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足軽大将の横田十郎兵衛が

2022年12月14日 19:02

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/13(火) 20:40:53.15 ID:d5lZzaHf
永禄九年(1566)七月、越国の上杉輝虎は上野国和田城へ取り詰め、既に落城と見える所に、
武田信玄公の旗本で、足軽大将の横田十郎兵衛(康景)がこの加勢に籠もっており、彼は
自分の同心、足軽については言うに及ばず、和田の者共も十郎兵衛が良く下知した。

輝虎は一万三千の人数を以て攻めたが、城は落ちなかった。これは先ず大筋目として、城の持ちこたえ方、
手配りが良かった事がある。そして十郎兵衛は櫓へ上がり、日頃習い得た鉄砲を以て、輝虎の旗本たちが
寄せてくる所を見定め、良き武者を多く撃ち落とした。
その中で輝虎の御座を成す侍を撃ち殺し、さらに十郎兵衛の撃つ鉄砲に寄って輝虎自身も危うく見えた。
それ故に輝虎は早々に包囲を解いて、越後勢は退散した。

和田城が堅固に持ち定めることが出来たのは、横田十郎兵衛が大剛強で、しかも弓矢に能く功者の故であった。
この横田十郎兵衛は四十二歳だが、十六歳より走り廻り、二十七年の間に数度の武辺を仕り、優れて手を砕いた
働きがあったために、和田城を任された。これについて人々は褒め称えたが、横田自信はさほど手柄とは
考えていなかった。

『甲陽軍鑑』



513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/14(水) 02:31:04.59 ID:N5ONe28H
1566年の時点で甲斐にそんな鉄砲の名手がいたのかー
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