かほのしはすをのべて参らん

2017年05月27日 16:50

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/27(土) 00:42:17.28 ID:zH6PkXyL
三好修理大夫(長慶)殿に玄理という者が仕えていた。
さる事があって、ある年の春頃に勘気を蒙り、年の暮れまで許しがなかったことがあった。
玄理は三好修理大夫に

参るべき御礼なれども今年より かほのしはすをのべて参らん

と歌を作って捧げた。
この歌を御前の人々へ伝えたらすぐに召し返されて、二人は再び御懇ろとなった。

(戯言養気集)


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流石長慶とも言える武将としての優美さ

2017年02月27日 18:30

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 21:04:36.36 ID:h109Njvy
三好長慶には不義無道の名のみ有りて、風流のことを人は言わない。
たしかに、公方光源院殿(足利義輝)を弑し天下を奪おうという逆罪は論に及ばぬものであるが、
その当時の風俗として、君父を害して国を奪う輩は、挙げて数えがたいほどあった。
戦国に人道を喪うこと、日本に限らず、中華五代の頃の風俗も皆そのようなもので、独り三好松永を
憎む事ではない。

三好長慶は敷島の道に心を寄せ、殊に連歌に高じていた事は、諸書に顕然である。
居城において連歌興行あった時、『薄にまじる 芦の一むら』という句に連座上の句を付けあぐねていた。
やや時移った頃、河内より飛脚が到着し、急を告げた。長慶は書状を見ると、くるくるともとに戻し、
なんでもない体にて

『古沼の 浅き方より 野と成りて』

と付け、その場の者達はこれに感賞した。すると長慶は

「河州に於いて舎弟実休討ち死にの知らせがあった。今日の連歌は是迄である。
弔軍に、今打ち立たん」

そう即座に命じて出陣したという。
変を知りて騒がず、連座が付けあぐねた上の句を果たした後に、変を披露し、しかも即座に
出馬したこと、流石長慶とも言える武将としての優美さではないか。これらは賞すべき事である。

最近、なにげに怪談の双紙を読んだ所、この連歌の付け合いを、宗祇に付け言わせていた。
宗祇が旅行の最中、何れの国の某村に妖しい屋敷が有り、妖しきものが出て
『薄にまじる 芦の一むら』と言う句を吟じ、泣き叫んで止まず、と所の人が語るのを宗祇が聞いて
「私がその屋敷に泊まり、これを止めよう」と、かの屋敷に泊まって様子をうかがっていると、
案の如く丑三つ頃に幽霊が出て件の句を吟じた。この時宗祇、『古沼の 浅き方より 野と成りて』
と一句をつけると、幽霊は感服して消え失せ、その後出ることは無くなった、と書かれていた。

これは浮説である。長慶の事こそ事実である。

その他、高師直なども、太平記には無骨な東夷のように描かれているがそうではない。師直は歌人である。
撰集にも彼の詠んだ歌が入れられている。

伝説というのはこのような御聞が多い。
箱根にある「曾我時致の文」というのも、実際には曾我時致の物ではない。あれは北条時宗の
書いたものである。

(翁草)



680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 21:53:31.13 ID:yHclo49x
諸人之を仰ぐこと北斗泰山
と長慶は敬われていたらしいが

「三好」と人の言い伝えているのは

2017年01月30日 18:29

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 18:15:21.23 ID:eGddXOW8
「三好」と人の言い伝えているのは、三好修理太夫(長慶)の事である。
元々は細川の家臣であったが、細川を滅ぼして一家繁栄した。
修理太夫は光源院殿乱(永禄の変:足利義輝暗殺)以前に病死した。

この修理太夫の元に三人衆と言って、主だった3人の家臣があった。三好日向守というのも
その一人である。永禄8年に義輝を殺したのはこの三人衆である。

(老人雑話)

永禄の変は信長公記なんかでも「三好長慶が義輝を殺した」なんて書いていますが、成立年代は近いわりに、
老人雑話のほうが事件について正確に把握していますね。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 19:43:47.50 ID:hh70UDtF
船頭が多すぎて誰が主犯かわからないから長慶の名前で広まったとか?

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 22:58:16.15 ID:Y7G4vO1T
???「計画通り(ニヤリ」

【雑談】なんでも鑑定団、4つ目の曜変天目について

2016年12月21日 17:30

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 14:10:15.83 ID:gT5l6bqO
なんでも鑑定団に、4つ目かもしれない曜変天目茶碗が出るそうだな

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 15:48:02.68 ID:xED4WQmr
マジでけ?と思ってググったらニュースでてた
三好家に伝わる曜変天目らしいね
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161220-00010002-bfj-ent

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 20:58:15.21 ID:q24Q6akh
実休さんあたりがもってたのかな?

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 21:49:20.52 ID:SFVyxE7w
冬康かもしれん

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 21:54:57.81 ID:iUZUD3/z
2500万円でした

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:01:21.74 ID:gT5l6bqO
4つ目で、しかも三好の子孫が持っていたという事だけでも十分以上の価値がある
国は、変な所に売り飛ばされる前に保護するべきだな

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:05:41.42 ID:iUZUD3/z
某国から返還請求が来ます

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:31:55.28 ID:q24Q6akh
前田家に伝わった曜変ぽいものを含めたら五点目だよね
三好に伝わってるなら宗二とか堺の連中が記録してそうなものだけどないのかな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:54:16.21 ID:ohshcxKd
>>437
やっす、曜変としては大したもんじゃなかったのか

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:56:19.89 ID:q24Q6akh
2500万円から競りスタートだよ

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 23:04:53.48 ID:eF7f4Sha
曜変天目の中でも最高峰の稲葉天目は春日局に家光があげたのが
伝わったので稲葉天目

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 23:21:16.02 ID:iUZUD3/z
番組中に三好氏がさらりとディスられました

天文20年・三好長慶暗殺未遂事件

2015年02月11日 17:23

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 23:28:24.88 ID:9EBoU/Mx
天文20年(1551)3月14日、京の勢州(伊勢伊勢守貞孝)の邸宅に三筑(三好筑前守)長慶を招いての
酒宴が行われた。
酒も半ばというところで、公方衆の進士九郎という人物が突然刀を抜き、長慶に向かって二刀まで突いたが
長慶はとっさにこれを避け無事であった。暗殺に失敗した進士九郎は、たちまちその場で自害して果てた。
この報が聞こえると、京も田舎も、仰天する他言葉も無い有り様であった。

