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決しかねる二つのこと

2019年02月25日 21:29

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/24(日) 19:56:05.69 ID:kCbdXMQS
山崎の合戦の時、高山右近は自陣にて薙刀の鞘を外し、床几に腰を掛け、未だ合戦に至らないところに、
高山の家臣の甘利という者、彼は高山に寵遇されず、末座にしか居なかったが、高山の前に進み出て、
跪いてこう尋ねた

「私には今ここに、二つのうちどちらを選ぶべきか決しかねていることがあります。恐れながら
殿にその判断を承りたいのです。」

「それは一体何事か」

甘利は言った
「勇智の名のある者は、遠国、他家にあっても伝を求めて家に招き、高知を賜って恩顧薄くありません。
いわんや元よりこの高山家の家臣たちは、殿にとっての干城になるべき人材だとご覧になれば、人並みの
御言葉をもかけられます。

であれば、私が人数成らぬ体にて捨て置かれているのは、そのような御用に立たない者と思し召されて
いるからでしょう。

今、私が敵を斬り陣を破れば、それは殿のお眼鏡が違っていた事となり、これは不忠と言うべきでしょう。
だからといって、攻めかかるのに遅れ、退却することに先立てば、武士の名を失い、父祖を汚し、これは
不孝となってしまいます。

不忠の罪と不孝の罪、いずれが重いのかと、案じわずらっているのです。」

高山は甘利をじっと見ていたが、一言も答えなかった。
そうしている内に、敵すでに近くなると、甘利は

「たとえ不忠の罪であったとしても、拾い頸をし、敵の行く手を遮るくらいであれば、そのように悪しく
捉えられる事も無いでしょう。そして怯弱不孝の罪は重ねて補い難いものですから、あちらを捨てこちらを
取りましょう。」

そう言うと味方に先んじて攻め入り、高山家の一番槍を合わせ、兜首を獲った。
また明智光秀の軍が敗北し逃走を始めると、これを追って光秀の甥である明石義太夫を討ち取った。

直諫すべき時でなければ、みだりに主君の非を言うべきではない。
甘利の言葉はまことに無礼である。しかしその無礼を聞き届け、自ら反省することが出来なければ
暗君と言うべきである。

(武将感状記)



761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/24(日) 20:44:44.21 ID:Z+5elnds
こんなめんどくさい事ばかり考えてなきゃいかんのかと思うと絶対武士とかに生まれたくないな
もっとも平民に生まれたらもっと悲惨な人生なんだろうけど

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/25(月) 09:52:51.69 ID:WuMV8JSF
>>761
これは単純に嫌味を言っただけかと

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/25(月) 11:29:34.76 ID:YGzEIqam
>>761
多分こんなに面倒な奴だから厚遇されなかったんだろうね

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/25(月) 19:46:02.19 ID:eCED7ohD
高山は松永、和田、荒木、明智、全ての主家を裏切ってる
こんな変節漢にいい家臣がいるわけがない
結局大名より宗教を選び家臣を路頭に迷わせたクズ
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南坊が最初に総門を固めたのは

2018年09月13日 21:13

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/13(木) 14:10:04.47 ID:Lb9DTZ1/
(山崎の戦いの時)

明智勢総軍1万4千余人は淀を出て狐川まで打ち立った。先手は川より向こうの方へ出張、
光秀は川より東に陣取った。明けて6月13日寅の刻、池田父子(恒興・元助)が

山崎表へ進んで見れば、高山南坊(右近重友)は総門を差し固め他の兵は1人も通行させ
なかった。池田父子はこれを見て、「高山は異心か! 油断するな!」と言いながら、

川に沿って細道より山崎の東総構の外を巡り、明智勢に打って掛からんと馬を速めて急ぎ
行く。南坊はその間に総門より打ち出て池田勢より遥かに先に進んでいた。

かくて南坊が最初に総門を固めたのは他の勢を入り交えずして先陣せんと心掛けた武辺の
嗜み、素晴らしくもまた殊勝なことよと敵味方ともに感じ入った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


