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彼は人体静かにして、公儀つきも良く

2021年05月13日 17:49

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/13(木) 16:20:17.66 ID:HSTG9AXZ
生駒左近(光政様ノ家士也)はかつて、織田常真(信雄)に小々姓として仕えていた時、
信雄は何かの用があって左近に、「ここより内に人を入れてはならない。」と申し付けた。
そこで左近がその口で番をしていると、信雄家中で出頭の者がそこを通ろうとしたため、
先に信雄より申し付けられた事を申して止めたが、それを聞かず通ろうとしたため、
左近は彼を斬り殺した。その後、若輩では有るが理に当たるとして、褒美が与えられた。

彼は人体静かにして、公儀つき(上の覚え)も良く、それ故か武州様(池田利隆)より、
光政様の御守として付けられた。しかも、少し私曲があり、その故か、その頃生駒家が断絶
しそうになっており、当主の死も間近であるということで、左近がそれを相続するよう
仰せになられた。庚申(1680年)十一月十九日、備前西の丸御内所にて御物語された。

烈公間話



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池田光政の少年時代のこと

2020年11月02日 16:30

676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/02(月) 14:21:50.00 ID:gpMCPYrC
公(池田光政)が東照宮(徳川家康)に御目見得有ったのは、五つの御歳であった。
その時、御脇差を拝領し、公が御膝下近くに居られたのを、東照宮は公の鬢髪をかきなでて

「三左衛門(池田輝政)の孫であるか、早く人になり給え」

と仰せになった。この時公は、御拝領の脇差をするりと抜いてご覧になった。東照宮は「これは危ないことだ」
と、ご自身で柄を持たれ、鞘に納められた。

公が退出される時、「眼光のすさまじき、只人ならず」との東照宮の上意が有った。

公が未だ幼き時、夜ごとに寝床に入られても、眠られること無く、夜明け頃にわずかに枕に伏された。
近侍の人々は怪しみ、「いかなる事でしょうか?又は患われている事でもあるのでしょうか」と尋ねたが、
しかじかと答えられなかった。

ところがある夜より、非常に良く寝られるように成った。そこで近侍の人々も又々その故を問うた所、

「私は父祖のお陰で、このような大国を賜っっている事は、自分の分に越えた事だと思っている。
然れば、この国民をいかがして治め養うべきかと、様々に心を尽くして思慮していたために、久しく
寝られなかったのだが、思いついたことが有って、昨日論語を読ませて聞いたが、そこで私は
『君子の儒となりて、国産を教えやすんずべき』という事を知った。
これを決断した上は、別の思慮も無く、良く寝られるようになった。」
と仰せになった。
(御歳十四の御時の事という。一説には公が学問を思し召し付かれた最初である)

有斐録

池田光政の少年時代のこと



座の興が冷めるのも構わずに飲みなさらず、一器量あり

2019年09月16日 16:11

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/16(月) 16:04:14.18 ID:YGXmz8gp
去る人は酒飲みで上戸だという。しかしながら、他所では飲みなさらなかった。

無理に一盃を盛れば「没義道好き」と毀ち、座の興が冷めるのも構わずに飲みなさらず、
一器量ありと見え申したのである。

その人の名を(池田光政は)仰せられたが、忘れてしまった。小身の御旗本衆ではない。

――『烈公間話』

戦国期の人ではないかもしれませんが



410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/17(火) 22:48:38.12 ID:XdcEiAyO
>>406
本多正純「してその者の名はなんと?」φ(`д´)メモメモ

どこもかしこもみなやけ申候

2019年01月05日 18:20

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 21:11:35.24 ID:+NkA4Ls3
どこもかしこもみなやけ申候


以下は元和7年1月に江戸の徳川義直の新邸から出火した火事について
13歳の池田光政が国元にいる父・利隆の乳母・栄寿尼に報じた手紙。

________________________________________

一ふて申し参らせ候。
こゝもと正月廿四日のなゝつぢぶんからおわりのちうなごん様(徳川義直)、
なへしま(鍋島)、くない(池田忠雄)、扨、まさむね(伊達政宗)、もりいまさか(森忠政)、
おれかやしきはかりやけす候、さこん殿(池田輝澄)、うきょう殿(池田政綱)、
てらさはしま(寺沢広高)、廿四日の七つちふんからひるの四つしふんまてやけ申候、
どこもかしこもみなやけ申候めてたく、かしく。

   正月廿四日        新太  幸隆(花押)
      うはゑいしゅ 参

     おわり(尾張)     みと(水戸)       きの(紀州)
       △            △            △
              このふたついゑはのこり候

