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北畠具教を討った面々のその後

2022年04月12日 17:46

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/11(月) 22:57:48.74 ID:Tpen1w6e
勢州軍記」から北畠具教を討った面々のその後

・(藤方刑部少輔の父である)藤方慶由のこと
藤方慶由は人質として信雄の田丸城に留め置かれていたが、北畠家没落に嘆き悲しんだ。
こともあろうに子息の刑部少輔が北畠具教卿暗殺という不義の企てに加わっていたと知ると
「去年の夏、孫が長嶋城を落としてしまい家名を失ったというのに、今、お前の不義があらわれてしまい、当家の名は失墜してしまった。
主君であり、一族(藤方氏は北畠氏の分家)であるというのに嘆かずにいられようか。
報いはやがて子孫にこよう、長生きしたばかりに、このようなことを見ようとは。わしは早死にすべきだった」
息子の刑部少輔「私も本意ではなかったのですが、父上が人質に取られているため、御命をお助けするために逆意を企てたのです」
慶由「お前がそのように言うのであれば、わしは三瀬主君(北畠具教卿)に対して追腹を斬る!
これで少しは当家の面目も立つだろうし、武道の本望というものだろう。」
と言い、そののち「風呂に入ってくる」と言って部屋を出、深い淵に身を投げて死んでしまった。
その名誉と義心に対し、世の人はこぞってこれを賞賛した。
その子孫については慶由が言った通り、落魄して大津でボロ屋に住むようになり、ついに滅亡したという。

また実際に討ち手に加わった藤方家の軽野左京進は、刑部少輔に逆心を唆した張本人でもあった。
国司を討ったのちほどなく重病にかかり、五体・四肢が癰(膿瘍)や痪(「やまいだれに奐」麻痺)に侵されて死んだということだ。
末世といえども因果応報は歴然の理である。

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/11(月) 22:59:50.89 ID:Tpen1w6e
奥山常陸介のこと

奥山常陸介北畠具教卿を討った時の褒美として、あらかじめ信雄から三千石の朱印状を賜り、常陸介も誓紙を書いた。
しかし譜代相伝の主君を討つに忍びず、心変わりし、仮病を理由に国司追討に参加しなかった。
信雄に朱印状を返して辞去し、そのまま出家した。
具教卿暗殺ののち、信雄が奥山を召すと、剃髪染衣の姿で田丸に現れた。
信雄はその義心に感心し、三百石の朱印状を渡したが、
奥山は「もはや現世において領地の望みはありません、後生を願うのみです」と朱印状を受け取らなかった。
そののちも道心は変わらず、真盛上人の開山した摂津の西来寺の近くで庵室を構え、具教卿の後生菩提を祈った。
一生念仏を唱え続け、ついに往生を遂げたという。



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「具教兵法の事」

2022年04月11日 18:03

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/11(月) 11:58:15.48 ID:Tpen1w6e
勢州軍記」から>>430の続き
「具教兵法の事」

北畠具教卿は塚原卜伝入道の弟子であり、兵法を極め、奥義・一の太刀を習得していた。
しかし用心を怠ったために、このような害を受けてしまった。
このようなことがあるから張良は漢皇を立てたのち身をひいたのだ。
これこそが武士の奥義といえよう。
さて兵法剣術については、近来常陸国住人の飯篠長威入道が天より真の伝(天真伝?)を受け、一流を起こした。
かの卜伝は長威から相伝されること四代目にあたり、秘伝をものとしていた。
その伝を新たに世間に広め、諸国を修行し、常陸に帰ってきた。
最終的に家督を三人の息子たちのうちの誰かに譲ろうと考え、
嚢連(ふすま?)の上にに木枕を置き、嚢連を開けると木枕が落ちるように仕掛けた。
まず長男を招いた。長男は開ける前に木枕を見つけたため、木枕を下ろし、入室し座った。
同様に次男を招いた。次男は嚢連を開けた時に木枕が落ちてきたため、とっさに飛び退いて手を刀にかけ、怒りながら入室し座った。
同じく三男を招いたところ、三男は嚢連を開けたら木枕が落ちてきたため、すぐに抜刀して木枕を斬った。
塚原卜伝は、次男、三男に対しては「木枕を見て驚くとは何たることだ!」と怒り、長男には感心して家督を譲ることにした。
卜伝「しかし奥義の一の太刀は伝授するのは一人だけ、ということになっておる。
すでにわしは伊勢国司・北畠具教卿に伝授してしまったから、汝は伊勢に行って習ってこい」
と遺言して死んだ。
そののち、長男の塚原彦四郎は伊勢に上り、北畠具教卿に会い
「私の父が私に一の太刀を伝授してくれたのですが、相違がないか確認させていただけませんか?」
と言うと、北畠具教卿はその意図を知らず、一の太刀を実演して見せてしまったということだ。



433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/11(月) 17:42:12.30 ID:C16sIoNI
賢いな

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/11(月) 22:12:30.19 ID:Dj17yKJA
>嚢連(ふすま?)の上にに木枕を置き、嚢連を開けると木枕が落ちるように仕掛けた。

教室の入り口に黒板消し挟むやつの由緒?