【ニュース】キリシタン大名の高山右近「福者」に 

2015年06月21日 14:09

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/21(日) 10:42:11.08 ID:IWGHGpvY
【国際】キリシタン大名の高山右近「福者」に…バチカン審査委了承
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1434848601/
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150621-00000002-mai-soci



211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/21(日) 14:43:26.82 ID:f/EHBiN5
福者とか聖人ってのは殉教者でないと認められないのかー
右近はべつに磔になったわけじゃなく、追放だからあんまりピンと来ないな


まあジジイになってから、北陸から九州まで護送されて
船旅も楽じゃなかったろうから、すぐ向こうで死んじゃったわけだが

天主教のこと

2015年06月18日 18:01

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 12:58:05.93 ID:KmJa9IYX
慶長19年正月、前田利常より使者を以って幕府に申し立てがあった。それは高山右近、内藤飛騨守(如安 )が
天主教を信じる徒であることが明白であるため、両人を召し捕り牢に入れ、京都所司代まで送ったことを
注進するものであった。
また京都所司代の板倉伊賀守(勝重)よりも、邪宗の徒数十人を召し捕った旨注進があった。
その後、高山、内藤を始め百余人を長崎に遣わし、長谷川藤広に命じて船に乗せ遠島に追放となった。

この天主教が日本に渡って来たのは、大友家より始まった事だという。
大友宗麟は大国を領し西海まで勢いを振るっていた頃、南蛮国と音信し彼の国の者と交易が始まったが、
この宗門を信じる者は交易でも必ず利益が多かったため、日本の民も追々邪宗門に入る者が多くなり、
大友宗麟も信じるように成った。それより追々広まり、京都にまで広まって、高山右近、荒木摂津守(村重)らも
みな邪宗の信者と成った。

ところが、荒木村重が織田信長に対し逆意を起こした時、邪宗の僧が一人、荒木方であった高山右近の元に
使者に立ち信長に味方するよう招いた。高山は即座に信長に帰服した。これによって荒木は叶わず逃げ去った。

この功績により、織田信長は邪宗の僧を取り立てた。そのため天下に邪宗が広まったという。


(明良洪範)



947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 13:14:55.04 ID:WmjIKTeR
本能寺の時はイエズス会は右近に日本語では明智への帰順
ポルトガル語では帰順の反対の手紙を出したとかいうけど
この時もどっちに転んでもいいように日本語ポルトガル語で二枚舌使ってたりして

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 17:18:14.07 ID:zJOa01Hx
邪宗の僧って誰のことだろう?

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/18(木) 17:36:57.06 ID:nJFH4AZE
>>948
オルガンティノ

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/19(金) 00:56:35.78 ID:ZqwZEobT
>>947
明智に強要されたからやで

ニュース・高山右近が「福者」に

2015年03月23日 18:30

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 12:13:02.09 ID:JX5Y7Kcm
ttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150322-00000002-mai-eurp

>法王は禁教下に信仰を死守した潜伏キリシタンを「指針」とたたえた。
>キリシタン大名の高山右近(1552~1615)がカトリックで「聖人」に次ぐ「福者」に認定される見通しで、
>法王は来年、日本で予定される列福式に「可能なら行きたい」と述べたという。




772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 12:51:49.61 ID:OKQLwotX
摂津での下剋上を生き延び、山崎の合戦で奮闘
利休七哲の一人で、城造りも出来る。

江戸時代になり、藩が先祖の話を盛ってプロパガンダされた人達
よりも凄いと思うが、何故かいまいち人気がでない印象。

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 13:09:43.02 ID:c6wqUJta
右近を間違いなく美化しているフロイスなど宣教師の記録を読んですら、一種の狂信者みたいな印象しか持てないんだよなあ。
領内で寺社の破却に強制改宗、僧侶や改宗を拒む人間の追放とかもやってるし。

