浅野幸長が早逝したのは

2017年01月07日 20:16

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/06(金) 18:23:25.52 ID:DMsbktqS
浅野幸長が早逝したのは


慶長18年8月25日、紀伊国主の浅野幸長が死去した。
近年唐瘡にかかってしまったので、今年は夏中在京した後に
養生のため紀伊に下国されたが、そのまま亡くなられた。
おととしは加藤清正、浅野長政、今年は池田輝政、大久保長安と死んだのは
ひとえに好色ゆえの虚の病という話である。

この浅野幸長も五年前に葛城という遊女を買い、無右衛門尉という傾城を買って
そばに置いて慰まれていたので、その果てに早逝されたとのことだ。
跡を継ぐ息子がいないので、紀伊国は誰が拝領するのだろうかと噂になった。


――『当代記』

大身が相次いで死ぬと、雑にまとめられてしまう悪い例。



497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/06(金) 23:48:38.51 ID:01a7hoED
梅の毒ですね

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浅野幸長の機転・および石川五右衛門の顛末

2016年05月10日 11:08

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/10(火) 01:43:25.42 ID:qqwO0VTT
石川五右衛門という盗賊は、豊臣秀吉の時代、大小名および諸士群参の日になると、大阪並びに聚楽の
営中に紛れ入って、諸席に置かれた重代の宝刀、或いは鋭利な良刀を、己の鉛刀に代えて帯び、退き出た。
このため心ならず惰弱の汚名を被り、歯噛みして憤る輩多かった。

このような中、浅野幸長は考え量り、御玄関において刀を従者に遣わし、短刀ばかりにて営中に登った。
衆人その才知を賛美し、これに習い、みな従者に刀を持たせるようにした。
これにより石川五右衛門の計略も絶たれ、その後営中に紛れ入ることはなくなった。
またここから、営中に入る時刀を従者に持たせるのが士風となったのだとか。

ある説に、石川五右衛門は盗賊の張本にて、暴悪のこと多かった。ここに京都松原通新町の西に居住していた
右筆の何某は、石川の友人であったので、命あって召し捕える事が仰せ付けられた。
そこで彼の者は計り、茶会に託して我家に石川五エ門を騙して招待し、これを生け捕った。
これによって、世に言う釜煮の刑が行われたと伝わっている。

(新東鑑)



600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/10(火) 13:04:56.47 ID:WAFCxkCW
石川五右衛門ってホントに実在したのかねえ

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 12:51:11.61 ID:E+gdZ11k
>>600
大阪府島本町にある水無瀬神宮の門には石川五衛門の手形がある

信じるか信じないかは人それぞれ

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 13:40:42.63 ID:3Nb414DO
実在は信じるがそれは信じない

浅野幸長の能登配流

2014年11月18日 18:41

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 22:56:27.29 ID:/RSIwZRJ
大河ドラマでスルーされたのが切なかったので
>>810の前後、幸長の身に何があったのかも投稿しておきます


浅野幸長の正室は前田利家の娘・養泉院(文禄2(1593)年に早逝)で
その後、池田紀伊守信輝(恒興)の娘・慶雲院を後室に迎えた。

そして豊臣秀次の正室も同じく、信輝の娘(若政所)だった。

そこで秀次が謀叛の猜疑をかけられ、文禄4(1595)年7月に高野山で切腹した際
幸長にもその嫌疑がかけられた。

事の次第は「謀叛の連判状に幸長の手跡があった」というもので
伏見において、大老五奉行列席の上で取り調べが行われたが
最終的にはそれが幸長の手跡ではないと判断された。

何故連判状に幸長の手跡があったかというと
幸長の祐筆に磯谷十蔵なる者がいたが、幸長の機嫌を損ねたため、石田三成に仕えることになった。
三成がこの磯谷を使って謀叛をでっち上げたのである。

そして三成は、事が露見しそうになると磯谷を殺そうとしたので
磯谷はこれを怖れ、幸長に全ての次第を告白し、これを以って幸長の無実が証明されたという。

しかしながら秀次とは親族の間柄であるので、兎にも角にも能登国鶴崎城への左遷の命が下った。
幸長は利家の屋敷に一旦引き取られ、同年8月能登へと出発した。


↑ここまでが能登配流の経緯

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 23:03:07.60 ID:/RSIwZRJ
↓ここからは帰参にまつわるお話(こちらはいい話なので、おまけとして)


文禄5(1596)年
伏見で明の使節と謁見した秀吉は、封書を見て大いに怒り
再び渡海し朝鮮を攻め、明へと侵攻するべしという命令を出した。

そこで徳川家康が、

「左京殿(幸長)は三千の兵を率いて渡海するべし。秀吉公には私から話をつけた」

と、幸長の帰参をとりなしてくれたので
父の長政は大変喜び、小足源左衛門を利家からの使者に添えて能登へと使わした。

使者は昼夜を駆け、鶴崎城に到着。
折しもこの時、幸長は城の中庭で弓を射っていたが、
鶴崎城は高台にあり、遠くを見渡すことが出来るので、幸長には二騎が鞭で追って駆けてくるのが見えた。

