笠井又八郎は蘇った

2013年07月19日 19:51

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/18(木) 20:53:39.77 ID:FkOVtbEo
備中国賀陽郡平山村の笠井又八郎は若いころ、清水宗治に仕え、非常に目をかけてもらっていたが、
天正10年(1582)、高松城籠城戦の末、宗治が切腹をすると、又八郎は在所に引き込み、帰農した。

又八郎は元々実直な人物で、友人たちも多かったが、慶長16年(1611)に病死した。

ところが死去して二七日(14日)過ぎると、蘇った。

墓所より大声が聞こえたため、村人たちが慌てて掘り返すと、以前と変わらぬ又八郎が現れた。
墓から出てきた彼が言うことには

「あちらで閻魔王に言われたのだが、『お前は今こちらに来るべき者ではないが、年来仏を
信心しているので、来世を見せよう。今後も信心堅固に、仏法を願い申すように。』
とのことであった。

そうしてこの世に帰ってきたのであるが、万人講を行なって、この郡の奥里鬼城に閻魔王堂を建立し、
朝夕念仏を勤めてほしい。

ここは郷境であり、年来争い多くあり、戦死した傍輩も数多ある。この死者たちが来世において
難儀の体をしていることを、彼らの家の子、家流の者達に伝えてほしい。
そしてこの郡の岩屋に毘沙門堂を建て、備前の八木山常慶に本尊を作らせるように。」

そう、夢うつつのように語った。

その後平山村法道寺に阿弥陀堂を建て、朝夕念仏を唱えて後生を願い、
また『往生仕候はば、末世子孫可為繁盛』と万人講を勧めた。

そうして上記の願いが成就すると、又相果てたとの事である。
(中國兵亂記)




727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/18(木) 21:08:23.54 ID:wMkXErXu
岡山の鬼城って最近再建されたところ?

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清水宗治が切腹するまで

2012年01月29日 21:58

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 16:15:37.70 ID:dV7cpYjB
天正10年(1582)6月

備中高松城で対峙する毛利輝元と羽柴秀吉であったが、秀吉は輝元の陣に使者を派遣し、
安国寺恵瓊を呼んで、和議についての話を始めさせた。

秀吉からの和議の条件は以下の通り

・伯耆の国は矢橋川を境界とする
・備中は河辺川を境界とする
・残りの中国筋は尽く毛利家の進退するものとする
清水宗治には切腹を仰せ付けられること

「この条件であれば信長公へ御和平は相整い、毛利の御家もつつがなく、秀吉も面目を立てることが
出来ます」

安国寺恵瓊はこの条件を持って毛利輝元に報告する。毛利の現状からすれば上々の
和議内容であろう。しかし輝元はこれに断固として反対した

「国分け(領土割譲)の事はともかく、当家にあれだけの忠義を尽くした清水に切腹を申し付けるなど、
そのようなことは出来ない!断じて罷りならん!」

安国寺は説得したものの、輝元は2度にわたってそう言い切った。
こうして状況は膠着した。ここに秀吉は密かに蜂須賀彦右衛門正勝、生駒雅楽頭親正を安国寺のもとに派遣し
内々にこう説得した

「毛利は現実を見るべきだ。近辺の国主はみな尽く秀吉になびいている。それらは全て証拠のあることである。
特に、小早川隆景殿が弟同然としていた上原元将さえ毛利と手切れをいたしましたぞ!
この現状では、この和平案を承諾するのが最善ではないか!」

安国寺、答える
「輝元様があれだけ言い切られた上は、これ以上説得した所で聞かれはしないだろう。」

それから安国寺は密かに高松城に入り、清水宗治に対面すると、これまでの和睦交渉の経緯を
ありのままに伝えた。
宗治は聞き終わると

「私の切腹の有無の事だけで和睦交渉が滞っているのですね。
毛利の御家の安否がどうなろうとも、拙者の事をお捨てにならないと決断された。
生々世々(生まれ変わり生き変わっても永遠に)、かたじけない儀であります。
このように扱って頂いたこと、家の面目、これに過ぎるものはありません。

こんな時は一命を投げ打ち、後代に名を残すことこそ武士の願うところであります。
この一命、片時も無駄に伸ばすつもりはありません。
しかし御両三殿(毛利輝元・吉川元春・小早川隆景)に申し上げても、私の切腹には賛同されないでしょう。
そうなれば秀吉との和平が整うこともありません。

