苦辛城(くららじょう)

2017年04月26日 08:39

753 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/04/25(火) 23:26:56.85 ID:NnyzUZ9A
鹿児島県鹿児島市皇徳寺台には苦辛城(くららじょう)と呼ばれる自然の川や崖を利用した連郭式(れんかくしき)山城があり、
郭には土塁が見られ,緩やかな斜面には郭を守るための帯曲輪(おびくるわ)の取り巻きがあります。
昭和56(1981)年団地造成の為全面発掘がおこなわれたところ、15箇所の曲輪と20箇所の空堀、27棟の建物跡、水溜跡、
竈跡のある大規模な城跡と判明しました。
苦辛城の名前の由来はくらら(苦参)というマメ科の薬草からで、城の周りに自生していました。
健胃、利尿、解熱、回虫駆除に効果があり、飲むと目くらがむほど辛いという。

大永七(1527)年からはじまる島津本家の家督継承をめぐった争いは、天文八(1539)年に島津忠良・貴久父子は
加世田・川辺・市来を攻略、また紫原の戦いにも勝利し、その後三月十四日苦辛城を攻略し翌日は神前城を落とし、
薩州家の島津実久を撤退させた。
以後、実久の勢力は衰え、天文十四(1545)年に貴久は一族・庶家から「三国守護」の承認を得て南九州を支配することになる。

このため、苦辛城周辺にある皇徳寺ニュータウンでは「沢山の人が合戦で苦しみながら亡くなった」と伝わり、
苦辛城の施設跡にある皇徳寺小学校では「城には処刑場があり幽霊が出る」という学校伝説がありますが、
苦辛城城主平田宗秀は、紫原の戦いで貴久が勝ったことを知り、伊集院忠相の仲介で貴久を城に迎え入れているので
苦辛城では戦いは行われてはいません。

この城を苦辛城と表記するようになったのは江戸後期の島津家の記録からで、それより前には「鞍良城」と記されていました。
かつて敵の城であったが、島津忠良・貴久父子が勝って手中に収めたことを強調する為に意図的に“鞍良”から“苦辛”へ
書き換えたのではないかといわれています。

書き換えられた上に、
・くらら城跡地の案内板には「苦辛城」の記載しかない。(案内板は団地の開発業者が設置)
・くらら城周辺は新興住宅地の為、古くからの住人が殆どいない。
そのため、「苦辛城」の字面だけで「沢山の人が合戦で苦しみながら亡くなった」だとか
「城には処刑場があり幽霊が出る」という話が勝手に出来てしまうという、住人や発掘に関わった人たちにとって悪い話。
(くらら城跡地で発掘に関わった大学の先生から聞いた話)

島津本家の家督争いについての記述
島津忠良(日新斎)島津貴久について
https://www.pref.kagoshima.jp/ak01/chiiki/kagoshima/kyoiku/4tadayosi2.html

※くらら(苦参)は全草有毒であり、根の部分が特に毒性が強く量を間違えると大脳の麻痺を引き起こし、場合によっては
呼吸困難で死に至ります。素人が安易に手を出すのは非常に危険である薬草です。
佐賀県では絶滅危惧種、鹿児島県では準絶滅危惧種となっています。

※皇徳寺台の由来は皇徳寺という曹洞宗の総本山の永平寺直轄の末寺からで征西将軍宮懐良親王と島津義弘の息子
久保の菩提寺です。




754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 02:18:00.34 ID:lWKlcsT4
くららが建ったー

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 02:27:08.64 ID:3FRxF8FJ
島津兄弟の不可解な死はこれの中毒であったか

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 06:10:30.99 ID:PjRiQsEH
灰寺城

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/26(水) 13:31:20.43 ID:D3F2saet
http://i.imgur.com/lkzhYhv.jpg
lkzhYhv.jpg
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魔のしょゐか

2014年12月08日 18:23

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/08(月) 00:47:35.46 ID:SywZhC9j
魔のしょゐか天けんおかみ法華教 一向宗にすきの小座敷
(天権を拝んだり法華や一向宗・茶道にハマったりするのは、魔に魅入られたせいである)

日新斎




島津日新斎「孝行とは」

2011年09月25日 22:26

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/25(日) 11:54:09.08 ID:j1Z+Rl3Y
島津家の中間者・孫七が父の四郎右衛門と口論の末、カッとなって父を棒で打ったとの評判が流れた。
評判はたちまち薩摩一円に広がり、島津日新斎の耳にも達した。

「けしからん。速やかに、かの者に罰を与えよ。」
直ちに家臣が派遣されて孫七を斬り殺し、これを埋めて捨てた。報告を受けた日新斎は、激怒した。

「なんという事をしたのだ!

