638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/16(水) 23:16:25.42 ID:h+gKGqTL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13720.html
の「笹子落草紙」の続編と思われる「中尾落草紙」から後藤一族の最期
後藤兵庫助(後藤信安)は首尾よく鶴見内匠(鶴見信仲?)を殺し安堵していた。
いっぽう武田信秋は「鶴見は我を頼ったにもかかわらず、むざむざ討たせてしまった。
かくなるうえは後藤を退治し、鶴見の恨みをすすごう」
と里見義堯に申し出たところ、里見義堯は両正木(正木時茂・正木時忠兄弟)に仰せつけ、天文十三年(1544年)四月、一千余騎をひきつれ後藤の中尾城に押し寄せた。
折節、城には北条殿身内の足軽大将・福室帯刀左衛門七十三騎が籠っていた。
後藤は福室とともに櫓に登り、敵勢を知ろうと周囲を見渡したところ、
武田信秋(大学助):二百余騎、武田義信(大炊頭、信秋の息子):三百余騎、正木時茂(大膳)・正木時昌(将監)・正木時忠(十郎):七百余騎がそれぞれ陣取っていた。
福室は「合わせても千四百五百には過ぎぬだろう。
堀を越えてようとするときは弓矢で、木手までくるようであれば石弓で四方の堀に落とせばよい。
明日になれば嵐に遭った竜田川の紅葉のごとく散り散りに引くであろう。」と言った。
後藤は喜んで敵の陣中に「北条の方々、このわずかな堀など早く越えて攻めてこられよ。相手になろうぞ」と語り、櫓の板を叩いて愚弄した。
大将の里見義堯は北条鹿毛という駿足の馬に乗り陣を駆け巡り
「ものども、一枚板の盾を木戸に突き倒し、わき目も振らず攻め上れ。壁まで登ったならばそのまま盾を討ち捨てて攻め込め」
と下知すると、堀を渡った兵どもはわれもわれもと木戸に駆け上った。
後藤方も木戸から筒木を落としたが相手方の兵には当たらず、内側まで攻め込まれた。
覚悟を決めた後藤と福室は、ともに城内に戻って最後の戦をし、ひとところで死のうと誓った。
そのうち敵は四方から攻めてきたため、後藤の味方の兵はあるいは討ち死に、あるいは捕らえられだんだん薄くなっていった。
福室は、かつて父親が三浦の城を攻めた時に殿より拝領したという小薙刀を縦横無尽にふりまわし、力が尽きたのちは九寸五分をするりと抜き、腹を十文字に掻き切って、声高に題目を十遍ほど唱えて突っ伏した。
後藤も「福室と同じところで」と思ったものの「いや命あってこそ再起も図れようというもの」と女の衣を髪にかけ、堀を越えて抜け出そうとした。
それを見とがめた正木時忠は「怪しい者だ、とらえよ」と郎党に引き立てさせた。
後藤はつくり声で「後藤の身内のおふでと申す媼(おうな)でございます。助けたまえ」
と言ったが時忠は「おうでもこうでもつらをみせよ」と衣をはねのけてみると後藤であった。
時忠が「兵庫よ、わしが貴殿を見逃したとしてもおっつけほかのものが捕らえるだろう。
いっそ自らの手で菩提を問おうと思うが」と言うと、
後藤は「情けある人の言葉です。わたくしも城内で腹を切ろうと思いましたが、再起を図ろうとおもったために面目のないこととなりました。
平宗盛が源義経に捕らえられ鎌倉へ連行される途中、警固の武士があざけると宗盛は
「虎が深山にある時は百獣はこれを恐れるが、虎が穴に落ちるとその尾を引っ張って喰らおうとする」
と言ったそうです。その思いが今さらながらに知れました。
わたくしには五人の子供がいますが、一人でもあなたの軍勢により生け捕りにできるようであれば、どうかその子を僧にしてわたくしの菩提を弔わせてください」
と言うや、西を向かって手を合わせて念仏を唱えだした。
こうして後藤兵庫助信安は四十五の花盛りにして散り落ちた。
639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/16(水) 23:18:39.10 ID:h+gKGqTL
一方、後藤の末っ子の駒若丸であるが、乳母に抱かれて落ち延びるところ、「夏の虫」ではないが敵方の鶴見五郎(後藤に殺された鶴見信仲?の息子)の前に出てきてしまった。
