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松平信綱による上戸・下戸の優劣判定

2022年07月29日 17:00

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/28(木) 19:29:03.99 ID:gc6Jj94U
朝野雑載」から松平信綱による上戸・下戸の優劣判定

江戸城御番の衆が上戸下戸の優劣を論じたが決さなかった。
松平伊豆守が出座したため御番衆が断じてほしいと頼むと
松平信綱「各々方、子息に教える時は大酒を飲むように教えますか?酒を飲まないように教えますか?」
各々「酒を飲まないようにと教えます」
信綱「下戸の勝ちです。我が子への教訓こそが真実です」
と断じたため、一同感服したという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6940.html
松平信綱は大下戸であった。土井利勝は大上戸であった

松平信綱の下戸についてはこんな話もあった



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朝野雑載」から知恵伊豆こと松平信綱の話

2022年07月24日 13:53

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/23(土) 22:04:08.06 ID:46b6DecW
朝野雑載」から知恵伊豆こと松平信綱の話

江戸大火事(明暦の大火)の節、御天守に火が移り焼き上がってしまった。
御城の女中が外に出ようとしたが、道がわからずあわてふためいた。
それを見た伊豆守は御玄関から奥まで畳二枚分の道を空けさせ
「畳のないところをたよりに出られよ」と申されたという。

また伊豆守九歳の時、秀忠公の御機嫌に触れたため、秀忠公に宿直(とのい)袋に入れられてしまい、封をされてしまった。
秀忠公は御台様(江)のもとに袋を預け、そのまま御放鷹に出御された。
伊豆守殿は袋に入っておとなしくしていたが、そのうち小便がしたくなったため「袋を開けてくだされ」と女中衆を呼んだ。
御台様も女中衆も困惑して「将軍様が手づから封をなされたので、開けることはならぬのです。どうしましょう」と言った。
伊豆守は「縫い目をほどきなされよ。それがしを出しなさって、小用が終わればその後にそれがしを入れて元のように縫合なさればいい。」
おのおの名案だと大いによろこんで伊豆守を出した。
伊豆守は小便を終え、また袋の中に入ろうとしたところ
御台様は「将軍様がお帰りになられるまではこのまま遊ぶとよいでしょう。」
とお菓子やその他さまざまな物をくだされ、懇切に遇された。
秀忠公が帰城された時、伊豆守はまた袋の中に入り、女中衆は縫い目を元のように縫合した。
やがて「将軍様御預けのものを御返しください」と御使いが来たため、袋が秀忠公の元に戻った。
秀忠公は袋の中の伊豆守に
「その方、向後忠勤を励むか?」とお尋ねになられ
伊豆守もおそれいって「御奉公、油断なくつかまつります」と申し上げたところ、秀忠公は御手づから袋より伊豆守を出されたということだ。



311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/24(日) 08:29:14.50 ID:Hx8mz+Tr
玉袋だったんだな

人々の腰に指す刀脇差は、一代一度の用のために

2021年04月17日 17:29

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/17(土) 13:03:15.82 ID:3ZdxbqK5
ある人が、豆州(松平信綱)に疑問を述べた
「大名は国を拝領し、常に安楽のみを致しているのに、彼らの参勤の時も将軍家より上使など遣わされ、
御暇を申し付けられた時も、時服、金銀等に至るまで下されます。
一方で御旗本は常に御奉公により頻繁に労苦をも致しております。又何事かあったとしても、
御用に立つのは御旗本に過ぎるものは有りません。

然るに大名への御馳走強く、御旗本へはさほどでもないというのは、これは逆ではないかと思うのです。
どうしてこのような事になっているのでしょうか。」

そのように戯言を申すと、豆州は取り敢えずこのように答えた

「そうであるからこそ、大名に成ることを人は殊に願うのだろう。
さりながら、大名衆をあのように常に御懇に成されているのも、その代に大きな役が当てられ、
或いは御普請の労力など殊の外の御使となり、又御軍があれば、これも誰であっても一口に大きな
御用が仰せ付けられる。そういう事であるから、普段大名衆は御馳走されているのだ。
ただ、人の幸不幸というものであろう。人には生まれつき、こう言ったものが有ると思っている。

身の回りに例えると、人々の腰に指す刀脇差は、一代一度の用のために指しているのであるが、
十人の内九人は、その用無く過ぎていく。しかれどもそれらを秘蔵する事大方成らず。
また、小刀は日夜の用に立つが、あえてそれを馳走する事はない。それと同じものであろう。」

このように申された、兎角仮初の事にも理屈で人に負けられない人であると、諸人舌を震わせたという。

信綱記



さすが才知有る御老中

2021年04月15日 18:36

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/15(木) 15:04:01.21 ID:0RxHiCDI
天草一揆の時、松平伊豆守(信綱)を上使として遣わされた。寛永十五年二月二十七日、
一揆勢が籠城した原城は落城した。
これにより江戸に早飛脚を下されたのだが、その文箱の中の書状の上書のすみに、石筆にて
『落城申し候』と伊豆守が書き、これを差し上げた。

江戸の将軍家光は文箱を開くとこれを御覧になり、そのまま御機嫌残る所無かったという。
さすが才知有る御老中であり、頼朝の時代の梶原平三景時であってもこれ程は有るまじき、と言われた。

信綱記



118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/15(木) 16:13:56.75 ID:7irQv36e
梶原景時にたとえる、て褒めてるんだよな

知恵伊豆のユーモア

2016年02月10日 18:51

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 22:36:23.52 ID:eFlTnkWy
知恵伊豆のユーモア

承応から万治年間(1652-1659)にかけて長崎奉行を勤めた甲斐庄正述の妻は松平信綱の従姉妹(姪とも)であった。

そんな関係で、信綱と正述は親しかったので、二人はよく会っていたのだが、ある日の信綱邸での饗応で正述はふと思った。

「今出てきた芹焼き(芹を酢に煎じたもの)は焼いていないのに『焼き』というのはおかしくないか?『芹煎』とか言うべきだろう。」

それを聞いた信綱、
「焼いていないものを『焼き』というのが不審と言うが、あなた自身にもそんな不審なものがあるではないか。」

「??」

「あなたの頭の月代(さかやき)は誰が焼いているのですか?」

ここで正述、
「なるほど、自分にも焼かないのに焼くというところがあるのに、そこには思いが至りませんでした。」と納得。一同大笑い。

(御役人代々記)