孝行とは、幾万ある行動に先立ち、千の経巻、万の典籍に必ず書かれる人間第一の徳目である。
それを破りし不孝者など、三千の刑法をも用いても、なお余りある。

然るに、なにゆえ刑を軽くしたのだ?今すぐ彼奴の死骸を掘り起こし、額に『不孝』の焼印を押して
道端にさらせ!そうでもせねば、目を驚かし耳に針すれども、忘れて不孝を犯す者が出るわ!!」
(日新菩薩記)


みんなも親孝行しろよ?




101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/25(日) 11:58:53.89 ID:UteJy8hp
噂でぶち殺して死体まで辱めるとか
流石殺魔

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/25(日) 12:15:06.40 ID:f//P728K
島津日新斎みたいな無能なジジイ上司っているよな。
ちゃんと仕事の指示もしないで、あとから文句ばっかり言ってくる奴。



103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/25(日) 14:00:02.95 ID:dw5O6hrQ
ぶっちゃけ何考えてるのか分かんない

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/25(日) 14:48:04.46 ID:nQs2kuxc
本人も言ってるが見せしめにしたかったんだろ?
やられた側はいい皮の面だが

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/25(日) 18:34:09.29 ID:OMGZ4mBr
そもそも棒で打ったというのは本当か調べないのか?

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/25(日) 20:13:41.73 ID:22DKcZIr
>>105
元々、殺すリストに入ってて目を付けてたんだろ
日新斎の時代は身内以外は家中国衆共に粛正対象だし
内々で殺して埋めるだけだと名分の無いいつもの暗殺行為になるから
こんな時こそ儒教的な正当性を理由に晒し首にして綱紀粛正を計りたかったんだろうな
ここらへんは曾孫の方が要領が良くなってる、倫理的概念は皆無になったけど

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/25(日) 20:28:43.77 ID:T+TDs7ZG
親父は殴られた挙句に息子が獄門じゃたまらんな
為政者の自己満足

忠良お爺ちゃんの英才教育

2009年09月20日 00:12

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 23:08:22 ID:ZwmZJ2x2
島津義久と義弘は年が近い(2歳差)ことから、よく一緒に祖父忠良の教えを受けていた。
あるとき、幼い二人が合戦の秘訣を忠良に尋ねたところ、忠良は二人に別々の答えを与えた。
義久に対しては
「戦において、大将というのは常に堂々と構えて居らねばならぬ。
 目先の事にとらわれて狼狽したり、軽率な振る舞いを起こさぬ事が勝利を得る秘訣である」
義弘に対しては
「戦において、重要なのは最後の最後に勝利を得ることである。
 それを思えば、序盤の不利を憂えてはならぬ。また、序盤が優勢であるからと
決して油断してはならぬ」

二人の適性を見抜いた上でこう答えたのか、
それとも将来の家中における役割を考えた上で言ったのかは分からないが
後の兄弟の役割分担を考えると興味深い教えではある。

忠良お爺ちゃんの英才教育の一コマ。




602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/18(金) 23:22:24 ID:oM7pSg/s
義久は関ヶ原後の政治で、義弘は木崎原の戦い以後の釣り野伏せで言われたことを
体現している気がするな

少年島津忠良、「日新柱」

2009年07月21日 00:07

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/20(月) 21:58:30 ID:wNSSNORj
島津忠良の父、善久は横死、祖父の久逸は戦死したため
一児の母である常盤が伊作島津家の当主となった
しかし政務の傍ら大事なひとり息子の忠良を養育していくのは容易ではない
そこで忠良を海蔵院の頼増という僧に預ける事にした

が、良家の子息らしくお寺でおとなしくしているかと思いきや
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1501.html
の話がら見て取れるように幼年時の忠良はまさに悪童であった

その日、忠良は勉強をサボった(水泳に夢中になるあまり寺に帰らなかった?)
今回は上記の話のように頼増が感心することなく
始末に困った頼増は忠良を柱に縛り付け罰した
その話を聞いた常盤、「それはそれは良き師を得たものだ…」
と涙ながらに喜んだという

…常盤は自分の息子を相当持てあましていたのだろうか?

忠良が縛られたこの柱は寺と共に一時消失したものの
寺が再建された時に縛られた位置にあった柱を日新柱と称する事にした
歴代藩主はこの柱に接して修養の戒めにしたという

現代では日新柱は伊作小学校で教育の戒めとして飾られ
町指定の文化財となっているようだ

伊作小学校のよい子のみんなは学級崩壊なんて起こさないように
柱に縛り付けられたり薙刀振り回した坊さんが追いかけてきたりするかも知れないぜ?




