文禄の役の和議の模様

2015年08月06日 14:18

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/06(木) 12:27:18.76 ID:6LDCYi5a
大明の石司馬と言う者は、明において朝鮮のことを司っていた。
秀吉の朝鮮出兵を受け、どうやって朝鮮に入り日本の兵を退治すべきか計っていた所に、
沈惟敬と言う者、先年日本に渡った鄭皿という者に遭って、日本のことを尋ね聞き、
今度の朝鮮の乱で大功を立てようと考え
「私は日本のことをよく知っている!」
と触れ回った。

石司馬はこれを聞いて対面し、人を得たと大いに喜んだ。
彼は祖承訓らの敗戦に凝りて、重ねて大軍を催さなければ日本人と戦うのは難しいと思い、
この沈惟敬に、朝鮮に行って和議を整えるようにと命じた。
これによって沈惟敬は朝鮮に渡り、小西摂津守(行長)が平壌に在った時に対面し、
明と日本が和睦すべきということについて議論した。

小西行長は7ヶ条の要望を書き、「この事が整うのなら我らは和議に同意する」と伝えると、
沈惟敬もこの条件を了承したため、裄長も同心し、和睦を結ぶことを許可した。

ところが沈惟敬が明の帝都に帰りこの件を奏上すると、群臣の詮議はまちまちであり
俄に結論は出なかった。このため和議は未だ成らず、その間に李如松が大将として大軍を引きい
朝鮮に渡った。ここに至って沈惟敬もまた朝鮮に渡り李如松と対面し、石司馬の意をのべて
日本と和議を結ぶべきとの内容を語り、また小西のもとに来て相談した。

そこで、去年小西より要求した7ヶ条のうち第4は大明より秀吉を日本国王に封ずべきとの内容であったが、
小西や三奉行を始めとして。朝鮮の在陣には労苦が多かったので、どのようにしてでも和議を整え、
戦争を終わらせて日本に帰りたいと思っていたため、この一項を言い換え、『秀吉を大明の王に封ずべし』と
日本に申し送った。その上、朝鮮の二王子を返せば、朝鮮八道の内四道を割譲する。日本の帝王を
明の天子の婿とするであろうと、沈惟敬が言ったため、これを小西及び三奉行が申し上げると、
秀吉は喜悦し「そういう事なら戦をやめて和睦しよう」と、朝鮮在陣の諸将に対し伝えた

「日本側が要求した7ヶ条に大明が同意した上は、加藤主計頭(清正)が生け捕った朝鮮の二王子、および
臣下たちを送り返すように。朝鮮の王城にいる日本勢は釜山浦まで引き取るように。」

また開城府を守る李如松も、日本勢が王城を出たなら、同じく軍勢を残らず引き連れ開城府を立ち退いて
大明に帰るべしと定められた。
これによって、4月18日、日本の諸将は皆、王城を引き退いた。
小早川隆景の謀にて、各陣所に火をかけて立ち退いた。
大事の退き口であるので、大明の大軍が後を追撃してくることもあるため、黒田長政に
殿を務めるようにと議定し、その旨に任せた。

また都より釜山に帰る途中に大河が在ったが、長政はここに船橋を渡し、王城より帰る兵を
残らず渡すと。その後船橋の綱を切って捨てた。
李如松はその後やがて、日本軍と入れ替わりに王城に入った。

(黒田家譜)

黒田家譜より、文禄の役の和議の模様である。




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小西行長捕縛

2015年07月30日 11:39

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/29(水) 21:11:58.51 ID:ZmPhxVvV
城和泉守(昌茂)が物語った事である

「私が先年、関ヶ原に一泊した時、旅籠の亭主を呼んで『昔ここで、大合戦があった時のことは覚えているか?』
と尋ねると、この亭主は老人で、詳しく物語した。私が『小西行長をここの者が捕らえて草津に差し出したと
言うが、それを知っているか?』と問うと、この亭主『小西をとらえたのは私です』という。そこで私は、
この事色々と質問し、ついに事実であると理解した。亭主が言うには

『あの時、おびただしい落人が日夜ここを通っていたため、在所の者共は申し合わせ、武具はもちろん
衣類まで剥ぎ取っていました。しかし我々はそれを制し、そのような事は致しませんでした。
これは仔細のあることでした。

そのような中、近くの山において、我々に呼びかけてくる落人がありました。
私が「いらぬことを話しかけるより、何方へでも、早々にお忍びなさい。」と申しましたが、
「是非是非ここに来てほしい。頼みたいことがあるのだ。」と申します故、行ってみると
「私は小西摂津守である。徳川家に連れて行って褒美を取れ。」と言うではありませんか。

私は驚き「考えもできない、勿体無いことです。どうか少しでも早く落ち延びてください。」と
申し上げましたが、「いや、私が自害するのは容易いが、切支丹なれば自害も出来ぬ。」などと
様々に申されたため、是非なく我々がお供申し上げました。

そこから御本陣に向かいましたが、途中でもし人に奪われてはと心許なく思い、
竹中丹後守の衆を呼んで色々と話し合い、小西殿を馬に乗せ、竹中丹後守御家来が同道にて草津の
御本陣へ参り、村越茂助殿の宿舎にこの事を申し入れますと、我々を宿舎の中に通され、その後、
小西殿に縄をかけられました。
私達は途中も心やすく考えてお供していたので、縄のかかることになるとは考えもしていませんでした。

それから、私達にはご褒美として黄金10枚が下されました。竹中丹後守殿にも、何か下されたと
記憶しています。その後は特に何のご沙汰もありません。』

世の中では、林蔵主と申す飛騨出身の出家が、これが大力であったため小西を生け捕った、などと
諸書にもあるが、それは偽りである。」

(明良洪範)

小西行長捕縛についての逸話である。






加藤吉成の知謀

2014年12月01日 20:28

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/30(日) 19:05:21.69 ID:pLG88mxo
朝鮮の陣での、ある城を攻めた時のこと
日本の諸将が数日これを攻めたが、敵も堅固に持ちこたえなかなか落ちなかったため、
日本軍は攻め口を退き遠攻めにした。

この時、小西摂津守行長の家臣である加藤内匠(吉成)が申し上げた

「この城を数日間大軍で攻めましたが、寄せ手が討たれるばかりで城は落ちず、遠攻めと成りました。
ですが私の考えでは、今夜夜討を仕掛ければ、必ず乗っ取ることが出来ます。なぜなら敵は、我々が
夜攻めをするとは全く考えていないからです。間違いなくここ数日の対陣に困窮し、遠攻めのため退いたことに
油断しています。ですので、先ず忍びの者を遣わされ、敵の様子を究明することが宜しいでしょう。」

