久秀の運がついに尽きる時

2015年02月19日 18:50

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/19(木) 02:23:59.48 ID:9ypTrVnC
天正5年(1577)、松永久秀織田信長の反逆し信貴山城に籠もる。
織田方は嫡男城之介信忠を大将として、信貴山城へ軍勢を派遣した。

この事態を、かねてから大和で久秀と対立していた筒井順慶は、幸いな事と喜んだ。
実は筒井家譜代の侍の一人で、順慶が松永久秀に大和を追われ浪々していた時に、久秀に奉公に出た者があったのだ。
順慶はかねてからこの者と連絡を取り様々に賄いなどを与え、『返り忠の良き手段が有る時は、内通するように』と
言い含めていたの。

そんな中、久秀の運がついに尽きる時が来た。久秀が大阪の門跡(石山本願寺)に加勢を請う遣いを出したが、
その使者に彼の者を行かせたのである。
彼は信貴山城を出ると順慶の元に行き、久秀より受けた指示の内容を詳しく申し上げた。
すると順慶は、二百人ほどの軍勢を、石山本願寺からの加勢に偽装し、夜に間に河内の平野に集合させておき、
彼の者が大阪に行って主命を果たし帰る頃の時刻に、この軍勢を従えさせ、夜に紛れ信貴山城内へと引き込んだ。

翌日未明より、織田軍による総攻めが始まった。
そこで先に入れ置いた順慶の人数が、城に火をかけ裏切りを行ったのだ。
これに松永方は大混乱となりついに討ち負け、久秀は天守に上がり切腹した。
子息の松永久通は、多聞城へ落ちて行きそこで切腹したとも、また父子一所にて切腹したとも
伝えられる。

これより大和一国は皆、筒井順慶が手に入れ、武威盛んとなったが、
不幸にも天正11年(1583)5月13日に病死した。

(大和記)




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大和布施氏の無念

2015年02月14日 18:51

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/14(土) 18:45:16.75 ID:l6hEP72v
布施左京進という大和国の国人は、越智、十市といった大和の有力国人の兄弟分で、
合戦の時も互いに筋々の働きを協力しあっていた。

ところがこの布施左京進が病死すると、その息子は武功も父に劣り、周辺の勢力からその所領の方々を
切り取られるような状況になった。

この頃、箸尾氏(為綱か)は近辺を切り従え、勢力が強盛となっていたため、布施へ使いを以ってこのように申し越した
『布施氏は我々の旗下になるように。これを拒否するのなら一戦仕ろう。』
これを見た布施氏は、箸尾氏に従いたくはなかったが、当面の計策として、和談し従った。

され、そのような所に、筒井順慶が織田信長に出仕し、大和国の旗頭と成った。
このため大和の大身衆は皆、筒井の元に参り振舞いをした。その座席に箸尾氏は先立って
参着したが、その後に布施氏が参った所、箸尾氏はこう主張した

「布施は我が旗下であるから、この一座に有ることは出来ない!」

これに対し布施は怒り
「それは一旦の謀として和した事に過ぎない!我々が箸尾の旗下であるという証拠はない!」
と反論した。

その座の雰囲気が大変危うくなったのを見た筒井順慶は、双方にこのように言った
「一端の計策としてそのようにするのは、言われなき物ではない。その上、武士として偽りなく
有り様を申し述べられたのは、神妙なことである。」
そういって仲直りをさせたが、しかし「上座はありえない」と、それ以後、布施は箸尾の下座に付けられる
事となった。それ故、布施氏は箸尾氏の旗下であると記録されているが、実際には、布施氏も
大和の新庶にて自分の知行を、現在でいうところの二万石ほど持っており、その上旗下の者達も多く有り、
箸尾に劣らぬ大身であったので、完全な旗下とは言えないものであった。

先に箸尾から旗下になるよう要求が来た時から、筒井順慶への振舞いまで、わずか50日ばかりの事であった。
少しの難儀を我慢しきれずそのように成ってしまったのは、無念のことであると、布施殿も申し、
またその家来の者達も口惜しんだ。

(大和記)

少しのタイミングのズレで、他の国人の家来扱いと成ってしまった布施氏についてのお話。




それがしなどは弁慶くらいの働きさえも

2014年06月11日 18:52

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/10(火) 18:42:03.62 ID:3SWQ1Lw8
井戸十郎筒井順慶の家来で武功の優れた人である。御家(徳川家)へ
召し出されて若狭守といい、剃髪して覚斎と号す。十郎は物語って、

「只今などに何事かでもあれば、それがしなどは弁慶くらいの働きさえも
することであろう。その理由は、それがしは年寄って命が惜しくないからだ。
一日も早く死にたいだけである。この心ならば比類の無い働きさえもする
ことであろう」

と笑ったそうである。

――『武功雑記』





洞が峠の順慶

2011年05月15日 00:00

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 18:03:44.26 ID:ncSSilCw
洞が峠の順慶

