fc2ブログ

義元公と弾正忠子息の和睦が

2022年10月30日 17:36

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/30(日) 15:26:26.72 ID:dLte+MCx
尾州の織田弾正忠(信秀)が死して、その子息、今の信長であるが、彼は今川義元公の旗下とならず、
挙げ句義元公がお持ちの国であった三河の内、吉良の城へ取り掛け、附城を造ってこれを攻めた。

この事態に義元公は御馬を出されたが、跡を気遣い遠州引馬に逗留され、先衆を以て弾正忠子息(織田信広)の
拵えたる砦を包囲し、既に攻め殺さんとする所に、織田は降参して父の如く義元公へ逆義あるまじきと
起請を書き詫び言したため、義元公と弾正忠子息の和睦が成立したのであるが、これは尾州侍である
笠寺の新右衛門(戸部政直)がかねてより義元公を大切に存じており、この折に仲介した御蔭だという。

またこの時義元公は
「三州岡崎の城主・松平広忠の子、竹千代当年十三歳になるを、一両年以前より盗み取り、熱田に
隠し置くという。それも早々にこちらへ渡せ」
と仰せになり、義元公はこの松平竹千代を駿府に召し置かれた。今の遠州浜松まで平定して浜松に在る
徳川家康が、この竹千代である。

甲陽軍鑑

いわゆる第二次小豆坂の戦いについてのお話。この時点では織田信秀はまだ生きているのと、
どうも信長と織田信広を混同していたフシがありますね。



スポンサーサイト



今川家には真範という僧の霊がついており

2021年06月02日 18:05

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/01(火) 20:00:27.28 ID:fcUfUgk9
今川家には真範という僧の霊がついており、同家に凶事が起こるときには、必ずこの僧が現れた。
桶狭間戦の時も、今川勢が安倍川を渡るとき真範が現れ、義元の眼を遮った。
また、駿府城の城の庭のあたりで、女の声で、
「熟し柿なるみの果てぞ悲しけれ」
と泣く声がしていたそうだ。
「なるみ」は尾張鳴海のことで、義元はその近くで生涯を終えたのだった。
(嶽南史)

世界人物逸話大事典」の「今川義元」の逸話からの孫引きだけど、この「今川義元」の項の執筆者が、
今川義元に処刑された戸部新左衛門の子孫の戸部新十郎氏というのがちょっとおもしろい



793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/01(火) 21:25:49.10 ID:2sfPirx1
>>792
先祖の恨みが地味に残ってるのかなw
そういや、桶狭間前に玄広恵探の霊が現れたって話もなかったか。今川に坊主の霊多すぎ

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/05(土) 13:59:10.54 ID:zH0P2W0K
>>792
恨んでるのに凶事の警告しに来てくれる優しい坊さんで草

かるかやに 見にしむ色は なけれとも

2021年01月05日 17:37

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/05(火) 15:34:53.17 ID:hOMWL+6l
今川義元が戦場において、何某とやらを召し「先手の様子を見て急ぎ罷り帰るように。」と命じたが、
先手では早くも戦の半ばであるのに行き合い、逃れがたい状況であったので、鑓を入れて首一つを
取って帰り、義元の見参に入れてその成り行きを語った所、義元は大いに怒り

「様体を見計らって急ぎ帰れとこそ言ったのに、その身の働き、私に対して忠の所は少しも無い!
軍法に任せて、きっと計らうべし!」

そのように仰せに成られた。かの使いの者はしおれたような顔で、謹んで義元の前に侍ふ人に向かい、
小声で藤原家隆の歌をつぶやいた

「かるかやに 見にしむ色は なけれとも 見てすてかたき 露の下をれ」
(秋の苅萱は、心惹かれるような色ではありませんが、露の光るしなだれた様子を見れば、捨て難いものなのです)

この様子に義元はさらに怒り、「何を言っているのか!?」と怒鳴ると、近習の者がそれを申し上げた。
これを聞いて義元は暫く考え、気色和らぎ、

「とどかざる仕形であるが、急なるに臨み、奇特に家隆の歌を思い出した事は名誉である。」

として赦したという。
昔の人はこのようにやさしき事があった。ただし、「時によるべき事である。一様には定めがたい。」
という人も有る。

備前老人物語



桶狭間の戦いと熱田町口の紛争

2020年06月08日 17:10

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/08(月) 03:16:57.31 ID:ZQsC5wnO
(桶狭間の戦いの時)

ここに尾州河内二の郷の一向宗、鯏浦の服部左京(友貞。織田家に属さない尾張国人)
は此度の合戦で義元に力を合わすべしと一向宗を数多引き連れ、武者舟数十艘に取り
乗って大高の下、黒末の河まで乗って来た。

まず大高城に兵糧を多く運び入れて松平元康に力添えし、自身は戦場へ赴いたところ、
19日の未の刻、はや義元討死なれば力を失い、舟に乗って帰りがけに熱田の港へ舟
どもを寄せ掛けて、遠浅の所から下り立ち町口を放火しようとした。

