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小田原に御牢人となった

2023年01月06日 19:24

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/05(木) 20:43:07.28 ID:nzcqadR2
永禄十二年の初めの、五月二十六日に、今川氏真徳川家康とは扱い(和睦)となり、掛川を家康に渡し、
その上遠州一円が家康の支配となった。そして「氏真を今一度駿河の主にしてほしい」と頼まれて、
氏真公は遠州掛川より船に乗り、小田原の北条氏康が氏真の舅であった故に、これを頼んで小田原に
御牢人となった。

さて、氏真公の元で随一の出頭人であった三浦右衛門介は、諸侍に慮外を仕った人罰が当たった。
(氏真の駿府没落後も)彼は猶も分別を違えており、高天神城の小笠原(與八郎)が、氏真公の時代と変わらず、
自分の用に立つと三浦右衛門介は考えていた。そして氏真を見放し高天神城へ走り込んだが、そこで
小笠原は彼を搦め捕り、しかも縛り首とした。以上。

甲陽軍鑑



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中々に世をも人をも恨むまじ

2021年12月05日 18:52

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/05(日) 16:25:39.70 ID:J7djUx9K
北条氏康の死後)

氏康御病気の頃より今に至って、譜代重恩の輩は申すに及ばず、関八州御旗下の大名は群をなした。
その他に甲州、越後、佐竹、方々の使者は往来して止まず。
御中陰の日数がようやく過ぎ、氏政(北条氏政)は伊豆の三島へ鷹狩りに御出になったところへ甲州より使者が来たる。

氏真(今川氏真)と氏政は親しき間柄で小田原に居住しており、そのうえ譜代の侍はいまだに多く、
また家康公も内々氏真に御芳志があった。そのため信玄(武田信玄)は行末を難しく思われたのだろうか、
氏真を討ち申したいと密かに氏政へ人を遣わしたのである。
氏政はいかに思し召されたのかその旨を合点なさり、すでに甲州より忍んで討手の者どもが来ると聞こえた。

悪事千里を走る習い、やがてその事を聞き付けなさり、氏真の御前(早川殿)は氏政の御姉なので
この上なく御恨みになり、氏真その他下々に至るまで「氏政は人倫に非ず」と立腹限りなし。
ここにいてはならないと氏真は小田原を引き払い、家康公を御頼みになって妻子を引き連れて浜松へ落ちなさった。
また、御心の内はさぞかしと思いやられる一首を詠んだ。

「中々に世をも人をも恨むまじ、時にあはぬを身の科にして、氏真」

家康公は先年の御言葉もあり、屋形を作って氏真を据え、御懇情浅からず御労りを施しなさった。
これぞまことに仁政たるべし。

そもそも今川の家は代々小田原と縁者であり、早雲氏綱二代重恩を受け、特に氏真は御兄弟の契りあり。
何によって信玄に語らわれたのか今川殿を追い出し、このような情け無き振る舞いは謂れなし。
まことに頼む木の本に雨も溜まらぬ風情かな。中陰の折で誰か言う人もなし。
末の世まで嘲弄を受けるだろう、当家の運は末になったと小田原の諸臣は悲しんだ。

――『北条五代実記北条盛衰記)』

よく氏真の辞世の句と紹介される一首だがこの本書では小田原出奔時の無念を詠んだものになっている。



219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/05(日) 16:49:21.21 ID:fzcOOjCi
元亀二年十月、氏康死亡
元亀三年五月、氏真が施主として義元の十三回忌を小田原の早河久翁寺で施行

四十九日からかなり経っても氏真夫妻が小田原に残っているような

氏真さんカワイソス(´・ω・`)

2021年10月10日 17:38

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/09(土) 21:45:42.09 ID:82Wlary0
767 名無しんぼ@お腹いっぱい (ワントンキン MM0b-g+3k) sage 2021/10/09(土) 03:21:43.58 ID:KUrCYZSAM
氏真さんカワイソス(´・ω・`)

「駿河を失い没落した氏真は、かねて音信のあった越後上杉氏に書状を送ったものの返信が無い。そこで、上杉氏の取次(外交の担当者)に連絡を取ったところ「書札慮外」と一蹴されてしまったという。つまり、没落した氏真ごときがいつまで越後国主と対等の立場でいるつもりかとその無礼を咎められてしまったのだ。氏真の心中いかばかりか。」



85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/09(土) 22:38:28.68 ID:Yey6uiW7
今川サイドの対上杉窓口は朝比奈か三浦だっけ?
まあどっちもいないんじゃしゃあない

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/09(土) 22:48:16.74 ID:l66jBKe8
大名権威の保持のためにももう大名じゃない人間を大名扱いするのは厳しいわね
まあそもそも氏真がこうなったのは
弔い合戦したいタイミングで同盟国北条に攻めかかったやつがいたり
そんなやつと同盟したのに味方になったら殆ど動かないとか
その辺もあるんで確かに心中如何ばかりか

叛臣たちの末路

2018年11月30日 20:02

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/30(金) 16:35:16.50 ID:Ny+xzMJX
さてまた今川家譜代恩顧の老臣どもは利禄のために誘われ、大節に臨んでその志を奪われた輩多き中でも、
葛山備中守(氏元)は「かねてからの内約通り、駿河を下し賜われたい」と願い出た。

ところが信玄は頭を振り「汝は如何なる忠節があって左様な願いを申し出すぞ。数代恩義を蒙った主君を
捨てて叛逆したことを大功と思っているのか。君恩を知らざる禽獣に駿河を取らせるくらいなら、

甥の氏真へ返し渡す!」と、大いに嘲笑って罵った。葛山は大いに怨み悔いてもどうしようもなく、年を
経て後に北条氏康へ内通し、氏康の手引きをして信玄を滅ぼし怨みを報じようと計略を巡らせた。しかし、
その事は露見して生け捕られ、信濃諏訪で磔に掛けられたのである。

瀬名陸奥守(氏俊)は程なく不療の病を受けて病死し、その子・中務大輔(信輝)は信玄の心に違えて
甲斐を追い出され小田原へ逃げて行くが、氏康もその不忠を憎んで扶助せず、ついに民間に落ち入った。