幸長は「これは只事ではない。ついに切腹の沙汰が下り、その検使が来たのだろう」
と思って、切腹の用意を命じた。
しかし使者が近付いてくると、その一人が家来の源左衛門であることが分かったため、
急ぎ「何事か」と尋ねたところ
秀吉から御赦が出たので迎えに来たという、目出度い使者だと分かった。

これに一同は安心し、切腹の用意は俄かに帰国の用意へと変じた。
こうして幸長は同年10月初めに、帰参が叶ったということである。



(共に『浅野長政公伝』より)




825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 23:48:45.67 ID:sWAI5QZj
下手にこの時期御赦なんか出なかったら、渡海せず朝鮮にも行かず遊女遊びもせず、梅毒にもならずそしたらもうちょい長生きできてたかもな

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 00:42:11.51 ID:AhAL2do8
一生懸命よくわからん土地で戦って、後妻もらったら難癖つけられて切腹させられそうになるんだもんな。そりゃ、心離れるわ。

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 00:44:12.62 ID:7E5JT4/m
>>825
この時期だからこその御赦じゃ…武勇で有名だったらしいし手駒として。
この後の蔚山城での死闘も踏まえると、>>824も悪い話と言えるかもしれん。


ところで他に大河でスルーされた池田や地味加藤の逸話は……。

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 00:53:55.97 ID:i85WcvmH
大河の忠興はヒドかったぞ

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 01:49:10.04 ID:4lAv9pPZ
>>827
確かに幸長は武闘派で鳴らした勇将だもんな
合戦には必要不可欠な将だろうが、余りに短命だからふともう少し御赦が延びてればと思ったんだ

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:20:44.84 ID:AhAL2do8
>>827
ジミーさんって大河ででてきたことあるんだろうか。

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:29:12.46 ID:4nD8sGuB
>>828
いくら主人公とはいえ如水さんが忠興の功績を全部かっさらっていくとは

>>830
加藤嘉明は葵徳川三代で、家光の具足親をやったシーンがちゃんと有ったよ。

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:47:58.93 ID:mOvZS9tu
大河みてたらことのほか三才が肥満体で笑った

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 02:57:43.13 ID:7E5JT4/m
>>828
大河の忠興は何であんなに太ましいのか。
長政と対立したりガラシャに自害を命じたりする奴には見えないwいい人そうw

>>830
功名が辻にも一応いたような…?

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 08:55:44.94 ID:BuhQ+WP2
ジミーさん大河出演歴あるのか。ネタがなくなると主演あるかな。清正とのダブルキャストで。二人の加藤とか。

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 14:33:14.58 ID:Q1hBnzee
>>834
砂加藤「俺も仲間に入れてくれよ~」

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 16:52:14.88 ID:LwSHz8/F
飛び加藤も忘れてるし

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/18(火) 19:42:49.60 ID:c3cxOapc
ジミーさんは葵三代ならちょいちょい出てるよ
>>831みたいに主役になる場面以外でも
七将襲撃とか小山評定とかにも出てるよ…うん…出てるだけだけど…

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 07:16:00.85 ID:jG4jvGsl
賤ヶ岳七本槍が主役の大河ならジミーさんも主役

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 08:19:37.26 ID:8OLblkt5
松山:坂の上の雲
会津:八重の桜
地元がジミーを推す理由はなさそう

浅野幸長と伊達政宗は

2014年11月16日 17:27

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 15:25:06.71 ID:1T7aCUnZ
浅野幸長伊達政宗は、最初大変仲が良かった。

政宗が小田原征伐に遅参し、秀吉から謁見を許されなかった時
その間を取り持ったのが幸長の父・長政であり
政宗にとって長政は「命の親」とも呼べる存在だった。

そのようなこともあり、征韓の際には「幸長を助けるために」と
政宗も共に軍を派遣する程、二人の仲は良好だったが
何故かその後、大変な不仲となった。

その理由は明確ではないが、『浅野考譜』にはこう伝わっている。

秀次事件の際、幸長は秀吉の勘気を蒙り、能登への蟄居の沙汰が下された。
これを伝え聞いた政宗が、夜中、女輿に乗って幸長に会いに来たが
幸長は人々の目を憚って政宗と会おうとはしなかった。

政宗は大変短慮な人だったので、
「自分は心から幸長の身を心配しているのに
それを顧みようとしないのは、ひとえに幸長が無礼だからである」
と怒った。

以来両者は、君臣共に絶交となったという。


(『浅野長政公伝』)



813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 18:04:05.54 ID:O2pJ7Riw
>>810
不思議な事に大久保長安事件では名を連ねている両名

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/16(日) 20:52:06.13 ID:lIO5SLnR
>>813
この二人、戦国逸話スレ情報などからして何故か真田のお兄ちゃんと仲がいいんだよなw

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/17(月) 18:48:52.60 ID:VgWnhJNQ
>>814
そりゃ極悪親父にもまれりゃたいていの椰子は許せるようになるだろうw

