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御行儀悪敷御座候

2022年12月04日 16:30

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/04(日) 12:11:43.76 ID:GZ91WaCM
金吾中納言(小早川秀秋)は、小早川隆景の養子となったが、隆景が相果てた後、
御行儀悪敷御座候との秀吉公の御意があり、筑前国が召し上げられ、越前に三十万石にて
遣わされた。その後さらに、丹波へ国替えをされた。越前には青木紀伊守(一矩)が入った。

またこの時、金吾殿の重臣であった山口玄蕃(宗永)は引き離され、秀吉公の直臣として
加賀大聖寺城へ遣わした。

川角太閤記

秀秋は越前北之庄に減知転封の時点でまだ十六歳と考えると、御行儀悪敷御座候という理由は
ちょっとかわいそうな気も



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河田八助とその祖父・河田蔵人

2022年06月20日 18:14

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/20(月) 17:41:13.03 ID:BoVD11zO
朝野雑載」より小早川家の家臣・河田八助とその祖父・河田蔵人

筑前中納言秀秋(小早川秀秋)の郎従・河田八助はきわめて強力の者であり、関ヶ原合戦でも功名があった。
八助の祖父・河田蔵人は細川兵部少輔(細川勝久?)に仕えたが、永正(1504-1521)の頃、手負いの古野猪が京に出てきて老若男女を駆け殺し、負傷者が数知れぬほど出た。
足利義稙公が細川に退治せよとの命が下ったため、主君の命を受けた河田蔵人は組み伏せて猪に縄をかけて繋留した。
猪の背には苔むした小松が三本生えていて、矢も25本も立っていたそうだ。
八助も祖父に劣らぬ大力であり、小早川隆景に仕えていた。
あるとき狩場で隆景は八助を呼び、祖父同様に野猪を生捕りにせよと命じた。
八助はその日大きな猪を生捕りにした。この時十八歳であった。
関ヶ原合戦の時は松尾山の麓で大母衣をかけて高名をあらわした。
小早川家が絶えた後は池田氏に仕えたが、大坂の陣の時には鉄の大楯を軽々と持ち城へ突き寄せて、天下に名をあらわしたという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12218.html
河田八助と鉄の盾についてはこちらでも触れられていた

ついでに「朝野雑載」では源範頼の末子の茂平(範頼が殺された当時三歳)が土肥に保護されて小早川になったと書いている



「今の鉄砲の音、心許なし。急いで見てくるべし。」

2021年01月13日 17:50

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/13(水) 13:24:58.78 ID:2u+d5loY
関ヶ原の合戦で、筑前中納言(小早川秀秋)殿は少々高き所に陣を取られていた。
麓の方から怪しい鉄砲の音が聞こえたため、その日の使番である二宮與三右衛門を召して
「今の鉄砲の音、心許なし。急いで見てくるべし。」
と仰せに成り、「畏まって候」と馬を引かせ、徒立って麓に下りると、麓よりも武者が一騎上ってきて、
二宮に行き向かい

「貴殿は今の鉄砲の音について、麓の有様を見よとの御使いであろうか。私はその事についての、
中納言様への使いである。
今の鉄砲は薬が湿ったため、既に打ち捨てており、少しもお気遣いする事では有りません。
御心安く思し召されるように、との事ですので、もはや御出に及ぶべからず。
この旨を仰せ上げられるように。」

そう言った。二宮は聞いて、「其の方も使い、私も使いである。あれに平岡石見守(頼勝)が居られる。
石見守に仰せ入れて頂きたい。」と言った。

相手は、再三に及んで無用であると言って留まっていると、二宮は「互いに使いであれば、それぞれ埒が
明くのが良いではないか。」と、愛想無く言い捨てると立ち別れ、麓の様子を見聞きすると、あの使いが
言っていた事に変えて、彼は少し心得が有ったので、戦場の難しき体をよくよく見届けて立ち帰り、
この旨を詳しく申し上げると、中納言殿は聞き召され、「よくこそ見て参った。」と感じ入られ、
褒美などを給わった。

その時々の状況によるべきではあるが、使いたる者の心得はかくあるべきであると、
坂崎半兵衛は語った。
またこの二宮與三右衛門は、若い時には二宮千太郎と云った者である。彼は大坂の陣の時は、
天王寺口において御宿越前守と一所で討ち死にしたと、坂崎は又語った。

備前老人物語

このお話もしかして、問鉄砲の原型ですかね。



【雑談】そいえば、秀秋は

2018年10月22日 17:30

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:50:35.07 ID:mVyr8C1X
>>379
そいえば、秀秋は関ヶ原後に半ば乱心していたらしく、生きているときにも多くの重臣が去っているらしい。

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 19:05:03.92 ID:POkXOWYA
秀秋乱心はデマじゃないの?医者のこいつ酒飲み過ぎって診断記録が見つかってたような。

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 23:25:14.73 ID:W4mQ0TL+
乱心して酒ばっか飲んでたんじゃないの?

