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佐橋甚五郎の事

2022年12月11日 14:09

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/11(日) 00:15:06.60 ID:KFaUSJuD
改正三河後風土記」から森鴎外の短編にもなった「佐橋甚五郎の事」
その頃(「いい話」で紹介した踊りが流行った頃)、松平信康君の近くで召し使っていたものに佐橋甚五郎というものがいた。
いかなる恨みによるものか同役の近臣を討ち果たし、岡崎を逐電して三河の山里に逃れた。
武田勝頼が遠州小山の援兵として十七歳の甘利二郎三郎(甘利信康の息子の甘利信恒だとすると「三郎次郎」)に三百騎を率いさせて遣わした。
甚五郎はこれを聞き「甘利を討ち果たせば帰参もかなうだろう」と思い、つてを頼って甘利に仕えた。
甚五郎は怜悧で笛も上手であったため、甘利は寵愛し、笛を聴きながら甚五郎の膝枕で眠った。
甚五郎は好機だと思い甘利の首を取って浜松に帰参した。
こうして所領を得て御家人になったものの
信康からは「以前同役を討って逐電したものだ」と憎まれ、
神君(家康)も「甘利の寵愛を受けながら寝込みを襲うとは不仁極まりない」とお褒めの言葉もなかった。
こうして甚五郎は心中穏やかではなかったため、再び逐電。
朝鮮に渡り、慶長の末に朝鮮の使節に混じって帰国した。
しかし神君に甚五郎だと見咎められ、一族との文通も禁じられたため朝鮮に帰されたそうだ。

なお「三河後風土記」巻十六「佐橋甚五郎無道之事」では
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3686.html
佐橋甚五郎処分
この話と同様、水野勝成の部下として戦功を立てたが阿部正勝に討たれている
(「三河後風土記」では阿部正勝が真向かいから言葉をかけて放し討ちにしたため、甚五郎も刀を抜き打ち合ったが、
両手を落とされたあとに首を切られた、とまとめの話とは微妙に展開が異なる)



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松平信康に見出された踊り手

2022年12月09日 19:45

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/09(金) 17:57:02.08 ID:uhIMmw+J
貝原益軒朝野雑載」から松平信康に見出された踊り手

天正六年(1578年)?ごろ、三河・遠江に踊りが一年中流行したが、これは岡崎三郎殿(松平信康)が好んだためであった。
先年、駿河で踊りが流行した時には今川氏真が滅んだので不吉である、と諸人は申した。
三郎殿はたいへん乱暴な方で、下手な踊り手がいれば弓で射殺した。
そのため踊りはずいぶんけっこうなものとなった。
そのころ大浜の踊り子のなかに、太鼓を打っている十五ほどの容顔美麗な童がいた。
三郎殿が父の名を尋ねると「大浜明神の社人・長田平右衛門(長田重元、一説には永田徳本の兄)の息子です」と申した。
平右衛門は有名な勇士であったため、すぐにその子を召し使った。
長田伝八という名で出世したが、三郎殿の死(1579年)ののちは家康公に召し出された。
長田壱岐(源義朝を殺害した長田忠致)の末裔であったため、苗字を永井と改めさせた。
長久手の戦いで池田勝入(池田恒興)を討ち取るという功名を成し遂げた永井右近大夫(永井直勝)その人である



506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/09(金) 22:13:12.98 ID:mCa/kIWL
親子で穴兄弟か

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/10(土) 20:25:42.27 ID:LP3IGkV/
>>505
信康の死の前年ごろと思ったため、天正六年としましたが
「三河後風土記」巻第十六 三遠両国踊流行・付永井伝八直勝の事
では「天正四年丙子夏の始めより」となっていました。
また、信康については
「信康君は御年若く猛勇血気の大将、この踊りをめでたまうこと斜めならず。日夜日夜踊りをのみ御覧ぜらる。
もし踊子ども麁服(粗末な服)を着し、踊りも思召しにかないぬは忽ちに射殺したまえば、後々は錦繍を取り重ね金銀をちりばめ日夜日夜士民これがために財宝を費やしける。
心ある御家人どもは先年今川氏真踊りを好み士民ども家業をわすれ踊りに財費を費やしけるほどに
国中は武備すたれゆるみし虚に乗じ武田信玄駿州を奪いとり、大殿もこの時遠州をば御手に入れたまう
前車の覆るを見て後車の戒め(轍を踏まない)、殷鑑遠からず、御心得あらせたまうべきにや、と諫める者も少なからず」
と踊りの上手い下手とともに、衣装が豪華かどうかも射殺の基準となっていました。

