273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/04(水) 20:39:20.30 ID:MAm0IXz/
天正18年(1590)2月16日の夜、諸国一斉の大地震が在った。
中でも安房、上総の両国は殊更ひどく、山が崩れ海を埋め、見る見るうちに土が盛り上がって
丘になった所もあった。
社頭、仏閣、寺院、坊、寮、また士農工商の家々尽くが倒壊した。
まさに稀有の出来事であった。
明け方になると海では潮がにわかに引いて、30余町(およそ3.3km)も干上がった。
古く伝えられたところには、康安元年(1361)7月24日の地震で、摂津国難波浦で数百町が干上がったことが
在ったというし、またその時には、阿波国鳴門の沖数十町が干潟となり、周防国では海中に
20丈ばかりの島が浮き上がったという。
このように先例がないわけではないが、この辺りでは初めてのことであった。
これに津々浦々の漁夫、海人は言うまでもなく、村里の老若男女尽く、肝を冷やさぬものは居なかった。
海が干上がった場所では、波打ち際や切り岸の間に、螺、栄螺、蛸、鮑、海藻磯菜が充満して、
足の踏み場もないほどであった。
人々は、最初はただただ仰天していただけだったが、里の子供たちが争ってこれらの獲物を
拾い集めた。魚や貝などがいくらでも取れた。
しかし、翌々日の18日夜半になって、遥か沖合に鳴動が聞こえ、黒雲の渦巻くのが見えた。
人々はこれを見て
「すわ!津波だ!」
と叫び、妻子の手を引いて争って山へと逃げた。
しばらくすると案の定、高波が打ち寄せ、うねるように波がみなぎり湧いて、数十丈(1丈約3メートル)の
山々の中腹まで水が押し寄せた。
民家は尽く波に飲み込まれ、人馬の溺れ死んだものはその数をしれず、堤は切れ、橋は落ち、
陸地を船が往来した。
安房、上総、下総の浦々45ヶ所全てが一様にこの高波の被害を受けた。
その名残であろうか、波の引いた後、そこにあふれた魚の名前が、今の地名に残っている。
例えば「鱸の谷」「鯛の谷」などという地名である。
常陸国の浦々も、これとだいたい同じ惨状であった。
数日の後、地震も止み、波も引いたが、およそ20日の間、死体となった人間や牛馬、
また家財道具などが磯辺に流れ寄せた。
小舟に乗ってこれらの死体を引き上げ葬った者もあり、また家財を拾い集めて一儲けした者もあった。
(関八州古戦録)
天正18年の、東国での大地震と津波についての記録である。
275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/04(水) 20:57:52.44 ID:06Ly+HhY
>>273
津波がずいぶんのんびりしてるな
278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/05(木) 00:33:42.92 ID:Z7myl96m
豊後でも大船をつける港として利用されていた湾内の島が海中に没したことがあったけど、もっと前の地震だったかな?
今世紀は日本周辺の火山活動が活発化するとされているから、もう数回震災クラスを体験することになるのかな
279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/05(木) 00:52:10.26 ID:OfF2ABMu
瓜生島だな。
確実な資料が無くて諸説あるけど、
あれもほぼ同時期のはず。
天正18年(1590)2月16日の夜、諸国一斉の大地震が在った。
中でも安房、上総の両国は殊更ひどく、山が崩れ海を埋め、見る見るうちに土が盛り上がって
丘になった所もあった。
社頭、仏閣、寺院、坊、寮、また士農工商の家々尽くが倒壊した。
まさに稀有の出来事であった。
明け方になると海では潮がにわかに引いて、30余町(およそ3.3km)も干上がった。
古く伝えられたところには、康安元年(1361)7月24日の地震で、摂津国難波浦で数百町が干上がったことが
在ったというし、またその時には、阿波国鳴門の沖数十町が干潟となり、周防国では海中に
20丈ばかりの島が浮き上がったという。
このように先例がないわけではないが、この辺りでは初めてのことであった。
これに津々浦々の漁夫、海人は言うまでもなく、村里の老若男女尽く、肝を冷やさぬものは居なかった。
海が干上がった場所では、波打ち際や切り岸の間に、螺、栄螺、蛸、鮑、海藻磯菜が充満して、
足の踏み場もないほどであった。
人々は、最初はただただ仰天していただけだったが、里の子供たちが争ってこれらの獲物を
拾い集めた。魚や貝などがいくらでも取れた。
しかし、翌々日の18日夜半になって、遥か沖合に鳴動が聞こえ、黒雲の渦巻くのが見えた。
人々はこれを見て
「すわ!津波だ!」
と叫び、妻子の手を引いて争って山へと逃げた。
しばらくすると案の定、高波が打ち寄せ、うねるように波がみなぎり湧いて、数十丈(1丈約3メートル)の
山々の中腹まで水が押し寄せた。
民家は尽く波に飲み込まれ、人馬の溺れ死んだものはその数をしれず、堤は切れ、橋は落ち、
陸地を船が往来した。
安房、上総、下総の浦々45ヶ所全てが一様にこの高波の被害を受けた。
その名残であろうか、波の引いた後、そこにあふれた魚の名前が、今の地名に残っている。
例えば「鱸の谷」「鯛の谷」などという地名である。
常陸国の浦々も、これとだいたい同じ惨状であった。
数日の後、地震も止み、波も引いたが、およそ20日の間、死体となった人間や牛馬、
また家財道具などが磯辺に流れ寄せた。
小舟に乗ってこれらの死体を引き上げ葬った者もあり、また家財を拾い集めて一儲けした者もあった。
(関八州古戦録)
天正18年の、東国での大地震と津波についての記録である。
275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/04(水) 20:57:52.44 ID:06Ly+HhY
>>273
津波がずいぶんのんびりしてるな
278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/05(木) 00:33:42.92 ID:Z7myl96m
豊後でも大船をつける港として利用されていた湾内の島が海中に没したことがあったけど、もっと前の地震だったかな?
今世紀は日本周辺の火山活動が活発化するとされているから、もう数回震災クラスを体験することになるのかな
279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/05(木) 00:52:10.26 ID:OfF2ABMu
瓜生島だな。
確実な資料が無くて諸説あるけど、
あれもほぼ同時期のはず。
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