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 06:22:52.50 ID:0Ezlp1gF
アル中で素行が乱れてたから乱心扱いされたのかも

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 20:08:15.54 ID:l6TmlEzq
アル中も広義なら乱心だろうな
当時アルコール依存症なんて知識がなかったらなおさら

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 23:01:31.74 ID:fQNGXS9/
>>386
知識はともかく、酒の飲みすぎで頭がおかしくなったって例はいくらでもあっただろうに

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 23:06:18.12 ID:bOTpVV6R
他家の侍に日本号プレゼントしちゃう人とかな

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 23:33:42.13 ID:1TmMPqVb
酒毒って表現はあったね
どこで見たか忘れたけど酒毒に当たって死亡=急性アル中って意味だったはず

390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/22(月) 00:25:09.34 ID:kx6ciQNW
十代前半
北政所「夜な夜な仲間集めて酒盛りするのやめなさい。飲みすぎっ死にますよ」
十代後半
曲直瀬玄朔「黄疸出てます。みぞおちにしこり有ります。めちゃ喉乾くのは肝臓死んでるからです。辞めないと死にますよ!」
二十歳
家臣「酒毒で死にました。」

華麗なる酒人生。十代で肝硬変末期

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/22(月) 06:49:39.98 ID:yKUCirf5
毛利元就も兄が酒に溺れて死んだかなんかで酒には気をつけろって言ってなかったっけか

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/22(月) 15:16:12.39 ID:fLV0Og3E
>>390
これじゃあまりにみっともないから大谷の祟りのほうがマシだわな。

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/22(月) 15:38:06.47 ID:5Fi/S/5C
毎日少しずつ毒盛っとけば酒のせいになるね

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 21:05:08.05 ID:UEIwRKoO
近衛信尹「昔から飲みまくってたぞ」

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 21:20:29.91 ID:Wnd/eiZN
まぁ娯楽の少ない時代アルコールの刺激に溺れるのはわかる
阿片とか戦国時代の武将間で広まってたら、とんでもないことなってただろう

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 21:25:24.50 ID:UbRF9N6P
大麻とかは喫われてなかったのかな

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/23(火) 22:41:47.14 ID:9c9gis6s
自生の麻があるのに何故か日本では喫煙は山仕事をしてる人の一部で知られてた程度で一般には広まらなかったらしい

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 00:48:41.90 ID:HJTZraBO
この時代は食中毒で死ぬ人もいるな
毛利隆元や森忠政

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 05:32:53.71 ID:DKmMm+br
そりゃ、誰かに飲まされたお茶で死ぬのもいるしなんでもあり。

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 08:35:51.88 ID:DRwuk6d3
如水「鮭が病に悪いなんて知らなかったんや!俺は悪くヌェー」

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 02:29:16.12 ID:GA4N5e0v
>>398
それを考えると秀吉に季節はずれのデカイ桃を献上しようとしたテルは
やっぱ軽率ではあるな

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/25(木) 10:11:44.67 ID:vu86f/YA
品種改良した桃の炎上商法か

最早五十万石を領知する者は

2017年12月13日 19:35

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 14:06:45.28 ID:rieLt3zD
最早五十万石を領知する者は


ある時、権現様(家康)の御前で本多上野介(正純)が
松平武蔵守(池田利隆)の噂を申し上げると(家康は)
「武蔵守は筑前中納言(小早川秀秋)によく似ているな」
と上意があったので、上野介は
(関ヶ原で、秀秋が約束通り御味方したことを言っているのだろう)
と考えて
「上意の通り、随分律儀な人ですからね」
と申し上げた。

「いや左様ではない、最早五十万石を領知する者は
 親兄弟にも目をかけることがよいことなのだ。
 律儀だからといって済むことではない」
との上意だったという。


――『岩淵夜話』 



506 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/12/13(水) 18:37:50.95 ID:oD7YlylU
>>505
そう言えば小早川秀秋は西軍について改易された兄を客分として養ってたんだっけか
何故か2人同日に亡くなったらしいが

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/13(水) 20:14:50.18 ID:FMASO97P
>>506
今川氏輝「身内が同日に死ぬとか恐いわ」

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/14(木) 09:17:40.71 ID:gc0M6H9p
これは世話をしろってことなの?油断するなってことなの?

