名人の芸其練気別段の事

2016年09月06日 18:10

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/06(火) 14:34:51.15 ID:FDTUj9r9
名人の芸其練気別段の事

 小野流一刀の始祖で神子上典膳というのは、御当家へ召し出されて小野次郎右衛門と名乗った。
その弟は小野典膳忠也と名乗り、諸国遍歴して芸州広島で没した。
これから芸州では忠也流といって、その忠也の弟子が多く、国主も尊崇して今でもその祭祀が絶えていない。

 十人衆という、忠也流を修行する者の中にはこの祭祀の事等を取り扱う者達がいて、
その十人の内の間宮五郎兵衛というものは、とりわけてその芸に長じていた。
同輩家中の師範もしていて、そのころの国主但馬守(浅野長晟)も彼に武剣を学ばれていた。
しかし五郎兵衛は不幸にも中年で卒去したので、せがれの市左衛門は十六歳で跡式を相続した。
但馬守はすでに五郎兵衛の免許の弟子であったので、そのせがれの市左衛門へ教わったことを段々と伝授された。
市左衛門の業も抜群となり免状を渡されようとした時、市左衛門は退いて断ると述べた。

「どうしてそう思い立ったのか?」
と尋ねられると、

「一体親の義ですが、流儀の心得を五郎兵衛は甚だ未熟でして、いちいちその修行が間違っていました。
そのため五郎兵衛の指導のため、国中の一刀流はいずれも下手でしたので、五郎兵衛が師範としていた御家中の者はいずれも稽古が未練でございます。」

と申すと、但馬守はもってのほかだと憤り、

「汝の父の教え方がよろしくないと申すのも無礼である。殊にその方には予が太刀筋を教えたのだ。
それをよろしくないと申すのは、父を、いや主人を嘲るに相当し、いずれにしても不届きである。
理由があるのか!」

と尋ねられると、

「武芸の事を悪いと思っても、父のなされた事であるので言わないでおくのは不忠である。
それがしが悪いと存じましたので、御疑わますのなら同衆の手前で御立合をされるべし。」

と答えた。
但馬守はいよいよ憤怒されて、そのあまり

「小倅とて容赦は無い。立会いせよ!」

とかの十人の内に勝れたる同流の者を選んで、勝負を申し付けられた。
その十人は申すに及ばず、一家中で心得有る者どもが立ち合ったが、一人も市左衛門に勝ったものはなかった。
但馬守も自身で立ち合われたがこれもまた負けられたので、但州は甚だ尊重された。

「親を誹ったのは当座の当座を申し付ける。忠也流の稽古は万事市左衛門に指図させるように」

と申し付けられ、家中に名誉の者が出てきたと殊の外であるとのことであった。

惜しいかな、市左衛門は三十歳にならずして卒去し、その子が跡を相続したという。
但馬守はひどく惜しんだそうだ。
(耳袋)



157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/06(火) 16:33:50.98 ID:QroxL7fd
トントン但馬だったか
血は残すべきでないな

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大阪方に止まれと言っても

2014年11月25日 19:56

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 20:43:23.71 ID:y+GediFy
大阪夏の陣の緒戦、樫井の戦いで、浅野長晟の軍勢が大阪方を撃退すると、当時紀州では一揆が起こり
諸所に放火し、その上押し寄せてくるとの風聞があったが、浅野方が勝利すると一揆共はたちまち鎮まり、
放火も止んだ。これは、敗軍すれば落ち武者を剥ぎ取ろうという企みが、一揆の側にあったためだという。

この合戦の経過を仔細に記した報告書を、泉州加田浦より早馬にて二条城に注進し、
浅野但馬守(長晟)は山中まで帰陣しようとしたが、「敵の大軍がもし追い打ちをかけてくれば
一大事であるので、誰かここに留め置きたい。」と言ったが、自分からここに残ると言い出す者は
一人もなかった。

しかしここで熊澤兵庫が進み出て、「私がここに留まります!」と申し上げた。
但馬守は大いに喜び、「汝がここに留まるのならば心安い。」と帰陣の支度を始めた所、
物見より、大阪方の軍勢が北に向かって撤退している旨が報告された。
これに追撃はなくなったと浅野方の者達は一同大いに喜んだが、一人熊澤兵庫は残念がり、

