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『多聞院日記』より、本能寺前後の話

2020年08月28日 17:10

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/27(木) 23:42:02.81 ID:+of7yAKA
多聞院日記』より
本能寺前後の話(一部、まとめにもあり)。奈良の僧侶が見聞きした、ウソも真実も混じった当時の情勢記録。
もろもろ、論文などに引用されていますが、改めて見返すと、あのときの世情を追体験できる記録なので、抜粋します。
また、多聞院英俊が一日の終わりに日記を記しているのではなく、なにか興味深いことを聞くとすぐに日記に記していたことも分かると思います。
英俊はかなりのニュースマニアだったと思われます。追記で「ウソ」などと記してもいますし。


天正10年4月
近頃、乾の方角から彗星が現れた。光の元は戌亥、末端は辰巳の方角。光の長さは10丈もあるように見えて、近年は見なかった長さだった。恐ろしいことだ(追記、「信長生涯ノ先端也」)
6月2日
筒井順慶が今朝、京都に上ったところ、「上様」(信長)がすぐに西国に出馬するといって、安土へ帰ったそうだ。なので、順慶も奈良へ帰った
信長が京都で殺害されたらしい。信忠も殺されたようだ。明智光秀と津田信澄が申し合わせて殺したという。(追記、「コレハウソ」)
未明のことで、朝方に漏れ伝わってきた。盛者必衰の金言があるので、驚きはしない。
諸国がことごとく(織田家に)反逆してくるだろうか。世は常ならず。日を追って眼前になった。状況はたしかにはわからない、どうなるのだろうか。
3日、未明から大雨が降った、京都の様子は確実な情報は届いていない。二条御新造に信忠が逃げ入り、正親町天皇を人質に取り、今上天皇も殺害された(追記、「ウソ」)。
京より注進があって、信長は本能寺で、信忠は二条御新造で殺害された。菅屋長頼、村井父子3人、福富秀勝、このほか小姓衆500~600人が殺された。
光秀はまず坂本へ入り、大津、松本、瀬田に陣取ったらしい。「細川殿」も死んだようだ。
今日、奈良の軍勢はことごとく大安寺、辰市、東九条、法花寺のあたりに陣取ったようだ。どうなることか。
4日
順慶と南方衆、井戸の軍勢が光秀勢のもとへ出陣したようだ、どうなんだろうか
5日
昨日、京へ出陣した筒井軍は撤退したそうだ。ならば織田信孝と申し合わせてのことだろうか。ありそうな話だ。
大坂において津田信澄が殺されたそうだ。光秀の婿で、一段の器量のある者だった。信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆などがやったのか。ただ、ウソかも知れない(追記、本当だった)
伊賀では織田信雄の勢力の城が空城になり、浪人衆が入城したようだ
安土は4日に光秀方の手に落ちた。佐和山(長秀の居城)には山崎片家が入った。長浜には斎藤利三が入った。
筒井軍は先日、京都へ向けた軍を近江に向けた。順慶は光秀と堅く盟約を交わしているとも言う。どうなるのだろうか。
9日
今日、河内へ筒井軍が出撃するという沙汰があったが、にわかに繰り延べになったらしい。また、郡山城へ米と塩をにわかに入れたという。なぜ方針を転換したのか。不審である。
10日
先日、京都へ向かった筒井軍は近頃、帰ってきていた。羽柴秀吉が近いうちに上洛するのが決まったので、これによって判断を変えたと聞こえてきた。
14日
昨日、光秀より藤田伝五が順慶のところに来て、同心せず交流を絶ったが、木津まで帰ったところでまた呼び返したという。なんなのか、心苦しい。
秀吉に順慶は味方すると誓紙を送っている、村田と今中が使いだったらしい
井戸覚弘、この間に病を患い、9日に死んだ。深くその死を隠したと言うが、本当かどうか。まったくのウソだった。
今日の朝方に郡山で順慶が切腹したと連絡があった。とてつもなくびっくりしていたところ、「順慶ではない、藤田伝五に腹を切らせた」と言ってきた。
肝を消していたが、それもウソだった。奈良中でそんな状態だった、天魔の所業である。
奈良中で資産を隠しだした。光秀の家来が隠したものを盗んだ者を2人殺したという。気持ちが沈む。
12日(後記か)
秀吉が摂津にやってきた、「猛勢ニテ上」。家康はすでに安土に着いて陣取りしているらしい。どうなるのか。光秀軍は八幡と山崎にいる。
。淀のあたりまで光秀軍は撤退するのではと噂されている。これによって奈良中は静かになった。
隠し物を盗んでいたのは井上九郎三郎の者どもで、3人を殺害し、いよいよ奈良は静まった。
13日
勝竜寺城が落ちた。秀吉は京に上り、光秀は坂本へ逃げ落ちたという。本当だろうか。