いい話でも悪い話でもなさそうだけど、とりあえずこっちに。


ちなみに正述の孫の大森時長も長崎奉行として赴任し、享保の飢饉時に長崎の住民を飢餓から守ったということで非常に人気があるらしい。

(鈴木康子「長崎奉行 等身大の官僚群像」)



松平信綱はこう言っていた

2015年11月09日 09:20

松平信綱

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/09(月) 07:49:45.05 ID:xI4lJMJz
松平伊豆守信綱はこう言っていた

「悪日なんて物は無い。思い立ったことは、いつであっても行うべきだ。
風雪の日こそ悪しきものだ。」

(武功雑記)



969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/09(月) 08:42:53.26 ID:LfncsuBW
現実的だな
まあ、平和な日常ではこれが正しいよな

知恵伊豆の死に様

2015年07月03日 18:05

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/02(木) 21:49:03.92 ID:+AGasWoa
松平伊豆守信綱が発病した時、このように言った
「私は病人に成ってしまったが、隠居など仰せ付けられるように、などとは微塵も願わない。
何時までも職務を努め、御城にて倒れて死ぬ事こそ本望である!」

そういって毎日登城して出仕し、自身の家老たちには
「今日御城において私が病死すればこのようにしろ」
そう委細を申し付けてあった。

しかし病気は日を追って重くなり、小便も出なくなった。この事を伊豆守は嘆いた。
「私の病気の事を、上様はお尋ねなさっているそうだが、小便のことまで上聞に達してしまったらどうするのだ。
このような事をお耳に入れるのはなんとも恐れ多いことである。」

その後も病気は重くなり、伊豆守の養母が彼の枕元に付き添った。
その時養母は言った
「病気がこのように重くなった以上申しておく。今までは後世のことなど一向に構わずにいたのであろうが、
この時であれば、万事を打ち捨て、後世のために念仏をするように。」

そう進めたが、これを聞いた伊豆守は
「御尤もの事です。ですが、私は幼年より召しだされ、格別の御恩を蒙った者ですから、せめてその
万分の一も御恩を報じたく、常に心がけてきましたが、行き届かず、このような大病であれば尚更
御恩を報じることが出来ません。ですから少しでも御奉公のことを心がけ、『御奉公、御奉公』と唱えたいと
思います。なかなか、念仏を唱える暇はありません。」

そしてその後には
「もはや死も近い。この上の願いは、何卒お上の御精進日に病死致さぬように、との事であり、出来れば
七日に死にたい」と語った。
これは七日が彼の妻の命日であり、息子たちの精進日が多くならないようにとの思いからであった。

十六日になると、
「明日は権現様御命日である。どうか、今日か明後日に死にたい。」と望んだ。
そのため、その日は薬を用いず死をのみ待っていたため、その本意のごとく、十六日に死去した。

(明良洪範)

知恵伊豆の死に様、である



18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/03(金) 08:44:31.81 ID:bR4qvxSR
こんな遺言うっかり脳筋に残したら逆に家滅ぼしかねない

随分狙うように申し聞かせなさい

2014年06月24日 18:54

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 17:40:20.00 ID:+iFynjsM
伊達陸奥守忠宗が通行の途中、江戸城本丸の台所に詰めている新組の某
という者が伊達の先供の中を通り抜けようとした。供の士は某を取り押さえて
日比谷へ連れ帰り、成敗した。

新組頭はこれを聞いて大いに立腹し、老中の松平伊豆守(信綱)へ訴えると、
伊豆守が言うには「小家でも大名の通行は分かるものである。ましてや、
大家の伊達の通行は二、三町先からも分かるものなのに、先供の中を通り抜け
ようとするのは一つ目のたわけである。

また、連れて行かれるからといって、伊達の屋敷までのさのさと行ったのは
二つ目のたわけである。また、結局は逃げられないことと察知して切り死に
するべきなのに、むざむざと打ち首にされたのは三つ目のたわけである。

こんなたわけ者が御家人にいても御用に立つ者ではない。だから生きていても
益は無く、死んでも損は無い者である。申し立てるには及ばない」とのことで、
訴え書を差し戻し、併せて、

「その者に倅どもがいて伊達陸奥守を父の敵として討ったなら大至孝といえよう。
随分(できる限り。または大いに)狙うように申し聞かせなさい」と言ったそうだ。

――『明良洪範続編』





577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 17:44:51.14 ID:r/sLCjDk
この流れでも狙って良いんだ…

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 18:11:33.18 ID:RgdOU5YQ
「おう、やられたらやり返さんかい」て事だな

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 18:51:10.11 ID:EoDDTEDU
言外に、殺すなと
伊達家の顔を立てつつほのめかしてるのでは

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 19:18:48.52 ID:XUet17Db
>>576
この話まだ出ていなかったのかな
武士の美意識がわかる話だから印象深い
たしかに伊達家の行列前を横切ったのはこの侍の過失。
斬られても仕方ない過失ではあるけど、黙って連行されても最悪首斬られるのだから、
それならその場で刀抜いて斬り死にする最期を選ぶべきだってことだろうな
討ち死、切腹〉〉(越えられない壁)〉〉斬首 の世界観だし

この話が作中に出てくる五味康祐の短編小説『国戸弾左衛門の切腹』オススメ
映画にしてほしい深い話だけど、映画にされることはないであろう名作

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/24(火) 21:41:46.87 ID:6ybX+yXy
伊達にビビッてるのかと思ったけど知恵伊豆かっけー

知恵伊豆の忍

2014年03月01日 18:45

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 17:20:59.48 ID:7GCf6foH
島原の陣の二月中に、松平信綱は連れてきた江州甲賀の者を呼んで、

