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「続武家閑談」から本多正信について

2023年03月16日 19:47

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/15(水) 21:05:54.17 ID:ffNL6Pnx
続武家閑談」から本多正信について

本多佐渡守正信の人傑については世の人が知ることである、筆を尽くしても語り切れない。
権現様より四歳年上で、上京の際に松永久秀は
「家康の家臣たちは皆武勇を好むが、本多弥八郎正信のみは不剛不柔不飾でほとんど凡人ではない」と言ったという。
太閤秀吉も正信のことを聞き及んで権現様に告げて召しだした。
すぐに正信は江戸から伏見に出て、御目見えをとげ、ひそかに御旨を伺った。
夕方には増田長盛のところに行き、数刻にわたり密談して暇を告げて、翌朝江戸に帰った。
増田が何とかとりなしたのか、秀吉はあえて咎めなかった。
また権現様は諫言を好んでいた。
このあと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1222.html
徳川家康、家臣の諫言を「聞く」いい話


正信は大いに感心し、宿所で息子の上野介正純にこのことを申し聞かせた。
正純は「その人は誰なのですか?」と問うたので
正信は大いに怒り
「公が平生おっしゃられることには、
「天下を安泰にさせるうえで大事なことは、為政者の人となりが善であるためではない。
大本がなっていなかったとしても、よく諫めを入れて言語をふさがず、家臣を用いるために天下はよく治まる」
ということで諫言を好まれるのだ。
今の話の諫言をした者は智恵が不足しているため、申すところにも道理はないが、それでも大殿はその心を賞しなさった。
お前がその者の名を聞いて足りないところをあざわらおうという心であれば若殿の執事にはなるべきではない」
正信は常に権現様を「大殿」、台徳公(秀忠)を「若殿」と言っていたが、これは権現様の寵愛が深く「友のごとし」とされていたためである。質朴さが感じられる。
権現様は武蔵・相模で狩をなさっていた。
正信は江戸で台徳公の執政であったが、権現様の猟に昼夜伺候した。
権現様の仰せには「遊猟の趣向は第一に部を忘れないこと、次に民間のことを問うためである」ということであった。
ところどころに御留場(将軍家の猟場)があり、権現様の注意は厳しいものであったため、台徳公は謹んで整えさせたという。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/15(水) 21:08:51.53 ID:ffNL6Pnx
このあと
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5962.html
本多正信、家康の怒りを

の話だけど微妙に違うので一応書いておく。

ある朝、権現様が御覧になると、御留場に罠ととりもちがしかけられていた。
誰のものか調べたところ青山忠成と内藤清成によるものであった。
権現様は「将軍はこのことを存じているのか」とお怒りになられた。
台徳公は「もってのほかの御迷惑でありましょうが、私は知りません。
両人を誅して御憤りをなだめるべきではありますが、両人は我にお付けなさった傅役でありますし、殺すに忍びません。
しばらく出仕をやめさせましょう」
と阿茶局を介しておっしゃったが、権現様は御容赦されなかった。
そこで正信は「このままでは大殿の悪が諸子に越えてしまう。
若殿に国家を捨てさせ匹夫に落とすこともおできになるのに、まして内藤・青山などは」
まずは申し上げようということで権現様の御放鷹に伺候し
「君が若殿に命じて内藤・青山両人の切腹をなされようとしていることをうかがいました。
まことに不憫のいたりで、それがしなど数日仕えただけで、もし営中で少しでも失敗をいたせばたちまち罪科をこうむるでしょう。
江戸所住の出仕をやめて大殿のところで天命の死に進みましょう」と申すと、権現様のお心もとけて、阿茶局に
「将軍もこのように申しておるのだから、友人を殺さぬよう申し遣わす」と命じられた。
台徳公はこれを聞し召し、大いに悦び、両人をゆるして家に帰らせたという。
正信の才覚の妙であった。
しかも高い録を辞して、わずか二万石を領した。関ケ原の前後、大坂の陣での謀略についてはほとんど人口に膾炙している。
正信は権現様御他界から五十日すぎた元和二年(1616年)六月七日に七十九歳で死んだ。



718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/16(木) 00:11:03.96 ID:tg45pgpv
お父ちゃんは引き際をわきまえていたのに息子は

719 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/16(木) 12:47:37.77 ID:1Yy0JpW0
>>716
徳川譜代は四天王クラスで10〜20万石程度だからなあ。
2万石で十分としないと、やっかまれる。

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/16(木) 15:53:31.21 ID:hV6MjIDN
秀吉みたいに子飼いに高禄を与えてたら次の代でぬっ殺されるからなあ