人口の妨げによって不慮の生害

2021年07月26日 17:39

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/25(日) 18:15:49.22 ID:KBEvxZkh
天正7年己卯、家康公38の御歳、また山西へ麦苅り捨ての御働きをなさる。

その年、信康(松平信康)は家康公の御気に背きなさった。その子細は万事(信康の)
御心のままにして御行跡は法に過ぎたものであった。家康公の御意見をも御用いなく
御気随に行わせ給い、家老衆の諫言をなおもって御取り上げなさらなかった。

このため衆の讒言あって、勝頼(武田勝頼)と御内通あって逆心の由を申し上げられ
たことにより、家康公の御立腹は世の常ならず。

「子の身でありながら父に弓を扱う事、前代未聞の次第なり!」と岡崎の城を出し給
い、大浜へ移して堀江の城へ御越しになる。それより二股の城へ移らせ給い服部半蔵、
天方山城の両人に仰せ付けられて御生害となった。

信康が宣うには「父に弓を扱うというのは全くの偽りである。年寄どもの讒言なれば、
この上はとかく申し分には及ばず」と、2人の御女子の御事と御菩提は大樹寺を頼む
と仰せ置かれ、大久保一類とその他に御親身申す者どもの方へ御形見を送らせ給う。

念仏を御唱えになって腹を十文字に掻き切り「服部介錯申せ」と宣えば、三代相恩の
御事なれば半蔵も刀を捨て落涙する。「早く早く!」と宣うも力及ばず、遠州の住人
の天方山城が泣く泣く御介錯し奉る。惜しむべし、惜しかるべし。その年8月15日、
行年21にて生害し給うなり。

家康公も「人口の妨げによって不慮の生害」と御後悔の御言葉がたびたびあったとか。

――『岡崎記



御家中親子方迚、家康公ハ信長方、信康公ハ勝頼方也

2021年07月18日 17:47

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/18(日) 15:58:49.02 ID:JzsDNW3T
若宮(岡崎投町)ならびに観音の由来。元禄6年に再興これあり。ならびに鳥居は北向に成立、
昔はこの所を根石原という。すなわち観音堂あり。

天正7年頃、岡崎三郎信康公、同御母築山殿の御生害につき、信長公家康公より御吟味あり。
御家中親子方として、家康公は信長方、信康公は勝頼方なり。

(御家中親子方迚、家康公ハ信長方、信康公ハ勝頼方也)

御家中は勝頼方へ逆心無き旨を身血にて起請文を書き申すとして、投村は当時は大塚村といい、
この観音の前で書きけり。今の東の方田の所、その頃は野であったこの所で書いた。

その後、三郎信康公、同御袋築山の亡魂による御城への色々のケザシあり。諸寺院にて御祈念
御弔があったが鎮まらなかった。この時、観音堂の森の内に若宮八幡の勧請を申し達し、御袋
様には40間北に神明を勧請申し奉ったところ、ついに収まった。

これ以後、若宮八幡とも、また起請宮ともいう。神明は岡崎城主水野監物殿の御代、正保時代
に欠山に移し奉る。

――『三河東泉記



三郎殿、築山様の事

2021年07月17日 18:18

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/17(土) 14:01:10.78 ID:g/7Ali2z
一、築山様は関口刑部殿(親永)の御息女、御娵子様は信長公の御息女(徳姫)でかねてより
  御仲も良くなかった。
  
  信康公がヨウシ(「楊枝」か)を落とさせ給いし時、御前様に御取り給われと御申しにな
  るが御返事もなくおられた。信康公は局を大いに御叱りになり、「諸事仕るに付け悪しき
  によりこの如し!」と仰せられた。

  (徳姫は)その事をふくれて、信康公の御事ナケ状を書いて信長公へ遣わした。信長公は
  驚かせ給いて、家康公の御家老へ申し来たり、御袋築山様と御一味の事が顕れて信康公は
  遠州二俣清立寺で、天山山城守が介錯して切腹なされた。

