565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 01:31:25.48 ID:YYkFjjjl
天文23年(1554)の春、今川義元の三河出陣に際して織田信長は北条と通じ、氏康は駿河へ軍勢を
差し向けなさった。対して義元は甲斐を頼み、武田晴信も駿河に軍勢を出して、両軍は苅屋川で戦った。
武田旧臣の原虎胤は近年故あって北条家に来たり、剛強名誉の働きを致してこの度の戦いでは先手の斥候
となり、紺糸の鎧に半月の指物を差して、冑の真向に“原美濃守平虎胤”と書いている立物をして猪首で
身に着け、鹿毛の馬に黒鞍を置いて打ち乗り、小幡に言葉を掛けて小山田の備へと乗り掛けた。
小山田弥三郎の備の内から「関東浪人、近藤右馬丞!」と名乗って馳せ掛かる者がいた。原はキッと見て
「優れた気立てであることよ!」と太刀を抜き持ち、峰打ちで近藤の冑の錣の端や首の骨を続けて3打4
打すれば、近藤は馬からドッと落ちた。
そこへ後から続く小田原勢が下り重なって首を取らんとする。これに原が「その者は私が甲斐で目を掛け
た者で候! 許してくだされ!」と申したので、引き取ったのであった。
太田源六(康資)は知られた大力の剛の者で、大荒目の鎧に三枚冑の緒を締めて、樫の木の棒を抱え込ん
で白鴇毛の馬に乗って駆け巡った。「おい美濃守殿! これを見給え!」と申すと源六は、武田勢の先駆
けの武者7,8騎を馬の上から打ち落とし薙ぎ倒し、猛威をあらわした故、甲斐勢は辟易して引き退いた。
源六は乗っている馬に矢を射立てられて徒立ちとなり、原と連れ立って静々と引き返した。
永禄7年(1564)正月7日、国府台で北条と里見の軍勢が戦った。太田源六は遠山丹波守(綱景)を
始めとして進む兵6騎を馬上から切って落とした。
北条方の相州無双の大力で、志水右馬丞という剛強の兵は、柘の棒に筋金を入れて打ち振り、太田源六と
寄せ合わせてしばし戦うと見えたが、源六は持っている太刀を鍔本から打ち落とされて、貝を吹いて逃げ
ていったのであるが、余りに無念に思い、常に秘蔵して持っていた長さ8尺周囲7寸の鉄の棒引っ提げて
「志水を打ち落とす!」と、乗り廻し乗り廻し探すも、志水と遭遇しなかった。
源六は「この上は!」と当たるを幸いに向かう敵の冑の鉢や甲の胴中、馬人ともに尻居になるほど打ち据
え、横手に払い薙ぎ倒して打ち据えれば手負い死人はますます重なった。太田下野守は源六の舅であるが
小田原勢の先手にあって、源六の有様を見て馬を駆け寄せると、
「源六よ、余りにも正なく謀反したものだ! 咎を悔いて降参し給え! 某が命に替えても取り成すべし!
今日の働きは厳めしく見える。しかしながら、人こそ打ち給うとしても、馬には咎もないのに無用の罪を
作り給うものだ!」
これを聞いて源六は高らかに打ち笑い、「殊勝にも宣うものですな! 今は仰せに任せて人だけを打ちま
しょう。それでは、試しに受けて見給え!」と鉄棒を取り伸ばし、下野守を丁と打った。
下野守も「心得た!」と太刀で打ち背けようとしたが、大力で打たれてどうして耐えられようか、冑は砕
けながら首は胴に没入し、前方の深田へ転び落ちて死んでしまった。
戦いが散じて源六は宿所に帰り、妻の女房に向かって申したことには「和主の下野守殿は某に諫めの言葉
を掛けられたので、鉄棒で冑の鉢を打ち参らせたのだが、今頃は痛んでおられよう」と語った。
このため女房は大いに驚き「なんですって! 父を打ち殺しなさったのですか! 情けのないことじゃ!」
と下人を遣わして探したところ、下野守は深田に倒れて頭は冑とともに打ち砕け、首は胴の中に没入して
いるのを、泥にまみれながらも葬礼して仏事を営んで女房は髪を剃り、尼になって菩提を深く弔った。
この女房の建立した寺という武蔵江戸神田の浄心寺に尼の木像が今も存在している。
――『鎌倉九代記』
先に投稿した逸話と微妙に内容が違うので
関連
なんですって! 父御前を打ち殺しなさったというのですか!