721 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/16(木) 17:02:32.71 ID:1Yy0JpW0
信長は親藩と譜代が強力で、外様といえるのは家康くらいか。国持大名ばっかりで小藩がない印象。
秀吉は親藩が弱く、譜代(子飼い)がまずまず、外様が強力。
家康は親藩と外様が大藩で、譜代は弱い。
まあ、江戸幕府で外様が大藩になったのは関ヶ原の経緯から仕方ない面はある。でも、本多忠勝くらいには一国やったってよかったのにな。

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/16(木) 18:32:22.63 ID:fKzTrDzf
秀次みたいな産ませる機械を壊したのが失策
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只今石田を殺したならば

2019年08月28日 15:51

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/28(水) 14:17:08.67 ID:9gs3r0Od
秀吉公御卒去の折、諸大名五奉行は大坂に参会した。この時、伏見で石田(三成)をこのついでに諸将は
殺すべく評議した。これに神君(徳川家康)は、密かに石田を御助けして御落としなされた。寄り合った
諸将は石田を重々憎み、殺したく思いなさった。しかしながら、家康公に従い奉るべしとは思わなかった
のだという。

この時に石田を御囲いなされたことは、本多佐渡(正信)の申し上げ故である。佐渡が申すには、

「只今石田を殺したならば諸将は皆公に背き申しましょう。今は石田を憎んで皆公に組しています。石田
の様子は、この分際でいるような者ではありません。大いに催して打ち出ることでしょう。その時に討ち
果たしなさるべきなのです。これ当理の謀なり」

案の如く石田は関ヶ原で大勢を語らい打ち出た。これ皆佐渡の智謀なり。後々年に至り、公が佐渡の申す
ことに御同心無き時に「何ぞ杉戸の際で申したことを御失念なされましたか」と度々申し上げられたのは
この事である。

黒田甲斐守(長政。原注:如水軒)が申されるには、「あの折に伏見で治部少輔を重々殺したく思った。
しかしながら、家康公に従い奉るとは思わなかった」と後々申されたのだという。(原注:右は如水軒が
光政公へ御直談申したのを(光政が)仰せられたと覚え申すものである)

――『烈公間話』




165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/29(木) 13:01:27.64 ID:bI7TkIMY
石田三成がいなくても、宇喜多秀家の動き次第では…。

166 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/08/29(木) 16:35:08.65 ID:lniIquuh
その時は金吾が総大将だな

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/29(木) 19:35:06.83 ID:BCVHUVku
それは無いな。宇喜多は内紛でそれどころじゃないし小早川秀秋は家康と争う理由が無い

人々が因果であると申し習わすのも

2019年01月29日 21:33

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/28(月) 22:54:14.43 ID:NfnBdDvr
又々ここに不審な事がある。犬打ち童に至るまでの人々が、本多佐渡守(正信)が、大久保相模守(忠隣)を
讒言したのだと言っていることである。
そのような事、人が知るはずもない内容を申している

そもそも本多佐渡は相模守の親である七郎右衛門(忠世)の重恩を受けた者であり、恩を忘れてどうして
そんな事をするだろうか。それは事情を知らない人の無責任な噂に過ぎない。
相模については、子の主殿を初め我々こそ知らないまでも、きっとその身の科も深かったのであろう。
その上であっても、佐渡が讒言するようなことはゆめゆめ有るまじきと、今においても思っている。
町人や民百姓まで正信が讒言したと申す理由はどう言うことかとも思うが、そういう事も有るかと、
不審では有るが、ともかくよく解らない。

佐渡について、若い頃はむごい人物だという評判はあったが、歳も寄り定めてその心も直ったのだろう。
佐渡守が若い頃には、七郎右衛門が朝夕の食事の援助をし、その女子供に対しても塩、味噌、薪に至るまで、
同じく援助し、彼が御敵を申して他国へ駆け落ちした時も、女子供を援助し、その後家康公へ御詫言を
申し上げて帰国し、先ず隼鷹匠と成り、その後色々と取り成しを申し上げ、四十石の御知行を申し受けて
出仕したが、その後も援助した。

このため、佐渡は年末年始には必ず、嘉例として大晦日の飯と元三(正月三日)の飯を七郎右衛門の家にて
喰った。関東へ移った後になっても、江戸にてその嘉例を続けたほどの佐渡である。どうしてその恩を忘れる
だろうか。

七郎右衛門が果てる時も、佐渡守を呼んで遺言に、相模に不沙汰無きようにと頼み入って果てたのだ。
その時も佐渡は七郎右衛門に向かって、「どうして不沙汰などしましょうか、御安心あれ。」と、しっかりと
申したというのに、その心を引き違えて讒言するようなことが有るだろうか。

昔は因果は皿の縁を巡る、などと言っていたが、今は巡ること無く直ぐに向こうに飛ぶようだ。
今においてはどうかとも思うが、人々が囁いている事は、そのように思われる。
良い因果は報われても見えにくく、悪しき因果が悪しく報いるのは見えやすい。そういう事であろうか。

