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合戦も仕掛けず、人質も出さず、

2019年01月13日 17:40

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 15:43:00.78 ID:Zdhm48/O
石田三成らの挙兵により、徳川家康が宇都宮から江戸へと出立する際、佐竹義宣や秋田城介(秋田実季)
らは、石田三成に一味していると考えられていた爲、『上方と一味に候哉、そうではなく今回
我々に同心するというのであれば人質を出し、我らへの一味の験を顕すように。』と、花房助兵衛、
島田次兵衛の両人を使いとして佐竹へ仰せに成った。

これについて義宣は父親の義重に「これはどうするべきか」と相談した。義重はこう言った

「私は隠居であり、万事はお前の心次第にすべきである。しかしながら上方に既に妻子を人質として
置いているからといって、彼等を不憫に思い、心では家康に一味したいと思いながら、人質故に
上方に一味するような事は有ってはならない。戦国の頃は、人質を棄て義兵を起こす事が武家の習いであった。

もし又、とにかく上方に一味したいと考えているのであれば、上杉景勝、秋田実季と申し合わせ、
早々に軍を起こし家康を食い止めるべきだ。」

しかし義宣はこの言葉を用いず、合戦も仕掛けず、人質も出さず、徒に時を過ごした。

(武功雑記)



630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 19:33:32.84 ID:/HqfRDEu
>>626
後世の人間の感覚だと、関ケ原の頃はまだ戦国自体だけど、当時はもう戦国の世は終わったって意識だったんだな

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 19:48:06.46 ID:mKSNkryl
太閤殿下のおかげやで

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 03:05:53.78 ID:MKG9TZe7
>>631
惣無事令の有無はさておき、小田原→奥州仕置で天下統一、各大名が実力で領土をぶんどるのはもうありえず、戦国は終わったという認識になるでそ。

ただまあ、戦国的な気風は綱吉が将軍になるまで続くわけだけど。

638 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/01/14(月) 09:53:34.15 ID:xO1Bprze
>>636
>ただまあ、戦国的な気風は綱吉が将軍になるまで続く

(改易しまくる)幕府が悪いよ幕府が~

ムダに浪人増やす事になったのもなぁ

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 09:58:48.12 ID:IEDTryi4
改易しないと舐められるしなあ

640 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/01/14(月) 12:21:36.97 ID:2qBLxhgW
>>630
おれは60歳だが、

15歳で関ヶ原に従軍してから、

37年間、弓鉄砲を使う場面は1度もなかった。
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律儀なる佐竹義宣

2018年08月13日 18:45

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 17:37:35.92 ID:edUVcuNz
権現様(徳川家康)が駿府城にあった時、御伽衆の一人が「誰々は殊の外律儀な人だ」と語った所、
これを聞いた家康は

「律儀なると者というのは極めて稀なものだ。私はこの歳に成るまで、律儀なる人というものは、
佐竹義宣以外に見たことがない。」

そう仰せに成った。しかしこれを御伽衆の者達は皆合点できなかった所、御前に居た永井左近が
「義宣殿を左様に思われるのはいかなる理由でしょうか?」
と申し上げた所、

「その方なども知るように、先年大阪にて石田治部と7人の大名たちの出入りの時(七将襲撃事件)、
治部は大阪を立ち退き、我等を頼み伏見に参った。この時大阪からの道中を佐竹義宣が警護して
上がった。その後、石田治部が佐和山に蟄居と成った時も、その道中において大名たちが語らって
彼を討ち果たすとの風聞があった、そのため私は三河守(結城秀康)に道中の見送りを申し付けたが、
これを義宣は聞き及び、『治部を大名共に討ち果たさせては一身の一分が立ちません!』と、
道中に目付け物聞きを置き、何か事が起これば即座に馳せ出して三河守と一手になって治部を
救援すると、上下とも軍装のまま待機していたという。となれば、律儀の人の実仁に紛れもない。

その後関ヶ原の一戦の時も、大阪方にも我々にも付かず、心底がわからず訝しいと思い、しかし
そのままには置いておけなかった。もし我等に一味して関ヶ原表に出勢し、戦功などあれば、朝熊も
先祖代々の領地であったし、水戸の安堵は相違無かったはずなのに、残念な事であった。

人が律儀というのは、褒めるべき資質で随分良いことでは有るのだが、律儀すぎると、
事に臨んでは一思慮無ければならぬものなのだ。」

そう仰られた。
(駿河土産)

自分も律義者と言われていた家康の考える律儀No.1は佐竹義宣なのね



152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 18:51:56.64 ID:2MDI+lEV
佐竹が関ケ原で東軍について戦功挙げたら、関東と南東北に合わせて100万石クラスの
大大名が登場するわけで、徳川にとって危険極まりないわけだが…

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 19:12:25.13 ID:2pUDfcy6
その場合は中国か九州あたりで大封を与えるんでないの

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 19:17:19.99 ID:edUVcuNz
佐竹は秀吉に臣従した時は25万石だったのが、太閤検地で領地そのままなのに一気に54万石にされちゃってるんだよなあ。
単純に軍役倍って事だから、豊臣政権ってホントエグいと思う。

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 19:49:33.76 ID:k3r0B2xw
下手に東軍で活躍して大大名になってたら大阪の陣のあと血眼になって粗探しされて改易されてそう

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 20:16:21.87 ID:AaT6or0e
義宣ならやらかさんとは思うが
まあ突っつくなら配下の徳川氏とかか
あそこは将軍家に憚ることなく徳川を名乗り続けたよね

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 20:33:31.48 ID:Fqze60QX
>>155
関ケ原後に川井事件とか、お家騒動やらかしているしねい。
佐竹って小田原後、豊臣大名になってから中央集権化にやっと取りかかれて、
関ケ原後に転封されてからが改革の本番という感じだったから、
まだ家内統制取れていない段階で、しかも転封されずに大封になったら、
いったいどんなことになるやら…

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 20:38:52.18 ID:T7fOEd4M
人間万事塞翁が馬だな!

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 21:24:11.74 ID:wsGVjBat
>>154
無役16万石が設定されたから倍にゃなってない
島津の時もそうだけど検地の打出し分で大名の蔵入りを増やすのが主目的だしね

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 11:12:30.83 ID:BRAOGxPy
>>157
関ヶ原後に転封なし加増ありで大封というと前田氏、最上氏、伊達氏くらいかな
その後を見てると結局は運次第かねぇ

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 11:16:13.37 ID:i/S8w+GS
>>163
基本、どれも田舎の藩だなぁ。

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 11:26:50.19 ID:uVBU3cE+
>>163
加藤

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 13:34:42.18 ID:+D6JsEd6
>>151
朝熊って伊勢のだよね?ここが先祖代々の領地ってどういうことなの?