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/11(月) 22:21:12.59 ID:zwR4m/VE
七人の侍に似たシーンがあったな

北畠具教の最期

2022年04月08日 16:28

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/08(金) 14:12:26.88 ID:8NMoyGPa
勢州軍記」から北畠具教の最期

伊勢国司であり三瀬大御所の北畠中納言源具教入道は不智不慮であり、当家を織田に渡したことを悔いていた。
(続群書類従では「不智不慮」としているが、北畠具教の法号が「不智斎」であるため不智で切るべき?)
信長公と仲が悪く、信雄朝臣を蔑んでいた。
そのため先年武田信玄と合心し謀叛を企てていたという。
またある時、信雄の小姓が小鳥をとりに国司屋敷に入ってきたため、具教の家臣は小姓をひどく打擲したところ、信雄は憤った。
信長公は北畠具教に野心があるとみなし、織田掃部助(忠寛)に北畠具教親子、坂内入道親子を討つように命じた。
信雄が諸侍に謀ったが、天野佐左衛門尉と柘植三郎左衛門尉が城門の外でこれについて相談したのが、門の陰にいた下女に聞かれてしまい、ことが公になってしまった。
そのため急いで討ち手を招集した。
まず北畠具教への討ち手として藤方刑部少輔、奥山常陸介、滝川三郎兵衛尉、長野左京亮が命じられたが、藤方は名代として軽野左京進を出した。
彼らは領地の朱印を頂いたが、みな北畠譜代重恩の臣であり、欲のために理を捨てたのであった。
ただ奥山常陸介は心を翻し、仮病で討ち手には加わらなかった。
こうして天正四年十一月二十五日の朝、三人は三瀬御所に参じた。
北畠具教卿は炬燵に当たり、夜衣を着て、三歳と今年生まれたばかりの若君を膝においてあやしていた。
近習である佐々木四郎左衛門尉が御前に参じ、出仕のよしを言上した。
具教卿は若君を乳母に預け、出座しようとしたところで長野左京亮が具教卿御愛用の槍で具教卿を突いた。
具教卿は兵法の名人であったため、太刀を抜こうとしたが、小姓の佐々木四郎左衛門尉も企てに加わっており、あらかじめ太刀を抜けないように細工をしていた。
具教卿は徒手空拳であったが肝が据わっており、長野に対して
「わしは常々、お前がいつか裏切ると思っておったわ!」と言った。
そのとき滝川・軽野も太刀を抜いて斬りかかってきた。
具教卿は憤怒の面持ちでついに死んだ。御年四十九であった。
若君は乳母に抱えられ裏庭に向かったが追手により害された。
今年生まれた若君も乳母が懐中に入れて雪隠に隠れたが、探し当てられ殺された?(尋求奉失之)
北の方や乳母や女房たちも泣き喚きながら逃げ回り、聞く人で涙を流さぬ者はなかったという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12389.html
北畠具教の滅亡
こっちと違って刀も抜けずに殺されてしまっている

続き
「具教兵法の事」


北畠具教の滅亡

2020年03月07日 16:31

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 11:03:05.01 ID:4mIamn/1
天正四年には、織田信長公は近江国安土山に城を拵え給いて、岐阜は御子信忠へ譲られた。
同五月に大阪を攻め勝利を得られた。
またその年、伊勢国司北畠権中納言具教卿をも討った。

この北畠具教卿と申すは、心剛にして力も強く、塚原卜伝の一の弟子であり、兵法は一の太刀をも極められていた。
そのような人物であったので、信長の次男・信雄を養子にされたと雖も、自分の孫婿として田丸に置かれ、
主城である大河内には自らが居し、多気には子息の左中将信意(具房)を置いた。

信長はこの状況を然るべからずと思われたのか、去々年より、長島城に北伊勢四郡を副えて置いていた
滝川左近将監一益に、「国司(具教)並びに一味の大名共を謀り討て」と宣うた。
そこで一益は信雄と申し合わせ、鐘を合図として、ある朝国司の御所に押し寄せ、また同時に、北畠、大河内、坂、
名井、三瀬、羽瀬、長野などという一族を始めとして大名十三人を、味方の大名十三人の方へ呼び寄せて討った。