佐渡は相模守御改易の後三年も経たずして顔に唐瘡が出て、顔崩れ奥歯の見えるほどに成りそのまま死に、
子である上野介(本多正純)は、御改易となり出羽国由利へ流され、その後秋田へ流され佐竹殿に預けられて、
四方に柵を付け堀を掘って番まで付けられた。人々が因果であると申し習わすのもこれでは仕方がないかも
しれない。

相模守の御改易も、大うす(デウス)御大事の御仕置きと有って京都に召し遣わされ、その後御改易となり、
また上野介御改易の時も、最上の仕置すべしと仰せ付けられ召し遣わされて、その後にて御改易を
されたのであるから、同じような状況であり、故に「讒言申した因果の報いか」と、世間にて犬打ちの童まで
申したのだろう。

(三河物語)


御留守に任じて

2017年07月02日 21:15

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/01(土) 22:30:01.06 ID:or08M729
大阪冬の陣勃発の時、黒田長政福島正則も大阪攻めの御供を望んだ。
その頃は未だ太閤秀吉取り立ての大名が多かったが、その中でもこの両名はとりわけ武功の勇将で
あったため、人々も様々に気遣いしていた。

そこで本多佐渡守(正信)が両将を茶の湯に事寄せ饗応し、談じた

「まことの事かどうか知りませんが、今度の大阪のことで、御供の望みがあると承りました。
これが本当であるとすれば、心得がたい事です。
何故なら、あなた方が秀吉卿莫大の恩顧・御取り立ての身であると言っても、当家において関ヶ原の時分、
まさしく御忠節を申し上げた故に、大国を下され、以降誠に二心無く御奉公の御志をなされていると
見ています。

さりながら、大阪の城には秀頼が立て籠もられております。先主秀吉の息男が在城しているのを、時に従う
習いであるからと寄せ手に加わり攻められても、人は良いようには思わないでしょう。
また、だからといって寄せ手に加わりながら成すこともなく居るのも後ろめたいではありませんか。

ここを以て察するに、今度の御供の願い、非常に愚案であると言えるでしょう。
しかし各々に、特別なご存分もあるのでしょうか?」

この言葉に両人屈服し
「さあれば、御辺を以って、御留守に任じて頂けるよう申し上げていただきたい」
そう申したという。

(士談)



924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 06:40:34.79 ID:EcUAn0qX
「心得がたい」ってのはどう解釈すべきか

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 07:12:03.53 ID:PA608L7X
心得が鯛

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 07:43:58.18 ID:OVzA0S6z
納得しかねる、みたいな

上野介、良く聞け。

2017年02月08日 10:34

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/07(火) 21:02:00.89 ID:4ith6HzQ
本多佐渡守正信がある時、子息上野介正純に言った

「逆心は天命に背くと知りながら、北条義時が主君の後を断絶し、己が威を逞しくし、
天子を改めるなど、無双の悪逆を行いながら、時の勢いにてこれに与するもの多く、九代天下を
保った。
その後も北条の業績を真似る者はあったが、北条ほど事を謀るものは無かった。

細川勝元が先祖頼之の業績を学ばず、遠き北条の後を追い、応仁の乱を引き起こした。
これは細川、山名が威を振るったためである。であれば彼らが志を立てて名を揚げたかと言えば、
そうではない。共に死亡して、あまつさえ将軍家の武威を失落させた。

上野介、これを思え。
勝元がたとえ逆意を振るっても、その子政元に忠義が有れば世は治まったはずだ。
しかし政元はますます驕りを極め、将軍義材を退けた。
この君が悪主であったのなら替える例もあるだろう。しかし義材には武道尊氏の風格あり、
六角高頼を退けた時は、足利家は昔に帰るかと言われたとか。
それなのに政元はこれを廃して、幼主義澄を伊豆国より申し上らせ、己が威を恣にした。
彼も父に劣らぬ不忠至極の者である。よってその身も終に滅びた。

上野介、良く聞け。
武家は軍法、武備を諸道の根本としている。軍法と言っても戦をする事ばかりではない。
軍法とは常の備えである。善政は勝ち、悪政は負ける。勝ち負けの根本は国を治めることにある。
例えば、樹木の根が深く入り能く栄えているためには、まず根本を培う事が大切である。
それから段々と成長するに従い、養いを能くすれば、枝葉栄え、花咲き実も多く成る。
少々枝を刈り取ったところでその樹の本体が痛むことはない。
このように、天下国家の基本となる大法を取り失わない事が肝要である。

士農工商は天下の四民であり、そのうち士において、家の老職を仕る者は、農工商を以て
木の根を培うように、これを慈しむべきなのだ。
諸士は木と同じであり、合戦の仕方は枝葉と同じである。そして勝ち負けは花や実に等しい。

