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小西行長捕縛

2019年10月11日 16:53

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 16:37:31.03 ID:zZQFSs+H
(前略 >>495

かくて行長(小西行長)は「大坂へ忍び行こうか、または薩州へ落ち行こうか、ただ居城へ赴こうか」と様々
に思案したけれども、敗北の従臣共は1人も尋ねて来ない。あまつさえ東兵は八方に充満し、落人を探し求め
たので、翼が無くてはこの場を漏れ出る様子も無い。

行長は今は運命これまでと思い切り、住僧に向かって「不覚者に与して快き戦もせず、無下に敗北したことは
口惜しい。しかしながら、いつまでもここに忍んでも運の開く我が身にあらず。自害しようと思っても、私は
年久しく耶蘇宗門を崇んでいる。天帝の法として、自らその身を傷つけることを深く慎み嫌う。御僧が今まで
深く労り隠しなさった厚志の返礼に、この命を進上する。徳川殿へ注進なされ」と言った。

これに住僧は「『窮鳥懐に入る時は、猟人も之を殺さず』と言うのだとか。ましてや僧侶の身であれば猶更で
す。ただいつまでもここに忍んで、時を待って運を開きなされ」と、もっとも頼もしく返事した。

ここに関ヶ原の近所に林蔵主という僧あってこれを聞き出し、9月18日、家康公が江州八幡山に陣しなさる
所へ参り、竹中丹後守重門を頼んで「行長は山中の賀須川寺に忍んでいます。人数を向けなさるならば、案内
して虜にします」と訴えることにより、かの僧に竹中丹後守を添えてその他大勢を遣わしなさった。

林蔵主は寺へ帰り強力の悪僧5,6人を伴って行くと、討手の輩を門外に残して自ら悪僧共を連れて、小西の
いた座敷へ忍び入って窺うと、小西は前後も知らずに伏していた。僧従は喜んで密かに側に置いていた刀脇差
を盗み取って俄に押し入り虜にしようとした。その音に小西は驚いて起き上がり、僧2人を取って押さえ膝下
に押し込み刺し殺そうとすると太刀脇差が無い。そこへ悪僧4人が前後左右より飛び掛かり組み留めようとす
るのを、小西はすかさず取って投げ付け押さえた2僧を押し殺した。

時に門外にいた竹中重門は大勢を率いて押し込み、ついに虜にして疲馬に乗せ八幡へ来たり、小西を献じた。
家康公の御感あって、抜群の功として竹中に小西が差していた光忠の刀と兼光の脇差を当座の褒美として賜わ
り、次に林蔵主を召されて黄金10枚を賜った。

諸人は皆、かの出家に似合わぬ任侠をあまねく憎み謗ったが、天罰かまたは小西が怒れる報いなのか、かの僧
が黄金10枚を賜わり帰るのを近辺の盗賊共が聞き付けて押し込み、僧従を残らず搦め置き、かの黄金宝物を
ことごとく奪い取り、あまつさえ林蔵主の耳鼻手足を断って逃げ行けば、林蔵主はその夜中に狂死した。因果
歴然の道理また宜かなと、聞く者は舌を巻き恐懼した。

さて行長は10月朔、石田・安国寺と共に各々雑車に乗せて洛中・洛外・大坂・伏見を引き渡し、三条河原に
おいて首を刎ね梟首せらる。嗚呼憐れむべし。

――『古今武家盛衰記』



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行長も心ならず引き立てられて共に敗北し

2019年10月08日 15:30

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 18:34:53.73 ID:mLJwIBqg
(前略 >>455

すでに夜が明ければ、石田三成・島津兵庫守義弘と舎弟の中務大輔家久(豊久の誤り)・小西摂津守行長ら
は関東勢の旗の手を見て関の藤川を渡り、小関の南辰巳に向かって備える。備前黄門秀家も手勢の大軍を率
いて同所に備えた。大谷吉隆(吉継)・平塚為広・戸田武蔵守重政(勝成)と子息の内記重宗・津田長門守
信成は石原峠を引下し川を渡り、関ヶ原の北野に出て西北の山を後ろにあて、不破を左に見て辰巳に向かう。

家康公の旗本は鶴翼に備え、16段に備を定めて先陣は福島正則、鉄砲8百挺・弓5百張を段々に組み合わ
せてまず矢合わせの鏑を石田の先手へ射掛けた。さて鉄砲を一度につるべ放ち、金鼓を鳴らして鬨を揚げれ
ば東兵も共に同じく太鼓を打ち、楯の端や胡ロクを叩いてこれを助け、都合7万5千3百余人が鬨をどっと
作れば、西国勢13万8千6百余人も同じく鬨を合わせつつ、諸手一同に戦を始めて白刃を交えたのである。

福島父子は弓鉄砲の迫り合いを経て長柄を揃え錣を傾け三成に突いて掛かれば、小西行長も相掛かりに掛か
り揉み合った。これを見て東国方の細川・黒田・加藤は走り合わせ、命を鴻毛よりも軽くする。また西国方
でも島津兵庫守・宇喜多・島津中務大輔と掛かり合い、互いに魚鱗鶴翼の秘術を尽くし命を限りに攻め戦う。

中でも小西は手の者共に目合わせし「敵は大勢、味方は小勢、通り一遍では利はあるまい。羽武者共に目を
掛けるな! 大将に組んで討て!」と風の散る雲の如くに群がり、千騎が一騎になるまでも引くなと、互い
に恥しめて面も振らず相戦う。流石に広き関ヶ原、錐を立てる地も無く敵味方20余万は、算を乱したる如
くなり。

行長は諸将に構わず自兵を引き纏い、三国黒という長さ9寸余の名馬に一鞭当てては馳せ散らし、取って返
し蹴散らし、千変万化の勇を振るう。その形勢、脱兎の網の裏を飛ぶが如し。

家康公が大音声で宣ったことには「敵の旗色は騒ぎ立っている。戦は味方の勝ちなるぞ! 総勝鬨を作って、
旗本の先陣は一同に馬を入れよ! 近習の輩も前一軍は備を崩して石田・小西の横合を打つべし!」と朱旄
を揚げて自ら御駕を進めなされば、御旗本の先陣、16段の先手共は槍の穂先を揃えて馬の鼻を雁行に立て、
大山の崩れる如く突いて掛かると、さしも金石の如く勇を励み備を堅める石田・小西も、この時に駆け破ら
て四方に散乱し、伊吹山・草の谷・伊勢路に掛かって落ちる者もあり、あるいは谷へ落ち入って死ぬ者もあ
り、右往左往に逃れ走った。

行長も心ならず引き立てられて共に敗北し、伊吹山の東粕賀郡に知音の寺があったのでかの寺へ馳せ入り、
しばらく息を継いで世の有様を聞いていた。

(後略)

――『古今武家盛衰記』

続き
小西行長捕縛


496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 21:09:37.76 ID:n4Znc1LY
小西行長が寺に?
伊吹山にはイエズス会の薬草園があったとか言うけど
ふつうに仏教寺だよね

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/08(火) 11:58:14.65 ID:LC7+7kuF
>>496
キリシタンが寺に居るなどと誰が考える?
アホはそうやって騙されるんだよ

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/08(火) 16:22:44.93 ID:bTgXE5VC
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541597/9
「南蛮寺興廃記」の薬草園の箇所

速やかに討死して名を万代に留めよ

2019年09月27日 16:24

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/27(金) 15:17:22.03 ID:zJaqhU3P
前略 >>443

