田中吉政の嫡子主膳正は

2013年09月13日 20:22

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/13(金) 18:07:48.95 ID:ZxMkvWLX
田中吉政の嫡子主膳正(吉信)は極めて豪気な性格で、常に武勇を好み、放鷹殺伐を楽しみとし、
家人以下斬罪にされた者は少なくなかった。彼はいつも三尺八寸の剣を佩びてこれを『笹の雪』と名付けた。

主膳正はその流水に瓜を切るが如きすぐれた切れ味を讃えて「笹の雪払へば落る、此刀、持主田中主膳なりけり」
と、狂歌を詠じ、表銘を彫った。その後、主膳正は剣術の師某を手討ちにする。しかし、その者は手向かいして
主膳正の膝に傷をつけた。だが、主膳正は少しも痛がらずに、その者を仕留めた。

さらにその後、児小姓らに相撲をとらせて見物している時、主膳正は「わらべの相撲はまだるい」と言って、
傷が癒えていないにもかかわらず、立ち上がって力足を踏んだので傷口が破裂して血がほとばしった。
それでも主膳正は顔色を変えずにあら塩を摺り付けておいたところ、ついに傷は破傷風となってしまった。

これを聞いて大いに驚いた吉政は使節を馳せて多くの良医を遣し、内外の治療を施したが効果は見えなかった。
主膳正は何を思ったのか、大切の時に至って幽室に籠り、一切の面会を禁じた。柳城より追々馳せ来る
老臣以下の者たちも次の間に控えるまでで、寝所を窺うことを許されなかった。末期に至って、

主膳正は手を叩いて児小姓を呼び、硯と料紙を取り寄せて筆を染め、「十有九年一夢中、瓢箪瓢箪元夕顔」
と、書き終わるとたちまちこの世を去った。吉政は訃報を聞いてたいへん嘆いたのであるが、未だ嗣子が
定まらないので国中の士民は安堵せず、老臣らの諌めもあり、まずは嗣子を定めようということで、
三男の隼人が嫡子に立てられた。

――『筑後国史 原名・筑後将士軍談』





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田中吉信、遅れてきたDQN・悪い話

2009年03月11日 00:12

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/10(火) 22:17:13 ID:D5qB3wHc
遅れてきたDQN

なにかと小知恵の回る田中吉政であったが、息子には小細工しすぎでまずいことに
長男吉次→「パパなんて嫌い!」と家出して出家(野垂れ死に説もあり)
次男吉信→一時は嫡子扱いされるが、結局支城の久留米城主
三男吉興→お鉢は回ってこず、分藩3万石
四男忠政→吉政のお気に入りらしく、ややこしい経緯の末跡継ぎ。
        嗣子なく死去したのでお家取り潰し

お話は次男吉信。
元々そうであったのか、家督と嫡子のややこしい扱いで鬱憤溜まったのか、
筑後移封後にDQNぶりが加速。
久留米から度々家臣を引き連れ、柳川城に向かって空鉄砲の一斉射撃を行い
ビビる吉政を見るのが趣味。
でも久留米の城下町や街道整備も立派にやる漢気もあるよ、な人物。

あるとき些細な事で下人を手打ちにしようとするが、なにせ戦国直後のこと下人も黙ってはいない。
殺されはするものの刀を手に反撃し、腿に深手を負わせた。
負傷した吉信の対処
「ここは肉が多くて腐り易いからこうするのだ!」と文字通り「傷口に塩を擦り込んだ」

その後また下人を手打ちにするが、これまた反撃されて今度はふくらはぎに深手。
負傷した吉信の対処
(まともかどうかは分からない)治療はしたが、いつまでたっても痛みが引かないので
「これしきの傷がこんなに痛むはずがない!」
とおもむろに四股を踏み始めるが、傷口が開き死亡。

享年は不明だが若死になのは確か。
生涯通算手打ちSATSUGAI数 53人
山鹿語類より

戦歴は知らない。




761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/10(火) 22:27:22 ID:huOeHCk4
うへあ…

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/11(水) 16:44:27 ID:fuTSGE44
>>760

今でいえば境界例、人格障害だね。
「吉」のつく名前が正室の子だったらしい。
おとっちゃん、都市整備では名君だったが、子育ては
苦手だったらしい。