町人どもはこれを見て、味方の勝ち戦に力を得て、大勢が出て来て追い払ったところ、
服部の者どもは駆け散らされて数十人が討たれ、また舟に取り乗り、河内を目指して
引き入った。

――『織田軍記総見記)』



『松平記』より、桶狭間の戦い

2020年06月07日 17:21

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 22:40:28.14 ID:TUf8uXey
永禄3年(1560)5月19日、昼の時分に大雨しきりに降る。(今川義元は)今朝の御合戦
御勝利で目出度いと、鳴海桶狭間で昼弁当に参る。そこへその辺りの寺社方より酒肴を進上仕り、
御馬廻の面々に御盃を下されたが、その時、信長が急に攻め来たる。

笠寺の東の道を押し出で、善昭寺城より二手となって一手は御先衆へ押し来たり、一手は本陣の、
しかも油断しているところへ押し来たる。鉄砲を撃ち掛ければ、味方は思いも寄らぬことなので、
ことごとく敗軍して騒ぐところに、上の山からも百余人程が突いて下った。

服部小平太(一忠)という者が長身の槍で義元を突き申すと、義元は刀を抜いて青貝柄の槍を切
り折り、小平太の膝の口を割り付け給う。毛利新助(良勝)という者が義元の首を取ったが、新
助の左手の指を義元は口へ差し入れ、食い切られたと聞く。

義元の御馬廻衆も随分働いたため尾州の物頭の佐々隼人正(政次)、千秋新四郎(季忠)、岩室
長門守、織田左馬允、一色などと申す良き者が、数多その場で討死した。

御先衆で討死致した衆は、三浦左馬助、斎藤掃部助、庵原右近、同荘二郎、朝比奈主計、西郷内
蔵助、富塚修理、松平摂津守、富永伯耆守、牟礼主水、四宮右衛門八、井伊信濃守(直盛)、松
平兵部、温井蔵人、松平治右衛門、その他60余人、近習1人も残らずその場で討死なり。

――『松平記



115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/07(日) 04:41:47.74 ID:Jsn8uRP9
>>114
大雨だと鉄砲使えなくね?

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/07(日) 15:24:03.51 ID:FjC4Cc4v
俄か大雨に紛れて接近→晴れてから襲撃ってのが桶狭間の流れ
まあ、所詮は他家と他家の話の上
義元本陣にほとんど家康系がいなかったとかの事情で詳細には書く気がないのかも

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/07(日) 17:25:34.03 ID:E7+MQt/A
>>116
信長公記が底本と分かるな

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/07(日) 17:30:27.64 ID:60NDTf3c
信長公記とは内容違うよ

汝の運命尽きたることを告げんがために

2020年05月31日 17:25

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/30(土) 19:11:42.69 ID:GvcTHadk
(桶狭間の戦いの頃)

かように義元(今川義元)勝利の威勢日々強くなりけれども、不思議の事々も多かった。

まず、今川家には往古より“真範公”という出家の亡霊がいた。国主に凶事ある時は出現すると申し
伝えた。しかるに今回、義元が駿府を打ち立ち給うところで、かの真範の亡霊がまさしく阿辺川の
ほとりに現れたのを見た人が多かった。

また駿州の鎮守総社大明神は霊験無双の神なり。かの社の山の中に白狐の奇怪あり。いつもの白狐
を所の者どもは「神の遣わし者なり」と言ったが、その白狐の胸おのずから裂け破れて、自ら死し
て社壇にありけり。

また花倉といって義元の兄弟(玄広恵探)の死霊あり。かの花倉はうつつに出でて、義元にまみえ
来たる。義元はこの時、枕元に立て置いた松倉郷の刀を抜いて切り払い給えば花倉は飛び上がって
「汝の運命尽きたることを告げんがために来た」と言う。

義元もさすがに強き大将なれば少しも騒がず、はったと睨んで「汝は我が怨敵なり。何ぞ我に吉凶
を告げん。ただ我を悩まさんがために来たのであろう」と宣えば、花倉また言うには「汝はもっと
も怨みあれども、今川の家運尽きんこと甚だもって悲しければ、今まみえ来たる」と言い捨て、掻
き消すように失い果てた。

かように怪異ひとかたならず、未然に凶事を現したのは不思議なりし事々である。

――『織田軍記総見記)』



見てすみがたき露の下帯

2019年05月30日 15:27

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 14:44:28.01 ID:nwVL6DOv
戦場での物見の者は、途中敵に逢ったとしても討ち取らないのが軍法である。であるが今川義元の士(名忘)、
物見に行き敵に出会って戦い、頸を取った。然れども軍法に背いた故に、還って一首の歌を首に添えて出した

 刈かやの 身にしむ色はなけれども 見てすみがたき露の下帯

義元はこれを見て、違法の罪を赦したという。

(甲子夜話)