どうしてかつての仇敵に縁のある人々を率いて

2016年09月10日 09:01

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/10(土) 07:36:06.71 ID:jkkgXYN4
佐竹義宣石田三成と親しかったのは、理由の有ることであった。
常陸国には三十三館(南方三十三館)といって、名家の末があったら、年来義宣の下知に
従おうとしなかった。石田三成は関白秀吉の覚えめでたい人物であったので、義宣はこの人に
付いて「三十三館の者共が、関白の仰せを軽んじています。」と訴えた。

三成は秀吉の側にあり、これを取り次ぐと、秀吉は「下知に背くものは尽く誅すべし。」と
仰せ下した。
義宣はこれを受け、三十三館の者達を招き寄せると、そこに武士を伏せておき、尽くこれを殺した。
そして彼らの城々に討手を遣わしてその一党を攻め滅ぼし、所領尽く併呑した。

関ヶ原の後、佐竹は出羽国に転封となった。
この時佐竹家臣の群馬丹波守猛虎という者は義宣を諌めた

「君にはどうして、唯々諾々と先祖伝来の地を他人に渡されるのですか!?
ここには恩顧普代の侍が5万人あり、兵糧の蓄えも、10年ほどは不足しません。
さらに、この城(水戸城)は要害堅固であり、天下の兵を集めて攻められたとしても、
一気に落とされるようなことはありません!
しかし一旦ここを去ってしまえば、もうどうにも出来なくなるではありませんか。」

しかし義宣は言った
「お前の言葉は理あるに似ている。だがな、佐竹義久が内府のことを天の許せる英雄であると言ったのは
違っていなかった。

私は先に、三十三館の者たちを滅ぼし、その領地を尽く取り上げた。
今日、私に従っている者達の中には、その親族遺臣が少なからず居るが、彼らが背き離れようとしないのは
私を畏れるためではない。内府の威を憚っているからだ。

お前は私のために命を惜しまぬと言うが、どうしてかつての仇敵に縁のある人々を率いて、
天の許せる人に歯向かうことが出来るだろうか?戦が始まる前に、内乱が起こればそれこを
どうしようもなくなる。」

こうして、佐竹義宣は七十余騎のを率いて累代の地を去り、秋田城へと入った。
しかし群馬丹波守猛虎は

「よしよし、大腰抜けの大将の手に従って、何の功があるだろうか!我のやり方を見よ!」
そう言って手の者を率いて旧領に立ち返り、徳川家の代官を夜討ちしようとしたが、事表れて
捕縛され斬られた。

(話園)



67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/10(土) 08:06:35.79 ID:nMnnQhTV
車か

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/10(土) 10:01:45.01 ID:FHiD7+jV
団吉さんの先祖か

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/10(土) 11:36:58.85 ID:6O+I42Iv
猛虎魂を感じる

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/12(月) 13:19:51.55 ID:BBC0j9Np
>>66 悪名高い三十三館のだまし討ちですね。

佐竹義宣、ついうっかり

2014年01月30日 19:14

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 20:04:57.33 ID:eZ/ti//Q
慶長5年(1600)、徳川家康公は上杉景勝征伐のため東下し、7月21日に江戸を出立。24日には
下野の小山に到着した。

この頃、常陸国の佐竹右京大夫義宣は敵とも味方ともはっきりしなかったため、家康公より
島田治兵衛が遣わされ、その趣きを聞かせた。

佐竹義宣は島田に対し、この様に答えた
「我々は家康公に対し別心はありません。しかしながら大阪に人質を置いているため、会津に
出陣することは出来ないのです。」

島田はこの答えを不思議に思った
「現在、上方は平穏ではありませんか。それなのにどうしてそのように仰るのでしょうか?」

これに義宣は
「上方において石田治部少輔(三成)が軍を起こし、関ヶ原へと攻め下るのだから、そう申すのです。」
と答えた。

これより以前に、石田三成が家康公関東御下向の後で陰謀をめぐらし反逆を企てる、という話は
風聞としてはあったのだが、ここまで確かに顕れた証拠はなかったのだ。
そしてこの24日に上方より小山に飛脚が到着し、石田が家康公を討とうと謀りをめぐらし、
諸国の軍勢を集め家康公の味方の城へ軍勢を派遣したという事を伝えた。

(黒田家譜)

佐竹義宣、ついうっかり三成の挙兵を言ってしまったお話。




422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 20:21:50.67 ID:3S0k67iN
おい、三成は最初から関ヶ原へしか行かないつもりだったのかよw

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 21:32:30.04 ID:XoDdgJfy
>>421
西軍って岐阜城を背にして清洲まで攻める計画じゃなかった?

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 22:12:27.78 ID:4N27C86U
会津征伐に参加した諸侯が普通に味方してくれるとか期待してたっぽいけど

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 22:15:47.93 ID:utcKB+T2
>>425
島津義弘が国元に送った書状ね。「奉行たちは自分たちが決起すれば家康について東下した連中は
みんな頭下げて畿内に戻ってくるって言ったのに、誰一人帰ってこない。どうなってるんだ!?」って内容の。

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 22:17:12.13 ID:Qc5ZAT+e
兄ちゃんもそんな手紙見せられたんじゃ、援軍送りたくないわな
実際送らずに正解だったし

佐竹義宣、肥前名護屋にて

2013年01月22日 19:52

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/22(火) 02:48:10.79 ID:JhwoqoZl
文禄二年(1593)、朝鮮出兵のため肥前名護屋城に在陣していた佐竹義宣が国元の重臣・和田昭為へ送った
面白い書状が残っている。

(追而書き)

なおなお、重ねて桃源へ申します。(肥前名護屋の)陣中では茶の湯の流行ること、並々ならぬ次第です。

太閤様などは一日はお城を出られて方々へ出向かれ、私なども同じように数寄のため
方々の陣へ出向いております。
まつほ(茶器か?)なども二十余見ました。

そうそう、また茶の湯の稽古をしたので、関東で一番の数寄者でもなければ、私の前では
茶でも湯でも、貴方などには口を開かせませんよ?
(原文:関東ニおゐてハ一之すきしやたらす候ハゝ、それかしまへなとにてハ、茶とも湯共、
其方なとハ口ハあかせ申ましく候)
今はただただ茶の湯一つばかりをしております。
(原文:たゝ/\きさ一ハかりハすかるへく候)
以上。

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/22(火) 02:49:25.91 ID:JhwoqoZl
(本文)
重ねて手紙にて申し遣わします。
こちらは別段何事もなく、高麗(朝鮮)のことも順調である、などと聞こえております。
ただ、今のまま相済む、などという事は無いでしょう。
度々申し遣わしている事ですが、当春は太閤様が自ら朝鮮へ御渡海される事になるでしょうから、
中の丸の事は少しも油断してはなりません。
年貢についても引き詰めて催促するようにして下さい。
普請は三月から申し付けるようお願いします。

それから、人見主膳の所に置いてある鼓の筒(どう)を返事の際に大小ともに寄越して下さい。
大鼓は瓜の蒔絵、小鼓はたんぽぽの蒔絵のものですよ。

ああ、小鼓は皮も一緒に添えて送って下さい。大鼓は筒だけで結構です。

そうそう、笛が館にありますからよくよく尋ねて送って下さい。
主膳の所にも笛が一つあるはずですから、これもまた送って下さいね。
主膳の所にないなら宗叱の所にあるでしょう。

太閤様は日々御能をされますから、陣中では乱舞が流行っております。
重臣共はこぞって狂言をしているので、私も稽古をしてやろうと思います。
狂言の相手には桃源、玄喜、伊賀などを寄越して下さい。
唐へ渡って無事に帰ったら、国元で能の興行を考えておりますから、何事においても諸法度以下、
油断無く申し付けて下さい。謹言。

正月十九日 義宣(花押)
和田安房守殿

(『阿保文書』)


陣中では秀吉の影響で能と茶の湯が流行っており、茶の湯や乱舞を楽しむ大名も多かったようだ。

義宣は国元の仕置きだけでなく鼓、笛に関してもあれこれと細かい指示を出しており、
追伸にあたる追而書きでも茶の湯の腕前についても自信満々に述べていて、あの肖像画からは
伺い知れない佐竹義宣像が浮かび上がってくるような書状である。