こうすれば地下人共が立ち上がり

2017年12月12日 18:09

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/11(月) 20:28:20.92 ID:I55SSOBF
豊臣(小早川)秀秋が関ヶ原の後、家老の歴々を成敗ありし後に、何某とかいう大身の者、
家を立ち退くことがあった。
白昼に、妻子を引き連れ弓鉄砲で前後を固め立ち退いた事に、秀秋は以ての外に怒った

「白昼に城下を、あのような体で引き払わせるとは武家の恥辱である!急ぎ討ち取れ!」

しかしこれを、家老の松野主馬が諌めた

「彼らのような僅かな人数が立ち退くのを成敗するのは、何より易きことです。
しかし殿は前々に、誰々を御成敗されましたが、これについて世では然るべからざる事だと
取り沙汰しています。であるのに又彼らを害せば、人々からの批判は止まらなくなるでしょう。
ただ、黙って捨て置くべきです。

ですが、どうしても害するべきであると言われるのなら、私は人数を持っていませんが、
申し付けて討ち取ります。」

秀秋は不思議に思った
「汝は彼らを打ち取る人数を持たぬのに、どうするというのだ?」

松野は申し上げた
「これより町人在々にこう触れ回します。

『落人あり。討ち取って衣装をはぎ道具を取れ。それらは全て下される。』

こうすれば地下人共が立ち上がり、即座に討ち取ることでしょう。
どうしても彼を討ち取ると決心されるのであれば、御手を下されずともこの謀にて討ち取れます。
結果として同じことですから、小さな違いは気になさらないべきです。」

これを聞いて秀秋も心和らぎ
「私の落ち度にならないということなら、かまわない。」
と許可した、結果松野の考えた通りとなった。

(士談)



406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/11(月) 20:41:04.06 ID:0s4pVCV4
松野主馬って関が原の時に「裏切りなど恥である」って戦線離脱してそのまま立ち退いたのだと思ってた

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/11(月) 20:53:27.12 ID:R8XTGHbK
>>405
許可するんかい!

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/11(月) 22:24:45.14 ID:e+ZOOM01
>>405
金吾の小物っぷりっぽい逸話

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/12(火) 13:38:13.00 ID:2OqDdFQV
何?、元家臣が追い剥ぎや盗賊にあって殺害されただと!
きっと宇喜多の残党だよね、大義名分得たし討伐すっか

特に動揺はなかったという

2017年11月25日 15:27

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 14:01:56.38 ID:JplSg2Nq
関ヶ原で東軍が勝利した後、近江佐和山城を筑前中納言小早川秀秋、小川(祐忠)、朽木(元綱)、
脇坂(安治)などに、城の請取が命ぜられた。
諸手面々が取り囲んで攻めたため、佐和山城では持ちこたえる手段無く、各々自害して天守に
焼草を入れ置き、発火のための鉄砲の火薬2,3石ほどを入れた。

この時、櫓の防衛に当たっていた手の足軽大将の元にあった火薬に、どうしたわけか火がうつり、
櫓ごと爆発した。
爆発の衝撃と黒煙のため、そのあたりでは目がくらみ敵味方の見分けもつかぬ状態となり、
攻め手の中の、とくに若い者たちは不覚にも崩れ、その不名誉は後に人の口に上ったという。

この時に懲りた故か、その後天守に火が付き、火薬のため爆発したが、特に動揺はなかったという。

(士談)



452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 15:05:58.50 ID:fRRJNyEY
鳥羽伏見の戦いで大坂城がほとんどもぬけの殻になった後
民衆が略奪しまくってたら城が爆発炎上した、て話を思い出した
某司馬遼太郎作品では薩長軍はそれを見越して後で悠々と城入りした
てことになってたけど、本当だとしたらこういう話を知ってたんだろうか

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/25(土) 15:11:15.31 ID:b86Bif5A
幕末までは日本人もちゃんと略奪とかしてたんだな

留守は要らない

2017年08月09日 15:35

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/09(水) 15:01:12.11 ID:Gqo3zfNg
関ヶ原の時、金吾(小早川秀秋)は松尾山を占拠したが、その占拠に向かう折、それまで陣を張っていた小屋に
澤角図書という者を残した。ところがこの澤角は後に残るのを迷惑として、秀秋に供奉することを望んだ。
そこで秀秋は、澤角に小屋を棄てて供をするよう命じた。

これに老臣たちは反対した。「御陣屋には留守が居なくてはならないものです。」
しかし秀秋は

「留守はいらぬ。何故なら東軍が必ず勝利するのだから留守を置くに及ばない。
万一西が勝てば、猶以って留守は要らない。そのまま差し置くべし。」

そう云ったという。

(士談)



137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/09(水) 15:48:56.97 ID:3ROO509T
関ヶ原開戦前に裏切りを決めてた説か
開戦時には大谷隊に掛かっていたって続くのかな?

【ニュース】肝臓は大切にね!

2016年06月27日 17:34

775 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/27(月) 13:14:32.30 ID:/MqLJVh3
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160627-00050028-yomidr-soci
「小早川秀秋、関ヶ原の寝返り決断遅れは肝疾患のせい?」


肝臓は大切にね!