講談の終わったあと幸長は

2014年04月07日 19:02

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/06(日) 21:23:49.73 ID:cC/WF0ye
藤原惺窩が浅野紀伊守(幸長)の邸宅で、孟子一段を講談したことがあった。
このとき講釈したのは、『生於憂患而死於安楽』(憂患の有る時には生き、安楽な時に死ぬ)という段であった。

講談の終わったあと幸長はこのように言った

「私は石田治部(三成)と仲が悪かった。治部が生きていたころは、彼に隙を与えまいと、身を謹んで
人に非を入れられないようにし、体も健康であった。

今は治部も死に、その上御所様(徳川家康)とは懇ろな関係で、(その頃未だ徳川と関係の悪かった)
佐竹や島津とも特に何かあるわけではない。だがこれによって気が緩み、却って病気になってしまった。
賢人の言葉というものは、少しも相違がないものだ。」

(老人雑話)

敵の喪失により自分も弱ってしまった、という浅野幸長の述懐である。




884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/06(日) 21:58:10.77 ID:xy6/elfq
真田のお兄ちゃんの死因が判明

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/06(日) 23:24:26.40 ID:J+qydBC1
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4598.html
既出

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/06(日) 23:26:37.45 ID:J+qydBC1
しかし、島津、佐竹についての訳は違うな

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/07(月) 05:54:20.28 ID:koYRP92t
島津・佐竹についての部分の解釈も、真田のお兄ちゃんとの関係を見出す住人の解釈も真逆の印象

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/07(月) 22:59:40.77 ID:4AKn74+k
>>883

親父は関ヶ原後の大坂城城内をみて「治部少がいた頃はこんなことはなかった」と嘆き、
息子は「治部少が生きていたころは、緊張して身体健康だった」と言い....
何だこの親子

895 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/07(月) 23:11:03.96 ID:FBU9TbXr
ツンデレやな~

松原内記刺殺事件顛末

2014年02月02日 19:06

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/01(土) 20:35:03.48 ID:hYoT6XAn
慶長14年(1609)5月18日、紀伊国主である浅野幸長の用人(近習)であった松原内記が、
左内と言う者(年齢17歳)に刺し殺されるという事件があった。その内容はこのようなものである。

この左内という若者は京都の人間であったが、浅野家に奉公したいと思い、そのために紀伊に下ることを、
つてを以って松原内記に言い送った。松原はこれを承知し、紀州に下ってきた左内を招き、小袖などを
与えた。

ところが、この時松原は左内を一目見て恋慕し、幸長に紹介せず、彼をわたくしに抱え置き、
懇ろに遇した。

そのような中、6月になって丹波国に普請があるということで、松原内記浅野幸長の命令により
丹波へと行くこととなった。

この頃までに、松原が密かに抱えた左内の事は内々に幸長の耳にまで入り、幸長は内記を一目見たいと
度々松原の屋敷を訪問したのだが、松原は深く彼を隠したので、終に見ることが出来なかった。
しかし松原は、自分が丹波国に行っている間に幸長に彼の事が露見してしまうと恐れ、左内を
自分が出発する20日前に、人を付けて京都へと密かに行かせた。

ところが、この後書状が左内に送られ、そこには『今後松原内記はお前を相抱えない』とあった。

左内はこれを見ると大変に怒り、父母親類にも隠して紀州へとただ一人下り、松原内記の屋敷に忍び込み、
彼が居間で寝ているところを、大脇差を以って三刀で殺害した。そして自身も、その場で自害した。
左内という若者は、大変美麗であったそうだ。

しかしこの事件は、近習を殺された浅野幸長を激怒させた。彼は左内の紀州への奉公を助けた
京にいる彼の叔父の坊主が、この件に関して内々に知っていると考え、大御所徳川家康の居る
駿府の奉行達、並びに女房衆に、この叔父を抑留するよう申し送った。

これを家康は承知せず、また京都所司代の板倉伊賀守も、この件に関しては「浅野幸長の存念は
然るべからず」と発言した。京畿の庶民たちも、「これは紀州殿(幸長)が筋の通らない事を言っている」
と批判した。

それでも浅野家では、「この事をこのまま放置してしまえば、我らの京都での外聞然るべからず」と
しきりに駿府に訴え出たため、駿府でもこのまま黙視することは出来ず、かの叔父の僧侶を
11月に浅野家に引き渡し、彼は牢に入れられた。

(当代記)

浅野家における、衆道がらみの事件の顛末である





浅野幸長「大膳よ、必ず沖を通ってはならん」

2013年08月27日 19:52

213 名前:1/2[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 20:28:53.20 ID:E86BTfVu
あるとき、浅野幸長は病と称し、江戸に出仕しなかったことがあった。
当時は大名同士が互いの国元へ見舞いに赴く事は禁じられていたのだが、
そんなとき、突然黒田長政が海路より紀州に見舞いに訪れたのである。

城内に通された長政は幸長と終日話をしていたが、夕刻になると長政は
洲本に供船を待たせているのでそろそろ戻らなければならない、と言って帰ろうとした。
ところがこれを聞いた幸長は、