石田を初め諸将が行長の奇計を用いず狐疑したのは、家康公が賢慮を巡らされ、敵が大垣へ出張した後にあ
らかじめ伊賀・甲賀の忍功者の輩を敵陣へ多く入れ置いて諸々の説を言わせられ、この流言に驚いて諸将は
互いに隔心し勇気は挫け、皆引く心が付いたのであった。

これより西国勢は敵からかえって夜討が来るだろうと、石田を初め島津・宇喜多などの諸将は慌てふためき
9月14日酉刻に陣所を払い、牧田の閑路を経て関ヶ原へ引き退く。殊にその夜は大雨で諸軍は大いに迷惑
し、その様子はさながら落人の如し。

この時、小西(行長)が付け置いた忍どもが走り来たりてこれを告げた。行長はまったく驚かず「どうして
そんな事があろうか。引き退くならば、我が方へもどうして一往告げないことがあろう」と事実とも思わず
にいたが、追々に告げて来るので不思議ながらも物具を堅めて馬に乗り、諸将の陣々を回り見るによくよく
慌てふためいたと思われ、兵糧・器財・弓・鉄砲・槍長刀・太刀・甲冑が捨ててあって、足の踏み所もない。

小西も興覚めながら自陣へ人を馳せて人夫5百余を召し寄せ、心静かにこれを拾い集めさせて夫駄に負わせ、
自分の陣所をも引き払って関ヶ原へ急いだ。

さて、諸将の方へ使を立て「各々の陣所に捨て置かれた兵具などを敵に拾われて、善し悪しの批判をされる
のも口惜しく、行長が広い集めて持たせて来た。御用次第に取り寄せなさるべし」と申し送り、関ヶ原から
八幡の西北、小池村の間に兵具などを並べ置いて所望に従って渡すと、皆面目なく見えた。行長は家子郎等
に向かって、

「このような臆病者とは知らず三成に頼まれ、犬死する口惜しさよ。しかしながら今これを捨てれば、節に
臨み義を忘れるようなものだ。ただ私が人を知らざる故なれば、今更恨むような様もない。汝らの数年の軍
功を無きに等しくしてしまうことは、返す返すも残念でならない。さりながら宿世の誓約と思い切り、今度
の最後の戦で悪びれて(気後れして)世人に笑われるなよ。速やかに討死して名を万代に留めよ!」

と情を含み勇を励まして語ると、従臣どもは「仰せまでもなし!」と誓いを立てて申したので大いに喜び、
「実に頼もしき心底よ! 最後の酒宴をせん!」と互いに打ち解け終夜舞い謡い、その後に手配りを定めて
明けるのを遅しと待っていた。

(後略)

――『古今武家盛衰記』

続き
行長も心ならず引き立てられて共に敗北し


456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/27(金) 15:32:51.16 ID:GToyzteL
>これより西国勢は敵からかえって夜討が来るだろうと、石田を初め島津・宇喜多などの諸将は慌てふためき
9月14日酉刻に陣所を払い、牧田の閑路を経て関ヶ原へ引き退く。殊にその夜は大雨で諸軍は大いに迷惑
し、その様子はさながら落人の如し。

どうしようもねーな
こんなん聞いてると水鳥の羽音で平家が逃げたとか信じそうになるぞ

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/27(金) 20:59:55.87 ID:d0XnWwP+
大垣城から関ケ原に引いた時点で、もう負け確定だったんだなぁ…。

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/28(土) 10:43:51.63 ID:bhDpweX0
>>455
誇張もあるんじゃないかな
石田三成だけならまだしも他の将まで揃ってとは

味方の中に勇士はいなかったのだ!

2019年09月26日 15:56

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/25(水) 18:18:47.04 ID:8prqcSXc
(前略 >>436

去る程に慶長5年(1600)9月12日、石田らは濃州大垣城に籠って岐阜城へ加勢を遣わし、島左近
株瀬川(杭瀬川)へ出して戦の手始めをさせたところ岐阜はたちまち落城し、左近は利を得たけれども味方
は大勢討たれたので三成は驚いて諸将を集め、「この上は関ヶ原まで引き退き、味方の多勢と成り合って広
野において戦せん。如何だろうか」と言う。島津・宇喜多・安国寺らも心臆したのか皆もっともとこれに同
意した。行長(小西行長)1人は知らぬ顔でいたがこれを聞き、怒声をして高らかに言ったことには、

「こは臆したる評議かな! およそ戦の勝ち負けは5度も10度も戦い負けて、1度の勝ちに大利を定める
ものぞ! ましてや日本が2つに分かれて戦うというのに、10度20度の合戦に変わりがあろうか!それ
に味方の負けは岐阜ばかり、株瀬川の戦は大勢が討たれたが軍利を得て大敵を追い払った! さて敵方の負
けは大津城、丹後の田辺、伊勢の津城、伏見城である! これは我らの勝ちではないのか!

東国勢は多しといえど7万5千3百余兵、味方は13万8千6百余人! 敵に若干倍するのではないのか!
それを岐阜落城に物を懲らして逃げ支度する謂れはない! 今ここに有り合う勢をもって敵と戦うのに不足
はあるまい!

それで覚束ないのならば関ヶ原の兵をここへ招き寄せて快く一戦し、万一利が無ければ大坂城に籠り、また
勢を分けて所々の城に籠め置けば、敵は手配りしてこれを攻めることだろう! 多からぬ関東勢を分散させ、
その虚を窺って家康の旗本へ突き入れば、どうして勝利を得ないことか!

また岐阜中納言秀信は生得愚魯の闇将、臆あって勇なし! 弱将の下に強兵無き故、家臣らはまた浄き戦も
せずにたちまち首を伸ばして降参した! これは戦の咎にして天利とするべきではない! それを味方の兵は
臆して敵兵は気に乗ったとこの陣を退くことは後世の謗り、そして今においては戦の損、一方ならぬ誤りで
ある!

私が思うに家康は今日赤坂へ着陣して備は未だ定まっていまい。今夜こちらから逆寄せし、一戦すべきでは
ないか。つらつら思うに家康は広野の合戦に妙を得て、人数を見切り進退し、軍兵を指揮することは誰が雌
雄を争えよう。各々も見給う如く、姉川・長篠・長久手・楽田・羽黒などの戦場で僅かの手勢をもって大敵
を切り崩したその形勢は、神変無双の驍将である。尋常の如くこれと戦してはまったく利はあるまい。

まず今夜、夜討して敵の変化を窺い見て、重ねて術を巡らすべし。ただ運を天に任せて味方の勢を三分し、
一手は家康の本陣へ夜討させ、一手は旗本近き陣を攻め、一手は援兵の通路を断じ、所々の陣々、赤坂の町
屋在家を一同に放火してその変動に従って戦わん!」

と言うが、諸将は聞き入れず。石田は言う。「小西殿の計りは図に当たるといえども、味方の中に二心の者
は大勢いると聞く。しからばこの謀も敵に洩れるのではないか。なまじ夜討して味方の若干が滅びるよりは
速やかにここを退いて味方の大勢と心を合わせ、一戦の功を立てるに如かず」と用いず。行長はまた言う。

「夜討の術が各々の心に入らないのならば、ともかくもここを退いて関ヶ原まで引かれんことは甚だすべき
ではない! 戦の習いで一足でも進むとなれば鼠も虎の威に同じ、一足でも引く時は虎も鼠の如しと言われ
ている。岐阜が落城して味方の兵は気を失い、勇の挫けるところでまたここを退けば敗軍に等しく、ますま
す味方は力を失い、敵は未だ戦わずして勝軍の猛威を振わん! これは敵に勇を付け味方の気を弱めること
なれば、自然と心を変ずる者もあろう。重ねて戦っても利は無い!」

