまは泣ける。

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 23:23:26 ID:2dZo3b8J
風呂に入っててふと不安になったのだが。
>>100の話は地元ではそれなりに有名な話なんだが、どこをググっても出てこない。
まぁだから書いたんだけど、まさかこの話をカキコしたら夜中に義隆公が尻を借りに来る呪いとかないよな。うん。……ないよな?

>>101
簡単に調べてみたが、悲劇の人だね。誰得なんて言ってすまんかった。

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 23:49:18 ID:c8Ob2R1R
>>100
なぜ憲実の墓が長門に?
旧臣の誰かが毛利に仕えたとかかな。

105 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/13(火) 00:12:48 ID:9WulXGQR
>>103
最後は諸国遍歴して、最後に大内氏を頼ったそう。

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 03:29:07 ID:4Z1zMjly
>>102
>>100の逸話は確か太閤立志伝でイベントになってた記憶があるな

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/13(火) 07:01:35 ID:Z9bYVrxY
>>109
髪の乱れを気にして池の水面を覗きこんだら
姿が映っていなかったというやつか

いかにもありそうな話だと思ったのに元逸話はもっとグロかったんだなあ