「今日は泊っていった方がいい。ここの湊は見た目と違って中々難しい湊で、
小船でさえすぐに出すのは難しいし、まして夜に大船を出すことなど出来ないのだ。
是非泊っていくといい。見舞いに来た人に怪我などさせてはこちらの外聞が悪い。」

と言って長政を引き留めるので、その夜は人払いして夜通し物語などしていた。

次の日の早朝、茶の湯をした後で長政は出発することになった。
幸長も見送るからと、大船三艘に古老や覚えある侍らを乗せて出てきたのだが、
幸長は長政に自分の家老や物頭らを
「これは何々と申す者、どこそこの戦いで功名を顕した者、あの者は云々…」
と一々紹介してくれるので、長政もまたその者らに一々会釈をしていた。

幸長は川口まで長政を見送り、
この先の見送りには案内人として、小姓上がりの永原大膳を付け、小舟で先導させることにした。
幸長は大膳に、

「大膳よ、必ず沖を通ってはならん。
わしは数年来、松江浜を経由し、加太の田倉崎へ行くようさせているからな。」

と申し付けた。
そして長政と大膳は幸長らと別れ、大膳は言いつけ通りの航路を通り中松江に差し掛かった。
ところがその海域に差し掛かると大波が押し寄せ、それを被った長政の船は水浸しになってしまった。
さらに、船の者たちが騒ぐ間に2つ目の大波まで押し寄せ、それをも被ってしまったのである。
大膳は混乱しながらもどうにか下知して船を出させ、洲本まで長政を送り届け、
長政は礼に刀をやって大膳を帰した。

一方の幸長は川口浜に幕を張り酒宴をしていたが、大膳の船が見えたと聞くと
何やら楽しみそうな様子でその帰りを待った。

214 名前:2/2[sage] 投稿日:2013/08/26(月) 20:30:55.46 ID:E86BTfVu
戻ってきた大膳は一通り送別が済んだ事を報告したが、
それを聞いた幸長は不満な様子で「それだけか?」と尋ねた。
すると大膳は顔を真っ赤にし、ややあってから

「さても今日は迷惑なことでした!
黒田様の船へ大波が二度も流れ込み、黒田様は船屋形の戸を立てていたので
大丈夫だったでしょうが、他の者らは皆ずぶ濡れになり、酷く迷惑いたしました!」

と答えた。
これを聞いた幸長、大いに機嫌が良くなり、

「わしが聞きたかったのはそのことだ。
わしが小姓から取り立て、馬前で役に立とうというお前が、
その程度の事に気がつかない訳がなかったな。

そもそも筑前めが、家康の内意を得ずに見舞いになど来るものか。
この幸長が色々病気だと言って江戸や駿府に行かないので、
様子を見て来いと言われて来ただけの事だ。ただの見舞いのはずがない。

そういうことだから、明日にも幸長を退治せよとなれば、
西国から筑前が、紀州の湊に通じているからと先手となり船で攻めてくるだろう。
そうなると面倒なので、今日は筑前に波を喰らわせ、紀州の湊は中々難しいと筑前に思わせてやったのだ。
これを聞いて西国の奴らは皆怖れるだろう。
そして和泉路から来るには山越えになるから、こちらが勝つのはたやすい。」

と理由を説明し、
「それにしても筑前めの肝を潰してやったわ、満足満足」
と上機嫌で幸長は城に帰ったのであった。

(浅野長政公伝)より


長政、幸長の罠に嵌って酷い目に遭う、というお話。
前半部分で幸長が長政を引き留めたり、長々と家臣を紹介したりと
時間を稼ぐような行動をしているのは、恐らく夜や早朝に帰られると
海が凪いでいて、威力のある大波を喰らわせられないためと思われる。




216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 10:12:01.09 ID:Q+yKU0Wp
>213
腹黒っ!NAGAMASA(浅野の方)も宇都宮や九戸でも腹黒い事してたよな。

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/27(火) 14:14:22.89 ID:sQ4s80q3
>>213
見舞い禁止されてるのに、大して親しくも無いのが来たら警戒するよな

橋本六郎の腰兵糧

2012年09月20日 20:30

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 18:50:17.79 ID:mT5W41pB
慶長の役の時のこと。蔚山築城に伴い、城外に駐屯していた浅野幸長は、明軍の奇襲を受けた。何とかこれを防ぎ
退却する奇襲部隊を追撃した幸長だったが、この退却は偽装であり、浅野勢は伏兵に囲まれ、窮地に陥った。

浅野勢は大将の幸長みずから鉄砲を連射し、槍を振るい反撃したが、あるいは討たれ、あるいは散り、
城の惣構に逃げ着いた時には、幸長に従う者は重臣の浅野河内守と、徒歩武者の橋本六郎のみとなってしまった。

「ようやく逃げおおせたか。やれやれ、安心したら腹が減ったのう。」
「殿、これを。」

やっと一息ついて飢えを漏らした幸長に、六郎は腰の袋から握り飯を三つ取り出し、一つは幸長に献じ、
一つは自分で食い、残る一つを再び腰袋に収めた。
「おっ、良い物を持っておるではないか。残る一つ、わしにくれぬか?」