朝比奈兵衛太夫(信置)はしばらくの間駿河にいたが、武田勝頼滅亡の後に徳川家の誅を蒙ったのである。
その他大身小身ともに信玄へ内通した者を信玄は称美せず、あるいは誅せられ、あるいは飢死し、あるい
は民間に流浪した。不忠無道の天誅逃れざるこそ恐ろしけれ。

――『改正三河後風土記』



489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/01(土) 20:05:06.68 ID:Xogi4/3p
>>486
信玄を信じてはいかんということか

武田軍、駿河侵攻

2018年11月29日 21:02

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/29(木) 20:16:21.24 ID:/TtpzPNN
今川諸将が氏真を見限り朝比奈兵衛太夫も逐電する内に、武田先陣の山県三郎兵衛昌景・馬場美濃守氏勝(信房)・
小山田右兵衛尉信茂・小幡上総介信実(信貞)・真田源太左衛門信綱・同兵部少輔達連(昌輝)・内藤修理亮昌豊ら

3千5百余騎は江尻を越えて宇和原まで寄せ来たる。駿河の町人・百姓どもは「これは何事なるや!」と上から下へ
と騒動して資材雑具を東西へ持ち運び、あるいは幼き子を背負い老いた父母の手を引き南北へ逃げ迷う。城中の女童
も慌て騒ぐこと限りなし。武士も妻子を持て余して逃げ支度ばかりし、合戦を心掛ける者はなし。

大将の氏真も近習どもが騒ぐのを見て呆れ果てるばかりである。そんなところへ三浦右衛門佐(義鎮)が慌ただしく
馳せ来たり、手の舞い足の踏むところも覚えず、顔色は土の如くになって申すことには、「主君は未だ世の有様をも

御存知ないまま、そのように御過ごしなのですか! 21人の逆臣どもは皆々信玄に降参し、主君に向けて弓を引き、
矛を逆様にして攻めようとしています! これを防ぐ味方はおりません! 退くべきところは退き、進むべき時は進み、
進退節に応じますのを良将の振舞いとします! そのように座しながら敵の虜となり給うのは口惜しいことではあり

ませんか! 急ぎこの城を立ち出て砥城の山家へ身を潜めて計略を巡らし、重ねて快復の功を顕してください!」と
例の利口巧言をもって知恵有顔で申せば、何事も三浦の申すところに背かぬ氏真はこれをもっともと得心し、近習
わずかに50余騎を召し連れて、代々住み慣れた駿府を立ち出て、砥城の山家へ落ちて行ったのである。

城中の女童は皆歩行素足で走り出たが、道も分からずにかれこれさまよっているのを、情けも知らぬ下部(身分の
低い者)どもがここかしこに追い詰めて、打ち倒し押し伏せ衣服を剥ぎ取り、物を持っていれば奪い取って赤裸に
した。喚き叫んで泣き悲しめば、そのまま息絶える者もおり、目も当てられぬ有様であった。

――『改正三河後風土記』


氏真はこの事を夢にも知らず

2018年11月28日 18:53

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/27(火) 21:54:05.37 ID:x04VAUwX
薩た峠の戦いにて殆どの今川諸将は今川氏真を見限り駿府へ逃げ入り、その後の軍議で存慮を口にしなかった。
その中でも今川随一と人に知られた朝比奈兵衛太夫(信置)は軍議の席へ出座もせず、料理の間の長炉に背中

を向けて居眠りしていた。岡部忠兵衛(土屋貞綱)と小倉内蔵助(資久)らは、この様子を見て不思議に思い、
「兵衛太夫には逆心があるかと見及びます」と、氏真へ告げた。「それには何ぞ証拠ありや」と、氏真が尋ね
られると両人は答えて「兵衛太夫は無双の剛士。数度の名誉を人に知られた身が、今回は武田の旗色も見ずに

一番に逃げ帰ったこと、これ一つ。次に武田の軍勢はすでに当国へ乱入し、事の急に臨み軍議の席にも出ない
こと、これ第二なり。またこの騒動の最中に、当家随一の老臣が具足も身に着けず炉を囲んで座眠りしている
こと。この3ヶ条をもって、不審がないとは言えません。みるからに21人の侍大将は尽く信玄に内通したと

見えて合戦を気遣う様子もなく、敵を恐れる様子をも見えません。兵衛太夫1人を誅戮すれば、残る輩はこれ
を見て懲りるのではないでしょうか」と述べれば氏真ももっともだと得心し、日根野備中守(弘就)ならびに

内蔵助の嫡子・小倉与助両人に命じて、「兵衛太夫にいよいよ逆意の形勢あれば、速やかに討ち果たすべし。
もしもそうでなければ、軽卒な騒擾を起こしてはならない」と指示を加えた。両人は畏まりやがて料理の間に
来ると座睡している朝比奈の側へ立ち寄ったが、朝比奈はまったく用心する様子も見えず。日根野は小倉を

差し招き、「朝比奈に逆位があれば我ら両人の形勢を見て少しは用心するはず。しかし、さらさらその様子も
ない。この上は朝比奈は逆心にあらざるか」と言う。小倉は聞いて「私もそう存ずるので軽卒な振舞いをして
はならない」と相談し、氏真へその有様を告げた。その間に兵衛太夫は密かに座を立って宿所へ帰り、

弟の金七郎に向かい「私は今日、ようやく虎口を逃れて帰ったのだ。その故は日根野備中守と小倉与助は両人
で我が身の側に立ち寄り、しばらく佇み立っていた。その様子は事ありげに見えたので、必ず主君の命を蒙り
秀盛(信置)の形勢を窺い見て、もし私に怪しい体でもあれば、討ち果たそうとする様子だった。

秀盛はこれを推察して、もしもこちらで用心の体をすれば身の災難は逃れられないと心付き、わざと知らぬ体
で座眠りしていた。それを見て両人は不審の顔色で立ち去ったのだ。今や陰謀の露見は程近い。そうなったら

甚だ危うい。私は速やかにここを立ち退く。其の方は私めの人質を盗み出してどこかへ落ち行かせよ」と申し
含めて、兵衛太夫はその夜に逐電した。氏真はこの事を夢にも知らず、重ねての軍議をするとして宿老どもを
召し集めると、秀盛はすでに逐電したと聞こえて氏真は呆れ果て、とかくの沙汰にも及ばなかった。けれども