とするが諸将は肯定しない。小西は大いに怒り、座を立って大声で罵ったことには「それほど味方を疑って
は、いずれも戦はできない! 臆病神が付いた以上は百万の勢があろうとも負け戦になろうぞ! 思うに味方
の中に勇士はいなかったのだ!」と、悪口して陣所へ帰った。

石田を初め諸将が行長の奇計を用いず狐疑したのは、家康公が賢慮を巡らされ、敵が大垣へ出張した後にあ
らかじめ伊賀・甲賀の忍功者の輩を敵陣へ多く入れ置いて諸々の説を言わせられ、この流言に驚いて諸将は
互いに隔心し勇気は挫け、皆引く心が付いたのであった。

(後略)

――『古今武家盛衰記』

続き
速やかに討死して名を万代に留めよ


444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/25(水) 18:20:33.61 ID:Dlm/oppg
戦犯小西

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/25(水) 18:21:51.54 ID:U38ZVahv
三成って安定択しかとれないイメージ

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/25(水) 18:54:19.25 ID:UhsvF/OK
前線の武将は熱いな
モタモタするより速攻で1回戦って団結した方が良さそう

447 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/25(水) 20:20:18.64 ID:Rn6zhfmt
三成は家康はもとより、同世代のNGMSや市松他東軍諸将連中と比べても前線や陣頭指揮の経験が豊富かって言うとそうでは無いしなぁ…
かと言って総大将としての戦略も…

結局、毛利と小早川が調略されてる時点で詰みよねぇ…

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/25(水) 22:49:49.78 ID:e8AHqd1y
猪武者でも頭良い人けっこういるんだよね
三成は頭に寄りすぎ
融通利かなすぎ

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/26(木) 15:47:14.39 ID:QTP1VGvV
簡単に岐阜を抜かれたのが痛いね
天下の名城だし諸将への動揺が大きかったと思う
態勢を整える為にも一旦下がるのは誰もがやる手法だろうね
伊賀者甲賀者が暗躍してる時点で夜討は効果ないでしょ
看破されて撃退されるのがオチ

20万石余 小西摂津守行長

2019年09月24日 15:37

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/23(月) 19:30:46.75 ID:cwZ3+KTm
20万石余 小西摂津守行長

肥後州宇土城主・従四位下侍従行長、父は泉州堺累代の薬商・小西清兵衛入道如清という。彼は子息の
清九郎(弥九郎行長)を伴って朝鮮へ渡り、薬を買って往来すること数ヶ年。

太閤は天下草創の以前より朝鮮を征伐せんと心掛けられた故、小西が案内を知っていることを聞いて、
子息の清九郎行長を召し使われたが、行長は武勇才智あって太閤は喜び、播州在城の時に初めて2百石
を賜う。行長はなお武を学び和漢の兵書を考えてもっとも兵道に達する故、太閤はかつて播州一国を領
せられた時より、天下平均、かつ朝鮮攻めまでの合戦でついに不覚を取らず。

さて太閤は備中出陣の時は小西清九郎が先手に進み戦功あり。帰陣の後に1万石の感状を賜り、従五位
下内匠頭と受領す。後にまた段々加増、10万石に至り摂津守と改める。

この時、宗対馬守義智に一女あり。小西の智勇を感じ入り太閤へ願い婿とする。しきりに戦功を積んで
天正13年(1585)に10万石の加恩を賜い四品に昇り、肥州宇土の城を賜う。

さて、太閤は宿望の通り朝鮮征伐を企て、行長を先手の大将たらしむ。行長は案内者である故、やがて
かの国の通事数人を語らい懐け、路次の便を調え諸将へ下知案内を司る。行長はかつ勇猛智謀をもって
朝鮮の王城数ヶ所を攻め抜き、敵の首を斬ること諸将に10倍す。その働きは『朝鮮征伐記』に詳しい。

しかしながら元来卑賎の者である故、己の武勇に驕り諸将の誓約を変じ、己1人の功を立てんことを業
とする故に交わり親しむ者なし。行長はこれを悟らず、人を嫉み世を恨む。石田(三成)とは懇意故、
かの逆意に与しその為に軍法を談じるといえども、石田の運が尽きたのか小西の謀を用いざること多し。

(後略)

――『古今武家盛衰記』

続き
味方の中に勇士はいなかったのだ!


440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/24(火) 10:25:43.22 ID:oBX6SoJl
>>436
持ち上げて持ち上げてからのハシゴ外し w

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/24(火) 10:36:01.80 ID:/PMrZ76R
元来卑賤てwそれ太閤もやん

小西行長の長子

2018年07月10日 21:03

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 00:14:00.10 ID:4OTrD0VR
小西摂津守行長は、関ヶ原の前に住吉屋という銀座に、
『長子を養子に遣わす。私の形見に残し置く』という文を出した。

この長子は名を小西宇右衛門と言い、銀座の家督となり後には江戸に下り、銀座頭を勤め
公儀より五十人扶持を下された。

宇右衛門の子の一人は、は公儀の御医師である小川宗春方へ養子に入り、後に宗春の名を継いだが、
無学にて家業を疎かにしたという。
外戚腹の男子は京の難波屋の養子となったが、これも放埒に金銀を遣い失い、身体を果たした。

しかしそれらの父宇右衛門はさすが行長の子であり器量が有った。当時、芝大仏に茶屋を一軒
借り置いていたが、近所で火事が出た時、彼は家財諸道具一切に構わずかの茶屋へ一家を引き連れ
立ち退いた。その姿を人々は笑ったが、宇右衛門はこう言った

「財宝は求め安い、しかし命は求めがたい。天下を望むのも、生命があってこそだ。」

(渡邊幸庵對書)



73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 13:38:56.46 ID:+Sn4NBhJ
>>72
タイムリーな

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 15:18:13.18 ID:tkEmB0NM
流れ着いた箪笥から現金が出てきて俺ウハウハ

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/10(火) 19:21:24.09 ID:wjkq+BjH
へえ。息子は生き残ったのか。

賊軍の平行長から

2017年03月10日 13:08

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 00:39:46.61 ID:CuKbDLlq
ついでに↓でも触れられているけど柳成龍による巨済島の海戦
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1642.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2860.html

賊(日本)軍の平(小西)行長から要時羅(よしろう)という人物が金応瑞に派遣されて
「自分は講和交渉を台無しにした加藤清正を甚だ憎んでいる。
これこれの日に、清正の倭船が渡海してくるので朝鮮の水軍は迎え撃つべきだ」と言った。
権慄はこれを信じたが、李舜臣は賊の罠だと疑い、前進せずに遅延してしまった。
とうとう清正が上陸してしまったため、朝廷は李舜臣を咎め立てし獄舎に投ぜられた。
するとまた要時羅が派遣されて「これこれの日に倭船が来援します」と伝えてきたため、
李舜臣と仲の悪かった元均は、あるだけの船を全速力で向かったところ、
強風が吹いて散り散りになり、疲れたところを賊軍に襲われてわが水軍は壊滅してしまった。
思えば、賊軍は水軍にだけは敗北を喫していたため、秀吉がそれを憤って行長に撃破を命じ、
行長は応瑞を騙し、李舜臣を罪に落とし、元均を海上におびき寄せて襲撃したのだった。
その計略は至って巧妙で、わが方は、ことごとくその計略にはまり込んでしまった。
哀しいことである!