小西も尤もだと同意したため、加藤内匠は忍びの者に加え、家来で物慣れている清水角兵衛とい者を相添えて
偵察に遣わした所、両人罷り帰り、揃って敵が油断している様子を語った。

そこで小西軍は軍勢を二手に分け密かに押し寄せた。この時加藤内匠は搦手を攻める別働隊に下知した
「大手より鬨の声を上げて攻めれば、敵は尽く大手に集まるであろう。その時別働隊は搦手より
進入するように。」

そして大手で時の声を上げると、案の定敵は夜討が行われるとは思いもよらず殊の外混乱した。
大手攻めの軍は斧で門を打ち破ろうとし、また鉄砲も厳しく撃たせたので、敵は皆大手に集まり、
搦手には守兵がいなくなった。

よって搦手の軍はやすやすと城内に侵入し、加藤内匠も一番の乗り入った。諸勢も尽く攻め入り、
敵を数多討ち取った。
小西行長からは日本軍の諸将と示し合わせもなく、ただ小西の一微を以って尽く乗っ取ったこと、
偏に加藤内匠知謀によるものであった。

この時の鉄砲の音、時の声に驚き、他の日本軍の諸将は追々この城に乗り入れた。
しかし他の日本軍にとってもこれは思いもよらぬことであったので、夜が明けてみると、鎧を着る暇もなく、
素肌(鎧を着ていない平装の状態)の者が多かったという。

(黒田家臣伝)

後に黒田家に仕えた加藤吉成の知謀についての逸話である。




小西行長、平壤からの撤退の模様

2013年12月24日 18:55

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 15:06:35.56 ID:jofXKJj4
朝鮮の役の事

小西行長が籠った平壤城の外2里ばかりに、牡丹台という出城があり、ここにも小西は兵を籠めていたのだが、
唐人にこれを奪い取られ、平壤の本城ばかりとなってしまった。

大明の大勢がこれを取り囲んだ。大砲を多く放ち、その音は山岳に響き、異国の路程で数十里にわたって聞こえた。
また火矢を隙間もなく打ち掛け、その煙は天を覆い、火矢は城中に入って所々焼失したため、敵勢はその勢いに乗り
大勢が城に向かって攻め上がった。

城中からも矢狭間より鉄砲を激しく撃ちかけ、剣乾を連ねて防いだが、敵は激しく攻め戦ったため、敵味方に
討たれた者多かった。城中は既に危うい状態に見えたため、敵将の李如松の謀により、後ろの囲いを解いて、
逃げ道を開けて攻めた。これは城中の兵が必死になって戦えば、大明人に多くの被害が出ると考え、このように
したのである。

小西は勇猛であり、よく防戦したのだが、大敵に攻められ、城中の兵多く討たれ、初めは1万5千の兵で籠城
していたのだが、今では残兵わずか5千人を過ぎないばかりであった。
「この少勢で20万の大軍を防ぐことは出来ない。こうなっては明日には必ずこの城は攻め落とされるであろう。
ここで止む無く敵に討たれるよりは、一旦落ち延びて、後陣の味方と一緒になって防ぎ戦おう!
14里後方に大友(義統)の城がある。そこまで引き退いて、大友勢と一つになって籠城すれば、暫くは敵を防ぐ
事もたやすいことだ!」
そう兵たちに伝え、敵の囲んでいない方向から、正月8日の夜半に、密かに城を出た。前後に鉄砲・騎馬の兵を
立て、中に小荷駄・陣夫を包み、引き固まって退いた。

明朝卯の刻(午前6時頃)、大明の兵は平壤の城に攻め入ったが、一人の兵もなく、皆撤退した空き城であった。
このため、急ぎ撤退中の敵を追うべしと、手分けをして追手をかけたが、時刻が隔たっていたため追いつくことは
出来なかった。引き遅れた雑兵が少々あった程度で、戦闘には至らなかった。

小西が大友の城まで引き退き城中に入った。ところがそこでは、大友勢は既に一人残らず撤退した後で、小西勢は
皆力を落とした。これまでの戦いで士卒の力も尽き、まともな道も通らなかったため、ここで暫く休息を取ったが、
この城にあまり長く留まっては、敵に追いつかれると思い、また夜中に城を出、終夜撤退した。

ようやく夜が明けると、先の山中に中白の旗が見えた。それは黒田長政の家臣・小河傳右衛門の籠もる龍泉の城
であった。

小西行長はこれを見て、黒田は未だ撤退していないことを知り大いに悦び、諸卒に向かって言った
「さても軟弱なる大友かな!日本一の大剛の大将は黒田である!もはや黒田が城近し。一同賑わえ兵ども!」
これに士卒皆力を得て悦んだ。
(黒田家譜)

この小河傳右衛門の救援に寄って小西軍は明の追撃舞台を撃退し、撤収に成功する。
小西行長の、平壤からの撤退の模様である。




101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 16:10:31.67 ID:zbFvnxAt
こないだ小西をこき下ろしたばかりなのに、今回は小西を持ち上げて黒田ageさせるとは…
さすが黒田家譜はブレない

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 21:07:27.45 ID:R3dz8tgk
黒田家譜は登場人物が如水と噛ませ犬しかいない1ビット構造だから

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 21:48:55.47 ID:CLsMyCiE
そして安定の大友吉統sage
輝元、三成とならぶ黒田家譜御用達の噛ませ犬がまた登板

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/24(火) 23:30:51.26 ID:PEnnqzNe
大友って改易される程やらかしたか?

仙石みたいに領国まで逃げ帰ったのか?w

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 00:29:19.82 ID:hKuDfixh
>>104
味方の無事を確認せずに拠点を放棄して撤退だから、同じくらいやらかしていると思う。

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 02:38:53.44 ID:r0eBolej
噛ませも何も義統ちゃんだからなあ
自ら意志薄弱で優柔不断とか言っちゃうくらいみたいだし
ただ朝鮮出兵での処罰などは政治的意図と秀吉の勘気が絡んでくるから何ともね

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 07:38:12.22 ID:pW4X5Oew
まるで社会に適応できないお前らみたいだなw
引きこもって酒浸りとか

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 07:51:20.97 ID:tiqlmTBX
>>102
でも隆景はageるばかりでsageはしないんだよな

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 11:29:41.55 ID:Jmsm6NZG
>>107
市松「夜まで飲もうか」

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/25(水) 15:29:19.65 ID:mxnu+bBb
一条さん「女子もほしいぞな」

しかし小西は同心せず

2013年12月16日 19:18

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:05:50.04 ID:6v77XdVE
文禄元年(1592)、豊臣秀吉は朝鮮へと出兵し緒戦に大勝、たちまちの内に首都漢城(ソウル)を陥落させ、朝鮮を蹂躙した。