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/27(木) 23:42:56.34 ID:+of7yAKA
(続き)

14日
日中まで大雨が降った。うち続く大雨、これまでになかったことだ
15日
夜を通して雷鳴が鳴り、大雨が降った
去る12日、光秀軍は数千人の損害を出した。坂本へわずか30人ばかりで逃げ帰り、秀吉は大津まで前進した。
今日、山から見て見ると、比叡山の東の方が大きく焼けていた、と(誰かが)いっていた。必ずや、坂本の町を焼いて城を攻めていると風聞があった。
順慶は今朝、1000人ばかりで出陣した。昨今は6000~7000人ばかりで出陣していたという。
今夕、醍醐に陣取りしたが、秀吉が陣を見て、「曲事である」と言い、「すべて天下は信長の御朱印のようにしなければならない」と命じた。もっともなことだ。
5月の23日まで雨は降らなかった。24日より降り始め、20日以上降っていた。今日は雨がやんで天気がよかった(私の注記、本能寺前後はずっと雨が降っていた)
先日の合戦で光秀が討ち死にしたのは間違いないという、時が終わった
(日付不明)
順慶の行動は曲事と(秀吉方から)沙汰があって、またも奈良中で資産を隠す。気持ちが沈む。
17日
光秀は12日に勝竜寺から逃げて、山科にて一揆にたたき殺された。首も胴体も京都に移されたという。あさましきことだ。
細川幽斎の中間だったのを引き立て、信長が厚く恩を与えて召し使ったのに、大恩を忘れて曲事に至った。天命かくのごとし。
斎藤利三が生け捕られて安土へ勾引されたという。天命天命。
18日
本能寺では光秀をはじめ、首が3000ほどあるという。斎藤利三は17日に京で引き回され、首を切られたという。
21日
近衛前久が死んだというので、一乗院はもってのほか取り乱した。間違いなく(近衛生害は)ウソだろう。
29日
大乗院殿が安土より帰った。信孝と昵懇で礼があったというので、めでたいめでたい。信雄と信孝の考えが合わないので、諸軍勢がいまだ帰陣していないようだ。
7月6日
天下の様相は、柴田勝家、秀吉、長秀、池田恒興、堀秀政、以上の5人で「分取ノ様」にその沙汰があった。信長の子供はその議論の俎上にも上がらなかったようだ。あさましいことだ。
7日
天下の様相、信雄と信孝が争いをやめないので、両人とも秀信の名代を辞退し、信雄は伊勢と尾張、信孝は美濃、信包は伊賀(追記、「ウソ」)。
柴田は長浜(20万石)、堀は秀信のおもり、これによって近江中郡の20万石、長秀は高島郡、志賀郡、恒興は17カ所と大坂を知行した。
秀吉は山城と丹波(丹波は羽柴秀長の知行)、西ノ岡と勝竜寺以下、河内の一部を得た。
おおむね、秀吉が主張した通りだった。それなので下京六条に城をつくるという。(秀信の)名代はいないまま、5人で議論を交えて(秀信を)もり立てようということになった。
順慶は大和一円と宇治郡、宇多郡も知行したらしい。秀吉が推薦したそうだ。これで奈良は平穏か(追記、「ウソ」)。もっともなことだ。
このように決まり、欲がまざってまた、信長の子供がたくさんいるのに、まったく議論にならなかった、「クルイ」が出てきたのではないだろうか。
8日
今日、秀信(3歳)が秀吉のお供で京にいる。諸大名が御礼をしたそうだ



