長篠合戦の図〔鉄炮片眼打の事〕

2016年09月08日 17:37

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/08(木) 11:25:17.38 ID:Rn2M2SzC
長篠合戦の図〔鉄炮片眼打の事〕

 成瀬隼人正の家に長篠御合戦の古図があると、年来聞き及びながら過ごしてきた。
そういったある日にふと幸便があり、借覧を請うてみたら、
彼も部屋住みのときからの知り合いだというので、こころよく貸与してくれた。

 そこで模写させる傍らで絵を視てみると、
長篠城の体から、
勝頼が敗軍して武田の武将のかなりの数が突撃して討ち死にする体、
兵馬旗鼓の状態、
実にその場の真を写すに十分であった。
考えるに、当時の目撃人が描いたのであろう。

 その中の信長の先兵は、神祖の御兵と陣を並べて烏銃を発砲する様を描いたところを
詳しく見ると、信長の兵は十に一か二であるが、神祖の御兵はすべて皆片目で撃っている。
これから思うと、予の藩士が烏銃を撃つときは皆片目である。
 予は初めは田付武衛等の流派では、両目を開いて撃つので、領内のは田舎の旧風であろうと思っていた。
そこで、今は全て田付武衛のに従わせている。
しかし神祖の御時ではもっぱら片目での銃法があることを、これにて知ることができた。

荻野長(八百吉)が言うに
先年系譜修撰の御用を勤めたとき、稲富氏の系譜の中に隻眼烏銃の術を神祖に申し上げるというのを書載していて、
なおかつその時に稲富氏に神祖が下賜された御誓書は、今正しくその子孫に伝わっているという。
この稲富流があるのは世に広く知られていることである。
昔は稲富の法を御当家が採用されたことはこの古画で知ることができよう。

また予の領内で伝えられた隻眼の術は真柳流というとか。
今はその伝は絶えて名のみ残っている。

(甲子夜話)



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17歳で将となったのは

2016年05月11日 17:59

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/11(水) 17:15:36.90 ID:RZRieaSv
尾州長久手の戦の時、成瀬隼人正は17歳であったが、敵陣に乗り込んで兜首を取り、
徳川家康の御覧に入れると

「汝は勇士である。今、旗本の兵が少ない。先ずこれを守れ」

そう命ぜられたため、本陣の先にて息をついていた所、先手が苦戦しているのを見て
駆け出そうとした。

ところが馬取が馬の轡を捉えて

「あなたは既に功名を遂げられました!それなのに再び敵の中に入り生命を亡ぼして、
一体何の益が有るというのですか!?」

成瀬は激怒し馬取を罵ったが、それでも手を離さぬため、刀を抜いて峰打ちし

「小利を貪り大義を失うのが武士の道か!?今日の戦は、敵破れ陣を陥れ、さらに逃げるの
を追い詰めた後に止めるべきものだ。名も知れぬ首一つに身を顧みられようか!?」

そう怒鳴りながら峰打ちしても、なお手を離さない。

この時徳川家康は30間ばかり(およそ50メートル)隔てて戦況を見ていたが、
ここで声を発した

「味方は持ちこたえられない様子である!壮士の死戦すべき所はここぞ!ただその志に任せよ!」

この時、馬取は手を離した。
成瀬は真一文字に乗り入れ、また兜首を得て、東西を駆け巡り叫んだ

「君は間近で進退剛怯をご覧になっている!なのに黒くも逃げ走り、なんの面目あって
今後人に見えるのか!?」

こう見方を辱めると、引き色だった者も踏み止まり、進む者はなお勇んだ。

そして成瀬隼人はこの年の暮れ、家康から「成瀬の長久手での働きは軍功の士にも恥ずべからず。
誠に感じ入った。」と根来衆50人を預けられ、将の一人となった。
徳川家において、17歳で将となったのは、成瀬隼人一人だけであったという。

(新東鑑)



713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/11(水) 17:31:57.70 ID:vojZxJwv
轡取りの行く末が気になる…

「時に臨んで功者な手段」

2016年02月06日 15:06

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/06(土) 14:01:14.90 ID:j7aiHJz8
大坂の陣が調停となって堀を埋めた時、豊臣秀頼より女中方が使いとして
やって来て、「堀の埋めさせられようは、どのように致しましても、御情けの
なきなされようでございます!」と、恨み申し上げた。

