留守は要らない

2017年08月09日 15:35

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/09(水) 15:01:12.11 ID:Gqo3zfNg
関ヶ原の時、金吾(小早川秀秋)は松尾山を占拠したが、その占拠に向かう折、それまで陣を張っていた小屋に
澤角図書という者を残した。ところがこの澤角は後に残るのを迷惑として、秀秋に供奉することを望んだ。
そこで秀秋は、澤角に小屋を棄てて供をするよう命じた。

これに老臣たちは反対した。「御陣屋には留守が居なくてはならないものです。」
しかし秀秋は

「留守はいらぬ。何故なら東軍が必ず勝利するのだから留守を置くに及ばない。
万一西が勝てば、猶以って留守は要らない。そのまま差し置くべし。」

そう云ったという。

(士談)



137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/09(水) 15:48:56.97 ID:3ROO509T
関ヶ原開戦前に裏切りを決めてた説か
開戦時には大谷隊に掛かっていたって続くのかな?
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【ニュース】肝臓は大切にね!

2016年06月27日 17:34

775 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/27(月) 13:14:32.30 ID:/MqLJVh3
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160627-00050028-yomidr-soci
「小早川秀秋、関ヶ原の寝返り決断遅れは肝疾患のせい?」


肝臓は大切にね!



776 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/27(月) 13:35:48.54 ID:3JLjvA8Y
これなら関ヶ原後数年で死んだのも説明つくな

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 14:31:31.81 ID:KCWhgknx
というか医者の記録で酒飲みすぎで死んだって判明してなかったっけ

778 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/27(月) 15:45:50.91 ID:/MqLJVh3
三成の亡霊に悩まされたってのもあったよね。

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 18:16:22.03 ID:+qPXwI3K
>>775
今年の真田丸だと三成と大谷の霊が交互に襲いそうなんだがw

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 18:55:27.76 ID:TO7QrSDN
亡霊になって呪えるなら家康の方にいけばいいのに
そんなんだから関ヶ原で負けるんだ

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 19:58:33.34 ID:FwSunThd
亡霊=アル中の妄想だったか

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/28(火) 15:40:48.51 ID:uBSLhsAz
>>775
ドラマの秀秋役というと色白びょうたんてのが定番だったけどこれからは色黒になるのかな

たいめいけんのシェフとか?

小早川秀秋「この恩に必ず報いるでしょう。」

2016年01月01日 17:00

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 13:18:33.90 ID:v6oP3eQM
慶長3年4月4日、小早川秀秋は朝鮮より大阪に帰還した。
翌5日、伏見の城に参上した。秀秋に従った7人の軍奉行、並びに加藤嘉明も同行した。
伏見に在住していた大名が尽く参集し、秀秋の凱陣を賀した。
やがて太閤秀吉が現れ、対面のあと、太田一正が秀秋の朝鮮での合戦の模様を詳細に弁じた。これを聞いた秀吉は言った。

「いやいや、大将軍が自ら諸軍と戦功を争って軽々しく戦うなどけしからぬ!
ワシは秀秋を差し向けたことを、返す返すも後悔している!」

秀秋は聞くやいな、押し返し申し上げた
「世の常の御使であれば、幼弱の身でありますから、辞し申したでしょう。追討の御使なればこそ、仰せを承ったのです。
しかし今、人々が聞く所で、御後悔の旨を承ること口惜しい!
この秀秋に不覚のことがあったのなら、軍奉行の人々よ、いま御前において率直に申し上げ、
速やかに秀秋の首を召され、御憤を散じられるよう計らうように!」

しかし秀吉は何も言わず座を立って内に入り、石田三成が参って秀秋の家老である、
杉原下野守、山口玄蕃充に向かって言った
「上様の御気色宜しからず。先ず御屋敷に帰られるように。」
秀秋は怒り、三成の首を落とそうとするように、打刀を取って立った。

ここで、その間に徳川家康が入り秀秋を制した。そして彼の屋敷へと伴うと、そこに秀吉よりの
使者として尼の孝蔵主が訪れ秀吉の仰せを伝えた

『さても去りし頃、蔚山の戦いにおいてる軽々しき振る舞いをし、また先程申した事も
甚だ奇怪の至りであった。この上は至急筑前国を返却し、越前の地に移るように』
秀秋は激怒し
「やあ尼よ!この秀秋の身に国を奪われるほどの罪を負った覚えはない!この生命あらん限り、
筑前を返すつもりはない!よって速やかにこの首を刎ねるようにと太閤殿下に申せ!」

そう言って追い返した。しかし家康は帰ろうとする孝蔵主に密かに言い含めた
「秀秋殿は『仰せ謹んで承ります』と言ったと報告するように。」
「内府様…。この上は内府様の御計らいこそ頼りです。北政所様へも、そのように申します。」

孝蔵主が屋敷を出ると、家康は秀秋に向かって説得した
「今は兎にも角にも仰せに従うことこそ大切です。その間に北政所が嘆かれれば、太閤殿下もいつまでも心強くはいられません。」
しかし興奮している秀秋は
「ならば、私自ら三成の首を斬った後で内府の言うとおりにいたしましょう!」
そう言って聞こうとしない。家康も、今は強いて本人を説得すべきではないと思い、家老の
杉原、山口を密かに呼んで言った
「先ずは家人を少しだけ、越前に派遣するのだ。」

そこで彼らは外様の侍を少人数さし下した。そこで家康は、前田利家とともに秀秋について嘆願しようとしたが、利家はそれを断った。

それより家康は毎日秀吉の前に参上したが、何を話すということもなかった。
秀吉は気になり「どうしてそのように毎日参るのか?」と尋ねると、
「秀秋殿が国を移されること、痛ましく覚えて、その事について申し上げようと参っているのですが、
どのように申し上げれば聞いていただけるかわからず、このようにしております。」