こうして北畠具教卿には味方が一人も無くなり、居合わせていた下臈たちも皆落ちていった。
しかし彼は究竟の強弓であったので、只一人門外に進み出て、差しつめ引きつめ、散々に射られると、矢庭に
鎧武者を多く射倒した。
そして殿中につつと入ると、大長刀を振るい斬って出て、また大勢の敵を薙ぎ伏せ、或いは十文字の鑓をかついで出、
或いは太刀を打ち振り斬って出、このように道具を持ち替え持ち替え兵法の秘術を尽くし給いし有様は、実に
雄々しく見えた。

卯の刻(午前六時ころ)から巳の刻(午前十時頃)まで戦い、遂に四十九歳にして討たれた。

こうして信雄は大河内城へ移った。国司の嫡男である北畠左中将信意については、「本より村上源氏の公家であるから」
として、京都に置かれた。次男は出家して奈良の東門院の御院家と申していたが、この事を聞いて、「如何様恨みを
散らさん」と、還俗して北畠具親と名乗り潜伏したが、恨みを遂げる力があるとも思われなかった。(この北畠具親に
ついては実在を確認できない)

氏鄕記



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 11:24:49.62 ID:D3fNQvLL
人間50年か
まるでドラマでのノブさんの最後のようだ

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 12:04:51.91 ID:oyNgTpDB
>>896
北畠信意は信雄ではないんだ

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 12:27:33.61 ID:4mIamn/1
>>898
どうもこの『氏郷記』は具房と信意(信雄)の諱を混同していると思われます。

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 13:08:04.80 ID:3FlUNxOP
https://i.imgur.com/RM8snGg.jpg
「信長の忍び」の具教暗殺場面
ドラマチックではない「刀も抜けずに殺された」
の方が真実な気がする

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 22:22:51.38 ID:z5ApWnH5
>>896
剣豪将軍らしい最後でこっちのが夢がある

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 22:34:24.41 ID:R5CMkxWC
>>901
剣豪将軍の話じゃないんだが?

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/07(土) 23:35:06.84 ID:jDbW28ko
ロマンと実際どうだったかって別やしなぁ

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/08(日) 08:46:07.12 ID:A/2T+4ly
>>902
将軍じゃなくて大名でした、失礼

藤方入道慶田の「武士の義」

2009年12月29日 00:41

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 15:05:03 ID:XvFNtzYV
天正4年(1576)11月25日、織田信長の命による北畠具教の謀殺。
後世に言う「三瀬の変」が起こる。

元の国司、北畠具教に対し、北畠譜代の士である藤方刑部少輔朝成、滝川三郎兵衛、長野左京亮らが
刺客として向かうことを命ぜられ、彼らは元の主君を殺した。
藤方は自らは出向かず、家臣の加留左京を名代として行かせた。

この頃、藤方朝成の父、入道慶田は、北畠家に送り込まれた織田信雄の居城、田丸城に
人質としてとられていた。
具教謀殺を聞いた慶田は悲嘆にくれ、それに参加した息子朝成を口を極めて批判した。
曰く、人倫に非らず。

朝成これに
「私も本意ではありませんでした。が、父上が人質として田丸におられたのです!
その為仕方なく、この企てに参加したのです!」

「それが間違っておる!」

慶田は言う
「この企てを聞いたとき、お前は速やかに具教様にご報告し、共に織田と戦い命を捨てるべきであった。
そのうえでわしが磔になれば、それこそ当家の面目と言うべきではないか!
お主は武士の義を知らぬ!」

入道慶田はその後、自ら命を絶った。切腹だとも、入水したのだとも言われる。

信長の北畠一族謀殺の中で起こった、悲劇の一つである。




399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 15:38:49 ID:XQTJGUPJ
信長の命令なら仕方ない

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 15:53:59 ID:lBsAIquP
え?進撃止めの命令が殿から?
そんなんしらね。信濃甲斐の城は全部攻め落としてやるぜえええええええええええ

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 16:44:20 ID:0HUrnFpJ
>>398

しかも自分の手は汚さない小狡さ。
だが、こういうこすい奴が結局は生き残って家名を残してゆくんだな。

平成の世にまで汚名が伝わる羽目にはなっているが。

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 17:03:08 ID:8DnLaP79
しかし、北畠は南朝が完膚なきまでに打ちのめされた時、滅亡しておかしくなかった
ここまで、よくも伊勢の雄として存続したよ…

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 17:24:07 ID:AuUBKWNH
後南朝の時もやられてるしな
戦国に入るころから六角、細川と急接近した辺りが奏功した感じ

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 18:09:24 ID:4iMd+H3r
北畠って、公衆便所みたいな所の便槽に吊るされて
死んだんじゃなかったっけ?

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/28(月) 21:05:09 ID:G9mHKhgu
足利義輝みたいな感じの最期じゃね?