651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/20(月) 22:03:37 ID:Hrd0SFNW
>>649
間違いなく持て余してます。本当にry


島津日新斎、「隠居したので、和平をしよう」

2009年07月03日 00:05

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/02(木) 17:54:48 ID:zXXsDgBn
島津貴久が薩摩を統一し、大隈の統一や日向進出も夢ではなくなり始めていた頃、
隠居の島津日新斎は、伊東氏に和談の使者を送り、口上を述べさせた。

「両家の合戦はいつ果てるともなく続いていますが、近ごろ伊東義祐殿は
隠居なされたと聞きました。私も隠居の身です。この上は和睦いたしましょう。」
使者は義祐に目通りが叶い、馳走を受けて帰された。

伊東家では提案を受け入れることが決まり、今度は伊東家から返答の使者がやってくる。
ところが日新斎は、鹿児島に到着した使者と会わなかった。
家臣の伊集院"鶴の吸い物"忠朗に接待を命じたのである。伊集院は使者にこんな口上を述べた。

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/02(木) 17:55:48 ID:zXXsDgBn
「伊東殿は人数を損ずるのもお構いなしに、あるいは城攻め、あるいは野戦を
望まれるようですな。
島津は違います。当家は一人が死ねば万人の憂いと思いますから合戦は好まないのです。
こうして裃を着て国を治めております。」

幸い使者が騒ぎ立てることもなく、この和談はひとまず無事に成立する。
この後、使者は坊津一乗院へ案内され、3日滞留したが、
そこの僧侶がひそかに耳打ちした。
「日新公が何を言ったか知らないが、薩摩は武略をもって国を治めます。
油断するなと伊東殿に言いなさい」

ちなみに最初の使者が来たとき、伊東義祐は家臣にこう言ったという。
「島津の謀略だな。そろそろ日向を攻めるつもりだろう」
日新斎が義祐に持ちかけた和睦の真意は、宣戦布告にあったのかもしれない。

肝付の件といい、戦国の外交は一触即発、という話。





894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/02(木) 19:21:29 ID:TyMYR7p+
薩摩統一の定義って難しいな。オレの中での薩摩統一は、一切の抵抗が潰えた
元亀元年なんだけど、wikiじゃ天文20年頃になってる。
でも伊東義祐が隠居したのは永禄3年だからそれくらいになるのかね?

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/02(木) 23:34:33 ID:jzZEhxxA
薩摩はおっかねぇ

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/03(金) 22:42:09 ID:8eWNYXGi
>>893
この話だけ聞くと日新斉とはる程の切れ者ぽく聞こえる義祐
まさかの堺の浜でntrjini

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/03(金) 23:35:49 ID:6Tj5LVC2
>>935
長男が夭折するまでは名将と呼んでいいんじゃないかな。
夭折後は嗜多に過ぎるけど君主としてはまあまだ大丈夫。
でも、家督を譲ってた次男が死んでからは京かぶれのダメオヤジに成り下がりました。

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/03(金) 23:39:58 ID:JReTEyFn
日向四八城って伊東義祐の頃にほぼ完成したんだっけ。
48も城を築けるくらいの国力があったのか、
48も城を築かなければならないほど統治に苦労していたのか…
どっちなんだろうね。

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/03(金) 23:41:44 ID:xfrriSAf
やっぱり息子を亡くしちゃうと気力も萎えちゃうんだろうねぇ
大内や長宗我部もそうだし

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/04(土) 11:03:39 ID:nk5gA0yM
>>942
伊東家が作った城ばかりじゃないよ。財部城(現:高鍋城)とかは元々
土持氏の城だったし。
鎌倉時代から日向にいるわけだから城も増えて然るべしじゃないか?
あと、伊東は島津とはやや違うものの外城制のような形だったはず。
城と城の間の距離が短く、ネットワーク化してた感じ。

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/04(土) 11:32:31 ID:OzFaqpf3
まだムラがなかったのかと思ってた。
まぁ、さすがに宮崎でも戦国の頃ならムラぐらいあるか。


島津日新斎と貴久、死者を弔う歌

2009年06月29日 00:14

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 01:51:59 ID:4QYQHro9
>>776を見てて、島津日新斎と貴久もそういう句を読んでるのを思い出した。
芳春院さんほど凄いものではないけど、一応上げとく。


永禄九年(1566年)に島津義久、義弘、歳久兄弟は、伊東家が建設中の
小林城を攻め取ろうとしたが苦戦、なんとか城を焼き本丸を残すのみとなったが
ここで伊東軍の援軍が現れ、義弘が大怪我したことにより島津軍が撤退して戦いは
終結したのだが、小林城の内堀と外堀が双方の軍の将兵の死体で埋まるほどの
大激戦となった。
そこで、日新斎と貴久は双方の死者を弔うため「南無阿弥陀佛」が冠された和歌を
発句していている。