めんめんに文にてもかへすかへす申候、はんすれとも
いそかしく候間まつ此むきにて候、かしく。
________________________________________

大名屋敷が25軒も燃える大火事で他にも上杉、毛利、島津などが焼けたらしい。



567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 21:35:36.19 ID:0RJw0w3F
子供にまで"まさむね"と書かれるのか

池田光政、お見舞いのお菓子を作る

2018年12月29日 17:15

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/29(土) 16:10:06.29 ID:0XdPBbAf
池田光政、お見舞いのお菓子を作る


御大老の酒井雅楽頭(忠勝)が(病気で)御不食のとき、御大名方が珍味を贈り物に
していたので、公(光政)も何か(雅楽頭に)差しあげたいと思われた。
御膳奉行を呼んで相談したところ、浮麩*がよいということになったので、赤小豆をすり
米粉を取り寄せて、御自身で拵えて小さい重箱に入れられた。
(光政は)御留守居役を使者として遣わしたが、余りにも少ししかないので(雅楽頭が)
気分を害されるかもしれないと使者は思いながら参った。

御口上を申し入れると、御使者へ逢われるそうなので待つようにと言われ暫くして
奥へと段々通され居間の襖障子が開くと、そこに(雅楽頭が)いらしゃった。
「新太郎殿(光政)の御使者に、懇意の贈り物のお礼を申せそうにありません。
 最近は何も食べられなかったのですが、御親切のお礼に食べてみせますよ」
と仰せられ、快く一つ分を召し上がった。

このことを帰ったら申し上げるように伝えられていたので、(光政は)殊の外お喜びに
なり、御使者も存外の首尾で帰ってくることが出来た。


ーー『率章録』


その心持ちがないのは不孝だ

2018年07月25日 21:38

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/24(火) 23:33:26.46 ID:IOR1qyBx
その心持ちがないのは不孝だ


池田利隆の正室の鶴姫(福照院)は、慶長10年12才のときに
10才年上の利隆と結婚したが、元和2年22才で利隆と死別し尼となった。

嫡男の光政は母親に孝行しようとする気持ちが強く、福照院といるときは
母の心を慰めようとおどけて見せるので、近習や女中が堪えきれずに笑って
しまうことが平生の事であった。

福照院が庭に松を植えたはいいが気に入らず、何度も植え直させたときには
光政自ら鍬を持って、母の好みに合う場所を探し植えた。
また光政は、母が吸うためのたばこを刻む*ことさえあったという。

あるとき福照院が、挟箱を持っている奴の真似が見たいと言ったので
光政はすぐに箒を使って挟箱持ちの真似をした。
そのとき政言(光政次男)も、福照院から真似をするように言われていたが
光政の真似を見て涙を流しながら笑っていたので、まともに出来なかった。

光政は甚だ怒って政言を睨んだが、福照院が笑っているので
母のいるところから離れてから、政言に向かって
「国を領する身であるのに、親の奉養事がこのようでよいのだろうか。
 ただ奉養することを楽しみ喜ぶべきなのに、その心持ちがないのは不孝だ」
と仰せられたという。


――『明君逸事』

* 当時のたばこは刻みたばこで、吸うには葉を刻む必要があった。


池田光政、お尻をつねられる

2018年07月15日 17:56

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/15(日) 12:18:31.01 ID:LUY+taW2
池田光政、お尻をつねられる


池田家臣の片桐半右衛門俊元*は元は織田家臣だったが、池田恒興が
桶狭間で戦功を挙げた際、信長に願い出て家臣にしたという。
同年には対斎藤龍興の押さえとして軽海西城を修築し居城とした。
その経緯上池田家中での立場は重く、恒興の四男・長政が9才のときに
息子がいない俊元の婿養子とした程であった。
池田輝政が三河国吉田を領するようになると、俊元は新庄城主となったが
慶長2年に亡くなったため、長政が片桐家の跡を継いだ。

ところが長政の正室だった俊元の娘が男子のいないまま早世したため
慶長10年に長政は、加藤嘉明の娘まんを継室として迎えた。
婚礼で嘉明が長政の屋敷を訪れると、輝政と利隆は丁重に接待したという。
11年には嫡男の長明が生まれたが、12年に長政が33才の若さで急逝してしまい
長明は母と共に松山に行き、そこでしばらく養われることとなったが
18年に輝政が死去し利隆が跡を継ぐと、長明は播磨に戻った。

ちょうどその頃5才になった光政(利隆の嫡男)が、長明の屋敷を訪れ
扇子を一旦長明にあげたものの、しばらくすると扇子を取り返してしまった。
そこに長明の母のまんが
「こんなことをする御心で、大国の大将になることが出来るでしょうか」
と言って、光政のお尻を強かにつねったという。