その後、総大将である宇喜多秀家より、相談すべきことがあるので諸将に漢城に集まるよう触れがあり、
尽く集合すると、大将秀家及び三奉行(石田三成・増田長盛・大谷吉継)から評議の内容が伝えられた、曰く
「各々の手柄に寄って各地の城も既に陥落し、その他の朝鮮人は戦わずして退散した。
しかしながら、朝鮮は元々大明の属国である。必ず大明より加勢が出されるだろう。
その上、朝鮮が既に敗北したと聞けば、大明も日本兵が侵入すると思い、必ず戦のための
大軍を差し寄越すだろう。この場合、これと戦う手立てはどのようにすべきと各々はお考えか?」

黒田如水はその座に居たが、これを聞いて
「仰せの如く、朝鮮が敗北したことを知れば、必ず大明より救援の兵が多く来るでしょう。
この都(漢城)より釜山海までは十余日ある長路であり、日本までの通路は遠く、物資の運送は不自由ですが、
朝鮮を切り従える中心でありますから、これを放棄して釜山まで後退するのは本意無きものであります。

そこで、秀家殿並びに諸将は諸大将はこの都に居て、ここを根城として都から大明の方へ1日路程の所に、
取出しの城を数ヶ所構えて諸将をこれに籠め置き、大明の兵が攻めきたれば、どこの城であっても都より
助勢の兵を出し、後詰をして勝負を決せられる事こそ然るべきと考えます。
都から数日も進みすぎて遠くに城を構え敵を防ごうとすれば、大明より敵が大軍で来る時、都からの
援軍を遣わすことが難しくなる。」

そう申し上げた所、小西摂津守行長が進み出て
「これほどに朝鮮人を大勢討ち殺し、敵が恐れて逃げ去っている以上、もはや朝鮮人は出て戦う事は
無いでしょう。もし朝鮮王が大明の王を頼み加勢を乞うたとしても、大明の王が数万人の命を朝鮮王に
与えて、加勢するような事が有るはずがありません。特に大明と朝鮮の境には、鴨緑江という音に聞こえた
大河があります。その河を大明より大勢の人馬兵糧諸道具を渡らせてこちらに来るというのは
成り難いことです。
各々は何れなりとも、好きな所に城を構えて下さい。この行長は出来る限り大明の近くまで押し行って、
城を攻め落としそこに籠もるつもりです。」

これに、如水は重ねて言った
「この都より程遠い所に居城を構えた場合、大明人が大軍で押し寄せ四方を取り囲み堅固に向城を付けられ、
後詰の来るべき道筋まで塞がれてしまえば、我々の5万7万程度の人数では簡単に対峙できるものではない。
その上、にわかの時に都から急に助ける事は出来なくなる。その時になって後悔してももはや意味が無いのだ。

世俗の諺にも、用心をば臆病にせよというではないか。どうか都の近くまで引取り居城を構えられよ!
もし出過ぎた所に居城して敵の大軍が防ぎ難く、その勢の強きを見て引き退くなど、見苦しいではないか。
第一それは味方を弱気にし、日本の恥辱でも有る。進み過ぎては後難有るべし。軍法を確かにして、後悔なきよう
すべきである!」

小早川隆景もこれを聞いて
「如水殿の仰られる趣は尤も至極である。都より遠くに出て城を構えることには、後の禍があろう。
そもそも大明より大勢を指し寄越す場合、南部は海が近いのだから兵糧運送の便がある。
それに鴨緑江大河であると言っても、船で渡れば何の苦労もない。
しかしながら大明からはるばる大軍を差し寄越すのは大儀なことであるから、にわかに来ることはないだろう。
その間に各城を堅固に改修しておく事こそ肝要である。」

しかし小西は同心せず、
「深く大明の境まで入って、大明の兵が出たとしても恐るるに足らず!我一手にて大明に切り入るべし!
諸大将にはその後詰をお願いしよう。」
そのように言うのを、皆が固く止めたため、小西一手で大明に攻め入る事だけは制止された。

それでも小西は黒田如水小早川隆景の諌めを聞かず、みだりに深入りを好み、平壤の城が大明の
手前であるので、これを居城とした。
そもそも小西行長は初めに、日本から朝鮮に入るときも荒き風波をしのぎただ一人抜け駆けして渡海し、
今度もまた都から遠い場所に一人進み過ぎて深入りし、大明から大軍が来るという心配もせず、敵を侮り
危ない働きを好んだ。
果たして翌年の春、大明より襲来した大軍に囲まれた時、都より遠いため援軍が来ることが出来ず、
小西はついに敗北したのだ。如水がかねて未然をはかり、諌めたことは寸分も違わなかったのである。

(黒田家譜)





22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:20:52.14 ID:GJIKTHlk
全部小西のせいっ…死人に口なしか

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:22:18.22 ID:3fZNZU+1
きたないさすがくろだきたない

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:25:23.30 ID:bt7SM/Du
ひでえもんだ

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 20:49:50.05 ID:YTkDsab0
小早川は同意見だったとわざわざ書くあたり、この時代になっても隆景の評判=絶対に間違わない、がゆるいでないことがわかるね

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 21:04:23.19 ID:dHSTEyhL
長政「ヒャッハー!俺は小西についていくぜー!」

つか如水は漢城遠征組には従軍してないだろ。

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/15(日) 23:17:31.50 ID:z4Z0jwjU
大河ではどう描くんだろうなあ
軽く触れて終わりか、スルーしちまうのかな?

小西神

2013年09月24日 19:53

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 01:22:54.27 ID:FqoTJc3x
小西神


関ヶ原の戦いに敗れた小西行長は伊吹山に逃げ込み、川合という集落にたどりついた。
そこで地元の源太夫という男が行長を見つけ、行長を匿うためにさらに山奥の中山村に連れていった。
中山の人々は行長を観音寺の須弥壇の中に匿った。
しかし同じ中山に住む要之助という男は、炭焼きに行ったときに林蔵という男から、
家康が西軍武将を厳しく探させているという話を聞き、行長を匿っていることがバレたら厳罰を受けると考え、
その場で林蔵と相談して領主の竹中重門に報告してしまい、行長は捕らえられた。
要之助の独断に中山の人々は困惑したが、そんなことは知らない行長は騙されたと思って強く恨み、
連行されていく最中に「あの村を3度焼き払ってくれようぞ」と言って中山をにらみ下ろした。

以降、中山ではたびたび火事が起こるようになり、「小西様の祟り」と噂されたため、
1754(宝暦4)年、人々は観音寺に行長を祀って供養した。



その後、1923(大正12)年、高木某という人がやってきて「最近私のところへ小西行長公の霊が現れ
『中山が私を仏として扱うのは不愉快である』と言われるので、今後は神としてお祀りなされ」
と言ったので、観音寺の隣に小西神社を立てて祀ることになった。
この寺社には行長がキリシタンであったということは全く伝わっていない。




181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 02:53:31.39 ID:ou74h0q1
江戸初期の話かと思ったら大正時代かよ>夢枕

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 10:18:32.62 ID:+7YmAon2
神じゃよけいにマズいよな。

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 10:40:35.87 ID:L2XC6c2L
神道仏教なら人間が神にも仏にもなるが、
キリシタンの神は唯一のもんじゃないのか?

