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「感状は主君のためならず」

2013年06月17日 19:56

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 19:44:16.37 ID:jbZl6Min
島津家の武将、山田有信は九州征伐に際し日向高城に籠もって奮戦したが、主君義久の説得によりやむなく降伏に至った。
攻城側の羽柴秀長はその人物と才覚を惜しみ、兄秀吉の直臣となるよう誘いを掛けたが、有信は「とんでもないこと」と言下に断った。
秀長はこの態度を却って気に入り「では他に望む物はないか」と重ねて持ち掛けた所、
「我ら一族郎党が主君義久の元へ戻ることを認めて頂ければ、他には何も望みませぬ」と願い出たのでこれを快諾した。

薩摩への帰国を許された有信とその部下達だったが、日向は数年前までは伊東家の領地。殆ど敵地も同然である。
帰国の途上で伊東の遺臣に付け狙われることもあり、山伏に身を窶して薩摩へ帰還したという。
義久は彼の帰還を大いに喜び、感状を与えたが、有信はそこに加増の旨を認めるとその部分だけを消して拝受し、
頑として加増を受けようとしなかった。

これを伝えきいた諸人は多いに感嘆し、その後の朝鮮の役や関ヶ原で功を上げた中馬大蔵に浜田永臨、
押川強兵衛、山田有栄、指宿清左衛門といった剛の者たちは有信の事例を引き合いに出し
「感状は主君のためならず」と加増を断り、みな清貧に甘んじたという




512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 22:30:10.57 ID:7AcLyGz5
進んでサービス残業や休日出勤をするワーカーホリックのせいで
誰も残業代を受け取れないブラック企業の話を思い出してしまった・・・

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 22:55:26.73 ID:evhdrLdX
ワ○ミみたいな企業みたいな話だと思うと悪い話みたいになるからやめなさい!

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 23:04:59.12 ID:E1i6Xco3
一応、終身雇用どころか代々雇用があってだから・・・

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/16(日) 23:40:46.20 ID:BENzQbRB
武士の忠義は家意識もあるから、
現代の新卒中途で縁もゆかりもない他人ばかりの企業に就職するのとは違うわな
ワタミの社長は論語の解説書みたいなの出してたなw
でも一代限りの上下間に中世ばりの忠義発揮する人間はなかなかいないだろ。
いたらある意味尊敬するけど。
現代でやれるなら逆にすごい忠義心だし仲間を信じる気持ちの強い人だよな

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 02:06:22.54 ID:IZie7/be
例の社長は社員に24時間労働するのは奉仕だとか言って
労働者を不当に搾取して富を築く、時代遅れの卑怯者

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 08:21:01.15 ID:WlUSF5eT
出来ないとか無理なんて言わせないのがあの社長のモットーなんだろ
それで従業員の心身を壊してるんだからどうかしてるだろ
本気で政治家になるつもりなんかね
冗談であってほしいわ

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 12:56:28.09 ID:KHYbwo1p
>>516
時代遅れ所か、戦国時代なら押込か追放、下手すりゃ宇喜多メソッドの対象だろう

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:54:27.32 ID:YbkXtjY1
三河のややこしい人らはまず黙ってないな

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 14:40:19.48 ID:fisDmLvD
主君が上手く乗せればそれに近いこと平気でするだろうけどな。

上から押さえつけたら退転するわ刃向けるわでもう大変だろう

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柏原市右衛門(幽静)がつぶやいた。

2011年01月12日 00:02

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/10(月) 21:22:44 ID:gHbCxNl3
戦国乱世の時代もはるかに過ぎ、人々が元禄の泰平を謳歌していたころ。花のお江戸を遠く離れた薩摩でも、
若者たちが酒を酌み交わし、料理に舌鼓を打ち、大言壮語を楽しんでいた。

「いやぁその昔、高麗での戦の折、わしらのご先祖は、唐人を造作もなく切り伏せたそうな。首を取るにも、
河原で石を拾うより易かったというぞ。」
「本当か!わしもそのような時代に生まれて、存分に出世したかったのう!」

「・・・わしが子供のころ、昌厳どの(山田有栄)に聞いた話と、だいぶ違うの。」
剣客・歌人として知られる、柏原市右衛門(幽静)がつぶやいた。

「わしが同じような事を聞いたところ、昌厳どのは『誰からそんな臆病な事を聞いたのじゃ!?』と激怒し、
ご自身の体験を語って下さった・・・

================================================

泗川城下の海に、波がきらめき潮騒が轟いていた。

薩摩の人々が日ごろ慣れ親しんだ、鹿児島湾や日向灘のような海ではない。
何万という明軍の、見たこともない圧倒的な人の海に、刀槍の波がきらめき、怒号の潮騒が轟いているのだ。