この事件について、朽木に逃れていた御所様(将軍義輝)が仰せ付けたものであるとも、また所領を失った
恨みからであるとも、この両説が言われた。

勢州はせっかくの、入魂の接待の場でこのようなことが起こり、もうどうしようもないといった様子であった。

(細川兩家記)

三好長慶暗殺未遂事件についての記事である。
三好長慶は何度か暗殺の危機もうまく逃れて、武芸も達人であったと言われていますね。




388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 05:47:56.45 ID:2NZUPEZN
かわいい鴨の子を見せればよかったものを

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 08:45:28.41 ID:pVKppLYp
三好長慶の生涯って波乱万丈次から次に襲いかかる危機を
紙一重で切り抜けて大逆転の連続なんだけど
なぜか無茶苦茶地味な印象だよね。

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 09:44:06.48 ID:OyDfpt1N
長生きしてりゃなー
兄弟ともに短命だから没落が早い

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 10:09:29.24 ID:b1XVBnD/
長慶や長宗我部元親は終わりが微妙すぎて創作物の主役になりにくいし

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 17:49:14.54 ID:N8LSZkV5
終わりが微妙だとハッキリしてる人はやりづらいよね。
秀吉を扱う物語は多いが、晩年が超アレなだけにぼかしたり途中で強引に終わりにするケースも少なくない。

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 20:44:42.64 ID:0tKMqMqe
松永久秀「せやな」

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/12(木) 12:24:42.75 ID:sNMXKtjp
三好長慶を書くといつの間にか弾正が主役になってるの多いキガスw

395 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/02/12(木) 13:04:07.90 ID:RewOE8VV
国盗り物語みたいに前後半で主役交代すればいけるかも

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/12(木) 16:36:44.79 ID:3NgPh+lS
長慶の場合は一次資料を俯瞰して研究できない状況にあるから何ともしがたい
確か東寺が大量に持ってるけどほとんど未公開に近い状況なんじゃなかったかな
今東大の史料編纂所が頑張って活字化してるみたいだが

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:00:35.02 ID:Ae1GIFRU
>>396
すごく興味あるなあ
東寺って凄く格式高いとこだし、おいそれとホイホイ公表したがらないのかな
もったいねえ

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:13:01.02 ID:lIexy3PB
皇室関係も多いし東寺側も慎重になるだろ

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:21:17.75 ID:7SRVjEeI
東寺の持ってる文書は、ここでその内のかなりの数(百合文書)の写真が見られるよ。
差出・宛・年月日・キーワードは入力してあって、検索できる。
翻刻が終わってないから、自分で文字起こしするしか無いけど。

ttp://hyakugo.kyoto.jp/

百合文書は、所蔵が京都府で、東寺じゃない。売っちゃったから。
東寺文書自体は、他に京大に流出したのとか、東寺が手放さなかったのとか、いろいろあるけどね。

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:22:58.92 ID:7SRVjEeI
連投になるけど、三好は最近『戦国遺文三好編』の刊行が始まって、文書が通観できるようになりつつある。
ただ、日記史料とつきあわせて読まないといけないから、そもそも研究が難しいのよね。

江口の戦い

2015年02月10日 18:45

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 04:29:36.01 ID:9EBoU/Mx
細川晴元とその近臣三好宗三(政長)は、三好長慶と対立し、ついに戦端が開かれ摂津において対峙した。
天分18年(1549)5月28日、細川晴元は三好宗三の後援のため摂津三宅城に入る。
すると6月17日、三好宗三は味方の諸勢を催促して三宅から、中島の江口に陣取った。
三好長慶はこれを見て言った

「愚か者め。夏の虫が飛んで火にいると言う古人の言葉があるが、まさにこの事だ。
先手を打って三宅と江口の間の通路を封鎖せよ!」

そう、十河民部(一存)、安宅(冬康)、および淡路衆に命じ別府の川方に陣取らせたため、
たちまち宗三軍への兵糧を運搬する通路が塞がった。これに三好宗三は、川船を使い
近江の六角勢の救援を要請した。

6月23日、三好長慶は中島に諸士を集め評議をした。ここで十河民部が言った
「進撃するのに何の異論がありましょうや!義を見てせざるは勇なきなりと申します。
敵が攻撃を我等に躊躇させるほど勇猛であるとも聞きません。一方で、もし江州(六角)勢が
到着すれば、味方が利を失うことも考えられます。
急ぎ、京北の諸勢は三宅城を攻め立て、細川晴元に腹を切らせ、そこから江口に押し寄せ
平攻めに攻めて勝つ。何と心地よいことではありませんか!」

これに一同同意した。長慶は、主君晴元に腹を切らせるのは本意ではないと思案していたが、
十河民部はそこから終夜軍勢を進め、翌24日には河内衆、三好方衆は一気に江口に陣取った。

これに三好宗三勢は一戦にも及ばずたちまち崩壊し、日中に江口から逃げ出した。
長慶勢は彼らを追撃し、宗三勢は三好宗三入道、先の将軍ご一家天笠弥六、高畠甚九郎、平井新左衛門、
田井源助、波々伯部、豊田弾正といった名のある人々を始め、八百人が討ち死にしたという。
この敗戦は誠に天罰自滅であると、世間はそのように言った。

この三好宗三の敗戦により、榎並城に籠もる右衛門太夫、河原林衆対馬守をはじめとした軍勢も
方々へ落ち逃げた。この人々の親類際しの嘆いたこと、なかなか言葉にも出来ない有り様であった。

この時江州六角勢は京の山崎まで進出していたが、そこで江口合戦の結果を聞きみな帰国した。

問題の細川晴元は、三宅城にいたたまれず、味方の淡路衆に守られ丹波越して京に入ったが、
京も危険だと判断し、将軍義輝および大御所義晴を連れ近江坂本へと逃亡した。

(細川兩家記)

三好長慶が畿内の主導権を掌握した。江口の戦いについての逸話である。



三好長慶とカンカン石

2012年12月19日 19:57

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/18(火) 20:39:50.61 ID:NRw1bfoA
三好長慶の息子の三好義興は智勇に優れた男で三好家の跡継ぎとして将来を期待されていた。
ところが、重臣の松永久秀の陰謀により、22歳の若さで毒殺されてしまった。
息子を失った三好長慶は悲しみで嘆くあまり、背中が丸くなってしまうほどであった。

亡くなった三好義興は芥川の霊松寺に葬られた。
長慶は瀬戸内海の屋島から鉄のように硬い石を取り寄せて義興の墓にした。その墓は
叩くとカンカンという金属音が鳴り響くので、人々はその墓石をカンカン石と呼び、
今でも三好長慶がカンカンに怒っているのだと噂しあった。