  大久保七郎右衛門(忠世)、二俣の城主平岩七之助(親吉)、この両人が検使、(その他
  に)成瀬吉蔵、服部中務などである。そのため、大久保七郎右衛門と平岩主斗両人ともこ
  の報いにて、相模守(大久保忠隣)と申して小田原にて落居、主斗は跡絶えけり。

  築山様は野中三五郎(今ハ水戸ニ有)、酒井図書(今水戸ニ有)に仰せ付けられ自殺なり。

一、小河城主の石川修理亮、子の豊前守一同に切腹を仰せ付けられ候。  

一、天正3年、参州岡崎にて大岡弥四郎(大賀弥四郎)逆心の事。

一、天正3年の秋、家康公御父子の御仲不和にならせられ、服部半蔵岡崎に仰せて岡崎を退か
  せ給う。年号相違なり。勝頼(武田勝頼)も期日を極めて足助まで来たが、この事を聞き
  付けて甲州に引く。

  三郎殿の御前は信長の御娘にて、京の本多下屋敷にて80に及び死去なり。

  ――『三河東泉記



848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/17(土) 14:20:30.15 ID:eZj1fNgG
信長がこんなことで切腹させるわけないよなぁ
部下の家庭環境にまで気を配るのに格下とはいえ同盟相手にそんな命令出すはずない
秀忠が春に産まれてその秋に腹切らせてるんだから、そもそも後継者として考えてなかった信康が血統的にも邪魔になったから家康が始末したんだろ

信康事件について

2020年07月08日 17:45

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/08(水) 13:20:09.92 ID:sYb4nnxC
天正七年、岡崎三郎(松平)信康(家康公一男)が牢人された。これは信長の婿であると言えども、父家康の
命を常々違背し、信長公をも軽んじ奉り、被官以下に情けをかけず、行いが非道であったため、その旨を
去月酒井左衛門尉(忠次)を以て信長に内証を得た所、「左様に父、臣下に見限られている上は是非に及ばず、
家康の存分次第にせよ。」と返答された。

家康は岡崎にお越しになると、信康を大浜に退き下らせ、岡崎城へは本多作左衛門を移した。信康はこの措置を
当座の事と心得られていた。家康公は西尾の城に移られ、信康は遠州堀江に移され、さらに二股に移られた。
九月十五日、彼の地に於いて生害された。信康の母公も浜松に於いて生害された。

当代記

信康事件について。ここだと酒井忠次は家康の指示で信長の意向を尋ねたという事になっていますね。



甚五郎の欠落ち

2020年07月04日 16:53

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/04(土) 01:08:33.52 ID:K1RlApYW
天正四年九月、さはせ(鯖瀬ヵ)甚五郎という者が有り、彼は元来三河で岡崎三郎(松平)信康の
小姓であったが、朋輩の金作りの刀大小を盗み取ったことが露見したため欠落ちし、この二、三年は
甲州に在住していた。そして鯖瀬は彼の国の住人である甘利三郎次郎を小山の陣中に於いて殺害し、
家康公の陣中に来た。

彼は甘利と日頃より知音にて、別して懇志の間柄であり、些かも隔心が無かったが、甘利が寝入った所を
刺殺した。この時自分の刀を捨てて、甘利の大小を取ってこれを差して来た。
この鯖瀬は年来、甘利と前代未聞に恋慕芳契しており、物取りをしたのではないのだという。

家康公は彼を再び出仕させたが、乍去さして挙用しなかった。三郎信康は彼のことを悪まれた。
そのため一両年の間に他国へまた欠落ちした。

この甘利は十七歳、武田の家老で人数三百余人を備えていたという。

当代記



岡崎殿御生害之こと併異聞

2017年02月06日 17:55

580 名前:1/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 00:52:51.46 ID:l0/11MB8
岡崎殿御生害之こと併異聞

以前の類焼の後に、蔵書も多く燃えたので所々から本を借りて読んでいる。
その中には『三河記』という本がある。その本には以下の記述がある。

 八月〔年号は分からない〕、三郎殿〔神祖の御長子、信康君。岡崎殿と称していた〕が
神君〔原本には家康と書いてある。ここでは憚って改めた。下記も皆同じくした。〕
の御気に違わせられて、御牢人〔牢は浪と改めるべきだ。今は原本に従って改めない。〕
を連れて二俣へ出かけられた。
 この子細は、三郎君がわがままで、
宛へ〔宛は恐らく剰えの誤りであろう。あまつさえと読む〕神君の御意見にも従われない。
そのうえ家老の衆さえ、

