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「大友興廃記」より「留守の火縄」

2021年10月14日 15:14

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/14(木) 00:07:04.42 ID:uGJ2r9Ad
大友興廃記」より「留守の火縄」の話
豊薩合戦の際、薩摩勢の坂瀬豊前守が、朝倉一玄が城代を勤める駄原(だのはる)城に攻めてきた。
もともと物見のための城のため、朝倉は塀や柱を切って城内を焼き、留守の火縄を置いて退却した。
(留守の火縄とは火縄を使った時限発火装置という説があるが詳細不明)
坂瀬はこれを失火と思い、喜んで入城。
朝倉は志賀親次からの援軍を呼び、搦手(からめて)を開け、兵1500で駄原城を囲み、攻め寄せた。
薩摩勢は防戦しようとしたが、城内のものは外側の塀まで焼けてしまっていたため楯になるものがなく、あきらめていっせいに搦手から逃げだした。
しかし伏兵によって大将の坂瀬を含め大勢が討ち取られた。

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/14(木) 00:28:41.96 ID:uGJ2r9Ad

時限発火装置だとしたら薩摩勢の入城後に焼ける気がする
鳥羽伏見の戦いの時に大坂城に地雷が埋められているのを警戒して新政府軍がすぐには中に入らなかったのはここから教訓を得たから
なわけはないか



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若王はこれを聞くと急いで王妃のもとに

2019年05月08日 17:29

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/08(水) 00:12:00.40 ID:MDWkvrbn
(大友家による日向攻めの間に)悪妃ゼザベル(奈多夫人)は、多数の大身たちと共にキリスト教会を撹乱し、
若王(大友義統)の考えを改めさせる方法を協議し、また若き王妃(尊寿院)の(キリシタンと成るという)意思を
枉げるため、妃の母にして同じく頑固なる老女と共に全力を尽くし、「もしキリシタンと成るのであれば嫁と思わず
娘とも思わず」と言い、様々に努力したことによって、かの妃は徐々に我々に対し冷淡となり、決心を変ずるに至った。

また日向に向かって出陣しようとする大身たちは世子に対し、「日向において盛んに戦っている今日において、
デウスの教えの庇護に力を尽くすのは宜しからず。戦争及び国政に関する、デウスの教えよりさらに重要な
国務に従事すべし。」と諌めた。世子はこれに「私は戦争に加わるため、宮廷を離れて今荒野に在る。そして
戦争に必要な一切の準備を行った。そしてデウスの教に関わることは、少しもこの準備を妨げない。
お前たちはデウスの教えは重要ではないと考えているが、まずデウスの教えがどんな事を説いているか、
それを聴いた後でこれに関する意見を述べるべきである。」と言った。
大身たちはこの返答にあまり満足しないまま、日向に向けて出発した。

若き王は、老夫人らがその妻に対して計画していることを聴き、その妻とパードレ・ルイス・フロイスとに
書簡を贈り、パードレがしばしば妃を訪問してその決心を固く守らせることを請い、また今後発生すべき
事に関して一切の疑惑を除くため、パードレに対し「自分の洗礼は急がないが、妻には洗礼を授けさせ、
サンタ・カタリナの祝日(11月25日(和暦11月7日)にこの式を行うように」と請い、数回使者を往復させた
後、そのようにすることに決定した。

しかし邪悪なる二人の老夫人はこれを聞くと、「もしそのような事と成るなら、腹を切って自殺する。
強いてキリシタンと成りたいのであれば、王が自らキリシタンと成るまで待つべし。」と言った。

若王はこれを聞くと急いで王妃のもとに行き、その母に彼女がキリシタンと成ることを承認するよう
請い、大いに説得に尽くしたが、彼女は固くこれを拒んだため、若王は怒り、いかなる事があっても
これを実行する決心を成した。

しかしこのように意見対立したため、若き妃はどのように決心すればよいか解らなかった。
この為様々に議論した後、パードレ・ルイス・フロイスの意見に従い、洗礼は中止し代わりに城内に設けた
礼拝堂において、助祭および副助祭列席の上オルガンの演奏にてミサを歌い、これに若王と夫人、
ならびに列席者は非常に満足した。この決定は、洗礼後に転向することが無いようにとの、デウスのお導きに
よるものである。

(1579年12月10日(天正7年11月22日)付、パードレ・フランシスコ・カリヤン書簡)

家臣から戦時にキリスト教への傾倒を批判されて「宮廷から出て戦争準備に集中している」と反論するも、
尊寿院(ジュスタ)の信仰に圧力がかかっていると知ると即座に戻ってくる義統であった。



この世子は知識と思慮に富み

2019年05月07日 16:04

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/07(火) 09:13:21.50 ID:OfVUZcaD
その後8日、もしくは10日を経て、父王(大友宗麟)が土持に向けて出発する前、世子(大友義統)はイルマンを
招いてパードレに伝言を託した。
この世子は知識と思慮に富み、キリシタンとなりたる父の意に従わんと欲し、またすでにキリスト教の説教を
聞いており、これをよく悟って、デウスの教え以外に人間が救われる道はないと覚った故に、
妃(吉弘鑑理娘・尊寿院。洗礼名ジュスタ)とともにキリシタンとなる決心をしていたが、彼の領国は広大であり、
そこには神仏を崇拝しキリシタンの名を憎む有力なる大身が多いゆえに、彼は本年もそう成したように、
徐々に準備をし、少しづつ坊主の収入を奪い、寺社を破壊して国内の大身達に彼らの偶像崇拝が利益少ない事を
覚らしめるべしと言い、なお自筆にて認めた五、六ヶ条の重要なる点について、パードレ(カブラル)に質問した。

パードレがこれに対して返答をした後、世子は再び人を遣わして、『右の質問を成したのは領国を失うことを
怖れたためではない。デウス、霊魂、救い、楽土および未来の刑罰があることを悟って以来、国を失うこと、
また生命を失うことは少しも意に介していない。パードレがもし直ぐに、異教の者たちと一切の関係を絶ち、
寺社を破壊し、坊主たちを倒し、偶像を尽く焼き払い、領内の異教の儀式を廃し慣習を破ることを可とするのなら、
私はこれを成すだろう。
もし前に述べたように、徐々に国事を処理し、人々を誘導して騒擾または反乱を起こすこと無からしめる事を
可であるとするのなら、そのようにするだろう。』と言わせた。

パードレはこれに答えて「彼の希望は甚だ良き故に、我等の主デウスに、これを持続せしま給う事を祈りましょう。
またこのように重大なことはよく考慮し、十分に準備を成すことが必要であるから、徐々に準備を整えるのが
我らの主のために然るべきもので、祈祷を学びデウスのことを聴き、同時に領内のことを処理すれば、世子の
希望通りに来年のはじめには、洗礼を受けることができるでしょう。」と言った。