「武士道とは死ぬことなり」という武士道の鉄則は

2017年12月31日 19:16

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/30(土) 22:38:38.22 ID:aGIvmbNZ
今川義元が、桶狭間で討死した時のことでした。
義元の臣松井五郎八郎(宗信)は、あまりのことに茫然として落ちのびてゆく途中、井伊信濃守(直盛)に遭いました。
「いずこに行かれる。」
と、松井宗信は声をかけました。
「本陣にまいり申す。」
「御無用でござろう。大将は討死でござるぞ。本陣もすでに総崩れでござる。拙者たしかに見届けてまいり申した。」
松井宗信の悲痛な声を井伊直盛は、にっこりうけて、
「お言葉ではござるが、拙者は兄肥後守(直親?)の命をうけて、本陣に見廻りに参るものでござる。味方総崩れと聞いて、このまま立ち帰っては、
兄にもうしわけござりませぬ。敗軍を見物して逃げ戻ったなどと言わるるも本意でござらぬ。」
こういいながら進むのでした。
「お待ちくだされ。」
松井宗信井伊直盛に追いすがりました。
「お言葉御もっともでござる。思えば拙者ここまで落ちのび申したが、武士として潔からぬことと思いつき申した。
この上は、ご一緒に引き返して、武士らしく、最後の一戦いたしとうござる。」
「拙者と同道なされるか。」
二人は、馬をならべて、本陣の方へ駆け出しました。蹄の音が、野面にかつかつと響きわたりました。
しかし、二人の健気な振る舞いも、大勢を覆すなんの役にも立ちません。
渦巻く硝煙のなかに、別れ別れになった二人はやがて後に、叢を染めた二つの死骸となっていたのでありました。
死場所を得ることは、武士の最後を飾るものであり、これあってこそ武士道が確立されるのであります。
「武士道とは死ぬことなり」という武士道の鉄則は、こうしていついかなるときもまもられるのであります。

『明良洪範』(良将言行録)



551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/31(日) 02:30:08.57 ID:NdEwIQCr
葉隠の作者が言ってるのとはやや意味が違っている気がする>「武士道とは死ぬことなり」

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/31(日) 11:29:45.16 ID:R8OCKHGT
明良洪範は元禄の頃(1688ー1704年)に書かれたもので、
葉隠は1716年頃のもので当時は一般的には受け入れられなかったからね

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/31(日) 11:35:34.95 ID:mOqI3VfN
まとめの7007
「血気の勇であった」
だと、良将言行録では上の話の紹介の後

>井伊は弟であって家督ではないから義による本意の討死である。
>しかし松井が討死したのは軽率であった。この人には父がいたが子はいない。
>終いには跡目は断絶し、七十余の父は武田に生け捕られて老後の恥辱を受けた。
>これは五郎八郎の不孝である。
>
>初め大将討死の場にて松井が共に死ぬのは士の道であったが、墓場とすべきところ
>でもないのに井伊の言葉に従って父のことを思わず引き返したのは血気の勇であった。

って書いてるな

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/31(日) 11:37:29.20 ID:mOqI3VfN
てよく見たらまとめと同じ良将言行録だった
活字化されたのが明良洪範だったのか

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/01(月) 07:26:46.90 ID:e/F9/q5y
誰のエピソードだったか思い出せなくて、知ってる人居ないかな

単身で伝令役として敵の城に行った際、
逃げずに役目をちゃんと果たした事を証明出来るように、
鎧?を置いてったっていうエピソードなんだけど

556 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/01(月) 11:10:31.94 ID:d70Ojd9I
>>554
明良洪範と続編を再編集したのが良将言行録だったかな
要は異本だね

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/01(月) 22:31:44.45 ID:RsVfPdse
「良将言行録」は、真田増誉の著述にかかる。
慶長元和に始まり、徳川五代将軍綱吉の頃に至る、名将及び武士の言行事跡が挙げられている、
十巻にまとめてあるが、同じ著者の「明良洪範」四十巻中の抄出といわれる。

まず尾張を攻め平らげて攻め上らん

2017年03月05日 18:31

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 02:53:36.53 ID:yOjylQgb
永禄3年の夏の頃、今川治部大輔源義元は駿河・三河・遠江の大軍を引き連れ、
天下一統のために東海道を上洛するので、まず尾張を攻め平らげて攻め上らん
と企てなさった。

(中略)

さて信長公の御軍謀は、敵の先手の大軍を皆本道へやり過して、当方の御人数
はひそかに山の陰を隠れて廻り行き、義元の本陣へ一同にどっと突き掛かって、
切り崩さんとの御謀であった。

義元はこれを知らずに赤地の錦の鎧直垂、胸白の具足を身に着け、松倉郷の刀、
大左文字の太刀を帯びて、先手の者どもが鷲津・丸根の両城を攻め落としたのを
大いに喜び、桶狭間の山下の芝原に敷皮をしかせ、義元はそれに座し休んで、

勇み誇っていたところへ、近郷の寺社の僧社人などが喜びの樽を進上したので、
すぐにそれで酒宴を初め、謡をうたい、 興に入っておられた。

熱田表には織田方の先陣、佐々隼人(政次)、千秋四郎(季忠)などが人数2百
ばかりで信長公の御旗を待ち受けて、山際に控えていた駿河勢へ打って掛かり、
佐々、千秋は小勢なので取り囲まれて50余人が討ち取られ、