徳川家康にしても秀忠にしても応対しかね、老中も返事を申しかねたので、
女中方はますます激しく、恨み深く申していたところ、成瀬隼人(正成)が
女中の傍へと近寄り、

「おやおや、こなたは女中であるのに、よくものを申される人ですねえ」

と言って、女中の尻をつねった。女中はこれに困って赤面し、言葉を発する
ことができなかったそうである。

この事は、「時に臨んで功者な手段」と言われたとのことである。

――『武功雑記』



100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/06(土) 19:28:45.21 ID:vYxxbSP+
セクハラパワハラ

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/06(土) 20:24:25.19 ID:uEIFzPgd
この女中は美人で名高いお玉の方か

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/06(土) 20:39:46.22 ID:OlPnY2tG
女中が誾千代だったら死んでるだろ成瀬

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/06(土) 21:05:46.48 ID:QbI8M+bu
そこへ現れる大蔵卿局

正成が日頃望んでいたのは

2013年07月07日 19:02

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/07(日) 18:41:06.62 ID:ZcdGcfU1
成瀬正成徳川家康の近臣で、尾張の徳川義直に付けられ、
義直に対しても忠勤を尽くして仕えた。

正成が日頃望んでいたのは「恐れ多いことだが、死後には尊神(家康)の
御かたわらに侍りたいと思う」ということだった。

程なく正成が身罷ると、義直はその志を思って遺言に違えず亡骸を日光山に送った。

その死の三日前の事。天海は「今朝神祠に参ったところ、正成がここに来て
神君の御前に侍っているのを見た。正成は近いうちにきっと身罷ると思う。
まもなくやって来ることだろう。本当に哀れなことだ」と言って涙を落とした。

――『東叡山開山慈眼大師縁起』





成瀬正成、若い頃、そして今

2010年01月25日 00:06

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 22:33:37 ID:/yXHvKEi
埋めがわりに

成瀬隼人正正成は、老年になって自分の若い頃のことを、こんなふうに語っていたそうだ

「そりゃあ若い頃だから、それほど色々な経験をしたわけではないよ。
そのせいかも知れないが、あの頃出会い、語った若い人や老人の中に、
武辺において自分が負けたと思う人は、一人もいなかったものさ。」

実に若武者らしい気概ではないか。成瀬隼人はこの心持で、戦国乱世を生き抜いたのだろう。
さて、そんな成瀬隼人は同時に、こんな事も言っている

「ところが年を取った今でも、負けたと思う人に会った事が無い。」


成瀬隼人、武辺において生涯自信の塊であった。





983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/23(土) 23:52:01 ID:CjeFwZOb
武人は自分が他人より劣ってるなんてそうそう認めんし
戦場なんかで武辺で自分に勝る者に出会ってたら死んでるからな

成瀬正成の父、吉右衛門正一

2009年08月20日 00:06

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/19(水) 08:40:32 ID:IbkFphmB
成瀬正成の父、吉右衛門正一は関ヶ原の戦いの後に伏見城番となり、一線を退いた。

ある日、吉右衛門のもとに正成がやって来て、袋を父の目の前に置いた。
「親父殿も、もうご老年じゃ。これで何か美味いものでも食って、楽しんで下され!」
袋には銀子が二十枚入っていた。

しかし、吉右衛門は
「さてさて、おかげ様でせがれもこんな真似の出来る身分になりましたよ。」
と言って自室に袋を吊るし、
「美食が欲しい時に、この袋を見れば良いわ。この銀子は、また何ぞ入り用の事なども
あるだろうよ。」と、手をつけなかった。

何年か経って、大阪冬の陣が終わってすぐの事、吉右衛門は正成と秀忠の近習である
三男の豊後守正武を呼び、二人の前にそれぞれ袋を置いた。
「この分では、来年また戦があるじゃろ。お前たち二人も出陣となろう、これで良い馬でも
買って励め。」
袋には金子二十枚ずつ入っていたので、息子たちは仰天した。


尾張藩家老の息子より、大名になれなかった親父の方が、有事に備え貯めこんでいた
という古武士の心構えの話。




554 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/08/19(水) 10:32:06 ID:2VJYh/1y
>>550
俺は「心に望み起こらば、困窮したる時を思い出すべし」
の遺訓に従い、生活費月5万くらいしか使わない生活だぞ。

と言いつつ、今から女遊びに行くんだが、これはしんどいシフト勤務の
ストレス解消だから仕方ない。


成瀬正成と米屋八郎兵衛の不正告白・いい話

2009年06月01日 00:06

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/31(日) 00:14:49 ID:HYXlm1Hy
成瀬正成が領主になってから、領内では善政が敷かれたので、
良民達は正成を尊敬していたという。領内には米屋八郎兵衛
という代々裕福だった商人がいた。ところがある時、八郎兵衛
が自首してきたことがあった。八郎兵衛は自分の罪を語った。

