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「続武家閑談」より「秀吉公 家康公の旅宿へ御来臨のこと」

2023年02月19日 17:41

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/18(土) 19:22:49.71 ID:PgV/ljYw
続武家閑談」より「秀吉公 家康公の旅宿へ御来臨のこと」

榊原康政が上洛させられると、秀吉が密かにその旅宿に御来臨され、忠臣であると賞され
「さて明日謁見の時は、昔頼朝が青狩衣に立烏帽子でなさったようにしたら面白いだろう。そのように心得られよ」
と熟意を尽くしなさった。
翌日登城なされた時、果たして右の狩衣と烏帽子で対面なされたという。

秀吉と家康との和睦の時、まず榊原康政が使者として上洛した時の話のようだが、タイトルには家康と書かれている。
家康との対面の前夜に宿に訪ねて行った逸話との混同だろうか。



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「続武家閑談」から「榊原小平太と平岩平右衛門喧嘩の事」

2023年02月13日 19:16

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/12(日) 18:48:58.34 ID:8AdD7kWK
続武家閑談」から「榊原小平太と平岩平右衛門喧嘩の事」

平岩主計頭親吉の弟の平右衛門が榊原小平太康政と喧嘩し、平右衛門が負傷したところで皆で引き離した。
その時、平岩親吉は御家人の宿老で榊原康政は小身で若年であった。
親吉が申されるには「小平太はその身の才智勇において匹敵するものがなく、上の御用にきっと立つべき人材である。
一方でわが弟はさほどの者ではなく、御用に立つようにも思われない、弟を逼塞させよう」と追い込んだ。
はたして榊原康政は天下の三傑と称せられ古今の英将となった。
平岩親吉の心根に智勇がなかったならば、諸人のあざけりを恥じて康政を罰したであろう。
「東国三十三ヶ国の間、徳川上杉武田の家中にも十人もいないであろう強勇の将である」
と聞く人はみな涙を流し、親吉を嘲る者は一人もいなかった。

「名将言行録」にも同じような話があるようで
親吉の弟の平右衛門は平岩康長のことらしい



安国寺肩衝・異聞

2019年08月15日 17:16

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 00:16:37.96 ID:ADdXVEMj
一つの肩衝と呼ばれる茶入を、安国寺長老(恵瓊)が甚だ珍重していたのだが、
これを榊原康政が甚だ賞美して、「宝貨に替えん」と思っていたが、安国寺は全く承知しなかった。

しかしながら上杉征伐として大神君(徳川家康)が宇都宮まで御動座あった頃、上方にて石田(三成)の
反逆の事が起こり、奥に上杉、後ろに上方の蜂起と、諸軍も驚き、君にも御心痛有ったが、ここで
康政が満座の中御前に出て

「上方蜂起、さてさて恐悦です。」

と、殊の外喜ぶ様子で語った。

「いかなれば康政はかく申すぞ。」家康が尋ねると

「上杉は旧家と雖も思慮が過ぎ、その上急速に御跡を付けるような事は無いでしょうから、聊かの押さえの
兵を難所に残して置かれれば、決してお気遣いされることはありません。

また上方は烏合の集まり勢ですから、何万騎有ったとしても恐るるに足りません。この康政が一陣に
進めば一戦に打ち崩すでしょう。

そして後勝利の上は、安国寺も石田の余党ですから、御成敗されるでしょうから、その時に彼の肩衝を
この康政の軍賞として頂きたい。」

そう申し上げると御心良くお笑いあそばされ、さらに諸士、諸軍とも勢いいや増しに強くなったという。

関ヶ原の勝利後、願っていたものを御約束通りに、かの肩衝は康政に下され、彼は秘蔵していたのだが、
台廟(台徳院:徳川秀忠)の御代、この肩衝を頻りにお好みになされ、康政に献上するよう命じたものの、

「これは軍功の賞として賜った重宝です、この義は御免を相願う」

と従わなかったため、秀忠も思し召しに任せること出来なかった。

ある時、康政が細川三斎(忠興)を正客として茶事があったとき、康政が水こぼしを取りに茶室を出た時、
三斎はこの肩衝を奪い、馬を乗り跳ばして御城へ出、上へ差し上げた。

康政の所では未だ客も帰らない内に、上使が現れ
『この茶入は兼ねて御懇望のところ、康政が差し上げないのも尤もな事であったので。今回三斎に仰せ付けられ
奪わせたのだ。』

とのよしを仰せ付けられ、康政には黄金何百枚かを下されたという。

この肩衝の茶入は現在は田安殿(御三卿田安家)の御物となり、甚だ大切にお取り扱いに成っていると、
これは肩衝を拝見した者が物語ったものである。

(耳嚢)

>>233 の内容が江戸後期の耳嚢になると、津田秀政だったのが榊原康政に変わっていたり、忠興が
これを奪った理由が徳川秀忠に命じられたために成ってたりと、時間が経つと逸話というものはこんなに変化
すると言うことがよく分かる内容である。