友軍を売ろうとしたら大戦果を収めてしまった小西行長であった


文禄の役の和議の模様

2015年08月06日 14:18

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/06(木) 12:27:18.76 ID:6LDCYi5a
大明の石司馬と言う者は、明において朝鮮のことを司っていた。
秀吉の朝鮮出兵を受け、どうやって朝鮮に入り日本の兵を退治すべきか計っていた所に、
沈惟敬と言う者、先年日本に渡った鄭皿という者に遭って、日本のことを尋ね聞き、
今度の朝鮮の乱で大功を立てようと考え
「私は日本のことをよく知っている!」
と触れ回った。

石司馬はこれを聞いて対面し、人を得たと大いに喜んだ。
彼は祖承訓らの敗戦に凝りて、重ねて大軍を催さなければ日本人と戦うのは難しいと思い、
この沈惟敬に、朝鮮に行って和議を整えるようにと命じた。
これによって沈惟敬は朝鮮に渡り、小西摂津守(行長)が平壌に在った時に対面し、
明と日本が和睦すべきということについて議論した。

小西行長は7ヶ条の要望を書き、「この事が整うのなら我らは和議に同意する」と伝えると、
沈惟敬もこの条件を了承したため、裄長も同心し、和睦を結ぶことを許可した。

ところが沈惟敬が明の帝都に帰りこの件を奏上すると、群臣の詮議はまちまちであり
俄に結論は出なかった。このため和議は未だ成らず、その間に李如松が大将として大軍を引きい
朝鮮に渡った。ここに至って沈惟敬もまた朝鮮に渡り李如松と対面し、石司馬の意をのべて
日本と和議を結ぶべきとの内容を語り、また小西のもとに来て相談した。

そこで、去年小西より要求した7ヶ条のうち第4は大明より秀吉を日本国王に封ずべきとの内容であったが、
小西や三奉行を始めとして。朝鮮の在陣には労苦が多かったので、どのようにしてでも和議を整え、
戦争を終わらせて日本に帰りたいと思っていたため、この一項を言い換え、『秀吉を大明の王に封ずべし』と
日本に申し送った。その上、朝鮮の二王子を返せば、朝鮮八道の内四道を割譲する。日本の帝王を
明の天子の婿とするであろうと、沈惟敬が言ったため、これを小西及び三奉行が申し上げると、
秀吉は喜悦し「そういう事なら戦をやめて和睦しよう」と、朝鮮在陣の諸将に対し伝えた

「日本側が要求した7ヶ条に大明が同意した上は、加藤主計頭(清正)が生け捕った朝鮮の二王子、および
臣下たちを送り返すように。朝鮮の王城にいる日本勢は釜山浦まで引き取るように。」

また開城府を守る李如松も、日本勢が王城を出たなら、同じく軍勢を残らず引き連れ開城府を立ち退いて
大明に帰るべしと定められた。
これによって、4月18日、日本の諸将は皆、王城を引き退いた。
小早川隆景の謀にて、各陣所に火をかけて立ち退いた。
大事の退き口であるので、大明の大軍が後を追撃してくることもあるため、黒田長政に
殿を務めるようにと議定し、その旨に任せた。

また都より釜山に帰る途中に大河が在ったが、長政はここに船橋を渡し、王城より帰る兵を
残らず渡すと。その後船橋の綱を切って捨てた。
李如松はその後やがて、日本軍と入れ替わりに王城に入った。

(黒田家譜)

黒田家譜より、文禄の役の和議の模様である。




小西行長捕縛

2015年07月30日 11:39

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/29(水) 21:11:58.51 ID:ZmPhxVvV
城和泉守(昌茂)が物語った事である

「私が先年、関ヶ原に一泊した時、旅籠の亭主を呼んで『昔ここで、大合戦があった時のことは覚えているか?』
と尋ねると、この亭主は老人で、詳しく物語した。私が『小西行長をここの者が捕らえて草津に差し出したと
言うが、それを知っているか?』と問うと、この亭主『小西をとらえたのは私です』という。そこで私は、
この事色々と質問し、ついに事実であると理解した。亭主が言うには

『あの時、おびただしい落人が日夜ここを通っていたため、在所の者共は申し合わせ、武具はもちろん
衣類まで剥ぎ取っていました。しかし我々はそれを制し、そのような事は致しませんでした。
これは仔細のあることでした。

そのような中、近くの山において、我々に呼びかけてくる落人がありました。
私が「いらぬことを話しかけるより、何方へでも、早々にお忍びなさい。」と申しましたが、
「是非是非ここに来てほしい。頼みたいことがあるのだ。」と申します故、行ってみると
「私は小西摂津守である。徳川家に連れて行って褒美を取れ。」と言うではありませんか。

私は驚き「考えもできない、勿体無いことです。どうか少しでも早く落ち延びてください。」と
申し上げましたが、「いや、私が自害するのは容易いが、切支丹なれば自害も出来ぬ。」などと
様々に申されたため、是非なく我々がお供申し上げました。

そこから御本陣に向かいましたが、途中でもし人に奪われてはと心許なく思い、
竹中丹後守の衆を呼んで色々と話し合い、小西殿を馬に乗せ、竹中丹後守御家来が同道にて草津の
御本陣へ参り、村越茂助殿の宿舎にこの事を申し入れますと、我々を宿舎の中に通され、その後、
小西殿に縄をかけられました。
私達は途中も心やすく考えてお供していたので、縄のかかることになるとは考えもしていませんでした。

それから、私達にはご褒美として黄金10枚が下されました。竹中丹後守殿にも、何か下されたと
記憶しています。その後は特に何のご沙汰もありません。』

世の中では、林蔵主と申す飛騨出身の出家が、これが大力であったため小西を生け捕った、などと
諸書にもあるが、それは偽りである。」

(明良洪範)

小西行長捕縛についての逸話である。






加藤吉成の知謀

2014年12月01日 20:28

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/30(日) 19:05:21.69 ID:pLG88mxo
朝鮮の陣での、ある城を攻めた時のこと
日本の諸将が数日これを攻めたが、敵も堅固に持ちこたえなかなか落ちなかったため、
日本軍は攻め口を退き遠攻めにした。

この時、小西摂津守行長の家臣である加藤内匠(吉成)が申し上げた

「この城を数日間大軍で攻めましたが、寄せ手が討たれるばかりで城は落ちず、遠攻めと成りました。
ですが私の考えでは、今夜夜討を仕掛ければ、必ず乗っ取ることが出来ます。なぜなら敵は、我々が
夜攻めをするとは全く考えていないからです。間違いなくここ数日の対陣に困窮し、遠攻めのため退いたことに
油断しています。ですので、先ず忍びの者を遣わされ、敵の様子を究明することが宜しいでしょう。」

小西も尤もだと同意したため、加藤内匠は忍びの者に加え、家来で物慣れている清水角兵衛とい者を相添えて
偵察に遣わした所、両人罷り帰り、揃って敵が油断している様子を語った。

そこで小西軍は軍勢を二手に分け密かに押し寄せた。この時加藤内匠は搦手を攻める別働隊に下知した
「大手より鬨の声を上げて攻めれば、敵は尽く大手に集まるであろう。その時別働隊は搦手より
進入するように。」

そして大手で時の声を上げると、案の定敵は夜討が行われるとは思いもよらず殊の外混乱した。
大手攻めの軍は斧で門を打ち破ろうとし、また鉄砲も厳しく撃たせたので、敵は皆大手に集まり、
搦手には守兵がいなくなった。

