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阿波の三善修理太夫殿は、十七歳にて思い立ち

2022年09月11日 16:51

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/11(日) 15:47:05.18 ID:QRvICXs9
阿波の三善(三好)修理太夫(長慶)殿は、十七歳にて思い立ち、
「当年より三ヶ年の間、夏百日づつ求聞持の法を行いたい。」と宣われた。
家老の者は「それは何のためにあそばされるのでしょうか」と申した。
修理太夫は「武道の誉のためである。」と答えられた。
家老は承り、「三好の御家に生まれられた以上、冥加も果報も一段目出度くあられるのに、
どうしてそのように勿体無い事を行われるのでしょうか。」と諫言した。
三好殿は言われた

「各々は私に、冥加も果報も有るではないかと言う。しかしそれは推量である。
(新田)義貞公の軍記においても、推量は嫌われている。
私は幼少であるので末の儀を知らない。知らなければ先悪しと覚悟致すのが
尤もであろう。

もとより果報のある人は、祈らずとも吉となるだろう。
果報の無い人は祈っても叶わぬだろう。
また祈らずして悪しくなる者もあるだろうし、突然祈って良い結果となる人もあるだろう。
これ皆天道である。

果報に生まれついた人は、例えば自然木のようなものだ。自然木は強風にあたっても
そのために枯れることは稀である。木は何れも同じことだと思っても、そこに柱を添えて
結わなければ、すこしの風でも当てられて枯れること疑いない。
私のこの度の求聞持は、植木に添え木を結う心なのだ。

信仰を評価しない人の言う事も理である。
「八幡の社人、愛宕坊主などが天下一の武辺者に成るだろうか」と、神を信じる者を謗る。
しかしながら、例えば金堀は金を掘るが、己の物とはせず人にもたらす。
またそのように信仰を評価しない人々も、いざ、自分の子が存命不定の病となり、或いは
主君の勘当を蒙るなど、何の道であっても難儀に及ぶその時は、諸神諸仏に立願する。
皆これ人間の迷である。

迷に便って身を助る。人が迷わず悉く悟るなら、僧や社人は餓死するだろう。
されば昔より名を得た人は、十人中九人、信心の無い人はない。
祈るも天道、祈らぬも天道である。」

甲陽軍鑑

甲陽軍鑑より、三好長慶による信仰心についてのお話



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お座敷を みれは大略神無月

2022年08月24日 18:33

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/23(火) 20:27:55.74 ID:JgZITNRM
今から六、七十年前のことだが、元理という俳諧の上手と聞こえた者があった。
三好修理太夫(長慶)殿の所での御会の半ばに、俳諧の発句を御所望なされた。
丁度その時、修理太夫殿の御前に居合わせた人々は皆入道であり、御俗体は太夫殿ばかりであった。
また、その頃は十月であったので、そのまま

『お座敷を みれは大略神無月』 元理

これに対し

『ひとりしくれの古烏帽子きて』 太夫殿長慶朝臣

寒川入道筆記



宗三に同意して長慶を敵になされたならば

2021年10月31日 16:59

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/31(日) 14:07:43.95 ID:HDlBXV01
天文の初めに細川晴元は王畿の兵制を定め将に命じた。まず三好筑前守長慶は河州にあって八幡表の先鋒とし、
三好入道宗三(政長)は摂州にあって山崎表の先鋒とした。これは京都に事あれば両口より攻め上り、
左右相救して功をなすためである。晴元はその権を執り中之島の城にあった。

ところで長慶の父海雲(三好元長)と同族宗三は権を争い常に不仲で、故に海雲が堺で一揆のために死亡したのも
宗三のなした事と思われていた。長慶は今また、宗三を退けて泉州河州摂州を共に自ら権を取らんとする。
しかし晴元はこれを許さず宗三と同意した。長慶は人を遣わし説いて曰く、

「我が祖が代々戦場に屍を晒したのも、わたくしの事ではありません。すべて公儀のために忠を尽くしたのです。
加えて管領澄元(細川澄元)が卒しなされて御家は滅亡なさるはずを、我が父元長入道海雲は甲斐甲斐しく
晴元を13歳になられた時に取り立て主君とし、高国(細川高国)と戦って勝ち、澄元没後の御憤を散じさせて
晴元に会稽の恥を雪がせました。

宗三は我が一族ではありますが、阿波の好みを捨て高国を輔佐して当家を滅ぼさんとしました。
その暴悪の逆徒なのですから、例え一命を御助けになることはあっても何故家臣となして国政を司らせるべきでしょうか。
これはただ、晴元が理に暗く海雲の忠を御忘れになっているのです。

私は不肖であるとも宗三の積悪を征して亡父海雲の憤りを晴らすことを望みます。
私は晴元に対して忠を忘れてはおりませんが、晴元がもし宗三に力を合わせて同意なさるならば容赦はしません。
これはまったく私の罪ではありません」

晴元はこれを聞かずに宗三と同意して長慶を敵とし、讃州に触れて軍勢を召した。讃州の諸将は議して曰く、
「晴元がもし長慶に同意されたならば事は行われるだろう。宗三に同意して長慶を敵になされたならば、
石を抱えて淵に入るようなものだ。宗三は武功があるとはいえ、大事をなすには不足である」