(光政が大人になった後)長明に向かって
「そちのお袋がきつい人なので、強かにつねられてしまったよ」
とこのことを話して笑うので、(その度に)長明は困っていたという。


――『明君逸事』

* 祖父は足利義晴に仕え、父の代から織田家臣となる。豊臣家重臣として
 有名な片桐且元は正室がこの片桐家の娘で、同族であるという。
 孫娘(池田長政娘)も且元の長男の采女に嫁いだ。


「これは危なきことよ」

2016年06月15日 13:14

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 03:36:11.83 ID:nrusAHo5
池田光政徳川家康に御目見したのは5歳の時だった。その時、彼は脇差を拝領し、
家康の膝元近くにいた。家康は彼の鬢髪をかき撫でて、

「三左衛門(池田輝政)の孫である。早く大人になり給え」と、言った。すると光政は
拝領した脇差をするりと抜いて見つめた。家康は、「これは危なきことよ」と言って、
自ら柄を持ち、鞘に納めた。

それから光政が退出した後に家康は、「眼光の凄まじさは常人ではない」と、言った。

――『有斐録』



池田光政に山鹿某を推挙したところ

2014年02月24日 19:09

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/24(月) 17:16:24.28 ID:kb6mO7pp
山鹿某(素行)という士は軍学諸流を兼学して一統を起こし、経学より論を立てて
武を講じ、孫子呉子三略の趣旨を今日の和法に用いて古の軍学者などの及ぶところではなく、
まことに常用の武備はこの人に在りと、世間はこぞってほめている。

ある人が池田光政にその山鹿某を推挙したところ、光政は次のように言ったということだ。

「軍法兵学は、旧家にはそれぞれその家の軍法がある。武田家に山本勘助の軍法が、
上杉家に宇佐美駿河守の軍法があるようにな。我が池田家にも軍法があって、
信長の代より数十度の戦場に一度もおくれを取ったことがない。だがら我が家においては
(軍学者を)召し抱える必要がない。

いまは太平の代だから軍学などと言うが、乱世に生まれた者の軍学は皆自己の鍛練だ。
それは加藤清正、小西行長などが、朝鮮までも切りなびいたことから知ることができる。
それに古来未曾有と言われた豊臣太閤が軍学をしたということを聞いたことがない。
また、神君(徳川家康)に軍学の師という者はいないが、このように天下を平治なさった。

いま太平の代に立身して大名となった人で、先祖よりの軍法がなく自身で立てた法令のために
心許なく思う人こそ、軍師を召し抱えて法令を定めるのがよい。我が家には先祖よりの
軍法があり、乱世を過ぎて治世にあって国家はよく治まっているので、軍学は家に伝わるもので
足りるのである。新たに師を召し抱える必要はない。

そのうえ『乱世には武を以てし治世には文を以てす』といって、治世に国家を治めるには
仁義の道こそ肝要だ。故に熊沢五郎八(二郎八、蕃山)を召し抱えている」

その後、山鹿を津軽信政が召し抱えたいと思ったが、家老の神保三右衛門が無理をおして
留めたということである。

――『明良洪範』





池田光政は生涯フキを食べなかった。

2012年02月09日 21:57

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/08(水) 21:50:31.23 ID:aT/7iTip
初カキコついでに、今日の読売のコラムに乗っていた話を一つ。

岡山藩の名君・池田光政は、父親がフキ畑で討ち死にしたため、生涯フキを食べなかった。
あるとき、儒者の熊沢蕃山が軽口を叩いた。
「殿はお幸せですなあ。水田で最後を迎えていたならば、米を召し上がれませぬ。」
これに光政、「うん・・・」 と答え、そのまま黙り込んでしまった。
軽口叩いたつもりがとんでもない地雷を踏んでしまったと、蕃山は深く嘆いた。

しかし、wikiを軽く覗いたら親父さん病死って・・・あるぇー?

命にまつわる話題を軽々しくいった儒者の悪い話





29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/08(水) 22:08:02.85 ID:aBXe/gc/
欸冬(フキ)畑で討たれたと伝わるは祖父の恒興だな

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/08(水) 22:17:00.63 ID:9J7KTrdJ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4354.html
確かに畑で討たれたようだ>恒興

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/08(水) 22:39:42.35 ID:fQyb4ZDi
揚げ足取るようだけど祖父は輝政ですがな

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/09(木) 10:35:52.29 ID:QurygYdp
っていうかなんで「革新」のグラだと抜刀してるんだろ?