基本を失ってはならない。基本というのは忠信を成すことであり、そこから諸事は出るのだ。
おおよそ、忠を成すにも色々とある、身を以て忠を致すもあり、心を以て忠を尽くすもあり。
家老、侍大将などの忠は、主人の前には一月に一度も出なくても、一筋に忠を以て君を守護し、
政道順行を以て君の英名を高くするのを、良き家司と言うのだ。

また、忠ににた不忠がある。
例えば石田三成は、非常に上慢な人物であり、大風雨の夜など、御城廻りの破損の状況を逐一
見て回り、明けて卯の刻(午前6時頃)には報告した。御普請奉行からの報告は巳の刻(午前10時頃)
であった。
これは一見、その職の責任感より生じた、分別ある行動に見えるが、実際にはその家、その家中のために
成っていない。

人は心入こそ大切である。一言の情に一命を惜しまないのは、士が義を知るが故なのだ。
とりわけ老臣は、心入一つの者であり、忠義を心にかけて思う時は、自分の位階、職分、身代より
心を引き下げるべきである。
私は佐渡守にして頂き、重用していただいているが、元来愚痴暗鈍の者であり、多くの御慈悲により
今日までつつがなくご奉公することが出来たのだ。
その方もお側でお言葉を伝える役目を務めているのだから、後々重用されるだろう。しかし驕る心が
少しでもあれば、それは不忠、不孝の至りであるぞ。」

(武野燭談)



609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/08(水) 15:10:50.62 ID:p76OzpPh
主君に仕えるには忠心一番でいいかもしんないけど問題は家臣同士の争いだよねー
隙を見せると足下すくわれるからなあ

佐州は未だ御愁傷のうちに

2017年02月01日 09:17

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/01(水) 05:19:40.08 ID:ZRWtXzEx
本多佐渡守(正信)は、息女<三浦監物(重成)内室>が死去して、悲嘆の最中から
評定場へ出て、御用を心得なさったため、

「佐州は未だ御愁傷のうちに御出になられるのですか?」と、挨拶致された方がいた。

佐渡守はこれに、「どうして娘が1人死去致し申したからといって、御用を欠くべきこと
でしょうか」と、申されたという。

大久保相模守(忠隣)は息男・加賀守(忠常)が死去した時、強く悲嘆し、それからは
御奉公も勤め得ないように、思いなさったという。佐渡守と気持ちが異なっている。

――『武功雑記』



家康と正信の謀の様子

2015年12月29日 15:25

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/29(火) 11:49:28.62 ID:iXIovZrU
石川丈山(嘉右衛門重之)が語った所によると
「私は大御所(徳川家康)に多年に渡り仕えていたが、本多正信と何か事を謀っているように見えたのは、
僅かに2度しか無い。その内容も、世の人が事を謀る場合とは全く異なる、珍しきものであった。

先ず1度目は、大御所が正信の座している所を通った時、立ち止まって三言四言密かに仰せになった。
これを正信は大いに誉め、「よく候!よく候!」と申し上げていた。

もう一度は、大坂の陣が起こって、程なく和睦してのち、大御所は京に入られ、何某を召して
「汝大阪に行き、将軍にこのように申せ。家康はこれこれの日、駿河に帰ろうと思っている、と。」

大御所はそうおっしゃって、正信の方をご覧になり、「正信はどう思うか?」と聞かれた。
ところが正信は、例のごとく居眠りしており、答えようもない。
大御所は大きな声で「やあ佐渡守!!」とおっしゃった時、正信の目が開き、まずものも言わず、
右の手を上げて指を折り、物を数えるような仕草をして
「大殿よ、大殿よ、幾年前に伏見の御館にて正信が申したことを忘れ給うな。」
そう申すと、大御所は暫く案じるような御気色で、先に使いを命じた者に
「まず、今日は使いを参らせない。」
そう仰って内へと入られた。

そのようであったのに、今の世に伝わる所は、正信がややもすれば、
古を引き今を證とし、理義を分かって毫末に入るように言うのは、皆、後の弁を好む者の
空言である。」

(藩翰譜)

家康と正信の謀の様子、である

同逸話
石川丈山の見た本多正信


強からず柔らかならず、また卑しからず

2015年12月28日 08:28

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/27(日) 20:58:05.08 ID:UDzJKn7e
永禄6~7年の間に一向専修の門徒たちが徳川家康に対し反乱した時、
本多正信は舎弟三弥正重と共に上野の城に立ち籠もった。
永禄7年2月28日、諸寺の門徒たちはその罪を赦され、尽く降伏した。
しかし本多正信は国を出て、都の方に赴いた。

そこで松永弾正忠久秀が、正信を見て側の者にこう語った
「私は、少なくない数の徳川家から来た侍を見た。その多くは武勇の輩であった。
しかし、一人この正信は、強からず柔らかならず、また卑しからず。
必ず、世の常の人ではない。」
そう感想を漏らしたという。

(藩翰譜)