776 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/27(月) 13:35:48.54 ID:3JLjvA8Y
これなら関ヶ原後数年で死んだのも説明つくな

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 14:31:31.81 ID:KCWhgknx
というか医者の記録で酒飲みすぎで死んだって判明してなかったっけ

778 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/27(月) 15:45:50.91 ID:/MqLJVh3
三成の亡霊に悩まされたってのもあったよね。

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 18:16:22.03 ID:+qPXwI3K
>>775
今年の真田丸だと三成と大谷の霊が交互に襲いそうなんだがw

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 18:55:27.76 ID:TO7QrSDN
亡霊になって呪えるなら家康の方にいけばいいのに
そんなんだから関ヶ原で負けるんだ

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/27(月) 19:58:33.34 ID:FwSunThd
亡霊=アル中の妄想だったか

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/28(火) 15:40:48.51 ID:uBSLhsAz
>>775
ドラマの秀秋役というと色白びょうたんてのが定番だったけどこれからは色黒になるのかな

たいめいけんのシェフとか?

小早川秀秋「この恩に必ず報いるでしょう。」

2016年01月01日 17:00

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 13:18:33.90 ID:v6oP3eQM
慶長3年4月4日、小早川秀秋は朝鮮より大阪に帰還した。
翌5日、伏見の城に参上した。秀秋に従った7人の軍奉行、並びに加藤嘉明も同行した。
伏見に在住していた大名が尽く参集し、秀秋の凱陣を賀した。
やがて太閤秀吉が現れ、対面のあと、太田一正が秀秋の朝鮮での合戦の模様を詳細に弁じた。これを聞いた秀吉は言った。

「いやいや、大将軍が自ら諸軍と戦功を争って軽々しく戦うなどけしからぬ!
ワシは秀秋を差し向けたことを、返す返すも後悔している!」

秀秋は聞くやいな、押し返し申し上げた
「世の常の御使であれば、幼弱の身でありますから、辞し申したでしょう。追討の御使なればこそ、仰せを承ったのです。
しかし今、人々が聞く所で、御後悔の旨を承ること口惜しい!
この秀秋に不覚のことがあったのなら、軍奉行の人々よ、いま御前において率直に申し上げ、
速やかに秀秋の首を召され、御憤を散じられるよう計らうように!」

しかし秀吉は何も言わず座を立って内に入り、石田三成が参って秀秋の家老である、
杉原下野守、山口玄蕃充に向かって言った
「上様の御気色宜しからず。先ず御屋敷に帰られるように。」
秀秋は怒り、三成の首を落とそうとするように、打刀を取って立った。

ここで、その間に徳川家康が入り秀秋を制した。そして彼の屋敷へと伴うと、そこに秀吉よりの
使者として尼の孝蔵主が訪れ秀吉の仰せを伝えた

『さても去りし頃、蔚山の戦いにおいてる軽々しき振る舞いをし、また先程申した事も
甚だ奇怪の至りであった。この上は至急筑前国を返却し、越前の地に移るように』
秀秋は激怒し
「やあ尼よ!この秀秋の身に国を奪われるほどの罪を負った覚えはない!この生命あらん限り、
筑前を返すつもりはない!よって速やかにこの首を刎ねるようにと太閤殿下に申せ!」

そう言って追い返した。しかし家康は帰ろうとする孝蔵主に密かに言い含めた
「秀秋殿は『仰せ謹んで承ります』と言ったと報告するように。」
「内府様…。この上は内府様の御計らいこそ頼りです。北政所様へも、そのように申します。」

孝蔵主が屋敷を出ると、家康は秀秋に向かって説得した
「今は兎にも角にも仰せに従うことこそ大切です。その間に北政所が嘆かれれば、太閤殿下もいつまでも心強くはいられません。」
しかし興奮している秀秋は
「ならば、私自ら三成の首を斬った後で内府の言うとおりにいたしましょう!」
そう言って聞こうとしない。家康も、今は強いて本人を説得すべきではないと思い、家老の
杉原、山口を密かに呼んで言った
「先ずは家人を少しだけ、越前に派遣するのだ。」

そこで彼らは外様の侍を少人数さし下した。そこで家康は、前田利家とともに秀秋について嘆願しようとしたが、利家はそれを断った。

それより家康は毎日秀吉の前に参上したが、何を話すということもなかった。
秀吉は気になり「どうしてそのように毎日参るのか?」と尋ねると、
「秀秋殿が国を移されること、痛ましく覚えて、その事について申し上げようと参っているのですが、
どのように申し上げれば聞いていただけるかわからず、このようにしております。」

そう答え、その後も毎日参上した。秀吉は再び最初のように尋ねると、家康もまた最初のように答えた。
これに、秀吉も遂に根負けし
「そこまで思われているのなら、秀秋のことは内府の計らいに任せよう。」

家康は大いに悦び、秀秋の元に出向き、杉原、山口を召して越前へ下した侍たちを呼び戻させた。
程なく6月2日に、家康は秀秋を伴って登城すると、秀吉はこれに対面し、饗宴の儀を開き、
また両名に多くの引き出物を下された。