21人の宿老どもは各々が敵への内通露見を恐れて、皆が武田に従った。秀盛の弟・金七郎は兄の人質を盗み
出して逃げたものの、これを聞いた氏真が大いに怒って手分けして追い掛けさせれば、金七郎は取り逃したが
人質は取り返して来た。このため氏真は諸人を懲らしめるためとして、かの人質の首を刎ねたのであった。

――『改正三河後風土記』


今度は遊びに飽きてまた浜松に帰ってきた

2018年08月25日 18:17

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/25(土) 13:27:40.22 ID:jvrexpct
今川上総介氏真が小田原を逃げ出て浜松に来たると、神君(徳川家康)は旧好を
思し召して懇意に御扶助なさったが、氏真は、

「近頃の都には歌や連歌、蹴鞠の朋友も多いし、退屈の慰みにもなるだろうか」

と京洛の方に徘徊し、今度は遊びに飽きてまた浜松に帰ってきた。

神君はなおも旧好を捨てなさらず、氏真は今は雲水に任せて浪々としているのを
このように懇意にもてなしなさり、天正7年(1579)10月9日、

浜松城へ氏真を御招きになり、善美を尽くして饗応なされた。御仁心ありがたき
ことなりと、氏真は申すまでもなく見聞きする者で感嘆しない者はいなかった。

――『改正三河後風土記(基業編年大成記)』



清見寺の膏薬

2018年07月07日 17:01

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/06(金) 21:44:23.21 ID:XoIoRDXe
清見寺の膏薬は、今川氏真の家臣が、駿河滅亡の後に剃髪して清見に庵を結んだのだが、
この者は膏薬を調合し、往来の人、在々の者に施して、その対価として銭、又は五穀を貰うことで
飢えをしのぎ身命を繋いでいた。

彼は里の童たちを誘い、薬草を集めると子供に頼って松脂を取り調合の手伝いをさせた。
このため、調合の方法まで子供たちは見習い、自分たちで調合し売り広めるように成った。
この由緒を以て、今でも清見の膏薬は子供の商売となっている。

この膏薬を作り始めた庵主は弟子に跡を譲り、この商売は次第に繁盛して、かつての庵は、今は
寺と成っている。

(渡邊幸庵對書)

こんな今川の遺臣のお話が



60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/06(金) 21:52:27.29 ID:1GYT3Z0c
今川旧臣による一大産業の創出。

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/07(土) 00:53:45.30 ID:9OdgJgq+
清見寺かよく前を通るけどなそんなの知らんかった

今川家崩壊

2017年03月30日 18:03

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 03:58:40.21 ID:4eoO7xGb
12月(永禄11年)、武田信玄は駿河に出張し、当国の主・氏真の近親(瀬名信輝)や葛山(氏元)、
ならびに朝比奈右兵衛大夫(信置)が信玄に属した。氏真は一戦及ばず、遠江掛川へ退きなさった。

掛川城主・朝比奈備中守(泰朝)は氏真の臣下で遠江国の郡代であり、氏真を本城に引き入れて
籠城した。翌年春まで上下の人数に酒肴以下までも怠りなくもてなし、奇特であると言われたという。

その後、小田原に氏真が退きなさった時に連れ立った。氏康・氏政が言ったことには、「臣下として
主人の氏真を相抱えて籠城したこと、人臣の名誉である」との由で、懇志に致しなさったという。

遠江へも信玄より秋山伯耆守(虎繁)に伊那郡(信濃国)の人数を相添え遠江へ出軍させた。すると
山家三方衆(奥平・田峯菅沼・長篠菅沼氏)は信玄に属し、秋山に伴って遠江に出張したのであった。

引間の人数は三方ヶ原へ出て合戦し、三河の山家三方衆と合戦に及んで引間衆は敗北し、数多討ち
取られた。そうして引間衆は懇望して秋山に一味し、氏真は掛川へ籠城しなさった。その勢3千余。

家康はこの冬、遠江へ出張しなさった。同月、三浦右衛門大夫という人は氏真の取り分けての寵人
であったのだが、掛川へ籠ろうとしたところ、日頃から城主の朝比奈備中守と間柄が悪かったため、
城へ入らず馬伏塚を頼って行った。

ところが、かの地の主・小笠原美作守(氏興)は日頃の契盟を違えて右衛門大夫の首を切り家康公
へ献上した。翌年の春、小笠原は病死した。時の人口はもっぱらこれを憎んだ。

さてまた、駿府の氏真の居城には岡部次郎右衛門(正綱)が相籠ったので、残党はこれに従った。

――『当代記』



770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/30(木) 12:44:17.38 ID:Q4RK4yIB
朝比奈泰朝は小田原で死んだのかな

高家今川氏先祖祝ひ之事付表高家品川氏之事

2017年01月15日 16:56

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 02:18:30.66 ID:NkP02+Hg
高家今川氏先祖祝ひ之事付表高家品川氏之事

 十月二十四日は高家今川氏の先祖祝いとして、今川の親戚が寄り合う祝儀がある。
予も招かれて会いに行った。
(注:当時の今川家の当主義用の嫡男・義順の正室は甲子夜話の作者の松浦静山の娘の機)

 その祝儀でとある話をした。
松浦静山「その先祖とは義元君ですか?」、
今川関係者「いやそうではありません。中頃の祖の某〔その名は忘れた〕です。」

 以下にその中興の祖の話として聞いたことを記す。
その祖は刑部大輔と称していたとか。
日光山の神号が初めは東照社と宣下あったので、
すぐに御使を奉じて上京し、朝廷と争議して遂に宮号を申し下したことがあった。
これに付き添いの林春斎〔林氏二代〕と一緒に遣わされていったという。
典故を引いた廷議は彼にとってはなはだ難しいことであったとか。
その勲賞として三河数ヶ所の地を賜り、春斎も禄が加えられたという。
これからこの人を今も中興の祖として祝うこととなった。
いずれにしても、今川衰微の時に労が有った祖先なので、
このように親族を招くのも理である。