池田光政が汁物に虫が入っている事に気づいた

2010年01月29日 00:03

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 21:44:00 ID:32uDB/vj
池田光政が家臣たちと食事していると汁物に虫が入っている事に気づいた。
光政はそっと蓋をすると家臣たちに汁を飲むなと言った。

食事を終えた光政は係の役人を呼ぶと仔細を話して、以後気をつけろと注意した。
すると係は涙を流し始めたので理由を尋ねると家臣はこう言った。

「私にも同じような事がありました。その時、私はカッとなって鍋を投げつけたために
その者は全身火傷で死んでしまったのです。上様のありがたいお言葉を頂いて、
あの時は酷い事をしたと思うと涙が流れます…。」




86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 21:57:17 ID:E0r5HWHh
>>85
その時気付けよ(´・ω・`)

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 22:01:23 ID:N7UQ7Zxr
三成「私なら虫ごと飲んでいた」

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 22:03:22 ID:9weoB+cD
>>85
海原雄山みたいな家臣w

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 22:05:41 ID:+z2vJtXX
鹿之助「我に七難八苦を与えたまえ・・・」
カサッ
鹿之助「ん?」
カサカサ
鹿之助「おお、まずはこの虫を食べよという天の苦行に違いない」
そして毛虫を食べて蕁麻疹を起こす鹿之助

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 22:12:24 ID:hLIjAgs7
杯に大蜘蛛が落ちたのを見た後にそれごと酒を飲み干した武将がおってな

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 22:20:07 ID:cIUCURo4
晴信「虫を食うとか勘弁してよ…全身紫色になっちゃうよ」

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 22:21:03 ID:1CEY32Xy
光秀「それは鮒寿司です」

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 22:25:32 ID:vcC9SjcR
鍋を投げつけ殺すってどんだけだよ

94 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/28(木) 22:33:34 ID:4Ltqmrvp
料理も合戦なんだな
この時代は何やっても死ぬ危険性がある

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 22:38:46 ID:p0O9EyRo
坂崎直盛「料理人は大切にしないとだめだよねー。」
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-317.html

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 23:16:29 ID:T1efx5ug
>>85
   、ミ川川川彡                 ,ィr彡'";;;;;;;;;;;;;;;
  ミ       彡              ,.ィi彡',.=从i、;;;;;;;;;;;;
 三  ギ  そ  三            ,ィ/イ,r'" .i!li,il i、ミ',:;;;;
 三.  ャ  れ  三    ,. -‐==- 、, /!li/'/   l'' l', ',ヾ,ヽ;
 三  グ  は  三  ,,__-=ニ三三ニヾヽl!/,_ ,_i 、,,.ィ'=-、_ヾヾ
 三  で       三,. ‐ニ三=,==‐ ''' `‐゛j,ェツ''''ー=5r‐ォ、, ヽ
 三.   言  ひ  三  .,,__/      . ,' ン′    ̄
 三   っ  ょ  三   /           i l,
 三.  て   っ  三  ノ ..::.:... ,_  i    !  `´'      J
 三   る  と  三  iェァメ`'7rェ、,ー'    i }エ=、
  三   の   し  三 ノ "'    ̄     ! '';;;;;;;
  三   か  て  三. iヽ,_ン     J   l
  三  !?    三  !し=、 ヽ         i         ,.
   彡      ミ   ! "'' `'′      ヽ、,,__,,..,_ィ,..r,',",
    彡川川川ミ.   l        _, ,   | ` ー、≡=,ン _,,,
              ヽ、 _,,,,,ィニ三"'"  ,,.'ヘ rー‐ ''''''"
                `, i'''ニ'" ,. -‐'"   `/
               ヽ !  i´       /
               ノレ'ー'!      / O

池田光政6歳、江戸城での思い出・悪い話?

2009年06月14日 00:01

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 01:12:27 ID:o784Fl9E
秀忠のエピソードで一部出てたけど、全部は無いようなので書き込んでみる


池田光政は6歳の時、初めて徳川家康に謁見をした。
この時家康は白い小袖に頭巾をつけていた。
「これが武蔵守殿子であるか。壮健な生まれつきのようで何よりだ。」

それから江戸に下り、将軍秀忠にもお目見えをした。
この時秀忠は織田常真(信雄)と碁を打っていた。常真は大あぐらをかいていた。
お目見えが済むと秀忠は光政に、

「勝手に行って飯を食うが良い。土井利勝、案内するように。」

そこで御勝手で料理を頂戴したのだが、その料理は蕪汁、大根膾、荒目の煮物、
干し魚の焼き物という、大変質素な物であったそうだ。

池田光政は後年、このことを語り
「あの当時はこのように、風俗皆質素であった。ところが今は有様を大きく異にし、
万事華美に、驕奢になり、しかも日々止まる所を知らない。
この後の世の中は、一体どうなってしまうのか…」