809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/18(火) 20:45:32.00 ID:lyCvzWs3
叩くなよ・・・w

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/18(火) 20:50:13.30 ID:EMnqOhHK
墓石を叩けばそりゃカンカンに怒るわなw

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/18(火) 22:13:41.89 ID:MFrnsNcW
庵治石かなぁ、写真見ただけではよくわからなかったけど
固いし鉄分多いから確かに、金属的な音はする

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/18(火) 22:19:40.29 ID:RpdeJRVA
ちょっと横になるわ

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 00:13:31.71 ID:x7B2mBNB
サヌカイトだろ
実際楽器にしたりするし

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 02:21:18.55 ID:HIPuai2Z
墓石叩くなんて思いついたこともないわw

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 03:01:48.67 ID:4DTDAUTF
811だけど、元墓石屋なのでね、
石見本同士を叩き合って石の良し悪しを客に教えてたりはしてた

>>814
ちょっと趣旨がずれるけど、鼠小僧でぐぐって墓石にまつわるエピソードを読んでみると良いかも
昔からの墓地の、古い墓の蓮華が欠けているのも博打好きの仕業であることが多い

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 04:39:07.07 ID:F6PdzPoT
ムカつくやつの墓石だったら叩いたり蹴ったりしたい
これ長慶さんが息子の墓を叩いたわけじゃないでしょ?

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 11:35:48.04 ID:HErw0SDC
>>815
アカギの墓が削られてるって話に元ネタあったのか!

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 14:45:06.68 ID:0YsdnxQ6
この武将に参拝すると、この病気が治る、の延長で
墓石を削れば薬になる、て信じられてたのでは

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 14:57:01.73 ID:Ane5dlL0
「今でも長慶さんが怒ってはるせいで、叩くとカンカンって音がするんやで」ていう浪花ギャグでしょ。
実際に皆が叩いてたわけじゃないと思うよ。

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 16:01:13.71 ID:52/mes1M
杉原常陸の墓は「おこり」に効く、ってアレか

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 16:10:35.02 ID:iU+P6x/1
削れば手癖の悪さが治るお墓はないのかね?

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 17:23:32.62 ID:2NOO+mdG
森の石松の墓なんかも酷かったらしいな

>>821
なんでも阿弥陀ヶ峰の天辺にある墓がそうだとか…

長慶内証の様体、笑止に存じ候

2012年10月14日 19:31

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 22:49:27.35 ID:8Ay9UkVa
「おん折紙、拝見せしめ候。よって榎並給人方の事、違乱を止めらるるの由、しかるべく存じ候。

長慶内証の様体、笑止に存じ候。心中をも存ぜず候いつれども、おのおの心得のため、申し候いき。

それについて給人方田地の事、そのかくれあるべからず候。さりながら、ご不審のこと候はば、
給人衆の帳をごらんあるべく候。なお寿清へ申し渡し候間、一二能わず候。恐々謹言。

九月十四日  松弾  菅若 」


(お手紙、拝見しました。榎並の侍衆の騒動を鎮圧されたこと、当然の処置であると思います。

長慶の内々の様子は、笑止千万と言えましょう。本人も、もう何を考えているのか分かりませんし、
皆さんにも(こんな状態だと)心得ておいて欲しいので、申し送っておきます。

それはさておき、榎並衆の土地争いについては経緯が明らかですが、ご不明の点があれば
連中の知行簿をご覧ください。その他については使僧の寿清に伝えてあるので、一々書きません。

九月十四日 松永弾正より 菅若狭守へ )



三好長慶の晩年、永禄六年前後に出されたと思われる、松永弾正久秀から野口(菅)若狭守冬長あて書状。

主君の末弟への手紙で、肝心の主君を呼び捨てにしたり「アイツ何考えてるやらww」とか
書いちゃう松永先生、マジ爆弾正。誰のせいで『笑止』な事になったんですかねぇ・・・




827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 23:09:42.63 ID:pMAA7Nd0
>>826
ここでの「笑止」は笑止千万じゃなくて、「困っている」と訳すべきだと思うよ?
つまり

「長慶の病状が思わしくなく困っている。」と解釈すべきかと。
「長慶」って言っているのも、野口冬長が長慶の末弟で、一門だからかと。

つまりこれは、身内で長慶の様子を心配している書状だと考えたほうが良いかと。


828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 00:56:44.62 ID:FGqlsFMT
なるほど

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 07:44:49.87 ID:OKRohXtu
>>826
諱の呼び捨てに関して最近面白いものをみた。

丸島和洋氏のつぶやきをtogetterで纏めたものの中で、
諱呼び捨てには敬意を表してるものもあるそうだ。

http://togetter.com/li/272725

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 09:42:21.59 ID:rJj6x35+
政宗「やっぱりな!」

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 09:50:20.67 ID:fI6j+dl6
>>827
当時の書状の、笑止は「困ったこと」、笑止千万は「非常に困ったこと」だからな
自分も知らなかった頃は意味が通じなくて困ったことがある

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 11:06:16.03 ID:uIMmpfMc
日本語って難しいね

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 12:08:13.84 ID:84GTKurf
今なら「笑えない」って言葉が近いのかな

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 12:33:11.37 ID:65cOsElr
>>834
昔TERUが送った書状に「笑止千万」って出てるのを見て
「この状況で他人バカにするとかクズだなこいつ」って思ったけど
「非常に困った」の意で捉えればちゃんと意味の通る文章になったわ。

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 12:43:17.47 ID:7B/3+ACs
昔と現代で意味の変わっちゃった言葉があるんだな

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/14(日) 13:04:55.17 ID:fI6j+dl6
今の辞書にも、笑止千万=2:たいそう気の毒な様。って書いてあるけどね

自分も忠興が小笠原親子戦死を国許に報じる書状に笑止千万って書いてあって
嫁さん憤死しちゃう><ってびっくりして調べて、非常に残念な事だと訳すんだと知った口だけど

三好長慶・キリスト教への理解と保護

2012年08月11日 20:56

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/10(金) 23:25:48.50 ID:/pNXRL/B
キリスト教への理解と保護 出典『今谷明』戦国三好一族 から抜粋

日本人修道士ロレンソのポルトガルへの報告書によると
三好長慶自身もヴィレラを京都立売町の三好邸にて引見し、布教許可の制札を与えたと言う。
朝廷や公家・寺社など、いわゆる権門がキリシタン排除一色に固まっていたのと異なり
長慶には天竺から来たと言う異形の僧侶を嫌悪する事はなかった。
さきに義輝が免許を与えたのも長慶の黙許があった為と言われている。
とまれ、将軍、長慶らの布教許可と保護は迫害に泣かされていたヴィレラとキリシタンの人々に
大きな希望を与えた。