六郎の様子を見ていた河内守の頼みに対し六郎は、この重臣を睨みつけて答えた。

「これは、拙者の予備食にござる。いざという時はこれを食って最後の力を振るい、殿の馬前に果てる覚悟。
貴殿こそ、お家の重職たる身が腰兵糧の用意も無く、どうして戦陣に臨んでおられるのか?
今日、奇襲に敗れたのも貴殿らの、そのような用意の無さゆえではありませぬかな。」

戦後、日本に帰った幸長に河内守は、六郎を己の組下にする事を望んだが、河内守の心底を見抜いていた幸長は
ついにこれを許さなかった。(近古史談より)


橋本家は、芸州浅野藩家臣として永く続いたという。
島津家・中馬大蔵と浅野家・橋本六郎、どこで差がついたのか 慢心、環境の違い




496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 18:58:25.28 ID:6+IZfnb9
橋本六郎の場合は幸長に食わせたほうが
中馬の場合は駕篭かきに食わせたほうが
それぞれの主君の生き残る確率が高くなるわけで
なぜ差がついた、とか言われなきゃいけないのかがわからない

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 19:46:43.89 ID:htmcZuen
>>496
半ばネタなのに思いっきりマジレスせんでも…

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 22:35:28.68 ID:wUnYQsSP
さり気なく河内守が屑過ぎw

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 23:39:52.44 ID:7951B03d
なんの糧食も持たずに戦場に行くとも考えられないし
河内守は自分の分があるにもかかわらず六郎に良い物持ってんなって言ったんだろうか

もしそうなら河内守は仲間を盾にして逃げおおせたような奴なんだろうな

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/20(木) 23:45:18.01 ID:pQEoZRdk
自分の家人に持たせてたけど、死んだかはぐれたんでしょう

浅野幸長は一計を案じた

2012年09月04日 20:51

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/03(月) 23:36:49.60 ID:z0uybhUz

石川五右衛門が出没していた頃のこと。朔望(陰暦の1日と15日)など登城の日に、
五右衛門は人々に混じって聚楽の城中に侵入し、自分のなまくら刀を他人の
良刀とすり替えていた。

人々は五右衛門の悪さに憤りを覚えてはいたがどうすることもできないでいた。
そんな時に浅野幸長は一計を案じた。玄関で従者に刀を渡して置き、短刀だけで
登城するようにしたのだ。

人々は幸長の智恵に感心してこぞって真似をするようになった。これによって
五右衛門の策略は大いに阻まれたという。またこれを境にこの習慣が士風となった
ということである。

――『名将言行録』





344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 11:27:27.96 ID:vCHaTzWD
石川五右衛門については数多の俗説伝説があるよね
元々は伊賀忍者で、百地丹波と不仲になり抜け忍となった者だというのもその一つ

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 11:36:48.38 ID:0vYdCqOT
釜茹での話も色々あるよね

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 11:53:39.75 ID:vCHaTzWD
住んでる地域に五右衛門というパスタ屋があるのだが、
もしかして「釜茹で」で天下の大泥棒とパスタかけてるのか?
と、ふと思った・・・

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 13:54:23.27 ID:B7gmyh/L
実際は油揚げだし…(´・ω・`)

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 14:54:16.33 ID:vsfNtztb
ゴエモンは釜煎りだったって説と途中まで熱湯で油を足したって説もあるみたい


349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 15:15:16.92 ID:toG6VeEQ
天ぷらになって家康を殺したんだっけ

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 16:23:47.36 ID:tbL+Xau1
揚げてたのか…油がもったいない

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 17:18:49.30 ID:kKXWwvby
高価な油をふんだんに使うというもったいないことをわざわざして
関白の威光を天下に見せつけた、と聞いたような

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/04(火) 17:49:17.22 ID:vCHaTzWD
泥棒犯罪を防ぐ抑止力としての刑の側面も言わねば片手落ちだろう

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/05(水) 00:04:47.76 ID:LHDOh62O
>>348
熱湯に油足すなんて想像しただけでとんでもないことになりそうなんだがw

浅野幸長この時、二十三歳

2012年08月24日 20:51

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 18:59:03.06 ID:t4iOJ7fa

熾烈を極めた蔚山城の戦いの時(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1549.html)
浅野幸長は自ら銃を手に取り、数多くの敵兵を殺害した。

そのため、幸長の顔の半分ほどが薬煙で黒くなっていた。ある人がそんな幸長の様子を見て、
「浅野殿は殿下の御親戚なのですから、急ぎ本丸へお入り下さい」と勧めたが、

幸長は断って二の丸に留まり続けた。それは蔚山城が加藤清正の城だったからである。
幸長はこの時、二十三歳。その老熟した人のような統率振りに誰もが感嘆した。

――『名将言行録』





215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/24(金) 19:53:28.60 ID:5jIKgNck
おお、なんとタイムリーなレスがw 明日は浅野幸長公のご命日だそうですよ。お近くの人は是非ともお出ましを