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 13:52:53.58 ID:UI+n2Hb0
2015年北陸新幹線開業

観光地金沢

金沢城

高山右近

高山右近について知る人が1000人くらいは増えそう

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 13:56:19.71 ID:yhrG7vrH
キリシタン大名って歴史ある神社仏閣をけし飛ばした印象であんまりイメージ良くないなあ
世間一般的にはどんなもんなんだろう

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 14:04:04.68 ID:4fgLFcC2
キリシタンじゃなくても寺を燃やした人がいるから何とも言えない

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 14:04:30.73 ID:5Aes7DBh
へうげもののほうが知名度アップ大きいか

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 16:32:15.27 ID:D7GH2UlQ
首切られたのに生き残ったり、
茶人や庭師の功績があったり、
外国でキリスト教の偉い人として人生終えたりする凄い人だと思ってる

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 17:23:47.03 ID:wUXvendR
昨年は生田斗真が演じてたので知名度アップしてそう。

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/23(月) 20:19:29.05 ID:qbwZI+nq
高山右近というと工場長と三斎様とBBQパーリィやった人ですね

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/24(火) 11:15:05.43 ID:D6tZgQIG
寺を焼き討ちしたのか…

高山右近の宗教政策

2014年03月18日 18:57

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/18(火) 00:33:22.16 ID:9DuFYx0x
大河に高山右近が出てきたので、彼の宗教政策がどんなものであったかを、ルイス・フロイスの日本史から一つ


信長の在世中のこと

高山右近殿の所領である、高槻領の仏僧たちは、我らの教えを聞こうとも、それを望みもせず、ましてや
キリシタンに成ろうと決心することはなかった。
高山右近殿は、彼らの所にあれこれ使者を遣わして説教を聞くようにと願い、

「もし全くその気持ちがなければ、予は貴僧らを領内に留めおく訳には行かぬ」

と伝えた。そこで終に彼らは説教を聞くに至り、百名以上の仏僧がキリシタンと成り、領内にあった
神と仏の寺社は尽く焼却され、そのうち利用できるものは教会に変えられた。

それらの中では摂津国で高名な、忍頂寺と呼ばれる寺院があった。この寺は現在では、
同地方で最も立派な教会の一つとなっている。
そこでは大規模に偶像が破壊された。すなわち彼の地には多数の寺院があり、仏僧らは山間部に
これら大量の悪魔の像を隠匿していたが、それらはまもなく破壊され火中に投ぜられた。

(ルイス・フロイス『日本史』)




769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/18(火) 20:17:25.11 ID:NH+WarT0
やっぱり右近も寺社焼き討ち仏像破壊してたのか

高山右近の神社仏閣破壊と、普門寺の毘沙門天像

2012年03月24日 21:32

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 13:54:55.97 ID:ej/gOXIN
キリシタン大名として有名な高山右近は領民にもキリシタンになるよう布教を熱心に行い、
それに伴って領内の神社仏閣を破壊して仏教徒に迫害を加えるようになった。
領内にあった普門寺にも高山右近の軍勢がやってきて危機的状況におちいった。その時、
寺の中に安置されていた毘沙門天像の憤怒の形相がさらに怒った顔に変貌し、強烈なオーラを放った。
すると、右近の軍勢の陣中に魔風が吹き荒れ、おそれおののいた兵士たちは蜘蛛の子を散らすかのように
逃げ去っていった。こうして、普門寺は破壊の危機をまぬがれたのである。




432 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/24(土) 14:07:45.28 ID:jWhDnIq7
でも右近の土地では神仏のご利益は激減し・・・
日本赤軍のテロリストが10年潜伏できる摩訶不思議な街になってしまった・・。

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 15:17:22.18 ID:EcmlSvgL
戦国時代の仏像は暴れん坊が多いな