●日新斎

南: 何事も 何事もみな 南無阿弥陀仏 なほ討死は 名をあぐるかな

無: 無益にも むつかしき世に うば玉の 昔のやみの 報いはるらん

阿: あしき世に あらゆる物も あしなれば あからさまには あらじ身のはて

弥: 南には 彌陀観音の 御座なれば 身まかる時も 御名を唱えよ

陀: 誰にかも 誰ぞと問わん 誰しかも 誰かは獨り 誰かのこらん

佛: ふつふつと ふつと世も身も ふつきりに ふつとくやしく ふつと悲しも


●貴久

南: 名を重く おもふ心の 一筋に 捨てしや輕き 命なりけり

無: むらむらに しぐるる今日の 柴よりも 昨日の夢ぞ はかなかりける

阿: ありはてぬ 此の世の中に 先立つを 歎くぞ人の 迷なりける

弥: 水のあわの あはれに消えし 跡とてや 折々ぬるる 袂なりけり

陀: 立ちそえる 面影のみや なき人の 忘れがたみと 残し置きけん

佛: 佛ます 世をいづくとや たづぬらん 呼べば答ふる 山ひこの聲


この二人が同時にこのような発句をした例は他になく、相当の死傷者が
出たものと考えられる。(ちなみに木崎原合戦の頃は二人とも既に他界)





850 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/28(日) 04:24:00 ID:7LLTIife
>>848
むかし、"かきつばた"だけでもすげーとおもったが、島津親子もまけてねーな…

862 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2009/06/28(日) 18:06:19 ID:kN1VwwvQ
>>848
日新斎の句は北条と同じく全部南無阿弥陀仏になるようになっている。

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/28(日) 19:27:27 ID:0x71UH0T
>>862
ちょっと反則気味だけどね

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/29(月) 14:23:31 ID:74WCYhKH
>>848
爺ちゃん手抜きだろw


島津家と一向宗・悪い話

2009年05月02日 00:04

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/01(金) 16:07:35 ID:K1qukIlS
島津日新斎の作歌にこのようなものがある。
「世の中に無益な二つある 一向宗に数寄の小座敷」
織田や徳川のように島津もまた一向宗に苦しめられたのだろうか。

これを利用しようとしたのが九州征伐時の豊臣秀吉
島津家を内側から混乱させるために。
顕如を天草に送り込み島津領内の門徒に蜂起を呼びかけさせたという。

この効果は不明であるが後に島津領内において一向宗はキリスト教とともに禁教となり
それは明治維新まで300年近く続いた。




126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/01(金) 17:44:51 ID:hFdw7YND
一向宗に苦しめられたことはないにしても警戒はしてたと思う。
諸県地区を領していた北原氏が一向宗と絡んでたらしく、
実際 相良氏と戦う際に一向宗を扇動したそうで、それが元で
相良領は一向宗禁令になったという話がある。
現に、飯野城の城主だった北原氏庶家の北原兼孝は、領民に
「真宗にならないと打ち殺す」と脅して入信を強要してたんだそうだ。
北原氏と領地を接する島津がこれを警戒していた可能性は十分あると思う。

まあ結局 北原氏はそれが仇になって、当主が病没した後に家中で真宗派と
禅宗派で分かれてしまい、その隙を伊東義祐につかれて没落するんだけど。

もしかしたらだけど庄内の乱も、真宗だった北原氏残党が絡んでたのかも
しれないと個人的には考えてるんだが。

晩年の日新斎のちょっと寂しいお話

2009年04月19日 00:05

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 01:15:49 ID:Wn67dZPd
島津忠良(日新斎)には嫡男の貴久の他に、忠将と尚久という息子がいた。

次男・忠将は貴久の6つ年下。
異母弟の三男・尚久は貴久より17歳も年下で、貴久の息子・義久より2つ年上。
尚久は義久・義弘とは日新斎のもとで兄弟同然に育ったといわれる。

忠将は薩摩大隅の領内統一戦に於いて、ほぼ全てに参戦し各地を転戦、武功を上げた勇将だった。
貴久を良く補佐し、戦では常に最前線に立ち続け、
初期の戦国島津家を支えたのは武略に優れた忠将だったという。
貴久と忠将の兄弟関係は、後の義久・義弘にも大きく影響を与えていると言って良い。

尚久は日新斎の隠居地・加世田からほど近い鹿籠(現在の枕崎)の地頭になり、
こちらも各地を転戦していた。
鹿籠は坊津を含めた南薩摩の南岸一帯を抑える拠点であり交易や倭寇の統括も
任されていたと伝わる。
尚久は日新斎晩年の子で可愛がられて育ち、一説には成人する頃には
身の丈七尺もあり四尺の大刀を
軽々と振り回す大層なイケメンだったそうな。