平成24年8月25日(土) 8時~14時(受付終了)浅野幸長公四百年遠忌高台寺追善茶会

浅野幸長(あさの よしなが)は、豊臣秀吉の正室北政所(ねね)の甥として知られる武将です。
今年は幸長公の四百年忌にあたり、御命日の8月25日に浅野家ゆかりの高台寺と圓徳院において追善茶会を行います。
当日は茶会の前に法要を行い、その後に講演「文武の名将 浅野幸長」も予定しております。

ttp://kanko.city.kyoto.lg.jp/eventdetail.php?event_tab=event&eventid=1877&year=2012&month=8&date=


232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 22:27:35.71 ID:q8ggWfje
>>214
幸長って稲富流の鉄砲術を学んでいるんだよね。
「朝鮮ではとにかく鉄砲が必要」というような稲富宛ての書状があったはず。

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/25(土) 22:34:11.17 ID:/KaJeQfL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2501.html
加藤清正曰く、鉄砲術は学ぶ必要ないとか
>「ああ、そのことね。いいか、戦は魂でするんだ。砲術の技術
>なんてはっきり言ってどうでもいいんだよ。まあしかし、加藤家
>の人間が名人に教わったとなれば人は俺たちを恐れるからな。
>つまり噂が広まりさえすれば、あとはどうでもいいの。」

まあ海外では意味ないか
(海音寺潮五郎の「史談と史論」では清正のセリフは「鉄砲というものは撃てば撃つほど上達するから
師匠なんてものはいらん」とちょっと違ってた)

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 01:46:39.05 ID:g5udYP9K
まぁ、鉄砲を発射する部分に限って言えば、狙い方のコツとかは実戦で数こなさ
ないと上手くならないと思うし、その点では「習うより慣れろ」なのかも知れないけど…

でも、火縄の扱い、火薬や球の装填、発射後の筒の掃除など、定型動作の部分は、
ちゃんと師匠に正しいやり方を習って、ドリル的な教練を繰り返して、それこそ
目をつぶってもできるくらいまでスピードと精度を上げるようにしといた方がい
いと思うぜ

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 04:51:13.95 ID:6OWjxtF4
指揮官にマークスマンシップは要らないんだろうけどね。

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 06:36:27.04 ID:HASZhrwC
>>234
そんな基本は金メダル選手レベルの人に習う必要はないってことだろ

しかし鉄砲がすごい普及したわりには鉄砲の改良ってなんであまり進まなかったんだろうな

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 07:37:43.85 ID:CCU7Nyvu
確かに、早く装填するための紙パック作りや、
2連発するための工夫とかはしても、
肝心の本体は変わらないよな

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 07:53:30.88 ID:sYprceFe
もう何十年か戦国時代が続いていたら改良されていたんじゃね。
あるいは欧州から進んだ鉄砲が輸入されるとか。

全国的に普及したあたりで平和になって改良の必要性が薄れたんじゃないかと。

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 08:05:06.33 ID:R5+7sVC8
火縄が消えにくくするような改良や
サイズバリエーションは多岐に渡ると思うのだけど

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 08:06:00.54 ID:qb890p4w
口径の大型化とかそれなりに進化してるじゃん。
防具の進化に呼応する形で。
発射機構は改良しようがないだろう。
フリントロック式は日本では作りにくいし。

銃身を並べた連発式も一応戦国時代に開発されたことになってるね。

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 09:21:12.39 ID:Ua1KRJI8
フリントロック式は命中精度が下がるのが嫌われたため採用されなかった
フリントロック式と思われる銃を買ってみたが気に入らず商人に付き返したとか
いくつか記録が残っている

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/26(日) 12:49:16.37 ID:swrOJvrB
「いくら改良しようと源助の大筒には敵わん」

鳶が鷹を産む

2012年08月21日 20:54

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/20(月) 21:07:09.61 ID:e5SeXbOW

小田原の役の時、わずか十五歳の浅野幸長は疱瘡を病んでいたにもかかわらず、
父長政に出陣させてほしいと頼みこんだ。だが長政は「お前はまだ若い上に
病気でまともに立っていられないではないか。共に出陣できるわけがない」と

許してはくれず、再三頼み込んでもやはり許されなかった。しかし幸長の意志は
固く、老臣の堀田孫左衛門、松井又右衛門と相談して、先に出陣した父を追って

関東までやって来てしまった。さて幸長は岩槻城攻めでは馬を馳せて首級をあげた。
また、忍城攻めで長政の備えが崩れて引く時、幸長は槍を横たえて自軍の兵を
せき留めると「我はここにあり、お前たち私を見捨てるなよ」と只一騎進んでいった。

味方はこれを見て一同に引き返し、千駄口の砦を乗っ取った。その後、ある者が
秀吉に「幸長は御下知を待たずして勝手に動きましたぞ」と告げたが、秀吉は
「あの長満が生まれて七夜目に長政の家に入って、その泣き声を聞いた時、

『これは鳶が鷹を生んだな』と誉めたことがあったが、今の働きはまさに逸物の
鷹である」と大層上機嫌だったので、その者は口をつぐんだ。これによって幸長の名誉は
大いに知れ渡ることとなった。

――『名将言行録』




144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/20(月) 21:13:38.19 ID:X48DWtBf
浅野長政で鳶なのか・・・

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/20(月) 21:20:11.97 ID:KmVOnD3k
告げ口したある者とはどなたの事で?