161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/22(火) 06:02:00.85 ID:PNOCPoXy
太閤様は日々仮装コント大会をされますから、陣中ではコスプレが流行って云々…

佐竹義宣が八郎潟で猟をした後

2012年03月18日 23:39

336 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/18(日) 02:56:39.11 ID:24AxVwLe
佐竹義宣が八郎潟で猟をした後、義宣が撃った弾が白鳥に命中したものの、死なずに
泳いで逃げたうえ、後を追っていた家臣も白鳥を取り逃がしてしまった。これに苛立った義宣は

「白鳥を取り逃がすとは使えん奴だ!儂が撃ち殺してやる!」

と、この時同行していた家臣の宇都宮帯刀に銃に弾を込めるように命令した。
しかし、帯刀は銃に紙の弾を込めた為に発砲しても家臣は死なず、義宣は益々怒ってもう一度弾を込めるように指示。
すると帯刀は

「銃は平時に人を撃つものではございませんぞ。」

と諫言した。この言葉に我に返った義宣は、家臣を許し、帯刀を

「猟に出て家臣を一人得たのはお前の功績だ」

と称えたという。




337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 03:00:03.41 ID:HcujyE4w
白鳥の後を追っていた家臣っていうのも
実は捕まえる気が無かったんじゃね?

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 03:02:45.97 ID:GnNxOBxs
干潟とはいえ泳いで逃げたから追った家臣は船でもねぇと追いつかないだろうしな

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 07:01:34.27 ID:mqjLXVLP
鶴のお吸い物って聞くけど
白鳥って食べてたのかな?

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 08:14:55.09 ID:OVCW5fx9
>>336
いい話か?…w

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 09:29:54.04 ID:uyfew7X6
>>339
秀吉が博多の茶会で食べてるらしいよ
あと会津辺りにも記録があるらしい
そんなに珍しいことでもなかったみたい?

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 20:54:32.89 ID:Yh2hzR8m
>>339
塩漬けにして、主に贈答品に使われたらしい
「しろとり」と呼ばれていたようだ

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 22:29:52.20 ID:mzZLnm0k
鮭様が仮病をはじめたようです

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 22:52:28.03 ID:BGiYtDlP
>>347
まむし「なんと!」
爆弾正「これは縁起の良い」
八丈島「早速父上に献上せねば」

佐竹義宣「二人とも、この機会に仲直りしましょうよ。ね?」

2012年03月17日 22:35

338 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/17(土) 03:07:14.50 ID:YFD4c2fs
佐竹義宣が、伊達政宗上杉景勝島津忠恒らと共に徳川家家臣の屋敷での酒宴に参加した時のことである。
義宣はこの時、普段から仲が悪かった政宗と景勝を和解させる為に

「二人とも、この機会に仲直りしましょうよ。ね?」

と何度も言い聞かせた。

これに景勝は応じたが、政宗はといえば

「俺も別に構わんぞ。だが、もし貴殿が幕府に背くような事あらば、俺が直ちに粉砕してやるわ!」

と逆に景勝を挑発した。

「・・・・・・てめぇ」

善意を踏みにじられてしまった義宣は政宗のこの発言にブチギレてしまい、

「上等だよ!だったら、もしお前が幕府に背いた時には、俺か景勝のいずれかか先陣になって
 お前をぶっ潰してやんよ!」

と応酬した。その後、政宗は自身の後継者である忠宗が忠恒に刀を贈った話をきっかけに

「義宣の刀が見たい。」

と言い出したが、義宣は

「誰が見せるか。」

と頑として応じなかった。

「おいおい、お前は何をそこまで用心してんだよ?」

と政宗に問われると

「お前相手に、用心しない訳がないだろうが。」

と返したという。仲介役がケンカの当事者になってしまったお話である。
最後に、この三人の喧嘩をすぐ傍で見ていた忠恒の胸中は如何ばかりか・・・




339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 03:31:25.29 ID:pEH00W7A
www

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 04:11:18.12 ID:r7ZtpCnm
さすが従兄弟、仲がいい

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 04:44:19.56 ID:uNP/Qpy5
島津忠恒「従兄弟なら仲良くするべきだし、刀を御披露目して何か都合の悪い事などあるまいキリッ
あぁこんな時に七柱槍同期の直江君がいれば場が収まっただろうに…」

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 04:59:36.50 ID:afywaHqA
こんなに表面を取り繕うのが下手で武将として大丈夫なのかw

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 09:54:56.76 ID:McuEaZUB
なんとなく話がすすんでるけど景勝さんひとこともしゃべってないな

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 10:07:51.64 ID:pspJNCZ6
代わりに怒ってあげた義宣はいい奴
政宗は馬鹿
忠恒は恐らく黒い

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 10:34:11.64 ID:FUzLXt9Y
>>338
期待に違わぬ流れで安心した

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 11:03:14.68 ID:8tVuFdRW
>>338
これは…。

ホストの徳川家家臣は胃が痛かっただろうなw

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 11:35:07.64 ID:fn8GZJRV
従兄弟でも義宣さんはどちらかというと政宗さんとは反りが合わないだろうしね

つか、喧嘩の仲裁ってよっぱど格が上とかじゃないとこんなことになるよね
酔っ払いの喧嘩も止めに入った人がボコボコにされてるのよく見るしw

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 11:37:53.13 ID:evOgrSns
>>338
でもこの頃にはもう幕府の先陣は
譜代大名は井伊家、外様大名は藤堂家と決まってるんだよな

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 11:47:27.63 ID:TcCo+wg/
井伊藤堂は将軍の露払い役。徳川本隊の先陣な。
全体の先陣は近隣の大名が勤める物。(例、島原の乱)

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 11:50:21.46 ID:evOgrSns
成る程そうだよな

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 13:46:09.14 ID:a5/BpXjG
秀忠が江戸城で政宗、景勝、義宣を招いて茶会を開いたら、政宗が関ヶ原の時の活躍を自慢して険悪な空気になったって話があるけど、
これ、秀忠が仲裁目的で開催した茶会だとしたら気の毒だな

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 14:23:05.37 ID:WFciijk8
景勝生存中だから秀忠が将軍時代で間違いはないな

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 14:52:43.90 ID:McuEaZUB
景勝さん無口だからいつも伊達さんが喧嘩ふっかけてんのかな

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 15:05:10.63 ID:r7ZtpCnm
兼続「と、殿がおっしゃっております」

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 16:29:25.46 ID:8wkEdfSc
佐竹義宣ももう立派な徳川幕府配下の大名だな

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 18:36:57.63 ID:q943JvhR
そもそも伊達と上杉以上に、伊達と佐竹は仲悪いだろ

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 23:07:17.55 ID:ehVTna+S
伊達さんは相馬佐竹上杉蒲生最上木村…敵大杉

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 23:13:54.77 ID:4VULFOJs
>>357
四面楚歌だなww

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/17(土) 23:47:28.93 ID:AYDJTTsS
そもそも義宣と景勝は仲が良くて、二人とも政宗とは仲が悪い
という関係なんだから佐竹上杉と伊達を秀忠が和解させようとした
って方がなんとなく納得できる

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 10:51:06.53 ID:gjoJoBI7
上杉は上杉で、伊達の陣幕の一件があったりするしなあw

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 20:53:08.82 ID:Yh2hzR8m
誰だよ、佐竹に仲介役頼んだのw

362 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/18(日) 21:06:07.50 ID:qD2nic9E
私です。

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 21:35:54.68 ID:5qVzWQfa
>>361
当人たちでも、景勝か政宗に頼むよかまだ可能性はあるだろ、と思ったんだろう…

