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上杉謙信による席次争いの裁定

2023年01月15日 16:08

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 00:04:03.76 ID:wbs1odIZ
武家閑談」より上杉謙信による席次争いの裁定

永禄三年三月(永禄四年閏三月?)、上杉謙信輝虎公が鶴岡八幡宮の神前で管領に任じられた。
関白近衛前久公が下向され、公方義輝よりは大和兵部少輔が上使であった。
その時、関東八州の大名・小名が列座した時に、千葉国胤(千葉邦胤は当時は幼児。父親の千葉胤富)と小山政種(小山政種は生まれる前。祖父の小山高朝)が席次争いした。
これを聞いた謙信公が
「千葉殿は関東八州諸士の上であるべきである。
また小山殿は関東八州諸士の下になるべきではない。」
と裁判したところ、事は静まった。
謙信は当意即妙の才知である、と天下の誉れとなった。



556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 02:02:07.90 ID:9vgYVuhb
つまり…どう座ったの?

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 08:10:46.60 ID:bAsuNukx
隣に並ばせたんじゃね

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 08:38:50.88 ID:FKjG8Ito
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/小山高朝
永禄4年(1561年)、小田原城の戦いでは上杉謙信に味方し、上杉軍の一員として包囲戦に参じている。
しかし、謙信の関東管領就任式の際に千葉胤富に関東諸将の首位の座を奪われたことに不満を抱いたと言われており、直後に北条氏康と手を結んだために謙信の怒りを買い、
翌永禄5年(1562年)に再度関東入りした謙信に攻められて高朝は降伏した。

単に謙信が関東から出たら北条になびいただけかもしれないけど
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減刑を命ず

2022年12月03日 16:18

490 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/12/02(金) 19:51:15.04 ID:JTYTDe7c
減刑を命ず(『上杉謙信言行録』より)

謙信公が家来を従えて漁に行った時のこと。
人が集まっていたので何事かと思い、公が傍らにいた梅津左京に問いただした。すると「あれは佐渡で酒を盗んだ4人の者が今死刑になろうとしているところです」と答えた。
公は静かに頷き、「たしかに役人は法に基づいて処刑しようとしている。しかし少し考えるところがあるので、もし執行を延ばせるなら延ばしてやれ」と梅津を使者として処刑を一旦止めさせた。

公は館へ帰ると老臣たちを集め、「生あるものの最も大きな災いは死である。それを今まで私は無視してきた。誠に無念である。
どうか今後は盗人に寛大にしてやりたい。殺さずにすむのならこの上ない。私は才無く政治に暗いため、判断はそなたたちの考えに任す」
とそれとなく赦免してやれとの意を仄めかした。

老臣たちは熟議し、結果的に4人のうち1人は死罪にし、残り3人は手首を2本ずつ切って国を追放したとのこと。



491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/02(金) 22:25:14.45 ID:cjHriNtb
法をねじ曲げて自己満足する馬鹿な主君に苦労した老臣の苦心が見えるな

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/03(土) 08:49:55.77 ID:giIWnroe
国を盗んだ者が言う事だからなあ

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/03(土) 12:34:10.43 ID:0ZMCCLVr
打ち首の方がましな気がする

494 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/12/03(土) 15:02:53.62 ID:f13TQAwz
手首2本づつってもしかして両手切り落とされてる?

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/05(月) 00:16:57.95 ID:c4fe6fH1
>>490
伊勢宗瑞が馬盗人を放免してやる噺と通底するものを感じる。
何かオリジナルがあって各国各将に設定を替えて広く流布されたんじゃないか。
巷談俗説の類にはよくあるパターン。
 
497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/05(月) 08:19:09.91 ID:RH68z/I1
>>495
そしてコピーされるうちにオリジナルの大事なところが欠落して、この話みたいに単なるアホ主君の話にされるのもよくあるな

上杉謙信の愛刀

2022年06月12日 14:06

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/11(土) 20:33:27.11 ID:E6KPR8lH
朝野雑載」から上杉謙信の愛刀