二十歳を過ぎたばかりの山田有栄も、この光景を目にして青ざめるしかなかった。同僚には泡を吹く者までいる。
「も、もうだめじゃ。このまま波に飲まれ、砕け散るしかないのか・・・」



不意に、頬に痛みと熱を感じ、我に返った。目の前に呆れた顔をした島津忠恒が、馬の鞭を握り締めていた。
「 出 陣 。 」若武者どもを鞭で打ち、正気に返した忠恒は、静かに告げた。

「頃は良し!敵の「気」は衰えた、今こそ出るぞ!!」
『その時』を告げる島津義弘の檄に、ようやく気力を取り戻した薩摩隼人たちは、城を飛び出した。

================================================

・・・『嘘偽りを申し、まことの己を隠すのは、臆病者のする事ぞ。』 昌厳どのは、そう仰せになった。」

市右衛門の話を聞いた若者たちは感じ入り、以後軽々しい話をする事が無くなった。




194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/10(月) 21:49:54 ID:BIr3m6dv
戦う前「も、もうだめじゃ」

戦ってみたら「まるでゴミのようだ」

って事だろ。


195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/10(月) 22:14:39 ID:Gsg+2emo
そんな>>193の若者たちそのものな事を言わなくても…

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/10(月) 22:47:22 ID:QHfsguYg
>>194
そうなのか?

山田有栄「さて、かの退き口のこと」

2010年06月26日 00:02

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/25(金) 11:01:15 ID:kiHVykoh
>>410から時は流れ、多くの人に支えられながら一命を拾った島津義弘はもちろん、その子である忠恒も既に亡く、
二代藩主・光久の治世となっていた明暦のころ。
江戸に出ることになった光久の嫡子・綱久は、薩摩阿久根港から本州に向かう船を待っていたが、
阿久根に程近い出水の地頭のことを思い出し、関ヶ原の話など聞こうと召し寄せた。

齢八十にならんとする山田有栄は、
「この年になると、目も良く開きませんでな。」と、瞼を指で押し開いて綱久一行を見回すと、言葉を続けた。

「さて、かの退き口のこと、残らずお話しいたしましょう。



・・が、それには若殿はじめ皆様、三日ばかり絶食していただけますか?今の有様では、とても話せませんな。」

そう言って、また瞼を指で押し開いて綱久らを見回した。ここでようやく一同は、有栄が何を見ているかに気づいた。
有栄は、綱久の近習たちの着物を見ていた。粗末な木綿の裃を着た有栄に対し、近習たちは
絹の羽織を着ていたのだ。

「食うや食わずで逃げた先祖の苦難も忘れ、贅沢にふける小僧どもに、中馬大蔵が絶句するほどの話を語れるか!」
と言ったところであろうか。綱久はじめ若者たちは、言葉もなく恥じ入ったという。




948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/26(土) 01:19:20 ID:58srF2uq
>>943
ほぉ、黄金の鞘の人は長生きしたんだな
この人はもうちょっと早く生まれておけばデ新納さん以上の大物になった気がするわ

山田有栄、地元の郷士による歓迎の宴席にて

2010年04月27日 00:00

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 11:01:37 ID:FQL9z4z0
山田有栄は、島津忠恒の命により出水の地頭として赴任し、地元の郷士が歓迎の宴席を設けた。
喜んで宴に出席した有栄が膳に出された汁物のフタを取ると、じっくり煮込んだカエルが入っていた。

有栄が郷士たちを見わたすと、空々しく涼しい顔をして、膳に手をつけている。
(・・・こやつら・・・・・・)出水郷士たちの新任、しかもヨソ者の上司に対する、キツい「洗礼」である。
腹を決めた有栄は淡々とカエル汁を平らげ、そのあわてる姿を見たかった郷士たちは、目を丸くした。

数日後、有栄は郷士たちを集めて言った。
「先日は、なかなか他では食いがたきものを馳走になった。礼を言う。今度はわしが宴席を設け、
他では食いがたきものを食わせてやろう。ぜひ、ご来席あれ。」

恐る恐る郷士たちが宴席に顔を出すと、汁物が用意してある。フタを開けると、汁には縫い針が入っていた。
「うーむ・・・地頭どの、参り申した・・・・・・」
以後、出水の郷士たちは有栄の命に伏するようになったという。



「黄金の鞘」の山田さんでさえ、悪久の下じゃこんなにギスギスしてるんだから、名も無き薩摩隼人なんか
推して知るべきで、徳之島の人たちも、ことさら反抗せざるを得なかったんじゃ・・・