北畠具房の哀れ・悪い話

2009年03月02日 00:11

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/01(日) 22:18:36 ID:PnLNiH/e
伊勢の北畠具教には三人の子供がいた。
そのうち長男で、伊勢国司を継いのは北畠具房だが、
この男、大変太っており、普段の運動すら自由ではなかったそうだ。

そのため伊勢の国人たちは、具房を「太りの御所」と呼んで馬鹿にしていた。
しかもうつけ者で、麦と豆の違いも分からないような有様で、何の役にも立たない男だと思われていた。


のち、信長の手による、北畠一族の粛清が行われた。


北畠の者は、幼児まで惨殺されたにも拘らず、この具房だけが、命を助けられた。

惨たらしく殺された者より、生かされた者の方に、はるかに哀れを感じる。
そんなお話。




492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/01(日) 22:21:12 ID:48NJ01jb
根切りする価値すらない、と

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/01(日) 22:59:12 ID:k4ahZr4k
醜ければ生かせ。同情をさそう者ならば殺せ。

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/01(日) 23:07:54 ID:R1ctJEs0
六韜三略の教えに似たようなのがあったな
「切れ者の使者には何も持たせず返せ 馬鹿の使者には盛大に褒美を与えて返せ」
だったか。
コレをやられたのが大蔵卿局(淀の方の乳母→側近)。

北畠老臣、信長を疑惑す

2009年02月18日 04:39

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 11:30:43 ID:HZEj7cyK
天正四年の正月の事である。北畠具教、具房親子は、年頭の挨拶のため、譜代の老臣
鳥屋尾石見守を使者として、岐阜城へと遣わした。

ところが信長はこの使者を待たせたまま対面しようとしない。鳥屋尾は怒って帰ろうとしたが
それを聞いた信長は人を遣わして鳥屋尾を連れ戻した。

しかし信長は戻ってきた鳥屋尾に対し、庭の白洲に進物の品を置かせたまま、
自分は縁側に立って刀を抜き放ち、それを振るいながら鳥屋尾を睨み付けた。

鳥屋尾はこの信長の態度を見て、信長が北畠を滅ぼそうとしていると確信した、と言う。


信長、信雄による北畠一族の粛清が行われるのは、この年の11月25日の事であった。




117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 12:44:06 ID:LNa3HgZO
いや、超ヒントじゃん。
何やすやすと潰されてんの北畠w

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 13:50:48 ID:K2EfIuT3
>>115
よくわからんのだが信長のこの行動は何を目的にしてやってんだろう?

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 14:38:27 ID:X3jsr7qd
>自分は縁側に立って刀を抜き放ち、それを振るいながら鳥屋尾を睨み付けた。

想像したらちょっと笑える絵図だ
客の前でぶんぶん刀を振って睨んでるってw
きっと信長は刀を振ってる自分に鳥屋尾さんのコメントが欲しかったんだよ





続き
北畠遺臣、光秀に味方す
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1378.html


北畠遺臣、光秀に味方す

2009年02月18日 04:38

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 17:39:44 ID:FqmpF4K2
北畠氏落城後、残党の中に明智光秀に味方をした一団がいた。

三瀬の変の生き残りである、北畠具教の弟具親と大宮多気丸の一党である。
彼らは、山中に隠れ住み機会をねらっていたのだが、織田信長が本能寺へ入るという情報を得た
大宮多気丸、鳥屋尾内蔵助ら残党は、主君北畠具教を汚い謀略で暗殺した信長に怨みを晴らさん
と本能寺の近くに潜んでいた。

そこへ早馬が飛んできた。「信長、本能寺にて明智光秀に討たる!」
なんと、一足先に明智光秀によって信長親子は殺されたのである。
「一足遅かったか」と嘆いてはみたが、怨敵信長が討たれたことはめでたいことだと祝宴をあげた。
今後は明智光秀にお味方しようと、安土城にいる光秀の傘下に入ったという。

彼らはそれから11日後に、京都山崎の合戦にて全員討死した。
鳥屋尾内蔵助は鳥屋尾石見守の遺児であったという。




122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 17:44:56 ID:HZEj7cyK
>>121
続きがあったのか!このスレはすごいな。

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 20:24:01 ID:YLkg7Z7z
>>121
内蔵助って名乗ると、平穏には死ねないのかね

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 21:54:30 ID:F3TkaB/Q
微妙にいいはなしじゃね?w

125 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/17(火) 22:48:13 ID:R5jxE0dE
>>124
南朝遺臣としての武家の北畠家本流としてはその後も再興できなかった…

まったくの無駄死にw

128 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/18(水) 01:28:38 ID:PG/rVQKn
北畠家は武家か?

130 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/02/18(水) 02:21:05 ID:tWfEE0Ud
>>128
公家だけど、滅亡直前には武家といっても通用すると思ってそういう書き方をしてみた




参考
北畠老臣、信長を疑惑す
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1379.html