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里見氏の海防体制

2020年12月05日 16:23

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/05(土) 14:40:26.12 ID:Z0N+W521
里見義弘公は常にご油断無く、小田原方より船にて狼藉に来る時は、速やかに防いで、百姓、浦人、町人に
難儀無きようになされ、淵ノ崎に番所を据え、軍船か賊船(略奪目的のもの)が来る時は、早速合図の
太鼓を打ち続け、北には瀧山、東金、所々の番所より合図の太鼓を打ちつつ、その時妻子などを山に入れて
忍ばせ、貨財を隠し、敵勢を防ぐ勢が駆けつけると、百姓、町人、浦人も、その時の大将の下知を受け、
狼藉の者たちを討った。そして百姓以下手柄の者には御褒美が下された。

里見九代記

里見氏の海防体制について。



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「万年君」

2018年04月13日 16:51

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:06:14.87 ID:bVtCrpO+
1560年頃、安房・上総の西沿岸部は舟に乗って東京湾を渡ってきた盗賊たちが跋扈しており、夜中に民家や寺院に押し入り、放火や略奪、強姦など狼藉すること限りなかった。
盗賊と言えど身を立派な武具甲冑で固めた者たちなので、恐らく北条氏の水軍衆だったのだろう。
当時既に家督を嫡男義弘に譲って隠居の身となっていた里見義堯は領民の惨状を聞いて驚き、洲の岬、滝山、明ケ根の三か所に物見櫓を建てると、昼夜問わず湾に近づく船を片っ端から改めることとした。
しかしそれでも闇夜に紛れて小舟で乗り込んでは、民家を襲う者が絶えなかった。物見櫓から賊を見つけても、里見の武士団が到着した頃には小舟でさっさと逃げ帰ってしまうのである。
これには房州中の武士たちが怒り、岡本城という湾に面した小城を大改修し、賊に備えることとなった。

岡本城が完成するとここに里見義弘が入った。そして先に築いていた物見櫓と狼煙を使って連携し、賊が現れようものなら城より番士組という警備隊が出動、これを撃退することに成功した。
元亀年間(1570年代)にはかつての乱暴の煩いは嘘のように消え、房総の人々は戸閉まりを忘れるほどだったという。
盗賊を一掃した主君の恩を想い、民は万年君と称えた。


「万年君」と言えば里見義堯というイメージですが、元ネタの一つである『房総里見誌』を読むと里見義弘(あるいは里見親子)を指しているようにも読み取れます。
この逸話ではやられる側の里見氏も当然水軍衆を率いており、度々北条領(時には鎌倉まで)攻め入っていますので、
東京側・千葉側を問わず東京湾沿岸の人々は保安のために北条・里見の両方にミカジメを払わなければならない状況が続きました。
天正年間に里見義弘と北条氏政が和睦し相房御和睦が成りますと、房総の人々は歓喜したと言います。里見氏が尊崇すること止むない妙本寺日我も、
湾の向こう側が「味方」となったことで平和となり、二重賦課や乱暴狼藉が無くなり流通が盛んになったので、この和睦を大変高く評価しました。
父以来の因縁であった北条氏に事実上屈服することとなった里見義弘は大変悔しがった苦渋の選択でしたが、東京湾の平和は多くの人々から歓迎されたようです。



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:22:00.82 ID:ipnwiLT3
里見が無駄な抵抗を続けたせいで民が被害を被った悪い話では

里見八犬伝と資料捏造の影響かメジャーじゃないけど、
里見家って北条への裏切り、上杉から武田への寝返り、家督簒奪だのお家騒動だのが頻発するろくでもない一族だしな…

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 18:42:32.29 ID:R36Ud/OQ
>>761
安西や丸さんですか?