参照
安国寺肩衝


もし斥候の者が討たれると、

2018年10月19日 21:46

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/19(金) 00:10:42.28 ID:hpo4qwgu
徳川家康がある時、敵方への物見を、甲州衆の内より遣わした。この時、榊原康政は物見の侍たちに向かって
言った

「各々、心得はあるか?このような物見には心得がなくては叶わぬものである。」

斥候の武士は
「委細心得候」と答え、物見をして帰還した。

側に射た人が康政に「あれはどう言う事か」と尋ねた。これに康政は

「もし斥候の者が討たれると、やむを得ず合戦に成ってしまうものだ。敵は大軍で味方は少勢なのだから、
『軽く見て帰れ』との心を伝えたのだ。」

と言った。

(士談)

最初からそのままそう言ってはいけなかったんですかね。


小田原城中に入りたいのです

2018年01月11日 19:01

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/11(木) 17:19:16.21 ID:b5taQZdQ
小田原の役でのこと。
徳川家康重臣・榊原康政の家臣である伊藤顔助は、大磯の切通の近辺に出て、小田原城に
出入りしようとするものを防いでいたが、下総国住人・山岸主税介という者、籠城に
参加しようと出てきたのを、伊藤が発見し追い詰め戦っていた所、味方の武士も続いて、
遂に生け捕った。

山岸は家康の意向の元、豊臣秀吉の元に遣わされた。
秀吉は彼から詳しく関東のことなどを尋ねると、そのまま家康に返還された。

家康は山岸に言った
「お前の命を助ける。今後我らの味方に属すように。」
しかし山岸は、伊藤顔助を通してこう申し上げた

「大変な御恩だと思います。しかし私は、やはり小田原城中に入りたいのです。」

この望みを聞いて家康は
「今、一人が新たに入城したとして、何ほどの事もない。」
そう言って、山岸が小田原城に入ることを許した。

しかし家康の陣所を出た山岸が小田原城に入ると、城中の者達は彼が体の数カ所に
傷を被っているのを不審とし、敵に誑かされたのではないかと、彼を牢に入れた。

北条氏直が降伏し、小田原城が開城すると、榊原康政が城を請け取り、掟を出して
混乱を防いだ。この時、牢の中に山岸主税介が居ることを知り、彼を獄より出すと、
自らの配下として二百石を与えた。

山岸が小田原城に入った事は、高い志有る話として評判となり、後に三河黄門(結城)秀康が
彼を千石の録を以って招いたが、山岸はこれを受けなかった。
彼は二度にわたる恩に感じ、一生小知のまま、榊原家にて全うしたという。

(士談)


武臣たる者の実義は汝にある

2017年12月26日 18:20

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/26(火) 17:42:20.57 ID:0CHlz54H
榊原式部大輔康政は、尾州小牧山御陣の節、豊臣秀吉の不義を誹謗し、所々に高札を立てた

『秀吉は織田家取立の臣でありながら、その主君の公達に敵し、神戸三七信孝を亡ぼし、
今度は北畠(信雄)殿に敵した。誠に八逆罪の者であり、これに与する者に、どうして
天罰が無いだろうか。』

これに秀吉は大いに怒り
「榊原小平太を生け捕った者は、卑賤凡下を問わず、千戸侯を以ってこれを賞する」
そう諸将に伝えた。

その後、秀吉は関白なって京に在り、信雄を通して家康と和睦し、妹を送って縁を結ぶとの
事で、その準備が整うと、「三河殿より結納を遣わされたい。その使者に榊原小平太を
遣わされるように。」と所望した。
家康がこれを伝えると、康政は畏まって受け、早速上京した。

康政が京に到着したその夜、秀吉は彼の旅館を訪れてこう言った
「今度私が汝を名指しして呼んだのは他でもない、先年小牧山対陣の時、この秀吉を誹謗して
高札を立てた憎さよ。私は汝の頸を一目でも見ることを願ったものだ。

しかし今、徳川家と縁を結びに至って、私は其方の忠誠を一入感じ入った。誠に武臣たる者の
実義は汝にある。私はこの事を直接言いたいがために汝を呼び寄せたのだ。
ただし、我が妹を遣わす結納持参の使者が無冠では如何かと思う。」

それから奏達あって、康政は従五位下式部大輔に叙任された。総じて、この頃の徳川家諸将の
官名の多くは僭称であったが、この時康政が初めて式部大輔の位記口宣等を受領した。

秀吉より饗応もなされたが、相伴にと、先に徳川家を出奔した石川数正が、十二万石の大名として
秀吉によってあえて呼ばれた。しかし康政は終始数正と言葉をかわさず、その後御暇申し上げ
三河へと帰国した。人々は康政の節操に感じ入ったという。

(武野燭談)