私(フロイス)が彼と同船して土持に赴く父王を訪問し、その船にて帰る時、夜中に長時間に渡り彼は私と語り、
ビジタドールのパードレはいつ来るのかと3,4回尋ね、その洗礼の際には私が列席することを希望し、また妃に
関しては、直ぐにキリシタンと成したいと言った。私はこれに答え、「ビジタドール及びパードレはデウスの御助け
によって来年来ることは疑いないと思われます。妃の洗礼に関しては、パードレ・フランシスコ・カブラルが
帰るのを待つのが良いでしょう。彼はしばらく日向にとどまる必要があるのですが、船を出して速やかに帰ることを
命じるのが良いでしょう。」と述べた。
(1578年10月16日(天正6年9月16日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

天正6年ころの、キリスト教に前のめりになっている大友義統の様子


フランシスコが正当なる王として

2018年12月01日 16:50

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/01(土) 00:49:10.56 ID:lEMylcGS
事情斯くの如きに際し、薩摩の王(島津義弘)及びアウグスチン・ツノカミ殿(Augustine Txunocanmindonio 小西攝津守行長)は
彼等の手兵を治部少輔(石田三成)の前に出せり。
内府様[徳川家康)は之を見るや、兵士を集中してヨカタ川(Jocatangauwa)の河岸に沿ひて下り、其進出を妨げんとせり。
彼は対岸に二人の強き将軍の指揮下に在る新来の援軍あることを、其軍旗によりて知りしかば、此方の河岸に止りたり。
伏兵を恐れしを以てなり。

両軍相対峙して、機会を窺える間に、全日本を通じて党派は二分して互に戦ふに至れり。

豊後の王國に於ては、クアムビオエンド(Quambioiedo 黒田官兵衛孝高)は、其子甲斐守(長政)より送りたる使者により、内府様の軍の
勝報(岐阜城陥落)に接せり。之に気を得て彼は八千の兵を以てフランシスコ(Francisco 大友義統)を襲へり。
彼は故の豊後王(大友宗麟)の子にて、久しく太閤様の爲に都に止められしが、内閣員(奉行衆)の命によりて放たれ、四千の兵を以て
豊後に帰りしなり。
閣員はフランシスコが正当なる王として此地の臣民を其手に附け、よりてカムピオエンドに抗し得んとの希望なりしなり。

然るに予想は全く反対に出で、フランシスコは國に帰るや直に敗績したり。之が爲に豊後の一國は全く内府様の確保する所となれり。
此を初として内閣員は到る處に反抗に遭へり。
(モンタヌス日本誌)

モンタヌス日本誌の関ヶ原についての著述の一部。大友義統は九州に下って即座に敗北した事になっているわこのせいで奉行衆への反抗が続出するわ


織田信長を模倣する

2018年10月29日 17:28

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 00:30:57.48 ID:IayTbgkZ
世子(大友義統)は政治に当たるように成ってから、ますます国内の坊主および偶像崇拝を嫌い、
生来鋭敏にして才知あるがゆえに、神仏の崇拝を嘲笑し、この事について織田信長を模倣することを希望した。
信長はこれらを破壊することによって、所領、名誉および評判はますます加わったのだ。世子はこれを
実行せんとし、本年は祖先の何者も成さざりしことに着手した。

第一には復活祭(1578年3月3日(天正6年2月22日))前に使いをパードレのもとに遣わし、彼に仕える
武士および殿中に常に侍する青年が悉くキリシタンとなることを希望し、勧告は彼自身が成すべきが故に、
当院より人を遣わして説教を成し彼等に悟らしめんことを請うた。彼等が説教を始めた後、世子は突然
戦争(土持親成征伐)に臨むことになったため、さらに良き機会までこれを延期する必要が生じた。

世子はまた、神殿および坊主の僧院の収入を没収して家臣に与えることを始めた。(中略)一昨日一人の
キリシタンが私に告げたことによれば、世子は彼を当所より40レグワ余りの肥後国に遣わし、僧院の偶像を
焼かせ、其の収入は彼の兄弟に与えた。国の大身たちはこの事の理由を世子に尋ねたが、彼はこれに
こう答えた

「坊主等は国の髄を食い贅沢なる生活を成し、労働また戦争において死する貧民および兵士を嘲笑する。
彼等がもし宗規を守り、また来世において賞罰を与え、或いは現世において幸福と富を与える神仏であるのなら
猶忍ぶであろうが、坊主の生活は偽善と悪行に満ちており、その祈祷と供物は何等の効能も無いことは
経験によって明らかである。故に彼らに対して躊躇するのは愚の極まりであると思う。

織田信長は都の地方において同一の事を行ったが、かつて神仏より罰を蒙ったこと無く、むしろ繁栄
している。この故に坊主達に勧告するは、結婚する(僧侶をやめる)か、或いは兵士となることである。」

(1578年10月16日(天正6年9月16日)付パードレ・ルイス・フロイス書簡)

すっかり信長かぶれの義統。多分これ、フロイス自身が信長のことをキリスト教的に盛りに盛って報告して
義統を煽ってたんでしょうね。


この一言を聞いて、

2017年09月23日 11:12

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/23(土) 08:41:10.41 ID:Ju6D0dwn
大友と島津が高城にて戦い、大友が敗北し、ことごとく追い打ちに討たれる中、豊後衆の妻子たちは
父兄の討ち死に、子夫の死亡を心配し、皆外に出てその安否の情報を待った。

そのような中、大友義統によって出頭した侍が生き残り、逃げ帰ってきた。
これを義統は大いに喜び、

「誰々が討ち死にしようとももはや聊かも苦しからず!汝が存命であれば千万人にも超える!」
と発言した。

この一言を聞いて、家中ことごとく心のなかで大友を見限り、やがて滅亡に至ったのだという。

(士談)



139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/23(土) 10:48:05.50 ID:hZL0SQ22
頼朝みたいに個室に呼び出して
「お前だけが頼りだ。(良く頑張った)」って生き残った奴らに声掛けすれば
忠誠↑↑だったのに(´・ω・`)

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/23(土) 17:46:05.08 ID:r5rCVYyc
>>138
言われた方も困るだろこんなんw

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/23(土) 18:07:45.99 ID:u32JutHQ
>>139
義統が個別に呼び出すと違う逸話になりそうだし

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/23(土) 19:29:26.48 ID:2fDPs94c
義統の寵臣か
誰やろね