駿河勢は勝ち誇って隼人、四郎両将の首を取って槍の先に高く持ち上げ、一度に
どっと鬨を作った。そればかりでなく、信長公の寵臣・岩室長門守も抜け駆けして
討ち取られた。佐々、千秋、岩室3人の首を本陣へ遣わし、

義元に見せ奉ると、義元はますます勇み誇り、「それがしの矛先には、いかなる
天魔鬼神であろうとも、溜まるまい!」とのたまい、なおも勝ち戦に驕りを極めて、
酒宴にふけっておられた。

――『織田軍記(総見記)』



643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 05:13:29.81 ID:q0qI5IAz
長門が死んでるw

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/05(日) 09:11:26.90 ID:xAM+rR9g
ザルすぎる防衛網

“公方絶ゆれば吉良継ぎ、吉良絶ゆれば今川継ぐ”

2017年03月02日 18:56

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/02(木) 02:45:07.35 ID:Erhdus88
心省よりこの方、(今川家は)代々公方家の族臣として、武功の将種であるが故に世々
公方の御懇志を受け、戦国の最中にも世を奪われず威勢は甚だ盛んなので、

武恩に誇るのみならず、弓馬の道は言うに及ばず、和歌、連歌、蹴鞠、茶湯の事までも
この家には名人が多く、その家風は他より優れて、代々器量の臣下は少なくない。古き
高家であればこそである。

それ故、世俗の諺にも、“公方絶ゆれば吉良継ぎ、吉良絶ゆれば今川継ぐ”と言われて
いるのである。もっとも、さもあらんことではなかろうか。

心省入道より七代の後胤・今川五郎氏親、後には上総介と号す。氏親は先祖に劣らぬ
名将であって、戦国の時代に巡り逢い、駿河・遠江2ヵ国を領知して、

三河国をも大半は切り従え、あまつさえ戦国の世の一統を志し、公方家を再興せんが
ために、上洛の望みを持っていた。尾張の守護代・織田一党は主君・武衛(斯波義達。
左兵衛佐)の命を受けて今川に敵対し、三河を争い、合戦に年月を送るところで、

氏親はいつしか病死した。増善寺というのがこれである。その子・氏輝は早世した。
臨済寺がこれである。氏輝は実子がいなかったので、その弟の禅僧で、善徳寺に
いたのを還俗させて家督を継がせ、これを今川治部大輔義元と号す。

義元はよく父の志を継ぎ、よく父のことを述べ、文武に達した名将なので、なんとしても
三河・尾張の両国を切り従え、上洛せんと心掛けていたところ、三河岡崎の城主・松平
三郎清康は、幸い今川の味方となって尾張へ向かって敵対し、たびたび合戦に及ぶ
ことがあった。

ついに天文4年乙未12月、清康は大軍を率いなさり、織田筑前守が籠る尾張森山の
城を攻めなさった時、清康はにわかに卒去なされたので、たちまち三河の諸勢は森山
を退陣して、分国へ引き返した。その折、尾張の将・織田備後守信秀は、

筑前守の急を救い、かつまた、先君・武衛を助けて三河を治めようと自身で8千の人数
を率い、三河伊田の郷まで相働き一戦を遂げ、青山、植村、林、高力父子を討ち取った。

――『織田軍記(総見記)』



688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/02(木) 02:59:26.81 ID:Q1IiyxCV
当時の織田家に8000も動員できたんか

今川義元。足みじかく。胴ながく

2017年02月27日 18:29

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 20:47:37.65 ID:izwNANYm
今川義元は足が短く、胴は長く、片端であるとして臨済寺の喝食に致し
置かれたけれども、大将の器量ありとして取り立てられたという。

今川義元。足みじかく。胴ながく片輪なりとて。臨濟寺の喝食にいたし
置かれたれども。大將の器量ありとて。取立られし由。)

――『武功雑記』



618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 20:53:26.09 ID:j+Q6XpeV
胴長短足のほうが馬上では見栄えが良かったんじゃなかったっけ

たぶん輿に乗っててもカッコついたんだろう

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 21:29:21.37 ID:lnr7vVWg
義元公が輿に乗っていたのは足が短いからじゃない
駿河遠江三河の太守としての格式から乗っていただけ
肥満で馬に乗れなかったのは肥前のクマもん

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 22:18:04.90 ID:qZOgaZXR
雷神さん「輿に乗って戦場往来とか名将ぽくね?」

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/26(日) 22:29:28.79 ID:lnr7vVWg
輿に乗って采配をふるい戦場を縦横無尽に駆け巡るとか実際に見てみたいわ
男塾の民明書房に騎馬戦の起源であるとか書かれてそうw

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 03:06:00.05 ID:1AOZFTBW
「ワシは輿を大っぴらに使うことを許されてる身分なのだ。格下ども控えおろう」
というデモンストレーションなんだろうけど、小回りが利かなかったから緊急脱出できなかったんだろうな

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 04:41:45.64 ID:cCpF6CPC
>>620
瘡頭「ですよねー」

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 07:32:58.92 ID:JdNMgBd3
>>618
短足だと馬の腹が蹴れないのでは?