300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/28(金) 14:01:20.05 ID:X7bjes8W
コウモリが思ってた以上にふらふらしてた
信長様が生きてても判断が遅い!ってどっかで粛清されてたかも
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順慶の小姓

2018年10月20日 11:51

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 09:11:19.83 ID:k5oh/zxF
明智光秀が織田信長を弑した時、筒井順慶は光秀と親しかったため、彼は必ず光秀に与すると
人々は考えていた。

池田紀伊守(恒興)は家臣の日置猪右衛門、土倉四郎兵衛、丹羽山城の三人を使いとして順慶のもとに
派遣させることにした。三人はこれを承って「順慶がもし明智に与するようであれば、我々が刺殺します。」
と申し上げた。紀伊守は
「いやいや、汝らが死ねば私は片手を折られたのと同じだ。」
と、これを制したが、三人は

「順慶と戦した場合、どれほどの手負い討死が出るでしょうか?この三人を以て、多くの味方と
変えるのです。順慶を打ち取れば、光秀も必ず敗北します。」

そう申して順慶の元へと向かった。

筒井順慶は彼等に対面すると
「どうして光秀の不義に与しようか!すぐに信長公の弔い合戦をしよう!」と言った。
それを語る内容は偽りとも思えなかったため、三人は喜んで帰っていったが、その道すがら、
丹羽山城が語った

「今日、順慶が否と言えば刺し殺そうと考え座中をきっと見回した所、彼の傍らにあった
16,7歳ほどの男、順慶の刀を持って居たが、その面魂は只者ではなかった。
私が順慶に飛びかかれば、即座にこの頭を二つに切り割られそうだった。」

これを聞くと日置も土倉も「そうであったか、我らもそう思っていた。」と頷いた。

その刀持ちの小姓は牧野兵太といって、武者修行をして世に聞こえた剛の者であったという。

(常山紀談)


久秀の運がついに尽きる時

2015年02月19日 18:50

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/19(木) 02:23:59.48 ID:9ypTrVnC
天正5年(1577)、松永久秀織田信長の反逆し信貴山城に籠もる。
織田方は嫡男城之介信忠を大将として、信貴山城へ軍勢を派遣した。

この事態を、かねてから大和で久秀と対立していた筒井順慶は、幸いな事と喜んだ。
実は筒井家譜代の侍の一人で、順慶が松永久秀に大和を追われ浪々していた時に、久秀に奉公に出た者があったのだ。
順慶はかねてからこの者と連絡を取り様々に賄いなどを与え、『返り忠の良き手段が有る時は、内通するように』と
言い含めていたの。

そんな中、久秀の運がついに尽きる時が来た。久秀が大阪の門跡(石山本願寺)に加勢を請う遣いを出したが、
その使者に彼の者を行かせたのである。
彼は信貴山城を出ると順慶の元に行き、久秀より受けた指示の内容を詳しく申し上げた。
すると順慶は、二百人ほどの軍勢を、石山本願寺からの加勢に偽装し、夜に間に河内の平野に集合させておき、
彼の者が大阪に行って主命を果たし帰る頃の時刻に、この軍勢を従えさせ、夜に紛れ信貴山城内へと引き込んだ。

翌日未明より、織田軍による総攻めが始まった。
そこで先に入れ置いた順慶の人数が、城に火をかけ裏切りを行ったのだ。
これに松永方は大混乱となりついに討ち負け、久秀は天守に上がり切腹した。
子息の松永久通は、多聞城へ落ちて行きそこで切腹したとも、また父子一所にて切腹したとも
伝えられる。

これより大和一国は皆、筒井順慶が手に入れ、武威盛んとなったが、
不幸にも天正11年(1583)5月13日に病死した。

(大和記)




大和布施氏の無念

2015年02月14日 18:51

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/14(土) 18:45:16.75 ID:l6hEP72v
布施左京進という大和国の国人は、越智、十市といった大和の有力国人の兄弟分で、
合戦の時も互いに筋々の働きを協力しあっていた。

ところがこの布施左京進が病死すると、その息子は武功も父に劣り、周辺の勢力からその所領の方々を
切り取られるような状況になった。

この頃、箸尾氏(為綱か)は近辺を切り従え、勢力が強盛となっていたため、布施へ使いを以ってこのように申し越した
『布施氏は我々の旗下になるように。これを拒否するのなら一戦仕ろう。』
これを見た布施氏は、箸尾氏に従いたくはなかったが、当面の計策として、和談し従った。