諸将は事を左右に寄せて遅参した。植田氏は十河一存と同意し、寒川氏も近年三好家に恩があり晴元の催促に従わない。
安富氏は去る12年11月に公儀のために淡州で死にその後は軍用に欠乏し郎従は不足して出ず、
香川氏は老衰により兵衆を出すと言いながら事寄せてこれを果たさず、各々時勢を考えて上洛する者はいなかった。

――『南海通記

こんな直球で言ったらそりゃ絶縁だよねっていう
三好政長細川高国を輔佐した事実はないのでそこは差し引かないといけない内容だが



この四子の智謀勇力は万人に勝り

2021年10月11日 16:03

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/10(日) 17:53:33.02 ID:waUK1rNR
一、三好氏の祖は新羅源氏小笠原次郎長清の裔である。頼朝公の平家追討の
後、阿波の守護職を賜り信州より当国に移る。これを阿波の小笠原と称す。
三好郡に住する故に代々の後に三好を氏とした。累世創業を立てんと欲して
戦場に死を致すこと三代。

(中略)

天文2年3月、之長入道喜雲の長子筑前守元長入道海雲、泉州堺浦顕本寺に
おいて一揆のために自殺す。その子が三好筑前守長慶である。

長慶は幼少より深く憤り、一度天下を定めんと欲す。故にその所為の者群に
出ること幾ばく多し。18歳の時、求聞持の法(記憶力増進の修法)を修め
る。これは武門興隆を祈ることである。

天文2年に父海雲没してその家を継ぎ、兵を起こして王畿に出て四方に発向
し、敵と戦って勝たずということなし。ついに洛に入って天下の成敗を宰り、
国家の権柄を制した。

そのニ弟彦次郎之相、後に豊前守義賢と号す。これは阿波屋形の執事である。
後に物外軒実休と号す。三弟安宅摂津守冬康は淡州安宅の家を継ぐ。歌道の
才人である。また“賢徳(賢明で徳のあること)”の名あり。

四弟又四郎之虎、これは十河左衛門督一存である。讃州十河の家を継いだ。
大剛にして大力なり。故に“鬼十河”という。また容貌は猛なる故に、世人は
これを真似て面体を作った。これを“十河額”という。

この四子の智謀勇力は万人に勝り、心を一つにしたので、強敵を挫き暴寇を
攘い、天下の人心を誘い我に服させた。故に京師に入り王業を輔佐し、将軍
の威令を奉行し、20余年天下を安全ならしめて権柄を執り給うのである。

一、三好長慶の兄弟は、多い中でも皆一品ずつ備わった名将である。

長慶は智謀勇才を兼ねて天下を制す器である。豊前入道実休は、国家を謀る
謀将である。十河左衛門督一存は大敵を挫く勇将である。安宅摂津守冬康は、
国家を懐く仁将である。

兄弟4人一手ずつ生まれついた故、天下の乱を救って暫く静謐したのである。

――『南海通記



わらわが身籠った子が男子なら

2021年10月09日 15:15

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/08(金) 19:54:40.27 ID:C5mbXJku
老人夜話記

四国の老婦たちが口づから語り伝えて曰く「戦国の時に豪傑の家に
生まれては、女子といえどもその志は堅固にして願うところ高し。

三好長慶の母堂は長慶を身籠り給う時に大願を起こし、七夜の月を
待ち、誓いをなして曰く、

『わらわが身籠った子が男子ならば三好七代の天下を持たせてくだ
さり給え。女子ならば、皇后の位に立たせてくださり給え』

と言われ、三好の河瀬に立って水を桶に汲み入れて頭に戴き、月の
出るのを待ち、七夜の月の満ちる時に祈の験あって宿所に帰り給う。

それより月足り日重ねて、男子を産む。これが長慶である。長慶が
成長して天下を手にしたのも、この母堂の祈願によるのである」と
いうことであった。

――『南海通記

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/09(土) 18:45:09.33 ID:Taeh1ZwT
(>>653の逸話に続いて)

またある人は曰く「長慶の母堂は夫の元長戦死の後に憤りを起こし、
『三好七代の天下を知らせてくださり給え』と七夜の月を待ち給う」
と語る者もあった。

いずれにしてもその意は同じことである。三好三代は続けて戦場に
死んだ。婦女といえども、その憤りなくいられるはずもない。

長慶は成長して世の人を超えた気性あり。阿波の辺鄙より出て天下
群将の上に立つことは容易なことではない。母堂の立願が足りたの
だというべきである。

――『南海治乱記』



『三好』と人に云い伝わっているのは

2020年11月22日 15:37

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/22(日) 14:01:02.62 ID:w52fk8aL
『三好』と人に云い伝わっているのは、三好修理太夫(長慶)の事である。
彼は細川を亡ぼして、一家繁盛した。

修理太夫は光源院殿(足利義輝)の乱(永禄の変)の以前に病死した。

彼の家中に、三人衆といって、主だった三人の家臣があった。三好日向守(長逸)という者も
その一人である。永禄八年に義輝を弑したのはこの三人衆である。

修理を、昔は人呼んで「作左」と云ったという。また三人衆とは不和であったという。

老人雑話

老人雑話成立の頃には、永禄の変の時に三好長慶は既に死んでいたというのが知られていたんですね。



『三好の平和』

2020年06月05日 17:43

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/04(木) 21:22:46.04 ID:zooui/se
天文二十四年(1555)正月、三好長慶は明石、三木表を帰伏させ播州も平治せしめると、
同二月二十七日、帰郷した。摂州、淡州、阿州の諸勢各々凱旋し皆帰国した。