「私の家は米の商いをしてきましたが、実は二つの升で不正を
して裕福になったのです。ですが、貴方様が良い政治をなさって
いるのに、不正を隠していることが恥ずかしくなりました。洗い
ざらいお話いたしますので、私を裁いてくださいませ」

八郎兵衛は自分の不正を告白して裁きを仰いだ。だが正成はこういった。

「自首したのだから裁く必要はあるまい。その代わりにこれから
七年間、これまでとは逆に売る際に大きな升を、買う際に小ささな
升を使用するのだ。そして米以外に呉服なども売るようにせよ」

八郎兵衛は大変喜んで、正成の言う通りにした。すると値段の
安さが評判となり、他領の人々が八郎兵衛のところにやって来る
ようになって、さらに繁盛したという。

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/31(日) 00:16:16 ID:HYXlm1Hy
>>106
ちなみに犬山城主の頃の話





108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/31(日) 00:22:42 ID:FZ1o9+kl
そういえば成瀬氏って、正成の時代から明治維新までずっと犬山の領主なんだよね。

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/31(日) 00:33:46 ID:E+zu+jNv
5年前までは成瀬家が城主だったぜ

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/31(日) 12:37:23 ID:yP0PCmat
確か犬山城って成瀬氏が財団作ってそこに権利?を移譲したんだよな
犬山市民にゃいまだに殿様扱いなんだろ成瀬家

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/31(日) 12:54:04 ID:9Kpyss/H
さすがに個人じゃ維持管理が難しくなったのかねえ

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/31(日) 18:26:27 ID:/aWdo2RJ
犬山城は個人所有だったおかげで
天守に余計な手が加えられずに現存しているのはあり難いことだ。
バリアフリーも何もあったもんじゃないからけっこう危険だけど。


大坂夏の陣の時の成瀬正成・いい話

2009年05月20日 00:19

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 00:30:53 ID:C9bGH9h4
大坂夏の陣の時、成瀬正成は徳川義直の付家老として従軍していた。

一方、徳川家康は茶臼山本陣から下を眺めて、敵勢がいたのを
確認した。家康は敵勢を討つべく息子の頼宣、義直を呼んだ。
しかし義直がなかなか到着しない。苛立った家康は伝令を差し向けた。

尾張勢のもとに来た伝令は家康の
「正成め臆病風に吹かれたか!なぜ早く義直と一緒に来ぬのか!
さっさと来いと伝えてこい!」
という言葉をそのまま、しかも大声で伝えたので周りにいた者にも
聞こえてしまった。

これを聞いた正成は間髪入れずに
「なんと、私が臆病だったことなど一度としてないわ!あなた様こそ
三方ヶ原で武田信玄を恐れて腰を抜かされたであろう!」
と怒鳴って反論した。

その後、正成は家康に
「義直様が遅れられたために、御前は伝令を通じて私をご批判
なさいましたが、私は心やすくお仕えしてきましたので、辛辣な
ご批判をしてくださって結構です。

ですが、御前のお言葉を家臣たちの前で、そのまま大声で伝える
ような考えの足りない人間に重要な伝令を任せるのは如何なもの
でしょうか。義直様はまだお若く、私を頼りになさっております。
ですから、私のご批判は慎重になさってください。多くの家臣たち
の前で臆病者と言われては、私の面目が潰れてしまいますので」
と申し上げた。

家康は
「お前がわしを臆病者と言ったことは全く気にしておらぬ。お前は
弓矢の道というものを少しはわかっているな」
と言ったという。

義直は自分を頼りにしてるから、義直を不安にするような批判は
やめてくれってことかな?




685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 00:47:58 ID:G4FulQ1D
これはちょっと間が悪いなw


688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 00:54:04 ID:IZuiZEt3
>>684
親しくて気安いからって安易な指揮官批判はするな。
もしくは、言われたからってそれをそのまま大声で呼ばわるような
ボンクラ使者を使うなってことじゃないかな?
軍隊なんだから兵に指揮者の能力を疑わせるのは統制が取れなくなる基ってことで。

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/19(火) 01:00:57 ID:G4FulQ1D
もう少しうがった見方をすると、
機嫌の悪さのゆえに出た罵声と軍事上の命令の区別を使い番ならつけるべき、という辺りかね。






参考
成瀬隼人さんの大阪の陣・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1556.html

安藤直次の刀・いい話?