よって搦手の軍はやすやすと城内に侵入し、加藤内匠も一番の乗り入った。諸勢も尽く攻め入り、
敵を数多討ち取った。
小西行長からは日本軍の諸将と示し合わせもなく、ただ小西の一微を以って尽く乗っ取ったこと、
偏に加藤内匠知謀によるものであった。

この時の鉄砲の音、時の声に驚き、他の日本軍の諸将は追々この城に乗り入れた。
しかし他の日本軍にとってもこれは思いもよらぬことであったので、夜が明けてみると、鎧を着る暇もなく、
素肌(鎧を着ていない平装の状態)の者が多かったという。

(黒田家臣伝)

後に黒田家に仕えた加藤吉成の知謀についての逸話である。




小西行長、平壤からの撤退の模様

2013年12月24日 18:55

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 15:06:35.56 ID:jofXKJj4
朝鮮の役の事

小西行長が籠った平壤城の外2里ばかりに、牡丹台という出城があり、ここにも小西は兵を籠めていたのだが、
唐人にこれを奪い取られ、平壤の本城ばかりとなってしまった。

大明の大勢がこれを取り囲んだ。大砲を多く放ち、その音は山岳に響き、異国の路程で数十里にわたって聞こえた。
また火矢を隙間もなく打ち掛け、その煙は天を覆い、火矢は城中に入って所々焼失したため、敵勢はその勢いに乗り
大勢が城に向かって攻め上がった。

城中からも矢狭間より鉄砲を激しく撃ちかけ、剣乾を連ねて防いだが、敵は激しく攻め戦ったため、敵味方に
討たれた者多かった。城中は既に危うい状態に見えたため、敵将の李如松の謀により、後ろの囲いを解いて、
逃げ道を開けて攻めた。これは城中の兵が必死になって戦えば、大明人に多くの被害が出ると考え、このように
したのである。

小西は勇猛であり、よく防戦したのだが、大敵に攻められ、城中の兵多く討たれ、初めは1万5千の兵で籠城
していたのだが、今では残兵わずか5千人を過ぎないばかりであった。
「この少勢で20万の大軍を防ぐことは出来ない。こうなっては明日には必ずこの城は攻め落とされるであろう。
ここで止む無く敵に討たれるよりは、一旦落ち延びて、後陣の味方と一緒になって防ぎ戦おう!
14里後方に大友(義統)の城がある。そこまで引き退いて、大友勢と一つになって籠城すれば、暫くは敵を防ぐ
事もたやすいことだ!」
そう兵たちに伝え、敵の囲んでいない方向から、正月8日の夜半に、密かに城を出た。前後に鉄砲・騎馬の兵を
立て、中に小荷駄・陣夫を包み、引き固まって退いた。

明朝卯の刻(午前6時頃)、大明の兵は平壤の城に攻め入ったが、一人の兵もなく、皆撤退した空き城であった。
このため、急ぎ撤退中の敵を追うべしと、手分けをして追手をかけたが、時刻が隔たっていたため追いつくことは
出来なかった。引き遅れた雑兵が少々あった程度で、戦闘には至らなかった。

小西が大友の城まで引き退き城中に入った。ところがそこでは、大友勢は既に一人残らず撤退した後で、小西勢は
皆力を落とした。これまでの戦いで士卒の力も尽き、まともな道も通らなかったため、ここで暫く休息を取ったが、
この城にあまり長く留まっては、敵に追いつかれると思い、また夜中に城を出、終夜撤退した。

ようやく夜が明けると、先の山中に中白の旗が見えた。それは黒田長政の家臣・小河傳右衛門の籠もる龍泉の城
であった。

小西行長はこれを見て、黒田は未だ撤退していないことを知り大いに悦び、諸卒に向かって言った
「さても軟弱なる大友かな!日本一の大剛の大将は黒田である!もはや黒田が城近し。一同賑わえ兵ども!」
これに士卒皆力を得て悦んだ。
(黒田家譜)

この小河傳右衛門の救援に寄って小西軍は明の追撃舞台を撃退し、撤収に成功する。
小西行長の、平壤からの撤退の模様である。




101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 16:10:31.67 ID:zbFvnxAt
こないだ小西をこき下ろしたばかりなのに、今回は小西を持ち上げて黒田ageさせるとは…
さすが黒田家譜はブレない

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 21:07:27.45 ID:R3dz8tgk
黒田家譜は登場人物が如水と噛ませ犬しかいない1ビット構造だから

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 21:48:55.47 ID:CLsMyCiE
そして安定の大友吉統sage
輝元、三成とならぶ黒田家譜御用達の噛ませ犬がまた登板

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 23:30:51.26 ID:PEnnqzNe
大友って改易される程やらかしたか?

仙石みたいに領国まで逃げ帰ったのか?w

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 00:29:19.82 ID:hKuDfixh
>>104
味方の無事を確認せずに拠点を放棄して撤退だから、同じくらいやらかしていると思う。

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 02:38:53.44 ID:r0eBolej
噛ませも何も義統ちゃんだからなあ
自ら意志薄弱で優柔不断とか言っちゃうくらいみたいだし
ただ朝鮮出兵での処罰などは政治的意図と秀吉の勘気が絡んでくるから何ともね

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 07:38:12.22 ID:pW4X5Oew
まるで社会に適応できないお前らみたいだなw
引きこもって酒浸りとか

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 07:51:20.97 ID:tiqlmTBX
>>102
でも隆景はageるばかりでsageはしないんだよな

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 11:29:41.55 ID:Jmsm6NZG
>>107
市松「夜まで飲もうか」

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 15:29:19.65 ID:mxnu+bBb
一条さん「女子もほしいぞな」

しかし小西は同心せず

2013年12月16日 19:18

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:05:50.04 ID:6v77XdVE
文禄元年(1592)、豊臣秀吉は朝鮮へと出兵し緒戦に大勝、たちまちの内に首都漢城(ソウル)を陥落させ、朝鮮を蹂躙した。

その後、総大将である宇喜多秀家より、相談すべきことがあるので諸将に漢城に集まるよう触れがあり、
尽く集合すると、大将秀家及び三奉行(石田三成・増田長盛・大谷吉継)から評議の内容が伝えられた、曰く
「各々の手柄に寄って各地の城も既に陥落し、その他の朝鮮人は戦わずして退散した。
しかしながら、朝鮮は元々大明の属国である。必ず大明より加勢が出されるだろう。
その上、朝鮮が既に敗北したと聞けば、大明も日本兵が侵入すると思い、必ず戦のための
大軍を差し寄越すだろう。この場合、これと戦う手立てはどのようにすべきと各々はお考えか?」

黒田如水はその座に居たが、これを聞いて
「仰せの如く、朝鮮が敗北したことを知れば、必ず大明より救援の兵が多く来るでしょう。
この都(漢城)より釜山海までは十余日ある長路であり、日本までの通路は遠く、物資の運送は不自由ですが、
朝鮮を切り従える中心でありますから、これを放棄して釜山まで後退するのは本意無きものであります。

そこで、秀家殿並びに諸将は諸大将はこの都に居て、ここを根城として都から大明の方へ1日路程の所に、
取出しの城を数ヶ所構えて諸将をこれに籠め置き、大明の兵が攻めきたれば、どこの城であっても都より
助勢の兵を出し、後詰をして勝負を決せられる事こそ然るべきと考えます。
都から数日も進みすぎて遠くに城を構え敵を防ごうとすれば、大明より敵が大軍で来る時、都からの
援軍を遣わすことが難しくなる。」

