769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/03(水) 13:51:06.14 ID:5i1rn27A
大内多々良の義隆は、防州山口、鴻ノ峰の御館を普請し、並びに新造に屋形を輝くばかりに磨きたて、
北の方(室町殿物語は持明院基規娘とする。万里小路秀房娘の誤認か)を移し参らせ、築山の御前と
号してかしずいた。
しかし姫君は都を恋しく思い、事の折に触れては言い出されたため、義隆は「ならば当初に都を移そう」と、
一条から九条までの条里を割り、四カ国の大身、小身の屋形を、いからを並べて造った。京、堺、博多の
商人たちも、軒を争い続けて店舗を建築した。大内領国の諸侍は、朝暮に出仕を遂げ、彼らがこれを
大切にすること記すにいとまあらず。
それだけではなく、諸門跡をはじめ、公卿、殿上人、又は五山の惟高和尚達を請待し、ある時は和歌、管弦の
遊び、またある時は詩、連句の会を朝夕の業とし、その他京都、南都(奈良)よりも申楽の名人を
呼び下し、能芸を尽くさせ、さらには茶の湯を催し、和漢の珍器を求めて弄んだ。
さるほどに、国々より諸商人が山口へ到来して、毎日のように市町が立った。されば防州には時ならぬ
春が来て、山口は「花の都」と唱えられた。
この当時の京都は廃れ果てており、山口の繁栄に及ぶべくもなく、であれば山口の一条の辻に、いかなる人の
手によるものであろうか、このような札が立った。「九重の天こゝにあり」として
大内とは 目出度き名字 今知れり
裏の字略せし 大内裏とは
(室町殿物語)
大内義隆の時代の、山口の繁栄の様子。
770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/03(水) 13:55:12.43 ID:xCkas3Ae
文化方面に行く人は……ね
大内多々良の義隆は、防州山口、鴻ノ峰の御館を普請し、並びに新造に屋形を輝くばかりに磨きたて、
北の方(室町殿物語は持明院基規娘とする。万里小路秀房娘の誤認か)を移し参らせ、築山の御前と
号してかしずいた。
しかし姫君は都を恋しく思い、事の折に触れては言い出されたため、義隆は「ならば当初に都を移そう」と、
一条から九条までの条里を割り、四カ国の大身、小身の屋形を、いからを並べて造った。京、堺、博多の
商人たちも、軒を争い続けて店舗を建築した。大内領国の諸侍は、朝暮に出仕を遂げ、彼らがこれを
大切にすること記すにいとまあらず。
それだけではなく、諸門跡をはじめ、公卿、殿上人、又は五山の惟高和尚達を請待し、ある時は和歌、管弦の
遊び、またある時は詩、連句の会を朝夕の業とし、その他京都、南都(奈良)よりも申楽の名人を
呼び下し、能芸を尽くさせ、さらには茶の湯を催し、和漢の珍器を求めて弄んだ。
さるほどに、国々より諸商人が山口へ到来して、毎日のように市町が立った。されば防州には時ならぬ
春が来て、山口は「花の都」と唱えられた。
この当時の京都は廃れ果てており、山口の繁栄に及ぶべくもなく、であれば山口の一条の辻に、いかなる人の
手によるものであろうか、このような札が立った。「九重の天こゝにあり」として
大内とは 目出度き名字 今知れり
裏の字略せし 大内裏とは
(室町殿物語)
大内義隆の時代の、山口の繁栄の様子。
770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/03(水) 13:55:12.43 ID:xCkas3Ae
文化方面に行く人は……ね
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