そんな家は日本中にごろごろしてるやん?
北隣の千葉もそうだし、鹿島、長尾、結城、由良・・・
内紛、鞍替えなんて珍しくもない

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 19:03:34.40 ID:R36Ud/OQ
>>760
結局、江戸湾の奥まで北条が進出してきたから小弓やそのあとを襲った里見とぶつかってるんだよね
早々に小弓が千葉を従えて武蔵や古河を狙う状況になっていたら、その後の関東の戦国時代が変わっていたかもしれない
まあ、あの脳筋さんではどんなに頑張っても北条とぶつかるだろうけど

この海賊って内房の正木一族なんじゃないかな
仲の悪かった内房正木が里見に帰ってくるのがこの頃(永録年間)だったし、手打ちで海賊行為を止めて復帰って感じだったりしないかな

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/12(木) 21:57:15.40 ID:JVeO1YPB
>>761
家督簒奪は武田の方が有名だろ
もはやDNAレベル

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 08:16:17.93 ID:ucnig8gM
>>764
源氏の血筋が悪い

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 11:44:15.87 ID:TbCnxCmu
為義、義朝が悪いね

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 13:04:55.58 ID:gyi31u/K
>>760
領民の建前「里見最高!万年君!」
領民の本音「さっさと北条に降伏しろよ…税の二重取りも略奪もキツいわボケ」

こういうことか

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 14:22:04.29 ID:4Dlrdyb0
氏政の娘貰っておきながら死んだから変わり寄越せって氏政の妹ひったくって、また死んだから武田と結んで最後は豊臣と結んだ里見くん凄すぎー

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/13(金) 14:46:39.00 ID:908VFRFc
同盟の大枠が変わるたびに出るありきたりの話だが、里見に親でも殺されたのだろうか?

主人の馬を戦場で放つ時

2017年07月29日 16:43

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/29(土) 13:46:06.13 ID:YqOeGAFB
城井の一揆の時、黒田長政の馬が深田に入りこんだのを、三浦六之助が自分の馬を奉り長政を退かせ、
長政の馬の尾を切り鐙を外してから長政を追いかけたという。
馬を奉って主人を撤退させたのは、沈勇かつ忠義ある行いであり、ことにこの時の作法が
勝れた心得と言うべきである。

古来より、主人の馬を戦場で放つ時、主人が討ち死にしたのではないことを示すため、
尾を切り鐙を外すのが礼であったという。
国府台の合戦の時、里見義弘に安西伊予守が自分の馬を奉って、自身は歩行して供をした。
しかし義弘の馬は鞍鐙をつけたまま陣中を駆け回ったため、これを見た兵たち
「さては義弘討ち死にか」と思い、これによって敗勢となり随兵の過半が討ち死にを遂げたという。

物事の究理薄いと、思わぬ失があるものなのだ。

(士談)


戦国時代のとうもろこし

2009年09月27日 00:45

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 15:38:34 ID:r+1ra3R9
いい話スレで食べ物が賑わっているようなのでこっちにも


千葉県市原市には戦国時代から伝わるとされる話に、とうもろこしが登場します。

里見家に仕える多賀氏の池和田城が、小田原北条家に攻められ落城しました。
城主の姫は城から落ち延びますが、逃げた先にはとうもろこし畑があり、
風でとうもろこしの葉が音を立てると、敵の追っ手と勘違いした姫は自害してしまいました。

それ以来、池和田城周辺の人々は姫の死を悲しみ、落城から400年以上経った現在に至るまで
とうもろこしの栽培をしないということです。

つまり戦国期には、すでにとうもろこしは日本で栽培されていた事になります。
まぁとうもろこしは連作障害が酷いので勝手に廃れた、というあたりでしょうか。




773 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/26(土) 16:27:54 ID:lrF/GiKy
>>772
土地がやせる割には食うところが少ないからな。
北朝鮮でも目先の収穫にとらわれてとうもろこし栽培
奨励して、益々土地がやせていったそうだ。


里見義弘、大蛇を見る・いい話

2009年03月04日 00:22

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/03(火) 00:35:15 ID:RBcCZQ7L
里見義弘が、かねて争っていた隣国の大名と講和し、盟約を結ぶため国境へと向かった。
その折の事である。