そう答え、その後も毎日参上した。秀吉は再び最初のように尋ねると、家康もまた最初のように答えた。
これに、秀吉も遂に根負けし
「そこまで思われているのなら、秀秋のことは内府の計らいに任せよう。」

家康は大いに悦び、秀秋の元に出向き、杉原、山口を召して越前へ下した侍たちを呼び戻させた。
程なく6月2日に、家康は秀秋を伴って登城すると、秀吉はこれに対面し、饗宴の儀を開き、
また両名に多くの引き出物を下された。

秀秋はこの日、長崎伊豆守を徳川家に使いさせ、
『今回の御芳恩はいつまでも忘れません。この恩に必ず報いるでしょう。」
そのように伝えた。

(藩翰譜)



130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 16:18:26.54 ID:7z8qiSfe
見事な関ヶ原フラグ

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 16:28:24.10 ID:mjKAu8Ji
実際はフツーに越前に転封してるけどねぇ…
藩翰譜の頃にはあれこれ分からなくなってたんだろうな

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 17:26:27.04 ID:wII7VMDj
徳川家だったらサドの守あたりがやりそうな話
やはり内府様も三河者だなめんどくせー

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 20:36:43.22 ID:+Bnqog12
秀秋は朝鮮で実際には前線切り込みなんてしなかったそうだし、
三成下げ家康上げの為の逸話だわな

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 20:54:20.74 ID:21XobQQ6
でもこうやって裏で動いてると楽しいんだよなぁ、俺やってるぜ感が半端無い

金吾殿のお振る舞い

2015年12月29日 15:24

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/29(火) 13:35:23.32 ID:iXIovZrU
慶長3年正月4日、小早川秀秋は蔚山城の後巻にて真っ先に進み、秀秋自身の手で
騎馬武者13騎を斬って落とし、軍全体で一万三千二百三十八の首を取り、太閤秀吉に献じた。

この使者は同月24日伏見の城に到着した。太閤は合戦の様子を聞いて大変に機嫌を良くした。
ところがこの時、石田治部少輔三成が密かに申し上げた

「金吾殿のお振る舞い、誠に雄々しくも聞こえます。さりながら、既に上様の御代官として向かわれた
御身が、自ら釜山の城を出て深く敵の中に入り戦われたというのは、あまりに軽率に存じます。
敵がもしこの隙を伺って、釜山城を攻め取ってしまえば、本朝との通路は最早自由になりません。
今後は、かかる振る舞いは然るべかざる旨を仰せ下されるべきでしょう。」

これに太閤も尤もと思われ、秀秋の功を賞することはなかった。

(藩翰譜)



837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 10:04:54.66 ID:ReyZh93h
>>824
お付きの者の支援があったとはいえ、小早川秀秋も個人的武勇は
人並みにあったんだろうな
ゲームだと武勇が20ちょいぐらいしかない
個人的には、宇喜多秀家と小早川秀秋は、性格において格差があるけど
能力においては同じぐらいじゃないかと思っているのだが

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 17:12:10.72 ID:Y1JvnBG+
>>837
ノブヤボ覇王伝では戦闘66ぐらいで平均よりそこそこ上だったけどな
政治と采配が忍者武将並にズタボロだったけど

ただ秀秋は肥の能力査定が作品ごとに結構ブレてる印象がある
比較対象の秀家は群雄伝こそ過大だったけどそれ以降は、武勇がほんのり高めのほぼ平均値で固まってるのにだ

小早川秀秋には国替えの望みがあった

2015年10月22日 10:44

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 21:07:05.80 ID:0j+Esrwt
金吾(小早川)秀秋は、小早川隆景の養子となって跡を継いだことを、内心おもしろからず思っていて、
国替えの望みがあったのだが、豊臣秀吉がこれを察し、秀秋に

「石高が減っても国替えを望むか?」

と聞いた。これに金吾殿「勿論です!」

「ならば備前。備前に国替えしようか。」

そう内意の沙汰があることを金吾は聞いて、筑前から侍を数多呼び寄せた。
そんな時、秀吉は発病し、国替えのことも中断してしまった。

金吾は『御前(秀吉)の方では決定しているのに、石田三成が謀って事が不調になっているのだ!』
そう考え、三成に強く恨みを抱いた。

そんな時、徳川家康が金吾に異見した
「あなたが呼び寄せた家中の武士たちを、少々国元に戻されるべきです。」
しかし金吾は聞かなかった
「私の国替えのために呼び寄せた侍たちを、何の面目があって戻せるでしょうか!?」
これに家康
「ならば、私が申し聞かせる。」

そして直々に金吾の家来たちと対面し
「今回、金吾殿が各々を呼び寄せたのは、粗忽であったからではない。これこれの仔細があっての事なのだ。
しかし現在、太閤殿下は御病気中であり、そんな時期に大勢が詰めかけているのは、金吾殿の為にも
いかがかと考える。であるので、何れも国元に戻る方向で、相談してはくれないだろうか?」
そう仰せ聞かせた。

この事で、金吾は外聞まで宜しくなったとして、以後家康に一層傾斜し、三成に対しては
猶もって恨み深かった。
関ヶ原にて家康の味方となった時も、家康からの書状に対し男道(武士道)の儀について、
近年申合わせた通り少しも違いなく、よってこの合戦に家康は勝利したのだという。

(武功雑記)



853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 21:16:00.83 ID:zMeGdL5U
宇喜多が納得するとは思えないがな

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/22(木) 00:46:04.47 ID:OjVdeQG2
本物のアホだったのか?