そんな貴久の弟二人であるが、肝付兼続や根占氏・伊地知氏との廻城攻防戦(1561年)で一気に
運命が暗転する。
忠将は竹原山にて町田久倍らの味方が未明に肝付勢の急襲されたとの報を受け、救援するため
馬立塁から出陣。
小勢での救援に家臣は本陣を動かないよう忠将を諫めたが聞き入れず出撃したところ、
山中で伏兵の挟撃を受け
後続の味方が駆け付けた時には忠将主従数十人は悉く討ち死にしていたという。享年42。
この後、貴久は肝付勢を一旦退けることには成功したが軍を立て直すために一時撤退。

三州統一に向け順調に邁進していた最中の忠将の若すぎる死は、当然ながら家中に大きな動揺が走る。
殊に忠将に大きな信頼を寄せていた日新斎の嘆きと哀しみは計り知れぬものがあった。

廻城合戦では総大将の貴久を初め、尚久や義久など主だった武将はほぼ参戦していたが、
ここで日新斎は
「……なぜ忠将をすぐに助けに行かなかったのじゃー!!」
と、忠将を失くした怒りと悲しみの矛先を 『尚久の敵前逃亡』 と決めつけ激しく叱責したのだった。

尚久としては救援に向かうも城の南方にあった忠将の陣とは深い谷に阻まれていたため
進軍が遅れたわけだが、父・日新斎の敵前逃亡の謗りに大きなショックを受けた。
「何故オレが…」と思ったであろう尚久、このことを大変気に病んだと言い
翌年(1562年)に病を発し、32歳の若さで急死。
地元の郷土史には衝撃と心外の余りショック死したと伝わる程の顛末と相成ることに。

尚久の家臣・尾辻佐左衛門は、悲憤しつつ亡くなった主人を憐れみながらかねての約束もあり、
殉死すべく日新斎のところへ挨拶に伺ったところ、両刀を取り上げられてしまったので
近くにあった石角で切腹して尚久の後を追ったそうな。

日新斎は1568年に77歳の長寿を全うしたが、忠将・尚久の息子二人に先立たれた悲しみは
非常に深かったという。
晩年の日新斎のちょっと寂しいお話。





745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 09:27:05 ID:8ENrp2SP
島津一族は鎌倉以来といっても、あまりに支族が増えすぎて
この時代、実力は国人とそれ程変わらなかったのでは。
精々数百人規模の動員力では。運悪ければ大将も逝くでしょう。
貴久は、鉄砲が上手かったとか。

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 14:58:37 ID:r2yQH4pG
>>742
そんな尚久さんの同母妹が同じ戦に参加していた義久さんの嫁です・・・
義久から見るとおばさんのはずだが、>>742さんの話からすると年離れてないのかも。

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 15:26:17 ID:WnCCQo08
おばさんと結婚したのか?
珍しいな。どういう政略結婚だ

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 17:18:25 ID:53fFVnJU
>>757だお。
日新斎じきじきの采配で自分の娘と嫡孫を合体!
一応、総領息子の倅を見込んでやったことらしいが……

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 17:45:41 ID:ePeZllAw
>>757
義久の元服後の名乗りは「忠良」だから、日新斎の爺さんは
義久には自分の同名許すくらい相当入れ込んでたらしいね、>>763の言う通り。

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 18:54:42 ID:WnCCQo08
同じ名門の武田勝頼なんかは外交道具の姫を娶ったのになぁ
せっかくの姫を身内で使っちゃうってなんか勿体無い気も
後妻は種子島氏の子らしいけどさ

774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 19:23:38 ID:r2yQH4pG
>>771
せっかくの姫だから目の届くところにおいておきたいのじゃよ

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 19:58:51 ID:EflVdIiL
血を集中させる事で特殊性や権威を高める狙い
エジプトみたいに兄弟婚まで行くとアレだが

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 21:38:41 ID:WnCCQo08
調べたら義久の後妻もいとこじゃねーか!
悪いほうの家久もいとこだし島津家どーなってんだよ
上代皇室並みの近親婚じゃねーか!

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 21:43:28 ID:CI8taEQG
一族の縁を繋ぎ止めるのには結婚が一番ですしおすし
毛利もやってんじゃん
五龍局が生んだ娘二人と吉川元長と毛利輝元がそれぞれ結婚

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 21:48:42 ID:WnCCQo08
もしかして意外にポピュラー?
姫って外との結びつきに使うもんだと思い込んでたわ

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 22:00:37 ID:3p4zWcSZ
戦後までで武士公家農民問わずもっともポピュラー結婚スタイルが、いとこ婚らしいぞ。

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 22:52:18 ID:2JIQDORU
下手に他所と縁戚持つと厄介だしな

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 23:04:42 ID:VXYyOkvT
島津の近親婚は同族間の結束を固める意味もあったんじゃないかな。
一族での争いに明け暮れてたわけだし。
でも久保が死んだからって弟の家久(悪)に嫁がされる亀寿は…

784 名前:匿名希望武将さん[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 23:45:50 ID:7ifaFiXZ
>>782
滅ぼすチャンスではありませんか?



