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「越後野志」の「村上城」から本庄繁長の活躍

2023年05月31日 19:18

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/27(土) 20:29:51.25 ID:0JPugDAC
文化十二年(1815年)成立の越後の地誌である
越後野志」の「村上城」から本庄繁長の活躍

本庄繁長は幼少の時に父房長が没し、十三歳の時に一族の小川・鮎川が反逆したため討ち平らげた。
天文二十三年(1554年)八月十八日、信州川中島合戦において十九歳で謙信侯の先陣となり、武田信玄侯の軍を大いに破った。
また反逆者誅伐にも戦功が大いにあり、元亀天正年間では本庄繁長・新発田治長(新発田重家)は鬼神のように恐怖された。
永禄四年(1561年)九月十日、川中島合戦で謙信侯が甲州兵を破り休まれていた。
そこへ武田義信が兵八百ほどを率い、旗を伏せ、腰差しを隠し、草むらに潜んでいたのが来襲した。
謙信侯の旗本の軍は不意をうたれ、防ごうとしたが過半数が敗走した。
謙信侯も手に家宝の鍔槍をとって防戦された。
老臣である志駄義時、大川高重が戦死し、軍が乱れようとした。
そこへ色部長実が五百人を、宇佐美定満が千余騎を率い、武田義信を挟み討ちにし、広瀬まで追い落とした。
このとき繁長も自ら太刀打ちして人の目を驚かせた。
しかし二十六歳の血気盛りであったため、
「謙信侯の軍略が未熟なために武田義信にしばらく劣勢となったのだ」と謙信侯をそしってしまった。
謙信侯が怒り、事に及ぼうとしたのを察知した本庄繁長は、永禄十一年の秋に本庄城に引きこもり叛いた。
謙信侯は上条義春(畠山義春)をもって攻めさせた。
義春は軍略により繁長の軍を破り、繁長はついに剃髪して降伏した。
謙信侯も絶世の勇士であるため繁長を許し、厚く用いた。
景勝・景虎の二君が争った時(御館の乱)には景勝君に属した。
景虎君に属した上杉十郎憲景(上杉景信、本庄繁長の舅)が戦死したのち封禄の地を与えられたが、上杉の名は継がず家紋だけを用いて今日にいたる。
そののち次男の千勝丸を出羽の庄内の大宝寺義興に与え後継とさせ、ひそかに謀って義興を討ち、千勝丸を大宝寺義勝と改名して、秀吉公の了承を得た。
(このあとは最上軍との戦いの話だけど省略)



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「本庄正宗」由来

2021年07月28日 18:28

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/28(水) 16:45:08.06 ID:PxtMUnPr
天正十六年(1588)八月、出羽国庄内における十五里ヶ原の戦いで、上杉軍の本庄繁長
東禅寺義長を討ち取った。この時、義長の弟である東禅寺右馬頭(勝正)は敵中を斬り抜けていたが、
そこで義長の討死を聞いて、涙を流して申した

「私が多くの敵に後ろを見せて、ここまで逃げ延びたのは、夜中でもあり、屋形(義長)の
討死を知らず、屋形が生存していれば、重ねて人数を催し、本庄を討って再び庄内の地を踏み、
本意を達しようと思ったからである。しかし屋形が討ち死にした以上、我一人、生きて更に益なし」

そう言って取って返した。その頃、本庄繁長は戦勝後の首実検をしており、右馬頭は旗も前立も
相印もかなぐり捨てて、黒糸縅の鎧を着、右の手には抜き刀を持ち、左の手には六十二間の星釜、
全小札三枚下りの錏(シコロ)を付けた首一つを掲げて、敵の備えの中を押し分けて通った。
これを咎むる者があれば「越前守(本庄繁長)被官なり!大浦民部が首を取って、実検に参り候!」
と言って、難なく繁長の旗本へ来ると、越前に呼びかけ、「高名致し候!」と言いながら近寄り、
その首を本庄に投げつけて

「東禅寺右馬頭!」

と名乗り、三尺八寸の太刀を以て、本庄の直額を、割れよ砕けよと二打打った。

しかし本庄繁長は勝って兜の緒を締めて、首実検をしていたため、兜は斬り割られず、左の
吹き返しが斬り割られ、さらに眼尻より顎にかけて斬り付けてきた。
本庄は素早く側に横たえてあった薙刀を追い取り、床几を少しも去らずして、右馬頭を跳ね返し、
脇より立ち会い、右馬頭が起き上がらない内に斬り殺した。