そのような中、長慶の武威は日を逐って遠近に振り響き、今は畿内近国に相手に足る者も無きが如く、
三好家は次第に繁栄した。

同年十月、改元有って弘治元年となった。

同二年正月二十七日、夜半より彗星出現し、人々は皆「また世に何事か有らん」と言い合った。
六月十五日、長慶の亡父である故三好海雲居士元長の、二十五年の遠忌であり、この追善を修せんが為に、
長慶自ら泉州堺の津へ下向し、故国である阿波からも親族が数多上津して、当津の顕本寺において、千部の
読経、十部の頓写、その他様々の作善を行い、威儀正しき法事を行った。
この顕本寺は故海雲最期の場所であり、彼は自害のとき、腸を繰り出し仏殿の天井に投げつけた。
その跡は明白に、今以て残り、諸人これを見て感歎した。
法事が済むと、各々退散した。

同七月十日、長慶の執事である松永弾正久秀が、布引瀧山城に準備をして、主君長慶を請い侍り、
その他一家の衆中も会し。饗応奔走の上に、種々の遊興を催し、猿楽の能が果てると百韻の連歌があった。
三好長慶は本より乱舞堪能の聞こえあり、連歌に至っては都鄙に隠れ無き名人であった為である。
その後各々帰府した。

さて、この布引瀧山城は河州(摂津の間違い?)において代々楠家の居城であったが、近年楠氏は
浪人の身と成り、この城を退去したために、松永はこの城を居城とした、山中には故正成を始めとして
楠先祖代々の墳墓が現在も有るという。

そうして、近年三好家の武威を以て近国は暫く無為に帰し、今年翌年と、うち続き兵革の煩い無く、
このため京都には警護の武士を遣わし置き、長慶自身は芥川に在城して多年の軍労を漸次休息し、
千句の連歌を興行して心を慰め気を養い、二、三ヶ年安居した。

續應仁後記

畿内における『三好の平和』の様子



芥川孫十郎の裏切り

2020年06月01日 18:13

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/01(月) 13:32:21.62 ID:oLIH1Ibq
細川晴元入道は、元来愚蒙にして心軽き人物である故、今度の是非無く三好長慶と将軍・義輝の和睦が成立し、
心ならずも遁世者と成ったために、その心安からず、またかの家の浪人共は身の置所も無いままに、猶も
野心を含み、ややもすれば一揆を企て、騒動更に止むこと無かった。

そのような中、三好長慶はこの年、近国の乱を鎮めんとして、天文二十一年(1552)四月二十五日、自身
五千余騎を率いて丹波国へ発向した。摂州上下郡の者共も同じく丹州へ陣立てし、当国の波多野弥兵衛尉晴通
の館である屋上の城を攻めた。

ところが、如何したのか三好長慶の妹聟である芥川孫十郎は俄に心変りして、摂州の池田出羽守、小川某などと
語らい、羽多野と内通、一味して長慶への謀反を企て、剰え晴元方の諸浪人を語らい集め、晴元入道をも
一方の将に立てんと催した。

こうして、明日の合戦で裏切りを行い、長慶とその執事である松永弾正(久秀)をも討ち取ろうと企んだが、
猶も味方を語らんと、摂州の住人である有馬源次郎重則を頼んだ所、有馬は元より無二の長慶の味方であり、
すぐにこの企てを長慶に告げた。長慶は驚き「さては味方無勢なり。明日の軍は叶わじ」と、
同五月二十三日の夜、たちまち軍を引き払って密かに摂州の有馬郡に引き取った。
このため逆心の者共は手を空しくして屋上城中には引き入り後悔した。

このように、晴元方の浪人共は騒動し、また晴元入道も未だ野心を含めているという様々の雑説があり、
長慶は思慮を廻らせて、晴元の嫡男である聡明丸を京都に置いたままにしては敵徒に奪い取られ、後難出来る事
有るべしと考え、同六月三日、聡明丸を京都より鳥羽まで出し、船に乗せて川を通り、摂州の尼崎へ
差し下し、同五日、越水城へ入れ置き、ここにおいて養育し、聡明丸が成長するのを待った。

續應仁後記

芥川孫十郎の裏切りについて



99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/01(月) 13:41:06.73 ID:HA9CZNui
昨日は妹婿の芥川が今日は敵、まこと畿内情勢は複雑怪奇

将軍義輝の帰洛

2020年05月30日 17:08

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/30(土) 13:22:42.00 ID:pexHAR2w
明けて天文二十一年(1552)春になると、去年以来、佐々木六角義賢より三好筑前守長慶へ様々の計議を
廻らせて、公方家(足利義輝)御入洛の義を取り扱い、この春に又、楢崎某を使いとして猶この事を催した。
長慶方よりも、日野上人を使節として色々の陳答有り、徐々に和平が相調った。
この時、三好長慶の申し述べる趣きは