「勝頼と一緒になられて、野心を企てています」

と申し上げるので、神君はこれらを聞かれると

「親に弓引く事は類例少ない次第だ」

と、服部半蔵に仰せ付けて失いなされた。
三郎殿は

「仰せ置きはなんとも悲しい。親に弓引く事は、ただ両説〔両はおそらく風の誤り。今は原本に従って改めない。〕の事なのに、家老の者が陰口を言うからと親が子を殺すのは、前世の因果と見える。
『我は大敵を滅ぼして天下の主となるべき』、と常に思いかけていたが、
あなたのような親にどうしてか子と生まれ死ぬ事の無念さよ。
二人の息女の事は、絶対に悪くあってはならない。
(『柳営譜略』には、信康君の長女は小笠原兵部大輔秀政室、次女は本多美濃守忠政室)」

と仰せられた。大久保一族その他の人々にも御形見を出し、

「我ゝ(このゝは、おそらく"が"の誤り)後生の事どもは、大樹寺を頼り、よろしく供養してくれ」

と、念仏十篇ばかり唱えながら、腹を十文字に掻き切った。

「服部半蔵! 介錯!」と迫るが、半蔵は

「三代相恩の主君にどうして太刀を当てれましょう。」

と刀を捨て激しく泣き悲しみ倒れ臥した。

「早く早く!」と仰せられるので、遠州住人の天方山城守が、泣く泣く御首を打ち落とした。
御年二十一歳と申すのは〔"は"はおそらく不要〕、花の想いを引き替えて〔"想"、恐らく"姿"の誤り〕、
朝の露と消えられた。

このことを、神君は聞かれて、御涙を流された。
後によくよく聞かれると、ただ偽りを申したため、支えを失われたと
神君の御後悔、御嗔り(いかり)は限りなかった。」

581 名前:2/2[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 00:53:15.31 ID:l0/11MB8
さて、ある人の言ったことを聞くと、
東都の中、渋谷の東北寺というところの後ろの山に、岡崎三郎殿の古墓というものが在る。
東北寺の地はもとは大久保侯〔今の小田原侯〕の別荘であったが、後に寺へ寄附されたという。
かの墓が在るのは、三郎殿が生害のとき、内実は大久保氏の先祖と謀り、
害死したと執り成したが、秘かに大久保氏が逃し後まで匿い置いて、
ついに寿命により終わられたので、その荘中に埋葬した跡であると相伝している。
他の書と照らし合わせるべきだろう。今のところは異聞としかいいようない。

またいわく、このようなので『三河記』に載っていた御生害の御年季と、
御墓標の御遺号が違っているという。

また、後年になってこの墓所につき御茶湯料のことを東北寺から願い出たが、
「たとえ真実であっても、今まで知られていないことを、
このように表に出すのは却ってよくない。」と宣告は容れられなかったと聞いた。

(『江戸砂子補』には、禅河山東北寺妙心派は、下渋谷に在るとある。この地のことだ。)

(甲子夜話三篇)



582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 00:57:51.02 ID:IMsa1VVG
謀反を恐れて殺したのにノブのせいにするウンコ漏らし

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 16:39:04.29 ID:r2/kuP1d
>>580
誤字に対する注釈が面白い、今も昔もかわらんなー

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 17:53:59.41 ID:lRnEA01U
>>582
おまえこの本文全く読んでないだろ

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 19:24:05.84 ID:PLy9AzSu
最近、秀吉厨と家康厨が活発にやりあっていてどこも荒れぎみだね

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/06(月) 19:46:03.96 ID:H2xryelB
まあ信長の武田恐怖症は異常だしな
岡崎が織田を捨てて武田に走る気持ちも分かる

親たちがそのように仰られるのでしたら

2015年09月16日 13:24

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 21:48:20.45 ID:N7D7UwBE
天正元年、奥平貞勝の嫡子貞能が、武田勝頼を裏切り徳川家康へ仕えたいと申し出てきた。
そこで家康は長篠城を与え、「貞能の嫡男九八郎(信昌)をやがて私の婿にしよう」と言った。