乳母が「父は敵でしょうが、この子の母親はあなたの伯母、どうか命をお助けください」
と涙を流して言うと、五郎もともに涙を流した。
そこで武田信秋に助命嘆願したが「後藤の末裔はすべて滅ぼせ」とのことであり
五郎は「駒若よ、助けたいとは思うものの、ままならぬ世の習いである。覚悟を決めよ」と言うと
駒若丸も涙を流しながらも「南無阿・・・」と唱えたところで一閃。散った。
乳母は駒若丸の死骸に抱きつき「われもともに送ってください」と打ち嘆いたが、みな哀れとは思うものの希望をかなえるものはなかった。
こうして後藤方の首実検をしているところへ、北の方から黒雲が飛び来て陣の上を覆った。
その中から鶴見・後藤により殺された武田信茂の魂が歎恨鬼という鬼となり
「主に不忠のやつばらがこのようになり、今は心安いわ」と天地に響くばかりに叫び
笹子城・中尾城の両城に雷光を放ち、また北に向かって去っていった。
そののち主君に害をなした鶴見・後藤の両城を訪れるものはなく、草が茫々とおいしげっている。
640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/16(水) 23:39:32.43 ID:h+gKGqTL
義堯については、本文中には「里見」とは書かれず、あたかも「北条」であるように書かれていている。
また正木将監時昌(ときまさ)については不明。「図説 戦国里見氏」によれば正木時茂と正木時忠の間の兄弟は正木時義(大炊頭)。
ついでに正木時茂は前に出ていた後藤の婿である小田喜朝信(真里谷朝信)を天文十三年八月に討っている。
また「図説 戦国里見氏」によれば、北条・里見は武田信秋(全方)を支援していたが、信秋が亡くなったのちの天文十四年ごろ里見義堯が信秋の佐貫城を奪取。
不満に思った信秋の息子・武田義信は、天文十四年九月、北条・今川間の抗争時に里見が北条に援軍を出そうとしたおりに里見について北条に讒言。
天文十五年九月には北条氏と武田義信が佐貫城を大軍で包囲、というように情勢が目まぐるしく変わっている。
そんなこんなで紹介した両草紙がどこまで史実に沿っているかは不明。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13720.html
の「笹子落草紙」の続編と思われる「中尾落草紙」から後藤一族の最期
後藤兵庫助(後藤信安)は首尾よく鶴見内匠(鶴見信仲?)を殺し安堵していた。
いっぽう武田信秋は「鶴見は我を頼ったにもかかわらず、むざむざ討たせてしまった。
かくなるうえは後藤を退治し、鶴見の恨みをすすごう」
と里見義堯に申し出たところ、里見義堯は両正木(正木時茂・正木時忠兄弟)に仰せつけ、天文十三年(1544年)四月、一千余騎をひきつれ後藤の中尾城に押し寄せた。
折節、城には北条殿身内の足軽大将・福室帯刀左衛門七十三騎が籠っていた。
後藤は福室とともに櫓に登り、敵勢を知ろうと周囲を見渡したところ、
武田信秋(大学助):二百余騎、武田義信(大炊頭、信秋の息子):三百余騎、正木時茂(大膳)・正木時昌(将監)・正木時忠(十郎):七百余騎がそれぞれ陣取っていた。
福室は「合わせても千四百五百には過ぎぬだろう。
堀を越えてようとするときは弓矢で、木手までくるようであれば石弓で四方の堀に落とせばよい。
明日になれば嵐に遭った竜田川の紅葉のごとく散り散りに引くであろう。」と言った。
後藤は喜んで敵の陣中に「北条の方々、このわずかな堀など早く越えて攻めてこられよ。相手になろうぞ」と語り、櫓の板を叩いて愚弄した。
大将の里見義堯は北条鹿毛という駿足の馬に乗り陣を駆け巡り
「ものども、一枚板の盾を木戸に突き倒し、わき目も振らず攻め上れ。壁まで登ったならばそのまま盾を討ち捨てて攻め込め」
と下知すると、堀を渡った兵どもはわれもわれもと木戸に駆け上った。
後藤方も木戸から筒木を落としたが相手方の兵には当たらず、内側まで攻め込まれた。
覚悟を決めた後藤と福室は、ともに城内に戻って最後の戦をし、ひとところで死のうと誓った。
そのうち敵は四方から攻めてきたため、後藤の味方の兵はあるいは討ち死に、あるいは捕らえられだんだん薄くなっていった。