安国寺殿、秀吉のもとに行き、清水は条件を承知した。御両三殿の御意に背いても切腹する。そう伝えて欲しい。
そして早々に和平のことを調え、この高松城に残る者たちは無事、毛利本陣に送り届けるようにし、
その上でこの事を御両三殿に披露してください。」

安国寺恵瓊は直ぐに秀吉のもとに向かい、この事を語った。
秀吉は感動し

「神妙無比である。清水の望むとおりにしよう」

と、清水宗治に伝えた。
こうして清水宗治は、6月4日、切腹することと決まった。

清水宗治が切腹するまでの過程である。
(萩藩閥閲録)




649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 18:35:56.38 ID:lzWD42wk
毛利家ってなんでこんなに家内の結束が固いんだろうな
清水だって毛利の中じゃ外様なのに

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 19:02:30.89 ID:zB0rRwcG
出典から分かるように大本営発表だから美談にしてるが・・・

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 20:13:27.85 ID:skFjOdns
まあこれ御両三殿がすぐに了承してたら高天神城落城後の武田みたいに
国人衆が歯が抜けるようにボロボロ織田に下ってあっという間に滅亡だからな

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 20:33:24.55 ID:bIApyMfZ
え?これ備中高松城攻めの話だぞ?
清水宗治が切腹する二日前に信長死んでるけど
そういうフォロー?

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 23:04:04.52 ID:J1U8VOXD
>>652
確か、明智から毛利への密使が間違えて羽柴の陣に入ってしまって
急いで撤退していく羽柴軍を不審に思った毛利が調べて初めて、信長が死んだって気付いたが
通説じゃなかったっけ?

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/29(日) 23:13:18.80 ID:/TYHd38b
どっちが正しいねん(笑)

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/01/30(月) 05:51:29.66 ID:35cGvL6C
>>652
当時2ちゃんは無かった

清水宗治、切腹前日に

2011年03月18日 00:03

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/16(水) 21:15:26.66 ID:lG4vdcEB
高松城の守将、清水宗治が明日、切腹をするという日のことである。

宗治は左右のものに命じて髭を剃らせた。これにその場にいた者達は聞いた

「我らの命、もはや旦夕に迫っております。長左衛門(宗治)様はそんな時期に何故、
髭を剃って容貌を整えるのでしょうか?」

宗治、彼らを返り見ると笑って

「それはな、秀吉が私の首を信長に献じたとき、もしその首が垢付き鬚髯蓬々としていては、
宗治の奴め久しく包囲されていたため、顔は憔悴して少しの生色も無し、などと嘲られるではないか。
私はそれを大いなる恥辱だと思う。だからこうして整えるのだ。」

と語ったという。

のち、明智光秀を滅ぼし小早川隆景と再開した秀吉は、隆景にこう言ったという

清水宗治は、武士の鑑であった。」


清水宗治、切腹前日のエピソードである。




376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/17(木) 11:57:31.40 ID:nLDsgA/O
死に際だからこそ身奇麗さを気にするというあたり
まさに武士のダンディズムだな

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/17(木) 12:00:44.17 ID:yMqHK86B
よく目やにがついてると恥だとか言うが
フケは恥にならなかったのかな

清水家跡取り人質事件

2009年07月06日 00:12

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/05(日) 15:28:53 ID:msOobOiS
清水家跡取り人質事件

毛利軍が上月城を包囲し、尼子残党を討伐しようとした天正6年。
その毛利軍の中には備中高松城主、清水宗治の姿も有った。
持ち場で待機していた宗治の元に留守を任せていた家臣が馬を飛ばしてやってきた。

家臣「家中に織田と繋がっていたものが居り、源三郎(景治)様を誘拐!現在は城に追い込んでいますが、
    源三郎様を返して欲しくば直ぐにこの戦から手を引けとの事です!速やかに城にご帰還を!」

この報告を受けた宗治だが
宗治「・・・・・・この戦は非常に重要な意味を持っている戦だ、今我々がここを離れるなど
   有ってはならぬ事だ。
   今は手の中で暴れているに過ぎないが城から逃げ出し敵方に渡るようでは後々、主君に
   迷惑となる。
   その時は源三郎諸共殺せ。あいつも武士の子だ、わかっている。」
と家臣に言い、この事を毛利家には伝えなかった。