小早川秀秋の出陣

2015年02月06日 18:40

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/06(金) 00:25:26.43 ID:ANvBtwVf
慶長2年(1597)5月21日、筑前の太守黄門秀秋公(小早川秀秋)、朝鮮への出陣のお目見えとして
伏見に登城した。40人余の大小名がそのお供をする中、これに豊臣秀吉は大変機嫌よく様々に申し付け、
秀秋は小袖300,帷子500,反物300,金銀、長光の太刀、備前兼光の御腰物、馬五匹を拝領した。
諸大名衆も尽く、小袖、帷子等の数々のもの、及び金銀を拝領した。

秀秋の御座船は、伏見城下の豊後橋より先陣へと進んだ。各大小名は豊後橋、京橋より船に乗り、
思い思いの馬印を船の正面に立て、母衣、指物、弓鉄砲で船を飾り、家々の紋のある幕を張り巡らせ、
一手ごとに下っていった。

出船の時、兵士たちの妻子は、これが今生の別れだと思い、貴きも賤しきも船の側まで送り出て、
夫の船に取り乗り、鎧の袖や草摺に取付き、「私も連れて行って!」と泣き叫んだ。
順次の出船であったので、彼女らは様々に教訓され、船中から降ろすと、船は急ぎ押し出していった。

彼女らは船を見送ると、はかなき身の上を嘆き、そのまま宇治川へ身を投げ死んだ者もあった。
伝え聞く古の、松浦佐用姫が出征する大伴狭手彦の乗った唐船の名残を慕い、波に袖を濡らし
涙に沈んだという話も、どうしてこれに勝るだろうか。
上古も今も、末代も、例少なき門送りであり、見る者の多くがこれに涙した。

折しもこの日は五月雨であった。空吹く風に誘われて、先頭の秀秋の船が摂津大阪に着いた頃、
諸船は淀山崎当たりを航海しており、後陣は未だ伏見を出ていなかった。
360余隻の船は、川水の波上に錦を晒したようであり、旌旗は日を覆っていた。

(朝鮮記)

朝鮮の役にて小早川秀秋の艦隊が、伏見より出陣した折の記録である。

金吾中納言の死

2014年01月19日 18:51

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/19(日) 11:44:47.59 ID:LrY1r3fK
慶長7年10月18日、備前美作両国の領主である金吾中納言(小早川秀秋)が死んだ。

この人は、常に大酒をしていた故であろうか、狂気の人のような状態になって、侍数人を
故なく成敗したため、この10月の上旬には改易が行われるべき矢先に、このような事となった。

このため時の人々は、秀秋は自害だったのではないかと、下々まで疑った。

(当代記)

小早川秀秋が死ぬ直前に、改易されるという噂があったらしい、という話である。




340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/19(日) 13:16:31.50 ID:3k3SFcgD
10月上旬過ぎてないか

宮川尚古による史料批判

2013年07月08日 19:51

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/08(月) 09:05:58.97 ID:LS+n4B6L
ある本によると、この日、石田・長束・大谷等が談合して、瀧川豊前・
矢田半右衛門に連判の誓書を持たせて、秀秋の陣所松尾山へと遣わし、
今日池尻口に於いて内府の先手を切り崩した経過を述べさせて、秀秋の
家老平岡石見守・稲葉佐渡守に忠義を勧めたと記されている。
その誓書に曰く

 一、秀頼公、十五歳に成られるまでは関白職を秀秋卿へ譲り渡すべき事。
 一、上方の御賄の為に播磨国一円を相渡すべく。もちろん筑前は前々の
   如くなるべき事。
 一、近江に於いて十万石宛、稲葉佐渡守、平岡石見守両人に、秀頼公から
   これを下されるべき事。
 一、当座の御音物の為に黄金三百枚づつ、稲葉・平岡にこれを下される
   べき事。
 右の条々、違変申すものに於いては(神文はこれを略す)
   九月十四日

                    安国寺 判
                    刑部少輔 判
                    治部少輔 判
                    大蔵大輔 判
                    摂津守 判
    秀秋卿

今これを吟味してみると、秀頼公十五歳までは秀秋卿に天下を譲るとある
べきなのに、関白職と書いているのは怪しい。

ただし石田・安国寺など天下を知る人は、その子孫まで関白であると心得て
このように書いたのであろうか、そうでなくては官職を知らない後世の偽書
であろう。

その上、瀧川豊前は阿野津の城番としてその頃には伊勢国に居たと聞く。
これでは矢田半右衛門とともにこの使者を勤められる筈がない。

それなのに古主である酒井讃岐守の選ばれレた始末記(關原始末記)にも、
この誓書が載せられ、矢田半右衛門が矢部善七と書かれている。

あれこれ疑わしいので本条を除いてここに記す。この書の実否を知る人が
居れば聞いてみたいものだ。

(關原軍記大成)

宮川尚古による >>16 に対する史料批判である


関連
慶長五年九月十四日、小早川秀秋への書状


慶長五年九月十四日、小早川秀秋への書状

2013年07月06日 19:59

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/05(金) 21:34:25.50 ID:XNzMXJqJ
慶長5年9月14日、筑前中納言小早川秀秋は大軍を率いて松尾山に到着した。
脇坂中務、朽木河内守、小河左馬之助も秀秋に従って同所へと来た。

秀秋はかねてからの存念の通りに、徳川家康に反忠すべしとの内意であった。
そして脇坂、朽木、小河も、藤堂佐渡守(高虎)を頼み、東軍に味方する旨を
密かに申し出ていた。

石田三成達は秀秋の動向を心もとなく思ったのであろう、各々相談して、
滝川豊前、矢田半兵衛を使いとして、秀秋に四ヶ条の書状を遣わした。その内容は


一、秀頼公が15歳になられるまで、関白職、並びに天下は秀秋公へお譲り渡す事。
一、秀秋公が上方滞在のための賄いとして、播磨国をお渡しいたす事。
一、近江において、10万石を稲葉佐渡守に、同じく10万石を平岡石見守に(何れも秀秋重臣)
  秀頼公より下される事。
一、当座の音物として、金子300枚を稲葉に、同じく300枚を平岡に下される事。


