286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/07(木) 17:10:07.68 ID:7LyLmL9R
将軍家に於いて、例年正月元旦に兎の御吸物を召し上がられる事について、御先祖である
世良田左京佐有親(得川有親)は上野国徳川(得川)を領され、鎌倉公方である足利左馬頭持氏の
御家人であったのだが、永享年中、足利義教将軍とかの持氏と不和のことあって合戦ありしに(永享の乱)、
左馬頭遂に打ち負けて自害され、その後は皆京都将軍の下知となり、管領上杉憲実は制法政務を厳重に
執り行ったため、威勢日々に盛んになった。
そして鎌倉公方の残党を捜し求めたが、中でも新田の一族においては、根を絶ち葉を枯らすべしとの事故、
有親は得川に安堵なり難く、同十一年(或いは十二年とあり)三月上旬、有親並びにその子息・親氏は
密かに居所を離れ出て、方々に流浪して、忍んで相州藤沢に在る、時宗の清浄寺にて髪を剃り、
有親は長阿弥、親氏は徳阿弥(後に還俗して松平太郎左衛門と称す)と名乗り予てから懇意にしていた
小笠原清宗の三男、林藤助光政という者、信州の山家に蟄居していたので、有親父子は同年十二月下旬、
かの所を尋ねて至った。
藤助は大いに悦び、何か饗応しようと思ったが一物も無く、同月二十九日、自ら雪を分けて狩りを
した所、兎一疋を得たため、翌十三年正月元旦に、この兎を吸物にして進めた。
これより徳川家の吉例となった。
そして同年六月、藤助の許を立ち越え、三州坂井の郷の氏・家を借り、有親は嘉吉二年に死去した。
(新東鑑)
徳川将軍家の正月儀礼についての伝承。徳川の先祖が永享の乱のために三河に流れてきたという話も
あったのですね。
将軍家に於いて、例年正月元旦に兎の御吸物を召し上がられる事について、御先祖である
世良田左京佐有親(得川有親)は上野国徳川(得川)を領され、鎌倉公方である足利左馬頭持氏の
御家人であったのだが、永享年中、足利義教将軍とかの持氏と不和のことあって合戦ありしに(永享の乱)、
左馬頭遂に打ち負けて自害され、その後は皆京都将軍の下知となり、管領上杉憲実は制法政務を厳重に
執り行ったため、威勢日々に盛んになった。
そして鎌倉公方の残党を捜し求めたが、中でも新田の一族においては、根を絶ち葉を枯らすべしとの事故、
有親は得川に安堵なり難く、同十一年(或いは十二年とあり)三月上旬、有親並びにその子息・親氏は
密かに居所を離れ出て、方々に流浪して、忍んで相州藤沢に在る、時宗の清浄寺にて髪を剃り、
有親は長阿弥、親氏は徳阿弥(後に還俗して松平太郎左衛門と称す)と名乗り予てから懇意にしていた
小笠原清宗の三男、林藤助光政という者、信州の山家に蟄居していたので、有親父子は同年十二月下旬、
かの所を尋ねて至った。
藤助は大いに悦び、何か饗応しようと思ったが一物も無く、同月二十九日、自ら雪を分けて狩りを
した所、兎一疋を得たため、翌十三年正月元旦に、この兎を吸物にして進めた。
これより徳川家の吉例となった。
そして同年六月、藤助の許を立ち越え、三州坂井の郷の氏・家を借り、有親は嘉吉二年に死去した。
(新東鑑)
徳川将軍家の正月儀礼についての伝承。徳川の先祖が永享の乱のために三河に流れてきたという話も
あったのですね。
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