本庄はそのまま再び首実検をし、首帳を認めさせ、凱歌の儀式を執り行い、武名を世に高くした。

右馬頭の刀は相州正宗であった。これを本城は上杉景勝公へと差し上げた。
その後、これは景勝から太閤秀吉に進じ遣わされ、太閤より又、権現様(家康)へ進じられ、
現代は紀伊頼宣卿の元に、『本庄正宗』として所蔵されている旨を承っている。
しかし「寸長し」として、今は二尺五寸に尾磨り上げられたとも伝え聞いている。

管窺武鑑

「本庄正宗」の由来について



358 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/28(水) 21:39:09.52 ID:tRsnVVM2
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/36/15/22/src_36152261.jpg
src_36152261.jpg

現在、かつての本庄氏の本拠地、現在の村上市・村上市郷土資料館にこのときのものと言われる本庄兜が所蔵されている

>兜は斬り割られず、左の吹き返しが斬り割られ

とはあるものの画像をご覧の通り、額右上側に星(トゲトゲ)が崩れた部分が見て取れると思う
ここに刀を受けたらしい

なお画像内解説文の上州八幡銘は、現在の群馬県高崎市八幡(やわた)町の職人ではないかとみられる
上州職人による上州兜と呼ばれる逸品は、上杉、武田共に愛用されている


金沢市の加賀本多博物館にも本庄兜と呼ばれる派手目の当世兜が伝来する
これは本庄長房が本多政重のもとに一時仕えた折に置いて行ったのではないかとも推測されている

359 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/28(水) 21:46:14.65 ID:tRsnVVM2
おっと、甲冑用語としては上州兜っていうか上州鉢でしたね

直江兼続の愛の兜もこの上州八幡の上州鉢で、現存する銘入り上州八幡は三つしかありません



360 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/29(木) 18:32:42.26 ID:vKpBEX+E
勢力圏内だった順番に上杉、武田、北条で職人に発注してたってことですかね?

大名家他に伝来して現存するっていうと上杉家以外はどういう残り方してんのか、研究者の方々に聞いてみたいところ。

五段三段と工夫して、不敗の地をふまえ、必勝の旗を掲げる。

2021年07月27日 17:10

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/27(火) 15:44:16.93 ID:IgnKSJfC
天正十五年の本庄繁長による庄内の尾鐺攻めの時の事について、本庄は夏目舎人助に物語された。

「尾鐺において攻め合いの際、最上方である上山田がこちらに内通し、堅く申し合わせたが、
必ずしもこれを頼りにしなかった。戦国の最中では、こういった軍略は敵味方ともにあるものだ。
『我を欺くべし』と深く企む心根は、不明の智では知り難い。世間の約束などは、手のひらを翻すような
ものであり、思い定めた志でさえ変わることもあるのだから、上山田が内通を悔いて取りやめる可能性も
ありえる。しかしそういった事を疑っていては、出勢することも合戦することも出来なくなってしまう。

こういう所をよく思案し、予定通り上山田が裏切れば、勝利は手中にしたようなものであるが、
万一これが、上山田が越後勢を討つための詭計であったならば、これこれの武略を以て変を打ち、
それに勝つための備えを定め、五段三段と工夫して、不敗の地をふまえ、必勝の旗を掲げる。
これこどが誠に、危うからざる戦法である。」

この事を夏目舎人助は訓戒されたのだと、後に私(著者・夏目軍八定房)に伝えたのである。

管窺武鑑



庄内騒乱

2015年07月27日 17:51

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/27(月) 17:16:15.25 ID:YljOYMaG
庄内騒乱

天正年間の事、人民に過役や重税を掛け「義氏繁昌士民陣労」「悪屋形」と言われた大宝寺義氏が由利の支配を目指す秋田愛季と義氏排除の目的で合致した最上義光の結託と策略により、家臣の前森蔵人の謀叛によって倒れた

義氏は領民だけに留まらず、家臣たちからも疎まれ自害といった形で消されたが、その後を義氏の実弟の丸岡義高(大宝寺義興)が継いだ

しかし先に大宝寺義氏を倒し庄内の治権を手中にしようとしていた前森蔵人は酒田の地を押さえ東禅寺義長を名乗り、対抗勢力である義興を排除するために山形の最上義光に後援を頼んだ

一方義興は義長を倒すには力不足を感じ、越後村上の本庄繁長の子・千勝丸(大宝寺義勝)を養子に迎え、ここに庄内を二分する争いが起きた

「大泉叢話」

庄内の国人たちも東禅寺派と大宝寺派と分かれたが、「山向こうの山形の風下に立つのは嫌だ」「上杉の傀儡に好き勝手をされるのは好まない」「郷土は地元の人間が治めるべきだ」といった様々な思惑が
この後も禍根を引きずる原因となった




