fc2ブログ

吉光の刀

2021年03月09日 18:36

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/09(火) 16:25:26.53 ID:rJk2FzJg
大阪夏の陣に於いて、石川主殿(忠総)の部隊が回収した名作の吉光の刀を、京都において
権現様(徳川家康)に献上した所、殊の外の御機嫌にて

「この刀は秀頼より明石掃部(全登)に授けられたものである。これを持った者を討ち取った時、
どのような様子であったのか」

とお尋ねに成ったため、この吉光の刀を取ってきた権太夫という者が急ぎ京都に召された。
しかし御問について「(明石掃部という人物は)見知り申さず候」との事であったので、その通りに
申し上げた。

その後、五、七年も過ぎた頃、台徳院様(徳川秀忠)の御咄に
「大阪で回収された吉光の刀は、明石掃部が所持していたものであった。その後、明石掃部の行方は
解らぬままであり、である以上、その時討ち果たされた者の中に有ったと考えるべきであるのだろうが、
あの刀を回収した主殿頭の者共は三河筋の者達で、上方の侍を見知らぬ故に、惣首数の内に押し込めて
しまったのだろう。」との上意であった。

『冬夏難波深秘録』



スポンサーサイト



明石掃部介の子は

2016年05月08日 13:31

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/07(土) 19:18:39.93 ID:TtGhYx1x
明石掃部介全盛(全登)は大阪落城の時、戦場より逃走し潜居した、という説がある。
これによると、大阪合戦の3年後、籠城の者御免という事と成り、明石も押して晴れたる身となったが、
既に老衰におよび、遂に病死した。

その子は明石の苗字を憚り、三方次郎右衛門(或いは三郎左衛門)と名乗った。
物に馴れた者であったが、元和年中に幕府が金山開発を発表した時、気のことを願い
佐渡の金山を掘る事への許可を得た。そこで彼の国に赴き掘り立てたが、金の鉱脈に当たらず、
父が蓄えた金をこれのため残らず失い、京都に帰ろうとした。

その道すがら、座頭の者が、官を進むための金を持って、同じく京に向かう所に行き会った。
三方はこの者に

「その金を是非貸して頂きたい!もしその気がないのなら殺害する!
我が願いが成就すれば即座に返済して官を進ませよう!」

そう命を捨てて言い放った。
座頭も、否といえばたちまち殺されると察し、力なくその金子を渡した。
三方はこの金を持って佐渡に立ち返り、再び掘りかけると、金脈に当たり、
これによって分限者となった。

こうして最前の座頭に早速返済し、検校の位に進ませた。
この座頭も、約束の信義を失わなかった三方に感じ入り、その後入魂の間柄と成った。

金山も次第に繁盛し、三方次郎右衛門は後に帯刀を御免あって、従者に槍など持たせて往来した。
その頃になると三方但馬と称し、裕福にして京に居住して生涯を終えた。病死の後妙覚寺に葬られ、
そこには今も彼の塔があるという。

このように、彼は佐渡において御用の役に立ったが、扶持は下されなかった。
しかし代官同様の待遇であった。

彼の息子は後年禁裏に仕え、深尾左近将監と名を改め、その子も将監を称し、孫は
左近将曹といって、従六位上であったが、享保13年(1728)に病死した。

(新東鑑)



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/08(日) 20:58:48.37 ID:Qdu+qghk
明石全登といえば
子孫がロシアにわたって反乱を扇動し
その後台湾の支配者になったとかいう伝説が

明石レジナの事

2012年09月28日 20:59

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 21:50:03.28 ID:NErhFr3o
明石掃部(全登)といえばキリシタン武将として、大阪の陣で活躍したこと、有名である。
その明石掃部にはレジナと言う娘があった。
彼女は大変聡明な女性であり、父からも子供の中で最も愛され、大阪城にも父とともに入城した。
城内では淀殿から大変可愛がられ、ゆくゆくは一廉の領主と結婚させよう、と言われるほどであった。

慶長20年(1615)5月7日、大阪城陥落。
幕府方の兵が乱入し、レジナを見つけると暴行を働こうとした。レジナはこれに、命がけで激しく抵抗した。
そうしているうちに幕府方の兵の中から

「お前は何者か」
と聞かれ

「私は明石掃部の娘である!私を大御所様(家康)のもとに連れていきなさい!」
そう答えた。

兵士たちは彼女の要求を聞きとどけ、家康の元へと届けた。

レジナの事を聞いた家康は彼女と対面した。
家康はレジナの気高い態度にすっかり感心し、それを大いに褒め称えた。
彼女のことは異教徒の間でも評判となり、彼らはキリシタンを賞賛した。
そして家康は彼女の身柄を、家康の側室の一人である”オカモ”という女性に預けた。
その側室や周りの人々も彼女の態度、振る舞いに感心し、丁重に扱った。

大阪の陣の戦後処理にめどが付き、家康が駿府に帰るという時に、家康は再びレジナと対面した。
家康は彼女に、その父で戦後行方不明となった明石掃部の行方について尋ねた。
彼女は「時分は屋敷の中に居たので解らない」と答えた。
また自分の兄弟は5人いるが、そのうち一人はキリスト教の修道士になった、ということも答えた。