秀秋はこの日、長崎伊豆守を徳川家に使いさせ、
『今回の御芳恩はいつまでも忘れません。この恩に必ず報いるでしょう。」
そのように伝えた。

(藩翰譜)



130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 16:18:26.54 ID:7z8qiSfe
見事な関ヶ原フラグ

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 16:28:24.10 ID:mjKAu8Ji
実際はフツーに越前に転封してるけどねぇ…
藩翰譜の頃にはあれこれ分からなくなってたんだろうな

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 17:26:27.04 ID:wII7VMDj
徳川家だったらサドの守あたりがやりそうな話
やはり内府様も三河者だなめんどくせー

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 20:36:43.22 ID:+Bnqog12
秀秋は朝鮮で実際には前線切り込みなんてしなかったそうだし、
三成下げ家康上げの為の逸話だわな

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/01(金) 20:54:20.74 ID:21XobQQ6
でもこうやって裏で動いてると楽しいんだよなぁ、俺やってるぜ感が半端無い

金吾殿のお振る舞い

2015年12月29日 15:24

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/29(火) 13:35:23.32 ID:iXIovZrU
慶長3年正月4日、小早川秀秋は蔚山城の後巻にて真っ先に進み、秀秋自身の手で
騎馬武者13騎を斬って落とし、軍全体で一万三千二百三十八の首を取り、太閤秀吉に献じた。

この使者は同月24日伏見の城に到着した。太閤は合戦の様子を聞いて大変に機嫌を良くした。
ところがこの時、石田治部少輔三成が密かに申し上げた

「金吾殿のお振る舞い、誠に雄々しくも聞こえます。さりながら、既に上様の御代官として向かわれた
御身が、自ら釜山の城を出て深く敵の中に入り戦われたというのは、あまりに軽率に存じます。
敵がもしこの隙を伺って、釜山城を攻め取ってしまえば、本朝との通路は最早自由になりません。
今後は、かかる振る舞いは然るべかざる旨を仰せ下されるべきでしょう。」

これに太閤も尤もと思われ、秀秋の功を賞することはなかった。

(藩翰譜)



837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 10:04:54.66 ID:ReyZh93h
>>824
お付きの者の支援があったとはいえ、小早川秀秋も個人的武勇は
人並みにあったんだろうな
ゲームだと武勇が20ちょいぐらいしかない
個人的には、宇喜多秀家と小早川秀秋は、性格において格差があるけど
能力においては同じぐらいじゃないかと思っているのだが

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/31(木) 17:12:10.72 ID:Y1JvnBG+
>>837
ノブヤボ覇王伝では戦闘66ぐらいで平均よりそこそこ上だったけどな
政治と采配が忍者武将並にズタボロだったけど

ただ秀秋は肥の能力査定が作品ごとに結構ブレてる印象がある
比較対象の秀家は群雄伝こそ過大だったけどそれ以降は、武勇がほんのり高めのほぼ平均値で固まってるのにだ

小早川秀秋には国替えの望みがあった

2015年10月22日 10:44

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 21:07:05.80 ID:0j+Esrwt
金吾(小早川)秀秋は、小早川隆景の養子となって跡を継いだことを、内心おもしろからず思っていて、
国替えの望みがあったのだが、豊臣秀吉がこれを察し、秀秋に

「石高が減っても国替えを望むか?」

と聞いた。これに金吾殿「勿論です!」

「ならば備前。備前に国替えしようか。」

そう内意の沙汰があることを金吾は聞いて、筑前から侍を数多呼び寄せた。
そんな時、秀吉は発病し、国替えのことも中断してしまった。

金吾は『御前(秀吉)の方では決定しているのに、石田三成が謀って事が不調になっているのだ!』
そう考え、三成に強く恨みを抱いた。

そんな時、徳川家康が金吾に異見した
「あなたが呼び寄せた家中の武士たちを、少々国元に戻されるべきです。」
しかし金吾は聞かなかった
「私の国替えのために呼び寄せた侍たちを、何の面目があって戻せるでしょうか!?」
これに家康
「ならば、私が申し聞かせる。」

そして直々に金吾の家来たちと対面し
「今回、金吾殿が各々を呼び寄せたのは、粗忽であったからではない。これこれの仔細があっての事なのだ。
しかし現在、太閤殿下は御病気中であり、そんな時期に大勢が詰めかけているのは、金吾殿の為にも
いかがかと考える。であるので、何れも国元に戻る方向で、相談してはくれないだろうか?」
そう仰せ聞かせた。

この事で、金吾は外聞まで宜しくなったとして、以後家康に一層傾斜し、三成に対しては
猶もって恨み深かった。
関ヶ原にて家康の味方となった時も、家康からの書状に対し男道(武士道)の儀について、
近年申合わせた通り少しも違いなく、よってこの合戦に家康は勝利したのだという。

(武功雑記)



853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/21(水) 21:16:00.83 ID:zMeGdL5U
宇喜多が納得するとは思えないがな

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/22(木) 00:46:04.47 ID:OjVdeQG2
本物のアホだったのか?