784 名前:匿名希望武将さん[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 23:45:50 ID:7ifaFiXZ
>>782
滅ぼすチャンスではありませんか?

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/19(日) 00:08:36 ID:Dudfa+Bi
U喜多さんあらわる

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/19(日) 00:15:55 ID:6lm44Mnt
S玄公「何、妹の嫁ぎ先? そんなの関係ねえ」
S玄公「何、息子の嫁の実家? そんなn(ry

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/19(日) 00:44:55 ID:DiZwEyhZ
日新斎の別の娘は肝付家に嫁いでるよ。
しかも権力握った嫁ぎ先を島津に吸収させてる。

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/19(日) 01:05:06 ID:D+JQ/QTQ
>S玄公「何、妹の嫁ぎ先? そんなの関係ねえ」
忠興「いやあ」
忠恒「まったく」
義光「同感ですな。」

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/19(日) 01:06:06 ID:BXAtYlJe
>>788
義光さん、心配そうにソワソワしながら言われても……。

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/19(日) 01:07:16 ID:Dudfa+Bi
>>788
>義光
妹に叱られて戦をやめちゃうような人に言われてもw

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/19(日) 01:12:12 ID:pSyMYG4X
>>779
>五龍局が生んだ娘二人と吉川元長と毛利輝元がそれぞれ結婚

元長は早世
TERU元はご存じの通り

実はこの結婚悪い話だったのか?

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/19(日) 01:18:54 ID:/7pK8ML5
義光「オレはいざとなれば、妹なんか関係ない非情な男だぜ!?」

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/19(日) 01:39:12 ID:2alRbgEa
>>791
>TERU元はご存じの通り
でも決して正室がないがしろにされていたわけじゃないぞ
側室との間に生まれた秀就のことは南の方もかわいがってたみたいだし
墓所は輝元と南の方でセットになってるし

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/19(日) 04:53:30 ID:zYPXjnCR
>>792
義光さん、それ妹さんの耳に入るとマズイのでは……?。


799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/19(日) 11:40:49 ID:pSyMYG4X
>>793
       ____
     / TERU \
   /( ●)  (●)\
  /::::::⌒(__人__)⌒::::: \   そうだお!
  |     |r┬-|     |   南の「うちの嫁さんは婆で立つ物も(ry」といったDQNとは違うんだお!
  \      `ー'´     /

こうですかよく分かり(ry

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/19(日) 13:11:45 ID:K1a1USVI
>>788
そう言えば忠恒の妹は誅殺した伊集院忠真の嫁だったなw
しかも事件の後に島津尚久の孫の久元に無理やり嫁がせてる鬼畜ww

久元は既に4人も子どもいて夫婦仲睦まじかったのに
わざわざ離婚させてまであてがうという無茶をやらかす忠恒さん半端ないw

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/19(日) 13:44:14 ID:Ugc9IrAy
イトコ婚というと尼子晴久(経久嫡孫)もそうだな
尼子国久(経久次男)の娘と結婚している

その妻が病死後
国久・誠久親子を粛清(新宮党事件)


島津忠良の教訓いろは・いい話

2009年03月21日 00:18

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/20(金) 20:54:37 ID:Qgaq66fc
島津家中興の祖と言われる島津忠良
彼は教育のためにいろは歌を作り家臣の教養向上に役立てたという
以下はその一部

理も法もたたぬ世ぜとてひやすき 心の駒の行くにまかすな
訳:道理が通らず法も守られぬ乱世であっても、自分ひとりは心を奮い起こして正義と人道を守り通せ。

善きあしき人の上にて身をみがけ 友はかがみとなるものぞかし
訳:自らを省みるのは難しいが、他人の善悪はよく解るので、友人を見て習い、悪いことは反省せよ。

つらしとて恨みかえすな我れ人に 報い報いてはてしなき世ぞ
訳:相手からの恨みを返しても連鎖するだけなので、恨みには徳を持って対処すべきである。

敵となる人こそはわが師匠ぞと おもいかえして身をもたしなめ
訳:自分にとっての敵を師と思えば、反面教師として手本が見えてくる。自重自戒せよ。

善にうつり過れるをば改めよ 義不義は生まれつかぬものなり
訳:善にうつり、過ちは改めよ。義不義は生まれつきのものではないので悪いと気づいたらすぐ改めよ。

いにしへの道を聞きても唱へても わが行にせずばかひなし
訳:いにしえの賢者の立派な教えや学問は口に唱えるだけで無く、実践実行する事が大事である。


現代人にも通ずるところがあるだろう




50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/20(金) 22:07:28 ID:HUXwgRVp
>>44
よく綺麗に歌にまとめられるものだな。