人々は康政に

2017年02月10日 14:10

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/09(木) 19:29:50.26 ID:s+N83Bmb
榊原康政は尾州小牧山の陣の折、秀吉の不義を誹謗し、所々に札を立て、

『秀吉は織田家取り立ての臣であるのに、その主君の公達に敵し、神戸三七信孝を滅ぼし、
今度は北畠殿(信雄)に敵した。八逆罪の者である。これに与する者には、どうして天罰を
被らないことがあるだろうか。』

そう書いて人々に見せた。
これに秀吉は激怒し、
「榊原小平太を生け捕りしてきた者は、卑賤凡下を問わず、千戸候を以てこれを称する!」
そう諸将に触れた。

その後、秀吉が関白に任官し京都に滞在していた頃、織田信雄を通じて、徳川家康
秀吉は和睦をした。秀吉は妹を送って縁を結ぶとの事に成り、その事相調い三河より結納を
遣わすことに成ったが、このとき秀吉は、「その使者として榊原小平太を遣わすように」と
所望した。家康がこれを康政に伝えると、彼は畏まり、早速上京した。

康政が京に到着したその夜、秀吉が突然、康政の旅宿へ現れた。
「今回の使節に汝を名指しして呼んだのは、他でもない、先年小牧山対陣の時、この秀吉を誹謗して
高札をたてた憎さよ!汝が首となった姿をひと目実たいとずっと思っていた。

しかし今、徳川家と縁を結ぶに至り、あらためて其方の忠誠を一入感じ入った。まことに汝には
武臣としての実義がある。
私はこの事だけを言いたくて汝を呼び寄せた。但し、だ。我が妹を遣わす結納持参の使者が、
無官というのはいかがであろうか?」

そう言うと即座に奏達し、康政は従五位下式部大輔に叙任された。総じて徳川家の諸将の官名は、
この頃まではその殆どが僭称であった。しかし榊原はこの時初めて、式部大輔の位、口宣等を
受領したのである。

その後、秀吉よりの饗応も善美を尽くしたものであり、そこには相伴として、先に三河を出奔し、
十二万石の大名となっていた石川伯耆守数正が、あえて馳走に出されていた。
しかし康政は終始、数正と一言も口をきかなかった。
その後、秀吉に御暇申し上げ、三河へと帰った。
人々は康政に、節操を感じた。

(武野燭談)



榊原康政、秀忠遅参の弁明

2015年02月23日 18:45

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 04:39:55.53 ID:Tx+sPy36
関ヶ原の合戦の時、徳川家康は慶長5年(1600)九月一日に江戸を発った。
合戦の当日、徳川秀忠は信州上田にあり、その後、家康は関ヶ原の勝利の後、草津に在陣していた所に
秀忠は着陣した。そこでは井伊・本多の部隊を始めとして、関ヶ原の合戦で負傷し、甲冑指物などを
損じた者達が多く居た中、秀忠の軍勢は皆見事な軍装束であったため、それが却って見苦しく見えたと
言い伝えられている。

秀忠の着陣を知った家康は機嫌を悪くし、対面を許さなかった。
これに対し、秀忠と伴に着陣した榊原康政は家康の御前に出ると、一気呵成に畳み掛けて申し上げた

「この度、中納言様(秀忠)が御着陣が遅い故に御対面なされないというのは、実に御情け無い義であると
存じます。

武辺の事において、他人との間であれば『出し抜き』と申す事もございます。ですが父子の間で
出し抜きをされ、その上御勘当までなさるとは、実に情け無い。武道の義について、中納言様には
もはや御廃りに成ってしまいましたぞ。

そもそも上様がこのように合戦をされたのは、御子孫の為であるはずです。なのにその御子様に
自ら武道の疵をお付けなさるとは、これ以降、御家もその武道も、衰える成り行きと成ってしまうでしょう。
誠に、御思慮無き義でございます!」

これを聞いた家康は殊の外不機嫌となり、
「それは式部(康政)の逆公事(訴えられるべき相手から,訴えるべき者が逆に訴えられること)と
言うものではないか!一体いつ私が出し抜きをしたというのか。その理由を申し述べよ。
申し述べられなければその分にては相成るまじ!」

そう怒ったが、康政は少しも恐れず
「さればその事についてですが、よくよくお聞きくださるように。
九月一日に江戸を御出立なされたのであれば、その知らせは前日には中納言様に送られたことでしょう。
ところがその知らせが我々に届いたのは、ようやく九日になってでした。そこから昼夜急ぎ向かいましたが、
木曽川に出水があり途中も差し支えたため、この様に間に合わなかったのです。
これは出し抜きではないというのですか!?」

家康はこれを聞くと
「何を出鱈目を申しておる!?私が一日に江戸を出立するという事は、その前日に伝えるよう飛脚に申し付けた。
であるから二日以内には届いているはずである!」