今川氏領地の事

2016年12月24日 09:54

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/24(土) 05:42:05.24 ID:bDvjbosn
今川氏領地の事

 今川太郎〔刑部大輔の子、名を義順〕が来られたとき、彼の領地はどこかと尋ねてみた。
「王子村の近所です。」
「おお、それは近いですね。」
「この他にも近江に五百石の領地があります。」

『ではその地をなぜ所領しているのだろうか』と不審が晴れていなかったところ、
先年彼が古い書付を捜してくれて、その一通を見ることができた。

 その書付によると、義元が次男を若王寺という方へ遣わしていたが、
義元の家が衰微した後にかの若王寺の方から見かねてかの祖先の方に帰し与えた地が
近江の地の理由であるという。

 この事は彼の旧記で分かっていたので、
今では江州の采地から少しばかりの物をかの若王寺の末へ分け与え、
余りを今川氏に収めたという。
太郎の先祖は義元で、氏真の嫡流である。

(甲子夜話続編)



今川の物見、首取て歌よむ事

2016年07月03日 13:06

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 08:07:23.18 ID:mN7HvAUH
今川の物見、首取て歌よむ事

戦場見物の者は、途中に敵に逢っても打ち取らないのが軍法である。

だが今川義元の士〔名は忘れた〕が物見に行き、

敵に出会って戦い首を取った。

しかし軍令に背いたので、帰って一首の歌を首に添えて出した。

刈かやの 身にしむ色は なけれども 見てすみがたき 露の下帯

義元はこれを見て、違法の罪を許したという。

(甲子夜話)

しかし物見は首級を挙げてはならないという決まりなんてあったんですかね

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1184.html

この逸話では、普通に褒められていますけどね



902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 11:08:13.53 ID:uDm6PxsQ
>>901
物見は偵察役だろ。

偵察役が戦闘に加入して必要な敵の情報を持ち帰れないのは
本末転倒だからな。

威力偵察ならば戦闘も有りだが、その場合は部隊編成が変わるだろ。

今川義元の討死

2014年09月14日 18:54

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/13(土) 22:53:07.71 ID:Uftp3aAu
義元の討死の事を記した書物に『最期は机にかかり、少しも動かずにおられたところを
服部小平太と毛利新助が討ち取った』というのは、虚説である。元来、義元は勇将では
あるが、床机の周りを固める者もいないのに、一人で床机におられることだろうか。
もし、その通りならば無謀の死である。

信長は今川家の虚を察しなさり、本陣の後ろの山根を押し回って、後ろから攻め寄せ、
馬武者で義元の本陣を縦横に乗り破り、騒動に乗じて突き崩した。今川方はただ上下
とも驚いて慌てふためき、槍を取る間もなく、皆太刀打ちした。

織田方は槍を揃えて突き立てたので、真っ先に進んだ者たちは枕を並べて討死した。
その他にも、負傷や逃亡によってまばらになったことだろう。それまでも義元は
床机に腰をかけ、周りを命じておられた。そこに庵原左近と同庄次郎が馳せて来て、

「本陣の軍士は過半が討死し、備えもまばらになりましたので、何と思し召され
ましても叶いますまい。ここは一先ずお退きになってください」と、申し上げて
馬を引き寄せ、義元をかき乗せた。

この時、元康公がお付け置いた松平某も義元の前へ来て、「元康は大高の城に
おられますので、そこへお引き取りください」と申し上げ、庵原兄弟と松平某の三人が
供をして、大高を目指して退いて行った。

これを見て、島田左京、澤田長門守、岡崎十兵衛、上和田雲平、今井主馬、
平山十之丞、長瀬吉右衛門、平川左兵衛、福原主税らが馳せ来たり、同じく供をして
退いた。しかし、馬備えが散乱したため、馬に乗る手立てが無く、皆々歩行で従った。

義元は胸白の鎧に、金で八龍を打った五枚兜を被り、赤地の錦の陣羽織を着ていた。
また今川重代の2尺8寸の松倉卿(松倉郷)の太刀と、1尺8寸の左文字の脇差を
帯びて、5才の青毛の馬には金履輪の鞍を置き、紅の尻繋を掛けてお乗りになった
ので美しく、遠目にも「これこそ大将である」と思わぬ者はいなかった。

信長方は四方へ落ち行く者には目もかけず、「どこまでも逃がさぬ」と先を争って
追いかけた。そのため、島田左京や澤田長門守を始め12人の者たちはとって返して
戦うも、徒歩であるうえに戦いには疲れて皆々討死し、義元は一騎となられた。

そこへ服部小平太は一番に追い付き、言葉をかけて近寄った。義元も「心得た」と
馬を引き返しなさったところを、小平太は駆け寄って朱柄の長刀の槍で、義元の
弓手の脇腹をひどく突いた。

けれども、義元は聞こえた強将なので少しもひるまずに太刀を抜き、小平太の槍の柄を
切り折り、馬から下り立った。小平太が槍を捨てて組み合おうとすると、義元は抜き
放っていた太刀で払い切りになされ、太刀先が下って小平太の膝口を切り付けなさった。