~中略、逸話まとめの結城弥平次のキリシタン改宗と久秀の話が間に入り

結城氏らを受洗させた後、ヴィレラは飯盛城に三好長慶を訪れた。
フロイス『日本史』によれば
~国主は彼を大いなる愛情と慇懃さをもって迎え、ゆっくり聖なる副音の説教を聞き
長慶『確かにこのキリシタンの宗門のことは、すべてが余には非常に良いものと思われる。
   余は出来る限り、教会とキリシタン宗団を擁護しよう』と述べた
国主がこのように好感を抱いたので、その家臣(結城)達ははみな、非常に慰められ意を強くし安堵した~
と記されている。このように長慶自身の言葉を直接記したものは、長慶自筆の書状以外極めて珍しく
西洋の記録であるからこそ残ったと言える史料である。
いずれにせよ、長慶が久秀と異なってキリスト教に理解と保護を示していた事は明らかである。

しかし長慶自身の精神生活は法華宗の熱心な壇徒であって、また酒井南宗寺・笑嶺宗訢に参禅する
仏教信仰が基本生活であった。
流石は長慶のバランス、当時の宗教勢力全て網羅してるわ。


52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/12(日) 19:46:25.85 ID:2zKBIWLS
>>4
追記、8月10日は三好長慶公の亡くなった日でござんす。



年始の贈り物・巡る

2012年01月19日 21:59

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/19(木) 16:22:15.60 ID:tSrsllzw
天文20年(1551)正月24日、
本願寺十世・証如は、京兆家当主・細川氏綱からの年始の祝儀(贈り物)を見て、思わず『呵々(かか)』と
笑ってしまった。

それは贈り物が粗末だったから、ではない。氏綱が送ってきたのは折(曲げ物に入れた詰め合わせ)10合で
あったが、その内の5合は、なんと当の証如が10日ほど前に、同じく年始の祝儀として三好長慶
贈ったものであったからだ。

つまり証如の贈り物は


  証如三好長慶細川氏綱
   ↑           │
   └───────┘

と、10日ほどの間に巡り戻っってきたわけである。

お歳暮などで今でも有りそうな、贈り物が戻ってきた、というお話。

(天文日記・正月二十四日条)




769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/19(木) 16:33:24.07 ID:cWTGX6Rq
我が贈り物をたらいまわしとは殺す!恥をかかせやがって殺す!

証如三好長慶細川氏綱

ってならないだけ平和でよいですなぁ


770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/19(木) 18:44:12.55 ID:FaMnoDg1
三好細川間で更に誰か挟まってたりしてw

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/19(木) 19:19:58.25 ID:kSHdk7Xb
  証如─5→三好長慶─5→細川氏綱
   ↑              │
   └────10────┘

なのか
  証如─5→三好長慶─10→細川氏綱
   ↑              │
   └────10────┘

なのか気になる

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/19(木) 19:20:48.15 ID:n67tShpP
道の途中で強奪されたり・・・おにいちゃんの寿命がまた一年短くなります

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/19(木) 20:31:58.95 ID:X9FkdHmT
北条氏綱「あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!

     『俺は長尾の為ちゃんから鷹を二羽貰おうと思ったら
      いつの間にか一羽になっていた』

北条氏綱「な…何を言ってるのかわからねーと思うがおれも何をされry」


791 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/01/20(金) 12:18:23.95 ID:w9Xt6lnx
>>768は朝日新聞の日曜書評欄に紹介されていた桜井英治『贈与の歴史学
儀礼と経済のあいだ』(中公新書)に載っている話みたい。Amazonによると、

<一年中贈り物が飛び交い、損得の釣り合いを重視する中世人の精神を探り、
義理や賄賂といったイメージをまとい続ける贈与の源泉に迫る>

だそうだから、ここの住人には面白そうな本だ。いつも思うが、戦国時代に
他家の領内を通って進物や書状を届ける(織田信長や長尾景虎は自ら上洛も
しているが)ってどんな状況だったんだろうか?逸話レベルだと明智光秀の
毛利家への使者が秀吉陣中に迷い込んで講和&中国大返しとかもあるけど、
意図的な暗殺や捕縛だけでなく野盗、事故、病気、路銀が尽きた等々あった
だろうし、そのうえで外交官としても振る舞わなければならんし。

三好氏躍進の秘訣

2011年10月06日 22:06

5 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/06(木) 12:31:20.92 ID:c5QU8yA0
今井用水相論に絡めた畿内の政争と事情 三好氏躍進の秘訣  

1553年 三好長慶が畿内に覇を唱えてから4年後
足利義輝は近江朽木から京都霊山に城を構え京奪還作戦を画策、その頃~

~京都・西岡~
西岡は小規模国人の乱立密集地帯で互いに持ちつ持たれつの関係で色々な揉め事が多かった。
今里村と上植野村の水論争いは、隣村の国人と茨木長吉(細川氏綱家臣)が仲裁していた、のが再発。
省略して書けばこうである

今里村方『洪水で川の瀬が変わったら、ちゃんと井上村中島の井出三段目下『まで』
    堀り取る事が慣習だったよね?なんでそれ無視した川筋掘ってんの?うちん所の水少なくなっちゃうじゃん』
上植野村方『ち、うっせーな』
今里方『秋田氏と長井氏が上植野村を支配していた時は問題なかったよね~』(両氏は没落したらしい)

~京都東山、三好長慶陣陣営~
三好長逸『なんか西岡で用水栽論で揉めてるらしいけど』
三好長慶『えっと、何処で?』 
長逸『今里村と上植野村』 
長慶『え?あれって氏綱家臣の茨木が仲介して終わったんじゃないの?』
長逸『それがカクカクシカジカ』
長慶『ちょっと公方との合戦で手が離せないから(忙しいし無理!)
   細川氏綱さんの家臣の多羅尾綱知にお願いできる?って≪細川氏綱さんから≫言って貰えないかな』
長逸『あいよ、じゃ、ちょっくら使いを走らせるわ』

多羅尾(何で終わった事を俺が、めんどくせーな、まあ適当にやっとくか)『おい、何で今更終わった事を蒸し返すんだよ』
今里・上植野『うるせー!外野は引っ込んでろ!細川家臣はお呼びでねーよ!タラオの癖に!』
~中略~
多羅尾『とまあこんな感じで、どうも今里・上植野両氏に問題があるようで(俺は悪くねーし)』
長逸『了解、長慶に報告しとくわ(お前本当に仲介してきたのかよ)』 長逸『とまあ、こんな経緯だったようだ』
長慶『そうか、じゃあ次は≪三好長慶から≫直々の頼みって事で、もう一度だけ多羅尾綱知にお願いできる?』
長逸『まあ、これでも駄目なら…って事だな』
長慶『そういう事』