「大阪方に止まれと言っても栓もない。」

と、力を落としたそうである。

(明良洪範)




890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 03:56:56.66 ID:B93gk4uE
泉州加田浦ってどこよ
紀州の加太か

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 06:58:39.32 ID:wneVrhV1
>>890
岡田浦の打ち間違えかも
樫井から近いし

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/25(火) 16:20:51.41 ID:DsL9mEjk
加田浦でググったら紀州加田浦ってでるな。
間違えたんだろ。

病身者がかかる振る舞いいたし候

2014年09月26日 18:50

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 19:41:44.20 ID:HBI3MB18
永田治兵衛は浅野家の家臣であったが、多病の質で、「あいつは何の役立つのか」と、
家中から陰口を言われていた。
これに対し永田は、

「下郎であれば健やかでなければ役に立ち難いだろう。だが武士は病身であっても義勇さえ有れば
役に立つのだ。」

そう語った。この事を聞いた者達は、「永田の言葉は、世に言う負け惜しみだ。」と嘲った。

やがて大阪夏の陣、泉州樫井の合戦において、永田は淡輪六郎兵衛の首を取り陣中に帰ると、
彼の陰口をしていた者達に言った

「病身者がかかる振る舞いいたし候。無病の人たちはどうして功名無きか!?」

これに答える者は一人もいなかった。

(明良洪範)




369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 19:55:23.56 ID:NHQhAPWH
浅野家(含む一門)家中で活躍する者
病身者の永田さん、茶坊主の上田さん、さて次は?

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 20:07:39.05 ID:R4D+AFtJ
大石内蔵助

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 16:07:17.20 ID:Lv7rbv73
まあ答えられないからって反省したり考えを改めたりしたわけじゃないんですけどね

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 17:22:35.87 ID:71cO/wZg
それはそれでダサいな

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/26(金) 19:37:34.02 ID:zKaBtR1k
生きてる価値ないよね
もう死んでるけど

浅野長晟は碁石を

2013年09月03日 20:02

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/03(火) 18:13:10.59 ID:ozVi0goc
浅野長晟は、幼い時より豊臣秀吉の側に仕えた。
ある日、秀吉が徳川家康と囲碁をする時、長晟は碁石を温めて献上した。

家康はその気の利いている事を褒め称え、長晟が成人した後、
常にその人となりを称誉していた。

――『寛政重修諸家譜』




34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/03(火) 19:05:16.62 ID:vp2wnvDa
幽斎様が冷やし碁盤はじめました

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/04(水) 12:12:10.81 ID:iO7OvFGN
碁石を尻に敷いて暖めていたのか

豊臣家と紀州浅野家とのやり取り

2013年06月23日 19:04

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/22(土) 21:48:10.40 ID:enzeKdNq
元和元年(1615)4月15日、大阪夏の陣が始まろうとしている頃である。
大阪の豊臣家より使いの吉村兵左衛門が紀州浅野家に下り、家老である浅野右衛門太夫、
浅野左衛門佐、亀田大隅守高綱に豊臣家の意向を仰せ下した。その内容は

『但馬守殿(浅野長晟)に対しては、秀頼公の元を遁れるようなことがなかったので、
疎意に思われるようなことが無かったのに、去年の冬、大阪表に幕府方として出陣してきたことは
全く意外に思われました。

故太閤殿下のよしみを忘れられていないのであれば、我らのお味方として頼りたいと思し召しに
なっております。

但馬守殿の家老であるあなた方3人にも、頼りたいと思し召しになられています。
もし我らにご同心なされるなら、但馬守殿には千枚分銅金(大判千枚分の金)を3つ、
3人の家老たちには1つづつ下されます。
また3人の家老には、秀頼の旗本の騎馬の武士30騎まで預け、直に召し使うことを認めます。』