小平太は少しも堪えられずに後ろに倒れたため、あわや討たれてしまうと見えた
ところに、毛利新助がすかさず横合から駆けて来て、むんずと義元と組み合った。
義元は初めに小平太が突いた槍で傷を負ったままで、最後には新助が組み勝って
義元を討ったということである。

――『明良洪範続編』




778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 02:38:03.48 ID:Ilnqnsko
「少しも」良く使うね

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 10:05:57.39 ID:VFSr4d1f
今川義元はちゃんと馬に乗ってるな
良く言われる、今川義元が馬に乗れないなんてどっから出て来たんだろな

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/14(日) 10:13:51.36 ID:Wq8euVbd
室町幕府から有力大名として塗輿を許される
→輿に乗っているから馬に乗れない、と曲解される

血気の勇であった

2012年11月11日 18:59

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 13:33:40.62 ID:bj8WhPIj
桶狭間の戦いの折、遠州二股の城主・松井五郎八郎
義元の討死によって呆然として落ちて行ったところで井伊信濃守と出くわした。

「信濃殿、大将は討死された。本陣は崩れてしまったから見届けずともよい」

松井が声をかけると井伊はにっこりと笑って…

「兄の肥後守の申し付けで本陣へ見廻りに参るところでした。
味方が崩れたからとこのまま立ち帰るのはそれがしの本意ではありません。
兄に敗軍を見物して帰りましたとは申し難いのです」

「そうか…そうだな、いざ共に参ろうか」

松井は井伊の言葉に励まされて取って返し、両人とも討死した。

井伊は弟であって家督ではないから義による本意の討死である。
しかし松井が討死したのは軽率であった。この人には父がいたが子はいない。
終いには跡目は断絶し、七十余の父は武田に生け捕られて老後の恥辱を受けた。
これは五郎八郎の不孝である。

初め大将討死の場にて松井が共に死ぬのは士の道であったが、墓場とすべきところ
でもないのに井伊の言葉に従って父のことを思わず引き返したのは血気の勇であった。

――『良将言行録』

参照
「武士道とは死ぬことなり」という武士道の鉄則は


302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 13:48:46.76 ID:/GWsp2jW
政宗「いろは郎とは変わった名だな」
井伊直盛「娘に男子名をつけるな」

ところで桶狭間で死んだのって、井伊家当主の信濃守直盛じゃなかったっけ

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 15:49:09.12 ID:Z+QhB4y6
井伊肥後守は井伊信濃守直盛の兄ではなく
娘である直虎の婚約者の井伊直親だよね?

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 16:23:37.77 ID:kV/M+FxC
>>301
葉隠マンが聞いたらよくやったと褒めてくれるよ

花倉の警告

2012年10月10日 20:12

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/09(火) 21:56:34.95 ID:sRAIjwt0
今川義元が三河表に発向するという時の事、不思議な夢を見たことがあった。
夢のなかに花倉(花倉の乱で義元と家督を争った玄広恵探)が現れ、義元に対し

『今度の出陣は止めるべきだ』

と云った。
義元はこれに

『貴様は私への敵愾心からそんな事を言うのだろう!そんな話を聞くことは出来ない!』

そう答えたが、花倉は更に云う

『今川の家が滅びるということを、どうして憂わざるか!』

そこで目が覚めた。

その後、駿河の藤枝を通った時、義元は突然刀に手をかけた

「町中に花倉が立っている!」

しかし周りの者達には何も見えなかった。
不思議な事である。

(当代記)





今川義元の呪い

2011年06月06日 00:00

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 03:10:05.29 ID:VUAJlTdL
永禄3年、今川義元は桶狭間の戦いで織田信長にまさかの敗北を喫し討死してしまう。
弱小とみなしていた信長に敗死したのがよほど悔しかったのであろう、その死後、
古戦場にはさまざまな怪異が起きるようになった。

曰く、
義元の墓の横に義元が馬を繋いだ枯れ木が立っているが触れると熱病に罹る
曰く、
義元の霊が巨大な蛍となって現れ、京都を目指して飛んでいく(妖怪「氏蛍」)
曰く、
毎年5月19日の合戦の日になると、白馬に乗った武将が辺り一帯を駆け巡り、その姿を見、
そのことを人に口外すると狂い死にする

などなど

江戸の終わりには、亡霊鎮魂のため、通称「お化け地蔵」なる地蔵が建てられている。
それでも義元の霊は鎮まらなかった。

明治の半ば頃、地元の大工某が義元の墓近くを通り掛かると、松食い虫により食い倒された
松の木の根元から白蛇があらわれるのを見つけた。大工は白馬に乗った武将の伝説のことと
考え合わせ、自分ひとりの心にしまっておけず、そのことをを人に語ってしまった。
するとその日から三日三晩高熱にうなされたあげく死んでしまったという。
怖ろしくなった地元の人々は、高徳院という寺の住職に依頼して加持祈祷をしてもらい、
義元の霊を「三角池」という池に封じ込めてもらった。そして、毎年義元の命日5月19日に
なると木刀や酒、飯、肴を石に縛り付けて池に沈め、お経を唱えて供養するようになった。