天文23年(1554)の春、今川義元の三河出陣に際して織田信長は北条と通じ、氏康は駿河へ軍勢を
差し向けなさった。対して義元は甲斐を頼み、武田晴信も駿河に軍勢を出して、両軍は苅屋川で戦った。
武田旧臣の原虎胤は近年故あって北条家に来たり、剛強名誉の働きを致してこの度の戦いでは先手の斥候
となり、紺糸の鎧に半月の指物を差して、冑の真向に“原美濃守平虎胤”と書いている立物をして猪首で
身に着け、鹿毛の馬に黒鞍を置いて打ち乗り、小幡に言葉を掛けて小山田の備へと乗り掛けた。
小山田弥三郎の備の内から「関東浪人、近藤右馬丞!」と名乗って馳せ掛かる者がいた。原はキッと見て
「優れた気立てであることよ!」と太刀を抜き持ち、峰打ちで近藤の冑の錣の端や首の骨を続けて3打4
打すれば、近藤は馬からドッと落ちた。
そこへ後から続く小田原勢が下り重なって首を取らんとする。これに原が「その者は私が甲斐で目を掛け
た者で候! 許してくだされ!」と申したので、引き取ったのであった。
太田源六(康資)は知られた大力の剛の者で、大荒目の鎧に三枚冑の緒を締めて、樫の木の棒を抱え込ん
で白鴇毛の馬に乗って駆け巡った。「おい美濃守殿! これを見給え!」と申すと源六は、武田勢の先駆
けの武者7,8騎を馬の上から打ち落とし薙ぎ倒し、猛威をあらわした故、甲斐勢は辟易して引き退いた。
源六は乗っている馬に矢を射立てられて徒立ちとなり、原と連れ立って静々と引き返した。
永禄7年(1564)正月7日、国府台で北条と里見の軍勢が戦った。太田源六は遠山丹波守(綱景)を
始めとして進む兵6騎を馬上から切って落とした。
北条方の相州無双の大力で、志水右馬丞という剛強の兵は、柘の棒に筋金を入れて打ち振り、太田源六と
寄せ合わせてしばし戦うと見えたが、源六は持っている太刀を鍔本から打ち落とされて、貝を吹いて逃げ
ていったのであるが、余りに無念に思い、常に秘蔵して持っていた長さ8尺周囲7寸の鉄の棒引っ提げて
「志水を打ち落とす!」と、乗り廻し乗り廻し探すも、志水と遭遇しなかった。
源六は「この上は!」と当たるを幸いに向かう敵の冑の鉢や甲の胴中、馬人ともに尻居になるほど打ち据
え、横手に払い薙ぎ倒して打ち据えれば手負い死人はますます重なった。太田下野守は源六の舅であるが
小田原勢の先手にあって、源六の有様を見て馬を駆け寄せると、
「源六よ、余りにも正なく謀反したものだ! 咎を悔いて降参し給え! 某が命に替えても取り成すべし!
今日の働きは厳めしく見える。しかしながら、人こそ打ち給うとしても、馬には咎もないのに無用の罪を
作り給うものだ!」
これを聞いて源六は高らかに打ち笑い、「殊勝にも宣うものですな! 今は仰せに任せて人だけを打ちま
しょう。それでは、試しに受けて見給え!」と鉄棒を取り伸ばし、下野守を丁と打った。
下野守も「心得た!」と太刀で打ち背けようとしたが、大力で打たれてどうして耐えられようか、冑は砕
けながら首は胴に没入し、前方の深田へ転び落ちて死んでしまった。
戦いが散じて源六は宿所に帰り、妻の女房に向かって申したことには「和主の下野守殿は某に諫めの言葉
を掛けられたので、鉄棒で冑の鉢を打ち参らせたのだが、今頃は痛んでおられよう」と語った。
このため女房は大いに驚き「なんですって! 父を打ち殺しなさったのですか! 情けのないことじゃ!」
と下人を遣わして探したところ、下野守は深田に倒れて頭は冑とともに打ち砕け、首は胴の中に没入して
いるのを、泥にまみれながらも葬礼して仏事を営んで女房は髪を剃り、尼になって菩提を深く弔った。
この女房の建立した寺という武蔵江戸神田の浄心寺に尼の木像が今も存在している。
――『鎌倉九代記』
先に投稿した逸話と微妙に内容が違うので
関連
なんですって! 父御前を打ち殺しなさったというのですか!
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