401 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/26(月) 13:12:39 ID:lcMM84wq
カエルは鶏肉みたいで美味しいぞ

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 13:35:47 ID:nMJpYeMQ
実は常食とかご馳走だったりしたら返しが失礼極まりないな

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 13:57:37 ID:tB+1B656
フランスじゃあるまいしw

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 14:05:18 ID:o68/EvpO
沖縄では食べていたそうだから薩摩でもひょっとしたら…>カエル
というか日本書紀に「吉野ではカエルを食べる」という記述があるそうな。

405 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 14:37:06 ID:q00d3FbX
もしカエル汁が常食やご馳走だったら縫い針汁出された時に郷士が抗議するだろ
それをせずに詫びいれたと言うことはカエル汁は悪意があっての事

406 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 14:48:58 ID:nMJpYeMQ
ご馳走を悪意で返されてドン引きしたのかもよん

408 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/26(月) 15:41:23 ID:lcMM84wq
これが長野なら悪意なくイナゴやらザザムシやらを入れるんだろうな

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 15:52:38 ID:o68/EvpO
あれは佃煮にするものあって鍋にいれるものではない。>イナゴやら~

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 16:40:12 ID:DhNOlIIC
いっぽう、DQN眼竜はネズミをいれた。 
・・・そして食べた。

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 19:57:14 ID:SIA4pE9O
虫は東北でも広く食うんだぜ
イナゴは田んぼにわらわら出るから、田舎じゃ採るの簡単なんだ

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 20:00:45 ID:zVts7mWH
秋田の農家生まれだけど虫だけは食わなかったな
俺のジジババもどんだけひもじくても虫食い経験なし
その代わり大戦中には犬食わされたみたいだけど

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 20:04:47 ID:GpPbRiTK
犬や人間の肝を食べていた薩摩でも蛙はゲテモノ扱いなのか。

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 21:21:05 ID:onYpJeUb
食習慣の問題だからね、何でもゲテモノに成り得るんじゃない

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 21:22:03 ID:5vvMRc7u
15年位前お袋の料理事典見てたら蛙肉が載っててびっくりしたことがある。
写真も白っぽくて鶏肉みたいだった。
捕まえやすい蛋白質だし日本でも食べるとこはあったんじゃないかな。

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 21:58:37 ID:XstQNCi7
大正時代に日本にもウシガエルが食用として持ち込まれたから
今のジジババ世代からは結構メジャー食材でしょ
うちの親父なんかは良くウシガエルを見つけると
畑仕事放り出して捕まえてた

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 22:14:28 ID:C2pWZIlu
いなごを食べれば害虫駆除も出来て一石二鳥

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 22:23:50 ID:SROxl4NE
山ん中で生まれたから、蛋白質とるために虫でも蛙でも何でも食ったなぁはっはっはって
ラオスのおっちゃんが言ってたなぁ。
まぁその話してたテーブルの上にも雨蛙みたいな奴の煮物が出てたんですけどね。
小骨多くて食い難かった。

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 23:23:05 ID:WCgI9t/d
マジレスするがアマガエルは有毒だ。
当時はもちろんウシガエルなんて日本にはいない。

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 23:43:03 ID:Ookh1UvF
そういえば今日買った戦国時代の小説で「オタマジャクシを食べた。水がないから味噌を絡めてそのまま」ってのがあったな。

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 23:48:49 ID:yYyyFram
古くから日本で食用にされてきたのはアカガエル
明治初期の『西洋料理指南』にもカレーに入れる具のひとつとして書かれている

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/26(月) 23:49:27 ID:C2pWZIlu
トノサマガエルの方がおいしそうだ


442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/27(火) 22:37:53 ID:EEKCZLGB
>>400の話、まとめの方のコメントじゃ

カエルの汁物→「帰る、帰れ、の意味」
縫い針の汁物→「ここを縫いつくように離れないぞ」

って解釈してたが、その通りだと思う。ゲテモノ云々とは別の話だな。

443 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/27(火) 23:38:51 ID:gpjJvC+2
>>442
なるほど。
機転の利く人が解釈してくれると助かるな。
そうじゃないといつまでも
「これはご馳走だ」「いやゲテモノの嫌がらせだ」
論争から出られなかったかと。

山田有栄についてのお話

2009年03月27日 00:22

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/26(木) 11:19:57 ID:C3A5c2Ta
>>162
山田有栄の話で付け加えて一つ