「これまで諸将は敵城の様子を探らせようと忍びの者を遣わしたが、
敵城の守衛は堅固で忍びの者が城中へ忍び入ることができない。
御身らは忍び入って、様子を見届けて来てくれ」と言った。

甲賀の者たちはかねがね内々の願いの筋でもあれば功を立てようと思っており、
「畏まり候」と速やかに承知し、仲間の中から菅川七郎兵衛望月与左衛門
夏目角助吉田五兵衛鳥飼勘右衛門ら五人の者が暗夜に紛れて

塀下までは忍び寄ったものの守衛は堅く、城中へいまだ入らずに見合わせて
いたところ、城中より猿火を渡して塀下廻りを調べたので、その火を引き入れる時に、
引き続いて菅川と望月の両人が城中へ紛れ入った。あとの三人の者は入り遅れて
塀下で躊躇していた。

さて、忍び入った両人のうち望月は塀を越えて城内へ入ったところ、
塀裏の落とし穴へ落ちた。菅川は引き上げようとするが、穴が深いので上げられない。
とやかくする間に城兵たちは気付いたのか、「寄手が忍び入ったぞ、討ち取れ!」と
立ち騒いだけれども暗夜なので見分けがつかず、その間に菅川はどうにか望月を引き上げ、

闇夜に紛れて城内のあちらこちらを忍び廻り様子を見届け、やがて塀を越して
城外へ飛び出た。この両人は甲賀忍び組の中でも取り分けて忍びの名人であるとか
いうことだ。

――『明良洪範』




494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 19:05:08.26 ID:Us+HUH3X
城兵は明かり持ってこいよw

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/01(土) 19:05:10.23 ID:cxkJyzHN
落とし穴をもっと沢山掘ろう!

知恵伊豆のわかりやすい吉報の伝え方

2013年12月11日 20:12

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/11(水) 11:28:42.04 ID:JLb88KpB
島原の一揆は寛永十五年二月二十七日に落城した。

これにより早飛脚を江戸へ遣わしたが、その文箱の表書には「二月二十七日落城」
と記してあった為、到着後は開けるよりも前に落城だと解り上様は非常にご機嫌であった。

豆州の才知を人は皆賞賛したと言う。

(翁草)

知恵伊豆のわかりやすい吉報の伝え方




860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/12(木) 21:23:54.46 ID:kGo+PvsQ
その旨書いた旗持たせて走らせれば宣伝効果あったかもな

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/12(木) 21:26:23.30 ID:0Dqn7Mo8
【朗報】落城

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/12(木) 23:07:01.39 ID:m2JjHdAW
【朗報】敵は本能寺にあり

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/13(金) 00:39:10.43 ID:10YkNS0b
【朗報】鬼武蔵が撤退

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/13(金) 00:47:10.26 ID:i/S2zPc2
【朗報】政宗

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/13(金) 01:37:28.99 ID:UJw9Q4/o
【朗報】妙林尼殿ご同行

知恵伊豆と鯉の運上金

2012年12月04日 20:00

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 21:09:09.62 ID:jz2XSlVk
武蔵国入間郡の箕和田と云う所は鯉の産地であり、その地の町人たちは四百領の運上金を幕府に収めて
鯉を捕り、それを江戸に送って商売をしていた。

ある時、老中の知恵伊豆こと松平信綱に、箕和田の、鯉を獲っている者たちとは別の町人の一団が、
六百両の運上金を差し出しますので自分たちに鯉を捕る権利を与えてほしい、と申し出た。

幕府にとって今までよりも運上金が二百両多く収まることになるので、その一団の者たちは、必ず許可に
なるものと考えていた。ところが信綱は

「よく考えてみよ。今まで四百量だった運上金を、わざわざ二百両増やして六百両にしてくれという者があるか。
それは、今までよりも鯉の値段を二百両上げてくれ、というのと同じ事だ。

その二百両は結局、江戸の武家や町人に売る鯉の値段を吊り上げることによって生み出そうとするであろう。
それは江戸の住人に難儀を与えることになる。
逆に、今までの運上金四百領を、二百両にしてくれと申し出たのなら、許すことにしたであろうに。

幕府が二百両の運上金を多くもらったからといって、その分、江戸の住人が高値に苦しまなければならないというのでは
不義が生まれ、訴訟が増えるばかりである。」

そう言って、前々から四百両の運上金を収めている町人たちに、鯉を捕る権利をそのまま与えたという。
(名将言行録)




661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 21:30:54.39 ID:zk6K1qku
さすが知恵伊豆

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 22:00:39.98 ID:HKzcnOmV
鯉なら高くても別に良いじゃないかとちょっと思ったけど食用か

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/03(月) 23:40:27.87 ID:gXfRvWke
タダより高いものは無いという教えである

青山忠俊と知恵伊豆、記憶力について

2012年11月26日 19:58

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/26(月) 18:41:29.94 ID:VSIyx/om
聞いたこと見たこと、何であってもよく覚えて忘れないというのは、その身の徳であり、第一の宝である。
見ても覚えず、学問・講習の筋を習っても、忘れ果てては何の役に立つだろうか?
人と近付きになっても、一度ばかりではその名前も顔も覚えられない、という例は多い。
記憶力が強いというのは、人の羨むことである。

青山伯耆守忠俊は記憶力に非常に優れ、旗本・小身の輩まで、一度その名を聞きその顔を見れば
能く覚えて、再び会った時には、必ずその名を呼んで挨拶をした。
その様であったので青山も自分の物覚えの良さを自慢していたが、ある会合において、
一座のものから青山に
「真似ようとしても出来ないことだ。有り体に言って中々及ばないことです。」
と声をかけられると、青山これに対し

「だいたい物覚えなどというものは、努力次第でどうにか成る事ですよ。」
と言い出した。これを聞いて同席・末座の人々、口をそろえて
「稽古によって出来る事なら、是非習いたい!」と、その答えを所望すると、青山は笑いながら