この書状の最後に誓詞があり

『九月十四日   安国寺 形部少輔 治部少輔 大蔵 小西 秀家 』

と署名されていた。
(關原始末記)

小早川秀秋を何とか繋ぎとめようとした、三成たちが差し出した書状についての話である。





小早川秀秋が東軍に味方した始まりは

2013年06月20日 19:55

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/19(水) 23:52:42.26 ID:kailfFLM
小早川秀秋が東軍に味方した始まりは、黒田如水が近国の親しみがあったので
秀秋の家臣・平岡石見へ使者を遣わしてきた事にある。

如水は「秀秋卿がこの度内府へ御味方すれば、御家の為にしかるべしと存じます。
また、恩賞の御望みがあるならば御取り持ちいたします」と伝えてきた。

早速、平岡は稲葉内匠、杉原紀伊守へ内談した。何れも如水の申される通りが
しかるべしという事なので秀秋へ達したところ、彼もまた同意した。

そこで「仰せ下された通り内府公の御味方へ参ります。軍功があれば宇喜多の領国を
御恩賞に預かりたく思います」と返答して、内意を申し遣わしたのだという。

しかし、秀秋は大坂に上り、表向きは西軍に加わって大津城をも攻め落とした。
ところが、大老・奉行・その他諸将が大坂に集った時、この度の戦いが利運になって
恩賞がなされるであろう時の国々の割付などがあったのだが、秀秋は自分の名が欠けて
無かった事に怒り、いよいよ関東方となることを心中に思い極めたという。

けれども、秀秋はなお家臣の諌めをも問うたところ、一様に「東軍の御味方しかるべし」
と申し上げた。その時、秀秋は返答に及ばず座を立って入ったので、その内心は
関東方であるということを一同は察したということである。

さて、秀秋は関ヶ原へ出陣し松尾山に陣を据えた。その時に関東方の色を立て、
大谷吉継の備へ鉄砲を撃ちかけて切り崩し、徳川家康の御陣へ参り謁見した。

それから近江佐和山城を乗っ取るなどの功により、かねてより所望の意向にまかせて
備前国が与えられるという噂がなされ、これを聞いた秀秋は「宇喜多領すべてをとこそ
思ったのに、備前だけではきっと名島領と同じ知行高であろう!」と憤った。

これを聞いた家康は「若き人にはそういう思い違いもあるものだろう。
それならば美作を添えて両国を参らすとしよう」と、備前・美作を秀秋に与えた。

――『備前軍記』





金吾中納言殿は政所殿の姪

2013年01月31日 19:54

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/30(水) 23:58:22.92 ID:xoPSghuK
金吾中納言殿は政所殿の姪(ママ)である。政所殿の御寵愛によって太閤は養子となされた。
始めは微々たるものだったが、筑前一国を与えられたので筑前中納言殿という。

治部の乱までは二心もなく、伏見城を攻落した。伏見城は鳥居彦右衛門が守っていたのを
金吾殿が攻落した。その時、金吾殿は抜群の賞禄があるだろうと思っていたが、

治部にそのつもりがないと見て心替わりし、関ヶ原で東照宮に属して治部を攻め滅ぼし、
その忠によって備前美作を宇喜多殿のごとく遣わされた。

――『老人雑話』




359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/31(木) 11:47:30.71 ID:pCXFRDOj
祭姪稿思い出したw

清正の思いもよらない挨拶

2012年10月13日 20:03

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 00:46:11.93 ID:5yVzBdzJ

織田信雄が京で猿楽を催した時、小早川秀秋ら諸大名が見物に行った。
この時、秀秋は十四、五歳であったが秀吉の猶子だったためにその従士までが
その威に誇り「金吾の御出ましだ!」とすぐに戸口に入っていったところ、

側にいた加藤清正の家臣十人ばかりが「何が金吾だ」と過言した。
怒った秀秋の近習は棒を取って三人まで打ち叩いた。これがきっかけで喧嘩となり、
秀秋の帰宅後、両家の士が伏見より馳せ来たり、互いに武装して警固した。

秀秋の老臣は「打たれた三人は清正が成敗するでしょう。ならばこちらの者も切腹
させなければなりません。先延ばしにして自害でもされたらそれこそ恥辱ですぞ」
と具申した。

「清正が何と言おうと元々彼の無礼により起こったことだ。我が家来が死ぬ必要は
ないだろう。お前たちの心配には及ばない」

秀秋はそのように言ったが、老臣たちは清正のような剛勇の士ならば必ず大事に
なると恐れ慄いた。また、打擲した者もすでに沐浴して礼服を身に着け、清正の使者が
来れば、すぐに自決しようと覚悟して待っていた。

間もなく清正自身がやって来た。秀秋はきっと争論になると思っていたが、思いの外
清正は温和な態度で「今日の家人の失礼を只今承り、遅参致しました。御近習の人々が
それがしの家人の無礼をもって斬り殺すべきところを、怒りをなだめられて打擲程度に
留めて下さったことは喜悦に堪えません。それがしも彼らを成敗しようと思いましたが、
それでは御近習も閉門になってしまうのではと思い、本国に帰して閉門を申しつけました。
どうぞ御近習を罰するようなことはなさらないで下さい」と、秀秋に詫びた。

秀秋は清正の思いもよらない挨拶に心も打ち解けて会釈すると、清正も大いに喜び、
「三里の道のりを急いで参りましたので喉が渇きました。御酒を一盃頂けませんか」と
言うので酒が用意された。また、清正は「打擲した人々も呼んで下さい」と言って
その席に招き、酒を酌み興を催して帰っていった。

――『名将言行録』




902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 00:55:46.91 ID:M/tDoDaQ
このとき仲が悪くなっていたら蔚山に援軍が来なかった可能性あるのかな