 また今の表高家の中に品川氏がある。
〔この家は、元禄の頃は歴々たる高家であり、豊前守四位侍従であった。〕
かの日にも予は彼らと面会した。
この家は元々今川氏次男の家であった。
今川の祖は上の逸話のように寵遇があり、芝品川御殿山の地一円はかの屋敷であった。
その頃に品川氏の先祖がかの屋敷で出生したので上意で品川と称したのだとか。
ならば本氏は全くもって今川である。
よって家紋は、円の内に今川の家紋五七の花桐をつく。これも上意によるとか。
品川氏は先日も、この紋の小袖に肩衣は今川氏の紋である円に二引両をつけていた。


(甲子夜話続編)

これ、氏真の話ですよね。
中興の祖として子孫から敬われていたのですね。
しかし、ものすごく博学なのに氏真の名をしらない静山さん…

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 02:41:07.06 ID:NkP02+Hg
と、思ったら>>458でちゃんと名前を知っているね。ごめんなさい。



513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/15(日) 03:23:47.53 ID:k/jsDdax
武将としては下の下だからな。偉大な義元の名を出すのが礼儀。

氏真の蹴鞠

2016年07月31日 19:30

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/31(日) 19:14:33.69 ID:dTisZ1jN
天正三年2月下旬、織田信長は岐阜を立ち、3月2日に上洛して、相国寺に滞在した。
同月16日、今川氏真が駿河より上洛して信長のもとに出仕し、千鳥の香炉、宗祇香炉などを進上した。

その後信長は、氏真が蹴鞠の上手であると聞き、蹴鞠の興行を行ってそれを見物した。
氏真に対し、三条大納言父子、烏丸殿、藤の宰相殿、飛鳥井殿父子、広橋殿、五辻殿、庭田殿といった
蹴鞠において名のある錚々たる人々が入れ替わり立ち変わり挑戦したが、氏真の足さばきは、
どこで区切りがあるのかすらわからないものであった。

(甫庵信長記)

今川氏真、信長の前で想像を絶する蹴鞠の実力を見せつけたらしい、というお話。



22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/31(日) 19:21:00.54 ID:Jt9IzM1X
この話読むたび、親の仇の前でよくやるなと思うが

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/31(日) 20:57:28.09 ID:yzm9L0zP
>>21 甫庵信長記ということは、信長公記にも原文の記載があるはず。ぐぐってみた。

3月16日、信長公のもとへ珍客が出仕した。
それは今川氏真殿であった。氏真殿は百端帆(香炉または何らかの宝物)
を持ってあらわれ、これを信長公へ進上した。なお氏真殿は以前にも
千鳥の香炉と宗祇の香炉を信長公へ進上しており、そのとき信長公は
千鳥の香炉のみ受け取って宗祇の香炉は返却してやっていた。
 会見の中で信長公は氏真殿が蹴鞠をよくすると聞き、見物を望んだ。
かくして3月20日相国寺内において蹴鞠が催され、信長公の見物するなか
氏真殿ほか三条殿父子・藤宰相殿父子・飛鳥井殿父子・広橋殿五辻殿・
庭田殿・烏丸殿が技芸を披露した。

甫庵やっぱり加筆してやがる。

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/01(月) 11:05:42.86 ID:as7OLeEf
>>23の中で、「会見の中で信長公は氏真殿が蹴鞠をよくすると聞き」とあるので、
氏真が自分から蹴鞠のことを宣伝したようだ。
だから、親の仇の前でやらされたのではなく、親の仇の前でパフォーマンスか
「戦では負けたが、信長よ、これがお前にできるか?。できまいて。本当は俺の勝ちだ」
ってか。

今川氏真の楽市令

2016年05月13日 18:03

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 14:31:29.91 ID:c/w+KYiQ
今川氏真の楽市令
「富士大宮で毎月6度開かれている六斎市において、
既得権益層(座)の押し買いや狼藉等の問題行動が横行し
市の運営に差し障りがあるとの申し出があったので、
今後は諸役を停止して楽市(誰でも商売しやすく)とすることを申し付ける。
また、近くの神田橋の通行料も停止させて、商人の通行もしやすくする。
もし違反する者がいたら訴え出なさい。」富士文書他

永禄九年に今川氏真が富士信忠(富士山本宮浅間大社の富士大宮司)宛に出した
この楽市令は、織田信長よりおよそ一年早く、信長も参考にしたと言われている。
さらに早く六角定頼が楽市を布いたという話もあるけれど、
ともかく今川氏真は義元ゆずりの名政治家だったのかもしれない。



619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 15:25:50.57 ID:kt7LzU2e
並以上の器量だったとしても、家康と信玄が同時に攻めて来たらな・・・
まあ、相手が悪かったよな氏真は

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/13(金) 16:46:25.06 ID:oqTRUCOe
家を潰した、領地を失った=無能
という評価方法もそろそろ見直される頃合いかもしれんね

『今川の赤薬』

2015年05月12日 17:13

6 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/11(月) 19:23:16.44 ID:C/newK1P
こっちか

『今川家の赤薬』と言えば、世の中では急病に用いた場合効能の在る薬だと言われている。
この薬はそもそも、足利将軍光源院(足利義輝)の馬が患った時、乞食斎の僧が三条河原で
この馬を見て「たやすく治せる病なのに」と言っているのを、義輝が聞いて治療を望んだ所、
乞食が薬を用いると、たちまち患いは癒えた。

この時、義輝は一宮随巴という弓の師に言って、その薬法を学ばせ書き留めさせた。
そののち義輝が。永禄の変で斃れると、一宮随巴は駿河に下った。
駿河において、今川氏真は薬法などを面白がる人であったので、一宮は氏真にこれを教え、
そうして今川家の薬として世に広まったのである。

(明良洪範)



7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/12(火) 06:26:14.78 ID:VtUQjXB1
なぜ専門の医者ではなく、弓の師範の武士に学ばせたのか謎だ

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/12(火) 06:53:31.95 ID:5z1PL6WJ
すでに出家してるかもしれんじゃろ