「いいえ、その飛脚が到着したのは九日であること、紛れもありません。その使いの者にどうぞお尋ねください!」

これに家康は即刻詮議をし、使いの者は家康の出立の前日に江戸を出たものの、途中の川で洪水が起こっており
道を通ることが出来ず、そのためようやく九日になって到着したことを申し上げた。
ここで康政は申し上げた

「そういった訳があったのに、ご究明もなさらず中納言様の落ち度とのみ思われ御勘当なされるというのは、
近頃にない御思慮無き事です!」

これに家康は非常に困惑し、「なるほど、そういうことなら尤もである。」と、康政に向かって
謝罪した。そして今晩、夜になってから秀忠と対面したいので、参られるよう申してほしいと
仰せに成った。
こうしてその夜、対面がなされた。その席では父子とも非常に機嫌よく談笑した。
(明良洪範)

榊原康政、秀忠の遅参を弁明するというお話




662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 07:45:59.23 ID:xC4xsz6Q
使いの者に嘘を言わせたのか

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 08:18:18.57 ID:PARFqk+2
そして次は早すぎると怒鳴るんだろ?

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 16:40:59.11 ID:XEhV0af4
裏で口合わせしたのかな?面倒くさいな

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/23(月) 18:51:38.04 ID:Tx+sPy36
秀忠の部隊に対し連絡が悪天候で使者が遅れた事が、関ヶ原への遅参と成ったというのは、現代は史実と考えられている。
つまりこの話が一番史実に近いと考えられる。

榊原康政「腸が腐ってやがて死にます」

2014年01月20日 19:02

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/19(日) 21:04:04.55 ID:dV2qOaNU
俗に伝わることに、忠勝・康政は家康公から賞功に貰う土地が常に少なく、
また家康公が一国を与えるという約束を破ったために憤っていた。

そのため、康政の病中に家康公から見舞いの使者が来たときは
布団から出ずに「腸が腐ってやがて死にますとお伝えしろ」と言い、
秀忠公からの使者には、布団から出て礼服を着て陳謝した。


『武家事紀』より、有名な康政の「腸が腐って死ぬ」と言う話。
ちなみにこれを本多正信と結びつけたのは隆慶一郎だそうです。




342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/19(日) 23:59:15.17 ID:UnU8qmT2
榊原康政…館林10万石
本多忠勝…大多喜→桑名10万石
かぁ、なかなか争奪戦の舞台になった場所だし、下手な一国与えられるよりよっぽど信頼されてるよな

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 00:27:43.52 ID:8sz4NDNR
信頼されているとしても、
名誉では腹は膨れないからな…。
というか、どちらかと言うと約束を反故にされるという点の方じゃないかな。

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 00:43:04.77 ID:UQ1/Gv4L
そもそもそんな約束自体が創作だしなぁ

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 02:42:52.46 ID:vgKQnmXz
家康はケチで有名だし三河時代に譜代家臣には苦労が絶えなかったからこれらの仕打ちは当然でしょ
大身の大名にしたら反逆してくるからな

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 07:33:55.27 ID:v8M8ol/E
>>345
> 家康はケチで有名
これがまず嘘なんだよなあ…

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 14:46:37.08 ID:WV5UkCAO
一騎でも喧嘩しかねないのが三河武士かと・・・ケチならまだマシじゃね?

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 18:09:18.52 ID:d+373OnL
>>341
隆慶一郎の本だと思ったら峰隆一郎
そんな時代が俺にもありました

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/20(月) 20:42:19.63 ID:DpEh9r12
>>348
全然作風違うし、無駄にエッチでグロいなあと思いました
あと、作品数は見習えばいいなとも思いました

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 01:47:52.06 ID:MVuGoiUp
>>348
浅井長政と浅野長政みたいだな

榊原康政「中でも深いのは溝口殿である」

2013年11月30日 18:54

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 15:50:11.05 ID:YSnA27A7
溝口外記は禄五千石で秀吉の使番である。ある時、彼は榊原康政と同座した。
溝口は直参であるために、座上について甚だ驕る様子があった。

康政は十万石を領するといえども、末席より礼敬した。溝口は綿帽子を身に着け、
「我は病気なり(だから防寒のために綿帽子を身に着けている)」と言った。
康政は常に彼の無礼を憎んだので、こう言った。

康政「各々方は秀吉公の恩を深く蒙っている。中でも深いのは溝口殿である」

座の人々「誰もが恩を蒙っているのに、溝口殿一人をお指しになるのは理由があるのですか?」

康政「私は家康の家臣だが、溝口殿の如き人を扶持して当然である(自分はそれだけの大禄だ)。
それに戦功を論じれば、溝口殿は我が片手にも及ばれまい。にもかかわらず、いま上座して傍若無人の体
であるのは、ひとえに秀吉の威を借りてのことだ。ならば、その恩はとりわけて深いのではないかな?」