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 18:20:05.24 ID:Pkwbnu+v
日本各地で鬼が暴れてるんだから仏像もジッとしてられないだろ

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/24(土) 20:35:59.24 ID:gls/6TXm
毘沙門天にいっては現世に降臨してるしなw

蒲生氏郷と細川忠興、高山右近のバーベキューに

2009年11月05日 00:08

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 10:20:36 ID:2f5ddgPT
小田原攻めの長陣に秀吉軍の将兵は退屈し、後期には変ったものを食べるために
略奪や狩猟を行なっていたという(兵糧不足によるという説もある)。

やっぱりヒマな大名二人、蒲生氏郷と細川忠興が高山右近の陣を訪れた時、右近は
何かの肉を焼いているところだった。

氏郷「いいニオイ……!高山どの、それ何の肉?」
右近「これですか?これは、牛の肉ですよ。」
忠興「!?けっ、獣の肉なんか食べて大丈夫なんですか…?」
右近「平気へいき!私はバテレンに知り合いが多いので聞いたのですが、南蛮人は
良く牛や豚の肉を食べるそうです。ほら、この味噌ダレをつけて食べると旨いですよ?」

右近が食べていたのは現在の焼肉か、すき焼きのようなものと言われる。
さて、恐る恐る牛肉を食べてすっかりハマッた忠興と氏郷は、ある日再び右近の陣を
訪ねた。ちょうど右近は、ひざまづき神に礼拝を捧げているところだった。

氏郷「ちょw高山どの何してんのwww」
忠興「大名が主君でもないモンに膝つくとかねーよwww」

この言葉に、日頃は温厚な右近がキレた。
右近「…大名だからと、デウスに感謝もせず威張る人間ほど下らないものはありませんね。
もう貴方がたに牛肉はご馳走できません。」

氏郷・忠興「 Σ(゜д゜|||(゜д゜lll) 」

その後一週間、口も聞いてもらえず、二人はさんざん謝ってようやく肉にありつけたという
別の意味の兵糧攻めの話。




943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 10:26:23 ID:zUDCP1Ql
>>942
細川はキリシタンのこと知らないとしても

キリシタン大名である、蒲生が驚くとは。

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 10:44:41 ID:h5Ks2mYg
食い意地のはった話乙ww

>>943
まあどこまで本当の話かといえばアレだけど、
当時は「流行りだから」「儲かるから」という理由でキリシタンになってた人も多そうだ

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 10:49:17 ID:6P4sqNvO
レオンにとっては神<牛肉なんだな。

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 12:22:46 ID:xvM/MyHg
>>942
この2人の智恵と、権力があれば、牛肉の入手法や、うまい食い方ぐらい
なんとかしそうなもんだけどなぁw
市松ならともかくwあ、でも市松は田舎の子だから、普通に食べてた可能性もあるのか。


947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 12:35:45 ID:HpuQSZmQ
田舎の方だと牛馬は一緒に寝起きする家族だから、よっぽどの
飢饉じゃないと食べるって発想は無いかも?

狸汁がやたら昔話に出てくるとこ見ると牛馬以外は食べてたっぽいけど

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 12:42:11 ID:eKcQ8TwF
>>947
それだと日本全国「田舎」になるがな

949 名前:942[sage] 投稿日:2009/11/04(水) 14:13:46 ID:2f5ddgPT
>>944
熱心なキリシタンあたりが、信仰のために大名の地位を捨てた右近に対して
のちに大大名になったその友人たちを揶揄して出来た話かなぁと。

>>947
天武天皇が牛・馬・猿・鶏・犬の食肉禁止令を出してから、ある程度以上の
階級ではこれらの肉は忌避されていたようです。

鶴・鴨・狸とかは普通に食べてたようですが

高山右近の潔癖症と茶・悪い話?