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 01:25:27.23 ID:zTi6fMAs
>また、清正は「打擲した人々も呼んで下さい」と言ってその席に招き
下手人どもをその場に呼び出して成敗するはかりごとかと思った・・・
まあ、他家でしかも格上の郎党に手を出すわけないけどさ

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 03:30:03.04 ID:2nQbfbWV
織田兵と喧嘩してやっつけちゃった人たちがいるじゃないか
まあ同盟の関係だけれど

秀秋の御裁許

2012年07月21日 20:51

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 16:26:22.75 ID:ijSPW+5s
関ヶ原の緒戦、伏見城攻めの時のことである。

筑前中納言小早川秀秋の家臣・比奈津角助は、籠城衆の松平五左衛門を突き伏せた。ところが
後から来た同僚である田島勘右衛門はこの角助に向かってこう言い放った

「角助よ、その頸の半分は俺のものだ!そう心得よ!」

角助が松平五左衛門を討つのに田島の手は一切借りていない。当然ながら彼はこれに納得せず

「なんだと!?お主に一体何の骨折りがあってそのようなことを言うのか!?」

これに田島
「お主は敵と槍を合わせていたが、未だ互角のうちに俺が馳せ来たため、敵は気が飲まれて引き色となり、
お主は勢いを得て能く敵を討ち取った。そういう事だったのにこれをお主一人の高名とするというのは、
全く思いもよらぬことである!」

角助はこの言葉に強く反発したが
「ここでなんのかのの言い合っても仕方がない!ご主君の御裁許を仰ごう!」

そうして二人は小早川秀秋の前に出て、その経緯を述べた所、秀秋は

「この事、田島の言う所に理がある。これはいわゆる相打ち(二人、もしくはそれ以上で一人敵を打ち取ること)と
定めるべし!」

と、下知をした。
角助はこれに全く納得できなかったが、主命であるので拒否することも出来ず、仕方なく訴訟を止めたと言うことである
(関原軍記大成)




638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 17:46:03.60 ID:j4aRX38L
安心の金吾クオリティ…

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 18:26:57.28 ID:oWZljOMI
徳川の世では、松平氏を討ち取って加増されてたら
むしろ白い目で見られそうだ

姜ハン「看羊録」より、小早川秀秋評

2012年06月19日 20:58

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 21:58:38.95 ID:TOaqXHhj
東洋文庫版 姜ハン「看羊録」p143
大体、その性格が軽薄で、感情の起伏が激しく、その兄たちに及ばぬこと甚だ遠い。
舜首座(藤原惺窩)は、以前、金吾に書を教えたことがあったので、その人となりを非常に詳しく知っている、
ということである。

関が原以前の秀秋についての評だけど、もともとこれならよけいに陰口叩かれてたかも
しかし、後世秀秋がいろいろおとされるのは肖像画のせいもあるきがする
TERUくらい威厳のある肖像画なら評価が高くなった可能性が




975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 22:00:22.85 ID:BpDD4Ukp
>>974
ぽやっとした坊ちゃん坊ちゃんしたのじゃなくて、それなりに武将っぽい肖像画も有った気がするが

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 22:05:11.84 ID:QNxDRloj
評価のあたりは記録に残り難いから難しいところはあるけど
松野重元が同時代人から忠義者と高く評されたことや小早川家の重臣が再仕官に時間がかかってるあたり
後ろ指を差される雰囲気はあったんじゃない?

裏切りの仕方はともかく数少ない豊臣家の血族だし加増された先が義兄の秀家の領地だしなあ

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 22:06:25.59 ID:P7Y0aDgd
>>974
つまり藤原惺窩のコメントがないとわからない

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 22:12:17.11 ID:TOaqXHhj
藤原惺窩のコメントが一行目だと思ったんだが
まあ親友の長嘯子先生と比べればたいていの若者がその評価になりそうだ

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/18(月) 22:15:51.46 ID:TOaqXHhj
訂正2行目

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/19(火) 02:19:56.46 ID:TGDRJFLC
姜も惺窩もコテコテの朱子学者だから同時代の評価とは言っても時代を先取り
というかむしろ後世の朱子学視点の評価の元になった可能性もあるよね
兄に劣るっちゅうても長兄の長嘯子は武将としては絵に描いたような無能やんけ、とか
惺窩の知ってる秀秋はそもそも何歳の時だ?とかそのままには受け取りにくい

小早川秀秋の死に方いろいろ

2011年12月20日 22:00

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 20:32:56.40 ID:Gda8cXNd
小早川秀秋の死に方いろいろ


慶長7年(1602年)10月18日、小早川秀秋は俄に死去した。これはまともな死に方ではなかったというが、
何分秘密にされた事ゆえ、真相は定かではない。

①一説によると鷹狩の時、秀秋はひとりの百姓を捕らえて斬ろうとした。
 その百姓が嘆き悲しむ様を秀秋は嘲笑いながら、刀で百姓を少しずつ傷つけて弄んだが、
  怒った百姓が秀秋の陰嚢を強かに蹴り上げると、秀秋はその場で即死したという。

②また一説には、秀秋が訴訟をしていた山伏を呼び出し、理非曲直の取り調べもせず、山伏の両手を斬り落とした。
  すると怒った山伏が怒って飛びかかり、秀秋を蹴り倒して踏み殺したという。

③また一説には児小姓を手討ちにしようとしたら返り討ちにあって死亡したという。

④また一説には殺生禁断の場所である西大寺観音院の本堂の前を流れる吉井川で網を投げて鯉や鮒を捕え、
 その帰途に橋の上で落馬して死亡したという。


しかし世間に向けてはこれらの話は深く秘し、疱瘡にかかって死んだと披露したので、現在も
その横死の真相を知るものはいない。



by備前軍記




438 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 20:44:36.29 ID:c6PKmucU
貧弱すぎるだろ秀秋…

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 20:49:11.74 ID:Ngp8jBlQ
豊臣大名に猛威をふるった梅毒じゃないカナと思う