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 22:27:02.98 ID:mzZLnm0k
伊達が敵だらけなのは全部まーくんのせいだろw

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 22:49:35.23 ID:cEK7zCkv
周り全てに喧嘩売って敵にして
徳川に泣き付いたんだっけ

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 23:00:29.10 ID:XkcCDWo5
東北の信長だな

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 23:04:56.64 ID:SCH5DpQ9
東北の信長といえば八戸信長だろう

律義者と岩瀬御台のちょっと切ない話

2011年11月10日 22:01

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 17:22:04.68 ID:w3gtJ+56
律義者と岩瀬御台のちょっと切ない話


二階堂氏の本拠地である須賀川城は、天正十七年、伊達政宗に攻められて落城。
蘆名盛隆の娘で、二階堂家の養女となっていた姫は
祖母であり且つ養母でもある阿南の方とともに常陸国の佐竹に身を寄せた。
このとき佐竹義宣は正室を亡くして独り身だった。

ほどなくして姫は義宣の側室となる。
南奥羽の名門、蘆名・二階堂両家の血を引く姫である。本来なら正室に据えられるべきところだが、
多賀谷重経の娘を継室に迎える話がほぼ決まっていたため、義宣は家柄より約束を優先した。
律義者はこの頃から律義者である。
二階堂の姫はその生まれの良さから、側室ながら「岩瀬『御台』」と呼ばれた。
二人に子は出来なかったが、仲は良好だったようだ。

ちなみに義宣の父・義重と母・伊達御前は姉妹で、阿南の方は伊達御前の実の姉。
岩瀬御台の母も阿南の方の妹で、父の盛隆は阿南の方の実の息子。
義宣は従兄妹同士の結婚で生まれ、自分は従妹を側室に迎えたことになる。


時は流れ、関ヶ原の戦いで向背を明確にしなかった佐竹はその咎で出羽久保田へ転封。
義宣の母と正室は江戸に人質住まいとなり、岩瀬御台と阿南の方は入部に従った。
しかし阿南の方は久保田へ向かう途中で体調を崩し、懐かしい須賀川で没した。

これでようやく落ち着くかと思ったのも束の間、公儀から突然「岩瀬御台と離縁せよ」との命が下る。
理由ははっきりしない。
伊達政宗が最後まで自分に抗った二階堂を憎み、その血筋を残したくなかったためとも言われている。
ともかく、逆らえば今度こそ佐竹は御家取り潰しである。
義宣は岩瀬御台を離縁。二度と会うことはなかった。

岩瀬御台は、かつての二階堂の忠臣・須田盛秀が城代を務める横手城に預けられた。
ここで須賀川衆と呼ばれる二階堂以来の懐かしい家臣たちに囲まれて余生を送る。

久保田城との糸は完全に切れたわけではなく、梅津政景らが頻繁に往来してご機嫌伺いに訪れた。
義宣からの書状は一通もなかったが、何かにつけ贈り物があったという。
体調を崩したと聞いて、医師を寄越して来たりもした。
不本意な離別を強いた女への、義宣のせめてもの心遣いだろうか。

佐竹義宣は寛永十年一月に64歳で死去。
その6年後の寛永十六年、岩瀬御台は波乱に満ちた生涯を終えた。法名・昌寿院殿光円正瑞大姉。




465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 18:39:14.96 ID:QvBNPVth
>>464
佐竹義宣はなんで子供が生まれなかったんだろうな・・・立花宗茂は戦いづくめの日々だったという理由があるが

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 18:50:01.55 ID:bThRjFnh
>>465
戦国武将だって人間だし、現代と同じ理由じゃないかな
当時は養子を貰うことに対して今ほど偏見はなかっただろうけど、
それでも我が子ができないってのは切なかったと思うよ
正室との間には一人生まれたが夭折したとも言うね

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 19:31:14.46 ID:7oWHMmq6
種無しじゃなかったのか、はたまた正室が浮気(ry

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 19:33:45.78 ID:bThRjFnh
秀頼俗説じゃあるまいしw

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 19:41:08.25 ID:UJyW/bsg
秀頼は、むしろ本当に秀吉の子だったら驚くレベル……


470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 19:42:09.99 ID:iVapbY9H
そういえば福島正則って跡継ぎに親族から養子取ったらそのあと実子が生まれて邪魔になった養子を殺す、という
秀吉と全く同じ事をしているな。

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 19:45:52.34 ID:hy+M0ysC
ええ話や・・・・と感動したのに>>467で台無しw

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 19:46:06.32 ID:mhXZ9dUg
足利義政を考えると、実際さっさと殺したほうが混乱が拡大しないような

473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 19:51:26.51 ID:hy+M0ysC
そういや松明あかしは今度の土曜日か


474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 20:02:13.72 ID:YIMqTpm4
>>472
最近の研究だと、足利義政の嫡子問題と応仁の乱の勃興は殆ど関係ないらしいぞ。
むしろ足利義視は、応仁の乱の対応で義政と対立して廃嫡された模様。

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 20:07:21.74 ID:mhXZ9dUg
あれ、応仁の乱の原因は様々だから跡継ぎ問題にしぼることはできない、とは聞いていたが
混乱に拍車をかけてた、まで否定されているのか

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 20:13:01.38 ID:0ug3rxk6
>>472
さっさと殺して、それが主原因ではないにしろ、
豊臣家も福島家もわやになってるから甲斐もなし

正則の場合は殺した養子の嫁が、徳川縁故者だっただけに
さっさと殺したことが、後々けっこう響いたのかもよ?

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 20:31:22.24 ID:YIMqTpm4
>>475
「勃興」ね。
そもそも応仁の乱は畠山、斯波の両管領家の家督争いがベースにあって、義政実子義尚の誕生以前、
斯波義廉が畠山義就と、細川勝元の盟友でありながら赤松問題で勝元と対立した山名宗全を結びつけることで
「西軍」が形成された。

これと細川勝元・斯波義敏・畠山政長勢力との抗争が、文正の政変で義政が将軍専制政治の確立に
失敗したことによりストップがかからず、ついに合戦に発展した、という見方が最近では主流だと思う。
そもそも文正の政変では義政は義尚の乳父の伊勢貞親を失脚させ義視の肩を持っているほどだし。

応仁の乱はものすごくややこしいけど、いずれにせよ応仁元年の時点でまだ31歳の若さで、
非常に健康だった足利義政の後継が大きな争点だったというのは、ちょっと無理があると思う。

結果的に義尚が文明5年にわずか8歳で将軍位につくけど、あれは後継抗争の結果と言うより
人心一新のためという要素が強いと思うよ。

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 20:51:02.27 ID:MTuD2flb
後継者問題ってその時の当主が健康だろうと若かろうと
明確に決まってる存在がいない限り常に起こってる印象があるけど

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 22:00:47.50 ID:4KBaWTkO
>>464
伊達御前は彦姫かな?とすると「義宣の父・義重と母・伊達御前は姉妹」は、
「義宣の母と伊達御前、阿南の方は姉妹」(いずれも伊達晴宗と久保姫との娘)で整合性が合うね

それと他のスレで教えてもらったけど、阿南の方は二階堂盛義の後室で蘆名盛隆の生母ではなく、
盛隆の生母は葦名盛氏の娘で、その縁で盛隆が葦名を継いだらしい
よって阿南の方は岩瀬御台の祖母ではなく、伯母になる
母が阿南の方だと盛隆は叔母と結婚した事になるからなぁ…
(伊達実元は姪と結婚して成実が生まれたけど…)
それでも盛隆の正室・彦姫は、元は葦名盛興(盛隆の伯父か叔父)の正室だった訳で
義理とは言え盛隆は叔母と結婚した事には違いない