猿のような侍を氏真公は崇め敬ったので

2015年03月14日 16:13

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/14(土) 05:19:06.27 ID:iuG8ON4R
 駿河の義元公は、過度に増長して信長に負け、討たれなさった後、
良き家臣衆は脇へ押しやられ、猿のような侍を氏真公は崇め敬ったので、諸侍は良い作法を失ってしまった。
厩別当の小身である三田村が、茶碗一つを三千貫で買ったのを、氏真公の側近衆がこれを観たがり、三田村茶碗と名づけた。
これを買うのは七度の槍働きより手柄であると褒めた。
これ皆作法の知らない猿のような侍が、身の程も知らず、大身衆や富裕者のような真似をして、堺の紹鴎が茶の湯を好んだためである。
(甲陽軍鑑)



今川氏真、不信爆発

2013年11月01日 19:00

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 20:02:56.32 ID:NiG3gLLp
永禄11年(1568)5月初め、武田信玄は駿河の今川氏真に使者を出し伝えた

『今川殿が所領されている、東三河を私に下されよ。
東三河は信州伊那より続いている地である。そこを私が持てば、氏真殿が以前から念願している
義元殿の弔い合戦をなされる場合でも、この信玄が加勢に出陣するのに活動しやすいからである。

ところで、昨今松平元康という興味深い人物が勢力を広げ、今川殿への恩を忘れ、
元康の元という字も投げ打って、そのかわり全く別な、徳川三河守家康となり、
三河国の大半を支配していると聞く。

その家康に取られるよりも、この信玄に進呈してはどうか?』

この書状の内容に、氏真は返答した

「信玄殿のお言葉、かたじけない。
しかしながら父義元の弔い合戦については、信玄殿をお頼み申すには及ばない。
良い時期を見てこの氏真自身で目的を達するつもりである。ことさら、氏真の敵である
織田信長と、信玄殿が縁者に成られた(永禄8年の武田勝頼と信長養女との婚姻)と聞いては、
信玄殿ももはや、半ば敵であると考えるものである。
そのため、東三河が例え家康に取られたとしても、信玄殿に進呈する気はない!

それに、家康など小身の者故、今年でも来年でも思うままに退治することが出来る。
しかし信玄殿に東三河を渡しては、その後遠州までも取られることに成るだろう。
その証拠に、あなたは我が今川家の所蔵である藤原定家の伊勢物語を、酒に酔ったふりをして
お取りになった。
我が父義元も、『信玄は謀略の才覚において恐るべき者だ』と仰っていた。

信玄殿は、この氏真との叔父甥の関係などもはや無視されよ。今後は書状の取り交わしも不要である!
あなたはこの頃も、家康の伯父である水野弥平大夫と親密であったそうではないか。
また、我が配下であった梶水彦介を甲府まで呼び、鉄砲10丁に甲府名物を添え、さらに木綿の布200反まで
与えて、『信玄が三河に進出すれば手を引くように』と言ったそうではないか!私はそれを
詳しく聞いている!」

実は去年の冬、氏真は水野弥平大夫を成敗した。その時、信玄が水野弥平大夫に出した多くの書状を
押収したのであった。

氏真はこの返書に、水野弥平大夫から押収した書状を添えて信玄に返した。
このため、今川と武田の関係は更に悪化した。

(甲陽軍鑑)

今川氏真、信玄への不信を爆発させる、というお話である。




626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/31(木) 22:32:37.58 ID:DhARhHe+
甲府名物がちょっと気になる

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/01(金) 00:17:39.23 ID:JFcFpmTh
まあ領土割譲しろなんて要求に対しちゃ、本人の置かれてた状況はともかく当然の反応だわな
甲府名物は多分あれだよ、黒川とか湯之奥からの産地直送の材料を使った山吹色のお菓子なんじゃないかな

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/01(金) 13:25:19.27 ID:cSGgquSp
>あなたは我が今川家の所蔵である藤原定家の伊勢物語を、酒に酔ったふりをして
お取りになった。

信玄が自らパクったって読めるんですが…え?

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/01(金) 18:40:16.19 ID:5XK1ent5
いや、普通に信用しちゃあかんだろう。あの真田パパンの師匠だぞ。信用するほうがどうかしてるw

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 10:05:06.86 ID:XrwX/CnJ
ところで武田家って今川・北条・織田・徳川と同盟相手を裏切ってるけど
同盟相手から裏切られた事ってあるのかな?

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 10:17:47.28 ID:O1BToJTb
>>630
武田側から見ると今川も北条も織田も徳川も、先に相手が武田に対して裏切り行為をしていることに成ってる

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 10:25:24.32 ID:Av2fqQ3E
アホの氏真にも五分の魂があったかw お屋形さまに攻められて一瞬で今川が瓦解した時どんな顔してたんだろうな

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 20:14:04.80 ID:1B/uX1D2
>>630
対織田の時は、両属状態の遠山を取り込んだ信長が原因じゃないかなぁ
対北条は原因作ったのは信玄だけど、手切れにしたのは北条だし

634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 20:54:22.97 ID:JzdkwTEZ
>>632
氏真の記録はそこそこ残ってるけど一般の人のイメージはバカ殿で気の毒だと思う
軍事はともかく内政関連は優秀なほうなのにね

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 21:01:23.78 ID:7g70p10d
信長の対信玄イメージもちょっと気の毒だな
同盟破棄して攻め込んできたので迎え撃つ準備して待ち構えてたら信玄病死で撤退
後の流れが「信玄が生きてるときは手も足も出なかったくせに…」になってしまった

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 22:19:45.60 ID:h0b2577Z
待ち構えるも何も、あの頃の信長って周りじゅう敵だらけの上、内応者も相当いただろう。
そんな状況の中、三方原直後に信長と信玄が野戦してたら、
まず間違いなく信玄が勝ったと思うがw

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/02(土) 22:58:59.92 ID:1B/uX1D2
信長の所へたどり着くまで1年以上かかりそうだがなぁ

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 01:40:00.94 ID:YVkFNXzE
徳川から人質とって東美濃で信長と信玄が戦に及ぶ
織田軍が敗北すれば反信長軍が勢いを増しさらに各地で蜂起するから早々に瓦解するね

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 01:58:29.59 ID:J/fD+e5Z
信長が本気だしたら最低でも6万は兵力集められるし
万に一つも信玄に勝ち目ないだろ

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/03(日) 02:07:11.05 ID:qmOoGxEd
史実の信玄上洛でももちろん本気でしたが