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/20(月) 22:34:59.76 ID:dLuJ7em6
名将言行録だから細かいことはいいんじゃないかw

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/20(月) 22:56:42.34 ID:/1Z1Z7ZW
>>146
確かに>>143後半の太閤殿下の言を見ると、あたかも忍城攻めに太閤殿下が参加されて
いるような記述だしな… 恐るべし、超時空太閤HIDEYOSHI

慶長十五年(1610)卯月十九日浅野幸長書状

2011年10月25日 22:00

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 17:49:33.51 ID:gXVxfZeL
慶長15年(1610)4月、名古屋の浅野幸長が出した、京にあった浅野長晟からの書状への返答

『卯月(4月)16日に出されたあなたの書状は、17日には届きました。さてさて早い飛脚であったものです。
今、名古屋では(名古屋城普請の)御鍬始が行われ忙しくて時間を作ることが出来ず、本日19日に
この返事を渡しました。

さて、秀頼様がその方に二千石の知行を与えようとしている件についてです。

前にも申したように、このことは石豆州(石河貞政)に申し使わされました。そこで市殿(片桐且元)に
相談した所、「あなた方の方で弾正殿(幸長・長晟の父、浅野長政)の所に、この事を知らせれば
拝領しても問題は無いでしょう。」との旨を、片市殿(片桐且元)の家臣を通じて、石豆州、杉伯州(杉原長房)から
貴殿にご返事として届いていることと思います。

そして片市殿から
「今回の御知行拝領の事、あまりグズグズしていてはいかがかと思います。
早く二千石の御知行をお渡ししたいものです」
と、懇ろに申し置きをされている以上、あまりこの件を長引かせるのは宜しくないでしょう。

片市殿の御指図の通り、弾正様の所に、お尋ねに使者を遣わせるべきです。
その時はあわせて、その書状の受取を下さるようにと、お断りもしておきましょう。

それから私の方では今日、江戸(幕府)に、この件を相談する遣いを出しました。
この件については、その遣いが帰ってから判断することにしましょう。

そうそう、京都御番のこと、いよいよ油断なく勤めて下さい。
又、追々お手紙致します。恐惶謹言

紀伊守 幸長(花押)

卯月十九日 浅野但馬守(長晟)殿 御返報 』
(浅野家文書)

この二千石を長晟が拝領したのかどうかよく分からない。ちなみにこの前の3月、長晟は幕府より
備中国足守(蘆森)ニ万四千石を加増されている。

関ヶ原から10年経った当時、豊臣秀頼からの「新恩」に対しての、非常に微妙で警戒的な空気が見えてくるような
書状である。




501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 20:37:21.27 ID:z2RiFBf6
>>497
人物名分かりにくすぎw
こういうのどうやって解読するんだよww

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:07:52.76 ID:uIv37/Hc
片桐且元が片市なのはなぜ? と思ったら
官位が東市司だからか

しかし名前を書かないやら、省略やらで、解読するの大変そうだな
中国はどうだったんだろう

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:26:59.08 ID:HsKQDjlr
政宗みたいのは、まあ例外として、
当時の人にとっては、官名で呼ぶのが普通だろうからなあ
苗字の頭文字+官位の頭文字はわかりやすいのかもしれん

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:39:11.85 ID:soW1mmlW
当時の手紙に書かれてる名前とか凄くいい加減だよね~
一通の手紙だけでなくその前後で頻繁にやりとりしてるからあれで通じるんだろうな~

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 21:46:57.87 ID:uIv37/Hc
自分だって手紙書く時、一々日付入れたり、細かく状況説明なんて入れないから、仕方ないやなぁとは思うけど
名前の当て字は凄いね 本気で読めれば(通じれば)いいんだよ! って感じだし
そのおかげで、この人何人いるんだよ と複数説唱えられたり
漢字が違うから、この人じゃない と存在否定されたりと大変

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 22:07:22.95 ID:xuAT/Sul
現代人で旧字に拘ってる人とかに比べるとすごい大らかだよね


508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 22:48:22.74 ID:6kmBJijk
名前呼ぶのって相当特別な関係なんだっけ?親とか娘の婿とか?

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:05:29.50 ID:aRxVnAXK
まっくろくろすけでておいでー

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:06:22.78 ID:aRxVnAXK
まっくろくろすけでておいでー

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:07:16.94 ID:aRxVnAXK
すまん連投した
花瓶に火薬詰めて爆死してくる

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:08:08.46 ID:k2r+lsAw
そしてまっくろくろすけになると言う事か

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:20:24.65 ID:sTfMlLQ7
名前を全て平仮名で書いてくれたら後世の人間が悩まなくて済むのに

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:21:24.60 ID:NBgkNDfT
>>511
間違っても国宝級の茶器に火薬詰めたりするなよ

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 23:54:53.08 ID:NjXGtHNA
いえやす ちくぜん てる
を思い出した。

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 08:22:26.50 ID:PfR2GCwX
>>501
このスレにどっぷりつかってしまったせいかなんの疑問もなく人物名が理解できてしまったw
会社ではなんの役にもたたないがw