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 10:45:26.57 ID:PUdWBT1n
守護聖人なら
でもバチカンの認可がないとダメか

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 11:01:35.46 ID:hBiBPHEy
キリシタンにとっては神道も仏教も同じだろうにどうしてこうなった

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 14:09:45.34 ID:ToMjLLjS
そりゃあ、死んだ人間には宗教なんて関係ないもん
宗教は生きてる人間が必要としてるもんだから

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/24(火) 19:57:15.38 ID:ntBi/JQl
良い話どころか行長にとっちゃ滅茶苦茶悪い話やん

小西行長の捕縛

2013年06月05日 19:57

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 19:04:46.32 ID:CPdK6HUg
慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の合戦が起こり、東軍の勝利に終る。

19日、この日徳川家康は草津に到着したが、ここに小西摂津守行長を、関ヶ原の町人・林藏主という者が
召し捕えて参上した。

小西行長は関ヶ原の敗戦のあと、暫くあちらこちらに潜伏したが、近江伊吹山の東、糠賀部村にて
林藏主に発見された。行長はもはや逃れがたいと思い、自ら

「私は小西摂津守である。お前は私を絡めとって、内府(家康)の御感に預かるといい。」

と呼びかけた。これに林藏主は

「それならば、そこで自害なされませ。」

そう勧めたが、行長は

「私は切支丹宗である。この宗門は自害することを禁じている。であるからこそ私はここまで落ち延びたのだ。
そして雑人の手にかかるのは無念であるので、いま自ら名乗り出て汝に知らせたのだ。」

こう言われ、林藏主は行長を馬に乗せ、関ヶ原の領主であった竹中丹後守に云い届け、
そして今日、草津の陣所まで送り届けたのである。

この事が伝えられると、家康は小西行長の身柄を村越茂助に預けさせ、林藏主には御褒美として、
黄金10枚が下された。
(關原始末記)

関ヶ原の敗北後、小西行長が捕縛された状況についての逸話である。



784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 19:42:30.73 ID:QJZM+EV4
むしろ、ちょっといい話な感じがする。

小西行長の処刑とバテレン

2012年07月14日 20:31

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/13(金) 22:20:50.32 ID:eeBMNuSJ
関ヶ原で敗れた小西行長は大名の黒田長政の面前に連行された。
同情した長政は内府(家康)に助命を請うか尋ねると行長は答えた。
「私はもはや命を重んじていない。キリシタンの教えが禁じていなければ切腹するのは
容易で私は自分の罪に対してどのような死を与えられようとも甘受する用意がある。
私が貴殿に願いたいことは自分が告白するのに一人の司祭バテレンに会えるよう尽力してほしい」

507 名前:506 小西行長の話の続き[sage] 投稿日:2012/07/13(金) 22:24:08.67 ID:eeBMNuSJ

 黒田長政は内府の許可を得られるよう全力を尽くすと約束した。しかし、内府の家康は
司祭との面会を許さなかった。バテレンの司祭たちはあらゆる手を尽くしたが、面会はかなわず、
小西行長は処刑されてしまった。
 家康はキリシタンの告白が何のことかわからず、何らかの欺瞞ではないかと思ったので、
司祭たちに面会の許可を与えなかったのだ。(イエズス会年報集)




お前は一体何をやっているのか!?

2012年02月17日 21:50

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 00:36:37.94 ID:kaxF43qW
天正10年(1582)12月2日、羽柴秀吉は和平を一方的に放棄し柴田勝豊の近江長浜城を攻略。
ここに秀吉と柴田勝家との対立は決定的となり、事態は賤ヶ岳の戦いへと進んでいく。
さて、そんな状況の中の、12月14日付、羽柴秀吉の書状


『前に姫路から取り寄せた材木船のことだが、その方の手の者に任せているのにまだ届かないではないか!
沙汰の限りとはこの事である!早々に申し付けてすぐに届けさせよ!

また前の馬屋の連中に取り寄せさせたかすがいも、まだ届かないではないか!お前は一体何をやっているのか!?
これもまた緊急に届けさせるように!

恐々謹言

             筑前守 秀吉(花押)

十二月十四日
 小西弥九郎(行長) 殿』


戦争を始めたものの秀吉方も物資の輸送が上手くいっていなかったようで、
その怒りやいら立ちを小西行長にぶつけた書状である。

(壱岐文書)





97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 00:54:05.74 ID:cDTBCpUD
九州征伐が終わった後くらいだったらそのまま追放されてたかもしれんな

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 02:57:31.97 ID:eA/AexoO
行長って奉行面でもダメな子だったのか?
なんで出世したんだ?

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 09:20:07.39 ID:VNNWNh//
秀吉の納期要求が無茶なのかもしれないし
これだけじゃなんとも。

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 11:04:46.79 ID:/fwdFx2z
奉行面でもダメな子だったら、縁故もないのに虎ちゃんと競争させようとは思わないっしょ?

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 21:53:56.47 ID:xZgGtwx3
無能なら緊急時に催促されたりはせんさ、忘れられるだけ

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 23:07:07.10 ID:B4ReH7ou
無能なら斬って変えられるか追放されて変えられるだけ

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 23:20:34.60 ID:sSRZSvrE
羽柴四天王は全員消えたもんな…

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/17(金) 23:27:57.37 ID:Ykpwk+mo
しかしこういった不名誉な書状もちゃんと残しておくもんなんだな

モンタヌス日本誌・小西行長の最期

2011年07月30日 23:04

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 03:49:32.32 ID:HkL5D/QP
関ヶ原の後の事

『内府様(徳川家康)は日本全土の君主と成るに至ったが、他の君主のごとく勝利の後に暴虐を行うことは無かった。
彼は捕虜となった敵に対しても穏和の手段を執ったが、ただ3人のみは許さなかった。
内閣員(奉行衆)の軍を率いて彼に対抗した近江の王・治部少輔(石田三成)、肥後半国の王摂津守殿(小西行長)、
毛利殿が顧問とせし安国寺(Ancocugis 恵瓊)である。

彼らは甲斐守(Cainecanis 黒田長政)に捕らえられ、始めはその身分に応じた待遇を受けたが、程なく
大阪で幽閉され死刑を宣告された。彼らは大阪において痩せ馬に乗せられ市内を引き廻されたる後、荷車をもって
都に輸送された。彼らの周囲には庶民群集して、貴人の不幸を憐れむ者もあり、またこれを嘲る者もあった。