多羅尾(また俺かよ!別の奴に行かせろよ!)
多羅尾『今度は三好長慶の命で来たけど、本当、お前ら争い止めろ!な!』
今里・上植野『うるせー!外野は(省略)』
多羅尾『やっぱり彼等は聞く耳を持たないようで(俺は悪くねーよ、解ってるよな)
長逸『わかった!よっしゃ多羅尾、お疲れ!(細川の面子を潰してくれて御苦労!)ゆっくり休んでいいよ(多分次は無いよ!)』

長慶『さて、霊山城の方も少し落ち着いた、長逸、今里の能勢氏に三好長慶が直接赴くと言伝をお願いできるか
   それと、双方の村の申次と検使に実況見分させろ、両氏の絵図を確認して
   第三者である井の内村の百姓の証言をよーく聞いてくれ』

そして西岡に検使和久与助が実況見分をし、結果は当然ながら今里郷惣中の勝訴となった。
こうして、三好氏は下の者達から公平性・積極性を買われていき畿内の信頼を得ていく
武家の家督相続(例 和泉松浦氏)なども
『細川だと色々メンドクサイからもう三好長慶だけに相談して決めるわ』
長慶『次、君が相続ね』→松浦家『合点承知』 などなど

出典は『能勢家文書』『松前彰家文書』今里村の『手日記』
高槻の水栽論とはまた少し前 
長逸と長慶のやりとりは長逸の取次ポジを利用したフィクションです
まあ長逸から岩成とか更に下っぱに言ってるのが普通でしょう





三好長慶の作法

2010年12月23日 00:01

932 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/12/21(火) 23:35:18 ID:eOqZj02M
細川幽斎はあるとき、こんな事を語った

「私は連歌における作法の大切さを、三好修理太夫(長慶)殿から学んだ。

連歌の席において修理太夫殿は、まるで人形であるかのようにじっと座られていた。
膝の傍らには扇が、少し斜めに置かれていた。

夏の暑い時期などは、その扇をいかにも静かに右手に取り、左手を添えてそっと三、四間だけ
開き音を立てずに使い、終えるとまた左手を添えて閉じ、元の場所に置いた。

驚くべきことにはその置いた位置が、前と畳の目一つほども違っていなかったのだ。」


若き日の細川幽斎に感銘を与えた、天下人三好長慶の連歌の作法についてのお話。




933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/21(火) 23:52:26 ID:npjYFSs+
>>932
晩年はあれだったけど、やっぱすごい人だったんだろうね

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/22(水) 01:28:08 ID:IAUddHuX
超時空太閤H「誰じゃ!わしの陰口を叩いておる奴は!>>933お主か!」

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/22(水) 01:36:50 ID:UmiZs8RO
三好長慶って晩年、安宅冬康を殺して鬱病なった人だよね?

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/22(水) 01:59:34 ID:egFmaFqS
この人と弟が顕在なら下手すれば信長の出番が回ってこなかったかもしれなかった程度には凄い人だよ

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/22(水) 02:05:40 ID:2RrRhynu
三好長慶ってなんか微妙なんだよな
凄い人ってのは分かるんだけど…
中途半端な所で終わってるからだろうか?

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/22(水) 02:05:52 ID:bkl73xJg

長慶は子供を失ってからダメになりはじめたんだっけ?
やはりみんな同じなんだね
もし本能寺の時に信長だけが生き残ってたらどうなったかな

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/22(水) 09:28:04 ID:W+rPJZKY
むしろ、前と畳の目一つほども違っていなかったことに気づく幽斎さんが恐いわwww

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/22(水) 15:58:11 ID:1HhChuTH
石田三成さんなら、本当に畳の目を数えてそうだ。
「ふーむ、扇は前7列、左29列目に置くのが作法でござるか。メモメモ」

三好長慶生前の立願

2010年11月05日 00:00

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/04(木) 21:15:44 ID:JZGU5ubO
江戸時代に、四国の老父に語り伝えられていた話だそうだ。

三好長慶の母は長慶を孕んだ時大願を起こし、七夜の月を待ち誓いをなして曰く

『我が孕むところの子、男子ならば三好七代天下を持たせ給え!
女子ならば皇后の位に立たせ給え!』

として、領地である三好の河瀬に立って水を桶に汲み入れ頭から被り月の出のを
待っていた。
七夜の月が満ちる頃、祈りの験があり宿所に帰った。

やがて月満ちて長慶を産み、成長してついに天下を掌にした。
辺鄙なる阿波より出て天下を制するのは容易なことではなく、
これも母堂の立願があったおかげであろう、と言う。

また別の者の言うところでは、母堂がこの祈願をしたのは、夫である三好元長の
討死を聞いたとき、憤ってそうしたのだ、とも伝わる。


三好長慶生前の立願、と言うお話。




139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/04(木) 21:35:32 ID:+LRFfLbu
弟の時はやらなかったんだろうな

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/04(木) 22:03:50 ID:QnPFemwB
兄弟が争うようになっちゃうだろw

三好長慶:己を鍛える為の荒行と四国巡礼

2010年08月27日 00:00

772 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/26(木) 11:38:20 ID:xvLXkxUx
知ってる人は知ってる話なんだけどソースが見つけられなかった
多分阿波の史記か何かからの出典だと思うけど、ちなみに名将言行録のHP転載です

長慶は17才のとき、これより3年の間、求聞持の行(きゅうもんじのぎょ
う)を行じる(ぎょうじる)と宣言した。

老臣たちが、一体何のために、と尋ねると、長慶は、武道の誉れを得ることを願って、と答える。
老臣たちはそれを聞いて、三好家にお生まれになったからには、武門の名利
も果報も十分得ることができるに違いないのに、なぜ荒行をなさる必要がある
のか、と重ねて問うた。