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 09:45:11.52 ID:PzuxZXTC
>>521
しかし人生を豊かにしてくれる

浅野幸長「賢者の言葉に相違なし」

2010年09月05日 00:01

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/03(金) 22:19:06 ID:tDyM/h0M
上洛した浅野幸長が学者の藤原惺窩を招き、『孟子』の講義を聴いた。

「……生於憂患、而死於安楽也…」
(憂患に於いて生き、安楽に於いて死する也=人間は心痛の種のある時は、緊張して生命を守ろうと努力するが、
安楽にふけると、心が緩んで死へとつながって行く。)

惺窩の読んだ一節に、幸長は手を打って同意した。
「うむ、さすが古の賢者は良いことを言う。
かつて、わしは石田治部少(三成)と、たいそう仲が悪かった。あいつが生きている頃は、絶対揚げ足を取られまいと
身を固く保ち、他人に非を言われぬよう励んだものだ。

しかるに今、治部少は既に亡く、わしは大大名となり、将軍家にかつての島津・佐竹にも劣らぬ扱いを受けている。
ところが気は緩み何事にも身が入らず、この身も病気がちとなっておる有り様。まさに賢者の言葉に相違なしだな…」



数年後の慶長18年(1613)8月、幸長は38歳の若さで世を去る。

いい話か微妙だし三成が意識してやってたワケじゃなかろーが、失って初めて分かるものもある、という話。




852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/03(金) 22:47:27 ID:zArGQOJT
かつての島津・佐竹?

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/03(金) 22:49:17 ID:gltFKkXK
>>851
それが本当なら、信之兄ちゃんがあんなに短命だったはずがない

浅野幸長「本当の鷹狩り」・悪い話?

2009年03月01日 00:12

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/28(土) 16:49:15 ID:dydYZe/Y
関ヶ原が終わると、浅野幸長はそれまでの甲斐から、加増され紀伊の国主となった。

さて、ある時、家康の御金改役、後藤庄三郎が熊野詣に出かけた。
帰ってきた後藤に、家康は紀州の様子を色々と尋ねた。
その中で後藤が、どうにも腑に落ちないことがひとつだけあったという。

それは後藤が浅野幸長に招かれ、彼の鷹狩りの同行した折りのこと。

「その時の狩は大変守備が良く、雉、山鳥、また鹿やむじななど多くの獲物が取れ、
私などは、幸長様はこれはご機嫌がよいであろうと思っていたのですが、
逆に幸長様のご機嫌は大変悪く、勢子や奉行、そのほか役のある方々を
散々に叱っておいでになりました。

ところが別の日の鷹狩りでは、全く獲物が無くさぞや不機嫌だと思ったのに、
これまた逆に大変ご機嫌が良く、役人達にも『骨折り大儀である』などと声をかけ、
褒美なども出しておりました。

これはどういうことなのか、私にはさっぱり分からない事でした。」

それを聞くと家康は笑いだし

「庄三郎が合点がいかないのも無理は無い。幸長がやったのは本当の鷹狩りと言うものなのだ。
獲物の多少が問題ではないのだよ。」

と、そのように言われたそうである。


しかしそのように言われても、やっぱり書いてる自分にもよく分からないのでこっちに投稿。




446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/28(土) 17:15:36 ID:i4e3bLhN
獲物の有無は時の運というか自然任せの制御不能な部分
奉行や勢子達の働きは人間の行いであり自律可能な部分

上の狩りでは獲物が多かった反面
声を上げない勢子だとか気を抜いてる奉行達だとか
手を抜いてる人達が多かったんじゃないの?

逆に下の方の狩りでは獲物は少なかったけど
奉行も勢子も手を抜かずに働いて幸長もいい狩りが楽しめたとか


まぁ獲物の多寡しか見てない庄三郎の観察眼の悪さという事で

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/28(土) 17:51:13 ID:yy2ISAZ+
>>445
こっそり、事前に準備した獲物を放った出来合い鷹狩りだったんじゃないの

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/28(土) 18:06:22 ID:UyR93sjZ
鷹狩りは軍事訓練と娯楽を兼ね備えた遊びなわけで
訓練と考えた幸長と遊びと考えた後藤との違いなんだろうね。

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/28(土) 18:24:15 ID:NRhT2NDX
接待ゴルフでマジになっちゃう人とエンジョイする人の差、みたいな?

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/28(土) 18:32:17 ID:LEmSLTeB
鷹狩りってのは鷹が獲物を持ってきたら餌を渡すのはご存じの通り
これが鵜飼との決定的な違いでもある
だからこそ獲物を大量に狩る鷹は狩りをしていないと言える
満腹ならば狩らないのが当然なんだから
つまり浅野幸長は、鷹に‘採る’躾をした事が不満だったんではないかな

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/28(土) 20:46:45 ID:Z8caIbim
家臣が骨折り損するのを見て馬鹿にするのが楽しみだった…というのはないか。

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/28(土) 21:24:16 ID:pKPhMP7M
島津家久(悪)「そんな事あるはずないよねー」