あー複雑だ

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 22:47:52.32 ID:hy+M0ysC
>>480
蘆名盛隆は二階堂盛義と阿南の方の実子じゃなかったっけ??
盛隆は二階堂家から蘆名へ人質に出されてたが
出来が良かったのか顔が良かったのか何なのか、
蘆名盛興が死んだ後に彦姫を正室に迎える形で婿養子になった筈。

彦姫と盛興との間には岩姫(のちの小杉山御台。岩瀬御台の異父姉)がいて
彼女は蘆名に養子に入った佐竹義重の次男・義広を婿に迎えた。
それが伊達と佐竹・蘆名の間の軋轢を更に広げて
最終的に摺上原の戦いに繋がった。


482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 22:51:10.31 ID:hy+M0ysC
そういや阿南の方が産んだ娘(岩瀬御台の母親とは別)は岩城常隆に嫁いだけど
こっちは身重の体で佐竹に追われて伊達に逃れて、成実の継室に入ったんだっけね

483 名前:480[sage] 投稿日:2011/11/10(木) 23:45:54.86 ID:4KBaWTkO
>>481
うん、俺も蘆名盛隆は二階堂盛義と阿南の方の実子だと思ってた
Webでは何を見てもそう書いてるし
よって、ソースを提示出来ず申し訳ない

血縁的には葦名は佐竹よりも伊達に近いのになぁ
・蘆名盛高の娘は伊達稙宗の正室
・蘆名盛氏の正室は伊達稙宗の娘
・蘆名盛興と盛隆の正室は伊達晴宗の娘(彦姫)

>>482
そうそう、岩城御膳
常隆との間に出来た子、長次郎隆道が政宗の偏諱と伊達姓を賜って
伊達政隆として一門第六席・岩谷堂伊達家の祖になってる
祖母の久保姫に並々ならぬ敬慕の念を持っていた政宗だけに
久保姫の実家である岩城の血統を厚遇したと言えるね(政隆の祖父・親隆は輝宗の実兄だし)
「政」の字の拝領なんて、そうそうない
(留守政景と国分政重(盛重)、小次郎政道(?)は将来の藤次郎政宗の血族として輝宗が
与えたものか??)

ちなみに岩城御膳、資料によっては妾とか佐竹側の資料には政隆共々、存在が抹消されてる
仕方ないか

誓紙提出、佐竹義宣と伊達政宗

2011年09月09日 22:18

805 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/09/09(金) 18:18:32.91 ID:h6RlMJbq
徳川家康が病死した後、江戸幕府二代将軍に就任した徳川秀忠は諸大名に自分への忠誠を示す
誓紙を提出するように求めた。この時伊達政宗と同席していたのは、かつて勢力争いを繰り広げた
因縁の相手、佐竹義宣であった。そして政宗は義宣に対し

「誓紙に使う牛王宝印(ごおうほういん・熊野神社等が出す護符)を何枚か持っているから使いたければ使うといい。」

と持ちかけたが、義宣は政宗を見るや

「かつて大名達は豊臣秀吉公にも誓紙を差し出したが、背く者は多かった。貴殿もその一人だ。余った護符は取っておいて、
 次の機会に使えば宜しかろう。」

と皮肉交じりに拒絶した。義宣からすれば「お前と一緒にすんじゃねぇ!」という想いがあったのかも知れない。
さすがの政宗も

「くっ・・・・・・」

黙るほかなかったという。以上、佐竹義宣が政宗に放ったきつい一言である。




806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 18:24:49.39 ID:GQDIxff8
義宣さんは颯爽としてて格好いいな
これはさすがのまーくんも言い返せなかったか


807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 18:32:46.91 ID:rxC0jH8I
(でも感じちゃう…)

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 20:00:10.54 ID:n7Z16FiT
爽やかなまでにド直球な皮肉だなあw

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 20:13:01.03 ID:Q4gMti3q
名家の余裕

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 20:18:06.35 ID:JUUlwqn3
さすが律義者www

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 20:34:41.79 ID:bS3KZeml
伊達さんも佐竹さんも名家だからなぁ~
つか、従兄弟になるんだっけ?

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 20:42:37.72 ID:nVAR94ip
秀吉がとった誓紙がなんの役にも立たなかったことを知っているのに、
秀忠はなんで同じ事をしたのかな、そこが小心者の秀忠らしさかな

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/09(金) 20:50:29.35 ID:GQDIxff8
秀忠のどこが小心者…?
歴代将軍は代替えしたら常に誓紙を求めてなかったっけ

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/10(土) 01:43:55.60 ID:QrskhIo+
>>812
政権としての一種の儀式でしょ
まさかそんなので謀反が防げるとは誰も思ってないよ

佐竹の秋田転封と南方三十三館

2011年05月03日 00:00

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 18:32:36.45 ID:Refvpm/f
慶長7年(1602)5月8日、伏見城に召された佐竹義宣は、幕府によりその領地常陸の公収と、
出羽秋田への国替えを命ぜられた。

同日、幕府は常陸へも御使を送り、義宣の父である佐竹義重を始め、佐竹家中一同に
その旨を伝えた。

これを受け入れた佐竹義宣に家臣団は大いに反発、重臣、群馬(車)丹波守は面と向かって
彼を諌めた

「我が国の軍兵、4,5万はございます!その上兵糧は、10年は耐えられるほど備蓄があります!
なのにどうして、抗戦すること無く幕府の命に従い、出羽に下ろうとされるのですか!?」

これに義宣

「現在、日本六十余州の中に徳川殿に従わぬものは一人も居ない。我が国の勢をもって
天下の敵となるというのはどう考えても現実的ではない。

それ以前の問題として、我々のために滅ぼされた南方三十三館の残党がまだ国内に多く有る。
彼らがこの時とばかり、主君の仇を報じようと国中で蜂起すればどうなる?
天下の軍への対応どころではない。
そのような混乱の中雑兵の手に懸る様な事態になれば、無念この上ない。

今はただ、兎にも角にも我が家が絶えないようにすることこそ重要なのだ。」

と、同年6月14日、先祖伝来の地を去り秋田へと入ったのだという。
(藩翰譜)


南方三十三館仕置の問題が、佐竹の秋田転封にも影響を与えていた。と言うお話。




983 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/02(月) 20:23:26.13 ID:nq/zLnX9
まだ幕府は出来てないよ

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/02(月) 20:32:06.10 ID:Refvpm/f
すまん。便宜上幕府としたが「徳川公儀」とでも脳内変換してくれ。

佐竹義宣の南方三十三館仕置まで

2011年05月01日 00:00

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/30(土) 17:54:57.67 ID:lTPPRWRl
天正18年(1590)の小田原の役によって、常陸の佐竹氏は外敵からの驚異からは解放された。
が、そうなると今度は内部の問題が出てくる。佐竹氏の内部には、南方三十三館と呼ばれる
半独立の強力な国人集団があったためだ。佐竹氏はこのときは未だ、国人集団の盟主に
過ぎなかった。

君主権の確立を目指す佐竹義宣は、この状況を脱するため今まで以上に豊臣政権に近づく。
小田原の役の後、いち早く伏見に屋敷を作りここに妻子を置いて秀吉を大いに喜ばせ、
また秀吉側近、石田三成に接近し懇意となった。

