591 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/08/21(土) 19:20:32 ID:aRSQDJ+T
大岩祐夢「たとえ小さくとも家を残すことは武家にとって肝要である」
592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 19:23:18 ID:suCFD1Sf
実季「関ヶ原の時の話を聞きたいってわざわざ朝熊まで来てくれた人が居るよ」
凍蚓「関ヶ原か……あの頃は実季ちゃんも24、5歳だったね」
実季「あの戦いの後に、
最上義光さんに因縁つけられたんだよね」
凍蚓「そうそう。実季ちゃんから小野寺さんに出した手紙が西軍に付いていた証拠だって
最上さんが本多佐渡守に訴えたんだよね」
実季「六月の日付の手紙がどうして証拠になるのか、理解できなかったよ、凍蚓くん」
凍蚓「そもそも、この手紙……『お互いよくよく相談して公儀の為に奉公しましょう』っていう内容だけど
これが最上さんに渡ったのが十月の末だったか十一月の頭だったかな?
まだ庄内地方が騒がしい時だったね。実季ちゃんは未だ西軍として城に籠もる小野寺さんに
実季ちゃんが『天下は収まったんだから、降伏しにおいで。命は助かるよう運動してあげるから』
って勧告したんだけど、小野寺さんは最上さんの方に降伏したんだよね」
実季「小野寺さんとはウチも最上さんも仲が悪かったけど、関ヶ原の時は最上さんには余裕がなかったからね。
西軍の小野寺さんを攻めたのは私と六郷だったよ。だから小野寺さんは私に頭を下げたくはなかったんだろうね」
凍蚓「小野寺さんはそういう人だよね」
実季「でも最上さんまでそういう衝動的な行動を取るとは思わなかったね。
小野寺さんが点数稼ぎに差し出した手紙を、日付も確かめずに幕府に提出するなんて」
凍蚓「上杉の攻撃を凌いで浮かれてたんだろうねぇ。甥っ子の政宗君に『羽後の連中みんなバカスwww』なんて手紙残しているもの」
実季「会津征伐の時は家康公から朱印状を貰って帰国していたんだよ。
それでも先発隊は最上さんに助力できるよう山形に残しておいたんだけど、最上さんが『帰って、帰って』って
何回も言うもんだから、先発隊も引き上げたのに、それを『西軍に応じたから』と言われたら困るよね」
凍蚓「それで上杉がやっぱり最上に攻め入ったって聞いたから、今度はちゃんと最上さんの了承を得て援軍に行こうとしたんだっけ?」
実季「そうだね。金山城主にその話を通してお墨付きを貰ったんだ。
だけど由利郡の矢島で小野寺の息がかかった連中が一揆を起こしたせいで、兵力をそっちに回さなきゃならなくなった」
凍蚓「八月下旬、それから九月中旬の二回だったかな。一揆を鎮圧したら、今度は戸沢と小野寺が協力して
実季ちゃんの領地との境になる淀川に城を再建したんだよね。太閤秀吉の天下の時に破棄した城を」
実季「戸沢には『小野寺を一緒に攻めよう、それがムリなら貴方の領内を通して欲しい』って、何度も言ったんだけどね
早く最上さんの援軍に行かなきゃって私もその時は必死だった」
凍蚓「仕方ないから南部さんに『戸沢を牽制して』ってお願いしたら『一揆起きてるからムリ!』って言われた」
実季「その一揆って伊達の政m……」
凍蚓「最上さんを助けるための援軍が、最上さんの甥っ子のせいで足止めを食らってしまったんだね」
実季「結局、由利の方面から大回りして、小野寺の大森城を攻め落としたのが十月の十七日だった」
凍蚓「翌日の十六日に六郷くんが最上さんの手紙を持ってきたんだよね。最上さんの手紙は十月八日付けだった」
実季「その手紙の内容は『十月六日に家康公が関ヶ原で勝利した』っていう内容」
凍蚓「最上さんですら八日に知った家康公の勝利を、実季ちゃんはもっと早く知っていたの?」
実季「まさか。だってその日と言えば城攻めの真っ最中だよ?」
凍蚓「でも最上さんは実季ちゃんが家康公の勝利を知ってから城攻めを開始したって言いふらしていたよね」