本能寺の変より数日経てのことである。
池田常興からの三人の使者が大和郡山の筒井順慶のもとを訪れた。
何れも思いつめた表情である。
主人池田紀伊守からは、光秀と姻戚関係であり、日頃親しい筒井順慶
彼の意中を探るように命じられていた。
三人は、筒井順慶と刺し違える所存であったが、
主人は「お前たちを死なせれば、私はわが腕を失うようなものである。」と三人を諌めた。
が、彼らは「自分たちが死すとも、味方が助かればそれでよい。」と捨て身の構えであった。

が、思いのほか、筒井順慶は信長公を弔う気持ちはあれども、光秀への加担する気持ちは
露ほども伺われず、まことに神妙な面持ちでもあった。
三人は安堵と共に気勢をそがれ帰途に就いた。

が、帰途の途中、順慶の傍らに静かに侍していた牧野兵太という若侍、
その姿が三人の使者の脳中にありありと蘇ってきた。
そのただならぬ眼光は殺気を放っていた。

筒井順慶ならではの用心深さであった。

常山奇談より




172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 18:06:16.40 ID:wlrmg0NX
若い頃から苦労してるもんなー、この人

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 21:36:34.99 ID:iuXQRL32
三人の使者も相当な殺気を放っていたと思われるがw

伝香寺の「散り椿」

2009年10月04日 00:15

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 01:41:57 ID:IlOIJGpJ
奈良には「三名椿」と言われる椿があります
東大寺開山堂の「糊こぼし」
白毫寺の「五色椿」
そして伝香寺の「散り椿」です

この散り椿は普通の椿のような花の落ち方をせず、その色がまだ盛んなとき、
花弁が桜のごとく一枚一枚と散るため
その散り際の美しさを若くして亡くなった三好筒井順慶になぞらえ
その魂を弔うため順慶の母、芳秀尼が自らの手で寺に植えたものなのだそうです

そんな経緯からこの椿は「武士椿(もののふつばき)」という名でも伝えられています

椿見学は3月下旬からですが
もし興味のある方は土日のみ見学できるので、是非ご覧になってみて下さい

以前雨に濡れたところを見ましたがとても美しい花でした




30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 01:48:24 ID:IlOIJGpJ
あ、筒井順慶です
三好順慶って誰やorz

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 01:54:10 ID:pqYeKiot
誰かと思ってググったら3件しか出てこなかったw

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 07:13:14 ID:/JCnFUpd
若くしてなくなった三好×→筒井○順慶になぞらえ ってことね

戦国期の筒井家は短命だな
順興(51歳)
順昭(28歳)
順政(おそらく30歳代)
順国(49歳)
順慶(36歳)

一番長生きした定次(54歳)はgdgdでお家取り潰しの挙句自害・・・ 

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 12:27:34 ID:3BTLwtJR
>>30-31
むしろ3件もあったことに驚きw


筒井順昭身代わりを立てる・いい話

2009年01月10日 16:03

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 15:52:04 ID:7cxILCkm
大和の大名、筒井順昭は天文十九年(1550)の夏の頃より病に伏せがちとなり、
南都林小路の外館において養生していた。
七月七日の七夕祭り、順昭は山田道安・慈明寺順國、福須美順弘、飯田頼直らの一族と、
島左近、松倉右近、森好之の三老を密かに呼び寄せ、こう語った。

「我が命もこのままでは、来年の夏まで持たないであろう。わが子藤勝(後の順慶)はまだ幼く、
わしが死ねば、松永らがこれ幸いと攻め滅ぼしに来るのは必定である。そうさせないための方法を
一つ、考えた

奈良角振町の鷹隼の祠近くに、黙阿弥という盲目の者がいる。彼は顔立ちや声色、
年の頃もわしによく似ておる。
もし、わしが死ねば、これを秘密にし、密かにこの地に葬れ。そして黙阿弥に事情を申し含め、
わしの床に入れ置き、お前達も以前と変わらず給仕せよ。
そのようにして三年間、喪を隠し通せ。そして藤勝を守り立てて、筒井の家を永く残して欲しい。
これがわしの遺言じゃ。」

翌二十年六月二十日の辰の刻、順昭は没した。享年二十八歳であった。

一族と家老たちは、順昭の遺言通りにその翌夜、遺骸を外館の奥に人知れず埋葬し、
それから黙阿弥を密かに呼び寄せた。そして彼に事情を話し、順昭の身代わりとして
南都林小路外館に置き、一族の4人と家老3人が、依然と変わらず仕えた。
この事は、この7人と近習の4、5人の他は知る者もなく、筒井家の家中の者たちも、そして
敵方も、順昭は病身ながらいまだ存命であると信じ、筒井領は敵に攻め込まれることなく
平穏な時をすごした。
この間に筒井家の首脳部は体制を整え、1年たった天文二十一年(1552)六月、順昭の死を公表した。
大和の諸氏は、大いに驚いたという。