『私は公方家に対し、元より異心はありませんが、私の父の仇である細川右京兆晴元が猶も私を亡ぼそうと
される故に、度々合戦に及び、この時公方家も晴元に一味ましますに依って、私は心ならずも御敵と成った
事は、世の通知する所です。然れども、公方家の御命の危うい時は、私はわざと陣を引き去って忠志を立てた
事多い。

然るにかの晴元は、私の一族である宗三入道(三好政長)の讒言を信じて、亡父海雲入道(三好元長)が
忠功の者であるのに、忽ちに殺された。その恨みは骨髄に徹するものではありますが、元来晴元は主君の
筋目であり、その上、私は武功を以て宗三を討ち取ったので、先ず父の仇は報じたるものであります。

今は、晴元が世に望み無く隠居され、その御子に家督を譲った上でこの長慶に渡されるという事であれば、
三好家が後見してその御子を取り立て参らせます。そうなれば、我等は晴元の御命を失うまでの事は
要求しません。この条件に同心され、晴元が剃髪の姿と成って居館を開かれれば、現在の管領には
細川氏綱を申し成し、右京太夫に補任有らしめ、その後、晴元の御子成人の時、管領職を与奪せしめ、
再度かの御子に京兆の家を相続させ、管領に申すべきです。

この条件を受け入れ、公方家は元のように御入洛され、御政務有るべし。』

長慶が申す趣、愚ならずして、公儀御内談一決の上で、御約条を交わし、和睦はここに調った。
これによって、同正月二十八日、公方家は江州朽木谷を立って御帰洛され、元の如く二條の御所に
お入りに成った。

この時、細川晴元の嫡子・聡明丸(細川昭元)といって五歳であるのを御供に召し連れられ、人質のようにして
三好家に渡された。これは六角定頼の息女、義賢にとっては妹の儲けた一男である。二男は義賢の元に
預かり置かれた。この時、六角義賢も公方家の御供をして上洛し、御帰京の義を賀し申した。

細川右京兆晴元は、心ならずも髪を剃り、永川斎心月一清と名を改め、江州堅田より父子相別れて流浪した。
晴元の家人たちも、思い思いに髻を切り、出家の姿と成った者は八十人余りであった。
主従散り散りに落魄し、皆人に哀れを催した。

さて、三好長慶は日時を移さず公方家に出仕を勤め、洛中に権威を振るった。
同二月二十六日、細川次郎氏綱が上洛有って、故武州禅門常桓(細川高国)の跡目と号し、則ち家督を
相続して管領職に備わると、同三月十一日には右京太夫に補任された。舎弟の四郎藤賢も同日、右馬頭に
任じられ、典厩の家を相続した。誠に栄枯一時に変じ、皆人奇異の思いを成した。

續應仁後記

将軍足利義輝の帰洛について。



三好長慶暗殺未遂事件

2020年05月29日 17:14

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/28(木) 23:38:04.73 ID:x6GpqbkU
天文二十年(1551)春、公方家(足利義輝)は洛外の宝泉寺に御座有って、萬松院殿(足利義晴)の
御追悼に、乱世を兼ねて御嘆息され、日々心腑を悩まれた。管領の細川右京兆晴元、彼の舅である
六角父子(定頼、義賢)は無二の味方を申し上げて、随分に守護し奉った。
御敵徒である三好筑前守長慶は去年より在京して、五畿内に甚だ威を振るい、この頃は江州をも退治
せんとて、この二月七日に、家人松長甚助(松永長頼)兄弟を軍将として人数を差向け、江州志賀郡の民屋を
放火した。当国の守護、六角義賢は家臣の堀伊豆守、鯰江相模守に三百余騎を付け、湖上を渡ってこれを防ぎ
戦うほどに、松長兄弟は打ち負け帰洛した。

さて、洛中には公方家の寵臣である伊勢守貞孝父子(貞孝、貞良)が在京していたのだが、三好長慶
細川晴元にこそ遺恨は有っても、公方家に対して異心なしとの事で、貞孝父子に諸事相談し、互いに
心底を隠さず、是非を糺して政道を執り行ったため、京中は平和に治められ、諸人安堵の思いを成した。

このような中、同年三月十四日、貞孝は館に長慶を招き饗応した。その酒宴も半ばの時、公方家の小侍である
進士美作守晴舎の甥である、進士九郎賢光という者が、貞孝の元に寄宿していたのだが、その座に走り出て、
腰刀を抜き持って、三好長慶を二刀突いた。

長慶は元来早業の人であったので、床に有った沈香の枕を持って、刀をひしと受け留めた。そのため一刀は
身に当たらず、二刀目は当たったが浅手であった。

そこで進士九郎は迫り詰め、引き組まんとした所を、ここに長慶の同朋衆である何阿弥という者が相伴に侍って
いたのだが、そのまま進士九郎に抱き着いた。それより座中に有った人々、我も我もと走り寄って、進士九郎
斬り伏せ、刺殺した。
進士九郎は大剛の者とは見えたが、運命が尽きたのだろう、本望を遂げずして亡失した。

その頃の巷の説に、「これは進士九郎が、窮迫している公方家の御内意を蒙り、長慶を殺そうとした」とも云い、
また「本領を没収され、遺恨が有った故である」とも沙汰され、その理由については一致しなかった。
しかし何れであっても、当時威強き三好長慶に、独夫にして突き殺そうと企んだ事は、大勇の者と言うべきであろう。
そして三好長慶は運が強かったのだろう。危うき命を助かり、しかも浅手であったので、その疵も程なく平癒した。