これに対して徳川信康が「とんでもないことです!私の妹婿をどうして九八郎にしなければならないのですか!」
                (存知もよらず。我らが妹むこに何とて九八郎を仕らん哉)
と言って反対した。
それで流石に無理に進めるわけにもいかないので、家康は信長に伺いをたてた。

すると信長は、
「信康のいっていることは聞いた。しかし、貞能・信昌は忠節な人であり、また大事な国境を預けられているのだから、
信康殿は不承知を我慢して、このことは家康に任せた方がいいと思う」と言った。

信康はこれを聞いて
「親たちがそのように仰られるのでしたら、どのようにされてもご存分次第に」
と言い、そうして亀姫は奥平信昌と結婚した。


『三河物語』より、徳川信康が同母妹・亀姫の輿入れに反対した話である
若い信康にしてみれば、自分と同腹の妹はやはり徳川家と同格の大名に嫁がせたかったのだろう、
と小楠和正著『浜松城時代の徳川家康の研究』では考察している
後年の信康切腹につながる家康と信康の対立の要因の一つであるかもしれないちょっと悪い話




319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 22:11:09.81 ID:dLdCnlPM
奥平は、家康に下った(勝頼を裏切った)ために
人質の親戚の娘を勝頼に殺させてるな。
彼女は奥平の息子の妻って説もあるし、それが本当だったら
そんな不実な奴に妹を嫁がせるのが不本意ってのもわかるんだが

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/15(火) 23:47:58.54 ID:eS4JXMur
新田勝頼だと人質は信昌の許嫁だそうだ
これを勝頼が側女にしようとしたから離反となった
ちなみに離反後に女は自害
正室を殺されてるところに家康から婿にならないか?と誘われれば例え養女だったとしても忠節を尽くすだろうな

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 00:16:45.44 ID:p7XFt/ZS
>>320
新田勝頼ってそれ小説じゃねーか!

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 01:09:00.51 ID:HBSZDQrh
うろおぼえだが軍艦ネタか何かで、
娘は磔にかけられるってオチじゃなかったかな
どっちにしても「勝頼はダメすぎる」エピソードって事なんだろな

家康の長女をもらって、重要な外戚にしてもらえる恩恵を目当てに
嫁を見殺しにしたとしたら
ちょっと悪いどころじゃない、嫌な話だな

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 22:47:15.58 ID:0H+AW7NV
鎌倉時代ですら武士が人質見捨てるなんて別に珍しくも無い話だと思うが

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:02:33.64 ID:gDSzPnL4
一般的に、長篠あたりの奥平親子は
多大な犠牲を払って家康に忠義を尽くしたんだ! 
みたいな美談として語られるが、結局神君史観だし。
彼らに対して悪意のある見解を時たま見る事はある

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:15:21.73 ID:wSbhZ+HO
忠義というより、一度武田を裏切ってるから背水の陣が正解だよな

326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:35:01.91 ID:M2E8ScPg
まあ徳川も一度裏切ってるんですけどね奥平家(小声

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:39:02.36 ID:/k3dPX73
う~ん、いわゆる山家三方衆は、それぞれ生き残るのに必死だっただけだからなぁ
もともとどこかの譜代だの被官だのってわけでもなく、かといって周囲の大物を敵にまわして単独で家を守りきれる
わけでもなく…忠義だの裏切りだのっていう簡単な話じゃないよね
武田vs徳川の20年くらい前には、織田vs今川の板挟みになって同族間で血を流した時代もあったわけだし

地理的な話をすると、武田勢って山越えで南下してくるから、一旦兵を引いてしまうと併合した奥三河衆に後詰めできない

武田の大軍が来る→戦力差あり過ぎて徳川に付いても生き残れないから武田傘下に入るしかない→武田勢の一員として徳川勢
を攻撃させられる→時間切れで武田勢が山のむこうのおうちに帰る→武田方の奥三河衆が残される→じっと耐えてた徳川勢
反撃開始→独力では徳川に対抗できない…

このループですよ
越後の軍神が越山してきたときの北関東の諸将の立場と似てるかも

328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 01:44:12.79 ID:9Xb9X2zn
武士は犬ともいへ、畜生ともいへ、勝つことが本にて候。

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/17(木) 06:21:30.82 ID:sjJNYcVD
>>324
神君どうこうより、奥平氏が江戸期に都合の悪い話を粉飾しただけじゃないかな。
武田方から離反した理由もそうだし、信昌の偏諱とかもね。