2009年03月21日 00:11

978 名前:967[sage] 投稿日:2009/03/20(金) 00:26:25 ID:Grt4mSCR

安藤直次の子・直治が成瀬正成に、所持していた刀を求められた。

「なかなか見事な刀をお持ちではないか。良ければ、頂戴できないだろうか?」
「ああ、これは紀州の鍛冶師が鍛えたものです。差し上げるので、お国の者に見せて
参考にして下され。」

その後しばらくして、正成は直治にもらった刀の切れ味について語った。
「いや、尾張に帰り、重罪人で試し斬りをさせてみましたが、うまく斬れませんでした。
形は良いのに、もったいない!紀州の者に、なお精進するよう、お伝え願いたい。」

「なに、お安い御用です、必ず伝えましょう。
しかし紀州で使えば快く斬れるのに、妙な話ですなあ!!」直治が答えた。

正成は、これに笑って返した。
「なーに、尾張者は骨があり硬いゆえ、尋常の刀では斬れ申さず。
紀州の鍛冶師の腕が悪いわけではござらぬ。その辺りもお伝え下されよ!」

直治も意地になって、
「いやいや!ナマクラでも紀州者はよーく斬りまする。」尾張ノ侍ハ腕力ガ…ブツブツ




981 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/20(金) 01:21:54 ID:O4+/CkQo
>>978
そこへやってきた鬼武蔵
「どれ、俺がそこもとで試し切りをしてやろう」

美濃からやってきた鬼で身の終わり(尾張)…なんちってw

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/20(金) 01:33:13 ID:x0KO849u
>>981
座布団をやろう

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/20(金) 11:00:18 ID:l0i+GLX0
>>981
相手が三河武士だと返り討ちに遭う

成瀬正成、秀吉に勧誘される・いい話

2009年03月14日 00:17

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/13(金) 00:33:41 ID:zERVuq6Q
豊臣秀吉が大坂で徳川の侍たちを見た際、
一人の武者に目が止まった。

秀吉「あの栗毛の馬に乗っている侍は誰だ?」
*「はっ、成瀬正成殿という方で、二千石取りの侍です。」
秀吉「成瀬正成、なんとかわしの家臣にできないものか…。」

正成を欲しがった秀吉は家康に交渉した。

秀吉「どうだろう、正成をわしにくれんか?
   あれほどの侍が二千石では不憫だろう。
   わしの家臣になったら五万石やってもよいのだがな。」
家康「お話はわかりました。正成に伝えましょう。」
秀吉「うん、頼むぞ。」

家康がこの話を正成に伝えたところ…

正成「心外ですな。私は石高のためではなく、
   あなたのために命を捨てて奉公しているのですよ?
   どうしてもと仰るなら腹を切ります。」
家康「秀吉公に仕えて五万石なら大出世ではないか。
   お前は私の旗本ではないから私にとってもよい話だ。
   なによりも秀吉公に仕えることは私に仕えるよりも大忠であろう。」
正成「無駄ですよ、なんと仰ろうとも私の意志は変わりません。」
家康「ふむ…。」

正成は秀吉の誘いを固辞した。
そして、このことを報告された秀吉は

秀吉「まぁ、そんなことだろうと思ったよ。家康は本当によい家臣を持っているな。」

と、ただ感心したのであった。




758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/13(金) 01:11:05 ID:IIGeHfUo
秀吉はこの辺の器はさすがなんだけどな

三河武士のめんどくささもさすがだがw

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/13(金) 01:19:31 ID:9m9Ggk79
家久(悪)やなんかの嫌な話を見た後に成瀬さんの話を見ると心が洗われる感がある

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/13(金) 01:36:19 ID:dN6dhLS9
>>758
成瀬さんとか、家康からみて比較的若手でもこんなんだからなー >三河武士モード

古株の鳥居元忠や本多重次さんの面倒くさいことといったら……

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/13(金) 02:46:55 ID:e11zIhst
>>757
これって、成瀬さんにしてみりゃ、


家康「秀ちゃんが成瀬君のこと好きだってよ。秀ちゃんって凄く可愛いし、付き合っちゃいなよ!」

成瀬(お、俺は家ちゃんのことが好きなのに……なんで家ちゃんがそんなこと言うんだよ!)


って感じなのかな?