東根城下の戦い

2015年07月20日 13:15

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 03:00:03.78 ID:8TeZX/ko
東根城下の戦い

天正16(1588)年、地安(千安ちあん)十五里ヶ原で東禅寺・最上連合軍を敗った本庄繁長は庄内一帯を攻略し、余勢を勝って最上川を遡り、一気に最上義光の本城である山形を突こうとした

繁長には旧大宝寺領の和田源蔵、田川飛騨、鮎川宮内に近隣の余目源次郎等も加わり、数千もの兵が山形から北へわずか十里ほどの東根城まで到達した

東根城は沼沢と谷地の中の高台に築かれた浮城で、ここには東根小次郎といった者が兵200と詰めていた

戦いは数に勝る本庄軍の優勢の内に運んだが、東根勢は寡兵で城を支え、窪地に伏せた兵を巧みに展開し、散兵(ゲリラ戦)で本庄軍を防いだ

本庄軍は味方の数を頼み勢いで東根城を則(乗っ取ろ)うとしたが、その時山形の最上義光が東根へと援軍に出した鮭延秀綱率いる遊撃隊と、林崎や長瀞の国人たちの軍が突如として本庄軍の背後や側面から繁長の本陣を突いた

不意を突かれた本庄軍に、今度は正面から東根小次郎勢が残兵を率いて総攻撃に出た

この戦いで繁長自身はなんとか場を切り抜けたものの、
嫡子本庄勝重(本庄勝繁)が最上方の田村助左衛門の槍に突かれ落命し
繁長の侍大将三井某も戸部三郎左衛門に首級を取られ
余目源次郎も東根勢に討たれた

本庄軍は馬や兵糧の多くを戦場に遺したまま潰走した

後に繁長は「敵(最上勢)を侮ったために敗れずに済むいくさで多くのものを失った」とこの戦いを一生の不覚と恥じたという

「続群書類従」「奥羽永慶軍記」等





82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 11:58:15.34 ID:5656JZgd
武芸の師範を殺されたから殺す。中国物っぽいなw

本庄正宗

2015年02月08日 17:22

378 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/02/08(日) 11:34:17.29 ID:h0J+mNG9
本庄越前守繁長は、越後の勇将であった。
後に上杉景勝より、上杉十郎憲景の所領を与えられmなた、出羽の庄内で大寶寺義興と戦い、二男千勝丸に庄内を与えた。

この本庄が出羽の千安表にて最上義光と合戦した時、最上軍は敗北したが、最上義光の侍大将であった東漸寺右馬頭が、
これを口惜しく思い取って返し、首一つを引っさげて越後の兵に紛れ、この繁長をめがけて

「只今、敵の大将を討ち取って候!実検に入れ奉らん!」

そう言って馬に鐙を合わせて駆け寄り、手に持つ正宗の刀でその兜を打った!
しかしそれは明珍の兜であったので、筋が四つ切り削られたところで刃が止まった。

そこで繁長は右馬頭を斬って落とし、その首に彼の持っていた正宗の刀を添えて景勝に提出した。
後で刀は繁長に返し与えられたが、後に故あって徳川家康に献上された。

現在、『本庄正宗』と呼ばれる刀がこれである。
(常山紀談)

本庄正宗についての逸話である。



379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/08(日) 11:54:50.59 ID:KZvxoRSN
ほこ×たて
どんなものでも斬る最強の刀、正宗VSどんな斬撃も防ぐ最強の兜、明珍

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/09(月) 02:19:55.55 ID:eQmXkAeB
正宗ってブランドだったんだね

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/09(月) 06:30:08.72 ID:sG1NLBPr
相州正宗はあんまり銘を入れないから実在を疑われていたけどね

五郎八姫って、まさか正宗の五郎入道が由来だったりして

「ねぎり」

2014年04月19日 18:00

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 20:30:52.70 ID:JnQduTPV
「ねぎり」

天正16(1588)年、最上義光の影響下にあった庄内に、本庄繁長と実子で大宝寺の家名を継いでいた義勝は
小国口から鬼坂峠を越えて庄内地方へ突如として侵攻を開始した。
上杉軍は庄内の東禅寺寄りの城館を次々と落とし尾浦へ進軍。
最上方の東禅寺義長は弟の東禅寺右馬頭(勝正)と十五里ヶ原で上杉軍を迎え撃った。
しかし数で劣る東禅寺軍は疲弊し、さらには東禅寺兄弟の政をけして良くは感じていなかった庄内の国人らが
上杉軍に旗色を変えて尾浦や大宝寺の街に付け火をし、放牧で逃走や裏切りが相次いだ。
これにより東禅寺義長は討死し、その報を聞いた勝正は偽首の計事により本庄繁長に一太刀浴びせたが
目的を達せず討取られた。