有名な松永久秀本多正信評である。

本多正信壁書

2015年11月27日 17:46

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/27(金) 02:36:52.67 ID:UUgAMIah
本多正信壁書

淫酒は早世の地形    堪忍は身を立てる壁

若年の苦労は栄華の礎 倹約は主君に仕えるための材木

珍膳珍味は貧の柱    多言慮外は身を滅ぼす根太

仁の情は家を作る畳   法度は僕を使うための屋根

華麗は借金の板敷    我儘は朋友に嫌われる障子

右の十ヶ条は常に忘れてはならぬものである。

――『半日閑話』



死にたくて死ぬる馬鹿者はあるまじ

2015年10月20日 10:06

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 06:59:49.20 ID:TfHHbej3
大阪夏の陣で豊臣家が滅亡した後、徳川家康の御前において本多上野介(正純)がこんな事を言った

「木村長門守(重成)の討ち死には早かった。せめて7日まで生きていれば、秀頼公を連れて参っただろうと、
佐渡守(本多正信)も申しておりました。」

これを聞いた家康は何も感想を述べなかったが、非常に機嫌の悪い様子であった。

また正信はこんなことも言ったそうだ
「木村重成によって佐竹家の渋江内膳が討ち取られたのは早すぎた。三弥(本多正重)はどう思うか?」

これに本多正重は答えた
「いやいや、死にたくて死ぬバカはいないだろ。」
(いやいや死にたくて死ぬる馬鹿者はあるまじといはれし)

(武功雑記)



513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 07:44:32.09 ID:MCiCx0uG
最後のは正信じゃなくて正純だろうな
正純は失言が多いって印象付けしてんのかしらん

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 17:32:29.27 ID:GQyXHJc6
「木村長門と佐竹家人の渋江内膳の討死は早かった」じゃないかな

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 23:29:01.93 ID:YdwXRHRU
前者と後者は違うエピだからそうだな。。。
指摘してて間違ってたな サーセン 

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 07:36:05.72 ID:2CfP03AX
切腹を申しつける!でゴザル

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 09:52:26.83 ID:NJU4BYQk
泣いて馬謖を斬るでゴザル

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 11:46:50.92 ID:k4uaGpXi
ノッブ「バザールでゴザール」

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 19:50:03.53 ID:nHOmSxEM
乙坂家秘伝のピザソースでゴザル

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 21:42:07.57 ID:TiZG/uFK
いやぁ~乱世乱世!17世紀始めの大坂の話でゴザルよ。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 23:47:17.98 ID:zMeGdL5U
訳わかんねーこと言ってんじゃねー

神前に対しては、私こそ寄進すべきものです

2015年08月16日 20:14

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/15(土) 20:30:59.10 ID:kzBvZAr2
徳川秀忠の御代、常陸国鹿島社の鳥居が破損したため、幕府により新たに建立された。
鳥居の完成後、その御礼として鹿島社の神主が江戸に出て、島田治兵衛を頼んで、
この建立に尽力した本多正信の元に参った。この時神主は正信への進物として、杉原紙三百枚を
持参していた。しかし正信はこれを見ると

「遠方よりお越しいただいてかたじけない。殊に音物まで念を入れられたこと、祝着に思います。
しかしながら、これはお返しいたします。」

そう言って進物を返した。神主はこれに困り
「少分の品ですのでお恥ずかしいですが、遠方より持参したものですので何卒御収納下さい。」
神主に同道した島田治兵衛も
「神主が、今回の鳥居建立の悦びとして持参いたしたものなのですから、御収めあって然るべきです」と
執り成した。しかし正信は笑いだし

「この進物は、社人達から代金を集め、それによって購入したものを神主は持参したのでしょう。
しかし神前に対しては、私こそ寄進すべきものです。」

そういって受け取ること無く返した。

(明良洪範)




清正を褒められたものではない

2014年09月21日 14:47

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 22:00:27.88 ID:rTETO/zD
徳川家康が、二条城で物語をしていた折、「現在天下には、加藤肥後守清正に及ぶものは居ない」と発言した。
この時、本多佐渡守正信は例のごとく空寝していたが目を見開き、「殿はどなたを褒めたのですか?」と
尋ねた。家康はこれを聞くと
「加藤肥後の事だよ」

「加藤肥後…?それは太閤の時に虎之助と言っていた小倅のことですか?」

家康呆れたように
「肥後の事を知らない者がおるものか!」

「いやいや、それがしも年老いまして、もの忘れすることの迂闊さよ。
されど、殿が信玄謙信を始め数多の名将を御覧し尽くされてきたその御目で、加藤などのことを
褒められるのはどうしてでしょうか?
それにしても加藤にとってはこの上なき名誉なことです。」