実季「困ったものだね、あのお爺ちゃんは。あの手紙には『庄内へ援軍を出してくれると聞いて感謝感激』とか
『上方の騒動も収まったから庄内は任せて仙北を平定してNE☆』とか書いていたのに」
凍蚓「人の心は移ろいやすいね、実季ちゃん」
実季「とは言え、ムリにでも庄内への出陣しておけば良かったとはあの時も、今も思ってるよ」
秋田実季老人、関ヶ原を振り返るの巻
598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 21:48:55 ID:D3o+eSMx
>>592
しかし実季の行動はあまりキレが無いなぁ
若いから仕方ないんだろうけど、
状況に完全に振り回されてる
家督継いだときもそうだし(年齢が年齢だけど)、
俊季との権力闘争にしてもそうだけど、
どうにも後手後手になるのは、
安東家の体質なんかねぇ
608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 23:30:29 ID:suCFD1Sf
>>598
実季自体は撫で斬り、暗殺(疑惑)と父親の血の片鱗を見せていると思いますよ
関ヶ原の時も、上杉を迎え撃つ為に戦力を集中させた為に空になる最上領に
同じ東軍の味方として居座わって領土化しようというのが実季の思惑だったのではないかな
その為にもこまめに榊原康政と連絡をとっていたわけだし
最終的に
「湯沢、増田で援助して貰いたい(湯沢、升田を被引助可給候)
庄内の事はこちらで責任をもつので、仙北に攻め上ることを急いで貰いたい
(庄内之事ハ此方より行等可申候間、仙登偽さりとてハ 可被相急候)」
という義光の手紙が届いた事で、実季は協定が成立したと考えたかと
しかし十一月八日付の伊達政宗宛の義光の手紙には
「さてまた仙北へ人衆越し申し候。その後とかく申すことも候わず候。
由利秋田よりまかり出で候も、そこそこはひとつに談合候て、出たる体のよし申し候て
なかなかに馬鹿けなることに候と、人々語り申し候。
南部も二十四日に横手分に家の六つとか七つとやらん候を、代官にて焼き申し、その日に引き帰り候よし
仙より申し越し候。いずれも上への儀を、以後の首尾口合わせまで科逃ればかりのことを仕り候」
とあり、この時点で羽後勢力の解体を義光が狙い始めたかと
羽後勢力を馬鹿と嘲笑う程に(アンタが仕掛けておいて)義光には徳川とのラインに自信があったのだろう
逆に実季は浅利氏との対立の過程で奉行衆との繋がりの方が強かったのがアダになった。
特に比内の浅利氏の独立を推していたのは対石田親徳川の浅野氏だったし
609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 23:30:30 ID:Pio0gt+Y
>>598
30にもならない実季と永禄年間から戦い続け、のし上がってきた義光では役者が違ったというか…
>>603
実季と凍蚓という誰もが絶対あり得ない組み合わせであるとすぐわかる>>592と
直江と景勝とか政宗と小十郎のような組み合わせを同列に語るのはナンセンスだと思う。
610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 23:54:00 ID:D3o+eSMx
>>608
なるほど
そうやってできた徳川との隙を義光に突かれたのか
肝心な所で上を行かれたのは、経験や環境の差かなぁ…
これが後に響いた事を思えば、実季にとっては痛恨事だったろうな
612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/22(日) 00:16:11 ID:Vg/xQKqo
関ヶ原後の鮭様の有頂天とやりたい放題は
その後のお家騒動と最上氏改易を知っていると何とも言えんものがあるな
後世の人は因果応報と語ったが
しかし、遡って徳川とがっちり結び付くという勝ち組への一歩が
ラスボスに娘を殺された事と考えるとマジで人生の山と谷がはげしすぎる
塞翁が馬ってレベルじゃねーぞ