これには返答する者もなかった。

――『武将感状記』




930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 21:32:12.46 ID:TQUJ+M7d
>>924
榊原康政の挑発皮肉、ある意味すがすがしいものがあるな
でも康政が10万石を領したのも秀吉のおかげなんだけどね

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/01(日) 03:27:30.64 ID:yz93w+dv
>>930
溝口はそのときの仕返しをしてたのかもしれない

榊原康政、堀川城攻め

2012年12月29日 19:55

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/29(土) 17:41:14.94 ID:2edVXPOQ
永禄十一年三月、徳川家は遠州の城々を攻め取らんと尾藤彦四郎らが
籠る堀川の城を攻めた。先陣は松平信一、榊原康政が務める。

康政は配下に向かい「私は若年でありながらこのような寵任を蒙り一隊の
主将となった。その上、御諱の字さえ賜り御恩の深高なること山海にも
比し難い。明日の戦はかならず一番乗りを遂げて盛意に報いるぞ!」
と宣言した。

その日、康政は早朝より紺地に無の字の指物をさし、笹切という鎌槍を
掲げて一番に城へ攻め入り、散々戦って二ヶ所の深手を負った。
そこで家人らが康政を肩に負ってなおも進み、遂に城を乗っ取った。

その後、康政の傷を見た徳川家康は「この深手ではもう助からない」と思い、
康政に「後事に思うことあらば、つつまず申せ」と言った。康政は畏まって
「この度、配下の伊奈、中島の両人の忠戦は衆人よりも勝れておりました。
ですから両人に御恩賞をお与えください。この外に思い残すことはありません」
と申した。家康はすぐに二人を召し出して感状を授けた。

ところが後に康政は思いもよらず回復を遂げたので、家康は大層喜んで
様々な慰労の言葉をかけたのだという。

――『徳川実紀(武徳編年集成、家譜)』





883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/29(土) 18:39:37.75 ID:vbEgc1jm
遺言のつもりで何か言い残した後に回復するって…あー照れくさいわぁw

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/29(土) 18:59:11.40 ID:nGqfpWiH
日根野さんは、切腹した後に身辺整理だからその点きちんとしてるな

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/29(土) 23:03:00.33 ID:9Lcwdn0n
堀川城って撫で斬りにされた城だよな

果たして榊原康政は

2012年10月28日 19:20

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/28(日) 12:47:45.50 ID:/qWygdPl

平岩親吉の弟は名を平右衛門といった。ある時、彼は榊原康政
口論になり、少し傷を負ったところを駆け付けた傍の者に喧嘩を止められた。

この時の親吉は宿老で、康政は若く小身であった。喧嘩の一件を聞いた
親吉は「康政は今は小身だが、才智勇敢にして上の御用に立つであろう
人傑だ。我が弟は人に斬られる程度の者ゆえ、主君の御用には立たずに
禄を費やす者である」と言って、

弟は武道を止めさせて押し込め、康政はしきりに執り成して昇進させた。
果たして康政は天下の英傑と称美され、人は皆親吉の私心のなさに感服した。

――『名将言行録』





榊原康政と井伊直政

2012年09月18日 20:26

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 23:00:29.29 ID:Pg1WQe+C
レベルが足りないので3回に分けますorz

徳川四天王の榊原康政井伊直政の関係は初めは良好なものでは無かった。
武田家の遺臣が康政よりも13歳も年下で、まだ元服を終えたばかりの直政の付属部隊になった時は
「若造のくせに。こうなったら万千代と刺し違えてくれるわ」
と言い放ち、徳川四天王の長者である酒井忠次に叱責される有り様であった。

501 名前:500の続き[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 23:05:59.55 ID:Pg1WQe+C
家康の為に心血を注いで働く直政を見るにつけ、康政も己を恥じて認めるようにる。
後に康政と直政は深い信頼関係で結ばれた間柄となった。
直政が先陣すると康政は安心し、康政が従軍するとあれば直政が安堵した。
「俺が直政より先立てば必ず直政は病気になり、直政が先立てば俺もすぐに死んでしまうだろう
そして家康様のお心を知るのは俺と直政だけだ」
康政は常々語っていたという。

502 名前:501の続き[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 23:11:02.62 ID:Pg1WQe+C
関ヶ原合戦明け、本多忠勝を交えた徳川三傑の飲み会が開かれた。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5007.html
その席で関ヶ原本戦に間に合わなくて凹んでいた康政を真摯に励ます直政の姿があった。
関ヶ原から1年半後に直政が没すると、井伊家の行く末に康政が心を砕き何くれとなく世話を焼いている。
そして直政の死から4年後、康政もその生を静かに閉じた。




503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 23:27:16.00 ID:hP+Fqc6y
そう言えば地味に康政さんって苦労人だよな

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 23:43:55.42 ID:XlIBp+gt
安藤さんが涙目になる位いい話よの

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/17(月) 23:52:43.41 ID:motsuw+B
サド守が遠くからニヤニヤしつつ見守ってそう

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 00:10:50.90 ID:e0Z3PZXP
なるほど井伊美術館のホームページに
直政没後の井伊家を親身に守ってやろうとする康政からの書状があるね

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 00:45:01.31 ID:JIzIkwda
>>504
帯刀さんあんたは出てくんなw

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 00:56:47.27 ID:RSgyjJ8e
井伊家が彦根に居続けたのに榊原家は流浪の大名だったのは何でだ?