豊後勢から見た戸次川合戦渡河

2017年08月23日 18:22

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 15:25:11.58 ID:anEy0bRv
豊後勢から見た戸次川合戦渡河

大友義統は鶴ヶ城の難儀を聞き、援兵を考えたが譜代の家人は
島津に心を寄せ内通(原文:ヨソ聞キシタル)の有様のため
如何ともし難い状況であった。
そこに仙石・長宗我部「殿下の御下向あるまでは
進んで合戦するべからずとの上意とは言え
鶴ヶ城の危機を見捨てるのもまた難しいのでないか」との進言をし
これ幸いと大友軍勢相加わり、都合六千余の勢が十二月十二日の未明に府内を出発し
鶴ヶ城の西北、川を隔てて鏡城と呼ばれるところに着陣した。
旗馬印をおびただしく並べ蟠踞すると、前は竹中村、後ろは深い谷のために
幾千万騎もあるように見え、城を攻めあぐねていた島津勢
この有様に気を奪われて慌てふためき、我先にと馬を返して
坂原山まで三十余丁の地点まで引き返した。
そこでしばらく人馬を休めると斥候の者を召し
「汝等これより立ち帰り、後詰の勢の分際を見極めて来るべし」
と言い含め、方々に遣わした。
(続く)

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 15:27:15.55 ID:anEy0bRv
さて仙石権兵衛、諸卒に下知して言うには
「機を先する時は人を制するに利あり
 おおよそ川を隔て陣を取るに
 渡して戦いに勝たない事はなしと言うがいかがが?」
士卒ども難所を越えて血気盛んの故か
この川を渡して敵を蹴散らすべしと申し上げた。
長宗我部元親これを深く制して曰く
「川を渡して勝ちたる例は多いと言えど、不案内なる敵地へ入って
そのような働きをするのは殿下(秀吉)の覚えもいかがであろうか。
またこの川の形勢を見るに、こちらの岸は高く
馬の乗り上げが難しい。ここは敵と対峙し
敵がもし川を渡って来たらその半途を打てばよい。
ここは平に待ちたまえ」と制したが
権兵衛もとより短才愚蒙の人だったので
聞かぬ顔にて馬をさっと打ち入れると
その手の兵千五百余我先にと川を渡り始めた。
元親も今はこれまで、やむを得なしと、身をかたくし怒りながら川を渡った。
「豊薩軍記」



74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 15:50:58.54 ID:9wzzu0EL
慌てふためいた「ように見せた」んだろうな

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 20:00:30.68 ID:mYgG+7Q6
お家芸の釣り野伏ですね

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 20:07:35.32 ID:1E7jkg3i
短才愚蒙ってすげえ言われようw

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 22:47:42.19 ID:Cz0GgWje
なんでこんなアホなことしたんだろう、経験豊富な武将だったのに。

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/23(水) 23:31:57.49 ID:EQZ+wj9p
讃岐もらったし、いいとこ見せたかったんじゃないの

後顧の憂い残してはならぬと

2017年08月22日 18:01

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 11:36:57.78 ID:W9FCLw1N
大友義統率いる豊後勢が戸次川へと出立した際
その部将足達図書は遅れてやって来た。
義統がなぜ遅れて来たのかと問うと
「今日の合戦は当家浮沈の極まる一戦です。万が一敗北の暁には討ち死にはもとより覚悟の上
 後顧の憂い残してはならぬと立ち帰り、妻子を殺し、家に火を掛けて来たのでございます」
これを聞き、義統を始め皆涙を流さぬものはなかった。

「豊後全史」

その結果は悲惨であったが、この時点ではギリギリ良い話(?)なので



161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 19:37:05.55 ID:HRLKmaln
>>159
戸次統常とおんなじやん
統常は弟妹だったけど

大友義統悪逆の事及び彦山の意地

2016年10月04日 17:42

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/03(月) 23:42:14.17 ID:9IRF6OyF
大友義統悪逆の事及び彦山の意地

天正九年秋、義統は大友家に反目する彦山を襲撃する。かつて大友氏の監視下にあった彦山だがこの頃は秋月種実との関係を強めていた
義統は嗣子に恵まれない十四代座主舜有の後嗣に自身の弟を押し込もうとしたがこれを嫌った舜有は娘婿・秋月種長の子を後嗣にと取り決めたことで
義統の狙いを封じた。そして義統への返答として彦山は義統の使者を殺害する
これに激怒した義統は清田鎮忠と上野鎮俊を大将に、彦山を滅ぼすべく日田郡へ陣を進めた
清田上野の両将は、まず彦山に降参勧告を行ったが彦山は拒否し戦いになる
秋月さらには龍造寺の援軍を得た彦山は一歩も引かず善戦したものの
激戦の末に大講堂を占拠した大友勢は一山の宗坊悉くに火を放つと彦山は一宇も残らず炎上した
この時山伏二人は「大友七代までも怨霊とならん」と罵り腹掻っ切り火中へ飛び込んだ。
こうして一ヶ月に及んだ大友の彦山襲撃で彦山は大きく勢力を失った
しかし彦山はその後も秋月氏さらには龍造寺氏と連携して反大友軍事同盟を結成し戦い続けることになる
さらには秀吉の九州征伐時には島津氏とも連携し豊臣(&大友)勢とも戦うが最後は衆寡敵せず豊臣勢に降った

参考資料:大友記、豊筑乱記、筑前戦国史など

ちなみにこの話は

宗麟公悪逆之事
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9168.html
の別バージョン

焼討を命じたのが義統だったり焼討後も義統に屈さず秋月・龍造寺・島津と連携して戦い続けているところなどが相違点





義統様の科ではない

2015年08月23日 11:16

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 00:03:40.48 ID:olujKR/6
大友家累代の佳名を失ったのは、全くもって義統様の科ではない。

彼の父上である宗麟様は仕合良く、九州の内六ヶ国を旗本に属し、豊後の府内は、大内氏の山口と共に、
西国の都はどちらかと言われるほど繁栄し、御威光浅からぬものであった。

ところが老年に成って切支丹宗になられ、分国残らずかの宗門に引き入れ、神社仏閣を破却し、
寺社領を横領し、仏の画像にて鼻をかみ、あまつさえ尻を拭き、石仏・木仏を雪隠の踏み石とするのを、
彼は手柄とし、氏神先祖の菩提所を崩し、仏壇、社壇の材木で雪隠を作り、先祖の位牌も打ち刻み、
牛や鹿を焼いて食い、悪逆の至り、語り尽くせぬほどである。