「肥後のことは、私はよく知っている。現在、彼に西国のことを任せておけば心安いのだが、
彼には一つ疵があるので、ひたすらに頼むというわけにはいかないな。」

正信、驚いたように
「疵?それはどういうものですか?」

「肥後は、ものに危うき心がある。今少し心落ち着けば、実に彼に立ち並ぶ人物は居ないであろう。」

「なるほど、仰るとおりです。危うき心があって剛気に過ぎるのは大いなる疵です。
武田勝頼にもそのような癖があった為に、ついには国を失いました。惜しむべきことです。」

この座には京の商人などが陪席していたのだが、彼らが後に、この会話の内容を清正に告げ伝えた。
清正はこれを聞くと
「さては家康公は私を、心危うき者と考えられているのか。」
そう思い、これより物事を慎重にするようになった。

後年、本多正純がその父正信に、この事を尋ねた事があった。
正信が語ったことは
「これは実際には、清正を褒められたものではない。その頃は当家草創の時期であったから、
清正がもし鎮西の人々を糾合して秀頼に与党せしむれば、由々しき事態となったであろう。
しかし、殿の『彼に危うき心がなければ』との一言が、彼には何となく心の重石になって、生涯過誤無く
果てた。これは家康公の御智略の深遠であり、凡慮の計り知ることではない。

それを何だお主は、言葉の表面の意味だけだと思って私に問うてくるとは。お前は知慮が浅い!
その心では天下の機務を執る事など出来ないぞ。よくよく工夫せよ」と諭したのである。

(駿河土産)




317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 22:11:22.12 ID:fqb2tt9n
>例のごとく空寝していたが
酷いw

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 22:18:14.41 ID:0mUHFou+
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5243.html
これにもあるけど、狸寝入りが正信の助言スタイル

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 22:19:29.43 ID:0mUHFou+
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2264.html
実際有名だったようだ

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 23:04:46.23 ID:+P9ZyDx6
>>316
清正公は警戒されてたんじゃな。

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 01:36:52.79 ID:agaXous5
ちょっと調べてみたら駿河土産にこの話がないっぽいんだが、マイナーな写本出典とかなのだろうか

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 02:01:19.18 ID:Lpg/YPD5
>>321
『東照宮御実紀附録』巻十二に出典駿河土産で出てる

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 02:10:36.91 ID:agaXous5
>>322
おおそうか。ありがとう

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 09:03:52.19 ID:sarunVYn
安定の親父のオチ要員な正純w

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/21(日) 14:02:19.69 ID:QiJaL7ae
>>316
名将の例として真っ先に信玄謙信が出てくるんだなぁ

私はお前のことを羨ましく思うよ

2014年09月07日 19:00

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/06(土) 21:42:22.98 ID:FmXxlIRx
徳川秀忠はその老臣・本多佐渡守正信の事を大変尊敬しており、彼に三万石を与えようとした。
ところが正信はこう申し上げた

「大変ありがたく存じますが、私は元はただの鷹匠に過ぎませんでしたが、現在このように
お取り立て頂き、今の禄でさえ身に余ると思っています。この上過分の御加増を拝領しては、
冥加恐れ入る事であります。どうか、御加増のこと、下されませんように。」

「しかし正信よ、今のような低い禄のままでは、お前も万事不自由ではないか?」

「いえ、私は御政治を預かっていますので、天下の大名より金銀財貨が送られてきます。
それ故不足などということはありません。ですので、御加増は拝領いたしません。」

そう言うと正信は、袂から小さな壺を取り出し秀忠に差し出した。
秀忠はそれを手にしじっと眺め
「これは誰が送ってきたのだ?」

「黒田からです。」

「そうか…。私はお前のことを羨ましく思うよ。」
秀忠はそう、戯れを言ったという。

(明良洪範)



149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/06(土) 22:54:37.22 ID:Zibgnl2J
ちょっと待て、そのツボの中身は??

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/06(土) 23:27:26.19 ID:5CwXbNVQ
目薬です

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/06(土) 23:56:32.98 ID:YBTkKxbE
陳平の逆バージョンだなw

本多佐渡守の諫言

2013年07月22日 20:05

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 11:00:56.13 ID:+Df13ACw
本多佐渡守の諫言

家康公がある時、鷹野へと御出でになられたが今日は終始養生の為の出御で
あるから、何れも御前をはばからずに休息するようにとの事で、野に幔幕を
めぐらせた。

上様にもお弁当を召し上がっていただこうと御小姓衆が重箱を持参していた
のを本多佐渡守が見つけ

「これは御慰めの御成に用いるべき器ではない。かような品に華美を尽くし
ては、御供の末々までが見習って奢侈の始まりとなるだろう。天下の政務を
とられる御身には以ての外である。」

と言い重箱を取り捨てられた。

家康公はこれをもっともと思われたのか、いささかも機嫌を損ずること無く
御供の者に持参した握り飯を取り出させて召し上がられたと言う。

(翁草)