治部少輔は第一の車にあり、その次に安国寺、摂津殿は最期にあった。
ラッパ手が各人の前に行き、彼らが謀反人なるを以て恥ずべき死刑に処せられることを声高に叫んだ。

この時摂津殿はいささかも勇気を失わなかったが、それに対して他の二人は自分たちの無罪を弁じて
当局者の処置に対し嘆き訴えた。

彼らが刑場に近づくと、近隣の仏教僧が数人やってきて彼らに説諭し、全ての罪悪を浄めるための、
多くの笑うべき儀式を行ったが、これは不潔なる精神を持たずに阿弥陀の前に出ることを得るためである。
これによって処刑者はいささかの心の慰安を得永久の生に確信を得たように成るのだ。

しかし摂津殿は頑として僧の説諭を拒み、あくまでキリスト教徒たる態度を示した。

刑場に上がる時、僧の長が現れた。彼は常には外出せず、ただ高貴なる人が悩む時において顔を出すのみである。
彼は多数の日本僧を従え、手には釈迦の聖典を携えていた。

様々な呪文を唱えまた、作法を行った後、治部少輔と安国寺とが死せんとする時、この僧の長は聖典を出して
接吻させた。
しかし摂津守殿はこの時僧を罵って、己がキリスト教徒であることを公言し、そうして帯の間からキリストとマリアの
小さな絵を取り出した。これは皇帝チャールズ5世(神聖ローマ皇帝カール5世か)の同胞ポルトガル国の女王
カザリンがイエズス会の手を経て彼に贈ったものである。

彼はこの絵を両手に掲げ、これを熟視して祈祷をなし、首を差し出して処刑人の刀を待った。
処刑人は3度刀を振り降ろして、これを斬首した。
他の二人も同様に処刑され、その屍は焼かれた。

摂津殿の屍はイエズス会員の手にわたり、都において長い屍衣を以て覆われ、ローマ教会の儀式によって
埋葬されたのである。』
(モンタヌス日本誌)

日本では過小評価されがちな小西行長ですが、ヨーロッパでは他の二人が彼の引き立て役となり、
実に立派な死に様だったと伝わっていたのですね。と言うお話。




231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 07:04:56.92 ID:Ph5z2QvA
AcasicamonだのAncocugisだのCainecanisだの、古代ローマがギリシャ人みたいな字面だな

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 07:27:26.92 ID:Q8q2ORIl
たぶんモンタヌスが織田信長と松永久秀に会ったら二人とも弾正で同じ名前だと思うんだろうな

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 07:54:44.45 ID:UWCYjXCF
>>230
おお?いい話じゃないですか?
小西行長りっぱに見えます。
ラッパというのは、当時日本のどんな楽器にあたるのでしょうね。

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 07:58:52.80 ID:a15vGj++
>>232
その場合「同じ名前」ではあるんじゃないか。
>織田信長と松永久秀
受領名も名前の一部ってことで。


235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 07:58:58.04 ID:V8fb9BAd
キリシタン補正ってすごいんだなw

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 08:15:25.06 ID:FvcDezSX
ラッパって法螺貝かな?

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 08:15:50.15 ID:Ph5z2QvA
>>235
たぶんカイネカニスも、聡明で思慮深く、家臣から慕われることこの上なく、けっしてダメヤンさんじゃなかったんでしょう

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 10:13:46.48 ID:buoFAfWc
>処刑人は3度刀を振り降ろして、これを斬首した。


一太刀で斬ってあげてください(´;ω;`)

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 10:25:23.53 ID:SdbJLH6S
山田浅右衛問も時には失敗したというから…

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 10:27:33.61 ID:RMxcrKRc
まあ、そのせいでヨーロッパで苦痛を与えないギロチンとかが生まれたわけだしなぁ

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 11:44:11.04 ID:mc/ELILf
>>232
実際モンタヌスは関ヶ原の描写で、同じ中納言だからか織田秀信と小早川秀秋を
同一人物として描いてるw

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 15:29:06.54 ID:EZqkUVWf
>>230
甲斐守がCainecanis
Canine Canisなら犬の犬か
ところで安国寺がAncocugisってことは
上で出てきたGiciasuはジシヤスなのか

天草国人一揆、志岐城攻め悪口合戦

2011年05月29日 00:00

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/28(土) 20:36:58.04 ID:mJ177SaO
天正17年(1589)、新たに肥後半国領主となった小西行長に、天草五人衆と呼ばれる
志岐鎮経・天草種元・大矢野種基・上津浦種直・栖本親高といった国人たちが反発、蜂起する。
いわゆる天草国人一揆の勃発である。

さて小西行長はこの一揆の中心人物である志岐鎮経を滅ぼさんと、伊地知文太夫を大将として
その居城、志岐城を攻めさせた。
が、この軍は志岐鎮経の夜襲に会い、一人残らず討ち取られる。文字通りの全滅となった。

この敗戦に驚いた小西行長は自ら六千の軍を率い、さらに加藤清正より千五百の援軍を得、
都合八千で、船により海上から、志岐城近くの袋の裏に上陸した。

すると志岐城から早速人数が出て、干潟を駈けて小西の陣の直ぐ側まで来ると
こう歌って挑発する

『京衆京衆、なぜ鑓せぬぞ、臭橙の皮のすもりか!?』
(京衆よ京衆よ、どうして我々と戦わないのか?お前たちはダイダイの皮の番人か!?)

これに小西・加藤の軍は怒り、力攻めで志岐城の城際まで押し寄せる。
が、志岐城は南は深山、西北は士町に続いている道はあるがその他は全て海、
東は深い谷、堀際は厚い岩盤という天然の要害であり、小西・加藤軍は谷間まで仕寄りを仕掛け
敵を城内に押し込めたものの、攻め落とすまでには至らず、小西は志岐鎮経の縁者である
有馬晴信を通して和平の道を探った。

と、小西・加藤の軍勢は先に自分たちを侮辱した歌を大変憎く思っており、この頃志岐城に向かって
こんな囃し歌を歌いかけ、その溜飲を下げていたという

『城衆城衆、なぜ切って出ぬぞ 志岐じゃしきじゃ、へのこしきじゃ!』

説明しよう。「しき」には「城」という意味があります。そして『へのこ』、これは睾丸や陰茎、
すなわちオチンチンの事です。すなわち

「城衆よ城衆よ!どうして城から討って出ないのか!?志岐城はチンコ城じゃ!」

と歌って笑ったのです。…レベル低いですねw
そんな小学生レベルのチンコチンコの悪口で溜飲を下げるのもいかがなものかと思わなくもない、
天草国人一揆、志岐城攻めの逸話。
(續撰清正記)




395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/28(土) 22:24:56.94 ID:SEnTZOd/
チンコって…。