440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 20:49:26.02 ID:NUum7zJB
どれも悪事が原因ということと恥ずかしい死に方ということでは共通してるな

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 20:51:46.21 ID:0SHk6VCK
キンタマ潰れたら俺もショック死するかも

それぐらい痛い

442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/19(月) 22:17:15.65 ID:NKd+QRgr
情報操作がされたんじゃないか?
こんなやつなら死んでも仕方ないと思わせるように

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 06:08:02.68 ID:DAv3KDZ/
>>442
しかし、情報操作が必要な程の人物か?と

まあ『備前』軍記なら、宇喜多を追い出して乗り込んできた余所者の悪口は書くだろうけど。


444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 06:36:55.94 ID:s9Llzz2x
>>443
まあ、曲がりなりにも豊臣一族ですし
実は戦術眼に優れた名将で、
的確なタイミングで裏切ったことにより
劣勢の東軍を勝利に導いた可能性も微粒子レベルで存在…

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 08:15:46.34 ID:pQHqxH5u
文の秀次
武の秀秋か

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 09:43:47.33 ID:ilbyahka
>>443
宇喜多の里としては幾らボロクソに書いても書き足りないだろうなぁ、とは思う

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 10:23:48.93 ID:xB1EW6/t
秀秋さんとの比較だったらそこは若狭少将じゃね?

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 11:03:12.47 ID:kdDGFZby
小早川家 「死因は疱瘡だよ」

世間 「ほう、そうかい」

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 11:41:24.96 ID:RieF1dzo
世界で舌打ちがこだましてる

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 14:03:11.21 ID:zMryaMfU
>>448
つまらなすぎて太閤殿下なら改易にしてるレベルw

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 15:03:38.84 ID:LkWh5gGX
三歳なら無言で首はねるレベル

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 15:52:36.72 ID:gK8ZNiza
神君なら変な名前付けるレベル

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 17:05:13.79 ID:9cf3m7ae
武蔵なら無言で首切る

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 18:27:57.16 ID:0Intz7WC
>>431
かっこいいな 

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 19:07:21.90 ID:pw1q1aLK
直家「まあまあ皆の衆448殿の勇気を労おうではないか、ささ448殿、この茶を飲むが良いぞ」

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/20(火) 20:37:13.21 ID:VodDJUFk
>>448は包装して全国放送だな
つかおまいら暴走しすぎ

『大阪物語』より、小早川寝返り

2011年09月21日 22:03

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/20(火) 23:06:18.00 ID:cZ6UPRIg
江戸初期に成立したとされる軍記物『大阪物語』より、小早川秀秋の寝返りの模様を見てみよう。

『さて、左衛門太夫(福島正則)は関ヶ原東の入り口、南の山の腰に人数を置いて、物見の家臣二人に
「敵の人数の立てようを見て参れ」
と命じ、る。帰還した彼らは

「先ず南の端、西の川端に小川左馬(祐忠の事か?)、それより北に続いて脇坂中書(安治)、その北に
大谷刑部(吉継)、北東に小西摂津守(行長)、少し山を隔てて戸田武蔵(勝成)、また北東に続いて
治部少輔(石田三成)、島津兄弟」

そのように諸将が並み居る状況を報告した。

それから、先ず左衛門太夫(福島正則)、井伊兵部(直政)、本多中書(忠勝)などは自分たちの軍勢を後に置いて、
若党だけを2,3人ずつ召し連れ、金吾中納言(小早川秀秋)の陣所近くまで向かい、そこから使いを立てた。
使いは秀秋に問う

「別心の約束はどうなったのでしょうか?いささか遅くなっています。
ただし、もし別心の気持ちが翻ったのであるなら、どうぞ我々に向かって討ちかかってきて下さい。」

これに秀秋
「御使がそう思うのも尤もである。しかし今朝から降った雨で霧が深く、旗印の見分けすらつかない状況だったため
このように遅くなってしまったのだ。」

と、別心を翻さない証拠として、福島らの使いに自分の使いを添えて遣わした。
脇坂や小川もこのことを聞きつけると、東軍への降参を申し出た。

その使いが帰り着くより前に、小早川隊は早々と大谷吉継の陣に討ち掛かった。』


『問鉄砲』などの逸話が出来る以前の、小早川寝返りの模様である。




33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/21(水) 11:25:28.37 ID:BaI79mr5
この話を見る限り、優柔不断というよりはむしろ冷静に状況を計算してるって感じだな秀秋
いつ頃からダメ武将としてディスられるようになったんだろう

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/21(水) 12:55:09.76 ID:a8I3xrnc
朝鮮出兵で分捕って来られた姜が「看羊録」で
秀秋のことを性格が軽薄で、感情の起伏が激しく、兄たちに及ばない
とか書いているそうだ
(東洋文庫で読んだけど、手元にないからコピペ)
藤原惺窩経由の批評だろうから、豊臣の血縁にはバイアス入っているかもしれないが

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/21(水) 13:12:17.51 ID:FbT+FuP3
朝鮮役の頃の秀秋って15,6だしなあ。関ヶ原ですら18歳だし。

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/21(水) 13:41:10.75 ID:I3LYrDQT
>>36
勝俊兄さんが意外と高評価なんだっけ?

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/21(水) 13:55:50.70 ID:5uUWxJkp
木下長嘯子と惺窩さんの絡みは、司馬遼太郎の「関ヶ原」にもでてくるくらいだからな~

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 08:25:40.34 ID:PhWsnRKn
>>32
元養子の分際で冷静に徳川に寝返るとは人間のクズにもほどがある!

