吉村には似合わぬこと

2017年06月13日 15:30

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/13(火) 14:59:20.56 ID:j0uYUwB8
睡庵(渡辺勘兵衛了)が坂本に居住していた時、睡庵の家来が大津の町において喧嘩のこと有りと聞いて、
吉村又兵衛(宣充)、その頃は牢人であったが、睡庵のもとに急いで駆けつけてきた。

水庵は対面するや言った
「喧嘩見舞いであるのなら、特別のこともないので帰られよ。
ほかに話したいことがあるのなら、飯を食ってから話されよ。」

吉村
「喧嘩のことを聞いて急いで見舞いに来たまでである。そういうことならば帰る」
そういって帰ったが、この時睡庵は次男を道まで遅らせた。水庵は次男にこう申し含めていた

「私は直に言わない、汝、密かに吉村に伝えてほしい。今日の見舞いのこと、吉村には似合わぬことである。
我等の手の者の喧嘩のこと、別にこれといった仔細のあるものではない。こういう事には天下の大法が
大方定まっている。我が者が斬り殺されれば相手の者は切腹に成るし、人を斬れば此の方の者が切腹と成る。
である以上、気遣いに成ること無い。

こういったことに吉村が大急ぎで京より来るというのは、まるで一揆合いで手足の働きをするの若者の
ようではないか。以降慎まれるように、と」

然るべき事である。

(士談)


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つまるところ、その時の運

2016年06月05日 22:00

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/05(日) 12:49:34.06 ID:fD1chIg3
渡辺水庵(了)が常に語りなさったことには、

「私は若年より戦場に臨むごとに、先陣を心がけなかったことがない。
そうとはいえども、その好機に乗ることは稀であった。

つまるところ、常の心がけの上でその時の運によるのであろう。
言葉にはしがたいことだ」

とのことである。

――『備前老人物語』




大和郡山城明け渡し

2015年01月22日 18:43

583 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 19:33:21.89 ID:arHxozrM
太閤秀吉が逝去し、その後慶長五年(1600)、関ヶ原の逆乱の時、大和郡山城の増田長盛は、
西軍方であったため、関ヶ原の後詰として江州水口まで出陣した所で、関ヶ原において西軍が敗北したとの
知らせを受けた。そこで彼の地に留まっていた所に、徳川家康からは彼を討ち果たせとの上意があったものの、
様々に詫び言を申し上げ、法体となって高野山へと登った。

この増田長盛が大阪から出陣する時、郡山の城は大事の場所であると、自分に従う馬上の者達千騎のうち、
七百騎を郡山に残し、家老分の者達も大部分は残し置き、関ヶ原へは馬上の者三百騎を従えて出陣した。
増田長盛がこのように、知行と比べて人数多く従えていたのは、所領の大和郡山二十万石に加え、
紀伊和泉大和の代官職をも兼ねていた為だということである。

さて、関ヶ原で西軍が敗北すると、留守の郡山では、増田長盛は水口から高野山へと登った、
又は切腹した、あるいは討ち果たされた、遠流されたなど、様々に取り沙汰された。
そして郡山にも東軍の軍勢がまもなく押し寄せるという時、大和の国中の百姓たちは、牢人していた
かつての国侍を大将として一揆を起こし、郡山に押し寄せ、町口の端々に放火などし、あるいは乱取り(略奪)を
行った。
これに、留守居の家老たちは慌てふためき静めることが出来ずに居た。

これより以前、渡辺勘兵衛は(了)は牢人していて、秀吉の直臣に成ることを望んでいたが、それを
増田長盛が聞き、「秀吉公には時節を見て召し出して頂けるよう取り持つので、先ずは我が方に参られよ」
と声をかけ、そのため郡山に参り客分として、一万俵の合力を受け三の曲輪の中に居住していた。
それ故、大和領内の仕置などには関わっていなかったのであるが、このような緊急事態に、勘兵衛は
家老たちの所に行くと言った。

「このような混乱した事態は以ての外である、急ぎ方針を決定し、覚悟を決めなければならない。」

しかし家老たち
「このように乱れ、家中さえ治まりかねている有り様です。まして郷中などの事はどうしようもありません。」

「各々が支配が難しいというのであれば、私を物主として、その指図通りに従っていただきたい!」

家老たちはこのような状況であったので、ともかくもあなたの指図次第にすると彼に従った。
そうして勘兵衛は先ず、東軍が押し寄せてくるのも間もなくであろうからと、籠城することに決め、
諸士の妻子を人質に出させこれを本丸に入れ置いた。それから軍勢を二、三百人ほど用意し、
在所の村々にこれを派遣し、一揆の頭目達を召し捕り、あるいは首を刎ね、郡山の五町目という所で
獄門に掛けた。この処置によって国中はおおかた静まった。