長慶は答える。
ゆくゆく自分に名利も果報もあるだろうというのは、推量に過ぎない。軍記
には、新田義貞も推量を嫌ったということが書いてある。
自分はまだ若く、将来のことは一体どうなるかわからない。わからければ、
悪い場合に備えるべきだろう。
もとより、天の果報がある人ならば、祈らずとても幸運に恵まれるものだろ
うし、逆に果報のない人は、祈ったところで叶うものでもあるまい。これが天
の理だ。
生まれつき果報に恵まれた人は、例えて言えば、自然の木のようなもので、
自然の木は、いくら風に吹かれても滅多に枯れることはない。
しかし、人が植えた木は、最初に添え木をしておいてやらねば、少し風に吹
かれても枯れてしまうものだ。
自分がこれから求聞持の修行をしようというのは、この添え木をするための
ものだ。

そう言って長慶は、17才から行を始め、19才の6月に成就して、さらにそれから年末まで、四国巡礼を行ったという。
*「求聞持の行」:原書では読みが「きゅうもんじ」とあるが、今日一般的に
は「ぐもんじ」と言われる。弘法大師も行じたという密教の秘法。

長慶は18歳の時に京に居る所からこの逸話が何処まで本当なのかは解らないけど
父親の元長が一時期祖谷渓方面に行った事もあるのでその辺りの話と被っているのかもしれない
長慶はよく天才型に捕えられがちだけど、どちらかと言えば努力家であった事は間違いないだろう。

三好長慶:己を鍛える為の荒行と四国巡礼




773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 11:52:03 ID:uGehEkQh
大歩危(おおぼけ)小歩危(こぼけ)をめぐったから
早くぼけたのか

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 11:58:26 ID:NfgTEu6M
某C宗我部がぼけたのもそこのせいですねわかります

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 17:53:28 ID:tBAZxyFv
>>772
「南海治乱記」か「細川両家記」のどっちかで読んだことがある。

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 19:54:18 ID:mibMznBm
>>772
細川政元が異常に修験道や兵法に傾倒したのと、つながりがあるんだろうな

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 21:48:03 ID:oq+d7Nzt
大歩危小歩危か・・・・
あそこはなー、出るんだよなー

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 22:14:55 ID:qC/bmQyE
落ち武者の亡霊が・・・・

779 名前: [―{}@{}@{}-] 人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 22:38:39 ID:uGehEkQh
>>778
自分の父が三好の祖父から聞いた話
祖父「徳島は、大師様の力で幽霊は出現しない!」
父「おお、何と合理的な」
祖父「幽霊話は全て、阿波の狸がバカしたものだ。
実際、俺の父さんも渡し船に乗っていたら、狸にバカされていた。
あと、近くの山には天狗が出るから気をつけるんだぞ」

780 名前: [―{}@{}@{}-] 人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 22:44:14 ID:uGehEkQh
ちょっと訂正

祖父「徳島には、本来幽霊話はない!」
父「おお、何と合理的な」
祖父「なにしろ、大師様が結界を張ってくださったからな。
幽霊話は全て、阿波の狸がバカしたものだ。
俺の父さんも渡し船に乗っていたら、狸にバカされていた。
あと、近くの山には天狗が出るから気をつけるんだぞ」

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/26(木) 23:57:51 ID:mibMznBm
>>780
四国はつい最近まで拝み屋が尊重されてた地域だからなw

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 00:31:06 ID:DjLKKu58
S徳院様「明治ぐらいまで四国が本拠地でした。今は何故かサッカー神社に居ます……」

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/27(金) 09:31:58 ID:E8dz2xxU
>>782
U真「良かったじゃないですか。こんど蹴鞠トークで盛り上がりましょう!」

三好長慶の宗教政策

2010年06月06日 00:01

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 23:29:59 ID:xRQ4UIfk
天文元年、木沢長政を河内国飯盛山城に攻め滅ぼさんとしていた三好元長(法華門徒)が、
元長の主君細川六郎晴元の陰謀で決起した一向一揆の襲撃を受け、逆に堺で自害に追い込まれた。
さらに晴元は自ら擁立していた足利義維や三好元長の子どもたちをも殺害せんとし、
これには阿波守護細川持隆の抵抗で失敗したものの近江国坂本に逃れていた義維の兄、第十二代将軍義晴を推戴して
山城に連れ戻す。

しかし、一向宗という宗教勢力は到底晴元の手の内で抑えきれるものではなく、
いわゆる天文の錯乱と呼ばれる畿内一円での一向宗勢力の暴走を引き起こしてしまった。
これを鎮圧するために晴元・長政は今度は法華宗門徒を利用して山科本願寺を襲撃させ、
次には法華宗の蜂起が制御できなくなると六角定頼と比叡山の力を借りて武力鎮圧した(天文法華の乱)

……まあ最初から六角の力借りとけよ、という状況だが、ともかくこの時期の畿内の宗教事情は大混乱だった。

さて、一向宗と法華宗を使い捨てにして武力で押さえ込んだとはいえ、まだまだ両者とも力を温存している。
このままでは細川政権の基盤も揺らぎっぱなしでいつまた噴火するかわからない。
さてどうしたものか、と晴元が考えたとき、一人うってつけの人物がいることに気がついた。
そう、最初に使い捨てにした三好元長こそ法華宗の大檀那であり、その遺児千熊丸が阿波に隠れ潜んでいるではないか。

ああこれは生かしておいて都合がよかった、ということで早速晴元は阿波から千熊丸を召しだして宗教勢力との調停を命じ、
その期待に応えてわずか12歳の千熊丸は見事に一向宗との調停を成し遂げ、宗教的騒乱を収束させたのだった。

この時、奪われた父の旧領回復どころか恩賞すらなかったもんで(助命してやるんだからありがたく思え)、
いきなり千熊丸、即ち後年の長慶の謀反フラグを順調に打ち立てていく晴元公だがその辺はよしとして。

政界デビューからして宗教対策であった三好長慶の宗教的スタンスは、極めて信仰に寛容なものだった。
三好家は法華門徒であり、長慶もまたその例に漏れなかったが、個人としては臨済宗の大林宗套に深く私淑していた。
父の仇である一向衆とも安定した関係を築く一方、洛中や奈良の寺社にも配慮を示した。
キリシタンにも寛容であり、三好政権下の許可のもと弘治末年から永禄初年までには堺を拠点に伴天連の布教が進み、
永禄三年には長慶幕下の七十数人の諸将がビレラの手により洗礼を済ませた。

少なくとも、三好家という国主のレベルではいかなる教派であれ信仰の自由は保障されており、
長慶が畿内を治めた約二十年の間は、その自由の下に宗派間の大規模な衝突はほとんど起きなかったのである。

三好長慶、ひろく万人の信仰を保障し宗教的平穏を保ったお話。

……長慶が死ぬと、とたんに三好長治とか若江三人衆とか高山親子とか宗教的DQNが暴れ始めるけど気にしない。




516 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/06/04(金) 23:39:49 ID:ehx1cKIL
長いから5行でまとめて!