彼女は家康の前でも落ち着き、誠実に答えたので、その姿は家康の側近たちも賞賛するほどであった。

質問を終えると家康はレジナに、
「そなたは今後も、キリスト教への信仰を持ち続け、父である明石掃部の霊魂のため祈りを捧げるように。」

と言って小袖一枚と銀子を与えた。その上でさらに

「そなたが自由に、どこにでも行く事を許可しよう。もし北政所の所に留まりたいと思うのなら、私がその斡旋をしよう。」

とまで言った。しかしレジナはこれに

「私は恵まれない環境に身を投じることこそ、キリシタンとして神への純潔を守ることが出来るのだと考えています。」
と答え、その申し出を断ったのだという。

キリシタンの記録に見える、明石掃部の娘、レジナについての逸話である。
(シュッテ「1614-15大阪の陣と日本の教会」)




651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 21:58:22.94 ID:pml4fx5k
Reginaだと女王という意味だが
さすがに大層な名前ではないだろうし

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 22:04:27.16 ID:vYIjAbG1
この頃って禁教令が出てるよなぁ

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/28(金) 01:33:25.63 ID:m7NvOGZk
「連れていけ~」って言えば家康の所に連れてってくれるのねw

関ヶ原、黒田長政と明石全登

2011年07月29日 23:01

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/29(金) 13:48:21.08 ID:uTik07+G
関ヶ原についての記事

『内府様(家康)の軍勢を荒らせし者で、明石掃部(Acasicamon)と薩摩の如く甚だしい者は
無かった。

その中でも明石掃部は退却せずして敵中に突入し、自害するよりも敵の手にかかることを望み、
しだいに敵に追い詰められもはや逃れるすべのない事を知ると、甲斐守(黒田長政)の軍隊に
乱入して最後の血戦を試みんとした。

甲斐守は乱入してきたのが、その挙動、及び軍装によって掃部であることを知り、声高に下知を伝えた

「おまえたち、彼を助けよ!殺してはならない!私が彼を生け捕りにする!」

この叫びに黒田軍は皆動きを止め、甲斐守は自ら明石の方に進み近づくと、その頭に手をかけて
抱擁し、涙を流して語りかけた

「我が友よ!我ら互いに敵となってここに見参することの苦しさよ。
勝ち誇る我軍によって敗れたと言っても、あなたの名誉は隠れ無いものである。」

これに明石は
「あなたが真の友ならば、その刀で今すぐに私を斬ってくれ!」

と答えたが、甲斐守はその言葉に従わず、それどころか自分の馬を明石に与え、
それに騎らしめて戦場を脱出させ、敵の命を救った。』
(モンタヌス日本誌)

日本の記録では見たこともない、関ケ原における黒田長政明石全登のエピソードである。




908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/29(金) 19:35:31.71 ID:ZzTF9sjv
明石は関ヶ原の後黒田に保護されたんだっか。

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/29(金) 20:13:21.79 ID:xsW++Brm
同じキリシュタンだからな
確かに可能性はあるなw

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/30(土) 00:34:28.41 ID:kRyBlpXj
>>908
しばらくは黒田親子の下で厚遇されてたはず
長政としては自分で優秀な人間をスカウトしたい時期だったし
血の繋がりがある明石全登はうってつけだったんだけど
領内でのクリスチャンへのあたりが強くなった時に放置してたら
出奔されて又兵衛と一緒に大阪方に付かれるハメに

明石全澄と黒田長政・いい話

2009年04月05日 00:15

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/04(土) 10:10:20 ID:jfj7LHGd
有名な逸話だが過去ログに載っていないようなので。

関ヶ原の合戦のおり、石田三成本陣が崩壊し、東軍が勝利を収めつつある戦場においてである。
満身創痍でふらふらと彷徨っている西軍の一人の武者が、長政の側を通りかかった。
長政の遠い親戚であり、西軍宇喜多秀家の重臣でもあった明石全澄である。
明石はキリスト教徒であったから、腹は切れず誰かに討たれるのを待っていたのかもしれない。
長政も父孝高に誘われて若年の頃はキリシタンの洗礼を受けたことがある。
その長政、大声で明石を呼び止めると、少し躊躇ったが家臣に幕をはらせて明石の周囲を囲い、保護、
密かに新たな知行地福岡まで誘い匿うこととなった。
福岡に帰ったものの家康のことは気になる、難癖付けられ折角の大封をふいにされたは、
と追い出そうとするが父如水に、大の男が臆するな、と叱られそのまま庇ってなんとか
数年をやり過ごした。

明石全澄はこの不思議な縁で一命を救われ、後に大阪の役では城方としてキリスト教のために
戦うこととなった。
そこでは直接矛を交えなかったが,徳川方として夏には長政も参陣している。
有名な合戦屏風絵図にも、大阪方大野張治房らのやや後方、旗指物に十字架を描いた
部隊を描かせている。
あれが明石ではなかろうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:The_Siege_of_Osaka_Castle.jpg