そう申し上げた所、小西摂津守行長が進み出て
「これほどに朝鮮人を大勢討ち殺し、敵が恐れて逃げ去っている以上、もはや朝鮮人は出て戦う事は
無いでしょう。もし朝鮮王が大明の王を頼み加勢を乞うたとしても、大明の王が数万人の命を朝鮮王に
与えて、加勢するような事が有るはずがありません。特に大明と朝鮮の境には、鴨緑江という音に聞こえた
大河があります。その河を大明より大勢の人馬兵糧諸道具を渡らせてこちらに来るというのは
成り難いことです。
各々は何れなりとも、好きな所に城を構えて下さい。この行長は出来る限り大明の近くまで押し行って、
城を攻め落としそこに籠もるつもりです。」

これに、如水は重ねて言った
「この都より程遠い所に居城を構えた場合、大明人が大軍で押し寄せ四方を取り囲み堅固に向城を付けられ、
後詰の来るべき道筋まで塞がれてしまえば、我々の5万7万程度の人数では簡単に対峙できるものではない。
その上、にわかの時に都から急に助ける事は出来なくなる。その時になって後悔してももはや意味が無いのだ。

世俗の諺にも、用心をば臆病にせよというではないか。どうか都の近くまで引取り居城を構えられよ!
もし出過ぎた所に居城して敵の大軍が防ぎ難く、その勢の強きを見て引き退くなど、見苦しいではないか。
第一それは味方を弱気にし、日本の恥辱でも有る。進み過ぎては後難有るべし。軍法を確かにして、後悔なきよう
すべきである!」

小早川隆景もこれを聞いて
「如水殿の仰られる趣は尤も至極である。都より遠くに出て城を構えることには、後の禍があろう。
そもそも大明より大勢を指し寄越す場合、南部は海が近いのだから兵糧運送の便がある。
それに鴨緑江大河であると言っても、船で渡れば何の苦労もない。
しかしながら大明からはるばる大軍を差し寄越すのは大儀なことであるから、にわかに来ることはないだろう。
その間に各城を堅固に改修しておく事こそ肝要である。」

しかし小西は同心せず、
「深く大明の境まで入って、大明の兵が出たとしても恐るるに足らず!我一手にて大明に切り入るべし!
諸大将にはその後詰をお願いしよう。」
そのように言うのを、皆が固く止めたため、小西一手で大明に攻め入る事だけは制止された。

それでも小西は黒田如水小早川隆景の諌めを聞かず、みだりに深入りを好み、平壤の城が大明の
手前であるので、これを居城とした。
そもそも小西行長は初めに、日本から朝鮮に入るときも荒き風波をしのぎただ一人抜け駆けして渡海し、
今度もまた都から遠い場所に一人進み過ぎて深入りし、大明から大軍が来るという心配もせず、敵を侮り
危ない働きを好んだ。
果たして翌年の春、大明より襲来した大軍に囲まれた時、都より遠いため援軍が来ることが出来ず、
小西はついに敗北したのだ。如水がかねて未然をはかり、諌めたことは寸分も違わなかったのである。

(黒田家譜)





22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:20:52.14 ID:GJIKTHlk
全部小西のせいっ…死人に口なしか

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:22:18.22 ID:3fZNZU+1
きたないさすがくろだきたない

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:25:23.30 ID:bt7SM/Du
ひでえもんだ

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:49:50.05 ID:YTkDsab0
小早川は同意見だったとわざわざ書くあたり、この時代になっても隆景の評判=絶対に間違わない、がゆるいでないことがわかるね

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 21:04:23.19 ID:dHSTEyhL
長政「ヒャッハー!俺は小西についていくぜー!」

つか如水は漢城遠征組には従軍してないだろ。

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 23:17:31.50 ID:z4Z0jwjU
大河ではどう描くんだろうなあ
軽く触れて終わりか、スルーしちまうのかな?

小西神

2013年09月24日 19:53

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 01:22:54.27 ID:FqoTJc3x
小西神


関ヶ原の戦いに敗れた小西行長は伊吹山に逃げ込み、川合という集落にたどりついた。
そこで地元の源太夫という男が行長を見つけ、行長を匿うためにさらに山奥の中山村に連れていった。
中山の人々は行長を観音寺の須弥壇の中に匿った。
しかし同じ中山に住む要之助という男は、炭焼きに行ったときに林蔵という男から、
家康が西軍武将を厳しく探させているという話を聞き、行長を匿っていることがバレたら厳罰を受けると考え、
その場で林蔵と相談して領主の竹中重門に報告してしまい、行長は捕らえられた。
要之助の独断に中山の人々は困惑したが、そんなことは知らない行長は騙されたと思って強く恨み、
連行されていく最中に「あの村を3度焼き払ってくれようぞ」と言って中山をにらみ下ろした。

以降、中山ではたびたび火事が起こるようになり、「小西様の祟り」と噂されたため、
1754(宝暦4)年、人々は観音寺に行長を祀って供養した。



その後、1923(大正12)年、高木某という人がやってきて「最近私のところへ小西行長公の霊が現れ
『中山が私を仏として扱うのは不愉快である』と言われるので、今後は神としてお祀りなされ」
と言ったので、観音寺の隣に小西神社を立てて祀ることになった。
この寺社には行長がキリシタンであったということは全く伝わっていない。




181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 02:53:31.39 ID:ou74h0q1
江戸初期の話かと思ったら大正時代かよ>夢枕

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 10:18:32.62 ID:+7YmAon2
神じゃよけいにマズいよな。

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 10:40:35.87 ID:L2XC6c2L
神道仏教なら人間が神にも仏にもなるが、
キリシタンの神は唯一のもんじゃないのか?

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 10:45:26.57 ID:PUdWBT1n
守護聖人なら
でもバチカンの認可がないとダメか

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 11:01:35.46 ID:hBiBPHEy
キリシタンにとっては神道も仏教も同じだろうにどうしてこうなった

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 14:09:45.34 ID:ToMjLLjS
そりゃあ、死んだ人間には宗教なんて関係ないもん
宗教は生きてる人間が必要としてるもんだから

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 19:57:15.38 ID:ntBi/JQl
良い話どころか行長にとっちゃ滅茶苦茶悪い話やん

小西行長の捕縛

2013年06月05日 19:57

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 19:04:46.32 ID:CPdK6HUg
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の合戦が起こり、東軍の勝利に終る。

19日、この日徳川家康は草津に到着したが、ここに小西摂津守行長を、関ヶ原の町人・林藏主という者が
召し捕えて参上した。

小西行長は関ヶ原の敗戦のあと、暫くあちらこちらに潜伏したが、近江伊吹山の東、糠賀部村にて
林藏主に発見された。行長はもはや逃れがたいと思い、自ら

「私は小西摂津守である。お前は私を絡めとって、内府(家康)の御感に預かるといい。」

と呼びかけた。これに林藏主は

「それならば、そこで自害なされませ。」

そう勧めたが、行長は

「私は切支丹宗である。この宗門は自害することを禁じている。であるからこそ私はここまで落ち延びたのだ。
そして雑人の手にかかるのは無念であるので、いま自ら名乗り出て汝に知らせたのだ。」

こう言われ、林藏主は行長を馬に乗せ、関ヶ原の領主であった竹中丹後守に云い届け、
そして今日、草津の陣所まで送り届けたのである。

この事が伝えられると、家康は小西行長の身柄を村越茂助に預けさせ、林藏主には御褒美として、
黄金10枚が下された。
(關原始末記)

関ヶ原の敗北後、小西行長が捕縛された状況についての逸話である。



784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 19:42:30.73 ID:QJZM+EV4
むしろ、ちょっといい話な感じがする。

小西行長の処刑とバテレン

2012年07月14日 20:31

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/13(金) 22:20:50.32 ID:eeBMNuSJ
関ヶ原で敗れた小西行長は大名の黒田長政の面前に連行された。
同情した長政は内府(家康)に助命を請うか尋ねると行長は答えた。
「私はもはや命を重んじていない。キリシタンの教えが禁じていなければ切腹するのは
容易で私は自分の罪に対してどのような死を与えられようとも甘受する用意がある。
私が貴殿に願いたいことは自分が告白するのに一人の司祭バテレンに会えるよう尽力してほしい」

507 名前:506 小西行長の話の続き[sage] 投稿日:2012/07/13(金) 22:24:08.67 ID:eeBMNuSJ

 黒田長政は内府の許可を得られるよう全力を尽くすと約束した。しかし、内府の家康は
司祭との面会を許さなかった。バテレンの司祭たちはあらゆる手を尽くしたが、面会はかなわず、
小西行長は処刑されてしまった。
 家康はキリシタンの告白が何のことかわからず、何らかの欺瞞ではないかと思ったので、
司祭たちに面会の許可を与えなかったのだ。(イエズス会年報集)




お前は一体何をやっているのか!?