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/20(金) 22:22:38 ID:UFQGRECX
>>50
この調子で『いろは~もせす』全部作ってるんだぜ。
これをおじいちゃんが孫を膝に乗せて読み聞かせてるところを
想像するとなんかほのぼのするよ。

54 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/20(金) 22:30:57 ID:OHTFFuCz
>>44
メモ帳にコピーしました。

58 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/20(金) 23:03:54 ID:a+sDgfXr
>>50
家久(悪)も詠んで育ったのかなぁ…

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/21(土) 12:20:14 ID:JEiXzpry
島津日新斎のいろは歌は
当時の関白・近衛植家(近衛前久の親父)に添削頼んだら一首だけ
少し手直しして貰って、絶賛の跋文(あとがき)を書き残してもらったり
当時日本一の歌人とうたわれた花本宗養法師に一首ごとの評をもらったとか

法師さんは最初ふつーに読み始めたら「これは…」と思い直して
すぐ冠をつけ衣を着直してあらためて読んだと伝えられてる

確か歌留多があったはず。市販してんのかな?

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/21(土) 12:39:47 ID:808qSxta
>>63
ググったが出てこないな
すごく欲しい

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/21(土) 13:07:59 ID:6jNXv6gp
>>63-64
よくわからんが
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%81%9F%E3%80%8C%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E3%81%84%E3%82%8D%E3%81%AF%E6%AD%8C%E3%80%8D-%E5%87%BA%E7%89%88%E6%96%87%E5%8C%96%E7%A4%BE/dp/4883383296/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1237608384&sr=8-1
これか?

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/21(土) 14:41:05 ID:Wb+3HHOp
>>65
紹介文を見る限り、それであってると思うよ。
義久のいろは歌も市販されるといいなぁ…。

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/21(土) 15:54:22 ID:808qSxta
>>65
あ、それか
違うものだと思ってたスマソ

島津日新斎忠良の葬式・いい話

2009年03月04日 00:21

471 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/03(火) 01:13:14 ID:9KiMqt40
二十年以上にわたり続いた島津家の家督争いがようやく終結し、
島津貴久の鹿児島の内城入城から暫くたったある日のこと
貴久の父、島津日新斎忠良は貴久や家臣団にこう宣言した



忠良「私、日新斎こと梅岳常潤在家菩薩は無辺の大願を成就するため往生することに決めた
○月×日に往生するから懃に供養してやって欲しい。
何、心配するな準備はもう完了しておるからな。以上」

慌てた貴久や家臣団は再三にわたり忠良を説得し、何とか思い止まらせた。

忠良は往生を思い止まるかわりに家臣団に、忠良に対し島津家繁栄のために
忠誠をつくすことを誓わせ
記念に空の厨子を火葬し、供養の施行をした。


生きながら自分の葬式を行った男島津忠良

因みに本人はこの葬式から16年後、77歳で没した。





473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/03(火) 01:33:37 ID:xorp7WVW
   ヾミ || || || || || || || ,l,,l,,l 川〃彡|
     V~~''-山┴''''""~   ヾニニ彡|       葬式は出す・・・・・・!
     / 二ー―''二      ヾニニ┤       出すが・・・
    <'-.,   ̄ ̄     _,,,..-‐、 〉ニニ|       今回はまだ生前葬だけで
   /"''-ニ,‐l   l`__ニ-‐'''""` /ニ二|       往生するとは言っていない
   | ===、!  `=====、  l =lべ=|
.   | `ー゚‐'/   `ー‐゚―'   l.=lへ|~|       そのことを
    |`ー‐/    `ー――  H<,〉|=|       どうか諸君らも
    |  /    、          l|__ノー|       思い出していただきたい
.   | /`ー ~ ′   \   .|ヾ.ニ|ヽ
    |l 下王l王l王l王lヲ|   | ヾ_,| \     つまり・・・・
.     |    ≡         |   `l   \__   儂がその気になれば
    !、           _,,..-'′ /l     | ~'''  実際に死ぬのは
‐''" ̄| `iー-..,,,_,,,,,....-‐'''"    /  |      |    10年後 20年後ということも
 -―|  |\          /    |      |   可能だろう・・・・・・・・・・ということ・・・・!
    |   |  \      /      |      |

井尻宗憲の殉死の仕方

2009年03月04日 00:18

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/03(火) 22:32:47 ID:s2gCyZfk
日新斎島津忠良の家臣に、井尻宗憲という男がいた。