昭和30年代に入って、学校建設のため、池は埋め立てられることとなり、義元の霊魂は高徳院
境内にある池に祀り直され、池のほとりにお堂が建てられた。
しばらく後、知多半島から来た霊能力者の女性がお堂でお参りしていると、体が宙に浮き神憑り
状態となってこう告げた。
「我は400年間蛇身となり苦しんできたが、神としてここに祀られて身も安泰となった---
ここに鳥居を奉ぜよ---さすれば我白龍となりて諸人の願いを叶えようぞ---」

こうして義元の霊は「一願成就徳親竜神」となって今では近在の人々の信仰を集めています。
毎月19日と正月15日がご縁日、ご祈祷料は一回3000円です。


文明開化の世になっても呪い殺す義元さんデラオソロシス という訳で悪い話へ投下
もっと早く祀ってあげなよ('A`)




489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 07:10:54.43 ID:8jxlvI5q
なにげに今川義元も人気あるよなw
アピールし続けるってのは大事なことだ

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 10:23:11.96 ID:5Srg4wEO
>>488
ホームページまで有るのか。


http://www.koutokuin.jp/kitou.htm
 縁   起
 今川義元公の亡霊


491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 10:34:13.49 ID:lBxSoyRv
今川といえば杉並区今川にある観泉寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E6%B3%89%E5%AF%BA

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 16:54:10.53 ID:5Pz5SZ1r
>>488
そういえば今日古戦場祭りだったね

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 17:00:14.57 ID:17l4UgIM
無念度でいったら、天下獲りまであと数年ってところで謀反にあった信長の方が無念だろ
信長の怨霊とかおらんがな

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 17:04:15.84 ID:PFRc0W67
そういや信長の祟り話ってあるのかな?

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 17:10:12.68 ID:VDqYr/MW
秀吉の夢に出てきて苦しめてた的な逸話はあったような。

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 18:01:38.43 ID:7MYKeY4Y
>>493
是非もなし、な人だからねぇ

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 18:14:09.12 ID:jtbD9mRt
「是非も無し」を大阪弁で言うと「しゃあない」w

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 18:37:54.34 ID:0sCrZdHW
>>494
まとめサイト(有名な話だけど)にあると思うが
乱丸殺して信長を挿した安田作兵衛が腫れ物で発狂して信長命日に自刃してるな
まあ、本能寺から死ぬまでの20年間にヒャッハーしまくってるから怨念にしては悠長だが

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 19:56:04.63 ID:de8hD7bG
祟り話ってのは、後世の人間の「あいつは怨んで死んだんだ」「さぞ無念だったろう」
という想像から産まれるものだからなあ

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/05(日) 21:26:17.17 ID:Y8IyIBEP
後世じゃなくても生まれるよ
鎮護のために寺社がつくられたり、怨霊を御霊にしたりするじゃないか
近世までの日本史は怨霊と祟り神に怯える記録ばっかり

泉岳寺、義元公の怨念?

2011年04月25日 00:00

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 14:02:27.95 ID:vsR9dYsw
浅野、浪人、因縁話で思いついた

「足利が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」
という名門の、今川義元が信長配下の服部小平太と毛利新助に討たれた50年余り後
義元公を弔うため、義元の孫、門庵宗関によって泉岳寺が建立された。
元禄に入って今川の本家筋の吉良義央を殺した義士たちが泉岳寺に葬られることになるが、
この赤穂浪士、もう少しで四十八士になるはずであった。
最後の脱盟者の名前は「毛利小平太元義」という、服部小平太、毛利新助を
一緒にして義元をひっくりかえしたような名前である。
毛利小平太の脱盟の理由は不明であり、様々に憶測がなされているが
まさか、こんな名前のやつを泉岳寺に葬りたくないという義元公の怨念が




864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/24(日) 15:48:20.48 ID:vsR9dYsw
って調べてみたら吉良義央って今川氏真の玄孫だったんだな
ますます泉岳寺に葬ってよかったんだろうか

何故、今川義元は家康公をあんなに厚遇したのだろう?

2010年09月19日 00:01

100 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/09/18(土) 19:04:38 ID:QCArhsVD
今川義元が三河を占領し松平家から嫡男竹千代を人質に取った際、家臣に
「竹千代には出来るだけ惨い仕打ちを加えよ」と命じた

これを聞いた家臣は
「それは、竹千代殿に過酷な処遇を与えると言う事でしょうか?」と尋ねると

義元は
「そうではない。もし竹千代が暑いと言えば涼しくしてやり、寒いと言えば暖を取らせる。
 要するに、竹千代の願いを可能な限り叶えてやるのだ。」と答えた。

つまり義元は竹千代を徹底的に甘やかし、堕落させようとしたのである。しかし、そんな義元の思惑とは裏腹に
竹千代は立派に成長し、天下人になるのだから皮肉としかいい様がない。以上、義元のアテが外れた悪い話。