山形から月山を越えた辺りまで最上の援軍が来ていたが合戦には間に合わず
東禅寺勢と庄内在番中の最上方の軍監の草苅虎之助と氏家光棟らをはじめに兵2,500余人が討取られた。

敗残兵軍は朝日山城などで池田盛周・邦周親子らが抵抗を続けたが敗れ、庄内地方は上杉の支配下となった。

その後本庄に味方をした者は取り立てられ、最上や東禅寺に通じていた者らは悉く追われた。
続いて上杉の兵らにより執拗な残党討伐や親最上派狩が行われた。
翌年になっても「ねぎり(根切り・根絶やし)」は整然と続けられ、庄内から最上派は一掃されたと言う。

「庄内の昔話」




15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/18(金) 21:46:52.00 ID:Rjxo+iff
この時、本庄繁長に斬りかかった刀が東禅寺(本庄)正宗か

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/19(土) 02:33:11.29 ID:MNIlPhKx
話の片割れの繁長の明珍の兜は村上市の資料館にあるな。

私闘禁止令破りでも北条は罰として滅ぼされ、上杉はヒャッハー過ぎてラスボスもほっといたのか。

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/19(土) 06:06:14.88 ID:Qw9SnuT/
惣無事令なるものが存在したり、そいつが私闘禁止令だったというのは古い解釈じゃなかろうか
結局は豊臣政権に従ったらセーフで逆らったらNGなだけだし。

18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/19(土) 06:37:26.02 ID:t/WfMyGm
北条はどっちにしろ滅ぼす気満々だったんじゃないかね?

名刀「本庄正宗」由来

2009年09月19日 00:17

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 02:57:57 ID:dCsn+FGw
本庄正宗


天正16年(1588年)8月、出羽庄内の支配をめぐって、最上義光と、上杉景勝の援助の元
本庄繁長、武藤義勝の連合軍が戦った、十五里ヶ原の戦い

数に劣る最上軍はじりじりと追い詰められ、今やその利を失いつつあった。

最上の陣将、田川郡大浦の城主、東禅寺勝正は、その兄義長を討たれ、
さらに自軍の部隊長、草岡虎之介を、敵将本庄繁長に直々に討たれると言う
屈辱を味わった。

東禅寺勝正はかねてより勇義の士として知られており、この屈辱に報いんと、
兜首一つを掲げ、越後勢を装い、本庄の陣へと入り込んで大声で言う

「私は越後黒川の者である!今日の合戦で敵の旗頭を討ち取った!」

そしてその首を持って、実検のため本庄繁長の前へと出る。この時、叫んだ

「東禅寺右馬頭(勝正)の首を見よ!」

手に持った首を繁長に投げつけると、同時に日ごろより刺している正宗の刀で
抜き打ちにした!

彼の刀は本庄繁長の明珍の兜を頭から耳元まで切り裂いた!
が、繁長の体には届いていない。
勝正は組み討ちにせんとしたが、繁長も武勇を謳われた男である。
逆に勝正を取り押さえ、ついにその首を上げた。

繁長は東禅寺勝正の首を、このときの刀を添えて実検にかけたが、
後に刀は繁長に下げ渡される。

その後、この本庄繁長は豊臣政権より一揆扇動の罪を問われ、景勝の下から
牢人するのであるが、この時貧窮に陥り、あの東禅寺勝正の正宗を、本阿弥光悦に
取り持って貰い、金百枚で徳川家康に譲り渡した。

その後、この刀は紀伊徳川家へと伝わり、「本庄正宗」と呼ばれ、大いに珍重された
そうである。

出羽十五里ヶ原の戦い、名刀「本庄正宗」由来のお話。




578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 10:32:11 ID:8dX0U7Jo
>>576
今、新潟の村上で第二の天地人と題して本庄繁長展やってるんだよな
連休に行ってみたいけど遠い

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 10:38:46 ID:dCsn+FGw

>>578
そんなことやってるんだ!いいなあ。
関ヶ原の後徹底抗戦を掲げる直江に対し、和平を主張したのが本庄だけど、
大河のほうはどうなることやらw

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 16:57:16 ID:W2ON0xZ6
ああ、本庄正宗が流れるのは、繁長が流浪したからなのか・・
波乱万丈だなあ、彼も