さて、籠城の評議において、持ち口の手分けをしていた時、各々は「外曲輪は捨てて、二、三の曲輪にて
敵を迎えましょう」と意見した。しかし勘兵衛は承知せず「外曲輪にて先ず敵を迎えて様子を見、その上で
内曲輪に籠もるべきである。」と発言し、評議もこれに決まった。

郡山城攻めの軍勢には、筒井伊賀守(定次)、藤堂和泉守(高虎)、その他2,3の将が仰せ付けられた。
彼らは郡山から五里北の、山城国玉水という所まで来ると、そこから使者を以って城を自分たちに
明け渡すよう申し付けた。これに対し、渡辺勘兵衛以下家老たちはこう返答した。

『右衛門尉(増田長盛)の事ですが、今回の事について、一命御赦免あって高野山に登ったとは聞いておりますが、
右衛門尉からわれら留守居に対して、何事も申し越しては来ておりません。それが無いのに城を明け渡す事は
出来ませんので、右衛門尉から申し越しが来る前に慌てて我らが領内に押し入られるのは、どうかご無用に
なされますように。』

そして持ち口を固め、堅固に籠城の準備をした。
これを見た筒井定次は増田長盛の家老たちに、返り忠をいたして城を明け渡すよう申し越したが、それには
返事も出さず、使者を追い返し、『重ねてこのようなことを仰せ越した場合は使者を討ち捨てる!』と返答した。

584 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 19:34:36.29 ID:arHxozrM
これに対し定次は、大和国はかつて筒井家の領国であったので、策を練り地下人などを組織し、夜間郡山に
押し入り乱取り、放火などをさせた所、渡辺勘兵衛は早速聞きつけ。人数二、三百で出撃し、郷人四、五十人も
討ち取り、あるいは搦め捕り、皆首を斬り獄門に掛けた。
その後は堅固に持ち固めたため、寄せ手の衆もうかつに手出しすること出来ず、これをどうにかするよう
増田長盛に申し遣わされた。このため、長盛は高田小左衛門という出頭の者を郡山に差し寄越し

『城を相違なく明け渡すこと。これまでの仕方、祝着である。』

と、渡辺勘兵衛には自筆の墨付を与えた。そして評議で城を明け渡すことに決し、寄せ手の衆に使者を以って
伝えた

「城は明け渡します。しかしながら城内には諸道具、金銀など多くありますので、お請取の時は、先ず番所に
置かれている御人数で諸道具、金銀等を受け取りに来られ、役人だけ城にお入りになって、その上で
紙面を以って道具、金銀を改めて頂いて渡し、そして城も明け渡しましょう。
尤もこの時、我々も城に残すのは役人だけで、他の人数は皆城外へと払い出しておきます。」

寄せ手もこれに同意し、郡山城の諸士は大安寺という伽藍跡へと移動し、家老たちも城を出てそこへと合流した。
これは渡辺勘兵衛がかたく命じたことであったが、勘兵衛自身はどういうことか、その屋敷に鎧武者を百人ばかり
も棒を持たせて隠し置いていた。

さて、寄せ手の軍勢が町口に留まり、番所に諸道具受け取りの人数が向かい、そこで門々の鍵が渡され、
それが開かれると、多くの雑人たちが本丸へと押し寄せて諸道具金銀の乱取りを始めた。

この様子を見た勘兵衛は「沙汰の限りである!」と言って彼の屋敷に隠し置いた人数を出し、門々の鍵を押さえて
取り返し、城に入った者たちを皆追い出し門を閉じ、寄せ手の大将衆に使いを立て
「始めの約束と違いかくの如き有り様である!この上は城を明け渡すことは出来ない!」
と申し渡し、先に大安寺跡に退かせておいた人数を呼び返し、寄せ手と戦闘する準備をした。
これに対し藤堂高虎より扱いが入り