され、そのような所に、筒井順慶が織田信長に出仕し、大和国の旗頭と成った。
このため大和の大身衆は皆、筒井の元に参り振舞いをした。その座席に箸尾氏は先立って
参着したが、その後に布施氏が参った所、箸尾氏はこう主張した

「布施は我が旗下であるから、この一座に有ることは出来ない!」

これに対し布施は怒り
「それは一旦の謀として和した事に過ぎない!我々が箸尾の旗下であるという証拠はない!」
と反論した。

その座の雰囲気が大変危うくなったのを見た筒井順慶は、双方にこのように言った
「一端の計策としてそのようにするのは、言われなき物ではない。その上、武士として偽りなく
有り様を申し述べられたのは、神妙なことである。」
そういって仲直りをさせたが、しかし「上座はありえない」と、それ以後、布施は箸尾の下座に付けられる
事となった。それ故、布施氏は箸尾氏の旗下であると記録されているが、実際には、布施氏も
大和の新庶にて自分の知行を、現在でいうところの二万石ほど持っており、その上旗下の者達も多く有り、
箸尾に劣らぬ大身であったので、完全な旗下とは言えないものであった。

先に箸尾から旗下になるよう要求が来た時から、筒井順慶への振舞いまで、わずか50日ばかりの事であった。
少しの難儀を我慢しきれずそのように成ってしまったのは、無念のことであると、布施殿も申し、
またその家来の者達も口惜しんだ。

(大和記)

少しのタイミングのズレで、他の国人の家来扱いと成ってしまった布施氏についてのお話。




それがしなどは弁慶くらいの働きさえも

2014年06月11日 18:52

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/10(火) 18:42:03.62 ID:3SWQ1Lw8
井戸十郎筒井順慶の家来で武功の優れた人である。御家(徳川家)へ
召し出されて若狭守といい、剃髪して覚斎と号す。十郎は物語って、

「只今などに何事かでもあれば、それがしなどは弁慶くらいの働きさえも
することであろう。その理由は、それがしは年寄って命が惜しくないからだ。
一日も早く死にたいだけである。この心ならば比類の無い働きさえもする
ことであろう」

と笑ったそうである。

――『武功雑記』





洞が峠の順慶

2011年05月15日 00:00

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 18:03:44.26 ID:ncSSilCw
洞が峠の順慶

本能寺の変より数日経てのことである。
池田常興からの三人の使者が大和郡山の筒井順慶のもとを訪れた。
何れも思いつめた表情である。
主人池田紀伊守からは、光秀と姻戚関係であり、日頃親しい筒井順慶
彼の意中を探るように命じられていた。
三人は、筒井順慶と刺し違える所存であったが、
主人は「お前たちを死なせれば、私はわが腕を失うようなものである。」と三人を諌めた。
が、彼らは「自分たちが死すとも、味方が助かればそれでよい。」と捨て身の構えであった。

が、思いのほか、筒井順慶は信長公を弔う気持ちはあれども、光秀への加担する気持ちは
露ほども伺われず、まことに神妙な面持ちでもあった。
三人は安堵と共に気勢をそがれ帰途に就いた。

が、帰途の途中、順慶の傍らに静かに侍していた牧野兵太という若侍、
その姿が三人の使者の脳中にありありと蘇ってきた。
そのただならぬ眼光は殺気を放っていた。

筒井順慶ならではの用心深さであった。

常山奇談より




172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 18:06:16.40 ID:wlrmg0NX
若い頃から苦労してるもんなー、この人

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/14(土) 21:36:34.99 ID:iuXQRL32
三人の使者も相当な殺気を放っていたと思われるがw

伝香寺の「散り椿」

2009年10月04日 00:15

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 01:41:57 ID:IlOIJGpJ
奈良には「三名椿」と言われる椿があります
東大寺開山堂の「糊こぼし」
白毫寺の「五色椿」
そして伝香寺の「散り椿」です