人となり深く静かで、義勇に富むとされた彼は出家し、山伏・神力坊と名乗ったが、
日新斎の命により全国66ヶ所を廻り、国家鎮護の祈祷と納経をすることになった。

時は戦国乱世の時代、危険極まりない旅であったが、神力坊は22年の歳月をかけて
これを成し遂げ、天正3年(1575)、ついに薩摩へと帰って来た。


みやげ話に胸を膨らませた神力坊を出迎えたのは、冷たい墓石と化した主君だった。

悲しみのあまり殉死せんと考えた神力坊だが、彼は主命による難業を果たすために

『われ、出家の身となったからには、決して刃に伏して死すべからず』
という誓願を立てており、切腹することが出来ない。

ついに大木の下に岩を置き、木に登って岩目がけて真っ逆さまに落ちて死んだ。

鹿児島県南さつま市加世田・竹田神社の日新斎の墓。その隣に彼の墓は、ある。
また、現鹿児島県知事・伊藤祐一郎氏は、彼の子孫である。




499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/04(水) 12:41:08 ID:QfEE8JdH
>>487
忠義を守ったという点ではいい話だが、悲しい話っすね・・・
伊藤氏のご先祖は確かに井尻氏(途中で改姓)なんだが、江戸時代では肩身の狭い郷士
しかし明治維新で没落する城下士を後目に農地を買いまくり勝ち組となった人らすぃ

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>>487関連
島津貴久の乳母はこの井尻氏の関係者なのだが
貴久誕生の2年前に 4 5 歳 で出産
乳の出が良かったのかどうか47歳で貴久の乳母に召し抱えられる。
貴久が島津勝久の養子になったときにも同行
勝久が島津実久とタッグを組んで突然養子縁組を解消し貴久を殺そうとしたときには
貴久と十数人のわずかな供のリーダーとなり脱走に成功。この時60歳。
その後27年生き87歳で死去。

この当時の平均寿命を考えると強烈なばーちゃんである。

島津日新斎の教育のされ方・いい話

2009年03月01日 00:18

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/27(金) 23:37:48 ID:XD9M4hC+
島津氏中興の祖と呼ばれる島津日新斎
彼の父は幼い頃に下男に討たれ他界
彼の母常盤は父親が亡くとも武家の人間として立派な人間にするために
海蔵院の頼増に日新斎預けた
頼増は厳しく躾けたが、日新斎は当時10才で遊びたい盛りであった
ある日、寺の坊主たちと日新斎が寺で暴れ回っていた
これを見た住職頼増は激怒、薙刀を持ち出して日新斎達を追い回した
脱兎のごとく坊主たちは玄関から逃げ出した
ところが日新斎だけは何故か玄関の前でジッとしている
追いついた頼増が「何をしているのか?」と訪ねた
薙刀持ってる人間が追い掛け回しているのである。普通なら逃げるだろうと
すると日新斎、「履物がないので逃げられない。誰かに持ってこさせてくれ」と回答
この返答に頼増は激怒するかと思いきや
「それこそ武家の子、あなたは良き大将になられるでしょう」と褒め称えた
追い掛け回されてる時でも裸足で逃げるという無様な真似をせず
武家の人間としての心構えを忘れなかったといういい話?

ちなみに同じ九州の武将、立花宗茂は幼少の頃道雪に預けられてまもなくのこと、
足にイガグリが刺さったから抜いてくれとに頼んだらむしろ押し込まれた
見ると道雪が怒りの顔で宗茂の方を見ている
こちらは坊ちゃん育ちを戒められた悪い話




375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/27(金) 23:49:26 ID:YR9G/KzF
あかん、毬栗はあかん

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/27(金) 23:53:20 ID:mHNPpkNb
まあ日新斎は将来の主君であり、宗茂は重臣の家系とはいえ、あくまで家臣だからねえ。

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/28(土) 00:44:00 ID:CCtwuGzt
>>365
日新爺様の教えとあれば仕方ない。

……嫡孫の嫁に自分の娘をやったのはkNEg

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/28(土) 00:56:31 ID:QrI3T9fq
>>377
長宗我部盛親「叔母や姪と結婚だなんて信じられないよね」

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/28(土) 01:13:24 ID:XykCqYZA
長宗我部元親「そんなことやれって言う奴の気が知れないな」

389 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/28(土) 12:40:46 ID:6tFVE+Mt
>ちなみに同じ九州の武将、立花宗茂は幼少の頃道雪に預けられてまもなくのこと、
足にイガグリが刺さったから抜いてくれとに頼んだらむしろ押し込まれた
だけどいったん主君と認めてからは虚無僧に身をやつしてでも主君の生活を支える
立花家臣団がもはやツンデレにしか見えない俺末期。

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/28(土) 15:10:35 ID:Vv6ashFp
>>389
某小説のせいで、主君千代共々君臣揃ってツンデレにしか見えない