信康元服の能組

2014年09月02日 18:55

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 18:57:09.67 ID:hi1ah9LO
元亀元年の八月吉日に松平竹千代が三河岡崎城で元服した。
徳川殿の嫡男であり信長公の婿であったので、
信長の信の字が遣わされ徳川次郎三郎信康と名乗り、岡崎殿と呼ばれた。
信長公はこの祝い事に大変お喜びだった。

しかしこの時あやしげなことがあった。
信康の元服の祝いとして浜松城にて十五番の猿楽の興行が行われたのだが、
この時猿楽師の観世十郎がうっかり次のような不吉なことを言ってしまった。
「今日の能組は、以前今川義元が信長公に討たれる前、駿府において氏真が所望して行った
能組と全く同じですね」
(今日ノ御能組ハ、十年以前今川義元ヲ信長公ヨリ御討捕ノ前カタ、
駿府ノ城ニテ同ク氏真の御所望ニテ仕リタル能組ニ一番モ替ラザル番組ナリ)

家康・信康はこの発言を殊の外気にかけ、ついには観世十郎を勘当した。
後で思い返してみれば、これは信康の行末が不幸なものになる前兆だったのだろう。



織田軍記・松平記などより、信康元服時の異変についての悪い話
元服は確か8月28日だったはずなので、その時に投稿しとけばよかった……



101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/01(月) 19:51:11.09 ID:1noRbxLo
出征前ならともかく…気にしすぎだろ

荘内神社と徳川信康

2010年12月16日 00:00

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/15(水) 11:49:40 ID:63XqE5/V
酒井忠次の子孫、旧出羽庄内藩の山形県鶴岡市では、忠次以下の藩主4人を祀った荘内神社がある。
毎年の例大祭では、まず最初に徳川信康公慰霊祭を行ってから、藩主たちの番となるのであった。

いい話ですねー。でも400年も気にし続けなくちゃならないのは大変だ。



854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/15(水) 12:05:02 ID:PDEQAXpe
酒井忠次は信康・石川数正の岡崎派とは対立してたからね。
俗説の12ヶ条の逸話などを別にしても後暗い所はあったんだろう。

雑談・信康事件

2010年12月15日 00:01

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/13(月) 15:35:35 ID:aM8wuEEe
信康の事があるからねぇ……

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/13(月) 17:04:00 ID:JU1sl7ap
信康に関してはむしろ徳川の方が気を使ってるだろ
徳川幕府成立後にも千石以上の所領を五徳に与えたり

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/13(月) 17:10:10 ID:gwqFjTdi
まだ信康の処断は、信長が強要したとか思って輩がいるのか?

829 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/12/13(月) 17:24:09 ID:+/GID+f3
>>828
信康事件が「徳川内部の事情」っていうのは、未だに断定できる証拠の一切無い
想像の産物にすぎんよ?

史料的には彦左さんなんかがはっきり書き残した分、「信長強要説」のほうが分がいい。

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/13(月) 18:28:14 ID:JU1sl7ap
んー他の一次史料でも信長強要説が無いと
彦左さんの史料自体が疑われると思うんだが
永倉新八の自伝から幕末語るようなもん
家忠日記あたりに夫婦仲最悪で信長の命令って書いてあったらいいんだけど
安土日記にゃ、信長は「家康の好きなように」としか言っとらんね
牛ちゃん織豊系だから、でスルーするなら彦左も徳川系だからでイーブンだと思うし

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/13(月) 19:12:20 ID:dSiIKObW
長篠で武田の脅威が完全に取り去られたから徳川の防波堤は完全に必要なくなった。

無理難題を言いつけて徳川と手切れをしようとしたら、あっさり従ったので、もうしばらく生かしておいて
利用しようとしただけ

832 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/12/13(月) 19:29:12 ID:+/GID+f3
>>830
一応重要なことは彦左さんもそうだが徳川家の側では、徳川が天下をとる以前から
信康事件を「信長の強要」と理解しており、一方の織田家の側には、当時を知っている人々が
残っていた時期であっても、それに対する何らかの反論は存在しない。

信長強制説も徳川内部の事情という説も確かに決定的な証拠は存在しないが、
どちらが有力かといえば「信長強制説」の方が、少なくとも現在の時点では有力、
と見たほうが公平だと思うよ。