「この体たらく、我々は少しも認知していない事である。とにかく、その方の望み通りにするので、
城の明け渡しをするように。」

そう申し遣わしたものの、勘兵衛は納得せず、もはや戦端を開こうという体になったため、再三扱いを入れ、
その間に南都興福寺の門跡である大乗院殿を頼み、彼により扱いを入れた所、「大乗院殿の御扱いであれば、
先の約束を毛頭も相違無いよう仰せ付けられ、お請取に成るでしょう。」とこれを受け入れ、
大将衆もまた、何れもその通りに申し付けたので、作法良く書道具金銀等紙面を以って改め請取渡し、
その上で城の請取をした。その時渡辺勘兵衛は、終始物主として城方の者たちを指導した。
彼が一人で指導する様子を藤堂高虎は感心し、後で自分の知行の十分の一を与える約束で召抱えた。

(大和記)

大和郡山城明け渡しについての逸話である。



585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/21(水) 21:51:13.71 ID:uMHudFVt
その後高虎から奉公構が出されるとは夢にも思わない勘兵衛だった

渡辺了と田中角之助

2012年09月19日 20:33

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 18:34:46.79 ID:VDmDAEvd

関ヶ原の戦い後、渡辺了は主君・増田長盛の命があるまで郡山城を
接収させなかったが、この時、了は前もって妻子を本丸に入れて置いた。

対して田中角之助は妻子は足手纏いだとしてあらかじめ立ち退かせ、
自分だけ討死にする支度を整えていた。

だが、やがて長盛から城の受け渡しを命じる書状が来たので、
田中は城を渡して立ち去った。

田中は妻子を立ち退かせ、躊躇することなく城を去った。
しかし名声を高めた了とは違い、後世の批判を免れることはできなかった。

――『名将言行録』




睡庵翁と風呂屋の話

2010年11月07日 00:02

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/05(金) 22:00:48 ID:IvAz7A42
京にあるその風呂屋の横には、汗をかき過ぎた客が使えるように、いつも竿に湯帷子や真新しい下帯がかかっていた。

風呂焚きとして二人、垢掻きとして別に二、三人の下男を雇っており、その他に上がり口に屈強な男を一人置き、
他の下男は脱衣所には入れないようにしていた。そのため客は安心して裸になり、衣服・荷物を預けて風呂を楽しんだ。

この風呂屋の主人・睡庵老人の所には毎日のように訪ねて来る者があったので、老人は毎日決まった時間に、訪問客
のみならず、客の使用人にも食事を振舞った。訪問客は、おかげでゆっくりと心行くまで老人との会話に興じた。

また老人は、自分はコタツが嫌いだったが、「顔を突き合せねば、話も弾まぬ。」として、炭の火をごく弱くして
置ゴタツを作らせ、来客同士が遠慮せず近寄って会話できるようにしたという。


備前老人物語に、「今時かく客あしらいする人まれなるべし」とまで書かれた、睡庵こと渡辺勘兵衛の風呂屋の話。
百戦錬磨のご隠居が一緒のコタツに当たらせてくれて、面白い話してくれる銭湯・・・ちょっと行ってみたいかも。






171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/05(金) 23:43:38 ID:iU7q1OIr
>>165
行ってみてえし、入ってみてえ
昔の生活って、今からやると大変だろうけど、でもなんか憧れちまう

渡辺勘兵衛、はじめてのご褒美

2009年11月13日 00:20

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/12(木) 17:04:54 ID:VRa4pw0W
はじめてのご褒美

戦国の名物男の一人、渡辺勘兵衛了。
彼がまだ若年の頃、阿閉貞征に仕えて、謀反した荒木村重を攻撃する
織田信長の軍勢の中にいた。

摂津吹田表にて戦闘があった折、阿閉軍二百は敵陣に突入し、敵将の首6つを取るという
戦果を得た。中でも渡辺勘兵衛は、真っ先に駆け入り、阿閉軍の取った六つの首の中の、
一番首を取った。