まして出陣の時も、吉日・吉方という事を選ばず、その出発に際し、どういう意味があるのか、
彼が崩した氏神の古宮の跡に籤入りを遣わすような所業をした。

そのようであるから、向かう所ごとに負け、ようやく本領の豊後だけは残ったが、これも島津に蹴散らされ、
府内の居城さえ守ることが出来ず、豊前の妙間嶽まで逃げ籠もり、府内の城も焼き払われ、一名危うい時に、
太閤様がご人数を出されたため島津は撤退し、その跡に入れ替わりに入って高名顔をしていた。
そして猶も悪行強く、大友の家が滅ぶべき時極まったのである。

高麗にて、唐人と戦わず、小西摂津守を捨て、聞き逃げをし、黒田甲斐守(長政)の先手伝の城に
ほうほうの体で逃げてきたのを、甲斐守先手、小河伝右衛門、勇士なれば城を堅固に保ち、
小西・大友両家の軍勢を引き受け、様々に働いたため、ようやく太息をつき、それより小河は名を上げ、
大友は日本一の臆病者と御接感情が出され、豊後国を召し上げられ、その家臣であった我も人も、
その時から乞食となり、いまこのように成ってしまったが、これも全くもって義統様の科ではない。
また前世の因果とも言いがたい。何もかも、悪事の根源は、皆これ切支丹宗のせいなのだ。

(古郷物語)

なんもかんも切支丹が悪いんや!という、古郷物語にある大友旧臣の述懐である。




192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 00:11:14.99 ID:PF18INwR
義統様を庇うつもりが無いだろ、コレ

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 01:32:20.39 ID:rQWpT49o
宗麟が酷いのは分かった
小河伝右衛門がすごいのも分かった
あれ?義統様は?

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 01:41:49.72 ID:tuUo6M3j
大友といい龍造寺といい嫡男はどうして暗愚なのか…

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 05:25:23.65 ID:5sHVmbwv
九州にはバカ世継ぎが
生まれやすいんですね

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/23(日) 06:05:31.98 ID:mgYyhY0x
城焼いたうえに幼子を殺して意気揚々と死地に向かう戸次一族とかもおるしなあ(実際には悲壮だったんだけど、某やる夫のせいでキにしか思えなくなった)

「大名に臆病者あり」

2014年06月09日 18:50

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/08(日) 21:31:39.48 ID:z+Y76WGw
太閤秀吉が、加藤左馬介(嘉明)に出した感状に、

「大名に臆病者あり」

という事を書いたものがある、これは、豊後に大友という大名があるが、その大友の事であるということだ。

(老人雑話)

義統の事がよっぽど悪印象だったのでしょうね…





大友家改易後の吉統の家族

2013年11月16日 19:12

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 01:35:50.92 ID:b+Wwfrhp
1593年に大友家が改易された後、宗麟の後妻であるジュリアや、
吉統の妻子らは豊後の屋敷を追い出され、放浪生活をすることになった。
そんな時に柳川の領主の立花宗茂は、宗麟の強力な味方で忠実な友人で
あったため、彼女らを領地に招き保護したという。(イエスズ会年報)

しかし、吉統の妻で宗茂の叔母である菊姫が1594年に病死し、
その息子である男也(おとや)も96年に疱瘡で死亡すると、
ジュリアは残った孫達を連れてキリシタンの多い長崎へと旅立ち、
浦上渕村の庄屋となっていた元大友家臣の志賀親成の屋敷に迎えられた。
その地で吉統の娘である阿西(おにし)御前は桑の栽培や養蚕、機織の
技術・行儀作法を近隣の住民に教えたため桑姫と呼ばれて尊敬され、
1627年に彼女が病死するとその徳を讃えられ社に祀られたという。
(桑姫社由来等)

ソースがばらばらだけど、大友家改易後の吉統の家族についての話




633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 08:52:44.53 ID:QxHBvC8M
機織りはともかく桑の栽培・養蚕まで出来るとは出来る姫だなあ

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/16(土) 15:32:27.70 ID:fqT3bCcl
養蚕は皇室でも昔からやってたけどね

大友義統、天正18年3月願文

2013年10月17日 12:46

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 21:08:09.33 ID:KfPVblTs
これは中々強烈だな

> 134 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/16(水) 21:04:52.34 ID:yIg5aA8n
> 豊後の大友吉統が天正18年3月に柞原八幡宮(豊後)に願文を捧げてるんだけど
> その内容がかなり衝撃的だったので書いとく
>
> 「近年、豊前国に居住した官兵衛は 悪 逆 非 道 の人 である。
> 神明に背き、人心を妨げ、ほしいままに振舞っている。吉統はかねて諌める
> 気持ちがまったくなかったわけではないが、官兵衛の豊前での非道は歴然としている」
> とあって、続いてあいつが豊後に攻めてくる疑いがある。
> もし祈願成就(官兵衛を討つこと)したなら宇佐郡一円を神領として
> 寄進すると記している(柞原八幡宮文書)らしい
>
> 豊前で大友家を怒らせるような何か悪行を官兵衛がしたらしいんだけど
> 真正面から「悪逆非道」と書かれて本気で死ねばいいと祈願されているのは
> ちょっとすごい




495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 23:18:51.76 ID:/eOjdWPc
多分、自分を敬わなかったとかそういう所じゃないすかねぇ
真面目に考えると、キリスト教関連か、時期的に小田原征伐関連?

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 23:22:11.34 ID:uDTiWdCC
天正18年頃だと国人の弾圧じゃね?

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 23:24:15.98 ID:6DazsPrl
>>494
キリスト教嫌いなのに、官兵衛の勧めでキリスト教の洗礼受けたら
秀吉が禁教令だして面倒なことになったのと、
官兵衛に謀殺された城井鎮房と縁戚関係だったからかな

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 23:30:30.25 ID:PIiyUuFj
来年の大河で吉統が官兵衛のライバルとしていろいろ暗躍
するわけないか、情けないネタばかりだし
(耳川、内紛、戸次川、朝鮮で友軍助けず改易、石垣原、流罪)

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 23:41:27.18 ID:6DazsPrl
黒田家譜にも載ってる吉統を見捨てられない
吉弘統幸の苦労はやって欲しいな

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/16(水) 23:48:23.99 ID:8bdtkuG3
\_______________________/
           ・・・と、思う吉統であった