762 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/13(金) 04:36:14 ID:B3bnFVUy
>>758
家康が臣従した後の時代の話みたいだし、石川数正と一緒にすんなという考えもあるかもな

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/13(金) 05:30:50 ID:LLeAs0Nl
数正も忠臣だったんだかなぁ…

秀吉との橋渡し役をつとめてしもうたのが運のつき…か

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/13(金) 07:30:45 ID:vmXbWady
数正出奔の理由例の一つに禄高の低さが挙げられているのもあった気が。
そういえば江戸転封前の家康家臣の禄ってどれくらいだろ?

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/13(金) 16:15:07 ID:dN6dhLS9
>>761
なんたる大河ラヴコメかーw

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/13(金) 18:28:39 ID:PpbT30/x
>>764
水野信元殺しという汚れ役をやらされた不満とか
それに伴う一部派閥からの反発とか、徳川家の玉砕行為からの離脱とか色んな要素があるね

成瀬隼人の初陣・いい話

2009年03月11日 00:22

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/09(月) 23:32:17 ID:outG95hC
出遅れた気がするが、ちょっと早めの犬山祭に参加するか

その初陣

成瀬小吉正成は、17歳にして長久手の合戦で初陣し、いきなり兜首を取った。
これを見た家康は、正成を呼んだ。

「あっぱれ勇士なり!戦も佳境で旗本が少ない。お前が代わって、ここにおれ。」
実際の所、家康としては初陣を飾った若者を、無事に国へ帰してやろうと思ったのだろう。

家康の言葉に従いその馬前で一息ついた正成だったが、そのうち先鋒が乱れ始めたのを
見て、これに駆けつけんと手綱を引き絞った。 あわてて正成の従者が、馬を抑えた。
「若は、すでに功名を遂げました!この上、危険なマネをしてどうするのです!」

激怒した正成は、従者を刀で峰打ちして叫んだ。
「今日の戦は敵を破り、陣を陥れ、敵が逃げるに追付いてのち止む、お家の一大事ぞ!
そんな時に小利をむさぼり、大儀を捨てる者は、武士ではないわ!
なんで名も知れぬ首ひとつのために、わが身を惜しもうか!」

従者は、それでも馬から離れず、見かねた家康が声をかけた。
「勇士の死戦すべきは、まさにここぞ。今はただ、その志に任せてやれい。」

従者が馬から離れたとたん正成は敵に真一文字に切り込み、また首を挙げた。
そのまま四方を駆け回って、正成は言った。
「進め進め!ご主君が見ておられるに見苦しく退いては、何の面目あって戻るつもりだ!」

若者の罵声に腰が引けていた者も励まされ、劣勢を盛り返すことができた。

その年の暮れ、正成は「先の働き、宿将老臣にも劣らず。」と家康に激賞され、
根来同心50人を預けられ一隊の隊将となった。
徳川一門に非ずして17歳にして将となったのは、彼のみであるという。




687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/09(月) 23:41:49 ID:nJTzn6uE
>>686
> 根来同心50人を預けられ

ここがすごいわな。精鋭のスナイパー集団。
井伊直政の赤備えもそうだけど、家康って人は新しい部隊を作るときは、
思い切って若い人間に任せるよね。

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/09(月) 23:43:26 ID:N/mMZ+8v
成瀬さんッパネェ!

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/09(月) 23:56:27 ID:ntVX5Jn2
腰抜けどころか猛将じゃないの家康さんよぉ…

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/09(月) 23:59:10 ID:btH9lYz2
成瀬もだけど家康の人事も凄いな

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/10(火) 00:12:33 ID:Z2qq1gIJ
同じく三河ニューエイジである正純さんや直次さんは信長の野望に出てるのになんで成瀬さん出てないんだろうなぁ

しかし経歴凄いな、最終的にはあの平岩さんの後続かよ

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/10(火) 00:32:10 ID:tXAi9EqE
無双に出てきても問題ない実績だな

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/10(火) 01:27:32 ID:WxFuUBC/
次出るとしたら直政だろうけどな

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/10(火) 01:29:49 ID:3RE31qsJ
無双はそろそろ義輝出すべき

成瀬隼人正の最後・いい話

2009年03月10日 00:40

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/09(月) 00:34:36 ID:p420B1S9
尾張家付家老に成瀬隼人正という老人がおったそうな。
この男、家康や秀忠の信任厚く、陪臣の身分でありながら大名クラスとしての扱いを受けたり、
松平性を(当人一代限りだが)許されていた大丈夫である。