「意地がキレイか、意地が汚いかという事です。」
という。一座の人々困惑し、「そう言われても、全く理解できない。」と言えば青山

「されば、である。あなた達も、御三家・国持大名などの顔名前はきっと覚えているでしょう?
しかし小身の者たちに対しては侮っているから、その名も知りません。
私は末々まで、人であることに替わりはないと、平等に考えているので、能く覚えるのです。」

この言葉に一座のもの、皆感じ入った様子であった。

と、この場の遙か末座に、未だ無官の、若き日の知恵伊豆、松平伊豆守信綱があった。
彼は一人、青山の答えに感心した様子も見せずに嘯いていた。

青山はこの信綱の様子をいち早く見て取り、彼の方を見て声をかけた
「どうした!そこに居る小癪仁はどう思うのか!?」

これに信綱、冷然と
「…私の考えとは違う了見です。感じ入る所までは行きませんね。」と言う。
青山「では、お主の考えを聞きたい!」と、信綱の話を聞く姿勢を見せる。
すると信綱、少し進み出て

「太陽・月の事はきっと知っておられるでしょう。では、その他の星の名、星座の名など、
それをすべて覚えていらっしゃいますか?」

青山はこれを聞くと「どうやってすべての星の名を究め知ることが出来るだろうか?
天文の家であっても、細かな星は粟三斗分の数ほどもあると言っているが、それでも尚
具体的な数はわからないのだ。そうであるものを、どうしてその名を知ることが出来るだろうか?

この答えに信綱

「さて、あなたもそうお考えになりますね。
例えば、私のような愚かなものであっても、御三家は勿論、国取り大名も数が少ないので、
日月・五星・二十八宿と同じように、覚えるのが楽です。

しかし小身の衆は天の星の数よりも多いほどですので、どうして覚えられるでしょうか?
伯耆守殿のように、生まれつき記憶力の良い人には、そういったものも覚えられるのでしょう。
あなたがどう申されても、自分の意地の清濁とは関係ないことです。」

これには流石の青山伯耆守忠俊も閉口してしまったそうである。

ちなみに、物覚えには少しはコツがあるらしいよ!(物を覚ゆるは少しは傅も有る事とか)
(武野燭談)

青山忠俊と知恵伊豆の、記憶力についてのお話。





499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/26(月) 20:55:34.56 ID:luN+5ubm
伊豆守に聞いた青山が悪かったなw

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/26(月) 21:16:46.67 ID:A9QZagF9
>私は末々まで、人であることに替わりはないと、平等に考えているので

江戸時代にこんな奴いる訳ないだろうが

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/26(月) 21:21:01.19 ID:VSIyx/om
>>500
ちなみに原文

『我等は末々までも人に替りなき處を考へて、平等に存ずる故に能く覚え候』

武野燭談は宝永6年(1709)成立

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/26(月) 21:25:32.97 ID:T7w6fXkL
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772575/21
の53p見たらそのまんま書いてある

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/26(月) 21:33:57.24 ID:Z47zLL3B
人類皆平等的なのは実際にはともかく宗教ではよくある表現だし
表現としてはそうおかしくないんでないの

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/26(月) 21:54:09.00 ID:luN+5ubm
平等とか公平観は江戸時代にあった。最近読んだ東遊雑記にも出てきてた

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/26(月) 21:59:08.26 ID:MtgoaPV4
差別は許さん 大名、小名、旗本を、俺は見下さん!すべて…平等に価値がない!
口で焼き味噌垂れる前と後に権現様と言え!

こうですか?

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/26(月) 22:34:59.64 ID:fv8Yc8Y/
家光乙

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/26(月) 23:33:23.45 ID:/sxQ+pTx
※但しイケメンはのぞく

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/27(火) 00:54:18.38 ID:/cGhAlBG
本音と建前を忘れちゃいかんよ
人類平等という思想と社会秩序のための階級格差は別なのだ

念を入れすぎて害になる

2012年09月08日 20:31

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 10:42:32.28 ID:xlZ/MM+g
ある年の暮れのことである。松平伊豆守(信綱)が将軍家に献上の鱈を仕立てさせ、先ず自身の前に
取り寄せて品物を改めて見ると、なんとその鱈に、ほんの少しだが塵がついていた。伊豆守これを見咎め

「上に捧げるものに、このような粗相をするとはなんと不都合なことか!」
そう担当者をしたたかに叱りつけた。
と、この時たまたま、旗本の井上新左衛門が傍におり、

「伊豆殿、そんなにお叱りなさるな。そもそも鱈というのは、塵のついているものですぞ?」

「井上殿?それはいかなる理由ですか?」

すると井上新左衛門、大真面目な顔をして
「式三番(能の演目)にあるではありませんか、『塵や鱈り鱈り鱈』と謡いるので、
これにより鱈に塵が付いているのは当然のことであります」
(式三番の翁の謡、『とふ くたら里々々ら々りら々里とふ ちりやたら 里々々ら、里ら々り、ら々里とふ 、のもじり)

伊豆守これを聞いて、「また例の、新左衛門殿の滑稽よ」と打笑いつつ
「しかしそうであっても、物には念を入れるに若くはありません。」
と言えば新左衛門

「それは貴殿が御大役を勤められているので、その様にお考えになるのでしょうが、拙者のような
軽い者は余り念を入れすぎると、却って害になることもあるのですよ。」

「ほう?念を入れすぎて害になった例があるのですか?」

これに新左衛門
「大いにあります!昔、唐の玄宗皇帝が楊貴妃との死別を悲しみ、方士に命じてその魂のある所を
尋ねさせました。方士は方々を探し、ついに蓬莱宮で貴妃に会い勅命を伝えれば、貴妃もこれに悲嘆して
私の居る証拠にと、玉の簪を方士に与えました。方士はこれを得てそのまま帰ればその身の害も
なかったというのに、つい念を入れて

『この簪は世に似たものも多くある物ですから、この証拠になり難いかと思います。
貴方様と君との、人知れぬ睦言などがあればお聞かせ下さい。それを証拠として復命したいと
思います。』