この手柄により勘兵衛は、この頃阿閉貞征が寄騎していた羽柴秀吉の黄母衣衆、
山葉文蔵と言うものに付き添って、信長の本陣へ派遣されるという栄を受けた。

さて信長、勘兵衛を御前に召し招き、

「お前の今日の働きは比類が無い。何か褒美を与えようと思うが、さて、なにがいいかな?」

と、周りをきょろきょろ

「お!これだ!」
信長が見つけたもの、それは、

『干し鮭』

勘兵衛の目の前に、間違えようも無い干し鮭が置かれた。

「これを与える!以後、ますます励むように!」

「は、はあ…」

こうして干し鮭をありがたく押し頂き、自陣に帰っていった。
渡辺勘兵衛、この時17歳。初めての御褒美は鮭であった。

勘兵衛は後年、自分の武功に対する評価に非常に過敏になるのだが、
それがこの経験のためであったかどうかは、定かではない。




335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/12(木) 17:06:40 ID:xfdiBb+y
しゃ鮭・・・・  ゴクリ・・・

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/12(木) 18:00:04 ID:8I7aqHTI
>>334
何故そこにあったのだろう?
しかしなんだか可愛いご褒美だ

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/12(木) 18:00:52 ID:Su+UcFzk
鮭って当時の価値はあったのかな?

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/12(木) 19:01:50 ID:OZviHpjv
鯨ぐらいある鮭があったら城と交換してでも食べたいとかいったのは徳川光圀だっけ?

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/12(木) 20:00:57 ID:8AiR92gt
時代がちょっと違うが確か徒然草に、干し鮭を宮中に献上した公家がいて、
それを周囲の公家に「そんな下卑た食べ物を殿上に差し上げるとは下品な……」
と陰口を叩かれた話があった
それで鮭を献上した公家が「鮎の干物はいいのに鮭はいかぬということがあろうか」
って反論したって話だったが、徒然草と戦国じゃちょっと時代が違いすぎるかな

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/12(木) 20:03:48 ID:ymynUwsZ
>>334
普通こういう時って脇差とかじゃねぇのかなぁ・・・
いや待てよ信長は塩っ辛い物が好きだったとも言うしな干し鮭も好物かもしれん
本当に偉いと思ったから自分の好物を与えたのかもしれん

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/12(木) 20:30:27 ID:JP6TFsY8
信長は手近なものを与えてほい、褒美ってやっちゃうことが多いって話があったような。

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/12(木) 20:30:34 ID:600a1UFR
なぜか干し蛙に見えて???となったのは俺だけでいい

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/12(木) 20:40:04 ID:2KQ5LXSO
そういや、草鞋を与えたこともあったな。

しかし、後々家宝に出来る草鞋と違って、食べてお仕舞いの鮭、
しかも偶々眼についたものをあげるなんてw

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/12(木) 21:26:13 ID:M32K6vhE
改まった贈り物に海産物を選ぶ習慣ってあるじゃん
信長もそのつもりだったんだよ!…たぶん

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/12(木) 23:03:16 ID:Oekl9kgM
右大将源頼朝に佐々木三郎盛綱が鮭を献上してるから
武家では喜ばれそうだがな

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/12(木) 23:10:15 ID:+z7jO/GL
義光「それを与えるなんてとんでもない!」

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/13(金) 11:18:57 ID:NLbDYaw8
誰か「この干し鮭やるから帰れよ」のAAお願い

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/13(金) 12:33:31 ID:5tz7iTSv
              ∩___∩
            /  ノ   \  ヽ
            | ●    ● |   なにマジになってんの?
          彡   (_●_)    ミ
           /、   |∪|    ,\   この鮭の切り身やるから帰れよ
          /.|     ヽノ    | ヽ
       ,,/-―ー-、, --、   .|_,|
    r-、,'''";;:;;:;::;;;;:;;::;:;:;;::;:;`'- /_,l,,__ )
   |,,ノ;;:;r'" ̄ ゙̄^"`Y'-、;;;::;:;::;:;:;:;::;:|
    .ヽ,′       ;   `"";;;;;⌒゙')
     ´`゙'''''''''''‐-‐'"`‐-‐'"゛  `゙´
              |  .∥ /
            ("___|_`つ

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/13(金) 13:03:22 ID:Pj9T7SYA
切り身かよっw

渡辺勘兵衛と郡山の国人達

2009年08月27日 00:03

718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/26(水) 11:36:05 ID:JwsH44NR
中村一氏には六人の家老があり、その六人とも、三千石の扶持を与えられていた。
そのうちの一人に、渡辺勘兵衛がいた。

小田原の陣のあと、関東に転封された徳川家康に代わり、駿河は一氏に与えられた。
このとき一氏は六人の家老を平等に六千石に加増したが、勘兵衛はそれに猛烈に噛み付いた。