上杉謙信の太刀は小豆粥(鎌倉行光三尺一寸。川中島にて信玄と立ち合った時の太刀である)、
谷切(来国俊作)、竹股兼光という、当代のすぐれもの三腰があった。
竹股兼光は、元来越後老津の百姓の刀であったが、不思議の霊剣ということで秘蔵して持っていたのを、竹股三河守(竹俣慶綱)が所望して家宝とした。
やがて謙信の耳に入り、謙信は乞い取って指料とした。
弘治二年(1556年)三月二十五日夜、二度目の川中島合戦のとき、信玄の家人・輪形目平太夫というものが一匁筒の鉄砲を構えていたところに、謙信が来て斬りかかり、かの竹股兼光で切り伏せた。
首は宇佐美駿河守定行の郎党・塚内が討ち取った。
夜が明けて甲州衆が輪形目の死骸を見たところ、持っていた一匁筒の二の目当の上を切断して真っ二つにしていた。
「いったい何を使って切ったのだろう?」と皆怪しんだ。
夜中のため、見た人もいなかったが、定めて謙信がお切りなさったのだろうと言い合った。
この刀、景勝の代に京都へのぼらせこしらえたところ、一年ほどへてようやくこしらえができ、越後に戻ってきた。
景勝の家老、直江・本庄をはじめ、そのほか宿老どもを呼び寄せ、その刀を見せなさった。
「さすが都の水で磨いただけあって、見事にできたものだ。まるで新刀のようだ」とおのおのは誉めそやした。

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/11(土) 20:35:15.85 ID:E6KPR8lH
しかし元の持ち主の竹股三河守はじっくりと見て、
「これは御当家の兼光ではございません。定めて取り替えたものでしょう」と言った。
景勝「その目利きはどういうことだ?」
三河守「かの御刀ははばき元より一寸五分上、しのぎに馬の毛一筋とおすほどの穴があり、
指表から指裏に通っていました。
それがしでなければ知る人もいないでしょう」
そこで三河守を早速京都にのぼらせて、三河守はしばらく京に滞在し、備前兼光の一尺八寸から三尺の売刀を求めたところ、はたして清水の南坂より持って来る者がいた。
そこでこれこそが竹股兼光の正真のものである、と三河守はこの趣を石田治部少輔に訴えたところ、偽物を出した罪人十三人をからめとり、日野岡峠に磔にかけた。
のちに正真の兼光を三河守は越後に持ち帰り、景勝の前でしのぎの穴に馬の毛を一筋引き通して見せ申した。
景勝をはじめ諸人は「奇妙の刀」だと感じた。
このことが秀吉公の上聞に達し、ほどなく景勝に御所望が下り、秀吉公に指し上らせた。
大坂落城のとき、城中に籠っていた浪人はこれを取って和泉・河内の間に落ちていったと噂が立ったため、
将軍家からもさまざまに御詮索があったが、とうとうそのありかはわからなかったという。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-546.html
上杉謙信と「竹俣兼光」・悪い話

以前に出たのとは微妙に違う話
「宇佐美定行」の名前が出ているので話半分でよろしくお願いします。



240 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/06/11(土) 21:17:11.88 ID:q+6P8a6t
こっちの沖縄の話にもありましたが、往時の京の刀剣業者ろくでもないw


戦国時代の空手マスターの話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4462.html

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/12(日) 10:58:32.97 ID:oljx+cCd
竹俣で元女流棋士でフジテレビアナウンサーの竹俣紅を思い出したら
この竹俣慶綱の子孫だった

洛中洛外の図の屏風一双

2021年08月27日 16:58

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/27(金) 15:55:22.08 ID:2w20CCI8
天正二年三月、上杉謙信公に対し、織田信長公より両使を以て、洛中洛外の図の屏風一双、
源氏物語の屏風一双、何れも狩野永徳の筆にて、極彩色であり、これを謙信に進上した。
殊の外の懇志であった。

然れども謙信は、信長が色々な手立てを以て上杉領内に手遣いがあることに対し、書礼を遣わし、
信長が表裏ある事を責めて、手切れの旨を申し遣わした。
これに信長は、何者かの讒言によってこのようなことになったのだと様々に陳謝したが、謙信は
用いなかった。