そんなふうに、語られたそうである。
豊かになった世の中に、一抹の不安を感じる光政公なのであった。


で、そんな思いから
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1528.html
こんな事をしちゃって、領民にはちょっと迷惑なお話。





244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 03:00:18 ID:SpwYy3M6
>>241よもやバラ寿司誕生の歴史に繋がろうとはw

宇喜多八郎殿や金吾中納言の目をもってしても見抜けまい!


池田光政、幕府に謀反を疑われ・いい話?

2009年05月28日 00:04

16 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/05/27(水) 20:58:04 ID:BOF4Jlut
まとめから来ますた
個人的には宇喜多のが好きだけど、池田光政公の話をば…
文才無いけどどうかご容赦を

光政公、三名君と謳われるほどのやり手であると同時に、幕府に謀反を疑われたりする
独立不羈な人物でもありました。
なんと光政公、謀反の噂が流れると釈明どころか藩領の西端(江戸方向)に城のような
威圧的な建物を、あてつけがましく普請したのです。
場所も山陽道を扼する山腹のこと、幕閣も「すわ築城か!?」と色めきたちます。
しかしながらこの建物、城ではなく学校として使用されたのです。
光政公は母も妻も将軍家からの入嫁であり、多少の無茶もできたのでしょうが、
彼の剛毅な(偏屈なw)性格が覗えます。

現在もこの学校は「閑谷学校」として現存(講堂は国宝)しています。




17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/27(水) 21:18:20 ID:h66OkbIN
>16
閑谷てめっさ紅葉が綺麗なとこだよ~

秋に平服で行くと確実にカゼをひくくらい涼しい。夏でも涼しい。

しかし、領地の西側って江戸じゃなくね? <旧地名ならごめん

18 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/05/27(水) 21:44:12 ID:BOF4Jlut
>>17
スンマセン、普通に東でした
一応地元なのに、何をトチ狂っていたのかorz

観光㌧ですw


チラシ寿司が出来るまで

2009年03月05日 00:14

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/04(水) 13:18:54 ID:o9YZg3wR
昨日はひな祭りでしたね

結果的にいい話
チラシ寿司といえば岡山県
チラシ寿司が出来るまで

ある日、岡山藩主、池田光政公が民衆に言いました
「質素倹約を奨励する。おかずは今日から一品しか食べちゃだめ!」
おかず一品はさすがにさもしいと考えた賢い民衆たちが
「これなら文句は無いでしょ!」
とごはんに野菜や魚を混ぜて一菜としたのでした


また別の話ですが
この前鉄腕奪取で南部の殿さんが
「お蕎麦は殿しか食べちゃだめ」令を出したので
お蕎麦を食べたい民衆が苦肉の策で編み出した
へべたい蕎麦を三角形に切って湯にくぐらせて食べてたな・・・




502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/04(水) 13:52:12 ID:+bw9F7Pa
>>500
蕎麦が痩せた土地でも作れる作物だってことを考えると
凄まじい悪法な気がする。なにか事情があるのかもしれないけど。

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/04(水) 14:23:06 ID:UuwC1DHS
>>502
米の作付け面積が減るのを懸念した
商品作物禁止令は他藩にも結構あるよ

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/04(水) 14:23:50 ID:SQp6sXEP
>>500庶民のしたたかさを示すいい話だが、
祭り寿司の話が抜けてる

チラシ寿司の誕生後か、詳しく知らないけど怒った殿様から
更に「ご飯の上におかずを乗せるのも駄目!」という嫌がらせみたいな禁制が出た。

で、備前岡山の庶人は益々反抗的になって知恵を絞り
“酢飯の底に具を敷き詰めて上は米だけの倒置形寿司を開発した”


……今でも岡山の「祭り寿司」は酢飯の下に豪勢な具が敷き詰められているのだ。ぎゃふん

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/04(水) 14:51:00 ID:o9YZg3wR
>>506
それは知らなかったw
イタチごっこだな

関係ないけど岩国寿司も豪勢でおいしい

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/04(水) 15:15:00 ID:qXNvNYCj
祭り寿司ってのは某弁当屋の考えた商品名で地元の人間はバラ寿司ないしは単に寿司と言ってるけどな
ちなみに具を底に敷くのは今はしないけど昔の重箱は底も外れるようになっててひっくり返して食うようになってた