主人の馬を戦場で放つ時

2017年07月29日 16:43

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/29(土) 13:46:06.13 ID:YqOeGAFB
城井の一揆の時、黒田長政の馬が深田に入りこんだのを、三浦六之助が自分の馬を奉り長政を退かせ、
長政の馬の尾を切り鐙を外してから長政を追いかけたという。
馬を奉って主人を撤退させたのは、沈勇かつ忠義ある行いであり、ことにこの時の作法が
勝れた心得と言うべきである。

古来より、主人の馬を戦場で放つ時、主人が討ち死にしたのではないことを示すため、
尾を切り鐙を外すのが礼であったという。
国府台の合戦の時、里見義弘に安西伊予守が自分の馬を奉って、自身は歩行して供をした。
しかし義弘の馬は鞍鐙をつけたまま陣中を駆け回ったため、これを見た兵たち
「さては義弘討ち死にか」と思い、これによって敗勢となり随兵の過半が討ち死にを遂げたという。

物事の究理薄いと、思わぬ失があるものなのだ。

(士談)


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戦国時代のとうもろこし

2009年09月27日 00:45

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 15:38:34 ID:r+1ra3R9
いい話スレで食べ物が賑わっているようなのでこっちにも


千葉県市原市には戦国時代から伝わるとされる話に、とうもろこしが登場します。

里見家に仕える多賀氏の池和田城が、小田原北条家に攻められ落城しました。
城主の姫は城から落ち延びますが、逃げた先にはとうもろこし畑があり、
風でとうもろこしの葉が音を立てると、敵の追っ手と勘違いした姫は自害してしまいました。

それ以来、池和田城周辺の人々は姫の死を悲しみ、落城から400年以上経った現在に至るまで
とうもろこしの栽培をしないということです。

つまり戦国期には、すでにとうもろこしは日本で栽培されていた事になります。
まぁとうもろこしは連作障害が酷いので勝手に廃れた、というあたりでしょうか。




773 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/26(土) 16:27:54 ID:lrF/GiKy
>>772
土地がやせる割には食うところが少ないからな。
北朝鮮でも目先の収穫にとらわれてとうもろこし栽培
奨励して、益々土地がやせていったそうだ。


里見義弘、大蛇を見る・いい話

2009年03月04日 00:22

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/03(火) 00:35:15 ID:RBcCZQ7L
里見義弘が、かねて争っていた隣国の大名と講和し、盟約を結ぶため国境へと向かった。
その折の事である。

彼が四、五人の郎党達と共に城下を出でて、三里ほどすすみ山間の道に入ると、谷を隔てた場所で
どこからともなく長さ十丈(約三十メートル)あまりの大蛇が現れ、そこにいた大きな牛を
一口で飲み込んでしまった。

里見の君臣は「なんというすさまじい光景だ」と、しばらく馬の足を止めそれを眺めていると、
牛を飲み終わったかの大蛇は谷へと下って行ったが、不思議な事にこの大蛇、下るに連れて
その姿を小さくし、谷底に着く頃には、ようやく一尺(約三十センチ)ほどの蛇となってしまった。

そしてこの蛇は草叢へと隠れようとしたが、空を飛んでいた鳶がこれを見つけ、急降下して掠め取り、
二町ばかり先の辻堂の屋根でたちまち喰ってしまった。

家臣たちは「これは一体どういうことなのか」と、この不思議に困惑していると、
義弘は、はっと気がつきこう言った。

「つまりこういうことだ。この大蛇が始め、十丈の時は大きな牛も呑み込んだが、変形する通力を
使ったのであろうが、一尺の蛇となっては、鳶にすら喰われてしまう。

これは蛇だけの話ではない。人にも大身小身の別がある。大身は大身なりの威を用い、
小身も小身なりの力を尽くす。大象兎径に遊ばず、鸞鳳鶏雀と群れを同じくせず、と言うではないか。

ところが、今日我々は会盟に、このわずかな人数で挑もうとしている。
これは大蛇が小蛇となって草叢に遊ぶのと同じ事ではないか?

先ほどの事は我等が氏神、八幡大菩薩がわしを守るために見せてくださったのであろう。
もし今回の会盟で何事か変事あれば、この少人数では何も出来ないという事を悟らせるためにな。」

そうして義弘たちは城にとって返し、しっかりとした共揃えを整え、再び会盟へと出発した、
とのことである。





472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/03(火) 01:30:58 ID:YRY+lOzR
>>469
>長さ十丈(約三十メートル)あまりの大蛇

・・・え?