「私の小田原陣の時の働きは、、秀吉公から直々に、一万石相当のものであると言われました!
それが私ほど働いてもいない、他の五人と同じとは、納得できませぬ!」

と、憤りのあまりそのまま中村家を出奔、高野山に登ってしまったそうだ。

その後勘兵衛は、増田長盛に仕える。
そして関ヶ原の時、勘兵衛は増田家の居城、郡山城を預かっていた。

この時郡山の国人や地侍達が、「増田殿より銀子を頂けなければ、城の防衛に協力しない」と
言ってきた。留守居の者たちは皆、彼らの望み通りに銀子を与えるべきだといったが、
勘兵衛一人がこれに反対した

「殿がお留守であり、殿の仰せ付けのないままに城内の銀子を取り出すことは出来ませぬ。
それにこのような時に汚い欲を出すような者共、協力しないというならかえって好都合。
そのような不義の連中はいり申さぬ!」

留守居の者達もこれに同意したとの事。

勘兵衛さんの考えでは違うのだろうが、傍から見ると、自分の欲には正直だが、
他人の欲には厳しい人だな。というお話w





719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/26(水) 12:46:59 ID:QQTFDkLr
労働に対する正当な評価を要求するというところか

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/26(水) 13:02:17 ID:QUFYOdAd
働いた後の報償と、働く前の前借りとでは話が別だと思う。
あんなに働いたのにこれっぽっちかよ!
というのと
金くれりゃ働いてやんよ!
というのでは比較する対象にはならないのでは?
個人的には勘ベエの頑固ないい話。


721 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/08/26(水) 13:17:30 ID:tMf93AFD
いや、事前報酬というだけではなく、そのもらった銀子で足軽を雇うためにいるんじゃないのか…?


722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/26(水) 13:21:24 ID:PlR9NMNw
一人の武士としては良い話だと思うけど、大将の器じゃないな。
黒官みたいに前払いの二重取りも笑って許すくらいの器量がないとな。
その点、家康の求めに応じて誓紙を出さなかった花房さんと同レベル。


戦国「後」の、世の中・悪い話?

2009年04月23日 00:06

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/22(水) 14:56:47 ID:qFkDF/2M
戦国「後」の、世の中


渡辺勘兵衛が睡庵と名乗り、坂本に居住していた頃の事である。
渡辺の家来が大津の町で喧嘩騒ぎを起こした、と言う話が広まった。
これを聞いた、友人で、元の福島家臣であり、正則改易後牢人をしていた吉村又右衛門は
京より坂本に駆けつけた。

坂本の自宅に現れた吉村に、渡辺
「吉村殿、今日こられた用件が喧嘩見舞いであるのなら、特にさしたることもないゆえ
帰られよ。
何か話でもしたいと思ってこられたのならどうぞ、うちで飯でも食って語り合いましょう。」

心配して急いでやってきたのだ。感謝されることこそあれ、この渡辺の態度はどうか。
吉村、気を悪くし「いや、喧嘩の沙汰を聞いたので見舞いに来たまでです。そのような事であれば、
これで帰ろう。」

「そうか…。では、少々待たれよ。」

渡辺は次男を吉村につけ、街道まで見送りをさせた。
道すがらこの次男は、「父から、密かに吉村様に伝えよとの、言付けがあります。」と語りだした。
その内容はこうだ。

『吉村殿、今日の見舞いの事は、吉村殿には似合わぬ行動ですぞ。
今は天下の大法が定まり、もし我が家来が殺されれば、殺したものは切腹を申し付けられ、
逆に人を斬れば我が方の者が切腹を申し付けられる、そう言う世の中になりました。
しかれば、喧嘩であっても無責任に放置する事はできません。

そうであるのに、喧嘩騒ぎがあったこのようなときに、吉村又右衛門ほどの剛の者が
京都より渡辺の下に来たと知られれば、双方の徒党を組んだ若者達を刺激する事は間違いなく、
いたずらに事態を悪化させるでしょう。

そのような事なので、今回は慎んで頂いたのです。』

戦国の自力救済社会からの転換が、はっきりと感じられる、そんな、戦国が遠くになった頃のお話。





山鹿素行と渡辺睡庵・おもしろい話

2009年02月22日 00:19

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/21(土) 11:51:29 ID:68DZ1AOX
いい話というかおもしろい話。

