661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/11(日) 00:15:06.60 ID:KFaUSJuD
「改正三河後風土記」から森鴎外の短編にもなった「佐橋甚五郎の事」
その頃(「いい話」で紹介した踊りが流行った頃)、松平信康君の近くで召し使っていたものに佐橋甚五郎というものがいた。
いかなる恨みによるものか同役の近臣を討ち果たし、岡崎を逐電して三河の山里に逃れた。
武田勝頼が遠州小山の援兵として十七歳の甘利二郎三郎(甘利信康の息子の甘利信恒だとすると「三郎次郎」)に三百騎を率いさせて遣わした。
甚五郎はこれを聞き「甘利を討ち果たせば帰参もかなうだろう」と思い、つてを頼って甘利に仕えた。
甚五郎は怜悧で笛も上手であったため、甘利は寵愛し、笛を聴きながら甚五郎の膝枕で眠った。
甚五郎は好機だと思い甘利の首を取って浜松に帰参した。
こうして所領を得て御家人になったものの
信康からは「以前同役を討って逐電したものだ」と憎まれ、
神君(家康)も「甘利の寵愛を受けながら寝込みを襲うとは不仁極まりない」とお褒めの言葉もなかった。
こうして甚五郎は心中穏やかではなかったため、再び逐電。
朝鮮に渡り、慶長の末に朝鮮の使節に混じって帰国した。
しかし神君に甚五郎だと見咎められ、一族との文通も禁じられたため朝鮮に帰されたそうだ。
なお「三河後風土記」巻十六「佐橋甚五郎無道之事」では
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3686.html
佐橋甚五郎処分
この話と同様、水野勝成の部下として戦功を立てたが阿部正勝に討たれている
(「三河後風土記」では阿部正勝が真向かいから言葉をかけて放し討ちにしたため、甚五郎も刀を抜き打ち合ったが、
両手を落とされたあとに首を切られた、とまとめの話とは微妙に展開が異なる)
「改正三河後風土記」から森鴎外の短編にもなった「佐橋甚五郎の事」
その頃(「いい話」で紹介した踊りが流行った頃)、松平信康君の近くで召し使っていたものに佐橋甚五郎というものがいた。
いかなる恨みによるものか同役の近臣を討ち果たし、岡崎を逐電して三河の山里に逃れた。
武田勝頼が遠州小山の援兵として十七歳の甘利二郎三郎(甘利信康の息子の甘利信恒だとすると「三郎次郎」)に三百騎を率いさせて遣わした。
甚五郎はこれを聞き「甘利を討ち果たせば帰参もかなうだろう」と思い、つてを頼って甘利に仕えた。
甚五郎は怜悧で笛も上手であったため、甘利は寵愛し、笛を聴きながら甚五郎の膝枕で眠った。
甚五郎は好機だと思い甘利の首を取って浜松に帰参した。
こうして所領を得て御家人になったものの
信康からは「以前同役を討って逐電したものだ」と憎まれ、
神君(家康)も「甘利の寵愛を受けながら寝込みを襲うとは不仁極まりない」とお褒めの言葉もなかった。
こうして甚五郎は心中穏やかではなかったため、再び逐電。
朝鮮に渡り、慶長の末に朝鮮の使節に混じって帰国した。
しかし神君に甚五郎だと見咎められ、一族との文通も禁じられたため朝鮮に帰されたそうだ。
なお「三河後風土記」巻十六「佐橋甚五郎無道之事」では
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3686.html
佐橋甚五郎処分
この話と同様、水野勝成の部下として戦功を立てたが阿部正勝に討たれている
(「三河後風土記」では阿部正勝が真向かいから言葉をかけて放し討ちにしたため、甚五郎も刀を抜き打ち合ったが、
両手を落とされたあとに首を切られた、とまとめの話とは微妙に展開が異なる)
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