今川氏真「だまされ仕まじ」

2013年04月22日 19:50

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:24:45.22 ID:cte9qme1
永禄12年(1569)、今川氏真は掛川城を逃れ、小田原の北条氏の元に亡命した。
武田信玄は小田原に氏真がいることは自らの行動にとって邪魔だと考え、彼を追い出す策略を立てた。

小田原の氏真の元に、とある町人が訪れ密かに申し上げた
「今度甲州から原隼人が信玄の使者として小田原を訪れ、氏真様に腹を斬らせることについて、
北条側と内談を行い、その後内藤修理が派遣され、氏真様に腹を斬らせる、という事が決まったそうです。」

この言葉を氏真は恐れた。するとその話を聞いてからまもなく、甲州より原隼人が使いとして小田原を訪れ、
これに心もとなく思っていたが、重ねて内藤修理が訪れるとの情報を聞いた。

これは町人の言うことに間違いはないと考え、氏真は小田原から船で逃亡した。
無論、町人も含めて信玄の謀略である。氏真はまんまと騙されたわけである。

さて、船で逃亡する途中、風が悪かったために遠江国浜松に吹き留まり、下十連時にて10日ばかり
逗留した。困り果て仕方なく、徳川家康に使いを出し

『私は伊勢まで所要によって参る所に、風向きが悪いため船で進むことが困難になりました。
そこで陸路を使いたいので、伝馬や人足を使わして頂きたい。』

と申し込んだ。家康は「昔のよしみである。仕方がない」と、望みどおりに人馬を遣わし、その上で
「暫くご逗留あるように」と、様々に饗した。
氏真は小田原出奔以来、たいへん心許なく思っていたのだが、この様子に安堵し、遠州にゆるゆると
逗留した。

そのうちに家康から信長へもこの事の報告があり、信長からも
「どうかいつまでも御逗留あるように。後々には駿河に帰参と言うこともあるでしょう。」
と、懇ろな言葉をかけられ、これは幸いなことであると考えて、さらに緩々と逗留を続けた。

ある時上方の方へ参ったが、ここでは相国寺に滞在し、公家衆などと歌会などを行い、また
蹴鞠などをして過ごしていた所、信長がこのことを聞いて、こちらに来て蹴鞠をして欲しいと
所望された。信長は氏真の蹴鞠の様子を緩々と見物され、その上で振る舞いの用意があり、
信長自身の出で馳走もされた。

長篠の合戦の時も信長に同道し、誰かの手に居たそうである。
その後、武田勝頼が滅亡したため、氏真は信長に対し

『初めに言われたように、駿河を氏真に遣わして頂きたい。』

と申し遣わした所、

「あの頃とは違い、今や何の役にも立たない氏真に、どうして駿河を与えなければならないのか!?
要らぬ人間を生かして置いておくなど無駄な事だ!あいつに腹を斬らせろ!」

と、激怒して命じた。氏真はこれを聞いて驚き、直ぐ様どこかに逃亡した。

そうしている内に、信長が切腹したという話が伝わってきた。本能寺の変である。
しかしこれを聞いた氏真は

「信長が私に腹を斬らせるために、このような虚報を流したのだ。騙されはしないぞ!
こんな真似をしなくても腹を斬れというのなら、私は尋常に斬る!」

と言ったそうである。
(内々信長より腹を切せらるべき気遣の所に是を聞て、だまされ仕まじ、腹をきれとの
事ならば尋常にきるべしと被申よし)
(紀伊國物語)




332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:29:40.27 ID:buMIUTJM
氏真のゆるキャラぶり

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:34:17.69 ID:8ZPr5FF9
甲相駿三国同盟による政略結婚で唯一最期まで夫婦連れ添った氏真と早川殿

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:38:27.81 ID:86cNlbDF
親の敵の前で蹴鞠とか
誰か止めてやれよ、といつも思う

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:39:59.82 ID:x/ofBZEZ
生き恥さらせば長生きだけはできるってことか

武士じゃねぇわw

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:46:23.49 ID:xVTYET0X
泥水啜ってでもきのこる!ってのもそれもまた武士だと思うがここまでくればあかんわなw・・・開き直って戦場で槍働きでもすれば一国は無理でも村一個はいけるんじゃないか?とりあえず1対1なら負けないとは思うし

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 19:51:01.94 ID:q0Uxl8Mt
TERU「これ以上こっち来るな。こっちだって逃げ出したいんだから。」

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:23:13.29 ID:7GMytiRI
ピンチはあったものの、楽しげに長生きできたんならいいじゃないか

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:27:58.02 ID:spFTitzx
>>334
まあ親父は自分から攻め込んで討ち取られたから仕方ない
これで恨んでたら、とんだ逆恨み野郎だ

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:54:26.77 ID:spFTitzx
あ、なんか的外れなこと言ってしまったな
敵に反応してしまったが、恨んでるとかそんな話じゃないなスマン

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 21:58:52.12 ID:PZe0+X17
慈善事業で戦国やってんじゃないってことだ
手柄もないやつに国をやるわきゃない まして国を滅ぼして生き恥さらすぼんくらを

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:03:49.29 ID:pzslSECG
言われてみると氏真は、武田は結構恨んでそうだけど織田や徳川はたいして恨んでないよな

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:11:01.22 ID:PZe0+X17
親父のこと一番恨んでそうw

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:19:21.97 ID:8ZPr5FF9
>>343
テル「親父が若死にするから叔父さんに折檻されたお」

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:46:48.69 ID:pOlXsqRu
相手が悪かっただけで氏真は頑張ってたほうだと思うんだよなあ

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 22:53:01.21 ID:PZe0+X17
裏切り者家康め!滅ぼしてやるぅ! 

数年後 
蹴鞠蹴るから雇ってください… 

なぜなのか?