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/03(火) 01:46:38 ID:ch158lLX
>>469
わがままフィリップと木伏ディレクターがアップを始めました

476 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/03(火) 10:53:25 ID:pqCIVy4s
>>469
鬼武蔵ならその蛇すら食ってしまうなw

正木時茂の「片手綱」・いい話

2009年02月09日 05:01

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 00:33:00 ID:FEWbUksu
安房の国里見義弘の家臣に、正木時茂と言う、剛勇無双と呼ばれた侍が居た。

時茂が12歳ほどの時である、乗馬の訓練を受けた時、彼は手綱を片手で持って
乗る事を好んだ。これに馬の師匠は怒りだし

「片手綱とは馬をよくよく乗り覚え、巧者と呼ばれてからはじめてやる様な乗り方です。
あなたは未だ、初歩の訓練すら終わっていないのに、そのような乗り方をすればそれは
馬上の姿勢も悪くなります。とにかく先ずは両手できちんと手綱を取って乗りなさい!」

それを聞いた時茂少年、
「わたしは将来、一軍を任されるほどの侍大将となることを目指しています。
大将であれば、馬から下りて敵に向かっていき、槍をあわす機会はほとんどありません。
大将として馬上において下知をし、また敵と戦うためには、片手綱の達者に
なっておくべきではないでしょうか?」

そう言って、ついに師匠の言う事を聞くことは無かった。

さて、時は流れ、里見義弘と北条氏康の戦った、鵠台の合戦が起こる。
この合戦において里見は敗北したが、正木時茂はしんがりの軍の大将として、
北条方の名のあるものを、片手綱で馬上より21人斬りおとし、その猛威をみせつけ、
静かに撤退した。


正木時茂は太膳亮を称していた。この時両軍の侍大将に、大膳と名乗るものが三人居た。
そこでこの頃の歌に

『依田の大膳、銭大ぜん。矢田の大膳、逃げ大ぜん、正木大膳、槍大ぜん。』

と、歌われたそうだ。

関東の勇者として名高い、槍大膳のお話。




439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 00:53:27 ID:i6m0WJec
21人て凄まじいな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 01:35:27 ID:gZCXANk7
>438
うむ「いくさ人の真の頼もしさが発揮されるのはむしろ負け戦、撤退戦」というヤツだな

普通に忠勇の士ってことだけど殿軍で大ハッスルした槍大膳カコイイ

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 02:22:06 ID:24IaX46/
>>438
この前後に正木時茂は3人居るからなぁ
どの正木時茂なのやら
謙信に救援要請して、その越軍南下によって里見の窮地を救った初代正木時茂
彼は鵠台の合戦以前に病死したというのが近年有力
初代が一番有名な「槍太膳」
その嫡男・信茂も正木時茂と呼ばれてるけど鵠台で戦死
初代時茂の養子、正木憲時(悪い話前スレ「越山して下さいヨー」の人)まで正木時茂
鵠台の合戦時は14歳
その年頃で「槍太膳」なんて呼ばれてるもんかな

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 07:23:18 ID:9sMsv83s
>>438
戦国のオレ流だな。

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 09:44:58 ID:OjWwYhRC
>>443
森武蔵を育成足軽で年俸400石で採用

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 10:00:54 ID:blLshG7I
>>441
殿で活躍できる武将って凄いよなー
退佐久間や逃げ弾正、金ヶ崎で殿軍務めた秀吉・家康とか
まー、活躍できなかった武将って名前も残らんのだろうけど

って事で退き佐久間や逃げ弾正の逸話ってなんか無いかな?
異名の割にはあんま逸話が有名じゃない気がする

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 11:52:31 ID:CN1l/RZK
>>444
俺達のモリさんが“きれいなモリさん”に!?

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 12:26:25 ID:6yb5N9sc
万石無いとゴネそうw

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 14:47:56 ID:gZCXANk7
>447
複数年契約と代理人交渉、甲斐入りの出来高で信濃川中島を要求するのか

 ・・・お乱の「近江坂本をどうのこうの」噂話が笑えなくなってきたじゃねーかw

里見義弘と青岳尼・悪い話

2009年02月09日 04:42

681 名前:里見義弘と青岳尼1[] 投稿日:2009/02/08(日) 19:04:46 ID:m4x87EQC
小弓公方足利義明の娘、青岳尼。
父の義明が第一次国府台合戦で血気に逸った末に討死すると、安房の里見氏の庇護を受け更に鎌倉の太平寺に尼として入った。
この寺は代々関東公方家から女住職を迎え入れており、小田原北条氏も保護していた。
青岳尼は父の仇の北条氏康の保護を受けることになったのである。

江戸湾の制海権を巡って戦火の絶えなかった里見氏と北条氏であったが、ある時に里見義弘が三浦半島への上陸に成功、鎌倉に突入してきた。
そして義弘は太平寺を訪れる。
彼は幼なじみであった青岳尼を安房へ迎え入れようとしていたのだ。

682 名前:里見義弘と青岳尼2[] 投稿日:2009/02/08(日) 19:10:17 ID:m4x87EQC
仏に仕えることで一生を終えるつもりでいた青岳尼にとっては、まさに青天の霹靂であった。
彼女は、本尊を手に対岸の安房へ渡ることを心に決めた。

めでたしめでたし、としたいが・・・

保護していた寺の住職と本尊を宿敵里見氏に奪われた北条氏康の怒りは尋常なものではなかった。

氏康は『まことにもって不思議なるお企て』と書状で不快感を顕にしたうえに、主のいなくなった太平寺を容赦なく破壊してしまった。

安房へ渡った青岳尼も、仏罰か長くは生きられなかったようである。