関ヶ原後に出水の三代目地頭として着任した彼は出水麓を整備し
トンネル掘削による灌漑用水で農業振興にも力を入れ産業開発に努めた。
出水は国境警備の為に精兵を揃える必要性があったため子弟の教育にも熱心であり
武人としても吏僚としても優秀で領民にも大変慕われたという。晩年は昌巌と号した。

少し話は逸れるが、1708年に薩摩藩第4代藩主の島津吉貴は薩州島津家の累代の墓を
全国各地から出水の地に集めた。1代から5代実久、6代義虎、7代忠辰と戦国の世を生きた
人物の墓もある。
薩州島津家は忠良・貴久・義久が薩摩を統一するまで分家の最大のライバルであった。
戦国島津氏の人物事典「本藩人物誌」の末尾に「国賊伝」という一風変わった巻が
収録されているが、
そこには薩州島津家の5代実久が国賊筆頭として名を連ねていたりする。

山田昌巌の墓はそんな薩州島津家の墓を見下ろすような形で少し高台にある。
島津氏のちょっと気を利かせたいい話?って自分で書いてても無理やりだなこれ

山田有栄と黄金の鞘・いい話

2009年03月25日 00:15

162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/24(火) 21:19:22 ID:4GbnRsuv
山田有栄と黄金の鞘

山田有栄の父は耳川の功臣、山田有信である。
島津当家の忠恒とは年も近かったことから
彼は忠恒とも親しかったという。

重臣の子という毛並みの良さに、持ち前の風采のよさ、
更に近侍した人に影響されたのか和歌や茶道の教養も身に付けた彼は
質実剛健を旨とする薩摩隼人の中では少し浮いた存在であった。

さて、時が流れて関ヶ原の前夜。
上方での異変を聞きつけた薩摩の武士達は地元から続々と駆けつけた。
もちろん有栄も例外ではなく、地元から駆けつけたのだが周りの薩摩隼人たちは
彼の装備に仰天することになる。
なんとこの男、黄金で拵えたド派手な鞘に刀を納めていたのだ。

朝鮮出兵に庄内の乱、疲弊しきった薩摩から
手弁当で駆けつけた者の武装は非常に粗末なものばかり。
中には畑仕事を投げ出して野良着同然で駆けつけた者や
やむを得ず途中で武具を強奪してきた者、
鐙もない裸馬に乗ってきたものからすれば
「何やってんだこのボンボンは…」と思われるのも無理ないことであった。

やがて関ヶ原にて合戦が始まる。
有栄も大谷勢を撃破して勢いに乗る藤堂、筒井を相手に勇戦するが
ご存知の通り西軍は敗退し、島津義弘は決死の敵中突破を行うことになる。

敵中突破に成功した後の逃避行は苦難を極め食うや食わずやの行軍となった。
犬山に潜み、いよいよ食料が尽きかけた頃、有栄は
「心当たりがあります。暫くお待ちください」といって姿を消した。

「あの見栄っ張りのボンボン、何を考えてるのやら…」と皆が待つこと数刻、
有栄は米の袋を両手に帰ってきた。
「一体どうやって!?」と皆が驚きつつ尋ねると
有栄は特に誇るでもなく、自分の腰をポンポンと叩いた。
見れば自慢の黄金の鞘はなく、そこには粗末なボロキレでグルグル巻きにされた
刀があるのみだった。

有栄が成金趣味ではなく、
このような時のために日ごろの蓄えをなげうって大急ぎで
黄金の鞘を拵えたとみんなが知るのは薩摩に帰国して後のことであった。

このことに感銘を受けた諸将は「さすがは有信の子よ」と感心し、
薩摩では危急に備え、たとえ普段が貧しくとも備えを怠らないようになったという。

義弘の代の功臣忠臣を煙たがっていた節のある忠恒も有栄には気を許していたのか
「あいつなら大丈夫!」と
有栄に肥後との国境付近である出水で地頭を任せ
更に島原の乱では忠恒の名代として島津の総大将を任せている。

太平の世が訪れ、鹿児島で遊興三昧の忠恒(南のDQN)を見た有栄が
「ダメだこの人、俺がしっかりしなきゃ…」
と思ったかどうかは定かではないが、
肥後の細川を抑えるべく出水にて子弟の育成に尽力したとか。

以上、南のDQNに仕えて西のDQNににらみを利かせた人のお話でした。
(最初のタイトル出でオチ啼きもしますが^^;)




163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/24(火) 21:49:14 ID:IID6zaJG
℡元「そうそう刀は奇抜と思われても、装飾にお金をかけるべきなんだよね」

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/24(火) 22:10:23 ID:63q+iiPp
やまだ・・・ゆ、ゆうえい・・?

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/24(火) 22:33:31 ID:4GbnRsuv
「ありひで」ですよ。