彼が四、五人の郎党達と共に城下を出でて、三里ほどすすみ山間の道に入ると、谷を隔てた場所で
どこからともなく長さ十丈(約三十メートル)あまりの大蛇が現れ、そこにいた大きな牛を
一口で飲み込んでしまった。

里見の君臣は「なんというすさまじい光景だ」と、しばらく馬の足を止めそれを眺めていると、
牛を飲み終わったかの大蛇は谷へと下って行ったが、不思議な事にこの大蛇、下るに連れて
その姿を小さくし、谷底に着く頃には、ようやく一尺(約三十センチ)ほどの蛇となってしまった。

そしてこの蛇は草叢へと隠れようとしたが、空を飛んでいた鳶がこれを見つけ、急降下して掠め取り、
二町ばかり先の辻堂の屋根でたちまち喰ってしまった。

家臣たちは「これは一体どういうことなのか」と、この不思議に困惑していると、
義弘は、はっと気がつきこう言った。

「つまりこういうことだ。この大蛇が始め、十丈の時は大きな牛も呑み込んだが、変形する通力を
使ったのであろうが、一尺の蛇となっては、鳶にすら喰われてしまう。

これは蛇だけの話ではない。人にも大身小身の別がある。大身は大身なりの威を用い、
小身も小身なりの力を尽くす。大象兎径に遊ばず、鸞鳳鶏雀と群れを同じくせず、と言うではないか。

ところが、今日我々は会盟に、このわずかな人数で挑もうとしている。
これは大蛇が小蛇となって草叢に遊ぶのと同じ事ではないか?

先ほどの事は我等が氏神、八幡大菩薩がわしを守るために見せてくださったのであろう。
もし今回の会盟で何事か変事あれば、この少人数では何も出来ないという事を悟らせるためにな。」

そうして義弘たちは城にとって返し、しっかりとした共揃えを整え、再び会盟へと出発した、
とのことである。





472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/03(火) 01:30:58 ID:YRY+lOzR
>>469
>長さ十丈(約三十メートル)あまりの大蛇

・・・え?

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/03(火) 01:46:38 ID:ch158lLX
>>469
わがままフィリップと木伏ディレクターがアップを始めました

476 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/03(火) 10:53:25 ID:pqCIVy4s
>>469
鬼武蔵ならその蛇すら食ってしまうなw

正木時茂の「片手綱」・いい話

2009年02月09日 05:01

438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 00:33:00 ID:FEWbUksu
安房の国里見義弘の家臣に、正木時茂と言う、剛勇無双と呼ばれた侍が居た。

時茂が12歳ほどの時である、乗馬の訓練を受けた時、彼は手綱を片手で持って
乗る事を好んだ。これに馬の師匠は怒りだし

「片手綱とは馬をよくよく乗り覚え、巧者と呼ばれてからはじめてやる様な乗り方です。
あなたは未だ、初歩の訓練すら終わっていないのに、そのような乗り方をすればそれは
馬上の姿勢も悪くなります。とにかく先ずは両手できちんと手綱を取って乗りなさい!」

それを聞いた時茂少年、
「わたしは将来、一軍を任されるほどの侍大将となることを目指しています。
大将であれば、馬から下りて敵に向かっていき、槍をあわす機会はほとんどありません。
大将として馬上において下知をし、また敵と戦うためには、片手綱の達者に
なっておくべきではないでしょうか?」

そう言って、ついに師匠の言う事を聞くことは無かった。

さて、時は流れ、里見義弘と北条氏康の戦った、鵠台の合戦が起こる。
この合戦において里見は敗北したが、正木時茂はしんがりの軍の大将として、
北条方の名のあるものを、片手綱で馬上より21人斬りおとし、その猛威をみせつけ、
静かに撤退した。