2009年04月10日 00:08

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/08(水) 23:37:42 ID:qwJEKl8A
高山右近の潔癖症と茶

秀吉の伴天連追放により、伊丹の知行地を失ったキリシタン大名、
高山右近長房。
晩年は、加賀前田家、利家、利長、利光の三君に仕え、
関が原の役以外の時期は静かな生活を送っていた。

このころの茶会にて

招かれた客人らは、いつもながら右近の完璧なまでに整えられた茶風に
感嘆の念を禁じえなかった。
が、師である利休が右近自身についてかって評したことを語った。

「師が評するには、私の茶はどこか邪道というか茶の心から外れたものがあり、
それはあまりに清潔さ潔癖さに捉われてしまった心の狭さ故なのだそうです。
確かにそう言われてみれば、私は茶室に至る道の隅々はおろか、
庭の端々から茶室の床の下まで掃き清めねば気が済まず、
少しでも乱れがあると心静かに茶を立てられないのです。
これは性分なのでしょうが、まことの茶人としていたらぬことなのです。

それに対して織田有楽殿の茶は、自然にあるがまま、道に降り積もる落ち葉は
そのまま茶になっております。
まことに自然というか、自由な心そのものであり、羨ましいとも思うのです。」


潔癖で窮屈な面を自己批判する右近であった。




522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/09(木) 00:30:44 ID:8TkDK1q6
>>520
謙虚さに感心していい話じゃないの?と思ったけど潔癖症はやっぱよくないか。

播磨明石の高山右近・悪い話

2009年04月05日 00:01

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/04(土) 21:27:24 ID:mDe2hy5w
天正13年(1585年)、キリシタン大名高山右近は
摂津高槻から播磨明石へと転封となった。
「ア・イ・ツがやってくる!」
高槻での徹底したキリスト教政策は
すでに有名になっており、明石の寺社勢力は大混乱に陥った。
僧侶たち「俺らは確実にや・ら・れ・る!」
実際、右近は赴任するとビシバシ寺社を弾圧し
モリモリとキリスト教を布教し始めたのだった。
僧侶たち「このままではいかん!」
意を決した僧侶たち、ありがたい仏像を船に乗せ
はるばる大坂まで直談判に訪れた。
秀吉「右近は殿様なんだから、好き勝手してもOK。訴えは却下」
僧侶たち「・・・へ?」
秀吉の機嫌が悪かったのか、僧侶たちのプレゼンがしょぼかったのか
訴えを退けられただけでなく、運んできた仏像は没収となり
僧侶たちも明石から追放となってしまった。

高山右近の明石統治はわずか2年ほどで終わるが
それでも新規信者2千人を開拓してたという。




440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/04(土) 21:41:16 ID:9eADTT4Z
基本気に入られてないわけじゃなかったからなぁ

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/05(日) 00:40:24 ID:WZ02yvD1
とりあえず仏像が右近の魔の手から逃れただけえも良しとするべき

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/05(日) 01:21:37 ID:64QUSfV9
キリシタンもキリシタンだが、ボウズもボウズだからなあ、この時代w
どちらにも肩入れできん

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/05(日) 04:00:41 ID:NeOxgfsI
秀吉はホント興味の埒外のことには淡白だなあw

本能寺の変と高山右近・いい話

2009年04月03日 00:13

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/02(木) 18:54:02 ID:o5YCZE66

1582年6月本能寺の変のおり。

高山右近は明智光秀の配下として中国攻め、
羽柴秀吉への援軍として居城の高槻を後にして西に向かっていた。
高槻からの急な知らせで信長の死を知った。
武将の直感から、これは光秀に先は無いと踏んだ。
が、高槻に置いてきた自分や家臣らの家族が質に取られることを気に病んだ。
あの荒木村重謀反の再現になるのではと。
しかし光秀の動きは鈍く、いっこうに高槻の城下を押さえる気配がない。
ますます光秀の知力の鈍りを右近は感じた。