福室は、かつて父親が三浦の城を攻めた時に殿より拝領したという小薙刀を縦横無尽にふりまわし、力が尽きたのちは九寸五分をするりと抜き、腹を十文字に掻き切って、声高に題目を十遍ほど唱えて突っ伏した。
後藤も「福室と同じところで」と思ったものの「いや命あってこそ再起も図れようというもの」と女の衣を髪にかけ、堀を越えて抜け出そうとした。
それを見とがめた正木時忠は「怪しい者だ、とらえよ」と郎党に引き立てさせた。
後藤はつくり声で「後藤の身内のおふでと申す媼(おうな)でございます。助けたまえ」
と言ったが時忠は「おうでもこうでもつらをみせよ」と衣をはねのけてみると後藤であった。
時忠が「兵庫よ、わしが貴殿を見逃したとしてもおっつけほかのものが捕らえるだろう。
いっそ自らの手で菩提を問おうと思うが」と言うと、
後藤は「情けある人の言葉です。わたくしも城内で腹を切ろうと思いましたが、再起を図ろうとおもったために面目のないこととなりました。
平宗盛が源義経に捕らえられ鎌倉へ連行される途中、警固の武士があざけると宗盛は
「虎が深山にある時は百獣はこれを恐れるが、虎が穴に落ちるとその尾を引っ張って喰らおうとする」
と言ったそうです。その思いが今さらながらに知れました。
わたくしには五人の子供がいますが、一人でもあなたの軍勢により生け捕りにできるようであれば、どうかその子を僧にしてわたくしの菩提を弔わせてください」
と言うや、西を向かって手を合わせて念仏を唱えだした。
こうして後藤兵庫助信安は四十五の花盛りにして散り落ちた。
639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/16(水) 23:18:39.10 ID:h+gKGqTL
一方、後藤の末っ子の駒若丸であるが、乳母に抱かれて落ち延びるところ、「夏の虫」ではないが敵方の鶴見五郎(後藤に殺された鶴見信仲?の息子)の前に出てきてしまった。
乳母が「父は敵でしょうが、この子の母親はあなたの伯母、どうか命をお助けください」
と涙を流して言うと、五郎もともに涙を流した。
そこで武田信秋に助命嘆願したが「後藤の末裔はすべて滅ぼせ」とのことであり
五郎は「駒若よ、助けたいとは思うものの、ままならぬ世の習いである。覚悟を決めよ」と言うと
駒若丸も涙を流しながらも「南無阿・・・」と唱えたところで一閃。散った。
乳母は駒若丸の死骸に抱きつき「われもともに送ってください」と打ち嘆いたが、みな哀れとは思うものの希望をかなえるものはなかった。
こうして後藤方の首実検をしているところへ、北の方から黒雲が飛び来て陣の上を覆った。
その中から鶴見・後藤により殺された武田信茂の魂が歎恨鬼という鬼となり
「主に不忠のやつばらがこのようになり、今は心安いわ」と天地に響くばかりに叫び
笹子城・中尾城の両城に雷光を放ち、また北に向かって去っていった。
そののち主君に害をなした鶴見・後藤の両城を訪れるものはなく、草が茫々とおいしげっている。
640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/16(水) 23:39:32.43 ID:h+gKGqTL
義堯については、本文中には「里見」とは書かれず、あたかも「北条」であるように書かれていている。
また正木将監時昌(ときまさ)については不明。「図説 戦国里見氏」によれば正木時茂と正木時忠の間の兄弟は正木時義(大炊頭)。
ついでに正木時茂は前に出ていた後藤の婿である小田喜朝信(真里谷朝信)を天文十三年八月に討っている。
また「図説 戦国里見氏」によれば、北条・里見は武田信秋(全方)を支援していたが、信秋が亡くなったのちの天文十四年ごろ里見義堯が信秋の佐貫城を奪取。
不満に思った信秋の息子・武田義信は、天文十四年九月、北条・今川間の抗争時に里見が北条に援軍を出そうとしたおりに里見について北条に讒言。
天文十五年九月には北条氏と武田義信が佐貫城を大軍で包囲、というように情勢が目まぐるしく変わっている。
そんなこんなで紹介した両草紙がどこまで史実に沿っているかは不明。
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