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 05:03:33.33 ID:4PyLIHdj
榊原さんは四天王の中ではどうにも地味だけど三河者らしい人物だよね
俺は好きだなぁ

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 07:38:44.21 ID:Vz2pnaMF
榊原は照久の権現様膝枕のインパクトが強すぎてw

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 08:13:06.71 ID:9cLo9fyK
>>508
普通なら改易級のことを代々の藩主がやらかしたが、「榊原家は別格だから」許してもらえたけど、
代わりに転封になった。

あと、井伊家は京都の監視役として動かせない。

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 08:17:17.78 ID:jNf2tLkU
>>508
栄転やら当主幼少とか乱行とか

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 08:58:39.96 ID:O72/6u+N
そういえば安藤帯刀も直政亡き後の井伊の面倒をみていたな
息子だかが井伊家の家老になったんじゃなかったか

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/18(火) 11:01:44.76 ID:JIzIkwda
>>515
安藤重勝だっけか
彦根藩士で木村重成討ち取ったと言われている人だな

二の手はこのように

2012年09月03日 20:51

331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 20:24:47.32 ID:EH9UdyJK
姉川の戦いにおいて、徳川軍では先陣が酒井忠次、二陣が榊原康政であった。

先ず酒井の先陣が、小笠原與八郎、菅沼新八郎、奥平といった寄騎とともに川を渡ったが、岸が高く
上がり兼ねていた所、榊原の部隊が真一文字に進んできて、上がり難き岸も「遮二無二押し上げよ!!」
そうして、「エイトウエイトウ」の掛け声とともに無理矢理に押し上がり、酒井の部隊の前に進もうとした。

これを見た酒井の部隊の兵たち「榊原の部隊に遅れては無念である!」と競いあうように岸に推し上がって進み、
そのため合戦にも利を得たという。

合戦後徳川家康

「康政の二の手のやりかたは今後の手本となるべきものだ!二の手の行動はこのようにしたいものだ。」と、
大いに激賞したとのことである。
(常山紀談)




334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 21:36:15.62 ID:bysBIx0B
>>331
榊原康政はここでも先鋒を追い越してるね
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4701.html

榊原の韋駄天走りっていうけど、榊原隊の足ってそんなに速かったのかな?
川渡るのも速いってことは、足腰が強いのか?


335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 21:54:15.06 ID:yjIr/Tc6
>>334

川を渡っている先鋒の頭やら肩やらを橋代わりに、走っていったんじゃね?

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 22:58:30.30 ID:+VjcDlhZ
>>335
因幡の白うさぎかよっw

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 23:09:27.13 ID:i0Di4b3O
怒った先鋒に鎧を剥かれて更に速く!

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/03(月) 19:57:49.22 ID:y3CmCXPe
もし徳川が小牧で敗北して家康死亡の場合
なんでも出来る康政さんがいの一番に最高禄で再就職が決まりそうだ
ラスボスが曹操が敵の檄文書きを許した故事に倣った場合の制限付で

榊原康政、噂で家康を守る

2011年08月07日 23:01

10 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/08/06(土) 22:17:13.33 ID:vHAMXvP6
豊臣秀吉の死後、政権奪取をもくろむ徳川家康と豊臣家臣の石田三成の対立が激化する中、
関東地方から上洛の途上だった榊原康政は、伏見城下にいた家康を三成が襲撃を計画している事を知り、
昼夜を問わない行軍で近江国瀬田までたどり着いた。そこで家康がまだ無事である事を知ると、
関所を設けて3日間京への通行を禁じた。その理由は足止めされた旅人と共に進軍し、敵に大
軍だと思わせる事が目的だった。
さらに、京に入った康政は蔵から多額の資金を取り出して、兵達に

「徳川軍6万人分の兵糧が必要だ。」

と言いふらしながら京周辺の商店の食料を買い占める様に指示した。結果、市中には

「徳川軍は数十万の軍勢で上洛している。」

という噂が流れ、三成は襲撃を中止し、康政もその知略を称えられたと言う。
榊原康政、噂で家康を守ったいい話。




榊原康政、松平信康に

2011年07月24日 23:04

726 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/23(土) 23:41:01.64 ID:szxML2ca
榊原康政は家康の長男である松平信康に、素行の悪さを正すようにたびたび忠告していたが、
逆に信康に恨みを持たれていた。ある日、康政の諫言に激怒した信康は、近くにあった弓を手に取り
矢を放とうとした。しかし康政はこれに全く動じる事もなく、