同年七月、細川晴元方の多勢が坂本より出張して相国寺も陣取ったが、同月十四日の早旦、長慶自身が
押し寄せ、火を放って攻めると、晴元勢は打ち負け江州へ引き返した。
その後洛中には戦乱無く、この年は無為に暮れた。

續應仁後記

進士九郎による三好長慶暗殺未遂について



231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/29(金) 00:14:58.43 ID:R/rUf/c4
浅野内匠頭は不意を打って一方的に抜刀までしといて標的仕留めそこなうとかダッサと当時言われてたみたいだけど
進士賢光は大勇なのね

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/29(金) 00:31:53.41 ID:eUQEf23X
長慶さんが不得意なことはないのか

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/29(金) 01:18:33.39 ID:CFsNOVjD
>>232
長生き

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/29(金) 01:31:13.84 ID:IczLibkM
>>231
多分浅野内匠頭も、討ち損なった後その場で切腹するなり斬死するなりしたら
評価は全然違ったと思う。

和田新五郎の処刑

2019年01月31日 17:25

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 13:45:06.32 ID:h4t6uh2G
天文十三年八月十一日、一条戻橋にて一人の男が処刑された。
男の名は和田新五郎三好長慶の配下である。
新五郎は将軍足利義晴の嫡男、菊童丸(義輝)の世話係の女房と密通した罪で捕縛されたのだ。

新五郎の処刑は後に長慶と対立することとなる義晴・晴元の裁定によって行われたという。
その方法は凄惨なものだった。
新五郎への刑罰は「鋸挽き」と決まったのだが、まずはじめに縛り上げられ身動きの取れない新五郎の右手が鋸で切り落とされた。
次に苦しみ悶える新五郎の左手が切り落とされる。最後に頸を落とされ、漸く新五郎は絶命した。
続いて新五郎と密通した女房も一糸纏わぬ姿で洛中を引き回された上で、六条河原で首を打たれた。
この処刑は当時としても残忍な仕打ちとして都の人々に受け止められ、山科言継は日記に「前代未聞」と記している。

後に長慶は主君・晴元に対して反旗を掲げることになるが、この頃には既に晴元(と義晴)との暗闘が始まっていたっぽい話。


誠に多年旧功の主従であり

2018年04月10日 09:49

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/10(火) 08:48:28.09 ID:TUp17M1l
永禄4年(1561)正月十五日、三好修理太夫長慶父子は上洛し、公方様(足利義輝)方へ
出仕あり、子息筑前守慶興は、「義」の一字を賜り義興となり、父長慶と共に
御相伴衆に任じられ、桐の御紋を下された。これは斯波氏の家臣で陪臣であった
朝倉弾正左衛門家(越前朝倉家)を、英林院殿(朝倉孝景)より御相伴衆にした
先例に寄ったのである。

同年三月二十九日、右の御祝いの御悦として、公方義輝が三好館へ御成があった。
御遊あり、御能もあり、その後義輝より三好に対して、細川晴元入道との和親を
促された。

同年五月六日、細川晴元入道一清を、三好より迎え入れ、摂津国富田庄普門寺へ入れ、
富田庄を御知行あるべしと贈呈した。

誠に多年旧功の主従であり、三好殿は旧懐の涙しきりであったという。

(足利季世記)

優しい世界


進士九郎による三好長慶暗殺未遂事件

2018年04月04日 17:47

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 19:27:55.95 ID:HTQMyVaV
天文二十年二月七日、三好筑前守長慶の家老である松永甚助兄弟(久秀、長頼)、江州志賀表へ
侵出したが、六角義賢勢がこれを聞いてすぐに、琵琶湖を押し渡り攻撃したため、松永兄弟は
この一戦に駆け負け引き退いた。
近江勢は去年より数度打ち負け勢いを失っていただけに、今回の勝利に皆喜んだ。

この頃、公方様(足利義輝)は猶も比叡の法泉寺にあったが、伊勢守貞孝父子は在京し、
万事制法を糺しており、三好も細川晴元への恨み故に公儀に背いたのであるが、将軍に対し
別儀の事無く、伊勢守と公方の帰京について相談を行った。

この事に京中は大いに喜んだのであるが、天文二十年三月十四日、伊勢守貞孝の館にて、
三好長慶への饗応がなされた時、公方衆・進士美作守の甥である進士九郎賢光という者、
伊勢守邸へ来訪すると、即座に走り出て腰刀を抜くままに、二刀まで三好長慶を突いた。

この時、長慶の相伴に同朋の者があったが、彼らが進士九郎を抱き留め、その間に人々が
走り寄ると、進士九郎は自害した。

三好長慶は反応の素早い人であったので、とっさに床にあった枕を取り、これにて刃を受け止めた
ため、一刀は体に触れず、もう一刀も浅手であった。

この進士九郎賢光は大功の人であったのだが、運が尽きたのであろうか、心が逸って仕損じたの
であると、評判された、

この事件は、進士九郎足利義輝より仰せを蒙ったものであるとも、又は彼の本領を三好に
没収されたことを恨んでの犯行であるとも聞こえたが、ともあれ当時、三好長慶を一刀でも
恨まんとした心根は非常に甚だしいものであった。