小早川秀秋の出陣

2015年02月06日 18:40

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/06(金) 00:25:26.43 ID:ANvBtwVf
慶長2年(1597)5月21日、筑前の太守黄門秀秋公(小早川秀秋)、朝鮮への出陣のお目見えとして
伏見に登城した。40人余の大小名がそのお供をする中、これに豊臣秀吉は大変機嫌よく様々に申し付け、
秀秋は小袖300,帷子500,反物300,金銀、長光の太刀、備前兼光の御腰物、馬五匹を拝領した。
諸大名衆も尽く、小袖、帷子等の数々のもの、及び金銀を拝領した。

秀秋の御座船は、伏見城下の豊後橋より先陣へと進んだ。各大小名は豊後橋、京橋より船に乗り、
思い思いの馬印を船の正面に立て、母衣、指物、弓鉄砲で船を飾り、家々の紋のある幕を張り巡らせ、
一手ごとに下っていった。

出船の時、兵士たちの妻子は、これが今生の別れだと思い、貴きも賤しきも船の側まで送り出て、
夫の船に取り乗り、鎧の袖や草摺に取付き、「私も連れて行って!」と泣き叫んだ。
順次の出船であったので、彼女らは様々に教訓され、船中から降ろすと、船は急ぎ押し出していった。

彼女らは船を見送ると、はかなき身の上を嘆き、そのまま宇治川へ身を投げ死んだ者もあった。
伝え聞く古の、松浦佐用姫が出征する大伴狭手彦の乗った唐船の名残を慕い、波に袖を濡らし
涙に沈んだという話も、どうしてこれに勝るだろうか。
上古も今も、末代も、例少なき門送りであり、見る者の多くがこれに涙した。

折しもこの日は五月雨であった。空吹く風に誘われて、先頭の秀秋の船が摂津大阪に着いた頃、
諸船は淀山崎当たりを航海しており、後陣は未だ伏見を出ていなかった。
360余隻の船は、川水の波上に錦を晒したようであり、旌旗は日を覆っていた。

(朝鮮記)

朝鮮の役にて小早川秀秋の艦隊が、伏見より出陣した折の記録である。

金吾中納言の死

2014年01月19日 18:51

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/19(日) 11:44:47.59 ID:LrY1r3fK
慶長7年10月18日、備前美作両国の領主である金吾中納言(小早川秀秋)が死んだ。

この人は、常に大酒をしていた故であろうか、狂気の人のような状態になって、侍数人を
故なく成敗したため、この10月の上旬には改易が行われるべき矢先に、このような事となった。

このため時の人々は、秀秋は自害だったのではないかと、下々まで疑った。

(当代記)

小早川秀秋が死ぬ直前に、改易されるという噂があったらしい、という話である。




340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/19(日) 13:16:31.50 ID:3k3SFcgD
10月上旬過ぎてないか

宮川尚古による史料批判

2013年07月08日 19:51

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/08(月) 09:05:58.97 ID:LS+n4B6L
ある本によると、この日、石田・長束・大谷等が談合して、瀧川豊前・
矢田半右衛門に連判の誓書を持たせて、秀秋の陣所松尾山へと遣わし、
今日池尻口に於いて内府の先手を切り崩した経過を述べさせて、秀秋の
家老平岡石見守・稲葉佐渡守に忠義を勧めたと記されている。
その誓書に曰く

 一、秀頼公、十五歳に成られるまでは関白職を秀秋卿へ譲り渡すべき事。
 一、上方の御賄の為に播磨国一円を相渡すべく。もちろん筑前は前々の
   如くなるべき事。
 一、近江に於いて十万石宛、稲葉佐渡守、平岡石見守両人に、秀頼公から
   これを下されるべき事。
 一、当座の御音物の為に黄金三百枚づつ、稲葉・平岡にこれを下される
   べき事。
 右の条々、違変申すものに於いては(神文はこれを略す)
   九月十四日

                    安国寺 判
                    刑部少輔 判
                    治部少輔 判
                    大蔵大輔 判
                    摂津守 判
    秀秋卿

今これを吟味してみると、秀頼公十五歳までは秀秋卿に天下を譲るとある
べきなのに、関白職と書いているのは怪しい。

ただし石田・安国寺など天下を知る人は、その子孫まで関白であると心得て
このように書いたのであろうか、そうでなくては官職を知らない後世の偽書
であろう。

その上、瀧川豊前は阿野津の城番としてその頃には伊勢国に居たと聞く。
これでは矢田半右衛門とともにこの使者を勤められる筈がない。

それなのに古主である酒井讃岐守の選ばれレた始末記(關原始末記)にも、
この誓書が載せられ、矢田半右衛門が矢部善七と書かれている。

あれこれ疑わしいので本条を除いてここに記す。この書の実否を知る人が
居れば聞いてみたいものだ。

(關原軍記大成)