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 09:18:58.66 ID:Eveqjyjp
>>51
養子に来るような奴を無闇に信じる奴こそ頭がおかしい。
母方の里では米糠を二升買う金が有れば養子になんか行くな
って教えがある。

まして、元ってなら、どんだけ怨んでるやらw

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 09:42:32.98 ID:XjjlX9T0
寝返るも何も元々徳川寄りだろ秀秋は


54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 09:55:43.23 ID:pGhSMI5I
西軍に一旦寝返ったわけですね^^

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 10:18:45.61 ID:Eveqjyjp
豊臣方の方も中納言の官位で釣ったって噂もあったんじゃね?

まあ、詰んじゃった人生でも最後まで頑張った秀秋君を悪く言う気にはならん

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 11:16:01.55 ID:o3mG3O20
関白だろ

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 11:53:18.25 ID:0YrM0OA5
金吾中納言殿も関ヶ原後数年で病死してるからな
小早川家も跡継ぎ無くて断絶だしせつないね

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 12:17:24.41 ID:PhWsnRKn
養父を裏切った当然の報いである

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 12:30:07.42 ID:amyDCCB+
長生きしていれば関ヶ原での寝返りの悪名も風化したろうけど、
早死にしたせいで悪評がそのまま確定してしまった印象を受ける

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 12:35:49.53 ID:4UTk1Rmq
西軍は豊臣方じゃなくて石田方(名目上は毛利方)だし
どっちに付こうが勝手

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 13:28:21.14 ID:A/PC3w+r
金吾はあの肖像画がまたイメージダウンの原因のような気が
でもあれ、北政所がずっと大事に手元に置いていた肖像画だったときいて、また印象変わったけど

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 14:13:48.16 ID:4E8OMKHb
滅亡したお家は、その最後の当主や、その時一番権力あった人が批難されるのはどこでも一緒だなあ

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 18:52:17.76 ID:SeXg4Wz7
>>61
肖像画のイメージダウンといえば島津家久(悪)の肖像画もヒドいな
全く歴史知らない人でも性格をいいあてられる完成度の高さ
逆に宇喜多秀家の肖像画はかなりイメージアップに貢献してる

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 18:57:29.35 ID:l+K94J4D
肖像画といえば、一昨日のなんでも鑑定団で某戦国武将の肖像画が出てた
おもいっきりムスッとした顔だなと思ってたら案の定ngmsだった
http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/database/onair/03.html

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 19:02:29.33 ID:4E8OMKHb
やめろよー 今、見てるんだからー

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 19:03:44.95 ID:l+K94J4D
すまん、放送遅れること考慮してなかった

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 19:51:46.29 ID:4E8OMKHb
いいんだ 月岡芳年はいいよね
http://www.muian.com/muian04/04yositosi0401.htm
これとか

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 21:36:38.27 ID:yPQSH/T0
>>71
家康カッコイイな

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 21:45:07.80 ID:4E8OMKHb
今きづいたけど、月岡芳年関係なかった どんだけズレてるんだうちは
>>72
別にきらびやかな衣装も、ポーズ取ってるわけでもないけどカッコイイよね家康
八幡太郎義家の後ろ姿なのにカッコイイとか

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/22(木) 21:49:26.39 ID:Fbtukd8+
>>71
なんで謙信はこうなんだろう?w
http://www.muian.com/muian04/04yoshitoshi04025.jpg

小早川秀秋、三成との対決を望む

2011年04月03日 00:00

448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/01(金) 22:43:13.86 ID:z9UgwfLL
小早川秀秋は総大将として出陣した慶長の役で、自ら敵陣に突撃し、明兵の首を13も取るほどの戦果を挙げた。
その後秀秋は意気揚々と帰国したが、秀吉に褒められるどころか、逆にその軽率さを叱責されてしまった。

「これは三成が殿下に讒言したに違いない。」

そう考えた秀秋は
「どうか三成をこの場に呼んでください。御前で対決します。」

と訴えた。さらに秀吉が立ち去った後も
「三成はどこだ!」

と喚き続け、三成が現れると刀に手を掛け、駆け寄ったほどだった。
その場にいた徳川家康になだめられ、ようやく矛を収めた。
その後、筑前、筑後の52万石から越前北の庄15万石への領地削減を言い渡された時には

「こうなったらいっそ殺せ!」
と再び怒り狂ったが、やはり家康のとりなしで処分を免れた。この一件で秀秋は家康に恩を感じる様に
なったと言う。

以上、秀秋の関が原での裏切りにつながるお話。




449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 00:18:21.72 ID:9BBai6tf
>>448
この前から三成は上杉の会津入りの助っ人に行ってるんだよな
冤罪もいいところだと思うが三成のせいだと
考えてしまう何かがあったんだろうか

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 00:31:48.84 ID:GAN6Gvu/
>>448
金吾「こうなったらいっそ殺せ!」

直家
「呼んだ?」

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 00:33:49.70 ID:GAN6Gvu/
弾正
「金吾中納言殿、お茶でもいかがかな。落ち着きますぞ。
次郎三郎殿もいかがかな?」

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 00:35:19.49 ID:RAq38X+4
>>450
秀家「むしろ秀秋はわたしに殺させてください」

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/02(土) 00:41:17.55 ID:QLbJX2TA
直家や弾正がこんな扱いやすそうな奴を安々殺すとも思えん

かっこ悪い死に方と言えば

2009年09月14日 00:15

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 10:09:54 ID:iirgn29n
>>329
かっこ悪い死に方と言えばなんと言っても
「小早川秀秋」
百姓を手打ちにしようとして逆襲され、股間を蹴り潰されて死亡。
まあ秀秋の死因は実際の所謎が多いのだが、
例え捏造だとしてもこんな逸話が残されるなんて秀秋位のものだろう。




338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 11:03:13 ID:x5UdnZOb
>>337
これは嫌な死に方w

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 12:01:29 ID:GWn/j0Z5
秀秋が死んだのと同日に秀秋の兄弟二人も死んだって話もあるんだっけ
豊臣の親戚の中でも近さと地位なら断然この人が一位だろうし
家康の暗殺説がある中では一番それっぽいな