そんな折り、光秀からの加勢の依頼状が届いた。
キリシタンである右近のことを考え、彼の師であるオルガンテーノ司祭の
手紙も添えられていた。
日本文では明智光秀への加勢を強く勧めるものであった。

同時にもう一通ポルトガル語の手紙があった。
司祭はイタリア人であったが、日本語,ポルトガル語も堪能であった。
そこには、京都での情勢、および光秀への加勢は義に反すると同時に政治的軍事的にも
破滅であることが記されていた。

光秀側にはポルトガル語を解するものはいなかったのである。

右近らしい幅広い情報収集のお話。




頑固な右近と秀吉・いい話

2009年03月29日 00:07

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/28(土) 13:51:44 ID:a3M7yU0B
頑固な右近と秀吉


秀吉の伴天連追放令後、相次いで棄教する大名、
黒田孝高、長政親子、蒲生氏郷、大友義統、小早川秀包らであった。
信仰を棄てずとも、表向きには露にしなくなった小西行長のように、
大名らは秀吉には絶対逆らえない状況の中、高山右近だけは頑固だった。
棄教はおろか、表立っての信仰も何ら変えるつもりも無い旨を公言する始末。
心配した使者の増田長森、小西行長、そして利休までが
「もっと大人になれよ、もう止めましたってポースだけで良いんだから。」
と口を酸っぱくして忠告するも、右近は頑として聞き入れない。
これまで信長の摂津攻め以来の仲であり武将、茶人、西洋通の彼を高く評価していた秀吉も、
一度公式発表した手前特別扱いは出来ないし、右近の頑な態度に腹もたった。
明石の封地は召し上げ、追放とした。

その後、極貧の時期紆余曲折あるも、加賀の前田利家に高山右近は仕える事となる。
最初は500石、最後には2万石の高禄となった。

前田家の家臣として参加した小田原攻めの際、右近は優秀な前線指揮官ぶりを発揮。
数は少なくとも右近の兵士は皆キリシタンであり、誰の目にも明らかなように
旗指物にはくっきりと十字架が描かれていた。
胸には十字架のペンダントを飾りながら、川越、松山、鉢形、八王子城攻めに参加。
皆、取り憑かれたような凄まじい奮戦ぶりであった。

その勇猛なキリスト教徒部隊の働きは、当然秀吉の目にも入った。

が、まこと見事じゃな、というだけで苦笑する大人の秀吉であった。

後に秀吉の朝鮮侵攻のために名護屋での滞陣の折、前田家の家老として参陣した右近。

機嫌良く茶席に招いた秀吉の眼前、右近は礼を尽くしつつも全く無言であったという。




272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/28(土) 17:08:44 ID:Gyjyue58
まあどっちにしろ超潔癖症の右近さんじゃラスボスの部下は…

高山右近の下克上・悪い話

2009年03月25日 00:11

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/24(火) 11:35:01 ID:cmeaoYzn
キリシタン大名、勇敢な武将であり、利休七哲の茶人、
ポルトガル語を流暢に話し、ラテン語も解したインテリ高山右近、
若年時からマニラ追放の晩年まで際どい世渡りの連続であった。

1571年、彼が19歳の頃、直接の主家であった摂津守護職の一人
和田維盛が白井河原の戦いで荒木村重に敗死して以来、
主家和田家に対する高山家は微妙な立場となった。
和田維盛の若年の長子の維長、及び和田一門との間は互いに疑心暗鬼、
次第に抜き差しならぬ険悪なものとなる。
高槻城内では、最後には高山飛騨守、右近長房親子を誅すべしという和田一門の意で
占められるようになった。そんな折り、更に主家筋である織田信長、足利義昭の間が
険悪となり、狭い摂津内では荒木村重の威があまたを取り仕切る案配であった。
高山親子でも親の躊躇いを制したのは、より現実主義者の右近であった。
主家和田家を見放し、新興の荒木村重につくこととなった。