この散り椿は普通の椿のような花の落ち方をせず、その色がまだ盛んなとき、
花弁が桜のごとく一枚一枚と散るため
その散り際の美しさを若くして亡くなった三好筒井順慶になぞらえ
その魂を弔うため順慶の母、芳秀尼が自らの手で寺に植えたものなのだそうです

そんな経緯からこの椿は「武士椿(もののふつばき)」という名でも伝えられています

椿見学は3月下旬からですが
もし興味のある方は土日のみ見学できるので、是非ご覧になってみて下さい

以前雨に濡れたところを見ましたがとても美しい花でした




30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 01:48:24 ID:IlOIJGpJ
あ、筒井順慶です
三好順慶って誰やorz

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 01:54:10 ID:pqYeKiot
誰かと思ってググったら3件しか出てこなかったw

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 07:13:14 ID:/JCnFUpd
若くしてなくなった三好×→筒井○順慶になぞらえ ってことね

戦国期の筒井家は短命だな
順興(51歳)
順昭(28歳)
順政(おそらく30歳代)
順国(49歳)
順慶(36歳)

一番長生きした定次(54歳)はgdgdでお家取り潰しの挙句自害・・・ 

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/03(土) 12:27:34 ID:3BTLwtJR
>>30-31
むしろ3件もあったことに驚きw


筒井順昭身代わりを立てる・いい話

2009年01月10日 16:03

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 15:52:04 ID:7cxILCkm
大和の大名、筒井順昭は天文十九年(1550)の夏の頃より病に伏せがちとなり、
南都林小路の外館において養生していた。
七月七日の七夕祭り、順昭は山田道安・慈明寺順國、福須美順弘、飯田頼直らの一族と、
島左近、松倉右近、森好之の三老を密かに呼び寄せ、こう語った。

「我が命もこのままでは、来年の夏まで持たないであろう。わが子藤勝(後の順慶)はまだ幼く、
わしが死ねば、松永らがこれ幸いと攻め滅ぼしに来るのは必定である。そうさせないための方法を
一つ、考えた

奈良角振町の鷹隼の祠近くに、黙阿弥という盲目の者がいる。彼は顔立ちや声色、
年の頃もわしによく似ておる。
もし、わしが死ねば、これを秘密にし、密かにこの地に葬れ。そして黙阿弥に事情を申し含め、
わしの床に入れ置き、お前達も以前と変わらず給仕せよ。
そのようにして三年間、喪を隠し通せ。そして藤勝を守り立てて、筒井の家を永く残して欲しい。
これがわしの遺言じゃ。」

翌二十年六月二十日の辰の刻、順昭は没した。享年二十八歳であった。

一族と家老たちは、順昭の遺言通りにその翌夜、遺骸を外館の奥に人知れず埋葬し、
それから黙阿弥を密かに呼び寄せた。そして彼に事情を話し、順昭の身代わりとして
南都林小路外館に置き、一族の4人と家老3人が、依然と変わらず仕えた。
この事は、この7人と近習の4、5人の他は知る者もなく、筒井家の家中の者たちも、そして
敵方も、順昭は病身ながらいまだ存命であると信じ、筒井領は敵に攻め込まれることなく
平穏な時をすごした。
この間に筒井家の首脳部は体制を整え、1年たった天文二十一年(1552)六月、順昭の死を公表した。
大和の諸氏は、大いに驚いたという。

黙阿弥は多額の金銀や衣服を与えられ、角振町に帰された。黙阿弥は元の盲目法師となった。


これより、物事に成功してまた昔の状態に戻ることを、「元の黙阿弥」と呼ぶ様になった。



898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 16:29:08 ID:JW2u+UF8
途中まで口封じのために殺される話かと思った

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 16:46:35 ID:AcKTwicX
>>898
このスレだから、んな事はない、と信じてた(ドキドキしながら)

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 18:03:39 ID:xaY/22g2
>>898
別パターンとして、『一年間筒井家の殿様やってれば知られたくない軍事秘密も
知っているはず。木阿弥は殺した方が良いだろう。』と重臣達が決めてあわや
風前の灯火、となったところで順昭未亡人が『それではあまりにも不憫だから…』と
恩情を掛けてやり、ある日の夜に木阿弥に琵琶を一本渡して京の町へと逃がしてやった、
結果として木阿弥は筒井家総領からただの琵琶法師になり、『元の木阿弥』になった、
というのもある。
天正軍記にも『嗣子(順慶)長ズルニ及ンデ、木阿弥、又モトノ市人トナリヌ』と表記があるそうな

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 18:04:56 ID:tzpcoh1q
>>890
悪い話なら、「洞が峠を決め込む」の逸話やな。
もっとも、洞が峠にいたのは順慶じゃなくて光秀やけど。

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 20:14:12 ID:jwGTLcVL
>>899
括弧内も含めて、同じく

筒井順慶、『洞ヶ峠』・いい話?