そんな隼人、尾張にて義直を補佐し善政を布き、天寿を全うする。
がその直前。

    〃〃∩  _, ,_
     ⊂⌒( `Д´) < ヤダヤダ!
       `ヽ_つ ⊂ノ
              ジタバタ
         _, ,_
     〃〃(`Д´ ∩ < 最後に日光で詣でなきゃヤダヤダヤダ
        ⊂   (
          ヽ∩ つ  ジタバタ

    〃〃∩  _, ,_
     ⊂⌒( つД´) < せめて権現様の近くで死ねなきゃヤダー
       `ヽ_ ノ ⊂ノ
              ジタバタ
       ∩
     ⊂⌒(  _, ,_) < 日光行かなきゃヤダー…
       `ヽ_つ ⊂ノ
              ヒック...ヒック...
       ∩
     ⊂⌒(  _, ,_)
       `ヽ_つ ⊂ノ  ッウ…

見かねた家臣達は床板ごと布団を持ち上げて危篤状態の成瀬にむかいこう言った。

(#゜Д゜)「殿ー!!我らが粉骨砕身殿を日光まで運び申す!しばしお待ちあれー!」
  _, ,_
(* ゚∀゚)「マジでー!?お前らガンバレー!これで安心して逝…け…る…」

成瀬正成、59歳の生涯であった。



ちなみに家康や秀忠などのお墨付きであった陪臣なのに大名扱いも、
時が移るにつれて次第にゲフンゲフン
幕末には御三家付家老はゲフンゲフン




681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/09(月) 00:48:27 ID:nJTzn6uE
>>680
成瀬さんはいいよねー。
なんていうか、快男子って言葉がぴったり合う気持ちのいい男。

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/09(月) 02:18:24 ID:K5zEDqGG
「成瀬隼人正正成」と続けてかくと同じ漢字が多い…

でも成瀬さん確かに凄いんだよな。
小姓からガチで戦場で活躍して、凄い速度で出世してるし。

683 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/09(月) 14:16:18 ID:R3x034/C
家臣の心もその後の話も二重の意味で全俺が泣いた。

>>682
切れ目はどこですか

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/09(月) 14:42:31 ID:nJTzn6uE
>>683
「成瀬 隼人正 正成(なるせ はやとのしょう まさなり)

成瀬隼人さんの大阪の陣・いい話

2009年03月10日 00:37

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/09(月) 14:42:31 ID:nJTzn6uE

そんな成瀬さんの大阪の陣

慶長二十年(1615)、五月七日、大阪落城の日の事である。
大阪方のものと思われるものたちが4,500人、一箇所に固まっているのを
茶臼山の家康が見つけ、これに尾張、紀伊の軍勢を当てさせようとしたところ、
両者の到着が遅くなった。

戦場での家康は、気が荒い。イライラした家康は使役衆に

「(成瀬)隼人の腰抜けに、右兵衛(徳川義直)を早くつれて来いと言え!」

と命じた。またこの使いが気が聞かないのか馬鹿なのか、尾張衆の前で、その通りに
大声で口上したからさあ大変。
成瀬隼人は

「この隼人、今まで腰を抜かした覚えは無い!そのように言われる人こそ
信玄に出会われたとき腰を抜かしたではないか!」

と、これまた大声で言い放った。


さて、その日のうちに、大阪夏の陣も終わる。成瀬隼人は家康の下に参上し、こう申し上げた。


「大御所様の言葉を、皆が聞いていると言うにも拘らず、考え無しに言うような馬鹿を
御使番という大切な役に使うとは何事ですか!

わたしは若輩の頃より大御所様に使っていただいているので、如何様に
口汚く言われても気にはしません。

しかし、しかしですよ!私が家老としてつけられた義直様は未だお若いのです。
よって尾張家中の者達はみな、私のことを頼りにしています。
そんな家中の者達の面前で、隼人の腰抜けなどと言われては、私の立場と言うものが
無くなってしまいます!
そのため、大変恐れ多いご返事を申し上げました。

お耳にも入った事でしょう。恐れ入り奉ります。」

これに家康も、「隼人の言う事はもっとも、その通りである。」と、苦笑い。
先の暴言も不問に付した、とのことである。




685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/09(月) 15:22:03 ID:K5zEDqGG
成瀬じゃないと家康にここまで言えなかっただろうなあ。

ところで1567年に正成が生まれて1573年に三方ヶ原か。
しかみ顔を書かせるだけあってずいぶん広く伝わってるのね…