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/04(金) 23:54:39 ID:kmMDQb8N
>>516
三好一族から
長慶を
抜いたら
何も残らなかった
というお話

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 00:04:10 ID:e6eAdsh1
>>517
こうやって逸話だけを鵜呑みにして調べようともしないで適当な答えをする
他に二人、宗教に寛容だったのが三好氏に後二人いる、答えてみろ

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 00:05:25 ID:Af17Ok2p
>>517
十河存保が悲しそうに戸次川の川縁で黄昏ています

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 00:13:52 ID:ZbzXsnAa
こんにちわ、三次秀次です。

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/05(土) 00:30:36 ID:I5hF4Huw
>>518
三好長治「呼んだ?」

三好長慶の逡巡

2010年05月18日 00:00

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/17(月) 00:27:31 ID:TibQdhBv
天文十八年六月、摂津国。
江口城を攻囲する軍の本陣で、三好範長(長慶)は攻撃命令を出し渋っていた。
別に敗北を懸念していたわけではない。一度攻撃命令を発すれば、直ぐにも勝利を収めるものと確信している。
実際、江口城を囲むまでの一連の合戦で、近江六角氏からの援将新庄直忠(直頼の父)を討ち取るなど、
篭城軍の戦力には大きな損害を与えていた。

むしろ、情勢は城攻めを長引かせれば長引かせるほど、三好勢に不利である。
城方――細川晴元派は更なる増援を六角定頼に求め、これに応じて一万とも二万ともいう六角勢が、
定頼の嫡男義賢に率いられて観音寺を進発したともいう。
季節柄、淀川の増水に遮られてこの大軍も容易には到着することはないだろうが、何にしても時間は大敵なのだ。

(攻めれば勝てる。攻めねば負ける。それは間違いない……とはいえ、なぁ……)

それでも、範長は江口城を落とそうという気が起こらない。
否、攻めようという気すら起こらない。
なんとなれば、

(父の仇とはいえ宗三入道は近しい一族……命を奪うようなことは、道義にもとることではないのか)

――と、いうことなのである。

この前年、主君晴元に三好宗三入道政長の排除を求めて容れられず、
これを不満として阿波勢挙げての反乱に及び、こうして宗三入道を追い詰めてみたとは言うものの。
どうにも、いざとなると殺害という決断には躊躇が出てしまう範長なのだ。

「お兄ちゃんどいて、そいつ殺せない!」

などと三人の弟(除く記録のない冬長)らは叫ぶものの、身内を平気で殺すならそれこそ宗三入道と同じこと。
そんな短絡的な――だが実際的な決断が、正しいとはどうにも範長には思えなかったらしい。
だらだら長引かせていれば降服してくれないかな、とか、
いっそ六角軍が近くに来たら理由をつけて包囲を解けるかな、とか、雑念が沸いていたのかもしれない。

というか、とりあえず冬康に「鈴虫育てよーぜ兄者」とか言われる筋合いないと思うんだ、うん。

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/17(月) 00:28:55 ID:TibQdhBv
……結局この「総大将の不決断」から生まれた膠着は、脳筋一存が痺れを切らせて手勢だけで突入する、
という異常事態をもって最終的に打破されることになる。
一存の正面攻撃に安宅隊が慌てて続き、さすがに弟たちを見捨てる選択肢はない範長が総攻撃を断じたのだ。
果たして江口城はたった一日の攻防戦で陥落し、宗三入道は討ち死にしたとも、敗走中に川で溺死したともいう。

この三好宗三入道の討ち死にが中央政界に及ぼした影響は極めて大きなもので、
有力かつ忠実な家臣を救援できず、みすみす失った細川晴元の政権は求心力を急速に失い、
近江での亡命が常態化してこの後ほどなく三好長慶の政権に取って代わられてしまうことになる。

しかし、この『一族殺し』は勝者である三好政権にも巨大な悪影響を与えたことは見逃せない。
概して三好長慶の兄弟たちは精神的にナイーブな人物が多く(除く脳味噌筋肉な一存さん。どうにも暗い話がない)、
この江口の戦いと天文二十二年の阿波国守護細川持隆(三好兄弟の恩人だった)殺害を経て、
三好兄弟の活動は極めて守勢に立つ類の元へと変質していくことになる。

事実、後年に三好三人衆や松永久秀近辺からは細川晴元や足利義輝殺害の案が度々出されながら、
長慶時代の三好宗家がそのプランに食指を動かすことは決してなかった。
長慶本人はたびたびこの二人の敵手から命を狙われながら、直接的な報復はなされることがなかったのだ。
その結果、三好政権は度々晴元、義輝に従う旧勢力の反攻を受け、基盤を固めきれずに終わることになる。

乱世の姦雄、と称される一人の踏ん切りの悪すぎるお話。




803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/17(月) 07:01:44 ID:jOWnqalp
長慶さんはホントに苦労人ですなぁ・・・
なんか(´・ω・)カワイソス

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/17(月) 08:02:10 ID:zX75R5zG
野口冬長がカウントされなかったかわいそうな話ですね分かります

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/17(月) 11:03:52 ID:azuleDp5
>>801-802
超絶歌人だったりするし、ほんま繊細なところがあったんだろうな。
地元じゃ兄弟してかなりのコトをしでかして中央へ出ていった(守護殺し)し
勢力の広げ方も一代の傑物、奸雄には違いないんだけど

もし長~~生きして織豊政権の下で隠居したら南部信直や秋田実季ちゃんとお友達になれたかもしれない


806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/17(月) 14:27:10 ID:DGdsolJy
長慶の性格から、悪い話とは少し違う意味合いだと思うけどなw
恩人の細川持隆も三好義賢を殺そうとして結果返り討ちだからなぁ
平和になって阿波の政治ほったらかしで京に上って
阿波は義賢に任せっきりだったとも言われてるし
仇打ちが目的なのに何故か下剋上の権化と呼ばれ悪人扱いされる三好一族だが
それを言うなら、奸雄と言うならKIZAWAさんは何だって言うんだよw

『恍惚の人』

2010年01月06日 00:05

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/05(火) 00:56:39 ID:iOLtVnQl
天文元年(1532)秋、七夜の月の下、阿波三好川の川辺で水垢離をする女性がいた。
「…なにとぞ、三好七代のうちに天下を持たせたまえ……」