2012年02月17日 21:50

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 00:36:37.94 ID:kaxF43qW
天正10年(1582)12月2日、羽柴秀吉は和平を一方的に放棄し柴田勝豊の近江長浜城を攻略。
ここに秀吉と柴田勝家との対立は決定的となり、事態は賤ヶ岳の戦いへと進んでいく。
さて、そんな状況の中の、12月14日付、羽柴秀吉の書状


『前に姫路から取り寄せた材木船のことだが、その方の手の者に任せているのにまだ届かないではないか!
沙汰の限りとはこの事である!早々に申し付けてすぐに届けさせよ!

また前の馬屋の連中に取り寄せさせたかすがいも、まだ届かないではないか!お前は一体何をやっているのか!?
これもまた緊急に届けさせるように!

恐々謹言

             筑前守 秀吉(花押)

十二月十四日
 小西弥九郎(行長) 殿』


戦争を始めたものの秀吉方も物資の輸送が上手くいっていなかったようで、
その怒りやいら立ちを小西行長にぶつけた書状である。

(壱岐文書)





97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 00:54:05.74 ID:cDTBCpUD
九州征伐が終わった後くらいだったらそのまま追放されてたかもしれんな

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 02:57:31.97 ID:eA/AexoO
行長って奉行面でもダメな子だったのか?
なんで出世したんだ?

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 09:20:07.39 ID:VNNWNh//
秀吉の納期要求が無茶なのかもしれないし
これだけじゃなんとも。

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 11:04:46.79 ID:/fwdFx2z
奉行面でもダメな子だったら、縁故もないのに虎ちゃんと競争させようとは思わないっしょ?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 21:53:56.47 ID:xZgGtwx3
無能なら緊急時に催促されたりはせんさ、忘れられるだけ

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 23:07:07.10 ID:B4ReH7ou
無能なら斬って変えられるか追放されて変えられるだけ

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 23:20:34.60 ID:sSRZSvrE
羽柴四天王は全員消えたもんな…

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 23:27:57.37 ID:Ykpwk+mo
しかしこういった不名誉な書状もちゃんと残しておくもんなんだな

モンタヌス日本誌・小西行長の最期

2011年07月30日 23:04

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 03:49:32.32 ID:HkL5D/QP
関ヶ原の後の事

『内府様(徳川家康)は日本全土の君主と成るに至ったが、他の君主のごとく勝利の後に暴虐を行うことは無かった。
彼は捕虜となった敵に対しても穏和の手段を執ったが、ただ3人のみは許さなかった。
内閣員(奉行衆)の軍を率いて彼に対抗した近江の王・治部少輔(石田三成)、肥後半国の王摂津守殿(小西行長)、
毛利殿が顧問とせし安国寺(Ancocugis 恵瓊)である。

彼らは甲斐守(Cainecanis 黒田長政)に捕らえられ、始めはその身分に応じた待遇を受けたが、程なく
大阪で幽閉され死刑を宣告された。彼らは大阪において痩せ馬に乗せられ市内を引き廻されたる後、荷車をもって
都に輸送された。彼らの周囲には庶民群集して、貴人の不幸を憐れむ者もあり、またこれを嘲る者もあった。

治部少輔は第一の車にあり、その次に安国寺、摂津殿は最期にあった。
ラッパ手が各人の前に行き、彼らが謀反人なるを以て恥ずべき死刑に処せられることを声高に叫んだ。

この時摂津殿はいささかも勇気を失わなかったが、それに対して他の二人は自分たちの無罪を弁じて
当局者の処置に対し嘆き訴えた。

彼らが刑場に近づくと、近隣の仏教僧が数人やってきて彼らに説諭し、全ての罪悪を浄めるための、
多くの笑うべき儀式を行ったが、これは不潔なる精神を持たずに阿弥陀の前に出ることを得るためである。
これによって処刑者はいささかの心の慰安を得永久の生に確信を得たように成るのだ。

しかし摂津殿は頑として僧の説諭を拒み、あくまでキリスト教徒たる態度を示した。

刑場に上がる時、僧の長が現れた。彼は常には外出せず、ただ高貴なる人が悩む時において顔を出すのみである。
彼は多数の日本僧を従え、手には釈迦の聖典を携えていた。

様々な呪文を唱えまた、作法を行った後、治部少輔と安国寺とが死せんとする時、この僧の長は聖典を出して
接吻させた。
しかし摂津守殿はこの時僧を罵って、己がキリスト教徒であることを公言し、そうして帯の間からキリストとマリアの
小さな絵を取り出した。これは皇帝チャールズ5世(神聖ローマ皇帝カール5世か)の同胞ポルトガル国の女王
カザリンがイエズス会の手を経て彼に贈ったものである。

彼はこの絵を両手に掲げ、これを熟視して祈祷をなし、首を差し出して処刑人の刀を待った。
処刑人は3度刀を振り降ろして、これを斬首した。
他の二人も同様に処刑され、その屍は焼かれた。

摂津殿の屍はイエズス会員の手にわたり、都において長い屍衣を以て覆われ、ローマ教会の儀式によって
埋葬されたのである。』
(モンタヌス日本誌)

日本では過小評価されがちな小西行長ですが、ヨーロッパでは他の二人が彼の引き立て役となり、
実に立派な死に様だったと伝わっていたのですね。と言うお話。




231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 07:04:56.92 ID:Ph5z2QvA
AcasicamonだのAncocugisだのCainecanisだの、古代ローマがギリシャ人みたいな字面だな

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 07:27:26.92 ID:Q8q2ORIl
たぶんモンタヌスが織田信長と松永久秀に会ったら二人とも弾正で同じ名前だと思うんだろうな

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 07:54:44.45 ID:UWCYjXCF
>>230
おお?いい話じゃないですか?
小西行長りっぱに見えます。
ラッパというのは、当時日本のどんな楽器にあたるのでしょうね。

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 07:58:52.80 ID:a15vGj++
>>232
その場合「同じ名前」ではあるんじゃないか。
>織田信長と松永久秀
受領名も名前の一部ってことで。


235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 07:58:58.04 ID:V8fb9BAd
キリシタン補正ってすごいんだなw

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 08:15:25.06 ID:FvcDezSX
ラッパって法螺貝かな?