           ,--、、,,,,,,,,,,,,,,,,
             {::::::::}三三三ミミミ`、、
            >ー-"'" ⌒,,ィシヽミミiミミ 、
         /     三彡彡彡ィ`、ミミミ`、
        /      シ彡彡彡彡ノ'ヽミミミ`、
        ,'        ,三彡彡彡彡彡ソ,ー--'
          l    _ _ """'彡彡彡彡彡ノi
       {;、 ';;;='''"""`  彡彡彡 - 、ノノi
          kr) .ィェー   彡彡' r、ヽ}彡i
        レ'  ..      シ彡' )ァ' /彡'
       {_,,,、 ;、      シ彡 ニンミミ{
        l         '''"::.   彡ミi
         ! ̄"`     ...:::::::: ノ""{
        l    .......:::::::::  /   \_
        `''ー- 、::::    /     /

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/17(木) 01:52:05.81 ID:nqn8GGwM
おそらく既得権益解体時のいざこざだろうな

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/17(木) 14:51:40.56 ID:vo/UBaTz
ふつうに黒田による城井一族謀殺の件での遺恨ではないかと
吉統の叔母(大友義鎮の妹)が城井鎮房の正室だから
大友家にとって城井は家臣で一門。叔母ともども騙し討ちにあってるわけで
大友家からすれば官兵衛の所業が「悪逆非道」に映っても別に不思議ではない

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/17(木) 18:36:59.07 ID:uBxFXaK2
磔にされた城井家の鶴姫とは従兄妹同士か

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/17(木) 22:15:14.44 ID:AVdTTAxR
豊前取られたのが悔しかっただけでは

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/17(木) 22:47:38.72 ID:Nih+ZW4X
経緯を普通に考えれば、義統がかんべー恨むのは当然なのに
「なんの逆恨みか知らんが願掛けで呪うとか相変わらず器の小さい奴だなあ」
ってフィルターがかかってしまうのは間違いなくこのスレのせいだな。

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/17(木) 23:28:57.38 ID:dfCilp8k
まぁ黒田関係の逸話はこのスレっていうか黒田家譜のフィルターが
大いにかかって美化されてるのは事実
江戸期に近世大名として残れなかった大友とかはその点不利ではある
同じ豊前を分けあった小倉6万石の毛利吉成(勝永の親父)と黒田孝高も
豊前入国後、城井氏の処遇をめぐってお互い嫌いあって険悪な仲になってる
毛利吉成はむしろ当初の所領安堵の約束を反故にされた城井に同情して
自分の領地の一部を鎮房に与えて、秀吉との間を仲介しようとしてたりする
逆に黒田家からしたらようやく手にした豊前の自分の所領が下手すると
どうなるかわからないわけで
案外、黒田孝高を嫌いな大名って多い気がする

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 02:43:25.94 ID:0hdfZqT/
戦国時代なんて、「自分以外は全員敵」くらいに思っていてやっと生き残れるような時代だろ。
そんな時代に隣あった大名同士の仲がいいなんてあんまりないんじゃないの?

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 06:49:34.81 ID:ZfsiqCJa
自分以外全員敵なんて事になったらあっという間に滅亡しちゃうよ

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 07:19:15.71 ID:2TpUc4PQ
政宗「」

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 09:41:57.47 ID:0I1EC4aM
>>509
そいつはいざとなったらママンが助けてくれるだろ

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 10:33:37.53 ID:kGAFFxhF
>>508
越前のヒャッハーの人ですね?

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 11:42:11.78 ID:ygfcrso0
>>506
関ヶ原時の国替えの時に年貢を持って行って細川とも一触即発な感じだったけど、
あれはNGMSの仕業だったっけ?
どちらにせよ黒田家にはあまりスマートなイメージは無いな。

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 11:47:17.67 ID:Y9el8FYG
鍋島とも揉めてるし、なんか黒田の施政ってねえ

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/18(金) 14:09:46.03 ID:si0X43mw
隣の岡山の義理3があまりにデンジャラス過ぎて大して悪くないと思われてるんだろうなw

雑談・大友義統絡みの逸話は後味の悪いのばかり

2012年08月31日 20:50

218 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 22:37:06.50 ID:RIu1izbP
それにしても大友義統絡みの逸話は悪久とは違った意味で後味の悪いのばかりだな。
元はと言えば自身に原因がある、みたいなのばっかり。
これでもノブヤボ烈風伝の時は政治力が53なんだよな。
氏真や勝頼・クマーより高いなんてありえん……

219 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:05:55.43 ID:qjBhSU8G
外交力だけはなぜか優秀な大友宗麟

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:08:53.81 ID:WbfbgHdm
宗麟はガチで優秀と思うけどね
その優秀さが霞むくらいダメ人間だけど

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 09:58:56.39 ID:vfSZnF2p
能力とそれを載せてる器の兼ね合いって難しいよね・・・

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 12:07:19.20 ID:2dSpdj6y
宗麟は優秀な重臣が死ぬまでは優秀さと愚かさが混在してたが・・・

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 12:21:36.78 ID:Q83zoGAC
優秀な分ちょっとずれると一気にものすごい所まで行くんだろうなあ

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 15:17:01.72 ID:zoGj/3B2
優秀なDQNほど始末が悪いもんはねえ。悪久とかまーくんとか

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 15:58:24.88 ID:mQclrRyc
秀吉「ほんと優秀で権力持ったDQNはたちわるいね!」

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 16:55:22.98 ID:zoGj/3B2
ラスボス止めることできるのっておかんか秀長ぐらいだしな・・・

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 23:50:33.63 ID:aFOMRCOA
>>219
宗麟は戦術家としては凡庸だが、戦略家・謀略家としては一流だぞ。
筑前を巡る争いでは、戦術面で負けても、朝廷工作や幕府工作。更には
大内残党や尼子を利用することで、最終的には北九州領有を確定させたし、
島津に大敗した後も、織田・豊臣を利用して、可能な限り退勢を押し止めている。
豊前の田原本家の謀反を鎮圧した時も手際がいいし。
ただし、むら気があるのが致命的ではあったが。

『豊後三老がいた時は・・・』と言われるのは、宗麟のこうしたむら気をよく抑え、
前線指揮官として、宗麟の戦術能力を補ったが故なんだろうなあ。

豊臣秀吉、大友義統に怒る

2010年03月12日 00:02

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/11(木) 19:27:31 ID:5K9XAPPc
豊臣秀吉、怒る

朝鮮の役、文禄二年一月(1593)、明軍は攻勢をかけ4万3千の大軍で小西行長らが守備する
平壌を包囲した。
この時、小西行長から救援要請を受けた大友義統は、行長が戦死したという虚報を信じて撤退し、
鳳山城を放棄した。

この報を受け豊臣秀吉は激怒、すぐに義統を名護屋に召喚した。

「義統!今回お前を渡海させたのは何のためか!?
大名でもあり朝鮮の地理にも詳しい、それ故に諸将が危機にあったときにこれを救う
遊軍としての役割を期待して、朝鮮に渡らせたのだ!それがどういう事だ!?
明の大軍を恐れ小西を救わず、それだけではなく急の出陣に度を失い慌て騒いで
逃げ出したこと、前代未聞の怯懦臆病である!!