さて、そんなある時佐竹義宣が秀吉の御前に出ることがあった。そこには石田三成の姿もあった。
参上した人々に秀吉が声をかけ、物語などが始まると、三成は秀吉に向かって申し上げる

「殿下(秀吉)は未だお知りにならないのでしょうか?殿下は常陸の国のこと、
そこに居る佐竹義宣の下知に任せると、既に御教書まで下し置かれました。

ところがどうでしょう、常陸の国人達は一向に佐竹の下知に従わないと聞き及んでいます。
これはつまり、殿下の仰せを侮っているということです。

このような状況であるのに、なおご寛大に彼らを許していては、殿下の命に違反する輩、
日々各国に出てくることでしょう。ここはどうしても、何らかの処分が必要です。」

これに秀吉はみるみる期限が悪くなり、

「三成、お前の言うところ道理がある。佐竹義宣!お前の下知に従わない連中には、
わしの許可を得るまでもない、自らの手で処分せよ!」

と、佐竹義宣に申し付けた。

義宣は当然ながらこれに大いに喜び、早速帰国すると天正19年(1591年)2月9日、
南方三十三館を花見と偽り常陸太田城に呼び寄せ、そこで皆殺しにした。
(藩翰譜)

佐竹氏による南方三十三館仕置までの過程である。




おたけ殿

2010年09月07日 00:00

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/06(月) 21:33:40 ID:Gy4oZsLl
佐竹義宣の重臣・小場宣忠のもとに、同じく重臣の梅津政景から書状が届いた。


一、御城にいる女房衆のうち、おたけ殿という者を京に帰してほしい。不足がある訳ではないが、年季以上は雇わない。

一、信用できる者を同行させ、仲介料等を京の御用商・大島宗喜に渡してほしい。

一、おたけ殿の両親への見舞料として、宗喜に銀子百枚を渡してほしい。

一、おたけ殿が京より連れて来た奉公人も一緒に帰すように。おたけ殿がそちらで雇った者は、引き続き当家で使う。

一、おたけ殿一人は駕籠に乗せ、奉公人には馬を用意してほしい。

一、まつという女小姓は十年の年季を過ぎていないが、殿と意に沿わぬので、同じく京に帰してほしい。



家老が女房衆に過ぎない「おたけ」に重ねて敬称を使い、その帰郷にかなり気を使っている。
要するに、義宣は京で雇った女性で気に入った者を、期間雇用の契約社員ならぬ「契約側室」としていたようである。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3000.html
↑こんな逸話があったり、側室を離縁した話があったりする人だけに、特定の女性と深く関わるのを嫌ったのだろうか…




801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/06(月) 21:43:01 ID:5kSKePyb
多分

あたけ いたけ うたけ えたけ おたけ
かたけ きたけ くたけ けたけ こたけ
さたけ

という命名法

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/06(月) 21:48:52 ID:iBNFo+Sd
義宣は本当にドライな人だよなぁw

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/06(月) 22:01:47 ID:e7emFG4p
イッた後の態度が冷たい…ってやつか。

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/06(月) 22:24:29 ID:/o+3dIgQ
賢者モード

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/06(月) 22:43:13 ID:iBNFo+Sd
義宣 「シャワー浴びたら・・帰れよ」

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/06(月) 23:39:30 ID:Di9hIpeo
>>805
ひどいw

佐竹義宣の場合

2010年06月03日 00:04

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/02(水) 20:25:21 ID:6Bk3EFwR
上杉征伐の時、上杉景勝の返答である「直江状」は有名だけど、ほとんど知られてない
佐竹義宣の方について。

「上杉景勝謀反」の事にわかに問題になった頃、水戸の佐竹義宣も「景勝方である」との
噂がたった。
これに徳川家康は家臣の島田治兵衛を水戸に下しその存念を尋ねた

「佐竹殿、あなたは景勝とあい語らい、逆心を企てているという噂です。
もし異心が無いという証拠があるなら、ここではっきりとお答えください!」

これに義宣
「私が景勝と語らって御治世を乱すなどと言う事、一切無い!」

と言い切った。が、さらに

「…さりながら、誰であっても御幼君を蔑ろにする者がいれば必ず、一矢射かけ申す
覚悟である!」

最後の一言は名門佐竹の意地であったか。が、この言葉は人々に
『内府公の政治に対する底意のある返答である。上杉、佐竹両家に大事が迫るだろう。』
と、噂された。そしてこれが佐竹が上杉方であるとの印象を決定的にし、関が原後の秋田への
改易にもつながってしまうわけである。

もしかしたら余計な一言だったかもしれない。と言うお話。




与次郎狐

2010年02月08日 00:05

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/07(日) 13:07:09 ID:M7zRt50G
ここでガイシュツのこの話「與次郎稲荷・むかし話」と多分同じ話?とは思うんだが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1609.html
細かい所が違う文章を読んだので投下。


「与次郎狐」

1600年ごろの話、佐竹義宣が水戸の領地を没収され、秋田に転封となった。
東北の地にありながらも前向きに再興を夢見、
久保田山に立派な城を築こうと日夜人を集めて一大工事を行っていた。
そんな義宣が、ある夜から毎晩同じ夢を見るようになった。
白狐が夢に現れて、切々とこう訴える。
「城の工事で、私たち狐が暮らすところがなくなってしまう。
少しだけでいいので、狐が暮らせる場所を残して欲しい。
願いを聞いてくれるなら、きっと私たち狐が貴方の城を守る」
毎晩同じ夢を見続けた義宣は不思議な因縁を感じ、
夢の中で狐に土地を残すことを約束し、
「狐の領地」なる手付かずの場所を久保田山の一角に設けた。

そんなある日のこと、与次郎と名乗る飛脚が義宣の前に現れた。
「私はとても早く走ることができます。貴方にお仕えしたいので、何なりとお申し付け下さい」
ちょうど江戸に送る便りがあったので、義宣は試しに与次郎に託した。
すると、与次郎はなんと三日で江戸まで行き着き、返事まで預かって戻ってきたのである。
往復たったの六日。
義宣はこれに大喜びし、あらゆる手紙を与次郎に頼むようになり、
ついには大切な密書まで託すようになった。

昼間は走り続ける飛脚だが、夜は休まねば走れない。
与次郎はあちこちに常宿を持ったが、東根の六田村の勘右衛門の宿も常宿だった。
この宿に、花という美しい娘がおり、いつしか与次郎を恋い慕うようになった。
ある夜、再び泊まった与次郎を訪ねたお花は、思い切って恋心を打ち明けた。
これに驚いた与次郎だが、しかし与次郎には応えられない秘密があった。
「実は、私は人間ではありません。久保田山にすむ白狐です。
義宜様への恩返しのため、飛脚として仕えているのです」
これを聞いたお花も驚いたが、しかし心が変わることはない。
朝になり再び出て行く与次郎を見送りながら、切ない涙を流すのだった。

ちょうどその頃、江戸の徳川家で佐竹が不穏な動きをしているとの噂が流れた。
飛脚の与次郎という男が手となり足となって暗躍しているというのである。
実は、与次郎は飛脚の役目だけではなく、色々な人物に化けることで、
徳川家の様子を探り、義宜に密かに伝えていたのだった。
家康はついに隠密に、与次郎を討つ事を命じた。