「信康様の事を思って申し上げている者を殺すような事があれば、お父上の怒りは計り知れず、
 結果として貴方の為になりませんぞ。」

と懇々と諭し、信康に冷静さを取り戻させると共に、反省を促したのだった。
「武功夜話」より。




榊原康政が傷ついた味方一人を抱えて

2011年06月03日 00:01

878 名前:丁ο児 ◆Kd2TSsZIFU11 [sage] 投稿日:2011/06/02(木) 19:04:06.34 ID:An5i4iLN
榊原康政が傷ついた味方一人を抱えて退却した。
家康がその勇気を褒めた。
康政は決まり悪そうに
(本当は怖かったから、何度も打ち捨てて逃げようと思った。
しかし臆病者の謗りを受けるのが嫌だったから仕方なく助けた。)
という意味の事を述べた。
家康はまたその正直さを褒めた。



現代社会でもありますね。




879 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/06/02(木) 19:53:36.31 ID:+5Bp6nkS
それでも生きて帰って来る康正すげーw

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/02(木) 20:48:35.84 ID:iW4gbqit
>>878
登場人物が違うがこれと同じ類の話だな

渡辺半蔵、三方原の撤退にて
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4991.html

今気が付いたがまとめサイトって5000も逸話数あったのかw

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/02(木) 20:57:12.21 ID:H3WXngpv
>>880
既視感があったんでまとめブログで探したが見つからなかった
自分の勘違いかと思ったら槍半蔵の逸話だったか

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/03(金) 00:14:42.51 ID:G69dANCr
とくにゃんはこういう正直者を褒めるケースが多いね

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/03(金) 00:23:09.75 ID:LpO8x5Od
意図的にそういう家風を創ったんだろうね。
いい事でも悪いことでも正直に言ってもらわないと、君主として正しい判断が出来ないしね。

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/03(金) 06:05:57.05 ID:zI84Lyif
>>883
武功なんて何にもないと言った義久とかにもか

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/03(金) 08:31:17.75 ID:Tex3vIp6
するふなどいうものを、われもしてみむとして するなり

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/03(金) 12:57:17.40 ID:d1KNbqzO
>>885
他家とは腹の探り合い。
三河武士とは腹の見せ合い。

889 名前: 忍法帖【Lv=5,xxxP】 !nanjya![sage] 投稿日:2011/06/03(金) 14:36:39.02 ID:skkq6FQm
>>888
「腹の中身」の見せ合いとなっ!

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/03(金) 14:43:09.37 ID:3zERUm9D
あながち間違っちゃいない

榊原康政の十万石ゲット

2011年04月18日 00:05

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 23:41:47.07 ID:X9e4fnlv
>>8http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5329.html

そんな部下にはケチな家康だが、榊原康政は関東入部に際して五千石が十万石に化けた。コレについては



小牧・長久手の戦いのおり、康政は戦場のあちこちにこんな高札をバラまいた。そこにはこう書かれていたという。

「それ、筑前は野人の子。馬前の従卒。君恩忘れた悪逆の徒なり」

秀吉は激怒し、康政の首に十万石の褒賞をかけた。

豊徳和解後、秀吉は康政を許し、家康の関東入部に当たって康政の扱いについては特に勧めて
館林城主とさせた、とされる。むろん、石高は十万石である。

悪口のおかげで、しかも罵った当の本人のおかげで十万石ゲットした榊原さんのいい話




25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 09:25:03.59 ID:tF1cXnKq
>>20
しかも、康政さんすごい達筆だったんだっけ?

意外な才能?どこで習ったんだろう。

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 12:51:37.30 ID:IUKeP+Rq

榊原家は酒井政尚(酒井の分家だな)に仕えるという陪臣で、大久保や本多といった譜代名門に比べ相当格落ちしたし、
ましてや井伊とは比較にすらならん存在。
榊原の十万石はまさに康政ひとりの才覚で切り取ったものだよな。

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 13:11:32.37 ID:sKph8Mtb
酒井忠尚だな。分家では無く、甥(とされる)の酒井忠次が継承する以前の左衛門尉家惣領っぽい
のだが、三河一向一揆で一揆側に付いて敗れた後は消息不明になってしまったので不明瞭。

榊原康政が榊原氏躍進の立役者なのはその通りだと思う。

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 18:39:55.93 ID:IUKeP+Rq
>>28

忠尚だったか。指摘サンクス。

三河衆はわりと朋輩の上下関係に敏感だから、普通なら榊原康政は最終的にギリギリ大名になる二万石クラスで終わった可能性高いよね。

悪口書いたおかげで大儲けw

三河衆の中じゃ出世頭なんじゃないかな?