小西行長の捕虜、景応舜

2010年12月14日 00:00

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/12(日) 23:10:50 ID:VGt/xQGi
同じく忠州絡みの話を

1592年4月24日尚州で李鎰に率いられた朝鮮軍を破った小西行長は、そこで景応舜という者を捕虜とした。
倭学通事であった応舜は日本語に通じており、行長は彼を朝鮮側との交渉の使者とした。
行長は応舜に秀吉からの手紙と礼曹(朝鮮の役所)への公文を託して解放すると共に
「講和の意思があるなら李徳馨を使者として四月二十八日に忠州で会いたい」との伝言を託した。
なお李徳馨は開戦前の交渉において日本側の使者を接待した人物である。

応舜の帰還によってこの事を知った朝鮮側は
事態が少しでも和らげばと応ずることとし、李徳馨も使者となることを希望したため
礼曹に答書を作らせて徳馨と応舜を忠州へと出発させた

が、その途中で忠州は陥落してしまい、一行は立ち往生する事となる。
応舜が様子を探る為に忠州へと向かったのであるが
運悪く加藤清正に捕まり、斬られてしまった。
徳馨はやむを得ず引き返し、講和の話はうやむやのうちに終わった。




6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/13(月) 00:48:57 ID:KDIT8k1C
運悪く加藤清正に捕まり

運悪いなホントに……。



7 名前:5[sage] 投稿日:2010/12/13(月) 01:39:12 ID:AXAqysHt
ID変わっているけどちょっと補足を…
・行長が捕虜を講和の使者にしたのは景応舜が初めてではなかった。
 東來城で捕虜にした蔚山郡守の李彦誠という人物にも手紙を託して開放していたが
 彦誠は罰せられることを恐れて自力で脱出したと申し出て手紙のことを報告しなかった。
 が、応舜の書状に「前にも蔚山郡守に手紙を託したが返報がない」と書かれていた為発覚

・ルイス・フロイスの「日本史」に収められている行長から秀吉への書状にこの件に関する記述があるのだが
 そこでは景応舜は日本へ人質を差し出すことと明侵攻の援助を伝える朝鮮国王からの使者となっている。
 この記述が正しければ「仮道入明」は成功していたことに…

・宣祖実録によるとこの一件の後、朝鮮では「倭將逼擁馨爲主, 金誠一爲相」という噂が流れたという。
 李徳馨は直接指名を受けたせいで疑われたのか。
 金誠一はttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2066.htmlこういった件もあって当時は評判が悪かったらしい。




アゴスティーニュとその兵士達だけが

2010年12月12日 00:01

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/11(土) 18:33:43 ID:fEaAdjCm
>>983
じゃ、行長側というかキリシタン側のルイス・フロイスの「日本史」から

アゴスティーニュ(小西行長)が忠州に至った時、別な道を来た虎之助(加藤清正)の軍勢と出会った。
アゴスティーニュの先陣を率いていた小西末郷は自分たちより前に出ようとする虎之助たちを詰った。
「貴公らはこんなに遅く、逃走者のようにどこから来たのか。
 アゴスティーニュとその兵士達だけが高麗国の大半を制したのである。
 彼らが多くの敵を征服している間、貴公らは姿さえ見せなかったではないか。
 それにアゴスティーニュが先陣を務めることは関白の命に基づいていることと知られよ。」

このことで双方は激しく口論し、刃傷沙汰になりかけたが
虎之助と肥前の領主(鍋島直茂)は途中の大河で船の不足から軍勢を渡しきれず、2000の兵しか率いていなかった。
彼(加藤清正)はその兵力でかろうじてアゴスティーニュの前に出たのであるが
結局無念やる仕方がない気持ちで後方に下がった。
だが彼はこの失敗を胸中深く宿すに至った。




989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/11(土) 19:28:28 ID:59pMDBJH
アゴスティーニュ
特集、小西行長と行くソウル
毎号の付録を組み立てると漢城が完成
全50巻予定
初巻は特別定価980円


990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/11(土) 20:13:36 ID:1zSVnVjw
でぃっあごっすてぃーにゅ!




関連
加藤清正小西行長の略奪品を
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4950.html

小西行長の抜け駆け

2009年12月07日 00:01

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 19:14:49 ID:dPNhTZig
天正二十年(1592)、豊臣秀吉はいよいよ、朝鮮に向けて出兵を開始。
後世に言う文禄の役の始まりである。
この年の四月、渡海するための軍船数万隻が、壱岐国風本の港に集結した。
ここから対馬へと渡り、さらにそこから朝鮮に向かうのである。

さてここに、小西行長がいた。
小西は対馬守、宗義智に尋ねる

「あなたはこの海の案内を良くご存知であります。
今吹いている風を、どのように考えられますか?」

「これ程であれば、順風と言うべきでしょうが、普段よりは少し、強く吹いているようです。」

「ほう、順風ですか。多少強く吹いているからと言って、この海を渡れないということはありませんな。」

行長は配下の船に、密かに命を下した
「明日早朝、出航する。」

翌、未だ夜が開け切らぬ頃、小西部隊の船、俄に帆を上げ、港より押し出た。
他家の船、これを見て叫ぶ

「抜け駆けだ!」

他の船も慌てて出航の準備をはじめ、用意の出来た船から小西を追って港を出た。
ところが巳の刻(10時ごろ)、十里ばかり進んだところで突然風向きが変わり、
後続の船団は港に引き返す。しかし先行した小西隊はその風の影響を受けず、
四十二里(約170キロ)を二時(約四時間)で走り、対馬豊崎港に到着。

この後風が悪く二日ほどここに逗留し、釜山へと向ったが、壱岐に残された船は、
その頃ようやく出航する有様であり、後続部隊が朝鮮に着いた頃には既に、
小西隊が釜山を攻め取り、忠州を占拠しようという状況であった。

この抜け駆けに諸将怒り、中でも加藤清正の怒りは甚だしく、これが朝鮮役を通じての、
加藤、小西の対立の端緒となった。とのことである。





856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 19:24:15 ID:wLRHej/G
>>855
これから外国に攻め入ろうと言う時に抜け駆けとか近所の城攻めるんじゃないんだからよ
と、この話を聞くと思う

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 20:28:58 ID:iNSsOLif
ついでにそのあとの風の予想も聞いていて出港したとか

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 21:05:42 ID:WlENEcz8
>>856
隣の城攻める感覚だったんだと思うよw少なくとも最初は

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/06(日) 21:06:01 ID:dDxYMEVb
むしろそのまま孤立して壊滅してたらいい教訓話になったのかもなあ。

小西行長、朝鮮王朝に密書を

2009年09月22日 00:03

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/20(日) 21:02:55 ID:42jEnipA
荒れそうな話だが、読んだままをかいつまんで書いておく。