六田村に常宿があるという情報をつかんだ隠密たちは、
宿の主人の勘右衛門に金を握らせ、手助けするよう依頼した。
間右衛門は金に目がくらみ、手助けすることに同意してしまったのだ。
そんなことはつゆ知らず、いつものようにやってきた与次郎は、
昼間走り続けた疲れから、ばったりと倒れるようにして、ぐっすりと眠っていた。
それを揺り起こした者がいる。お花である。
「隠密が忍んでいます、父が協力しているのです、このままでは討たれてしまう!」
お花は父と隠密の企みを盗み聞いていたのだ。
それを聞いた与次郎は急いで支度を整え、お花の手引きで裏口から逃げ出した。
「ありがとう、このお礼は、必ず」
足の速い与次郎の後姿はすぐに見えなくなってしまったが、
お花は愛する与次郎の無事をそっと祈った。

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/07(日) 13:07:56 ID:M7zRt50G
さて、お花の咄嗟の判断で命を救われた与次郎だったが、
隠密が依頼していた者は間右衛門だけではなかった。
それは、以前から「あの飛脚は狐の化身ではないのか。いずれ討ち取ってやる」と
密かに企んでいた猟師の谷蔵である。
与次郎を討ち取ったら懸賞金を出すと、話が告げられていたのだ。

宿から逃げ出し、六田村を離れるために必死に走っていた与次郎だが、
なにやら良い匂いがして、つい足を止めてしまう。
なんと、好物の油揚げが置いてあったのだ。
その日与次郎は、疲れてバッタリと眠ってしまったために、一日何も食べていなかったのだ。
一瞬、つられて近づいた与次郎だが、お使いの途中だ!と思い直し、踝を返す。
その時だ。
谷蔵の放った矢が、与次郎の身体を貫いたのである。
苦しみながら息を引き取った与次郎は、元の真っ白な狐に戻っていた。
「やはり正体は狐だったか!今夜は狐汁だ。懸賞金ももらえるぞ!」
隠れていた谷蔵はそう、嬉しそうに雄叫びを上げた。

その後。あまりに与次郎が帰るのが遅い事を心配した義宣は、
家臣たちに与次郎の様子を探りに行かせた。
そして与次郎が六田の村で死んだことを知り、大いに嘆き悲しんだ。
そしてお花も、事件の翌日に与次郎の死を知り、悲嘆の涙にくれたあと、
どこへともなく旅に出てしまい、二度と六田には戻らなかった。

この事件の後、六田村には正体不明の病気や発狂、大火災など、相次ぐ異変が起き、
白狐の祟りではないかと恐れた村人と幕府が、与次郎の霊を鎮めるために
与次郎稲荷大明神をこの地に祀った。それ以降異変は起こらなくなったという。
秋田藩が参勤交代の際には、度々ここにも立ち寄って参拝したと伝わる。
ちなみに神社の前には、室町期に作られたという石の大鳥居が立っている。

与次郎稲荷は久保田城、現在の千秋公園にもある。
こちらは与次郎の死を悼んだ義宣が、庭に祀ったものだといわれている。




335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/07(日) 13:58:29 ID:e4As9bOK
坂東は狐や天狗が忙しいな

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/07(日) 23:00:53 ID:+RSGxV+g
>>332
「狐」は被差別部落の人間の隠喩だという説を
久保田城の案内をしてくれたボランティアのお爺さんに聞いたよ。

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/07(日) 23:25:38 ID:tqNyZ91z
>>343
東北でか?

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/07(日) 23:29:39 ID:+RSGxV+g
>>344
そりゃ秋田市だからね。

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/07(日) 23:35:26 ID:tbHDwvTA
>>344
東北ではすくないけどないわけじゃないらしい。>被差別部落

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/08(月) 15:30:46 ID:oSenG3rA
>>343
四国における、狸の怪異譚の多くも狸は遍路等の隠喩ではないかという説があるね。
犯罪等を犯して、地元から出奔して遍路してるという人間は今でも時折いる。
で、そういう中には特殊技術を持った人間なんかもいる。
四国の人間もその辺の事情を分かって技術開発なんかに利用した可能性がある。
名前を表に出せないそういうひとた人たちの活躍を「狸の仕業」と称した。
もちろん、逆もあって四国でもやっぱりかどわかしなんかの犯罪に手を染める奴もいて、それもやっぱり狸扱い。

佐竹義宣「内膳! なー! いー! ぜー! んーーーー!!」

2010年01月29日 00:16

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/27(水) 23:39:02 ID:G6vXNULi
佐竹義宣公が転封先の久保田にようやく城を築いた頃、
穴門橋前に浅原甚之丞という者が住んでいた。
ある日彼は同僚が緞子の半襟を掛けているのを見つけ、それを咎めた。
「おい、それ、規則違反だぞ!」
「んだよ、ありあわせの古いやつだからいいんだよ!」
些細な事から口論となり、二の丸にある安楽寺の前で本格的な大喧嘩。
松下門の坂道まで来たとき、とうとう甚之丞は同僚を殺してしまった。

さて、ここに異変に気付いた者がいる。
城主の佐竹義宣その人である。

たまたま御隅櫓に昼寝に来ていた彼は
血の付いた刀を引っさげて帰っていく甚之丞を発見。
幸い、すぐ向かいが渋江内膳政光の屋敷である。
大声には自信のある義宣公、事態を知らせようと内膳宅に向かって声を張り上げた。

「内膳!内膳! なー! いー! ぜー! んーーーー!!」

が、あいにく内膳は留守。代わりに梅津半衛門憲忠がいた。
内膳宅の向かいが半右衛門宅で、これまたたまたま馬の爪髪をこしらえに来ていたのである。

「え、なに?殿の声?一体どこから…って、櫓から!?どんだけでかい声出せるの!」

半右衛門は大急ぎで長刀を持って駆けつけ、自宅に戻っていた甚之丞をバッサリ。
飛び掛ってきた甚之丞の弟も同じくバッサリ。
二人の首を手に引きあげてきたそうである。




366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/27(水) 23:50:02 ID:IXa0lZM7
>>364
むう、まさに家政婦ならぬ義宣様は(御隅櫓で)見た。

佐竹の殿様と間久里のウナギ

2010年01月29日 00:15

372 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/28(木) 01:29:53 ID:hu86tCJe
いつ投下しようかと思っていたら、偶然にも義宣さんの話が出ていたので便乗します。
地元の事を調べてたら面白い話が見つかったので投下します。

【佐竹の殿様と間久里のウナギ】

舞台は、現在の埼玉県越谷市。
ここは家康の鷹狩の際の御殿があった他、日光街道が通り、越ヶ谷宿という宿場町となっていました。
その日光街道 越ヶ谷宿~粕壁宿の中間、間久里にも立場(旅人の休憩・食事処)があり、
その中に3軒ほど、近くの元荒川で捕れたウナギなどの川魚を出す料理屋がありました。

(引用)
『水戸より秋田に転封された佐竹の殿様は特に秋田屋のウナギにぞっこんで、
秋田産のヒバ材で自分専用の座敷まで造作し参勤交代時には必らず立寄って蒲焼をたべました。』

とのことです。
わざわざ自国から木材まで持ってきて、お店に専用座敷を造ってしまう辺り、
本当に『ぞっこん』だったのでしょうね。
特定はされてませんが、転封の件からして義宣さんでしょうね。
まあ案外、専用座敷があるのを口上に、後のご当主方も立寄っていたかもしれませんね。

遠い秋田からの参勤交代は、他の大名方と同じく出費・疲労と諸々大変だったのでしょうが、
佐竹家は一つ楽しみを見つけられたようですね。

373 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/28(木) 02:23:15 ID:hu86tCJe
ちょっと補足。