最後にこのエピソードは後世の人々が「何故、今川義元は家康公をあんなに厚遇したのだろう?」という疑問から生まれた
ものだそうです。




101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/18(土) 19:15:16 ID:aWI3DbR+
自分の描いてた像と違う行動があると、なんだかんだとこじつけて理由をひねりだすってのはよくあるよな
このスレの鬼武蔵もそうだが

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/18(土) 19:36:28 ID:8rFGc0aD
今川家臣A「甘やかすのは竹千代で良いんだよな?」
今川家臣B「え、そうだっけ?」
今川家臣C「酷い処遇にしろって言ってなかったか?」
今川家臣A「いや、甘やかせって俺は聞いた」
今川家臣C「人質を甘やかすのか?」
今川家臣B「あ、ひょっとしたら息子を甘やかせって言ってたんじゃないか?」
今川家臣A「そうだっけ?」
今川家臣C「そうそう、竹千代は酷い処遇にするんだよ」
今川家臣B「うん、なんかシックリきた」
今川家臣A「じゃ、息子を甘やかして、竹千代は酷い処遇でいいんだな」
今川家臣C「そうそう、殿も紛らわしいよな」


108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/18(土) 19:42:25 ID:FjzicoLj
大御所様もてんぷらではなく実のところ年甲斐もなくボボを食べすぎたことが原因だったのではないか?


109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/18(土) 19:57:21 ID:3pnwVFMJ
>>106
ちょw
孕石さん、それは・・・

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/18(土) 21:15:49 ID:cg2zpaUP
>>106
素直に感心した。後世の後付けでこんなに説得力のあるものってそうそうないな。

駿府城のタブー

2010年09月15日 00:00

987 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/14(火) 01:20:45 ID:+VUY7ex5
その昔駿府城では、城内で謡曲の“芭蕉”を謡ってはいけない、というタブーがあった。
この曲は内容的には、年老いた女の姿をした芭蕉の精霊が、僧侶に世の中の無常を語るというだけの、
謡曲としては珍しくないテーマのものなのだが、
無常を謡うものだから、あまり景気のいい曲ではない。

桶狭間合戦の出陣前夜、これを今川義元が駿府館で謡った。
「よしや思えば定めなき、世は芭蕉葉の夢のうち」
それを聞いた家臣の松田左膳は、歌詞が不吉だと窘めたが、興を削がれて怒った義元はそれに怒って
左膳を手討ちにした。

そして合戦が始まり、義元が桶狭間に陣を据えると、どこからか左膳が謡う声がした。
「よしや思えば定めなき、世は芭蕉葉の夢のうち」
たちまち雨が降り始め、風が吹き荒れた。
どうしたことと驚く義元の眼前に、織田の軍勢が殺到した。

以降、駿府館が駿府城と呼ばれるようになってからも、城内で「芭蕉」を謡うのは不吉とされた。
ところが時代が下り、家康の子息達が駿府城に入るようになると、彼らはこういう噂を軽んじ、徳川忠長
城内でこの曲を演じさせた。
すると、たちまち風雨が起こり、雷鳴がいななくと共にどこからともなく男が謡った。

「よしや思えば定めなき、世は芭蕉葉の夢のうち」

しばらくして忠長は甲州へ送られ遂に高崎で切腹となった。
以降、幕末まで、駿府城内では「芭蕉」は口ずさんだりすることさえ固く禁じられた。




994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/14(火) 18:12:08 ID:oaB6VEox
>>987
その話、徳川頼宣も同じように芭蕉を演じさせたけど、
家臣に咎められて途中でやめた。
しかし直後紀州に藩変えになった。
という話を見たことがある。

家臣の名前は見てないけど、なんとなく脳内で安藤さん変換した。

995 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/14(火) 20:52:06 ID:pkTV6tzX
安藤さんそんな迷信的じゃないと思うけど・・・

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/15(水) 13:33:44 ID:9mmGDCg4
迷信と科学なんて親戚みたいなもの
今現在最先端の科学って言われてることでも
後の世になったら迷信って言われてるようになる

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/15(水) 14:37:15 ID:CKnqUdWF
そうそう。
地動説なんて、完全に迷信だったもんな。

998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/15(水) 15:24:35 ID:Vs0xM6cH
天動説のことを言っているのか、
それとも計算が簡単にできるために現在では「地動説」を使っているだけで、
座標をどこに取るかは本来自由だ、ということを言っているのか

999 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/15(水) 15:42:55 ID:K/2hezId
>>996-997
それは、程度の違う話をごちゃ混ぜにしてるだけ。

呪術・祈祷・亡霊・妖怪等、電波飛びまくりの不思議社会だった室町時代から、
迷信を排した合理的な江戸時代の社会まで、人間の意識はかなり急速に切り替わっている。
150年間の戦国時代はその過渡期だ。
戦国初期の人と、末期の人ではものの考え方が全然違う。

吉凶や占い、神罰仏罰を無視した信長とその部下たち。
出陣の吉日選びをせずに戦争に勝ち続け、仏を信じず、神を脅迫した秀吉。
呪いをかけられても無関心だった家康。

誰かが、誰かに影響を与え合って時代の流れができていくわけで、
歴史ってつながってるんだよね。