文禄・慶長の役。
秀吉は小西行長と加藤清正を朝鮮攻略の先鋒にした。しかし、両者の考えは大きく異なっていた。

小西は「この戦は豊臣のためにも日本のためにもならない。
一刻も早い講和のためには太閤殿下を欺くことになってもやむを得ない」
と考えて講和の活動を行なった。
加藤は小西の活動が秀吉の意思に背くことを察して「殿下の許可もらってんのか、あぁーん?」などと
それを妨害した。
小西は石田三成を通じて清正を召還、謹慎させるが、
おりしも阪神地方に大地震発生、 秀吉の元へ真っ先に駆けつける「地震加藤」の活躍で
許されてしまう。
清正の前線復帰を前に小西は朝鮮王朝に密書を送る。
その内容は
『加藤清正がしかじかの日に渡海してくるから、貴水軍で待ち伏せて討ち取ってもらいたい』

朝鮮側では、李舜臣に命令を出したが、李舜臣は「これは敵の罠だ」といって出撃しなかった。
これについては、本当にそう思っていた説、実際罠だった説、朝鮮水軍の戦力では襲撃不可能だが
そうは言えなかった説などがある。
ともあれ、朝鮮側の史料にはある、小西行長の悪い話。




621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/20(日) 21:51:47 ID:khWreYQ6
それは普通罠としか思わんわ

仲悪いって情報あったとしても信じてもらえないレベルw

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/20(日) 23:46:57 ID:7E7rnYs9
まーそんな手紙信じんわなw

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/20(日) 23:52:43 ID:pDLBeJzP
小西うぜえww

624 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/21(月) 07:27:52 ID:t7Ltkaei
この人もここ何年かでかなり評価が変わった人だよねぇ。
まあ大河ではあいかわらず空気だけど・・・

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/21(月) 08:09:48 ID:YkiQik7A
>>620
ちょっとどころじゃない、悪い話だなw
いかな事情があるにせよ味方を売る奴はダメだ


627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/21(月) 14:29:20 ID:3iRnOSKi
襲撃成功→邪魔者がいなくなって和議成立。
和議をすすめた俺の功績→ウマー(゚Д゚)
襲撃失敗→朝鮮の抵抗能力が下がって制海権確保。
罠にかけた俺の功績→ウマー(゚Д゚)

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/21(月) 14:56:38 ID:qEi+G157
器のちいせぇ策だw

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/21(月) 15:31:47 ID:EWl6k6OD
>>624
石田三成が逃亡!(ナンジャッチ!?)
小西行長も逃亡!宇喜多勢は総崩れゴワス!

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/21(月) 16:16:32 ID:3OOMt630
>>627
同じような話で「行長の配下の者が朝鮮の陣に来て…」という話があるのだが

李舜臣が攻撃を躊躇して更迭され、さらに再度同じような情報を流して
朝鮮水軍をおびき出す事まで含めて小西行長の策だった、というのが朝鮮側の見方だったりする。

631 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/21(月) 16:58:26 ID:TRa2AOai
99の岡村が真似してた小西プロデューサー思い出した
小西ですけど~ってやつ

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/21(月) 17:19:28 ID:DbEQ5oMp
>>630
単に仲間割れしていただけで、たまたまそれが朝鮮側にとっては
計略のように見えただけじゃないかなぁ。

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/21(月) 19:58:25 ID:VoIJxwR0
>>632
小西のヤッチャッタぶりは一体どうして処罰されなかったのか不思議な
くらいだし敵から見たらそう思ってもしょうがないんじゃないかなあ

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/21(月) 20:56:14 ID:UceDIJMn
文禄・慶長の役は外交のいいかげんさが際立ってるよな・・。

秀吉は天下人になるまで外交力で勝ってきたところが大きいのに
権力を得て軍隊使い放題になってから考え方が変わっちゃったよね。


635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/21(月) 21:56:54 ID:o5njkFxf
言葉も文化も違うし、今とは違って普段からの公的交流も皆無。
よほどの天才じゃなきゃちゃんとした外交などできまいよ。

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/21(月) 23:01:19 ID:T3XchRsj
というか、外交という前提じゃないからな。
秀吉からすれば屈服するかしないかという話でしかない。
まさにラスボス。


島津薩州家三男忠清と小西行長の妻

2009年09月10日 00:05

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/09(水) 16:37:38 ID:Aexf53MO
薩摩の出水地方に勢力を持っていた島津薩州家だが、当主義虎が義久の長女(於平姫)を
もらい受け宗家の家臣化していた。

ただこの薩州家、義虎の嫡男忠辰は朝鮮役時にラスボスのいかり取潰されてしまう。
嫡男忠辰は失意のうちに亡くなり、三男忠清(母は於平姫)はお隣の宇土小西家にお預けになった。

しかし宇土の地も彼の安住の地にはならなかったのだ。
関ヶ原で西軍が負け、東軍の加藤清正が宇土に侵攻してきまのである。

ここで 小西家残党は同じ西軍の島津家を頼って薩摩へ救援を求めたのだが、
忠清は不思議な行動にでる。
宗家があり祖父が治める薩摩へは行かず、何故か侵攻してきた加藤清正に庇護を求めたのである。
しかも1人ではない。小西行長の妻(明石全登の娘と言われている)と手と手をとりあってである。

あやしいとの周囲の予想通り忠清と小西未亡人は清正の本拠地熊本で夫婦となった。
そしてめでたく娘が産まれたのだが、産まれた日時が問題である。
どう考えても宇土時代に仕込まなければならないほど日時が切迫していた。
しかもその時、小西行長は上洛しており宇土にはいなかった…

ちなみにこの時産まれた姫が後に悪久の側室になり、宗家の跡継ぎ光久を産んでいる。

不倫は文化を地で行く戦国のお話





203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/09(水) 16:53:55 ID:L4kjlygy
悪い話の発端には大抵ラスボスがいて嫌になる

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/09(水) 17:18:32 ID:quERoLRW
>>202
隠れキリシタンで種子島に追放された女性か
キリシタンって不倫OKなの?と思ったら行長の側室だったか定かではないんだな

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/09(水) 17:19:52 ID:ondK9jg7
>>202
また胡散臭いというか謎の多いというか そして ど マ イ ナ ー な 人物をとりあげたものだw

島津忠清の妻が小西行長未亡人というのは何故か薩摩側の史料(「旧記雑録」)の
傍注に出てくるが
小西側の信頼できそうな史料(イエズス会の書簡など)と齟齬が多くて信頼できないようだ。
ttp://shimadzuwomen.sengoku-jidai.com/mi/minayoshi-tsuguyoshi-musume.htm

どうも昭和までは尚古集成館などでもそういった説明を掲げていたようだが
(「宇土市史研究第八号」に掲載された論文にそのことが書いてある)今はやめているみたい。

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/09(水) 18:33:42 ID:OqUPKvpc
まぁ話としては面白いよね
当時不倫はやっぱり処罰の対象だったのかな?