(足利季世記)

進士九郎による三好長慶暗殺未遂事件について



655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/03(火) 23:50:03.95 ID:W+UsiL5z
長慶は腕も立つ方だったのか

かほのしはすをのべて参らん

2017年05月27日 16:50

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/27(土) 00:42:17.28 ID:zH6PkXyL
三好修理大夫(長慶)殿に玄理という者が仕えていた。
さる事があって、ある年の春頃に勘気を蒙り、年の暮れまで許しがなかったことがあった。
玄理は三好修理大夫に

参るべき御礼なれども今年より かほのしはすをのべて参らん

と歌を作って捧げた。
この歌を御前の人々へ伝えたらすぐに召し返されて、二人は再び御懇ろとなった。

(戯言養気集)


流石長慶とも言える武将としての優美さ

2017年02月27日 18:30

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 21:04:36.36 ID:h109Njvy
三好長慶には不義無道の名のみ有りて、風流のことを人は言わない。
たしかに、公方光源院殿(足利義輝)を弑し天下を奪おうという逆罪は論に及ばぬものであるが、
その当時の風俗として、君父を害して国を奪う輩は、挙げて数えがたいほどあった。
戦国に人道を喪うこと、日本に限らず、中華五代の頃の風俗も皆そのようなもので、独り三好松永を
憎む事ではない。

三好長慶は敷島の道に心を寄せ、殊に連歌に高じていた事は、諸書に顕然である。
居城において連歌興行あった時、『薄にまじる 芦の一むら』という句に連座上の句を付けあぐねていた。
やや時移った頃、河内より飛脚が到着し、急を告げた。長慶は書状を見ると、くるくるともとに戻し、
なんでもない体にて

『古沼の 浅き方より 野と成りて』

と付け、その場の者達はこれに感賞した。すると長慶は

「河州に於いて舎弟実休討ち死にの知らせがあった。今日の連歌は是迄である。
弔軍に、今打ち立たん」

そう即座に命じて出陣したという。
変を知りて騒がず、連座が付けあぐねた上の句を果たした後に、変を披露し、しかも即座に
出馬したこと、流石長慶とも言える武将としての優美さではないか。これらは賞すべき事である。

最近、なにげに怪談の双紙を読んだ所、この連歌の付け合いを、宗祇に付け言わせていた。
宗祇が旅行の最中、何れの国の某村に妖しい屋敷が有り、妖しきものが出て
『薄にまじる 芦の一むら』と言う句を吟じ、泣き叫んで止まず、と所の人が語るのを宗祇が聞いて
「私がその屋敷に泊まり、これを止めよう」と、かの屋敷に泊まって様子をうかがっていると、
案の如く丑三つ頃に幽霊が出て件の句を吟じた。この時宗祇、『古沼の 浅き方より 野と成りて』
と一句をつけると、幽霊は感服して消え失せ、その後出ることは無くなった、と書かれていた。

これは浮説である。長慶の事こそ事実である。

その他、高師直なども、太平記には無骨な東夷のように描かれているがそうではない。師直は歌人である。
撰集にも彼の詠んだ歌が入れられている。

伝説というのはこのような御聞が多い。
箱根にある「曾我時致の文」というのも、実際には曾我時致の物ではない。あれは北条時宗の
書いたものである。

(翁草)



680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 21:53:31.13 ID:yHclo49x
諸人之を仰ぐこと北斗泰山
と長慶は敬われていたらしいが

「三好」と人の言い伝えているのは

2017年01月30日 18:29

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 18:15:21.23 ID:eGddXOW8
「三好」と人の言い伝えているのは、三好修理太夫(長慶)の事である。
元々は細川の家臣であったが、細川を滅ぼして一家繁栄した。
修理太夫は光源院殿乱(永禄の変:足利義輝暗殺)以前に病死した。

この修理太夫の元に三人衆と言って、主だった3人の家臣があった。三好日向守というのも
その一人である。永禄8年に義輝を殺したのはこの三人衆である。

(老人雑話)

永禄の変は信長公記なんかでも「三好長慶が義輝を殺した」なんて書いていますが、成立年代は近いわりに、
老人雑話のほうが事件について正確に把握していますね。



555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 19:43:47.50 ID:hh70UDtF
船頭が多すぎて誰が主犯かわからないから長慶の名前で広まったとか?

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 22:58:16.15 ID:Y7G4vO1T
???「計画通り(ニヤリ」

【雑談】なんでも鑑定団、4つ目の曜変天目について

2016年12月21日 17:30

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 14:10:15.83 ID:gT5l6bqO
なんでも鑑定団に、4つ目かもしれない曜変天目茶碗が出るそうだな

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 15:48:02.68 ID:xED4WQmr
マジでけ?と思ってググったらニュースでてた
三好家に伝わる曜変天目らしいね
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161220-00010002-bfj-ent

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 20:58:15.21 ID:q24Q6akh
実休さんあたりがもってたのかな?