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:07:37.57 ID:pzslSECG
氏真は周囲からカモだと思われたせいで寄ってたかって潰された印象

しかしいざ戦国時代が終わってみれば、武田は味方裏切りまくり一族死にまくりで滅亡、
一方信玄がカモってた氏真は家が潰れた後も人望あったうえに夫婦円満で
さらに高家になったあげく孫が出世しまくるのを見ながら畳の上で天寿全うしたとか
信玄に教えたらどういう顔をするだろうか

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:13:05.29 ID:pzslSECG
ああ、氏真は孫が出世しまくってる頃にはもうあの世か・・・
正しくは「順調に成長していくのを見ながら」だな

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:15:29.32 ID:0GbOcKHp
後世にバカとして語り継がれる今川を笑うだろう

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:18:39.13 ID:Q4fmg1Fn
捨扶持で生きながらえて羨ましがられるかねぇ

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:23:05.77 ID:0GbOcKHp
今川の子孫とかいてもバカにされるだろうし
詐称する価値もないか

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/21(日) 23:45:43.97 ID:QzCm68ap
幕府滅んで早々に断絶してたような

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 02:21:02.65 ID:Q9n2j4T6
武田を追い出したら駿河に復帰ってのは、氏真が掛川城を開城したときの条件だっけか

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 12:24:32.14 ID:RtZQFnNI
子孫って年末に討ち取られてるアレだっけ?

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/22(月) 17:32:05.35 ID:VGnTz/Tr
武田の子孫だって高家だろ

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 16:09:29.49 ID:WvFxLpzM
>>354
年末に打ち取られる吉良って今川の本家筋だっけ

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 16:17:18.23 ID:TtJMyvBm
本家筋で今川義元の子孫>吉良義央
しかしなぜか浅野内匠頭や義士たちは
今川義元の供養のために建てられた泉岳寺に埋葬されている

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 20:46:13.96 ID:mQIJTpyV
権現様も結構いい人なんだな、
桜田門の目と鼻の先に義元公の供養の寺を立てるなんて・・。
三河物語なんかではボロクソだが案外、竹千代&岡崎衆は優遇されていたのじゃまいか?

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:10:07.79 ID:iT1uOT/c
>>369
人間は幼少の頃に嫌な思い出があった地には近づきたがらないんだってさ
駿府は家康の自由意志で終の棲家に選んだくらいだから、
苦労はしてても辛い思いはしてなかったんじゃないかな

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:23:23.81 ID:7RO21V+k
>>369
時代的には彦左が物心つく前の話だし、三河物語のあの辺は一次史料とも
食い違ってる事が多いから、創作程度におもっといた方が良いのかも

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:49:21.77 ID:3mSfHB9G
そもそも面倒くさい人だから事実を知っていたとしてもそれを素直に解釈している保証は無い

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 22:56:38.87 ID:TC7QpK/b
まあ史実と言うよりも、当時未だ名誉回復がなされていなかった大久保家の正当性を訴えるのが目的の著作だからなあ>三河物語

今川義元は子息氏真に書を贈り諌めて曰く

2012年10月01日 20:29

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/01(月) 18:53:40.26 ID:gR1Zw0A2

今川義元は子息氏真に書を贈り諌めて曰く、

「お前はすでに成長したというのに未だに童心を失わず、
鶏を闘わせたり狗を走らせるばかりで、第一になすべき文武を疎かにしている。
今これを改めなければ、必ずや国は覆り、家を滅ぼすことになるぞ」

しかし、氏真は父の言葉を意に介さず、ついには滅亡するに至った。

――『名将言行録』




661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/01(月) 19:00:23.42 ID:kzckAfJY
氏真も一応やる事はやってるんだけどね。敵が強すぎただけで。

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/01(月) 19:23:02.65 ID:+FJ8prk4
たぬきにお屋形様に北条か・・・ノブヤボなら引っ越し考えるな

雑談・氏真があと500年遅く産まれていれば

2011年10月18日 22:00

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/16(日) 23:48:09.85 ID:/nyUmFVb
氏真があと500年遅く産まれていれば

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/17(月) 01:01:57.65 ID:LAOI+sVd
>>372
日本初のバロンドーラーとか胸暑


ttp://up3.viploader.net/sports/src/vlsports004120.jpg
氏真


378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/17(月) 07:51:17.72 ID:s+Jv0U+0
>>375
残り10人どうすんだよw

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/17(月) 11:57:03.23 ID:Dw9739au
>>378
島津さんとこから2人ぐらいスカウトできね?

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/18(火) 16:59:00.33 ID:GByzT84u
>>378
飛鳥井雅綱、飛鳥井雅春、飛鳥井雅敦、飛鳥井雅庸、飛鳥井雅敦、飛鳥井雅宣、飛鳥井雅賢、飛鳥井曽衣、
山科言継、今川氏真、津野定勝、細川昭元、細川幽斎、細川忠興、大友宗麟、島津歳久、島津悪久、島津義虎、
伊集院忠棟、上井覚兼、樺山善久、八木正信

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/18(火) 18:27:34.18 ID:/GQuhK4S
さらっと悪久とか書くなw

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/18(火) 21:43:27.76 ID:SUdMXtLt
>>396
蹴鞠最強となると公家ゲーになるから困る
しょくほう(笑)とくせん(笑)

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/18(火) 23:33:51.32 ID:Spcj5zQP
>>400
一応定かではないが、飛鳥井曽衣は戸次川で信親と共に戦死したと伝わるから、
結構な武人だったのかも。

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 07:12:56.65 ID:YwX2bGwl
>>401
戦乱を避けて土佐に下向、一条の賓客だからそれはないと思う
てか戸次川では爺さんになってたろうによく信親に付いていったなあ

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 12:18:20.64 ID:kRoMtUgJ
>>402
通訳…いや、何でもない

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 13:23:45.82 ID:4EPaDQyY
球蹴りは今も昔も軟弱なイメージが抜けないなあ

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/19(水) 15:10:18.56 ID:A3zMbfON
でもリフティングを軟弱という奴はおるまいに

甲州征伐の論功行賞で

2010年12月31日 00:00

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 02:02:19 ID:n7pNbJxD

織田家の甲州征伐によって武田家が滅ぼされると、信長の手によって論考恩賞がな
された。
中でも徳川家康は「長年武田家の圧迫を支え続け、この度も駿河&甲斐南部を素早
く平定した事は大きな手柄である」として、駿河一国を与えられた。また、甲斐国
巨摩郡を与えられた穴山梅雪も徳川の旗下として添えられた。

