636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/13(日) 09:44:17.19 ID:Oc4r4gLe
永禄八年正月、飯富兵部少輔(虎昌)が武田信玄公によって御成敗なされたその仔細は、以下の様なものであった。
一、信玄公の若き時分より、兵部を呼ばれることがあっても、彼は御返事をすぐに申し上げなかった。
一、弓矢の儀においても、信玄公も退去するように諸傍輩のいる中で申した。
勿論彼は老功の家老なのだから、諌め申し上げたことを御承知されないという事は無いのだが、
諸人の面前において家老共がそのような態度なら、諸軍が信玄を軽んずると思し召され、
以降、良き事であっても飯富兵部が申し上げたことは取り上げられなくなった。
一、大将たる者は大敵、強敵、弱敵、破敵、随敵という五つの敵に、それぞれの対応が有るのだが、
越後の上杉謙信は強敵でしかも破敵であり、信玄公は種々の武略、工夫をされて勝利を得ようとの
分別を、信玄が弱いかのように申されたが、それは元々、飯富兵部一人の口から出た事であった。
一、越後の謙信に対し、信玄公の武略の分別が良かったからこそ、五年前の九月十日の川中島合戦に
おいて(永禄四年の第四次川中島合戦)謙信は遅れを取り、十月には越後との境である
長沼まで備えを出し、一日逗留し草創に引き上げた。その後謙信は五年ほど信濃に出て来なかったが、
信玄公の味方は四年以降は境目を越えて、越後国内で焼き働きを仕った。
これは高坂弾正一人の覚悟にて働いたのだが、信玄公の御力を借りずにそのような事が出来たのは、
信玄公の弓矢が輝虎より弱くては不可能なことであった。
一、義信公が若気故に、恨みのない信玄公に対して逆心を企てさせた談合相手の棟梁に飯富兵部は成った。
この五ヶ条の御書立を以て飯富兵部は御成敗と成った。
『甲陽軍鑑』
飯富虎昌粛清について
永禄八年正月、飯富兵部少輔(虎昌)が武田信玄公によって御成敗なされたその仔細は、以下の様なものであった。
一、信玄公の若き時分より、兵部を呼ばれることがあっても、彼は御返事をすぐに申し上げなかった。
一、弓矢の儀においても、信玄公も退去するように諸傍輩のいる中で申した。
勿論彼は老功の家老なのだから、諌め申し上げたことを御承知されないという事は無いのだが、
諸人の面前において家老共がそのような態度なら、諸軍が信玄を軽んずると思し召され、
以降、良き事であっても飯富兵部が申し上げたことは取り上げられなくなった。
一、大将たる者は大敵、強敵、弱敵、破敵、随敵という五つの敵に、それぞれの対応が有るのだが、
越後の上杉謙信は強敵でしかも破敵であり、信玄公は種々の武略、工夫をされて勝利を得ようとの
分別を、信玄が弱いかのように申されたが、それは元々、飯富兵部一人の口から出た事であった。
一、越後の謙信に対し、信玄公の武略の分別が良かったからこそ、五年前の九月十日の川中島合戦に
おいて(永禄四年の第四次川中島合戦)謙信は遅れを取り、十月には越後との境である
長沼まで備えを出し、一日逗留し草創に引き上げた。その後謙信は五年ほど信濃に出て来なかったが、
信玄公の味方は四年以降は境目を越えて、越後国内で焼き働きを仕った。
これは高坂弾正一人の覚悟にて働いたのだが、信玄公の御力を借りずにそのような事が出来たのは、
信玄公の弓矢が輝虎より弱くては不可能なことであった。
一、義信公が若気故に、恨みのない信玄公に対して逆心を企てさせた談合相手の棟梁に飯富兵部は成った。
この五ヶ条の御書立を以て飯富兵部は御成敗と成った。
『甲陽軍鑑』
飯富虎昌粛清について
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