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/09(水) 18:37:26 ID:bcrlrTJE
不義密通なんざ即効御手討ちだろ

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/09(水) 18:44:32 ID:SsWmRsdc
宇喜多直家の嫁さんのお福と秀吉は、直家の生前から付き合ってた感じがするんだよなー。
無論確証は無いが。

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/09(水) 18:56:48 ID:L4kjlygy
手討ちとかして嫁の実家と関係が悪化したりしな

小西行長、グネッキ・ソルディ・オルガンティーノ神父に

2009年06月28日 00:04

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 22:13:04 ID:kexM5wdj
1587年、日本のキリシタンたちは恐れに震えていた。
豊臣秀吉によりバテレン追放令が発せられたのである。
蒲生氏郷、黒田孝高、小西行長などの代表的キリシタン大名達は表向き棄教し、
太閤の意志に準じる態度を取った。

しかしこの命令をやはりと言うか何と言うか高山右近だけは拒絶した。
表向きの棄教ですらしなかった。
右近にとって信仰は所領や地位より大切なものだったのである。
彼は棄教を拒否すると身をくらました。


その頃小西行長は秀吉の怒りを買うことを恐れ、堺に戻り怯えていた。
日本のキリシタン大名達の中でも地位が高く、政権の中枢に近い行長の許へは
毎日のように逃げてきた宣教師やキリシタンが助けを請いにやってきた。
行長はそれを冷たくあしらい追い返していた。

「助けるのは無理だ。俺だって立場がある」

その行長の言葉に宣教師たちは絶望し、ほとんどのものが長崎に逃げていった。
しかし留まりなおしつこく行長に会おうとする者がいた。
イエズス会の良心グネッキ・ソルディ・オルガンティーノ神父である。
彼は危険をおかして行長の屋敷を訪問すると行長と何時間も議論をした。
そして行長に自分が殉教を覚悟していること、逃げるつもりは全くないと言うこと、
もちろん信仰を偽るつもりも、ごまかすつもりもないことを語った。

行長は、さながらペテロの様に肩を震わせ号泣した。

そして現実に負けて信仰を曲げた己を恥じた。
オルガンティーノとなぜかその時やってきた高山右近は、
そんな小西を励ました。

その後、小西はすっかり信仰を取り戻し、キリシタン大名として生きるために
秀吉の目をたばかり、ごまかし、色々やっちまったりしたが、
それでも彼が最後まで地位や名誉を捨てることができなかったのは
皆様ご存知の通りです。





842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 22:21:56 ID:i31hCh32
>>841
遠藤周作が「鉄の首枷」の中で、そういう行長を書いていましたねー。

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 22:28:02 ID:xAhuWoRe
誰もが聖人君子に馴れるんなら宗教に戒律なんて無いさ
小西行長は自分の信ずる下へ行けたのかねぇ

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 22:32:04 ID:qS28HBjN
信仰を取り戻した小西に(一時的にだけど)
受け入れ拒否られたフロイスはさすがだと思う

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 22:41:15 ID:kexM5wdj
>>845
フロイスは真っ先に逃げてるからなあ……

一応ネタ元はオルガンティーノ神父の書簡からです


小西行長の策・悪い話?

2009年03月22日 00:11

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/21(土) 20:45:04 ID:2Fn+p0xZ

文禄の役の後、いよいよ慶長の役が始まろうとしていた頃

朝鮮の将金応端の陣に出入りする一人の日本人がいた。
名を要時羅といい小西行長の臣であったという。

日本の武将たちがぞくぞくと渡海して行き、文禄の役で大いに活躍した加藤清正が渡海しようとした時
要時羅が金応端に密かに告げた。
「我が将(小西行長)が次のように申しております。交渉が決裂したのは加藤清正のせいであり、自分は彼を甚だ憎んでいる。
 これこれの日に清正が渡海するので、水戦の得意な朝鮮がこれを要撃すればこれを討ち取る事もできるだろう、と。」

金応端はこれを朝廷に報告し、朝廷は閑山島で水軍を率いる李舜臣に前進するよう催促した。
が、李舜臣は謀を疑って前進を遅らせた。結果加藤清正は渡海してしまった。

その後要時羅が再び金応端の陣を訪れ、「なぜ迎撃しなかったのですか?」といかにも残念そうな素振りをしてみせたため
朝廷では李舜臣を咎める声が高まり、ついには「李舜臣切るべし」と極言するものまで出た。
李舜臣は逮捕され、獄舎に投ぜられた。李舜臣の母はこの時気の動転のあまり死んでしまったという。

朝廷が派遣した調査官が「李舜臣は機会を逃した。」と報告したため
李舜臣は官職を削られ、一兵卒として従軍することとなった。
出獄した後に母の死を知った李舜臣は喪服を着て従軍したという。
人々はそれを聞いて嘆き悲しんだ。

話はこれで終わらない。
後任として閑山島の水軍を率いる事になった元均は
李舜臣が定めた制度を尽く変更し、李舜臣に重用されていた将や士卒を更迭していった。
元均自身が気性の荒い人物であったため水軍の士気は目に見えて低下していく。

その頃要時羅が再び金応端の陣を訪れる。
「これこれの日に日本水軍の増援が来ます。迎撃すべきでしょう。」

朝廷はこの言を信じ、元均に前進を催促
日頃李舜臣は前進しなかったと言っていた元均はこれを断れず前進を開始
しかし折からの強風で海は荒れ、朝鮮水軍は散り散りになった。
なんとか退却するも飲料水の不足と日本水軍の強襲によりさらに退却
ついに巨済島近くの漆川島沖で日本水軍の夜襲にあい、朝鮮水軍は壊滅した。

元均はそのまま消息不明となり、障害を打ち破った日本水軍は西進を開始しした。
すべては秀吉に朝鮮水軍撃破を命ぜられた小西行長の策だったのだ。

『懲録』




71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/21(土) 22:00:34 ID:DHiI28Xy
豪商小西ならではの人脈の手広さが感じられる逸話だな

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/21(土) 23:05:26 ID:sDlvARwp
>>70
和名ならヨウジロ かな?

嘘の中に真実のひとつまみを混ぜるから洒落にならん
「コニシドノとキヨマサはマジ不仲」とかw

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/21(土) 23:12:39 ID:OYrM2alx
そういや漆川梁海戦に小西も参加してたんだな
何気に李舜臣討った島津義弘もいるな
両方とも陸上部隊だけど

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/21(土) 23:56:55 ID:ZCTwT3fu
>>72
要時羅→弥二郎→小西弥九郎行長の親族とか妄想してみたり