この秀吉は卑賤の昔からこの年まで、未だ敗北と言う屈辱を蒙ったことが無かった!
それなのにお前が、この戦役でも初めて明軍のために敗走し恥を晒した。
これはお前一人の恥ではなく我々全体の恥であり、日本国の瑕瑾である!

お前が昔島津と戦ってわしに援軍を頼んだとき、わしにはお前を助ける言われは無かった。
にもかかわらず援軍を出したのは、助けを乞われてこれを捨ておくことは武将として恥辱であると、
そう考えたからだ!

そうして援軍を派遣した時も、お前は島津の少勢に破られ、本城に入ることすら出来ず、
妙見龍王あたりまで逃走していた。これは浅知と呼ぶべきか臆病と呼ぶべきか、
少なくとも武士の列に入るものではない!
それでも我が兵は島津を追い払い、お前を本城に返してやった。

それから、以前の諸侯昇殿の時、お前はしきりに羽柴の姓を欲しがった。
大友といえば頼朝以来の名家である。それ故にその氏が改まらないようにと、わしは
わざと我が姓を与えなかったのに、お前はわしの深い考えを悟ること無くしきりに所望した。
それで仕方なく羽柴姓を許した。
これもお前が愚かな故であるが、わしにもお前の願いは聞いてやりたいとの心があったためだ。
そうであるから天意を伺い、お前に官位も頂いてやった。

が、お前は何だ!?その様なわしの心を気にもせず、不義臆病な振る舞いをし、
秀吉に恥辱を与えるとは!

この上はおまえの首を跳ね諸人の見せしめにもするべきであろう!
…だが!」

大友は頼朝以来の名家あるため、その故を持って、義統は死罪だけは免じられ、所領は没収。
義統は他家お預けとなったとのこと。

大友義統、これでもかと言うほど罵倒される。と言うお話。




186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/11(木) 19:41:56 ID:RXDaSmjk
こてんぱんだなw
まぁその通りだから仕方がない

大友義統、取り返しの付かない一言

2009年09月12日 00:18

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/11(金) 11:52:48 ID:ZSwzemck
天正6年(1578)、大友と島津氏の間で行われた有名な、耳川の合戦。

この時豊後では、将兵達の妻子が、父兄の討死、子夫の死亡を心配し、我も我もと国境に出て
安否の知らせを待っていた。

この所に、大友義統が寵愛していた、出頭人の侍が逃げ帰ってきた。
これに義統は大いに喜び

「誰が討死したかなどもう気にはしない!汝が生きていたのは、千万人の命に超える事だ!」


この一言を聞いた家中の人々の心は、皆、大友を見限ったそうである。


そんな、取り返しの付かない一言のお話。




252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/11(金) 12:02:23 ID:Y6FfoxGR
嬉しいのは分かるけどさぁ…
他人の気持ちを考えないって点は親父の血を受け継いでるのな

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/11(金) 12:42:03 ID:qkcfDRRQ
親子揃って人心の機微のわからないこと

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/11(金) 13:30:57 ID:PpQW8ELC
見限られるのにはちゃんと訳があるんだな。

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/11(金) 13:31:10 ID:D7j4vMnO
祖父もあの死に方は分かってなかったからゆえという気もする

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/11(金) 13:46:55 ID:gkLA1cmw
逆に考えると、それでよく三代も持ったものだ

257 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/11(金) 14:17:53 ID:Yugqlv5h
友達できなさそうな性格なのに大友とはこれ如何に

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/11(金) 14:42:45 ID:NHQvzHAP
そうとも

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/11(金) 15:04:04 ID:zSFYjZXW
【審議中】
    ∧,,∧  ∧,,∧
 ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
| U (  ´・) (・`  ) と ノ
 u-u (l    ) (   ノu-u
     `u-u'. `u-u'

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/11(金) 15:11:41 ID:2PZHMF1+
いいとも!



・・・ちょっと遅いな

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/11(金) 15:41:28 ID:L2XkL9hD
>>257-260
皆様天守閣最上階にご案内いたします。
しばらく最上階からの展望をお楽しみください。


大友家の入札

2009年08月30日 00:31

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/29(土) 17:54:26 ID:mr+TY6c6
いい話に選挙ネタがあったので、こっちにも投下してみる


大友家の作法では、家老を申し付ける時は、家中の者達により入札(投票)をさせ、
その数が多かった者に申し付けたそうである。

ところが義統の代になって、この入札は行われなくなり、
家臣たちが行うように申し入れをしても、その嘆願は無視された。

これに大友家の家老達は、
「我々は家中の投票によってこの職に付いている。それゆえに、自分達が申し入れる事は
家中の意思を汲み取ったものであるのに、それが行われないとは当家も滅亡間近か。」
と、大いに嘆いた。

あの家老は
「梅の花は寒いうちに咲き、風が温かくなると散ります。
義統様が当家の仕置きを一方的に変えられても、今の所目だった弊害はありませんが、
家中の雰囲気は悪くなっています。これは春風が却って梅の花を散らせることと同じです。」
と、今の状況を語った、とのことだ。


まあ、大友家にこんな風習は無かったから、間違いなく江戸期に作られたお話なんだが、
昔の人も解ってた、「選挙は大切だよ」、と言うお話。


782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/29(土) 17:56:38 ID:VbBglB4z
>>774
裁判にいったら訴訟人と裁判官が仲良く鷹狩で不在だったからな
とんだマッチポンプだよまったくw







大友義統の自虐・悪い話

2009年02月25日 00:13

322 名前:人間七七四年[sage ] 投稿日:2009/02/24(火) 07:08:53 ID:2sPtXp2I
大友宗麟の息子に大友義統という愚息がいた
朝鮮出兵の折、前線で戦っていた小西隊から救援要請があった
義統「小西隊壊滅?大群がこの鳳山城まで攻めてくるかもしれない
   そうだ!逃げよう!」
小西隊から救援要請があるにもかかわらず、
義統は逃げようとした
しかし1人で逃げる訳にもいかない
義統「立花宗茂くんだ!立花くん、立花くん、小西くんが
   壊滅状態でもう死んだかもしれないから一緒に
   漢城まで引き上げようよ!」
宗茂「小西行長死んだの?そんな話聞いてないよ。よく
   調べてから行動してみなよ。もし死んでたら弔い合戦
   すりゃいいじゃん」
あっさり宗茂にふられた義統は近くにいた黒田長政に同じ
提案をしました
義統「長政くん、長政くん、小西隊が」
長政「事実関係が明らかでないのに返事できねえよ」
長政にもあっさりふられた義統
今度は小早川隆景の弟であり息子である秀包の元に
同じ相談をしにいった
義統「秀包くん、秀包くん、小西が」
秀包「あのさあ、義統くん?あんた見苦しいよ。
   救援要請があったのに見方を見殺しにするの?
   自分が部下に小西行長殿の安否を確認しに行くから
   ちょっと待ってろ」
すると、小西行長は無事で、大群と1人果敢に戦っているのであった
事の顛末を秀包は隆景に報告しに行った