正木時茂は太膳亮を称していた。この時両軍の侍大将に、大膳と名乗るものが三人居た。
そこでこの頃の歌に

『依田の大膳、銭大ぜん。矢田の大膳、逃げ大ぜん、正木大膳、槍大ぜん。』

と、歌われたそうだ。

関東の勇者として名高い、槍大膳のお話。




439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 00:53:27 ID:i6m0WJec
21人て凄まじいな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 01:35:27 ID:gZCXANk7
>438
うむ「いくさ人の真の頼もしさが発揮されるのはむしろ負け戦、撤退戦」というヤツだな

普通に忠勇の士ってことだけど殿軍で大ハッスルした槍大膳カコイイ

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 02:22:06 ID:24IaX46/
>>438
この前後に正木時茂は3人居るからなぁ
どの正木時茂なのやら
謙信に救援要請して、その越軍南下によって里見の窮地を救った初代正木時茂
彼は鵠台の合戦以前に病死したというのが近年有力
初代が一番有名な「槍太膳」
その嫡男・信茂も正木時茂と呼ばれてるけど鵠台で戦死
初代時茂の養子、正木憲時(悪い話前スレ「越山して下さいヨー」の人)まで正木時茂
鵠台の合戦時は14歳
その年頃で「槍太膳」なんて呼ばれてるもんかな

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 07:23:18 ID:9sMsv83s
>>438
戦国のオレ流だな。

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 09:44:58 ID:OjWwYhRC
>>443
森武蔵を育成足軽で年俸400石で採用

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 10:00:54 ID:blLshG7I
>>441
殿で活躍できる武将って凄いよなー
退佐久間や逃げ弾正、金ヶ崎で殿軍務めた秀吉・家康とか
まー、活躍できなかった武将って名前も残らんのだろうけど

って事で退き佐久間や逃げ弾正の逸話ってなんか無いかな?
異名の割にはあんま逸話が有名じゃない気がする

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 11:52:31 ID:CN1l/RZK
>>444
俺達のモリさんが“きれいなモリさん”に!?

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 12:26:25 ID:6yb5N9sc
万石無いとゴネそうw

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 14:47:56 ID:gZCXANk7
>447
複数年契約と代理人交渉、甲斐入りの出来高で信濃川中島を要求するのか

 ・・・お乱の「近江坂本をどうのこうの」噂話が笑えなくなってきたじゃねーかw

里見義弘と青岳尼・悪い話

2009年02月09日 04:42

681 名前:里見義弘と青岳尼1[] 投稿日:2009/02/08(日) 19:04:46 ID:m4x87EQC
小弓公方足利義明の娘、青岳尼。
父の義明が第一次国府台合戦で血気に逸った末に討死すると、安房の里見氏の庇護を受け更に鎌倉の太平寺に尼として入った。
この寺は代々関東公方家から女住職を迎え入れており、小田原北条氏も保護していた。
青岳尼は父の仇の北条氏康の保護を受けることになったのである。

江戸湾の制海権を巡って戦火の絶えなかった里見氏と北条氏であったが、ある時に里見義弘が三浦半島への上陸に成功、鎌倉に突入してきた。
そして義弘は太平寺を訪れる。
彼は幼なじみであった青岳尼を安房へ迎え入れようとしていたのだ。

682 名前:里見義弘と青岳尼2[] 投稿日:2009/02/08(日) 19:10:17 ID:m4x87EQC
仏に仕えることで一生を終えるつもりでいた青岳尼にとっては、まさに青天の霹靂であった。
彼女は、本尊を手に対岸の安房へ渡ることを心に決めた。

めでたしめでたし、としたいが・・・

保護していた寺の住職と本尊を宿敵里見氏に奪われた北条氏康の怒りは尋常なものではなかった。

氏康は『まことにもって不思議なるお企て』と書状で不快感を顕にしたうえに、主のいなくなった太平寺を容赦なく破壊してしまった。

安房へ渡った青岳尼も、仏罰か長くは生きられなかったようである。