それにしても家康は暗殺説だけで何人殺したことにされるんだ
地元の徳島新聞が徳島の伝説を新聞連載してるんだけどそこでも
「阿波の初代藩主蜂須賀至鎮はその器量を恐れた家康の命令で
妻(家康のひ孫)に毒殺されたのだ!」とか書かれてた
亡くなったの元和六年なのに…せめて秀忠と言ってほしかったと
秀忠好きの自分は思うわけで…

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 12:04:16 ID:D3rIz3S8
まあ実際には家康は、暗殺と言う手段を使ったことが無いんだけどね。

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 14:24:20 ID:TTM3pYNn
小早川は隆景と秀秋で評価の落差が激しいよな
隆景は織豊時代有数の名将、秀秋は稀代の裏切り者・・・

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 14:35:42 ID:r8RFQzBD
隆景は本家のために秀秋もらって犠牲になったんだからしょうがない。


348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 14:46:02 ID:bG9HaH5I
>>346
本当は毛利家に養子にいく予定だったんだよな、確か

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/13(日) 14:51:26 ID:TTM3pYNn
秀秋的には、大毛利の跡取りならまだしも、小早川への養子はかなり不満だっただろうな
隆景に望まれて養子に迎えられたわけじゃないのは本人も十分分かっていただろうし・・・



「毛利秀元記・巻之五」より、小早川秀秋の寝返り

2009年08月30日 00:32

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/29(土) 11:31:43 ID:dRqFptAZ
「毛利秀元記・巻之五」より、小早川秀秋の寝返り


「金吾殿、山中の城に居給ひけるが、心替り分明の聞こえありしに依って、手籠もうすべしと
評定ありしかども、夫れも何かと延引なり。
杉の権頭所より、金吾殿心替り必定の由、堅く三箇度安国寺へ申越ししたり。
此権頭は、隆景より金吾殿へ、付け給ひたる者なりし故、斯く申越したり。
安国寺、此由を治少へも長大蔵へも申されにしに、両人乍ら、うかうかとして居られしに、
案の如く金吾殿打って出でられしぞ。」

(訳)
『小早川秀秋は松尾山の城に陣を置いたが、心変わりは明らかであるから捕らえるべきとの
評定があったのに、これも何かと先送りになった。

杉の権頭の所から、秀秋の心変わりは間違いないと言う事を、厳重に三度まで
安国寺恵瓊に申し越された。

この権頭は、小早川隆景が秀秋に付けた者であったので、このように(安国寺に)申し越して
きたのだ。

安国寺恵瓊はこの事を石田三成にも長束正家にも伝えたのだが、両人ともに
うかうかと何の対処もしなかったので、案の定秀秋は(西軍に向かって)討って出たのだ。』


これを見ると、松尾山に陣を張った時点で既に、秀秋が東軍に寝返ったと言うのは、広く認識
されていたようです。にもかかわらず、西軍首脳はこれへの対処を先延ばしにし、結局それが
命取りになった。という認識が、少なくとも毛利秀元周辺にはあったらしい。というお話。





776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/29(土) 12:37:20 ID:XNdyn0GP
これが小早川隆景隊だったら…と思うところだがそれだとそもそも毛利の動向変わるよなw


778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/29(土) 14:15:11 ID:m4Akfrd6
>>775
と、いうわりには、毛利には小早川の裏切りに備えた形跡が無いんだよな

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/29(土) 17:50:42 ID:796DllEL
>>778
吉川広家「計画通り」



関ヶ原、伏見城攻防戦の小早川軍・いい話

2009年04月12日 00:05

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/10(金) 23:02:47 ID:k4fGND0y
関ヶ原、伏見城攻防戦の時の事。

小早川秀秋の旗本、大島源次と言うものが、前線に派遣され、この最前線から城の堀端までの
距離を尋ねた。
前線部隊の村上三右衛門は「計って見た訳ではないが、だいたい十二間(約22メートル)くらいでしょう」
と答える。
これに大島、「あなた方の見識を疑うわけではありませんが、ここは正確を期すため、実際に測りに
出ようと思います。」

しかし前線と城の間には多くの兵が集まり、すさまじい銃撃戦を繰り広げていた。
とても距離を測るために人を出せるような状況ではない。
それを説明し、大島には帰るように言ったが、それでも大島は

「もし殿に距離を尋ねられて、『測ってきませんでした』と答えなければならないとは、
そんな恥ずかしく不快な事はありません。是非にも私を出してください!」

これに村上「我ら先手の前を、旗本からの軍使を出すなどとは、これはあるまじき事です!
いらぬことをするべきではない!」

それでも大島は諦めない。彼はこの時20歳。若い彼は、この役目を強く思いつめていたのだろう。
そこでついに村上も、「わかりました。測りましょう。」と、かぶとを脱いだ。
「ただし、私の言う通りにやってください。」

村上は竹を一間に切ると、それを陣地の端から堀端に向けて縦に置いた。その先端に今度は
大島が穴を開け印をつける。銃弾飛び交う中、彼らは急がず、攻撃の合間を見ながら、
それを繰り返した。
そしてついに、十一間半という距離を測りきった。

この、村上の最初の目算の正確さと、あくまで正しい距離を測ろうとした大島の勇気ある行動は、
戦陣において大きな話題となったそうである。

そんな、戦場のベテランと新人のお話。




643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/11(土) 00:12:38 ID:J4aA+U1z
>>635
なにげにカッコいい話だな

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/11(土) 08:34:13 ID:jbP0P+Hs
>>635
もっと安全に測ること出来なかったんだろうか?

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/11(土) 08:42:55 ID:lXSLm3MD
三角関数を教えてあげたい。

647 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/04/11(土) 13:14:46 ID:6qRJfVoY
当時すでに三角関数的なものはあったんじゃない?
山の高さとかそれで推定してたような…