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 08:15:50.15 ID:Ph5z2QvA
>>235
たぶんカイネカニスも、聡明で思慮深く、家臣から慕われることこの上なく、けっしてダメヤンさんじゃなかったんでしょう

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 10:13:46.48 ID:buoFAfWc
>処刑人は3度刀を振り降ろして、これを斬首した。


一太刀で斬ってあげてください(´;ω;`)

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 10:25:23.53 ID:SdbJLH6S
山田浅右衛問も時には失敗したというから…

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 10:27:33.61 ID:RMxcrKRc
まあ、そのせいでヨーロッパで苦痛を与えないギロチンとかが生まれたわけだしなぁ

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 11:44:11.04 ID:mc/ELILf
>>232
実際モンタヌスは関ヶ原の描写で、同じ中納言だからか織田秀信と小早川秀秋を
同一人物として描いてるw

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 15:29:06.54 ID:EZqkUVWf
>>230
甲斐守がCainecanis
Canine Canisなら犬の犬か
ところで安国寺がAncocugisってことは
上で出てきたGiciasuはジシヤスなのか

天草国人一揆、志岐城攻め悪口合戦

2011年05月29日 00:00

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/28(土) 20:36:58.04 ID:mJ177SaO
天正17年(1589)、新たに肥後半国領主となった小西行長に、天草五人衆と呼ばれる
志岐鎮経・天草種元・大矢野種基・上津浦種直・栖本親高といった国人たちが反発、蜂起する。
いわゆる天草国人一揆の勃発である。

さて小西行長はこの一揆の中心人物である志岐鎮経を滅ぼさんと、伊地知文太夫を大将として
その居城、志岐城を攻めさせた。
が、この軍は志岐鎮経の夜襲に会い、一人残らず討ち取られる。文字通りの全滅となった。

この敗戦に驚いた小西行長は自ら六千の軍を率い、さらに加藤清正より千五百の援軍を得、
都合八千で、船により海上から、志岐城近くの袋の裏に上陸した。

すると志岐城から早速人数が出て、干潟を駈けて小西の陣の直ぐ側まで来ると
こう歌って挑発する

『京衆京衆、なぜ鑓せぬぞ、臭橙の皮のすもりか!?』
(京衆よ京衆よ、どうして我々と戦わないのか?お前たちはダイダイの皮の番人か!?)

これに小西・加藤の軍は怒り、力攻めで志岐城の城際まで押し寄せる。
が、志岐城は南は深山、西北は士町に続いている道はあるがその他は全て海、
東は深い谷、堀際は厚い岩盤という天然の要害であり、小西・加藤軍は谷間まで仕寄りを仕掛け
敵を城内に押し込めたものの、攻め落とすまでには至らず、小西は志岐鎮経の縁者である
有馬晴信を通して和平の道を探った。

と、小西・加藤の軍勢は先に自分たちを侮辱した歌を大変憎く思っており、この頃志岐城に向かって
こんな囃し歌を歌いかけ、その溜飲を下げていたという

『城衆城衆、なぜ切って出ぬぞ 志岐じゃしきじゃ、へのこしきじゃ!』

説明しよう。「しき」には「城」という意味があります。そして『へのこ』、これは睾丸や陰茎、
すなわちオチンチンの事です。すなわち

「城衆よ城衆よ!どうして城から討って出ないのか!?志岐城はチンコ城じゃ!」

と歌って笑ったのです。…レベル低いですねw
そんな小学生レベルのチンコチンコの悪口で溜飲を下げるのもいかがなものかと思わなくもない、
天草国人一揆、志岐城攻めの逸話。
(續撰清正記)




395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/28(土) 22:24:56.94 ID:SEnTZOd/
チンコって…。

小西行長の捕虜、景応舜

2010年12月14日 00:00

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/12(日) 23:10:50 ID:VGt/xQGi
同じく忠州絡みの話を

1592年4月24日尚州で李鎰に率いられた朝鮮軍を破った小西行長は、そこで景応舜という者を捕虜とした。
倭学通事であった応舜は日本語に通じており、行長は彼を朝鮮側との交渉の使者とした。
行長は応舜に秀吉からの手紙と礼曹(朝鮮の役所)への公文を託して解放すると共に
「講和の意思があるなら李徳馨を使者として四月二十八日に忠州で会いたい」との伝言を託した。
なお李徳馨は開戦前の交渉において日本側の使者を接待した人物である。

応舜の帰還によってこの事を知った朝鮮側は
事態が少しでも和らげばと応ずることとし、李徳馨も使者となることを希望したため
礼曹に答書を作らせて徳馨と応舜を忠州へと出発させた

が、その途中で忠州は陥落してしまい、一行は立ち往生する事となる。
応舜が様子を探る為に忠州へと向かったのであるが
運悪く加藤清正に捕まり、斬られてしまった。
徳馨はやむを得ず引き返し、講和の話はうやむやのうちに終わった。




6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/13(月) 00:48:57 ID:KDIT8k1C
運悪く加藤清正に捕まり

運悪いなホントに……。



7 名前:5[sage] 投稿日:2010/12/13(月) 01:39:12 ID:AXAqysHt
ID変わっているけどちょっと補足を…
・行長が捕虜を講和の使者にしたのは景応舜が初めてではなかった。
 東來城で捕虜にした蔚山郡守の李彦誠という人物にも手紙を託して開放していたが
 彦誠は罰せられることを恐れて自力で脱出したと申し出て手紙のことを報告しなかった。
 が、応舜の書状に「前にも蔚山郡守に手紙を託したが返報がない」と書かれていた為発覚

・ルイス・フロイスの「日本史」に収められている行長から秀吉への書状にこの件に関する記述があるのだが
 そこでは景応舜は日本へ人質を差し出すことと明侵攻の援助を伝える朝鮮国王からの使者となっている。
 この記述が正しければ「仮道入明」は成功していたことに…

・宣祖実録によるとこの一件の後、朝鮮では「倭將逼擁馨爲主, 金誠一爲相」という噂が流れたという。
 李徳馨は直接指名を受けたせいで疑われたのか。
 金誠一はttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2066.htmlこういった件もあって当時は評判が悪かったらしい。




アゴスティーニュとその兵士達だけが

2010年12月12日 00:01

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/11(土) 18:33:43 ID:fEaAdjCm
>>983
じゃ、行長側というかキリシタン側のルイス・フロイスの「日本史」から

アゴスティーニュ(小西行長)が忠州に至った時、別な道を来た虎之助(加藤清正)の軍勢と出会った。
アゴスティーニュの先陣を率いていた小西末郷は自分たちより前に出ようとする虎之助たちを詰った。
「貴公らはこんなに遅く、逃走者のようにどこから来たのか。
 アゴスティーニュとその兵士達だけが高麗国の大半を制したのである。
 彼らが多くの敵を征服している間、貴公らは姿さえ見せなかったではないか。
 それにアゴスティーニュが先陣を務めることは関白の命に基づいていることと知られよ。」

このことで双方は激しく口論し、刃傷沙汰になりかけたが
虎之助と肥前の領主(鍋島直茂)は途中の大河で船の不足から軍勢を渡しきれず、2000の兵しか率いていなかった。
彼(加藤清正)はその兵力でかろうじてアゴスティーニュの前に出たのであるが
結局無念やる仕方がない気持ちで後方に下がった。
だが彼はこの失敗を胸中深く宿すに至った。




989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/11(土) 19:28:28 ID:59pMDBJH
アゴスティーニュ
特集、小西行長と行くソウル
毎号の付録を組み立てると漢城が完成
全50巻予定
初巻は特別定価980円


990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/11(土) 20:13:36 ID:1zSVnVjw
でぃっあごっすてぃーにゅ!




関連
加藤清正小西行長の略奪品を
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4950.html