2009年01月10日 16:02

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 18:03:39 ID:xaY/22g2

では、筒井順慶繋がりで例の『洞ヶ峠』の話を

筒井順慶と言えば洞ヶ峠、洞ヶ峠といえば日和見、日和見といえば小早川秀秋とAID(ryという位
慣用句として成立してしまう逸話であるが、実際のところ筒井順慶は
洞ヶ峠で山崎合戦の帰趨を見守っていたというのは偽りである。

1582年(天正十年)6月、信長を本能寺に襲い煉獄へと葬り去った明智光秀は
直ちに朝廷へ奏上を行い、6月4日に征夷大将軍職を拝命。
直ぐ様に畿内の諸大名達へ帰属を呼び掛けるが、寄って来たのは武田元明やら
京極高次やら阿閉貞征・後藤定豊とか旧世代ばかりが集り、
女婿の細川忠興、寄騎大名であり大和での勢力伸展の後楯となった
筒井順慶といった期待の大物からは支援を受けられずにいた。

細川藤孝は織田信長追悼の意味も篭めて剃髪、幽斎と号して光秀と敵対するが
順慶の態度は煮え切らない。最初は光秀に従うと見えたが秀吉が大返しで戻って来ていると
聞いた瞬間、篭城を決意。

筒井順慶>>こりゃ、どっちが勝つか判らないね。日和見日和見。(=ヮ=,,)~゜

居城の大和郡山城に兵糧を運び込んだのが6月9日。秀吉急展開の報を聞いた光秀は、軍勢を率いて
洞ヶ峠まで筒井順慶を 迎えに行く が、順慶は篭城を決め込み出てこない。

結局光秀は山崎天王山で敗北し、帰趨が決定的になった順慶は秀吉に使者を出し、帰順を申し出た。

日和見を決め込んだのは間違い無いが、この手の表裏比興は戦国の常、なのに
なぜ順慶だけ悪い様に言われるのか?

実は、『増補筒井家記』という順慶の子孫が書いた本が原因。これを書いた子孫は
『俺達のスーパーヒーロー筒井順慶が篭城で日和見しただなんて後世に聞こえが悪い、
ならば山崎の合戦、乗るか反るかの天王山で順慶が活躍したことにしよう!!』と
勝手に御先祖様の行動を捏造してしまったらしい。その結果が今日の慣用句な有様だ。

そんな、筒井順慶の末裔が良かれと思ってやった気遣いと、筒井順慶には良い(迷惑な)話。



901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 18:04:56 ID:tzpcoh1q
>>890
悪い話なら、「洞が峠を決め込む」の逸話やな。
もっとも、洞が峠にいたのは順慶じゃなくて光秀やけど。


902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 18:09:02 ID:tzpcoh1q
>>900
スマンかぶった。
ちなみに順慶の日和見ぶりは興福寺の僧侶の日記(多聞院日記)に記載されている。
明智に援軍送ったり引っこめたり、明智の使者を追い返したり呼び戻したり…


903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 19:06:14 ID:aVnDLVYC
関ヶ原ではそういう中途半端な事でお茶を濁した大名は改易になってるな。
増田長盛や佐竹義宣など。

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/07(水) 19:08:18 ID:Ci2a+bBX
>>902
筒井順慶の日和見力は向背常無き乱世の定めだからまだしも、倅もだめぽだったような・・

そういや大和や紀伊など近畿南方は寺社勢力と百姓(農民限定じゃなくて民草の意)がやたら強くて
武家・中央政権の統制もなかなか難しかったらしいね。
信長に京を追い出された将軍義昭がへろっと逃げ込んでいたりするし <毛利氏に保護される前