これに楊貴妃、それもそうだと思い

『天にあらば願わくば比翼の鳥とならむ、地にあらば願わくば連理の枝とならむ』

との、玄宗皇帝との誓いの言葉を方士に伝えられました。方士はこれを承って立ち返り、
その旨を皇帝に奏上すると、これを聞いた皇帝は

『確かにこの密語は誰も知らないはずだ。これを伝えるからには貴妃に会ったに相違ない。
しかし、これほど他に漏らしたことのない密語を聞いて帰るからには、こいつめ!
貴妃と密通したに相違ない!!」

とて、是非も言わせず忽ちに方士を殺されたとのことです。これぞ念を入れすぎて却って身の害となった
という事ではないでしょうか?」

これに伊豆守、いよいよ大笑いして

「いや実に、その通りです。」

と笑いながら言われたとのことである。
(武士道美譚)




402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 10:49:54.68 ID:vpJjED7R
伊豆守笑い杉w

404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/08(土) 11:40:16.66 ID:nDwjHDGO
長恨歌では方士は殺されてなかったような
むしろ玄宗から褒美をもらってなかったか

知恵伊豆「世の中にはもっと不思議なことがいくらでもあるのに、例えば」

2011年05月17日 00:00

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/15(日) 23:02:19.67 ID:B9BSK99t
江戸に大火があったとき(おそらはく明暦3年の明暦の大火)、大災害の時にありがちだが
色々と怪異な事の噂が流れ、人々はこれを大変怪しんだという。

そんな時、知恵伊豆こと松平信綱はこんな事を語った

「世の中にはそんな怪異よりもっと不思議なことがいくらでもあるのに、
人々はそれを怪しもうとはしないものだ。
例えば故太閤が草刈りの身分から21年で天下をお取りになったことなど、
これより不思議なことがあるだろうか?」
(武功雑記)




196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/16(月) 00:20:58.52 ID:OM5dLkfG
平清盛の出世には天皇落胤説で説明するむきもあるが
秀吉落胤説は鼻で笑われただけであった。

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/16(月) 01:08:41.17 ID:fDAvZDkj
そもそも関白に任官されるための方便で考え出したものだし>秀吉落胤説
鼻で笑われるどころか目論見通り関白に就任し、
豊臣氏まで賜わってるんだから大成功と言って良い
天下人になった後は更にスケールがでかくなって日輪の子を自称してる

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/16(月) 01:28:43.87 ID:Q+sQ76WD
「知恵伊豆が家光の死に殉死しなかったことを江戸市民は非難した」
とWikipediaにあるが、初期江戸民は三河のめんどくささにすっかり毒されていたのだなぁ

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/16(月) 01:36:31.02 ID:iOijdq8N
殉死って当時どういう風に思われてたんだ?
するべきものだったのか、でも禁止してた人もいるよな

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/16(月) 04:58:36.01 ID:3DTVaTzo
戦がなくなって討ち死にする事もなくなり
その代償行為みたいなものだからな

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/16(月) 06:10:53.49 ID:gP9bdqDA
スケール(笑)
土人じゃあるまいし、大名がそんなもの真剣に拝んじゃいないだろw

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/16(月) 07:42:33.48 ID:0RmVhPhF
>>201
毛利元就が毎朝日の出を拝んで、念仏唱えてたのは有名。
神道なのか仏教なのかはっきりしろと言いたい。

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/16(月) 08:10:28.64 ID:3DTVaTzo
>>206
神仏分離令より前の時代だぜ

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/16(月) 08:17:45.21 ID:wE047Atd
月を拝んで「我に七難八苦を与えたまえ」と言った武将もいたな、なんで月なんだろ

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/16(月) 08:20:13.42 ID:CES5O28m
武士ってロマンチックな奴多いよな。生き方そのものが詩的というか

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/16(月) 11:10:31.06 ID:OM5dLkfG
>>208
出雲は月信仰が盛んだったらしい。都久豆美命(つくづみのみこと→月読命と同じか?)というらしい。

昔の山陰は海上交易で盛えてた。夜の星は方位を知るのに重宝。星々の代表として月なんじゃないかな

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/16(月) 17:54:50.21 ID:tK+5Qme5
上月城で敗れて、その後殺されたから
後から話が作られた、ってわけではないのか

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/16(月) 18:26:22.83 ID:DWOx75mk
尼子の本城のある山が月山つーくらいだし

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/16(月) 18:51:37.71 ID:bzKIgrCF
つ…つきやまとみたじょう?

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/16(月) 19:14:58.21 ID:XO/iSYnJ
月山の麓には最後の富田城主だった堀尾さんの墓があるんだよな。
心血注いで完成も間近の松江じゃなくそっちに葬るようわざわざ遺言してまで。

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/16(月) 21:53:11.79 ID:57I/M++b
>>208
やっぱ昼やるとはずかしいじゃん

岩上角左衛門、松平輝綱を

2011年03月12日 00:01

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 23:00:03.75 ID:jh9Javie
いいはなし

寛永15年2月(1638)島原の乱、幕府軍の総攻撃により、原城に籠ったキリシタンたちも
遂にその終焉を迎えようとしていた。
と、その時

知恵伊豆こと、幕府軍の総指揮を取る松平信綱の嫡男、当時19歳の甲斐守輝綱は、
戦闘に参加するためただ一騎馬を走らせ城へと向かった。
これを知り信綱は激怒し、家臣の岩上角左衛門を呼んで「輝綱をすぐに止めてくるように!」
と命ずる。
岩上は直ぐ様馬に飛び乗り輝綱の後を追い、遂に追いつくと彼の馬の前に立ちふさがり
輝綱に向かって叫んだ

「伊豆守様よりのお言葉を伝え申す!

