423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/20(金) 11:30:47.88 ID:dQahfqyj
小早川隆景公が分国を巡廻なさっていた際、高松城にも立ち寄られ、清水長左衛門(宗治)についていよいよ
信頼を深められ、備前岡山との境目を御預けになり、高松の城普請など仰せ付けになった、その他、備中備前の
境目の諸所に小城を吉田衆、三原衆のために置いた。このように大事の境目を預け置かれたのは、隆景公が
清水長左衛門の無二の覚悟を御覧になっての事であるが、長左衛門はさらに 隆景公が御安堵なされる為に、
息子の源三郎(後の美作)を人質として三原へ遣わしたのである。
その後、天正十年卯月(四月)中旬、備前岡山に羽柴筑前守(秀吉)が到着し、翌日、備中の宮内と申す所に
蜂須賀彦右衛門(正勝)、黒田官兵衛(孝高)が使いとして訪れ清水長左衛門に面会し、長左衛門に対し
織田信長公の御誓紙を以て、『備中国を与える、織田方の西国の先手と成るように。』と仰せ聞かせた、
この時、長左衛門はこう返答した
「辱き次第、冥加至極の御意であります。ではありますが、近年私は、毛利輝元、小早川隆景より備中境目の城を
預け置かれております。であるのに今、信長公の御意だと言われても、それをお受け申し上げるとお思いなのでしょうか?
その上、御意に従ったとしても、そのような卑怯者に一国を下し置かれるのは、信長公に対する以ての外の御無礼に
なるかと存じ奉ります。(其上随御意候テモカヨウノ比興者ニ御国ヲ被下置候ヘハ以来御無禮ニ罷成カト奉存候。)
この事、然るべく仰せ上げください。」
そう申し切ったのである。
これについては、信長公の御誓紙一通、羽柴筑前守殿の添状一通を相添え、輝元公、隆景公へ上記の趣を書状として
調えこれを上げ申した。現在も定めて御註書の中に有るかと思われる。
(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)
小早川隆景公が分国を巡廻なさっていた際、高松城にも立ち寄られ、清水長左衛門(宗治)についていよいよ
信頼を深められ、備前岡山との境目を御預けになり、高松の城普請など仰せ付けになった、その他、備中備前の
境目の諸所に小城を吉田衆、三原衆のために置いた。このように大事の境目を預け置かれたのは、隆景公が
清水長左衛門の無二の覚悟を御覧になっての事であるが、長左衛門はさらに 隆景公が御安堵なされる為に、
息子の源三郎(後の美作)を人質として三原へ遣わしたのである。
その後、天正十年卯月(四月)中旬、備前岡山に羽柴筑前守(秀吉)が到着し、翌日、備中の宮内と申す所に
蜂須賀彦右衛門(正勝)、黒田官兵衛(孝高)が使いとして訪れ清水長左衛門に面会し、長左衛門に対し
織田信長公の御誓紙を以て、『備中国を与える、織田方の西国の先手と成るように。』と仰せ聞かせた、
この時、長左衛門はこう返答した
「辱き次第、冥加至極の御意であります。ではありますが、近年私は、毛利輝元、小早川隆景より備中境目の城を
預け置かれております。であるのに今、信長公の御意だと言われても、それをお受け申し上げるとお思いなのでしょうか?
その上、御意に従ったとしても、そのような卑怯者に一国を下し置かれるのは、信長公に対する以ての外の御無礼に
なるかと存じ奉ります。(其上随御意候テモカヨウノ比興者ニ御国ヲ被下置候ヘハ以来御無禮ニ罷成カト奉存候。)
この事、然るべく仰せ上げください。」
そう申し切ったのである。
これについては、信長公の御誓紙一通、羽柴筑前守殿の添状一通を相添え、輝元公、隆景公へ上記の趣を書状として
調えこれを上げ申した。現在も定めて御註書の中に有るかと思われる。
(淸水長左衛門尉平宗治由來覺書)
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