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 21:49:20.52 ID:SFVyxE7w
冬康かもしれん

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 21:54:57.81 ID:iUZUD3/z
2500万円でした

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:01:21.74 ID:gT5l6bqO
4つ目で、しかも三好の子孫が持っていたという事だけでも十分以上の価値がある
国は、変な所に売り飛ばされる前に保護するべきだな

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:05:41.42 ID:iUZUD3/z
某国から返還請求が来ます

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:31:55.28 ID:q24Q6akh
前田家に伝わった曜変ぽいものを含めたら五点目だよね
三好に伝わってるなら宗二とか堺の連中が記録してそうなものだけどないのかな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:54:16.21 ID:ohshcxKd
>>437
やっす、曜変としては大したもんじゃなかったのか

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 22:56:19.89 ID:q24Q6akh
2500万円から競りスタートだよ

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 23:04:53.48 ID:eF7f4Sha
曜変天目の中でも最高峰の稲葉天目は春日局に家光があげたのが
伝わったので稲葉天目

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/20(火) 23:21:16.02 ID:iUZUD3/z
番組中に三好氏がさらりとディスられました

天文20年・三好長慶暗殺未遂事件

2015年02月11日 17:23

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 23:28:24.88 ID:9EBoU/Mx
天文20年(1551)3月14日、京の勢州(伊勢伊勢守貞孝)の邸宅に三筑(三好筑前守)長慶を招いての
酒宴が行われた。
酒も半ばというところで、公方衆の進士九郎という人物が突然刀を抜き、長慶に向かって二刀まで突いたが
長慶はとっさにこれを避け無事であった。暗殺に失敗した進士九郎は、たちまちその場で自害して果てた。
この報が聞こえると、京も田舎も、仰天する他言葉も無い有り様であった。

この事件について、朽木に逃れていた御所様(将軍義輝)が仰せ付けたものであるとも、また所領を失った
恨みからであるとも、この両説が言われた。

勢州はせっかくの、入魂の接待の場でこのようなことが起こり、もうどうしようもないといった様子であった。

(細川兩家記)

三好長慶暗殺未遂事件についての記事である。
三好長慶は何度か暗殺の危機もうまく逃れて、武芸も達人であったと言われていますね。




388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 05:47:56.45 ID:2NZUPEZN
かわいい鴨の子を見せればよかったものを

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 08:45:28.41 ID:pVKppLYp
三好長慶の生涯って波乱万丈次から次に襲いかかる危機を
紙一重で切り抜けて大逆転の連続なんだけど
なぜか無茶苦茶地味な印象だよね。

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 09:44:06.48 ID:OyDfpt1N
長生きしてりゃなー
兄弟ともに短命だから没落が早い

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 10:09:29.24 ID:b1XVBnD/
長慶や長宗我部元親は終わりが微妙すぎて創作物の主役になりにくいし

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 17:49:14.54 ID:N8LSZkV5
終わりが微妙だとハッキリしてる人はやりづらいよね。
秀吉を扱う物語は多いが、晩年が超アレなだけにぼかしたり途中で強引に終わりにするケースも少なくない。

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 20:44:42.64 ID:0tKMqMqe
松永久秀「せやな」

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/12(木) 12:24:42.75 ID:sNMXKtjp
三好長慶を書くといつの間にか弾正が主役になってるの多いキガスw

395 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/02/12(木) 13:04:07.90 ID:RewOE8VV
国盗り物語みたいに前後半で主役交代すればいけるかも

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/12(木) 16:36:44.79 ID:3NgPh+lS
長慶の場合は一次資料を俯瞰して研究できない状況にあるから何ともしがたい
確か東寺が大量に持ってるけどほとんど未公開に近い状況なんじゃなかったかな
今東大の史料編纂所が頑張って活字化してるみたいだが

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:00:35.02 ID:Ae1GIFRU
>>396
すごく興味あるなあ
東寺って凄く格式高いとこだし、おいそれとホイホイ公表したがらないのかな
もったいねえ

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:13:01.02 ID:lIexy3PB
皇室関係も多いし東寺側も慎重になるだろ

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:21:17.75 ID:7SRVjEeI
東寺の持ってる文書は、ここでその内のかなりの数(百合文書)の写真が見られるよ。
差出・宛・年月日・キーワードは入力してあって、検索できる。
翻刻が終わってないから、自分で文字起こしするしか無いけど。

ttp://hyakugo.kyoto.jp/

百合文書は、所蔵が京都府で、東寺じゃない。売っちゃったから。
東寺文書自体は、他に京大に流出したのとか、東寺が手放さなかったのとか、いろいろあるけどね。

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/13(金) 01:22:58.92 ID:7SRVjEeI
連投になるけど、三好は最近『戦国遺文三好編』の刊行が始まって、文書が通観できるようになりつつある。
ただ、日記史料とつきあわせて読まないといけないから、そもそも研究が難しいのよね。

江口の戦い

2015年02月10日 18:45

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 04:29:36.01 ID:9EBoU/Mx
細川晴元とその近臣三好宗三(政長)は、三好長慶と対立し、ついに戦端が開かれ摂津において対峙した。
天分18年(1549)5月28日、細川晴元は三好宗三の後援のため摂津三宅城に入る。
すると6月17日、三好宗三は味方の諸勢を催促して三宅から、中島の江口に陣取った。
三好長慶はこれを見て言った