『伊豆守は将軍家の御代官としてこの地に来たのであって、諸軍と功を争ってはならないと、
家中の者たちにも固く命じていたところである!ましてその長男がその様に抜け駆けし、
先陣を争うなどあり得べきことではない!
その行為をすぐに辞めるように!!』

以上でござる!」

と、輝綱の馬の頭を取って本陣に帰らせようとした。
しかし輝綱19歳、血気盛んでありまた、幼少より武芸に秀で、後に武士の手本とまで
呼ばれた人物である。岩上の言うことも聞かず再び戦場に向けて馬を走らせようとした。

ここで岩上角左衛門、兜を脱ぎ捨て輝綱の前に自分の首を差し出した!そして

「それがしの首を取らねば、戦に出ることかないませぬぞ!
さあ、速やかにこの首を刎ね、その後で思い通りになされませい!!」

睨み合う輝綱と岩上角左衛門。が、輝綱遂に馬の首を返し、一鞭当てて本陣へと戻っていった。


後々、松平輝綱は事あるごとに

「私に戦の高名がないのは、全部岩上のせいだ!」

と恨み言を言ったという。そしてその上で必ずこう付け加えた。

「でもな、主人を諌めるって言うのは、あのくらいじゃないと駄目なんだ。」


島原の乱での、伊豆守家主従のヒトコマである。




194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 23:06:54.52 ID:IO5tgaC4
命をかけて主君を戒める家臣とそんな戒めを聞きいれる度量を持つ主君
美しいよな

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 23:14:49.75 ID:EUrCXwPG
森家某家臣『殿、深入りはなりませぬ、どうしてもというならそれがしの首を討ってからいきなされ』

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 23:17:39.11 ID:NjN3kGqd
>>195
森家の家臣にそんなの居ないw
甲州入りの時も、信長からも信忠からも「深入りするな」って命じられてたのに
「命令?知るか!」
とどんどん戦線を拡大しちゃったわけでw

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 23:28:53.35 ID:bhxQwN9w
池田家家臣 「若、ここはお家のために退いて下され!」

輝政 「親父の仇は厚遇するけど、仇討ち邪魔したアイツは冷遇する」

198 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 23:29:36.12 ID:EUrCXwPG
ならば
森家某家臣『殿、抜け駆けをしなければなりませぬ、どうしてもしないというならそれがしの首を討ってくだされ』


199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 23:51:26.51 ID:yMicKBbw
そんなこと言う間に走ってるよ、主従ともなw

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 23:56:34.46 ID:/qGWaj0J
止める係の存在がまず無い

201 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/10(木) 23:58:19.03 ID:EUrCXwPG
くそwならば


森家某家臣『殿、これは抜け駆けではござらん、奇襲でござるよ、某が良い働きをできなければ首を討ってくだされ』


もはや原文台無しwww

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/11(金) 00:26:43.95 ID:/YietsRZ
森家某家臣『とっ…………』

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/11(金) 00:48:40.40 ID:7ObqDUCr
森家家臣「ヒャッハー!」
森家主君「ヒャッハー?」
森家家臣「ヒャッハー!!」
森家主君「ヒャッハー!!!」

瀬川嘉右衛門の「虫食い」

2010年11月11日 00:00

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/10(水) 09:12:24 ID:iF8657Ub

江戸時代初期。「知恵伊豆」こと松平信綱が治める武州川越(現・埼玉県川越市)
瀬川嘉右衛門という男が居た。
中々の武勇の持ち主で、川越藩では槍持ちを任されていたと言う。

しかしこの嘉右衛門、武勇以上に名を馳せている事があった。
それは「酒飲み」。

とにかく酒が大好きな男で、毎日浴びるように酒を飲んでいたという。
そんな生活をしていたら勿論、金は貯まらない。
少ない貯えを全て酒に注ぎ込み、酒の肴を買う金すらなかったのだが、嘉右衛門は
悪食としても知られ、肉だろうが魚だろうが、酒と一緒なら何でも頓着せずに食し
ていた。
そして挙句の果てに、手持ちの無い彼が食すようになったのが『虫』。

蝗の佃煮とか、蜂の子だとか、そう言った食用の虫ではない。
とにかく眼についた生物は全て口の中に放り込み、酒で流し込んでしまったらしい。

槍持ちに任じられた侍の事を「槍持ち奴」と言った事から、嘉右衛門は「虫食い奴」
(むしくいやっこ)と綽名されたという。

そんな嘉右衛門は、普段から人と変わった事をするのを好み、「傾き者」として知
られていた。
「虫食い」もあるいは人と違う事をやって見せようというパフォーマンスの一つだ
ったのかも知れない。

嘉右衛門のパフォーマンスは、遂には自らの死後の事にまで及ぶ。
自分の墓石を自ら作成し、「オレが死んだ後はこれを墓石にしてくれ!」と寺に収
めたのだ。
しかもこの墓石、普通の墓石ではない。
嘉右衛門自身の姿を写し彫った肖像の墓石だったのである。

彼の墓に参る人々は、嘉右衛門自身の姿に手を合わせ、墓前に酒を供える。ちょっ
と気の利いた人なら、そこらを這っている蟻でもつまんで酒の中に落としてあげた
かもしれない。

現在、川越の法善寺には嘉右衛門が作った墓は無く、後に作り直した二代目の肖像
墓が鎮座している。
羽織袴姿で酒樽に腰をかけ、酒杯を手にする彼の『墓』。
本人の死後、数百年にも渡り、大好きだった酒盃を傾ける自分の分身があるという
のは彼にとって、最高の幸せだったのかもしれない。




まさか、仙台のじいちゃんと鼠汁で勝負したの、コイツじゃなかろうな?www
(>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-580.html)


207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/10(水) 09:15:50 ID:FznAY+r8
虫か・・・この時代には有効なタンパク源だったのかもな。
アル中は怖いよ・・・

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/10(水) 12:23:29 ID:mXnv+oOj
もし嘉右衛門が戦国期の人で馬場美濃守と信玄がその話を知っていたら
芋虫握りつぶしの逸話が芋虫食いに変わっていたかも知れないな
いや惜しかった

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/10(水) 20:18:30 ID:FznAY+r8
>>209
いや、あの話は信玄は芋虫つかんだだけで潰してはいない。
素手で潰したら青くなるどころじゃ済まないとおもうよw

