神子田は戦功多しと雖も

2017年04月10日 17:46

羽柴秀吉の下に、天正の初めの頃、軍功度重なる輩として、神子田半左衛門(正治)、宮田喜八(光次)、
戸田三郎四郎(勝隆)、尾藤甚右衛門(知宣)の四人があった。彼らは戦のたびに必ず戦功を等しく成し、
世に広く知られていた。

秀吉が初めて播州を領した時、彼ら四人を賞して、録五千石が与えられた。
宮田、戸田、尾藤はこれに甚だ不満で悦ぶこと無かった。
しかし神子田ひとり大いに喜び、拝領の礼を整えようとした。
これに他の三人は異議を唱えた

「四人は同じく戦功を致した者たちなのだから、他の三人が同じように礼を致していない以上、
神子田もこれを請けず、三人と同じようにするべきだ。」

神子田はこの意見に
「私が大いに悦んでいるのは、領地を与えられたことを悦んでいるのではない。
我等四人の事は、その手を尽くしての勤功、誰が超える者があるだろうか。

今、秀吉様は播州の大国を領せられた。これまでに比べてその余分の多いことも知っている。
であるのに我等には「家中に分配して余りが無いため、先に少知を与える。」と命ぜられた。

この言葉は、我等を無知無才の者扱いしている。
無知無才の我等と考えれば、この五千石も身に過超しているではないか。
ここを以って悦んでいるのだ。」

そう答えたという。

神子田は戦功多しと雖も、常にこれを誇って秀吉を蔑如していた。

(士談)



728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/10(月) 21:32:49.38 ID:eowKfctM
神子田って面倒くさいけど権現様のところならうまくやっていけたような気がする

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/11(火) 14:06:36.84 ID:f2YAzpKz
神子田はそういうんじゃなく三成の武官版みたいな印象。
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小早川隆景の学校、太田道灌釈菜の和歌

2017年03月22日 10:40

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/21(火) 22:02:38.95 ID:c2T4aYH7
小早川隆景の学校、太田道灌釈菜の和歌

 公鑑(林述斎)が語った。

 我が国に幕府が開く以前は天下で兵乱が打ち続き、
儒教文籍が地を払って絶えていた。
この時に小早川隆景は筑前の名島で学校を設立したという。
珍しいことである。

 また太田道灌の『慕景集』には釈菜の歌がある。
二月の釈菜を金沢文庫で行うと三好日向守勝之のもとから申しこしてきたので、
「隣家梅花」という題を、聖人への供物に添えて送るとて

はな(る)なれやよよ友垣の近きには 遠きもなるる梅の下風

と詠ったという。
これは『論語』の首章である、
「学びて時に之を習ふ。亦説ばしからずや。
朋有り、遠方より来たる。亦楽しからずや。
人知らずして慍みず、亦君子ならずや。」

の意をいっているのだろう。

(甲子夜話)


上杉謙信の武勇

2011年06月12日 00:00

上杉謙信の武勇

上杉謙信 佐野天徳寺 上杉定勝


606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/11(土) 19:20:09.96 ID:FZoJDsvR
佐野天徳寺は、江戸城内で上杉定勝に向かい、
祖父謙信の武勇は、とても言葉では表せないと褒めた。

「我らの幼き頃、佐野は謙信公の旗下にあった。
謙信公は越後から上州の厩橋にお着きになると、
人馬を数日休められた。
それから関東へ打って出て縦横無尽の
働きをなされたが、五十日から七十日の間は、
大雷夕立が来たように敵も
城外へ出ることができなかった。
そして戦いが終わると謙信公は厩橋に帰城なされて、
十日ばかり方々の仕置きをなされたのち
越後へ帰陣なされた。
謙信公が猿原をすぎて越後に入ったとの報せを聞くと、
関東の北条方、武田方の敵城はいうまでもなく、
上杉方の城もホッと胸をなでおろした。
このように謙信公が越後から出陣したと聞くと、
敵も味方も恐れおののいたということである」

その場にあってこれを聞いた酒井忠勝、阿部重次はじめ
諸大名も謙信の凄まじさに感じぬ者はなかったという。




607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/11(土) 20:55:26.53 ID:ubCwah1w
災害か何かなのか謙信公は。

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/11(土) 21:41:50.22 ID:ZbsVbo7N
さすが毘沙門天の化身やでぇ・・・

左甚五郎その4:甚五郎の虎

2010年06月20日 00:01

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/19(土) 18:00:15 ID:fASr5E8P
現在の埼玉県吉見町。松山城下に岩殿山安楽寺という寺があった。
この寺の付近にはしばしば虎が出没し、畑や家畜を荒らしていたという。

何故、日本で虎が出るのか?
不思議に思いながらも実際に被害が出ている以上、何とかしなければいけない。
村人達は総出で大規模な虎刈りを行った。

虎を仕留めるコトは出来なかったが、勇敢な一人の村人が突いた槍が、虎の足を貫
き、撃退するコトには成功した。

村人達が血の後を追って虎の巣を探すと、安楽寺の境内へと続いている。
住職に訳を話し、村人達と共に血の後を追うと、お堂の欄間に彫られた虎が後ろ足
から血を流していた。

これを彫ったのも左甚五郎である。