彼女の夫、三好元長は細川晴元の政権奪取に多大な貢献を為したが、その勢力を恐れた
晴元は、一向宗の力を借りて元長を堺の顕本寺に攻め、殺害した。
元長の祖父・之長も細川管領家の家督争いに介入し、永正6年(1509)、如意ヶ嶽の戦いで
長男であり元長の父である長秀を失った。さらに永正17年(1520)、京等持院で敗れ、
次男・三男とともに処刑された。

小笠原分家の義長が阿波三好郡に住したのに始まる三好家は、三代・之長から三世代に
渡って非業の死を遂げたことになる。
これを憤った元長の妻は、「自分の孫の代までに、三好に天下を取らせてくれ。」と願った。

彼女の願いは、天に通じた。
四男は、十河家の養子となって一存と名乗り、『鬼十河』と呼ばれ、恐れられた。
三男は、安宅家の養子となって冬康と名乗り、淡路の水軍を支配した。
次男は、三好義賢または物外軒実休と名乗り、阿波・讃岐を牛耳った。
そして長男は、修理大夫長慶と名乗り、仇敵・細川晴元を追放して幕府の実権を掌握し、
彼を『天下人』と呼ぶ者さえいた。

だが、天は三好家の男たちの運命を変えようとはしなかった。
永禄4年(1561)、十河一存が、松永久秀と湯治に出かけた際、落馬がもとで死んだ。
永禄5年(1562)、三好実休が、畠山高政との戦いで戦国武将として初めて射殺された。
永禄6年(1563)、長慶の嫡男・義興が、芥川城で変死を遂げた。

相次ぐ肉親の死に長慶の心身は病み、永禄7年(1564)5月、あろうことか久秀の讒言により
三弟・冬康を誅殺した。この暴挙はむしろ長慶の苦悩を深め、同年7月、長慶は世を去った。


作家・有吉佐和子は、認知症に正面から取り組んだ意欲作の題に悩んでいた。さまざまな
文献に当たるうち、江戸後期の大学者・頼山陽が書いた『日本外史』の、三好長慶について
書いた記事に目が引かれた。

「時に長慶、老いて病み恍惚(とぼける・ほうける)として人を知らず。政を久秀に委ねる。」

その小説、『恍惚の人』は大ベストセラーとなり、『恍惚老人』は当時の流行語になった。




493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/05(火) 03:24:35 ID:rWk2kxsi
>>492
三好氏の一族ってのは長慶はじめ優れた武将ぞろいなんだけど、「運」というものには
とことん見放されている感があるんだよね。

一応長慶は晩年まで飯盛山で裁許をやってるんだけど(久秀と長逸で飯盛山に訴訟を取り次ぎしてる)、
後世に描かれた史料の描写なんかを見ると、嫡子を亡くして以来は40代前半にして
めっきり老け込んでしまった印象を受ける。

三好長慶 用水水論の裁定

2009年11月29日 00:27

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/28(土) 15:15:59 ID:Ox4vkaGz
内政でちょっとイイ話?
三好長慶 用水水論の裁定

摂津国や山城国の国人達が水論の裁定を求めて、何度も芥川山城へ文書を提出していた
芥川山城は地元の水論の裁定場となっており、政庁としての側面も帯びつつあった。
天文23年頃より村同士で用水水論が起こっており、長慶は最初、
地元の国人・土豪の判断を尊重したが
両村では長慶の被官クラスや土豪の裁定では納得しなかった。
三好家奉公・多羅尾綱知の書状によれば、長慶の裁定を仰ぎたいとの
村側の意見であったと言う
当時の村々が相論の裁定者として地元の土豪達ではなく上位権力の
三好長慶に期待していた事が理解出来る
このような大名が用水水論に介入して裁定した例として北近江の浅井氏などがある

また芥川下流の2つの村で水論が発生した。芥川の取水口をどこに置くかで
川を挟んだ隣村間で争っており
これに対し長慶は裁定を下し両村には長慶の裁許状が残っており、
勝訴した村は後世の水論の際にも根拠にしていた。
その資料は村を統治する権門側ではなく両村が大切に保管し、
高槻歴史資料館に展示されている
そして現在も長慶を「水の神」と称し芥川山城の主郭に彼を祀る祠を置いている

祠は1820年に築と時は経ってるけどね




725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/28(土) 17:44:15 ID:zp6qLNeM
>>724
こう言うところからも、三好は既に幕府から独立した畿内の上位権力として
成立していたんだよねー。
それもほぼ確立していたのに、三人衆と松永の分裂が台無しにしてしまった。

三好長慶、飯盛城での連歌の会にて

2009年08月05日 02:06

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/04(火) 12:37:35 ID:zyBpZBen
ちょっと悲しくなるお話

三好長慶は飯盛城で連歌の会をひらいていた
その会の最中、誰かが
「すすきにまじる芦の一むら」
と詠んだのだが、これになかなか後をつけられるものがいなかった
すると長慶がおもむろに
「古沼の浅きかたより野となりて」
と詠んだ
これは絶賛された
誰もがその歌に隠された長慶の思いを汲んだ
すすきにまじる芦の一むらのようなすでに場違いな存在の己は
やがて全てが芦の野となりゆく世におるのだ
長慶はそう詠んだのだ

永禄4年十河一存が、
そしてこの年三好義賢が、
さらにこれから先には三好義興が、
長慶の前から消えていき
三好の実権は梟雄の手に渡っていった
そんな永禄五年の三月の話である


関連
安宅冬康は常に連歌を好んだ人だった


81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/04(火) 12:59:54 ID:XWsY+65J
>>78
己が没落して行く運命を見事に描写した素晴らしい歌だ!

って絶賛されてもなぁ・・・

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/04(火) 18:15:17 ID:udyLFffK
>>78
句が逆じゃね?

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/04(火) 18:37:44 ID:oBSuYTot
>>83
連歌のやり方でいえば、あれで正解。

86 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/08/04(火) 19:12:20 ID:XCU4JVEn
>>78
>>81
松永長頼の兄「流石は我が殿。風流人ですなぁ」


257 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/08/09(日) 22:45:29 ID:cHKaIyh0
亀レスだが
>>78
この話、いい話系のとして流布されている場合もあるから注意

つまり、この連歌の会がちょうど久米田の合戦(義賢が戦死した)と同時期に開かれており、
上の句が詠まれる→義賢戦死のほうが届く→長慶泰然として下の句をつける
→連歌の会参加者に「弟死にましたから、今から出陣します」→大勝利
という風になる。

いじょう、堺在住の三好家のライトマニアからの報告でした。

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/10(月) 09:25:57 ID:FhAYe+Aa
>>257内心、発狂寸前かもしらんがそういう話の流れだと長慶……剛毅やね