宮川尚古による >>16 に対する史料批判である


関連
慶長五年九月十四日、小早川秀秋への書状


慶長五年九月十四日、小早川秀秋への書状

2013年07月06日 19:59

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/05(金) 21:34:25.50 ID:XNzMXJqJ
慶長5年9月14日、筑前中納言小早川秀秋は大軍を率いて松尾山に到着した。
脇坂中務、朽木河内守、小河左馬之助も秀秋に従って同所へと来た。

秀秋はかねてからの存念の通りに、徳川家康に反忠すべしとの内意であった。
そして脇坂、朽木、小河も、藤堂佐渡守(高虎)を頼み、東軍に味方する旨を
密かに申し出ていた。

石田三成達は秀秋の動向を心もとなく思ったのであろう、各々相談して、
滝川豊前、矢田半兵衛を使いとして、秀秋に四ヶ条の書状を遣わした。その内容は


一、秀頼公が15歳になられるまで、関白職、並びに天下は秀秋公へお譲り渡す事。
一、秀秋公が上方滞在のための賄いとして、播磨国をお渡しいたす事。
一、近江において、10万石を稲葉佐渡守に、同じく10万石を平岡石見守に(何れも秀秋重臣)
  秀頼公より下される事。
一、当座の音物として、金子300枚を稲葉に、同じく300枚を平岡に下される事。


この書状の最後に誓詞があり

『九月十四日   安国寺 形部少輔 治部少輔 大蔵 小西 秀家 』

と署名されていた。
(關原始末記)

小早川秀秋を何とか繋ぎとめようとした、三成たちが差し出した書状についての話である。





小早川秀秋が東軍に味方した始まりは

2013年06月20日 19:55

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/19(水) 23:52:42.26 ID:kailfFLM
小早川秀秋が東軍に味方した始まりは、黒田如水が近国の親しみがあったので
秀秋の家臣・平岡石見へ使者を遣わしてきた事にある。

如水は「秀秋卿がこの度内府へ御味方すれば、御家の為にしかるべしと存じます。
また、恩賞の御望みがあるならば御取り持ちいたします」と伝えてきた。

早速、平岡は稲葉内匠、杉原紀伊守へ内談した。何れも如水の申される通りが
しかるべしという事なので秀秋へ達したところ、彼もまた同意した。

そこで「仰せ下された通り内府公の御味方へ参ります。軍功があれば宇喜多の領国を
御恩賞に預かりたく思います」と返答して、内意を申し遣わしたのだという。

しかし、秀秋は大坂に上り、表向きは西軍に加わって大津城をも攻め落とした。
ところが、大老・奉行・その他諸将が大坂に集った時、この度の戦いが利運になって
恩賞がなされるであろう時の国々の割付などがあったのだが、秀秋は自分の名が欠けて
無かった事に怒り、いよいよ関東方となることを心中に思い極めたという。

けれども、秀秋はなお家臣の諌めをも問うたところ、一様に「東軍の御味方しかるべし」
と申し上げた。その時、秀秋は返答に及ばず座を立って入ったので、その内心は
関東方であるということを一同は察したということである。

さて、秀秋は関ヶ原へ出陣し松尾山に陣を据えた。その時に関東方の色を立て、
大谷吉継の備へ鉄砲を撃ちかけて切り崩し、徳川家康の御陣へ参り謁見した。

それから近江佐和山城を乗っ取るなどの功により、かねてより所望の意向にまかせて
備前国が与えられるという噂がなされ、これを聞いた秀秋は「宇喜多領すべてをとこそ
思ったのに、備前だけではきっと名島領と同じ知行高であろう!」と憤った。

これを聞いた家康は「若き人にはそういう思い違いもあるものだろう。
それならば美作を添えて両国を参らすとしよう」と、備前・美作を秀秋に与えた。

――『備前軍記』





金吾中納言殿は政所殿の姪

2013年01月31日 19:54

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/30(水) 23:58:22.92 ID:xoPSghuK
金吾中納言殿は政所殿の姪(ママ)である。政所殿の御寵愛によって太閤は養子となされた。
始めは微々たるものだったが、筑前一国を与えられたので筑前中納言殿という。

治部の乱までは二心もなく、伏見城を攻落した。伏見城は鳥居彦右衛門が守っていたのを
金吾殿が攻落した。その時、金吾殿は抜群の賞禄があるだろうと思っていたが、

治部にそのつもりがないと見て心替わりし、関ヶ原で東照宮に属して治部を攻め滅ぼし、
その忠によって備前美作を宇喜多殿のごとく遣わされた。

――『老人雑話』




359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/31(木) 11:47:30.71 ID:pCXFRDOj
祭姪稿思い出したw