諸将は
「さすがは毛利元就の息子だ。大友義統とは大違いだ」
と秀包をほめ、義統は株を下げたのだった



323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/24(火) 09:10:12 ID:jqCw81YM
その後秀吉に「豊後の臆病者」「日本一の臆病者」「最後の臆病者」(多数の説あり)
と言われて改易をくらう。諸大名に対しては「豊後の臆病者」として
「大友勘当の朱印状」が示される。
そして豊後は秀吉 蔵入地とされ、諸将への恩賞供給源とされる。
という後日談を加えるとよりわるい話になる。


324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/24(火) 09:11:27 ID:jqCw81YM
さらにこの四人の年齢と関係を書くとより趣き深い。
大友義統   永禄元年(1558年)生まれ。四人の中で最年長。

立花宗茂   永禄10年(1567年)11月18日生まれ。
大友家の家臣から秀吉により独立した大名に取り立てられた。

黒田長政   永禄11年(1568年)12月3日生まれ。
黒田長政は高山右近、蒲生氏郷らキリシタン大名と共に
小西行長宅で開かれた天正遣欧少年使節を出迎えるパーティに参加した。
そこに大友義統が呼ばれもしないのに乱入した。
なぜ義統が父・宗麟と大村純忠・有馬晴信が派遣した使節を出迎えるパーティに
呼ばれてないかというと
使節の帰国前に秀吉が禁教令(1587年)を出すと
義統は即効棄教、弾圧開始したから。
その後秀吉の南蛮人に対する態度軟化。
使節も聚楽第において秀吉を前に、西洋音楽を演奏したりする。

そしてパーティの席で義統は
「自分は本当に弱虫で…意志薄弱で…」」
自虐トークを始める。
秀吉の禁教令によってキリスト教を弾圧したことについては
「周囲の家臣に言われて…」
「両親が死んで孤独だったから…」と弁解。
「また仲間に入れて」
とか言い出す。みんな義統にびっくりする。

小早川秀包永禄10年(1567年)生まれ。
正室:大友宗麟の娘・桂姫 つまり姻戚





325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/24(火) 11:34:40 ID:mejB3sAn
自虐トークわろた
聞かされる方はたまったもんじゃないな
義統は親が不仲だと子供がおかしくなるいい例

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/24(火) 12:54:45 ID:7nspmLhu
秀吉が聚落台にヴァリニヤーノ、天正遣欧使節の少年らを迎えたのは1591年で
既に黒田長政は表向きは棄教していたのかも。如水は棄てなかったっぽい。
もともと義統は洗礼受けるも、あまりその気が無かった。
秀吉も現金なもので、一旦バテレン追放、迫害とかしときながら
帰国に際して困った使節が、「インド、ゴアの副王のお使い」てことになったら
最初は会う気もなかったのに、満面笑みで
「いらっしゃい、お前ら楽器たいそう上手いのう、ワシに仕えぬか?」だった。
ジャスカン.デ.プレの曲だったらしい。

朝鮮での義統の敵前逃亡は、偵察に行った家臣の誤報がもとだったらしいが、
卑怯は卑怯。
御蔭で小西行長は、着の身着のまま、凍死寸前で黒田長政の陣地にたどり着いた。

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/24(火) 15:00:16 ID:rJnvmM0c

>>326
「ジョスカン」といわれる場合もあるようだね
http://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E9%9F%B3%E5%B7%BB-1-%EF%BD%9E%E7%A7%80%E5%90%89%E3%
81%8C%E3%81%8D%E3%81%84%E3%81%9F%E9%9F%B3%E6%A5%BD/dp/B00005FIFZ/ref=pd_ts_m_23?ie=UTF8&s=music
にしてもラスボスはラスボスだなぁ

大友吉統と伊東義祐の嫁・悪い話

2008年11月28日 00:15

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 13:56:12 ID:0DdJZXKg
では宗麟関係の悪い話 まだ投下されてないようなのを見つけた
------------------------------
天正5年(1577年)
木崎原の戦い以降、国人たちはおろか家臣達も次々と離反、伊東氏も遂に1城も支えきれない事態となり
伊東義祐は息子の嫁の父(ややこしい…)にあたる大友宗麟を頼って日向を逃亡した。
伊東氏の人々は、宗麟に故国回復を訴えた。
そして、宗麟は日向攻撃を決意する。伊東さん達の訴えが届いた・・・からではなく、
日向の北部の無鹿にキリシタンの理想都市を築くのが目的だったからとも言われる。

天正6年(1578年)
大友軍は日向を攻撃。
ところが、高城川まで来たところで島津軍の返り討ちに会い、総崩れとなってしまう。
そればかりか、多くの名のある武将を大友氏は失ってしまった。

天正7年(1579年)
日向に領土を広げるどころか、武将の多くを失い衰亡の兆しさえでてきた大友家中から
当然今回の戦のきっかけを作った伊東家に対して風当たりがきつくなってきた。

ところで、大友宗麟には吉統という息子がいたが、これが好色物で
義祐の嫁(義祐の息子・祐兵の妻、実は義祐の息子で故・義益の娘でもある)が
たいそうな美人であることに目を付けた。
そこで吉統は伊東氏に不満を持っている家臣達に語らい、
密かに伊東家の人々を殺して嫁を横取りする作戦を立てた。

が この作戦はばれた。
祐兵は身の危険を感じ、豊後から脱走することにする。
しかし問題があった。
義祐の嫁は宗麟の屋形にいる母(先述の宗麟の孫、義祐の息子の嫁)を訪問して以来
大友家の家臣に何かと言いくるめられて逗留が長引き、家に帰してもらえないのである。
結局、ある日の夜。屋形のゴミ捨て場から脱出し、ゴミ収集夫に化けた伊東家臣が嫁を回収、
その日の内に伊予国に向けて脱出したという・・・
----------------------------------
以上は伊東家が江戸時代にまとめた『日向記』に載っている話です。