1573年4月某日、高山親子は和田維長により高槻城に呼び出された。
飛騨守、右近も覚悟の登城である。
二人のみが通された薄暗い評定の間には和田維長と近臣が座している。
親子2人だけの入室と確認した維長の口から、両人を誅すべし、との声が上がる。
板戸を蹴破り十数人の和田家家臣が切り込んできた。けり倒された燭台の灯が消え、
広間は真っ暗闇となったことが右近に幸いした。
いち早く右近は和田維長の襟首をつかみ上げ、首に深々と傷を与えるも、
入り乱れての混乱の中で討ち取ることが出来ない。
乱戦の中、彼自身も背中、首に深手を負い、命からがら城を脱した。
抜かり無く手回しの素早い荒木村重が率いる3000名の軍勢が、既に高槻城を囲んでいる。

結局、織田信長、荒木村重、細川藤高らの合議、パワーバランスの結果、
和田家は高槻より追放となり、和田維長は傷が元で死亡した。
高槻城を拝領したのは高山ダリオ飛騨守、ジェスト右近となった。
右近も傷がこじれ死線を彷徨うも回復し、
これがその後の戦国大名の流転の人生の始まりとなった。

高山右近の下克上の話。




167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/24(火) 12:08:36 ID:HzkGnd7c
確か友照の飛騨守は自称

高山右近 inフィリピン・いい話

2009年02月26日 00:19

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/25(水) 18:41:43 ID:FYhmB5iW
高山右近 inフィリピン

高山右近はキリシタン禁止令にもめげず、
大名の地位を剥奪されても信仰を捨てなかった。
ついに慶長19年(1614年)神父や信者200名余りと国外追放された。
船が沈没しかかったものの、なんとかマニラに到着したのであった。
宣教師らの報告により右近の存在は海外でも有名だった。
そして右近らがマニラに到着したとき、
「日本から聖人がやってきた」
祝砲が打ち鳴らされ、熱狂的歓迎で出迎えられた。
まさかこんな歓迎を受けるとは思っていなかった右近は大層驚いたという。


250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/25(水) 18:42:15 ID:FYhmB5iW
フィリピン総督のシルースは右近に大邸宅を与えて歓迎の意を表した。
しかし、僅か40日後に右近はマラリアにかかり病床につく。
シルースらの手厚い看護の甲斐もなく
「神父やキリシタンに囲まれて死ぬのは幸せだ」
と言い残して、63才で世を去った。
そして右近が死んだ時は、国を挙げての壮大な葬儀が行われた。
右近の娘は
「こんなに素晴らしい葬式を挙げてはもらえるなんて。・゚゚ '゜(*/□\*) '゜゚゚・。」
感動して泣いたそうな。




251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/25(水) 18:46:32 ID:G4Uxpx7H
一緒に追放された内藤如安は10年以上あちらで生きてたな。

死んだ後は立派な十字架を墓標に立ててもらってる。

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/25(水) 19:17:53 ID:8xTmSFsb
>249-250
凱旋将軍の如き歓待を受けた、ってね

破損した船での苦労はかなりのもんだったらしいが、
これは最後いい人生だったというべきなんだろな

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/25(水) 21:04:24 ID:n65l6Sjy
高山右近のネタ元は
http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m080.html

だと思うんだけど、当時のフィリピン総督はwikiによれば
ファン・デ・シルヴァだった。

彼は若きスペイン名門貴族で、キリシタン大名、高山右近の
来訪を心底感激し、美々しく盛装したスペイン人騎馬部隊を
右近の護衛につけ、総督宮殿で大宴会の連続で大歓待した。

あまりの長時間の歓待ぶり、若い総督の熱意の押し付けに、
長旅疲れの右近はますます憔悴してしまった。

シルヴァ自身もその後ほどなく、当時の宿敵オランダとの海戦で
はかなく戦死したと聞いたが。