山鹿素行といえば江戸時代の兵学者で大石内蔵助の師だったりして有名な人。

この人は常々
「千石以上くれないと仕官しない。」
と豪語するような人だった。

そんな彼が15歳の時、ある人と対談した。
藤堂家に仕えた戦国時代の生き残り・渡辺睡庵である。

彼もまた自分の腕に自信のある男で
「5万石くれなければ仕官しない。ワシにはそれだけの価値がある。」
と豪語していた。

彼らの話は兵法に及んだのだが、なぜか睡庵は口篭っている。
対談が終わると睡庵は次のように述べた。

睡庵「どうか、素行殿の弟子にしてもらいたい。」
素行「あなたのような歴戦の勇士が、いきなりなにを言うのです。
   私のような戦場を知らない者に教わりたいなどと。」
睡庵「53歳にもなって恥ずかしい話だが、ワシは自分が
   戦場でどのように感じ、どう行動したらよいのかを言葉で説明できないのだ。
   だが素行殿の言葉を聞いて初めて自分の行動の意味がわかったのです。
   ワシは誓詞など書いたことがないが、弟子にしてくれるなら書いてもいい。」

睡庵は一度戦場に出れば鬼神の如く活躍するが、
その直感的行動を理論的に理解・説明できなかったのである。
だが素行の理論的な説明で初めてその行動の理由を知ったのだった。

戦国時代の兵学と江戸時代の兵学の違いを語る話。




104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/21(土) 13:37:19 ID:3Y9jHvUT
>>99
睡庵 誰?
と思ったらやっぱり勘兵衛のことか

5万石でしか仕官しないなんていう話が残る藤堂家の家臣で渡辺なんて1人しかいないわなw
さすがに晩年は丸くなったんだw

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/21(土) 15:28:28 ID:68DZ1AOX
>>99
補足するとこれは実戦的な技術を重視した戦国時代の兵法と
理論を重視した学問である江戸時代の兵学の違いの話。

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/21(土) 18:11:15 ID:K7YrCNEw
>99
直感の天才・ミスター長嶋が努力のインテリ秀才・ヒロオカさんに弟子入りするようなもんか。

>104加藤嘉明さんとはどうにも相性悪かったけどなー

渡辺作左衛門と腕の治療・いい話

2008年10月30日 00:06

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/29(水) 14:24:45 ID:H31Aixsz

藤堂高虎の家来で、有名な渡辺勘兵衛の甥に、作左衛門という者がいた。

彼は大阪冬の陣の折、戦闘の際、脈のところから手を斬りおとされた。
医師がこれを見て

「これは場所が悪くて治療が難しい。いっそのこと二の腕か肘であれば簡単なのだが…」

と、つぶやくと、作左衛門はたちまち脇差を抜いて、肘のまがきより打ち落とした。

「これで治療できるだろう。すまんが先ず、血を止めてくれないか?」

平然と言う作左衛門に医師は驚き呆れたが、これならば気遣いありません、と治療をした。
高虎は後でこれを聞き、理屈ではそのとおりだがとても出切る事では無いと、
作左衛門に二百石を加増した。



967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/29(水) 14:27:26 ID:Rxd0sbES
これは・・・関羽の骨の手術も聞いてて痛そうな話だが負けてないな

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/29(水) 14:27:57 ID:Ii4uavnG
>>966
すさまじい武勇伝だな。
高虎の話通りなら、当時の武士でもさすがに自分の腕を切り落とすなんて自傷行為はさすがに
そうそう出来るもんではないという事か…

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/29(水) 14:40:16 ID:qI2xRrhU
腹は切れても肘切れぬとはこれ烏賊に

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/29(水) 16:11:24 ID:jQYY1yuP
その状態で冷静に狙い通りに切れる胆力がすげぇ。

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/29(水) 16:44:29 ID:df5qnN99
手首の動脈は皮膚近くまで出てるから脈を取ったりするのに便利なだけで
肘の付近にも動脈はしっかり通ってたはずだが

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/29(水) 16:59:10 ID:1qKERXvU
切られ方が悪くて止血しにくかったとかじゃね

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/29(水) 17:02:42 ID:SjBnZi5e
>>966
「いい話」というより「怖い話」だな
敢えて言えば「度胸のいい話」

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/10/29(水) 22:44:39 ID:L7Tnb6CI
>>966
>これならば気遣いありません

これならば気違いありませんと斜め上読みしてしまった