「神様のイタズラ」

2010年08月10日 00:01

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/09(月) 14:12:33 ID:lopCCUCs
「神様のイタズラ」

1620年代、江戸時代初期の話である。
筑後柳川藩立花家と肥前佐賀藩鍋島家は、領地の境界をめぐって激しく対立していた。
筑後川が両家の境界だったのだが、その河口あたりに二つの島(中洲)が出現してしまったのである。

m9(・∀・)ビシッ!!「どう見ても筑後側に寄ってるから、柳川藩領だね!」
ハァ?(゚Д゚)y─┛~~ 「とっくに肥前の百姓が住んでるだろ?佐賀藩領だよ!」
(・A・)「慶長6年(1601)には筑後の百姓が干拓を開始してるんだぞ!?」
( ゚Д゚)「文禄年中(1592~1595)には勝茂公が八大龍王の祠を建立して先占してるんだぜ!?」
(#・∀・)「うちが関ヶ原で領地没収されてる間に既成事実を重ねやがって!!」
(#゚Д゚)「20年ぶりに帰ってきてイチャモンかよ!?何を今さら!!」

両家は一歩も引かない。もはや話し合いでは決着はつきそうに無かった。
かと言って、このご時世に武力衝突も出来ない。
この問題が解決するのは1640年代後半、幕府の老中「知恵伊豆」こと松平伊豆守の登場によって、であった。

知恵伊豆「ここまでこじれたら、神様にまかせるしかないよ!筑後川の上流から御幣を流してさ、
その行き先で境界線を決めようよ!」

ちなみに「御幣」とはこんなのである。
http://www.shinsen-dou.com/gohei.html
両家とも他に解決法が浮かばず、この提案に乗った。
肥前の千栗八幡宮(佐賀県北茂安町)と、筑後の高良大社(久留米市)から御幣をいただき、その御幣を柴に括くくる。
そして上流から流すのだ。
二つの島の筑後側を流れれば、そこが国境となるので、島は佐賀藩領。
逆に肥前側を流れれば、そこが国境となって、島は柳川藩領である。
両藩の重役が見守る中、御幣は肥前側に・・・・・・

(・∀・)イイ!!
(lll゚Д゚)ヒィィィィ

しかし、ここで有明海から潮が逆流!!

(*ノ∀ノ)イヤン
(屮゜Д゜)屮 カモーン!

御幣は複雑な潮の流れに翻弄され、ついに肥前側に流れたかた思うと、
途中で方向転換して二つの島の中間を横切って、筑後側に流れてきたのである。

(・∀・)「これはつまり、上流の雄島が柳川藩領になって・・・・・・」
 (゚Д゚) 「下流の雌島が佐賀藩領ってことか・・・・・・」
知恵伊豆「これにて一件落着!(いや本人は江戸から指示出してるんだけどね)」

そもそも領地争いになったのも、いきなり中州が出現したからだし、
最初から最後まで、天というか、神様の気まぐれに振り回されてる気がしないでもない。
ちなみに、その中州はその後も土砂の堆積と干拓が進み、現在では一つの島になっている。
現在の大野島(福岡県大川市)と大詫間島(佐賀県川副町)のことだ。
・・・・・・そう。21世紀の現代でも、この島はこの時の境界のままだ。
それだけではない。
誰がどう見ても一つの島なのに、未だに「総称」がなく、半分づつ名前がついているのだ。
アホみたいな話だが実話である。




382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/09(月) 14:26:01 ID:hc/yTi4E
同じ島の中で方言が違ったりするのかな?

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/09(月) 14:29:40 ID:IuAdMNVs
なんでわかれとるんかなって思ったら、そういう理由があったのか

>>382
隣同士の場所でそうそう変わらんだろ

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/09(月) 18:00:13 ID:L+cRJLQe
>>383
ああ、あの島ね。なるほど
しかし、瓜生島の逆パターンの島なんだな

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/09(月) 19:32:22 ID:7QSOGVfc
しかしまあ、上手に解決したもんだなあ
俺なら贔屓にしてる方に二つの島あげちゃうもん

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/09(月) 20:07:20 ID:owUdPt/6
「争いごとは元から絶たなきゃいけないよね、この中州は天領でいいよね!」ってな感じの豪腕ブリは・・・

391 名前:382[sage] 投稿日:2010/08/09(月) 21:34:49 ID:hc/yTi4E
ちょっと調べてみたら、いまだに、方言も風習も全然違うみたいだな

ttp://akikoy.at.webry.info/200709/article_49.html

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/09(月) 22:28:15 ID:2h4BqSTH
>>385
殿中でござる殿中でござるくらうぞw

味のおかしな羹と知恵伊豆

2010年08月04日 00:00

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/03(火) 12:16:53 ID:wp/FFOXq
徳川家光が食事を取っていた時のこと、ふと知恵伊豆こと松平信綱を呼んで、
食事の中にあったあつものを分けて、これを食べて感想を話すよう言った。

信綱これを頂き味を見、しばらく案じてから

「これは古くなって味の悪くなったものを、あつものにしてしまったようです。」

と、申し上げた。「これは担当の奉行の失態であるな。応分の処分をするように。」
と家光は命じ、信綱はかしこまって退出した。

翌日の夜、家光は重ねて信綱を召しだし、昨日のこと、どのように処分したかを尋ねた。
信綱は謹んで

「昨日のあつものですが、あれは料理をした者が少々うっかりして古く味の悪くなったものを
御膳に出してしまった、というだけのことであり、担当の奉行にはよくよく注意しておきました。

何故そう解るかといえば、私は昨日あのあつものを頂いてから今まで、湯水の他に何も
口に入れませんでした。これは、もしや毒でも入れたか、と案じたためですが、
現在にいたるまで体調は些かも変わることはありません。