本庄繁長の強運・いい話

2009年02月27日 00:30

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/26(木) 00:27:27 ID:OxOI4mKB
本庄一門筆頭の本庄房長という武将がいた
彼は出陣中に実弟の小川長資に反乱を起こされ城を乗っ取られてしまい怒りで悶死してしまう
城の状況を探りに来た本庄一門鮎川清長の家臣が道中で重傷を負った女性が倒れているのを見つけた
そして驚いた
全身に傷を負い虫の息のその女性こそ、本庄房長の妻だったからである
しかも臨月
慌てて連れ帰って手当し、一命を取り留めた房長の妻は7日後に男の子を産んだ
その子供こそ、本庄繁長である
生き残った本庄家臣や一門衆達は嫡流を守る為に城を乗っ取った小川長資が繁長の
後見となるのを認めた
争いを避け仇の下で耐えた
13年後
繁長は父房長の13回忌の法要の席で小川長資を自害に追い込み本庄嫡流として
一門筆頭に返り咲いた
その後本庄繁長は上杉家中にあって度々反旗を翻すも許されている

彼の強運は生まれ持ったものかもしれない




270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/26(木) 01:18:44 ID:sGX5aRd2
いい話と言うよりすさまじい話だな
いかにも戦国なお話だ

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/26(木) 01:29:27 ID:YO3//vYb
>>269
そのあとも、謙信に背いてみたり、庄内で暴れ回ってみたり、
いろいろやってるのに、畳の上で死んでるんだからすごい。
しかも、息子の充長は上杉家の中では、直江と並んで諸大夫に
なってるし・・・

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/26(木) 01:35:02 ID:csehL1OB
地方によって謀反の重みとかも全然違ったのかもね。
北陸や能登越中なんかは、裏切りがあっさり許されていて拍子抜けする。
九州の逸話を見た後だとなおさら。

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/26(木) 01:39:00 ID:ryHYLERD
>>269
地元の武将の話だ、ありがとう!

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/26(木) 02:38:37 ID:SCdptHdA
>269
>>271
御館の乱で早々に景勝を支持したんだったかな。
後の上杉家中で重く用いられたのはそういう理由もあったと思うが

関ヶ原後の平和な時代になんだかんだ適応できてしまったのが繁長の非凡さだよねえ
メチャメチャ乱世をエンジョイしているような人生で、最後は大往生ってあたり



279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/26(木) 09:22:37 ID:OxOI4mKB
>>270
ごめん
では後日談を足して良い話の流れに…なるかな?

実は鮎川清長も小川長資に荷担していた
本庄房長に援軍を出さないという消極的支援であったが領地の境界で房長と清長が
争っていたのは事実である
しかし一門という事で妻子を助けるのには異存がなかったのだろう
生まれたばかりの繁長と母親は本庄一門の家に送られた
後々、繁長が当主になって反旗を翻す度に鮎川氏は対抗する側について交戦
御館の乱迄はそれで良かった、繁長の相手は上杉宗家であったのだから
ところが御館の乱で清長の跡を継いだ鮎川盛長が繁長嫡男の顕長と共に景虎方に
付いてしまった為にお家の危機に
ところが繁長、息子顕長の助命と同時に鮎川盛長の助命も願い出た
揚北衆筆頭の自分に一度たりとも同調しなかった揚北衆の鮎川氏を、である
これが受け入れられ本庄顕長は廃嫡されたが助命、鮎川盛長も許された
鮎川氏は新発田の乱に際して血縁のある本庄、新発田に挟まれたが静観を決め込んだ
鮎川氏は会津、米沢転封にも従い家名を保っている



291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/26(木) 13:47:54 ID:WjCuFT4Z
>>279
揚北衆の結束力があるのか、仲が悪いのかようわからんね。
けど、一族敵味方に分かれて確実に血筋を残す……考えをお互い共有していたのかも。

戦国武将、国人領主たちのしたたかさを示すイイ話。かも

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/26(木) 15:53:55 ID:HvVKymfN
揚北衆ってすべて同門なんだっけか?結構ルーツ違ってたような気がした。
どれがどの系譜なのかさっぱりわからんが

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/26(木) 17:35:20 ID:vubZxo7x
>>297
えーと、本庄・鮎川・色部が秩父党で中条・黒川が三浦党、
新発田・竹俣・加地なんかが佐々木党。
同族同士でしょっちゅう喧嘩してるな。
敵味方に別れて家存続と言っても、
本庄繁長の乱の時とか真っ先に繁長は鮎川を攻撃しちゃったりしてるわけで。


349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/27(金) 15:05:48 ID:RMF3DsHg
>>279
繁長って意外にこいつ…って側面が結構あって侮れない