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 19:43:38.57 ID:FaY+C2qy
実際は秀吉の肝いりだけではないんだけどね

加藤清正と榊原康政の交誼

2010年10月29日 00:07

978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 01:05:45 ID:N/4HeqR6
一応まとめ検索してみたけど、既出だったらすまん。

文禄の役の折、加藤清正は渡海前に榊原康政のもとを訪れ、
「異国の戦にあっても、式部大輔殿の武勇にあやかり手柄を上げたいと存じます。
 ぜひ、あなたの馬印をお借りできないでしょうか」
こんなことを頼んだ。

清正と康政の交誼がいつ頃からが始まりか、よくわからないが
秀吉の関東征伐の折には、清正と康政は情勢を知らせる文を送りあったり、
また清正からは帷子を贈られるなど、誼を通じ合った様子が見られる。
康政は清正の頼みを快く了承し、康政の金の桔梗笠の馬印は
清正とともに海を渡り、彼の活躍を見届けたのである。
慶長の役の後帰国した清正は、馬印のお礼に朝鮮で手に入れた五倫書を康政に贈ったという。
後の話になるが、清正の娘古屋は、榊原家を継いだ康政の三男、康勝に嫁いでいる。

以上、地味に友好を深めていた家臣たちのちょっとハートフルな話。
それにしても康政って、大谷吉継といいなんやかんや微妙に顔が広いなw




979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 02:21:34 ID:bZNih64W
馬印って生前から貸し出せるもんなのか
知らんかった

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 07:22:49 ID:b2DwIzeL
予備もあったんじゃね

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 09:18:25 ID:c/tKNVVP
>>978
榊原っていい意味で剛直ってイメージな人だしね
清廉潔白と言うか。


982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 09:43:21 ID:KCVK1Lbh
武勇に長けた人や義を重んじる人は
敵味方関係なくお互いを尊重しあってる感じがいいな。

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/28(木) 11:00:24 ID:GVcBUbk6
敵味方って考え方自体曖昧な気がする。

康政、秀忠を庇う

2010年09月12日 00:01

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/11(土) 12:09:36 ID:r6UHIq92
康政、秀忠を庇う

慶長五年九月十五日、関ヶ原において東西両軍がいわゆる<天下分け目の戦い>を繰り広げたわけであるが、秀忠率いる中山道を経由してきた軍勢は、ついに間に合わなかった。
上田城で真田親子に足止めされ、それに時間を空費したためである。

秀忠が美濃赤坂に到着したのが十九日、家康本隊に近江草津で追いついたのが翌二十日であった。
しかし家康の本陣が大津に移ったと聞き、さらに大津まで走って面会を乞うたが、家康の立腹は甚だしく、
三日間、対面を許さなかった。
このとき死を賭して秀忠の弁明をしたのが、秀忠と共に中山道を進んで来た康政であった。
単身家康を訪れた康政は、まず関ヶ原遅参の全責任を自分に引きかぶり、同行した本多正信らの落度には
一切触れずに、家康からの出陣の連絡が遅すぎたことを陳情した。
「そんなことはない」と家康は答えて、八月二十九日に江戸を出発させた使番に「九月一日、
家康は江戸を発つから、秀忠も急ぎ美濃で来会せよ」と伝えさせたことを主張した。
そこで康政はその使番が七日に小諸に到着したことを告げ、「そのため秀忠様も驚き、日本第一の難所と言われる
木曽の細道を、大雨の中、大軍をひきいて一日に十五、六里も御馬を進めたのです」と説明した。
驚いた家康がその使番に確認すると、長雨で河川が氾濫し、遅参したことが分かった。
次に康政は、親子であれば色々と子供に教訓を与えるのは当然だし、その時に腹を立ててしまうこともあるであろうが、
既にに立派に成人し、将来は天下の政治も執ろうという秀忠様を、弓矢の道においては未熟者だと御父君も
不満に思われたなどと、 他人の侮りを受ける事があっては秀忠様だけでなく大殿ご自身の恥辱にもなりますれば、
なにとぞその辺までご考慮いただけないのは、
残念でなりませぬと、涙を流して諫めたので、家康もようやく許し、二十五日に伏見で、秀忠に対面し戦功をねぎらった。




978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/11(土) 12:24:21 ID:KguR0LMZ
遅参した理由の最大の原因は軍資金不足があるんだよな。
正信が決定的な場面にいなかった理由はそれだし。

1:初陣の総大将 2:軍資金不足で足止め食らってる 3:ストッパー役の不在 4:真田に因縁がある武将 
5:相手は真田

実は普通に無理ゲー。康政さんが徳川無しからぬ振る舞いしない限り泥沼から抜け出せられない状態。
康政にしてみれば、もう一人のストッパー役果たせなくて責任引っかぶるという気持ちにはなるわな。

中仙道方面の家康の扱いが、それなりの豪華メンバーそろえたわりには、実は粗略だった気がするわな。
実は徳川軍、実質的な遠距離遠征は初めてなんじゃね?