ただし、実際は大友義統@嫁泥棒は既に重臣・吉弘氏を妻に迎えていることや、
逃亡した嫁の実母とその子である伊東義祐の孫2名は脱走せず、
その後も大友氏で厚遇されていることなどを見ると
大友家が改易されたことに乗じてあること無いこと書いている可能性も棄て切れませんが・・・




691 名前:690[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 14:20:43 ID:0DdJZXKg
あ、変換ミスが
大友義統=大友吉統 です。
ちなみに天正7年前後は「義統」です。

混乱させてスイマセン

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 15:17:34 ID:KlC+SqFo
大友に関しては、寺社破壊の事もあって九州では相当恨まれてたらしいから、たしかに
改易後は言われたい放題だったみたいねw

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 16:02:02 ID:xfPPak9h
あまりにも特定の大名に悪い話が集中すると
貶められたのではないかと思いたくなる

694 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/11/27(木) 17:42:37 ID:yZ+s5QpQ
>>693
島津軍が豊後府内に侵攻してきた時の、その"特定の大名"の悪い話
大友家当主義統は居城の府内城を捨てて真っ先にとんずらこいた
逃げ延びた後に大事な側室を忘れてきたことを思い出しちゃったので腕の立つ家臣に救出を命令
家臣は命令に従って救出してきたから義統、大喜びで恩賞を与えようと言った
腹に据えかねるものがあったのか、その家臣は
「俺は女を1人助けただよ。今回腐るほど戦死者でてるのに、そっちは無視ですか?
で、俺にだけ恩賞を与えるって?てめぇのような腐れた性根の持ち主は、主人じゃねえわ」
とぶちまけて、大友家を去ったそうな


まぁ、大友義統の単騎逃亡は流石に誇張はいってると思うが、
朝鮮出兵でも逃亡した御仁だから、嘘とは言い切れないw


695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 17:48:24 ID:fjDXLW1M
それ既出の話だったと思う。

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 18:09:16 ID:y4UrGMI3
>>693
市松の話も幕府が貶めた可能性が高いと思う。

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 18:43:58 ID:q2QbPbnd
それがs・・・伊達政宗の話も幕府が貶めた可能性が(ry

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 19:26:10 ID:5RJBIGDl
宗麟も日本のカエサルも暴君ではあったが君主としての資質はあったからな。

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 19:35:26 ID:PMw1a0M4
優秀じゃないと暴君になれないからな。

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 19:43:00 ID:hRHVFid7
龍造寺隆信もだね
かなり不遜で傲慢だったらしく最期は家臣に戦場に置き去りにされて首級をあげられちゃった
キリスト教の味方だった大村、有馬と戦ったからフロイスにキリスト教の敵としてぼろくそに書かれた部分も多々あるらしいけど

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 20:35:26 ID:4JMMaVO6
>>702
たしか、竜造寺隆信の軍団は『退けば理由の如何を問わずとにかくぶっ殺す』
と言う鉄の規律だったので、相手がどんなに強かろうが、退却して殺されるより敵に遮二無二突っ込んで
討ち死にを果たした方がマシ(結果勝てば恩賞が期待)・・・と言う按配だと思ってたけど
沖田畷での壊乱振りを見るとそうとも限らない気がするなあ・・・


708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 20:36:45 ID:LWOdJBoh
赤信号みんなで渡れば怖くないの論理

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 21:13:28 ID:IlK8tujU
>>707
隆信は「さがれ!」って叫んだのに、普段「かかれ!」って
言われ続けてた部下たちが、勘違いして敵陣に突っ込んだ…
って説があって、冷静だった鍋島直茂はすぐ退却して事なき
を得たとか。まあ、大将討ち取られてるんで、かなりの混戦
だったんだろうね。


710 名前:東昏侯[sage] 投稿日:2008/11/27(木) 21:35:54 ID:hWj6T2WH
>>701
朕を優秀だと認める東方の蛮族が居ると聞いて中国英雄板から飛んできますた

大友義統の愛妾と臼杵刑部の冒険・悪い話

2008年11月08日 00:02

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 22:38:37 ID:MdlAUSIF
天正14年(1586)12月、戸次川の戦いで、大友家が敗れ、ついにその首都府内に
島津が乱入してきた時の事。

主君、大友義統を逃すため、音に聞こえた大友家の勇者達、足立図書、吉良主水、小原平馬丞、
末武武蔵らは、追跡する島津軍に立ちはだかり、ことごとく討ち死にした。
しかしそのおかげで、大友義統たちはどうにか落ち延びる事ができた。

一息つくと、義統がにわかに、こんな事を言い出した。

「府内にわしの寵愛する女を残してきた!」そしてそばに付き従っていた臼杵刑部に、
「そのほう、今から府内に立ち戻り、なんとしても天野又兵衛の娘を連れ出してくるのだ!」

臼杵はすぐに引き返し、敵のあふれる府内に侵入。何度も危ない目に合い、二箇所も深傷を負いながら、
義統のいる高崎城まで、無事、女を連れ帰った。

大喜びの義統は、腰の太刀を抜くと、褒美として臼杵に与えようとした。
臼杵は突然立ち上がり、言った

『阿呆かおのれは!』

「最近の戦いで戦功を立てたものは自分のほかにいくらでもいる!なのに、その方々には
何の恩賞もなく、戦に何の役にも立たない女を連れ帰った私に褒美とは、どういうつもりだ!
そんなことだから、今このような恥辱にあっているのだ!

今日限りおぬしを、もう主君とは思わぬ!」

臼杵はそう言い捨てるなり、唖然とした顔の義統を背にし、堂々と出奔した。



719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 22:47:51 ID:S9upIefr
義統はホントダメだな、こいつの逸話あったら面白そう

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 22:48:32 ID:dyGQ7Xe3
>>715
かっこいいな。
臼杵のその後の活躍が知りたいけど死んじゃったのかな

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 22:52:49 ID:FHJFcA8Q
>>715
その期に及んで、女を連れてこさせようとする義統のダメっぷりに萌えた

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 23:02:26 ID:MdlAUSIF
>>720
毛利家に仕えたらしい。>その後

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 23:09:48 ID:qxFkmVRg
>>715
主命を果たした上で出奔はカクイイな

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/07(金) 23:12:21 ID:dyGQ7Xe3
>>723
暗君の次は凡君か・・・。可哀想だけど義統に比べりゃマシか。
サンクス。

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/08(土) 10:32:55 ID:1QHfre9S
>>715
かっこいい、これはかっこいい