しかし家康は、
「私の元には前の駿河国主・今川氏真殿が身を寄せております。彼に駿河を与えれ
ば、国人衆もなびき、駿河は安定するのではないでしょうか?」
と提案。
信長はそれを聞いて、
「お前には功があるから駿河を与えると言っているのだ。氏真に何の功がある?何
の能がある?お前がいらないと言うなら、駿河は俺に返上せよ。それが筋だろう」


氏真も徳川の客将としてちょっとばかり働いておけば、信長の扱いも違っただろう
にね。
ちなみにこの武田攻めのちょっと前までは、家康の下で城主などを務めていたよう
ですね、氏真さん。
が、武田攻めの際には何をやっていたのかまったく不明。手柄どころか消息すら良
く判らないという状態のようです。




217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 02:15:52 ID:sfNRkI8a
>>216
ええとね、氏真さんは長篠のあと信長から、対武田の調略を任されたの。
でもその調略は武田家中の旧今川家臣からすら

「こんな調略受けるわけないっていうwwww
俺らは勝頼様に忠誠を誓うっていうwwwww」

と馬鹿にされる始末。そこで信長は氏真を担当から解任。(このとき氏真にくっついてた
今川旧家臣団も遂に解散した)
新たに対武田調略を、遠江の回復に集中していた家康に任せると、家康は
武田の駿河支配のトップである穴山梅雪の一本釣りという離れ業を成功させたわけですな。

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 08:35:28 ID:RNPfTcUl
おお・・・もう・・・

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 08:51:24 ID:D85i/KHf
おお、さすが海道一の弓取りの二つ名を継ぐ物…

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 09:50:07 ID:j4Pe7d33
氏真様だって海道一の鞠取りなのに・・・

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 10:27:04 ID:sfNRkI8a
氏真の本当に凄いのは、対武田調略担当を解任されて牧野城を追い出されると、
その足で家臣連れて浜松の家康のところに行って

「しばらく世話になるよ!」

って平然と世話させたところだなw
まああっさり世話しちゃう家康も家康なんだけど。
居心地が良かったのか、京に出るまで10年くらい家康の下で居候暮らしていたらしい。

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 10:37:12 ID:kCfFoEQZ
人望無い!節操も無い!wwww

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 10:57:29 ID:L/i8jI2D
氏真は不感症

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 11:16:37 ID:BsCUdzL3
なにげに氏真と家康はウマが合ってたのかもね。
後の小説とかでおもしろおかしく描かれただけで。

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 11:28:26 ID:gMbimw+n
氏真さん、きっと人質とか興味もなかったから竹千代さんは悪い印象がなかったんじゃないかな~

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 12:16:58 ID:eaRzKf7j
かつての主君の息子で、全部を失った氏真をいまさら討っても評判落とすだけだし
無能だから策謀も出来んだろうし
人望も無いから担ぎ上げる奴もいないし…

…とりあえず無害だから世話しておいていいんでね?
もしかしたら超運良く役に立つ可能性もごくわずかに残ってるし

と家康が考えても否定できない

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 12:19:47 ID:KP/qTS7c
全く使い道がないと思ったらそりゃ放り出すよ。
ま、結局役に立てる機会は来なかったわけだがw

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 12:42:52 ID:6Z5Nby31
>>227
今川家というか品川家を高家にしてまあ権威付けにはなったんじゃないか?

氏真が見事な働きで駿河を回復&穴山梅雪をゲット
本能寺後には梅雪の手引きで甲斐や信濃に進出し、対家康・対北条の睨みとなって秀吉に厚遇される。
北条滅亡後は早川殿の縁から北条の旧領を得て六大老の一人に収まり
ついには東軍総大将となって天下への道を…みたいな架空戦記ってないかな。

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 13:01:01 ID:eaRzKf7j
氏真がそこまで有能だったら今川家は滅んでねーよ

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 13:08:06 ID:jeyKGsMa
家康の家臣の中には、氏真に恩義を感じてる人も恨みを持ってる人も両方いるからね
家臣団に加えずに、適当に養護するってのが微妙な線だったのかも知れない

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 13:20:39 ID:7LyAThY4
家康は今川家人質時代はけっこうよくしてもらったみたい。

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 13:32:18 ID:wd+btQio
氏真公胆力はともかく個人的武技は達人級だったらしいから
幼い竹千代に手ほどきしてやったと妄想する。

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 13:45:31 ID:jeyKGsMa
幼い竹千代に手ほどき…(*´Д`)ハァハァ

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/30(木) 15:09:06 ID:8747H0z5
>>232
信長における斯波家みたいなもんなのかなあ?

忍者の城攻め

2010年08月08日 00:05

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/07(土) 17:49:45 ID:vglXdCsi
忍者の城攻め

永禄三年(1560)のこと。桶狭間のあと織田信長への寝返りの姿勢のみえた刈谷城の
水野信近に対し、今川氏真は家臣岡部元信にこれを征伐することを命令、
岡部はこの作戦のため伊賀衆を呼び寄せた。

時に水野信近は、熊村という所に妾を置いていた。
そこに通うため、城の海岸に近い方は防衛のための人数が少ない、
その事を伊賀者たちは察知、彼らはその方面から城にやすやすと忍び入ると、たちまち
水野信近を討ち取った。

さらに城の中の者たちも皆殺しにし、岡部率いる二の手の軍勢を待つ。
ところが何があったのか、二の手の到着が遅れた。

この間に城の異変を知った刈谷衆は、家老の牛田玄蕃近長の元に
「ここは大丈夫か!?」とかけつけた。これに玄蕃、
「見れば解ることを大丈夫か?とは、お主達慌てふためいておるぞ!」
と一括、気を落ち着かせた上で刈谷城に攻め寄せた。

味方を待っていた伊賀衆は突然の敵の軍勢に慌てた。
玄蕃たちは伊賀衆を80余人も討ち取り、城を奪還。床に置いてあった水野近長の首も取り戻した。

この頃岡部の軍勢もようやく到着したが、刈谷城は既に取り戻され攻める手がかりもなく、
そのうち信近の兄、水野信元の軍勢も駆けつけたので、岡部たちはばらばらになって退却したという。


戦国期でも珍しい、忍者を使った城攻めの記録である。