だが、この事件は程なく小早川隆景に伝わる事となる。隆景は宗治を呼び出し
隆景「事件のことは聞いたぞ、さぞ心配であろう。早く城へ戻り取り返しなさい。」
と宗治の離脱を許した。
宗治は馬に飛び乗り急ぎ城へ戻るとお咎め無しを条件に無事、源三郎を解放させると
すぐさま上月城に向かい自分の持ち場に就いた。




112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/05(日) 17:49:39 ID:FhuiWII1
>>106
私を捨てて戦う男だからこそ、良き理解者が現れるんだろうなー

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/05(日) 17:57:33 ID:GOg303g+
清水さん家はこの景治も義理固い男に成長するのが泣ける…


清水宗治、四句を遺し逝く・いい話

2009年05月16日 00:13

606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/15(金) 02:03:02 ID:gmZjhRRD
清水宗治、四句を遺し逝く

清水宗治と言えば

浮き世をば今こそ渡れ武士の 名を高松の苔に残して

の辞世の句が有名であるが、これと共にもう三句遺している
その三句は次男である源三郎、景治に送ったものだ 

・恩を知り慈悲正直にねがいなく 辛労気尽し天に任せよ
・朝起きや上意算用武具普請 人を遣ひてことをつつしめ
・談合や公事と書状と意義法度 酒と女房に心みたすな

の三句を「身持ちの事」という書状に認め、翌日に自刃した。
この書状を景治は後生大事に肌身離さず持っていたという。




607 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/05/15(金) 03:16:16 ID:1nxdQ3QX
>>606
なんと、毛利んとこなのに説教は短いんだなw

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/15(金) 07:15:11 ID:8UHvWPqp
>>607
元就が特別くどいだけだよ
この三句ぐらいがちょうどいいね
つか清水宗治は厳密に言うと毛利家臣じゃないし

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/15(金) 16:36:20 ID:PKI1fIbo
>606(切腹開城前に)鼓を打った兄ちゃんともども、見事なもののふだねえ。

>608
安芸の国人じゃなくて、備中備後へ毛利の拡大過程で増えた新参譜代扱いだよね。
それで前線の備中高松城を任されていたんだから、土地勘に加えて
義理堅さや防城戦の能力をかなり高く評価されていたんだろうなー

清水宗治の切腹と、その兄・いい話

2009年04月01日 00:08

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/31(火) 22:22:13 ID:izyupzgK
天正10年(1582)6月、備中高松城を水攻めにした秀吉軍は、高松城主・清水宗治の
切腹をもって包囲を解くことになった。

宗治の兄は病弱で、弟に家督を譲り、出家して月清と名乗っていたが、
その話を聞きつけて高松城にやって来た。
「弟を自害させて、わしが生き残っても仕方ない。三木城の別所長治殿も、弟がともに
死んだそうな。ここは、わしも一緒に腹を切ろう。」

宗治は、兄の申し出を断った。「私は無念の事あって切腹するのではない。
城主として、兵たちの命と引き換えに腹を切るのだ。兄者が死んでも何もならん。」
「ならば言わせてもらうがの、実は、わしは病弱でも何でもないわ。」
「?!兄者、何を・・・」

「まあ、聞け。わしは長男として家を継ぐべき身だったが、どうも乱世が肌に合わず、
弟のお前の方が器量に勝ると見たので、父上に頼んで家督を譲ったのじゃ。

ところが、それは裏目に出て、今やお前は、このような苦難に会うことになった。
もし普通に家督を継いでおれば、自害すべきは、わしなのだよ。
それを思えば、お前一人に腹を切らせるなど、どうして出来ようか・・・」

この言葉に宗治も納得し、兄弟二人で腹を切ることになった。
「それがし、ひとさし舞うゆえ、兄者は謡をお頼み申す。」
誓願寺の曲を舞い秀吉軍から喝采を浴びると、兄弟は辞世の句を残し堂々と腹を切った。

浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して  (宗治)

世の中に 惜まるる時 散りてこそ 花も花なれ 色も色なれ  (月清)


中国がやる夫マインドと聞いてカッとなって書いた 反省はしていない




362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/31(火) 22:54:37 ID:KziZtx2Y
>>359
清水宗治の死に様はかっこいいね

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/31(火) 23:16:34 ID:2G2928nG
清水の辞世の句がいいよな