間久里は現在、上間久里,下間久里という地名で残っています。
が、住宅地化が進んでいるので、この話を元にその近辺を探してもウナギ屋は見つからないかも。
(件の秋田屋も、現在まで続いているか確認できず)
もし越谷でウナギを食べたい!と思われたら、元荒川に沿って店を探せば見つかるかと思います。

好みはそれぞれと思います。
戦国に関係無さそうなのでカットしましたが、引用文は、豪商が江戸からの客を間久里のウナギ屋に
連れて行ったら「江戸の味に劣る」と言われ、「江戸人の舌にはむかない」と笑ったという話が
続いていました(笑)

個人的には、その近辺のウナギ・川魚料理屋だと、元荒川沿いの県道325号を北上して、末田須賀堰わずか先、
武蔵第六天神社の前に並ぶ3件の店が面白いと思います。まず通の地元民しか知りませんし(笑)
ウナギは勿論おいしいですが、特徴的なのが『ナマズ料理』を出すことです。
興味があれば以下↓に紹介されていたのご参照下さい。
ttp://www.dairokuten.or.jp/kankou.html
※営業時間を要確認!また、隠れた店ながら客入りはそれなりで、休日は電話予約・確認を推奨。
特に、夕方~夜の部は団体さんの宴会も来る様なので、特に注意。




秋田ハタハタ異説

2010年01月18日 00:08

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 02:06:48 ID:Ao1KEMSq
秋田の魚と言えばハタハタ
佐竹義宣の秋田転封後に秋田沿岸に押し寄せるようになったとも言われ、
秋田の民衆はサタケウオとも呼んだ。
子持ちハタハタの卵はブリコと言い、その食感からそう呼ばれてる。
こう一般に伝わる話だと、佐竹の殿様はハタハタが大好きだったようだが、異説がある。
佐竹義宣は鰤が大好きだったが、秋田では鰤がなかなか手に入らず、
出される魚は秋田で嫌というほど獲れるハタハタばかり。
鰤を食べたい食べたいと募る思いから、ハタハタの卵をブリコと名付け、自らを慰めてたそうな。

ソースは10年くらい前に読んだ新聞記事。何新聞の何面かは覚えてない。
新聞のこの手の記事は記者の紙面埋めのでっちあげが多いのであまり信用できない。





典厩割国宗に、佐竹義宣と上杉景勝

2010年01月18日 00:02

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 01:49:28 ID:TjfmWbEy
川中島と言えば
信玄実弟の典厩信繁を討った刀が典厩割国宗といって佐竹家に伝わたのは有名な話だが
なぜかまとめサイトでは小豆長光になってるんだよな

つうか、この刀について刷り上げ以外の逸話は既出だったかな?
いい話悪い話がいくつかあるんだけど

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 14:46:38 ID:MNxgQFfr
>>770
亀だが、kwskおしえてちょーだい




792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 18:38:09 ID:TjfmWbEy
>>776
俺も又聞きなんで、色々不明点は多いけど

佐竹義重の初陣の際、その活躍を伝え聞いた謙信は大変に喜び
『我が軍略を継ぐのは貴方しか居ないと確信しました。
この刀は老後の杖代わりにしようと思っていた物ですが
我が魂と思い、是非受け取ってもらいたいものです』
と一振りの刀を贈る

その刀こそ川中島で信玄の実弟、典厩信繁を討ったと伝わる典厩割国重であった
義重と謙信はその後、急速に仲が冷え込んだり、また改善したり、
謙信の後継者、景勝から兄の様に慕われたりしながら時代は進むが
義重はこの刀を大変大事にし、後に自らの後継者、義宣へと伝わる事になる

それからしばらくたったある日、義宣の脇差しに目をとめた義重が
『あれっ、なんか見たこと無い脇差しだな。それなに?』
と問うたところ
『ああ、これは親父から貰った国重だよ。長くって持ち歩くの大変だから、刷り上げて脇差しにしたんだわ』
これには義重大変なショック、刀の魂が失われてしまった、と嘆いたと言われる
とまぁ、ココは大体既出の話

ある日、大阪の役で助けられたりして兄とも慕う景勝と城中で出会った義宣は
他の幾人かを交え、朗らかに世間話をしたりしているウチ
『そういえば、典厩割国重とかいう銘刀が佐竹さんの所にあるそうですけど』
と、某者から問われる
『ええ有りますよ。謙信公から贈られたらしいんですが…』
と義宣が答えるやいなや、
『国重は当家の宝で御座る。従って当家に今も存在して御座る!』
と何故か景勝が突然青筋立てて大激怒。一転一触即発の空気に様変わり

なら出してみろ、宝だから軽々と出せん、と言い争いケンカ別れして有耶無耶に
刷り上げの話を聞いて憤ったのか、謙信が義重を後継者のように言ったと伝わったのが
気にくわなかったのか…その後この刀にまつわる話は出てこないので不明

ただ後々別段両家の仲が悪くなったわけでも無いのが不思議なところ




793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 18:39:00 ID:yrH0fCGK
江戸時代初期の各藩・各家形成期に、色々とあったのは確かだからね
家系図に限らず

佐竹さん家の引越しにまつわるゴタゴタ話

2010年01月17日 00:09

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/16(土) 19:59:08 ID:ayw8/G14
佐竹さん家の引越しにまつわるゴタゴタ話

関ヶ原の後、数世紀にも渡って支配した常陸から出羽秋田へと転封になった佐竹義宣
水戸から出るのにも車丹波斯忠が駄々こねたりして大変だったけど、やっとこさ秋田へ引越したらさらに大変だった

それは新たに築く城地の選定から始まった
候補は二つあり、一つは横手、もう一つは久保田
この二つのうちどちらに城を建てるかで家中が真っ二つに割れてしまったのだ

横手を推すのは先代義重以来の宿老達
久保田を推したのは義宣と子飼いの若手達

宿老達曰く
「横手の地はまさしく天然の要害にて山城を作るにはもってこいの場所
加えて、家祖新羅三郎義光様が後三年の役の際にご活躍された縁地でもある。
まさに義光様の思し召しだ」
と、熱烈プッシュ。

が、結局は港も近く土地も広大であり、街道や城下町を作るに適した久保田へ
城を建てることになり、わずか1年あまりで久保田城は完成
この後、義宣派と宿老達の溝は深まるばかりで、遂には義宣と
渋江内膳政光の暗殺計画にまで発展する訳ですが
それについてはこちら↓に

佐竹義宣、近世大名への脱皮
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1042.html



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/16(土) 20:00:07 ID:4ZEszlpG
小説的解釈で「秀吉は統治方法を信長に学んだので過酷な処置をあえて行った」のだと言ってみる

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/16(土) 20:41:39 ID:n5+dzAJ2
>>760
漫画になったやつだな読んだことある

佐竹義宣正室、正洞院の死

2009年10月13日 00:06

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 19:54:29 ID:1RxFSorh
佐竹義宣の正室・正洞院は、かの那須与一を輩出した下野那須氏の出である。
しかし、輿入れから5年、1590年に死去してしまった。
死因は伝わっていない。
そのため、後世に様々な憶測を呼ぶこととなった。

秋田の巷説としては、
結婚当初の義宣は文弱であり、名門武家としてのプライド高い正洞院がこれを諌めるべく自害した、
と伝わっている。

義宣はこの薄幸な夫人を弔うため、秋田の手形に正洞院を建てた。
江戸期には多くの参拝者で賑わったらしいが、
明治に廃寺となってしまい、現在は草深い境内跡が残るばかりである。




427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/12(月) 23:52:01 ID:ALDxE9Ft
>>416
何気にいい話の気もするけど、廃寺になっちゃったので悪い話か・・