「愚か者め。夏の虫が飛んで火にいると言う古人の言葉があるが、まさにこの事だ。
先手を打って三宅と江口の間の通路を封鎖せよ!」

そう、十河民部(一存)、安宅(冬康)、および淡路衆に命じ別府の川方に陣取らせたため、
たちまち宗三軍への兵糧を運搬する通路が塞がった。これに三好宗三は、川船を使い
近江の六角勢の救援を要請した。

6月23日、三好長慶は中島に諸士を集め評議をした。ここで十河民部が言った
「進撃するのに何の異論がありましょうや!義を見てせざるは勇なきなりと申します。
敵が攻撃を我等に躊躇させるほど勇猛であるとも聞きません。一方で、もし江州(六角)勢が
到着すれば、味方が利を失うことも考えられます。
急ぎ、京北の諸勢は三宅城を攻め立て、細川晴元に腹を切らせ、そこから江口に押し寄せ
平攻めに攻めて勝つ。何と心地よいことではありませんか!」

これに一同同意した。長慶は、主君晴元に腹を切らせるのは本意ではないと思案していたが、
十河民部はそこから終夜軍勢を進め、翌24日には河内衆、三好方衆は一気に江口に陣取った。

これに三好宗三勢は一戦にも及ばずたちまち崩壊し、日中に江口から逃げ出した。
長慶勢は彼らを追撃し、宗三勢は三好宗三入道、先の将軍ご一家天笠弥六、高畠甚九郎、平井新左衛門、
田井源助、波々伯部、豊田弾正といった名のある人々を始め、八百人が討ち死にしたという。
この敗戦は誠に天罰自滅であると、世間はそのように言った。

この三好宗三の敗戦により、榎並城に籠もる右衛門太夫、河原林衆対馬守をはじめとした軍勢も
方々へ落ち逃げた。この人々の親類際しの嘆いたこと、なかなか言葉にも出来ない有り様であった。

この時江州六角勢は京の山崎まで進出していたが、そこで江口合戦の結果を聞きみな帰国した。

問題の細川晴元は、三宅城にいたたまれず、味方の淡路衆に守られ丹波越して京に入ったが、
京も危険だと判断し、将軍義輝および大御所義晴を連れ近江坂本へと逃亡した。

(細川兩家記)

三好長慶が畿内の主導権を掌握した。江口の戦いについての逸話である。



三好長慶とカンカン石

2012年12月19日 19:57

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/18(火) 20:39:50.61 ID:NRw1bfoA
三好長慶の息子の三好義興は智勇に優れた男で三好家の跡継ぎとして将来を期待されていた。
ところが、重臣の松永久秀の陰謀により、22歳の若さで毒殺されてしまった。
息子を失った三好長慶は悲しみで嘆くあまり、背中が丸くなってしまうほどであった。

亡くなった三好義興は芥川の霊松寺に葬られた。
長慶は瀬戸内海の屋島から鉄のように硬い石を取り寄せて義興の墓にした。その墓は
叩くとカンカンという金属音が鳴り響くので、人々はその墓石をカンカン石と呼び、
今でも三好長慶がカンカンに怒っているのだと噂しあった。




809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/18(火) 20:45:32.00 ID:lyCvzWs3
叩くなよ・・・w

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/18(火) 20:50:13.30 ID:EMnqOhHK
墓石を叩けばそりゃカンカンに怒るわなw

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/18(火) 22:13:41.89 ID:MFrnsNcW
庵治石かなぁ、写真見ただけではよくわからなかったけど
固いし鉄分多いから確かに、金属的な音はする

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/18(火) 22:19:40.29 ID:RpdeJRVA
ちょっと横になるわ

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 00:13:31.71 ID:x7B2mBNB
サヌカイトだろ
実際楽器にしたりするし

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 02:21:18.55 ID:HIPuai2Z
墓石叩くなんて思いついたこともないわw

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 03:01:48.67 ID:4DTDAUTF
811だけど、元墓石屋なのでね、
石見本同士を叩き合って石の良し悪しを客に教えてたりはしてた

>>814
ちょっと趣旨がずれるけど、鼠小僧でぐぐって墓石にまつわるエピソードを読んでみると良いかも
昔からの墓地の、古い墓の蓮華が欠けているのも博打好きの仕業であることが多い

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 04:39:07.07 ID:F6PdzPoT
ムカつくやつの墓石だったら叩いたり蹴ったりしたい
これ長慶さんが息子の墓を叩いたわけじゃないでしょ?

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 11:35:48.04 ID:HErw0SDC
>>815
アカギの墓が削られてるって話に元ネタあったのか!

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 14:45:06.68 ID:0YsdnxQ6
この武将に参拝すると、この病気が治る、の延長で
墓石を削れば薬になる、て信じられてたのでは

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 14:57:01.73 ID:Ane5dlL0
「今でも長慶さんが怒ってはるせいで、叩くとカンカンって音がするんやで」ていう浪花ギャグでしょ。
実際に皆が叩いてたわけじゃないと思うよ。

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 16:01:13.71 ID:52/mes1M
杉原常陸の墓は「おこり」に効く、ってアレか

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 16:10:35.02 ID:iU+P6x/1
削れば手癖の悪さが治るお墓はないのかね?

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/19(水) 17:23:32.62 ID:2NOO+mdG
森の石松の墓なんかも酷かったらしいな

>>821
なんでも阿弥陀ヶ峰の天辺にある墓がそうだとか…