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山口重政は申し触れて廻った

2017年07月11日 17:39

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 12:47:58.44 ID:F9sSnusY
佐久間不干斎(信栄)が織田信長の叱責により高野山へと立ち退く時、その道中に
野伏が殊の外起こり、通行が非常に困難となった。

この時、佐久間不干の側には唯一人、当時16歳であった山口修理亮重政が付いていた。
彼は飛脚のように先行し、先々で所の名主にこう申し触れて廻った

「佐久間不干が明日、ここを通られる!罪過はご赦免されているため、郷人どもがもし
一人でもこれに手を出せば、後日御詮索あって、必ず罪を問われようぞ!」

翌日、佐久間不干の通行を妨げる者は無かった。

(士談)



90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 19:58:20.11 ID:I0EiXcXu
>>88
これ信長の威光の話だよねw
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ある若者のその後の運命

2014年02月10日 19:14

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/10(月) 18:07:05.63 ID:MPRjJTKC
ある若者のその後の運命

天正8年(1580年)8月、佐久間信盛・信栄親子は対石山本願寺戦における怠慢を
叱責され、織田信長より追放処分を受けた。持ち場であった天王寺の砦から
すぐに退去せよ、という命令であったため、手持ちにあった黄金20枚ほどを持ち、
とりあえず高野山を目指した。当時、信盛は七カ国の兵を動員する権限を有し、
それは織田家中で最大の軍事力といってよかったらしい。それが一枚の譴責状で
このざまである。つき従う者もわずか三人。周囲が信長を恐れたためか住む所も
なかなか見つからず、天王寺を出てから一ヶ月後にようやく落ち着き先を得る
ことが出来た。親子はそこで頭を丸め、信長の怒りがおさまるのを待った。
このとき、いまや乏しくなった懐から半分を出し、落ち着き先の金剛峰寺の
坊主に食事など身の回りの世話を依頼している。そして、こうも頼んだ。

「この身に不測の事態が起きたならば、お預けした金子で石塔を建てて下され」
(震え声)( TДT)

哀れである。しかし、信長の怒りは解けない。
「高野山に住まうこともまかりならぬ」

わずか10日後、親子は新たな落ち着き先を求め旅立つ。去り際に、もしもお怒りが
解けて復帰がかなったら200石寄進します、と連名で認めて坊主に渡しているのが
わびしい。事態がここまで悪化すると、つき従っていた供の者も「こりゃあかん」
と親子を見捨てて逃げてしまったらしい。お先真っ暗、どん底である。

だが、僅かな光明が灯された。
親子を慕って一人の家臣が駆けつけてくれたのである。
その若者はまだ十七歳。少し前に父親を亡くし、近江国で喪に服していたが、
主親子が追放と聞いて、いてもたってもいられず、高野山に向かい、方々捜して
ようやく熊野に向かう途中の親子を見つけ出すことができたのである。若さって
すばらしい。信盛はその忠心に涙し、何も与えることができぬ、せめて我が姓を
受け取ってくれ、と佐久間姓を名乗ることを許したという。
さて、高野山を離れた親子は、最終的に現在の十津川村に落ち着き、この地の
温泉(湯泉地温泉)で湯治をすることとなった。若い信栄はともかく、既に老境
に入っていた信盛は、追放により精神的にも肉体的にも相当なダメージを受けた
と思われる。悲しいことに養生にもかかわらず、追放からおよそ1年後、信盛は
息子と若者に看取られながら十津川で没する。涙する若者 (;´Д⊂)

信盛の死から半年、さすがに哀れに思ったのだろう、信長は信栄を呼び戻し、
赦免を与え再び出仕することを命ずる。喜ぶ信栄の横にはまたまた涙する若者の
姿があった。

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/10(月) 18:08:49.85 ID:MPRjJTKC
およそ三十年後、幾多の武功により大名に列せられていたかつての若者は、ある
政争に巻き込まれ、所領没収のうえ、息子とともに寺への蟄居を命ぜられる。
彼の脳裏に、旧主の姿がありありと映し出されたことだろう。だが、彼は旧主の
ように「待ち」の姿勢をとらず、己の運命を変えるべく親子して「攻め」に出たのだ。

自らの不遇を利用して、敵方勢力に味方すると見せかけ、相手の懐に飛び込んだ
うえで敵大名を暗殺してみせる、この献策が入れられぬと分かると、今度は息子の
方が勝手に寺を抜け出して戦に参加しようとする。関所で見破られ送り返される
と、あらためて通過のしやすい商人に成りすまし関所を突破、戦場へ駆けつけるが、
戦は和議が結ばれた後だった… ( TДT)

和議が破れ、再び戦が始まると、好機到来とばかりかつての同僚の軍勢に親子して
加えさせてもらい再起を懸ける。合戦が始まり敵勢目掛けて突進するも、前に出過ぎて
息子及び同道した弟は討ち死に……(;´Д⊂)(;´Д⊂)(;´Д⊂)

だが、彼等の死は無駄死にではなかった。失脚から15年、息子らの戦死から13年も
経っていたが、かつての若者、既に60歳を超えた老将は罪を許され、大名への復帰に
成功したのである。感涙を流す周囲の者を見つめ、はて、いつかどこかで見た風景…
と彼が思ったかどうか…。

彼の子孫は、二度と領地を手放すことはなかった。小さいながらも大名として存続し
続け、明治の代を迎えた。


牛久藩初代藩主、山口重政のお話。




340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/10(月) 20:51:02.60 ID:lkxvww1I
後のサクマ式ドロップアウトである

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/11(火) 01:08:01.70 ID:U74Vycw/
>>339
ドラマだねえ
しかし懐に忍び込んで暗殺してみせる敵大名って豊臣秀頼のことだよね、色々と凄いこと言うね

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 16:32:39.93 ID:1JpDUISN
>>338>>339
ではここで山口さんが苦労するに至った、関係の深い方に伺いましょう。
いかがですか、このお話の御感想は?


正純「ふむふむ、で、佐久間信栄殿は200石を寄進されたのですかな?」

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 22:00:29.59 ID:eCUrkUs7
信長の小姓の山口飛騨も同族なんかねぇ

山口重政、食事を振舞って・悪い話

2009年03月28日 00:10

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/27(金) 19:24:34 ID:MihQYKCz
山口重政が、大番頭を申し付かった時の事。配下の組衆を集め、食事を振る舞った。
組衆の者達は皆、「真に結構なご馳走です。痛み入ります」と言えば、重政

「いやいや、痛み入る事はありません。私はこの度、あなた達のご支配を仰せ付けられました。
何事かあったときは、私の命令であなた方を引き回す事になります。
ならば、静謐な時、せめてこのようにご馳走でも差し上げなければ、と考えたのです。」

ところがこれを聞いた大田善太夫と言う者、「そう言う事ならこの料理、食べられませぬ!」
などと言い出した。このご馳走を命令を聞く対価だと感じたのが嫌だったのか。
しかしこの言葉で、その座は興ざめしたのだとか。

まさか重政も、そんなつもりでご馳走したわけではないだろうに。
なかなか、空気を読まない人は、いつの時代にもいらっしゃるのだ。




244 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/27(金) 22:17:50 ID:K/Xi10h+
>ならば、静謐な時、せめてこのようにご馳走でも差し上げなければ、と考えたのです。
って気を遣ってくれてるのになあ。

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/27(金) 22:41:15 ID:m6ySFtBR
いい上司じゃないか