>>831
> 長篠で武田の脅威が完全に取り去られたから徳川の防波堤は完全に必要なくなった。
それはない。長篠のあと信長は家康に、武田家に対する集中的な調略を行わせている。
信長は長篠の結果武田が弱体したとは考えていたが、止めも刺さないうちに
「もう東は大丈夫」などと思うような脳天気な武将ではないよ、信長は。

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/13(月) 19:44:33 ID:JU1sl7ap
徳川家の側の信長の強要とする史料って何よ?
家忠日記にゃ家康と信康の仲が不穏な様は書かれているけど

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/13(月) 20:16:25 ID:O/1k9IMg
【真?】戦国逸話検証スレ【偽?】
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1196778610/
それ以上はこちらでどうぞ

836 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/12/13(月) 20:17:10 ID:+/GID+f3
>>834
三河物語も当然として、松平記や当代記にもそう記録されてるでしょ?もちろん徳川実紀にも。

というか「徳川家内の紛争説」は想像や推測で補完している部分が大きすぎて、
まともに受け取るべき説とはとでも思えないんだわ。
一種の創作小説だと思う。

837 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/12/13(月) 20:19:06 ID:+/GID+f3
すまんかった。自重します。

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/13(月) 20:21:35 ID:FRyovLe/
当代記には書かれてない

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/13(月) 20:23:13 ID:A4egQgC9
二次レベルの資料によると、信康と禁断の関係にある築山殿との女の戦いに敗れた五徳が
信長に畜生レベルの親子関係をチクってそれを知った信長がうらやましからんといって
両方殺せと命じたが家康はまんちょに無中だったのでどうでもよかったという話

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/13(月) 20:31:11 ID:FRyovLe/
徳川家の史料の中には築山殿は朝倉義景の妻になって
子供まで産んだというのもあるぞw

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/14(火) 00:46:35 ID:/dopAFUA
なるほど、いったんは朝倉に嫁がせ、後家にしてから娶ろうというのだな

842 名前:819[sage] 投稿日:2010/12/14(火) 00:55:28 ID:SqtyEf0o
>>834
『徳川実記』には書いてあるね。
悪い話向きだと思うからあっちに投稿しておく。

織田、徳川どちらの史料にどんな事が書いてあっても「捏造だ」で済ませられちゃう様な
気がする。
北条の手紙なんかで残ってたら面白いんだけどね。

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/14(火) 04:44:30 ID:guvEiJsl
>>841
いや家康に離縁され、その後復讐の為に嫁いだとされているらしい

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/14(火) 06:19:44 ID:WetDDjoe
信康の暴君逸話を書いてるのも三河物語なんだよな

高力小隼人、殿守から・悪い話

2009年03月18日 00:19

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/17(火) 04:56:37 ID:zDhwNhwh
高力小隼人は若年の頃岡崎で、徳川信康に使えていた。

ある時信康が近習達を前に殿守にて
「この中に猛敵の前にあえて出る者はいても、この殿守から飛び降りる者は居ないだろうな。」
と言った事があった。
その殿守、地面から相当な高さにあった。

これを聞いた小隼人、
「ここから飛び降りることなど簡単ですが、敵前での働きは、功を立てご褒美をいただくことが出来ます。
しかしここから飛ぶのは、体を損なうばかりで功になりませぬ。だから飛ばないのです。」
と、申し上げた。

これに信康
「お前の言う事は確かに尤もだが、やはり臆病が出て飛ばないのではないか?」

と、この”臆病”の言葉が聞こえるや否や小隼人、走って殿守より飛びおりた!
大怪我をした。
そして回復まで1年間ほども、かかったと言う。

信康もこの時、骨身にしみて知っただろう。若年のものであっても、三河者にうかつなことは
言えないのだ。そんなお話。




907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/17(火) 11:25:44 ID:l56PVPU5
一条 房家「飛び降りろなんて酷いよね~。」

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/17(火) 13:22:15 ID:ZnhTkfZZ
信幸・信繁「戯れに飛び降りろとか言う人間はサイテーだと思います」

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/17(火) 17:32:29 ID:EvUkbKlG
国親「高力殿、もっとこう、膝に力をかけずに降りるのです」

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/17(火) 19:42:32 ID:sr9hBImD
>>911
国親しんせつww