清正の思いもよらない挨拶

2012年10月13日 20:03

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 00:46:11.93 ID:5yVzBdzJ

織田信雄が京で猿楽を催した時、小早川秀秋ら諸大名が見物に行った。
この時、秀秋は十四、五歳であったが秀吉の猶子だったためにその従士までが
その威に誇り「金吾の御出ましだ!」とすぐに戸口に入っていったところ、

側にいた加藤清正の家臣十人ばかりが「何が金吾だ」と過言した。
怒った秀秋の近習は棒を取って三人まで打ち叩いた。これがきっかけで喧嘩となり、
秀秋の帰宅後、両家の士が伏見より馳せ来たり、互いに武装して警固した。

秀秋の老臣は「打たれた三人は清正が成敗するでしょう。ならばこちらの者も切腹
させなければなりません。先延ばしにして自害でもされたらそれこそ恥辱ですぞ」
と具申した。

「清正が何と言おうと元々彼の無礼により起こったことだ。我が家来が死ぬ必要は
ないだろう。お前たちの心配には及ばない」

秀秋はそのように言ったが、老臣たちは清正のような剛勇の士ならば必ず大事に
なると恐れ慄いた。また、打擲した者もすでに沐浴して礼服を身に着け、清正の使者が
来れば、すぐに自決しようと覚悟して待っていた。

間もなく清正自身がやって来た。秀秋はきっと争論になると思っていたが、思いの外
清正は温和な態度で「今日の家人の失礼を只今承り、遅参致しました。御近習の人々が
それがしの家人の無礼をもって斬り殺すべきところを、怒りをなだめられて打擲程度に
留めて下さったことは喜悦に堪えません。それがしも彼らを成敗しようと思いましたが、
それでは御近習も閉門になってしまうのではと思い、本国に帰して閉門を申しつけました。
どうぞ御近習を罰するようなことはなさらないで下さい」と、秀秋に詫びた。

秀秋は清正の思いもよらない挨拶に心も打ち解けて会釈すると、清正も大いに喜び、
「三里の道のりを急いで参りましたので喉が渇きました。御酒を一盃頂けませんか」と
言うので酒が用意された。また、清正は「打擲した人々も呼んで下さい」と言って
その席に招き、酒を酌み興を催して帰っていった。

――『名将言行録』




902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 00:55:46.91 ID:M/tDoDaQ
このとき仲が悪くなっていたら蔚山に援軍が来なかった可能性あるのかな

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 01:25:27.23 ID:zTi6fMAs
>また、清正は「打擲した人々も呼んで下さい」と言ってその席に招き
下手人どもをその場に呼び出して成敗するはかりごとかと思った・・・
まあ、他家でしかも格上の郎党に手を出すわけないけどさ

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 03:30:03.04 ID:2nQbfbWV
織田兵と喧嘩してやっつけちゃった人たちがいるじゃないか
まあ同盟の関係だけれど

秀秋の御裁許

2012年07月21日 20:51

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 16:26:22.75 ID:ijSPW+5s
関ヶ原の緒戦、伏見城攻めの時のことである。

筑前中納言小早川秀秋の家臣・比奈津角助は、籠城衆の松平五左衛門を突き伏せた。ところが
後から来た同僚である田島勘右衛門はこの角助に向かってこう言い放った

「角助よ、その頸の半分は俺のものだ!そう心得よ!」

角助が松平五左衛門を討つのに田島の手は一切借りていない。当然ながら彼はこれに納得せず

「なんだと!?お主に一体何の骨折りがあってそのようなことを言うのか!?」

これに田島
「お主は敵と槍を合わせていたが、未だ互角のうちに俺が馳せ来たため、敵は気が飲まれて引き色となり、
お主は勢いを得て能く敵を討ち取った。そういう事だったのにこれをお主一人の高名とするというのは、
全く思いもよらぬことである!」

角助はこの言葉に強く反発したが
「ここでなんのかのの言い合っても仕方がない!ご主君の御裁許を仰ごう!」

そうして二人は小早川秀秋の前に出て、その経緯を述べた所、秀秋は

「この事、田島の言う所に理がある。これはいわゆる相打ち(二人、もしくはそれ以上で一人敵を打ち取ること)と
定めるべし!」

と、下知をした。
角助はこれに全く納得できなかったが、主命であるので拒否することも出来ず、仕方なく訴訟を止めたと言うことである
(関原軍記大成)




638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 17:46:03.60 ID:j4aRX38L
安心の金吾クオリティ…

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/21(土) 18:26:57.28 ID:oWZljOMI
徳川の世では、松平氏を討ち取って加増されてたら
むしろ白い目で見られそうだ