745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 15:01:11.95 ID:dj1tS+n0
他の三河武士でも成り立ちそうな話だな

サドの守も根は・・・

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 15:35:34.30 ID:vRxasmXX
小姓が天下の政務をとるだと…

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 15:46:35.02 ID:De49AHFU
たまには鯛の天ぷらでも食べたい (ボソッ

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/22(月) 15:49:03.40 ID:T1hGTjTW
重箱の中身はスタッフがきちんと食べたことを祈ろう…

振舞いに呼ばれた本多正信は

2013年05月06日 19:51

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 20:07:11.46 ID:BkSiWucm
ある時、榊原式部大輔(康政)が本多佐渡守(正信)を振舞いに呼んだことがあった。
この時、板倉伊賀守(勝重)も同行した。
ここで康政が正信に言った

「私は頂いた敷地が狭いため思ったように家を建てることが出来ない。ところが
そこで菜を作る者達には、広い敷地を与えられている。
なので敷地に家を立て、菜を作らない私のような者にも、広い敷地を頂きたいものだ。」

正信はこれを聞いて

「殿が菜を作る者達に好感を持ち、広い敷地を与えるのは当然のことです。
それは、今後何事が起こったとしても、自分の敷地で菜を作っている者達は、それが必ず御用に立つからです。

敷地に大きな家を作り菜を作らないあなた方は、いざという時に殿の足に縋ってたかる者というべきです。」

そう、返答したそうである。
(紀伊國物語)


(名将言行録)
552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 20:36:13.51 ID:uqsrtS/X
振舞いに呼ばれながらそこまで言うか

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 21:07:10.72 ID:wsoNoVcB
紀伊國物語って、他に見ない逸話がたくさんあるね
でもオチがない話が多いので、創作っぽさも感じない
もしかしたら、作者の好き嫌いが存分に入ってるのかも知れないけど

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/05(日) 21:44:01.37 ID:BBTeRyGk
>>552
下心が良く見える振舞いだから返事もあからさまにしたのかも

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 19:22:54.80 ID:aKQS9Ed0
>>551
して菜を作るものの名はなんと?

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 21:36:05.43 ID:a3wunDU1
>>560
鞍馬から牛若丸が出でまして、名も九郎判官…

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/06(月) 21:38:49.75 ID:XAN9v53R
義経にしておけ

本多正信は若年の頃より智慮のある人であった

2012年11月13日 19:58

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/13(火) 02:10:29.99 ID:qkkxzYjz
本多正信は若年の頃より智慮のある人であった。

大高城を攻めて引き取るという時に諸人は「城中にある米をこのままにしては
たちまち敵のものとなってしまう。米を取り出して敵に渡さないようにしよう」
と皆々相談したが、そう簡単なことではなかった。

しかしこの時、弥八郎が「米をこのまま置いておいて一旦敵のものになったとしても、
明日には敵を追い払ってこちらのものにすればよいではないか。少しも気遣う
ことはない」と言うので、そのままにしたところ案の如く翌日には敵を追い払い
米もすべて味方のものとなった。

その見地は若年の頃より少しも違わなかったのである。

――『良将言行録』




390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/13(火) 03:57:44.86 ID:p8VSHbSC
良将言行録ってのがあるんだ
知らなかった

忠に似た不忠

2012年11月03日 19:36

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/03(土) 00:44:04.95 ID:0bGScpr4
本多正信石田三成

石田三成の勤勉・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-419.html
コレについて評論してたので投稿してみる


本多正信がある時、家司の忠義ということについて、息子正純にこんな事を言った

「忠に似た不忠、というものがある。

例えば石田三成という人について、彼は大風雨のあった夜に、御城廻りの破損のことを一々見て、
明けた卯の刻(午前5時頃)には秀吉公に報告を提出した。
普請奉行から正規の被災報告が上がってきたのは、大きく遅れて巳の刻(午前9時頃)であった。
これは普請奉行の面目を完全に潰し、また反発を生む。

三成のやったことは一見良いことに見える、しかしこういった類の行為は、実際にはその家のため、また
家中の組織のためにも決して良い行いではないのだ。」
(武野燭談)

家司として忠義を成そうと思えば、家全体に与える影響を考えろ、という本多正信のお話




141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/03(土) 01:00:42.89 ID:UuVLxj1n
して、その面目をつぶされた奉行の名はなんと申すのですか?