という内容であった。3人の家老は亀田大隅の所に集まり相談した。

「仰せ下さった趣についてであるが、我らが主人である但馬守様は、関東の御取り立てによって
紀州の主と成ったのであるから、大阪に一味するなど考えられもしないことだ。
そうである以上これは、但馬守様に申し上げるにも及ばぬことである。」

こう結論し、大阪への返答には
『仰せ下さった上意について、畏まり存じ奉ります。
但馬守については、関東の芳恩を蒙っており、仰せ下された趣はその意を得ません。
ですので、御使者をお返しいたします。』

こう吉村兵左衛門に申しわたし、彼を帰らせた。
すると同月20日に、吉村兵左衛門が又もや罷り越し、今度は大野修理(治長)からの承りであると、
3人の家老に書状が下された。大野の書状の内容には

『自分達は兎に角、但馬守殿を味方として頼りたいと考えている。もし気持ちを変えて頂けるのなら、
今の紀州の領地に、大和国を添えて遣わすであろう。
浅野左衛門佐には摂津国を、浅野右衛門太夫には和泉国を、亀田大隅守には河内国を与えよう。』

これに3人は再び集まって相談し、一同に言ったことは
「どのように仰せ下されようとも大阪方に御味方するなど出来るわけがない。
しかし御使が2度にまで及んだ以上、但馬守様にこの事を申し上げ、お返事をして頂かなければなるまい。」

そう考え3人は、浅野長晟にこの事を申し上げた。長晟は聞いて
「お前たち3人はどう思うか」と尋ねた。これに浅野左衛門佐が答えて

「先々代の弾正様(長政)、先代の紀伊守様(幸長)は確かに、故太閤殿下の御厚恩を受けられました。
しかし但馬守様は家康公の御恩を蒙り、今の身代があるのです。そうである以上、我々は並びなき
関東の御味方であると、私は存じ奉っております。」
と申し上げた。長晟は再び「残る両人はどう思うか?」と尋ねた。
これに右衛門太夫も大隅も、「全く左衛門佐の申し上げたとおりです。」と答えた。

長晟は「では、そのように返答するように。」と仰せ付け、3人は『どうあっても御味方することは出来ない。』
と返事をし、吉村を返した。

こういう所に京の板倉伊賀守殿より、浅野長晟に飛脚が到来し、
『日本の大名衆は何れも領国を出立し大阪表へと出陣しているのに、但馬守殿はどうして遅参しているのか』
と申し越してきたため、長晟は「急ぎ出立する!」と、陣触れをされた。
(龜田大隅守高綱泉州表合戰覺書)

大阪夏の陣直前の、豊臣家と紀州浅野家とのやり取りである。





財貨あれば・悪い話

2009年04月01日 00:03

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/31(火) 22:21:48 ID:Lkl0DffM
紀州に浅野長晟がいた頃の事。

地侍に何某と言う、かつて功名の沙汰のあったものがいて、今は山中に住んでいた。
浅野家ではこの何某の武勇に期待し、扶持していたが、この男、いつしか武技の鍛錬を忘れ、
蓄財に励むようになった。他人にそれを指摘されると

「財貨あればいつでも、諸道具、人馬ともに集められるわ!」と、聞く耳を持たなかった。

さて、大阪の陣が起こる。この男公言していたように、財貨を散じて人馬、諸道具を求め、
ゆゆしい装いで出発した。ところか、道を進むにつれ一人減り二人減り、所詮金で集めた者達ゆえか、
戦場である大阪に着く頃には全員逐電し、残ったのは自分とその馬だけと言う有様になった。

何某、これでは働きも出来ず、かといって紀州に帰るのも面目ないと、そのまま
行方不明になったそうである。

武士たるもの、普段から武芸を鍛錬し武備を備えていないと、いざ事あったときに
役に立たないのですよ。というお話。




351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/01(水) 08:22:01 ID:nCoV0ppA
>>347
前田利家さんが耳が痛そうな顔しています

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/01(水) 15:13:03 ID:BhBnApUf
>351
だから甥っ子が影武者なりって名乗ったり、氷風呂に入れたりして鍛え直したんだよ。感謝しなきゃ(棒