黙阿弥は多額の金銀や衣服を与えられ、角振町に帰された。黙阿弥は元の盲目法師となった。


これより、物事に成功してまた昔の状態に戻ることを、「元の黙阿弥」と呼ぶ様になった。



898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 16:29:08 ID:JW2u+UF8
途中まで口封じのために殺される話かと思った

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 16:46:35 ID:AcKTwicX
>>898
このスレだから、んな事はない、と信じてた(ドキドキしながら)

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 18:03:39 ID:xaY/22g2
>>898
別パターンとして、『一年間筒井家の殿様やってれば知られたくない軍事秘密も
知っているはず。木阿弥は殺した方が良いだろう。』と重臣達が決めてあわや
風前の灯火、となったところで順昭未亡人が『それではあまりにも不憫だから…』と
恩情を掛けてやり、ある日の夜に木阿弥に琵琶を一本渡して京の町へと逃がしてやった、
結果として木阿弥は筒井家総領からただの琵琶法師になり、『元の木阿弥』になった、
というのもある。
天正軍記にも『嗣子(順慶)長ズルニ及ンデ、木阿弥、又モトノ市人トナリヌ』と表記があるそうな

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 18:04:56 ID:tzpcoh1q
>>890
悪い話なら、「洞が峠を決め込む」の逸話やな。
もっとも、洞が峠にいたのは順慶じゃなくて光秀やけど。

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 20:14:12 ID:jwGTLcVL
>>899
括弧内も含めて、同じく

筒井順慶、『洞ヶ峠』・いい話?

2009年01月10日 16:02

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 18:03:39 ID:xaY/22g2

では、筒井順慶繋がりで例の『洞ヶ峠』の話を

筒井順慶と言えば洞ヶ峠、洞ヶ峠といえば日和見、日和見といえば小早川秀秋とAID(ryという位
慣用句として成立してしまう逸話であるが、実際のところ筒井順慶は
洞ヶ峠で山崎合戦の帰趨を見守っていたというのは偽りである。

1582年(天正十年)6月、信長を本能寺に襲い煉獄へと葬り去った明智光秀は
直ちに朝廷へ奏上を行い、6月4日に征夷大将軍職を拝命。
直ぐ様に畿内の諸大名達へ帰属を呼び掛けるが、寄って来たのは武田元明やら
京極高次やら阿閉貞征・後藤定豊とか旧世代ばかりが集り、
女婿の細川忠興、寄騎大名であり大和での勢力伸展の後楯となった
筒井順慶といった期待の大物からは支援を受けられずにいた。

細川藤孝は織田信長追悼の意味も篭めて剃髪、幽斎と号して光秀と敵対するが
順慶の態度は煮え切らない。最初は光秀に従うと見えたが秀吉が大返しで戻って来ていると
聞いた瞬間、篭城を決意。

筒井順慶>>こりゃ、どっちが勝つか判らないね。日和見日和見。(=ヮ=,,)~゜

居城の大和郡山城に兵糧を運び込んだのが6月9日。秀吉急展開の報を聞いた光秀は、軍勢を率いて
洞ヶ峠まで筒井順慶を 迎えに行く が、順慶は篭城を決め込み出てこない。

結局光秀は山崎天王山で敗北し、帰趨が決定的になった順慶は秀吉に使者を出し、帰順を申し出た。

日和見を決め込んだのは間違い無いが、この手の表裏比興は戦国の常、なのに
なぜ順慶だけ悪い様に言われるのか?

実は、『増補筒井家記』という順慶の子孫が書いた本が原因。これを書いた子孫は
『俺達のスーパーヒーロー筒井順慶が篭城で日和見しただなんて後世に聞こえが悪い、
ならば山崎の合戦、乗るか反るかの天王山で順慶が活躍したことにしよう!!』と
勝手に御先祖様の行動を捏造してしまったらしい。その結果が今日の慣用句な有様だ。

そんな、筒井順慶の末裔が良かれと思ってやった気遣いと、筒井順慶には良い(迷惑な)話。



901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 18:04:56 ID:tzpcoh1q
>>890
悪い話なら、「洞が峠を決め込む」の逸話やな。
もっとも、洞が峠にいたのは順慶じゃなくて光秀やけど。


902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 18:09:02 ID:tzpcoh1q
>>900
スマンかぶった。
ちなみに順慶の日和見ぶりは興福寺の僧侶の日記(多聞院日記)に記載されている。
明智に援軍送ったり引っこめたり、明智の使者を追い返したり呼び戻したり…


903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 19:06:14 ID:aVnDLVYC
関ヶ原ではそういう中途半端な事でお茶を濁した大名は改易になってるな。
増田長盛や佐竹義宣など。

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 19:08:18 ID:Ci2a+bBX
>>902
筒井順慶の日和見力は向背常無き乱世の定めだからまだしも、倅もだめぽだったような・・

そういや大和や紀伊など近畿南方は寺社勢力と百姓(農民限定じゃなくて民草の意)がやたら強くて
武家・中央政権の統制もなかなか難しかったらしいね。
信長に京を追い出された将軍義昭がへろっと逃げ込んでいたりするし <毛利氏に保護される前