しかればこれは、ただうっかりと不注意なままに、あのように味の変わったものを
使ってしまった、と言うことです。それ故その処分も、相応のものと致しました。」

家光これを聞き、信綱の所為実にかなえりと深く思し召した、とのことである。


知恵伊豆の、実に実証主義的な判断の仕方についてのお話。




484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/03(火) 14:10:02 ID:1EDvIrVE
偉大な家系は三代目が一番気を付けなきゃいけない時期だけど
春日局といい保科正之といいこの人といい
家光はいい部下に恵まれたから乗り切れたんだな

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/03(火) 14:26:19 ID:nwCiZHUk
これが権現様の時代なら
知恵伊豆並みの部下がいても三河武士のめんどくささが先に立って
応分の処分=切腹なんだろうな

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/03(火) 15:29:29 ID:wp/FFOXq
>>485
いや権現様の若い頃なら

・味の悪くなった食べ物→家康激怒「おのれ主君に腐ったものを出すとは手打ちにいたす!」

→ここで作左さんあたり登場「味の悪くなった食べ物くらいで手打ちにするなら我らは
自分の女房を皆斬り殺さねばなりません何故なら我らの若い頃はろくに食うものもなく
少々腐っていようがかまわず…」とかなんとかクドクド

→家康、いたたまれなくなって奥に引っ込む。→反省して許す。


こんな感じだろうな。これから考えれば家光の反応も知恵伊豆の対応も
非常に文明化しておるw

487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/03(火) 18:22:48 ID:pAnFdpKz
膾を吹く話にいつなるのかと思いつつ最後まで読んだwwww

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/03(火) 18:29:29 ID:O81+5Sdf
>>486
ワロタ

松平信綱『大刀と小刀』

2010年07月21日 00:01

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/20(火) 19:48:08 ID:+6dcuBFi
ある旗本が松平信綱に言うには
「諸侯は大国を賜り、参勤の際には上使を派遣され、帰国の折には下贈品もあって、
とても厚遇されておりますね。対してわれら旗本は、大事の際に将軍のもとに参上し、
まっさきにご奉公いたしますのに、こうしたおもてなしがないのは理解に苦しむところですな」
とのことであった。

これに信綱が答えるには
「諸侯の厚遇には理由がある。諸侯は合戦では要所の守備を命じられ、平時も普請などで
金を使っているであろう。こうした時に頼みやすいよう普段から心を通じているわけだ。
例えれば、腰の刀はいざという時のためにあるが10人に9人は一生使わないにもかかわらず、
いつも大切に扱っておる。小刀はいつも使うが、それほど大事にしているわけでもない。
そういうことだ」ということであった。




262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/20(火) 20:02:57 ID:8+svO9rb
>>261
それってつまり「おまえらは便利だからいつも使うけど別に大切じゃない」ってことじゃね?

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/20(火) 20:16:56 ID:gIG/NoYJ
>>262
将軍に取って本当に近しいのは旗本だ、ってことだよ。

若き知恵伊豆、幼い家光のピンチを

2010年07月02日 00:00

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/01(木) 20:01:15 ID:yB0Yjulm
知恵伊豆シリーズ

慶長16年(1611)の事

当時7歳の徳川竹千代、後の徳川家光は、早くも鉄砲の稽古を始めていた。
病気より回復し再び出仕し始めたばかりの、この時16歳の知恵伊豆、松平長四郎信綱も、
病後の体ながらそれを見学に行った。

さてこの時、竹千代が引き金を引いたにもかかわらず、弾丸が発射されないことがあった。
火縄が途中で消えていたのだ。
竹千代は「火薬の詰め方が悪かったか?」と、鉄砲をそのかたわらに置いた。

少しして竹千代はその鉄砲のことを忘れ、その銃口の前に体を動かした。その時である

「危ない!!」

信綱は猛然と駆け出し、その鉄砲を蹴り飛ばした!
飛ばされた鉄砲はしばらくすると、轟音を立てて暴発した。これは火縄が火皿に触れたままになっており、
火縄が再び燃え出したため弾丸が発射してしまったのだ。
信綱はとっさにその事に気が付き、鉄砲を蹴り飛ばしたのである。

この時家光の守役、青山忠俊は涙を流し、「只今の振る舞い、形容する言葉も無いほどの忠節である」と、
信綱を褒めたたえたという。

「信綱記」に出てくる、若き知恵伊豆、幼い家光のピンチを救う、と言うお話。




22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/01(木) 20:33:33 ID:5RWbyUtF
>>21
知恵伊豆GJ!
銃口の前に出てはいけないなんて、近代軍隊では一番最初に叩き込まれることだけど
当時はそんな思想もあまりなかったんだろうなあ

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/01(木) 20:51:33 ID:nOfhpEkm
火縄銃って危ないんだな。

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/01(木) 21:13:25 ID:nYL0t1S3
そりゃ火器だから危ないにきまってるだろうに~

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/01(木) 21:55:43 ID:7h5JwanT
>>22
平和ボケの可能性もあるんじゃね?
竹束の持ち方も知らない世代のさらに下(?)だし。

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/01(木) 22:24:42 ID:nOfhpEkm
>>24
そういうことじゃなく暴発とかで亡くなった人多いらしいし。
そういう危ないものをよく将軍に使わせるよなと。
ちなみに火縄銃ってすごい轟音なんだな。
ttp://www.youtube.com/watch?v=AddG3JunxLU

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/01(木) 23:37:59 ID:wUqcRg1n
家康はかなり老年まで自分で鉄砲撃つようにしてたようだし
馬術や兵法と同じで、ひと通りの訓練は武家の棟梁としての義務だったんじゃないかな。
従兄弟には武家らしく育てられず、名誉の働きもせずに死んだ人もいるし。

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/01(木) 23:51:51 ID:sE/Lg7wP
遅発は現代の薬莢式の銃でも起こる事があって
これもかなり危険な事故を起こすのよね
何しろ人間のコントロールできないタイミングで発火しちゃうから

この場合は指南役がちゃんと見てないといけない
知恵伊豆GJ
ただ・・・知恵伊豆が蹴っ飛ばした衝撃で発火状態になった可能性もあるのだがw