354 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/17(木) 03:25:59.58 ID:uOKqziaB
蛸釣り陶器のいわれ
>>348で珍宝の破壊者、オリベィドの話が出ていたので盟友である有楽斎の(部下)お話を
昔、来島海峡の近くの唐津崎の沖合からは優雅な青磁や白泥の陶器が、よく引き上げられた。
これは約140年ほど前の、文政10年(1827)の夏に来島の一漁夫が蛸を釣り上げたところ、一個の陶器を抱いて上がったことから古老のいい伝えを耳にし、蛸の吸纒力にヒントをえて、
蛸の足に細い縄と適当な錘をつけて、海中の陶器を釣り上げたことにはじまると言われています。その後、他の漁夫もこれに見習っていろいろ変った陶器を釣り上げたという。
このようなことから、人々はこれらの来島海峡の海底から引き上げられた陶器を蛸釣り陶器と呼んだ。
大正の終わりから昭和のはじめにかけて潜水夫によって大量に拾い上げられたため、今は殆どなくなったとのことである。
来島海峡の海底から何故このように名品の陶器が上がるのか?それには次のいい伝えが残ってる。
1587年(天正15年)北野の大茶会があってから十年ほど経た慶長のはじめに、豊臣秀吉の命を受けた織田有楽斎が喫茶用の陶器を全国に派遣されて集めたことがあった。
事情があって九州地方は有楽斎の家来の上田藤右衛門がその任に当たり、藤右衛門は朝鮮から帰化した陶工をはじめ九州各地の窯元に命じて、新しい造形感覚を求めた素晴らしい茶器をいくらも焼かせた。
ある時、この九州各地で製造された陶器や明や朝鮮から取り入れた珍品などを、五万石積みの大船に満載して大坂をめざして帰る途中、斎灘で折り悪しく暴風雨にあい、船は今にも転覆しそうな状態になった。
乗員達の懸命の努力で沈没は免れ、船は宮崎の鼻にある唐津の磯に避難した。
陸に上がった藤右衛門はとある百姓家に泊めてもらい風雨が収まるのを待っていたところ、たまたま秀吉が病で亡くなったという知らせが伝わってきた。
これを聞いた腹悪しき船長は藤右衛門が陸に上がっている隙にこれ幸いと、めぼしい品を盗み船を沈めていずことなく姿を消した。
責任を感じた藤右衛門は、岩の上で割腹して果てた。
時に慶長3年(1598)十月九日であったという。
里人はその心情を憐み、その霊を慰めるため、小さい祠を建立して鄭重にお祭りし、その祠を唐津明神(加羅津崎神社とも)と呼んだ。
現在は近くの宮崎神社(今治市波方宮崎の御崎神社?)に合祀されている。
唐津明神の起源については西日本で焼物のことを、一般に唐津物といっているところからきたのではないかと思われる。
また、藤右衛門が割腹した場所は、唐津崎とか、唐津の磯とかいわれてその名残をとどめている。
今治地方の伝説集(今治市商工会)139. 蛸釣り陶器のいわれ
https://www.imabaricci.or.jp/今治地方の伝説集/#takoturitouki
355 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/17(木) 03:41:44.27 ID:uOKqziaB
上の話に関する地理図
https://i.imgur.com/zxnnCMp.jpg

356 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/17(木) 03:53:04.02 ID:uOKqziaB
こちらにもこの蛸釣り陶器の由来が引き上げられた陶器の写真とともに書かれてます。
今治歴史散歩29
http://hojinkai.zenkokuhojinkai.or.jp/imabari/files/2021/03/今治歴史29.pdf
357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/17(木) 12:20:46.09 ID:tEs/oNjS
蛸壷のお話しじゃなくて蛸に陶器を採らせるお話しか
秀吉が亡くなった時にこういったちょっとした事件って各地で起こっていたりするのかな?
蛸釣り陶器のいわれ
>>348で珍宝の破壊者、オリベィドの話が出ていたので盟友である有楽斎の(部下)お話を
昔、来島海峡の近くの唐津崎の沖合からは優雅な青磁や白泥の陶器が、よく引き上げられた。
これは約140年ほど前の、文政10年(1827)の夏に来島の一漁夫が蛸を釣り上げたところ、一個の陶器を抱いて上がったことから古老のいい伝えを耳にし、蛸の吸纒力にヒントをえて、
蛸の足に細い縄と適当な錘をつけて、海中の陶器を釣り上げたことにはじまると言われています。その後、他の漁夫もこれに見習っていろいろ変った陶器を釣り上げたという。
このようなことから、人々はこれらの来島海峡の海底から引き上げられた陶器を蛸釣り陶器と呼んだ。
大正の終わりから昭和のはじめにかけて潜水夫によって大量に拾い上げられたため、今は殆どなくなったとのことである。
来島海峡の海底から何故このように名品の陶器が上がるのか?それには次のいい伝えが残ってる。
1587年(天正15年)北野の大茶会があってから十年ほど経た慶長のはじめに、豊臣秀吉の命を受けた織田有楽斎が喫茶用の陶器を全国に派遣されて集めたことがあった。
事情があって九州地方は有楽斎の家来の上田藤右衛門がその任に当たり、藤右衛門は朝鮮から帰化した陶工をはじめ九州各地の窯元に命じて、新しい造形感覚を求めた素晴らしい茶器をいくらも焼かせた。
ある時、この九州各地で製造された陶器や明や朝鮮から取り入れた珍品などを、五万石積みの大船に満載して大坂をめざして帰る途中、斎灘で折り悪しく暴風雨にあい、船は今にも転覆しそうな状態になった。
乗員達の懸命の努力で沈没は免れ、船は宮崎の鼻にある唐津の磯に避難した。
陸に上がった藤右衛門はとある百姓家に泊めてもらい風雨が収まるのを待っていたところ、たまたま秀吉が病で亡くなったという知らせが伝わってきた。
これを聞いた腹悪しき船長は藤右衛門が陸に上がっている隙にこれ幸いと、めぼしい品を盗み船を沈めていずことなく姿を消した。
責任を感じた藤右衛門は、岩の上で割腹して果てた。
時に慶長3年(1598)十月九日であったという。
里人はその心情を憐み、その霊を慰めるため、小さい祠を建立して鄭重にお祭りし、その祠を唐津明神(加羅津崎神社とも)と呼んだ。
現在は近くの宮崎神社(今治市波方宮崎の御崎神社?)に合祀されている。
唐津明神の起源については西日本で焼物のことを、一般に唐津物といっているところからきたのではないかと思われる。
また、藤右衛門が割腹した場所は、唐津崎とか、唐津の磯とかいわれてその名残をとどめている。
今治地方の伝説集(今治市商工会)139. 蛸釣り陶器のいわれ
https://www.imabaricci.or.jp/今治地方の伝説集/#takoturitouki
355 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/17(木) 03:41:44.27 ID:uOKqziaB
上の話に関する地理図
https://i.imgur.com/zxnnCMp.jpg

356 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/17(木) 03:53:04.02 ID:uOKqziaB
こちらにもこの蛸釣り陶器の由来が引き上げられた陶器の写真とともに書かれてます。
今治歴史散歩29
http://hojinkai.zenkokuhojinkai.or.jp/imabari/files/2021/03/今治歴史29.pdf
357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/17(木) 12:20:46.09 ID:tEs/oNjS
蛸壷のお話しじゃなくて蛸に陶器を採らせるお話しか
秀吉が亡くなった時にこういったちょっとした事件って各地で起こっていたりするのかな?
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