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/03(土) 01:08:01.63 ID:Xy+T4uLQ
三成と正純って比較されることが多いような
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3139.html

それはそうと、>>141の元ネタのこの話だが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4162.html
ちょっと前に出てきた話でも権現様は同じ事を言ってるな
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6944.html

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/03(土) 08:05:44.19 ID:UzjnuD4y
>>140
「あいつが馬鹿みたいに働くから、まるで俺たちが働いてないように見えるじゃないか!」
と不良社員が糞真面目社員をイジメだすのがよくあるし、今も昔も変わらんなぁ

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/03(土) 08:43:53.25 ID:3/lmW+3v
>>140
戦場で言えばただの軍法破りの抜け駆けだしな

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/03(土) 08:49:11.24 ID:l6rLnvt2
この三成には辻正信的な越権行為を感じる
奉行の報告も遅すぎるわけでもないし、
調査内容に手落ちがあった場合、そこだけを報告すればよかった

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/03(土) 09:05:55.53 ID:XarWoEfn
三成はよかれと思ってやってるんだろうけどな
気をつけねばならん

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/03(土) 11:02:06.15 ID:nrl01yBv
本多正信、辻正信、本多正純、石田正澄
下の名前だけだとなんだかややこしい

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/03(土) 13:40:12.66 ID:wOSt/pQ5
>>145
さすがにつじーんと一緒にすんのはあんまりだ

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/03(土) 14:28:45.11 ID:wOSt/pQ5
というか>>140の話はみっちゃんがやっちゃった系の話で割と有名だが
武野燭談で佐渡殿が悪い例として引き合いに出したのが元ネタだったのか。勉強になったわ。
[ 続きを読む ]

本多正信の墓は

2012年04月12日 21:31

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/11(水) 22:26:42.57 ID:LKbIk1nm
本多正信の墓は西本願寺にあるのね。

で息子二人のお墓は曹洞宗。

これって徳川家に帰参する為に曹洞宗に改宗してみたものの、
一向宗と和睦後に再度改宗したって事?

それとも帰参した時期にはもう一向宗は無問題だったか?




579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/12(木) 00:28:28.25 ID:Juk8+p21
三河一向一揆は手打ちになってる
まあその手打ちの条件の超解釈で寺をぶっ壊されるわけだけどな

本多正信の考え

2012年02月18日 21:51

16 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/18(土) 01:57:21.99 ID:iQspbUuc
ある時、伏見城の台所で使用人による盗みが多発していた。この事に徳川家康

「けしからん!」

とたいへん腹を立てていた。これを見た本多正信

「それはめでたいことです。殿が天下一の大名となり、方々から貢物が届くようになったので、それを
盗む者も出たのです。」

と、この様に宥めたという。また、江戸幕府が成立した頃、家康が江戸に滞在する
大名達の風紀を取り締まろうとした際にも、考え直す様に進言した。
正信曰く、

「江戸での生活が面白くないものになってしまうと大名を参勤させるのが難しくなり、大乱の元となります。また、
 一代で何もかもお決めになられては後の将軍のやる事がなくなり、その威光が増しません。」

というもので、これを聞いた家康から、

「お前の考えは実に臆病で面白い。」

と笑って了承されたという。 「藩翰譜」



 


17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/18(土) 08:50:28.30 ID:ONldPFYy
「お前の考えは実に臆病で面白い。」

って褒められた時の複雑な気持ち知りたい
家康も文学的な表現するんだな

18 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/18(土) 14:21:54.32 ID:r2q59HFS
いくらなんでも屁理屈でしょこれ・・

命令も無いのに兵を動かすは軍法違反である

2012年02月17日 21:50

98 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/17(金) 02:16:18.81 ID:WhdLBxIG
上杉征伐に向かっていた最中のことである。下野国小山で石田三成挙兵の報告をうけた徳川家康は
決戦に備えて三男の秀忠に中山道を西上する様に命じた。サポート役に大久保忠隣牧野康成榊原康政
お目付け役として本多正信も帯同したこの部隊は進軍の途上、三成方の真田昌幸が籠る
上田城を攻撃した。その際、
窮地に陥った味方を救おうと、忠隣配下の杉浦文勝と康成配下の贄掃部が命令が無いまま兵を動かしたのだが、
正信はこれを

「いかに味方を救う為とはいえ、命令も無いのに兵を動かすは軍法違反である。
両名に厳しい処罰を与えるべきじゃ。」

と主張した。結果として文勝は切腹し、これに反論した康成は秀忠軍から外された。
武功派の忠隣らと、さしたる戦功もなく智謀で出世した
正信とはもともと馬が合わず、この一件がきっかけで不仲が表面化したという。
さらに戦後、正信が家康の後継者として二男の結城秀康を推薦したのに対し、
忠隣が秀忠を推した事などもあり、両者の溝はより一層深まっていったという。





107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/18(土) 09:32:00.36 ID:E47TbVU7
>>98
葵三代でのそのシーンよかった
大久保の家臣がいきなり名乗りをあげて
杉浦「主になりかわりお詫びもーす!」
忠隣「ひさかーつ!」
秀忠「何をするぅ~?(゚д゚)ポカーン」
と自害して忠隣が厳罰命じた正信睨みつけてた
その後次々斬首される兵達の断末魔 それを顔をそむけて聞く西田敏行のいたたまれない表情