太祖一代軍記

洛中洛外図屏風(上杉本)についてのお話



信玄逝去

2021年08月26日 16:24

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/26(木) 15:00:57.75 ID:e31HGtJg
天正元年二月、徳川家康公より植村與三郎を使者として、上杉謙信公に仰せ寄越された内容は、
去る冬の極月(十二月)二十二日、遠州口三方ヶ原での合戦で勝利無きに付き、武田信玄
勝ちに乗って東三河に発向してきたため、謙信は信州へ働き、甲州までも攻め入って頂きたい、
との事であり、その書状、並びに備前守家の刀が進上された。その刀の異名は徳用と号した。
謙信よりも音物が贈答された。
信玄が三州岡崎の城に攻め詰めれば、謙信は信州より甲州へ取り掛かるという旨の約諾が有った。

その頃信玄は東三河へ攻め入り、菅沼新八郎定盈、松平與一郎忠正が籠もる野田城を攻め落とし、
両大将を生け捕った。しかしその砌、城方の鉄砲烈しく、信玄は大事の所に鉄砲によって負傷し
(信玄大事の所に鉄砲手を負ひ)、その疵が腫物となって気分次第に快からず、四月十二日に
三州・信州の境である浪合にて逝去した。武田はこれを秘して喪を発せず、病気であるとして
死骸を守護して、甲州勢は残らず退散した。

その夏五月七日に、小田原北条氏政より山中兵部を使者として、信玄が死去したと越府に注進があった。

伝に曰く、この氏政の口上を本庄清七郎取次にて披露した時、謙信は膳に向かって飲食していた。
信玄死去の情報を聞くと、箸を捨てて手を打ち、

「合戦の能き相手を失い、さてもさても力を落とした。その上信玄は世に稀なる英雄名将であった。
残り多く、情けなきことである。」

そう言って数行の落涙をしたという。

太祖一代軍記

武田信玄の死去について。ここでは野田城攻めの時銃創を受けたため、という説なのですね。



983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/26(木) 17:58:22.35 ID:j/dhOPJq
天正元年六月の長尾憲景宛書状では
信玄が死んだため、信長・家康は駿河に進むだろうし
関東平定も実現の見通しがつき、越中も思うがままになってきたと
喜んでいるそうだが

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/26(木) 21:47:04.64 ID:EKAhKpsG
長年の宿敵と踏んでたし人柄的にも信玄って謙信が嫌いそうなタイプだし
訃報を聞いた時は喜んだってのが事実じゃないかとも思う
でも信玄ほど歯ごたえがあって正面から闘ってくれる相手もいないから
後々になって信玄の死を惜しんだとかはありそう

公方義輝公を弑し奉った事について

2021年08月23日 16:27

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/23(月) 14:51:42.36 ID:X36Q9D4/
永禄八年五月十九日、京都に於いて三好左京大夫義継、松永右衛門佐久通らが逆心し、公方義輝公が
御生害された。これにより畿内は大いに乱れ、公方の御弟である一乗院覚慶は南都を落ちて江州矢島に
至り、公方家再興のために還俗、義昭と号した。

七月、上杉謙信は二万の軍勢で越府を立ち越中へ入り、そのまま直に進んで加賀国へ攻め入り、
若林長門守、蕪木右衛門尉、石黒、宮崎、南保、高楯、入善等を攻められた。
この後、長尾兵部尉景盛、島山因幡守両使を江州矢島へ遣わし、義昭公へ御兄公方光源院殿と
御弔いを申し上げられた。

この時三好義継が逆心にて、公方義輝公を弑し奉った事について、その七ヵ年以前、永禄二年の夏に
謙信が上洛して十月に至った頃、三好長慶を始めその一門、並びに松永、岩成、松山党などの
驕り甚だしく、公方を蔑ろに致している様子を謙信は見届け、いずれ三好逆心の相有りと察した。
そこで京を立ち越後へ帰る砌、御暇乞を申し上げ、密々に言上したことには、

「三好一家無礼にして終には反逆の相が御座候。もしそういった様子が見られたときは、早々に
私に仰せ下されますように。馳せ上がり退治いたします。」

という旨を申し置かれたが、これに公方義輝公は御喜悦斜め成らなず、御手づから藤林という名物の
國綱の御太刀を下され、必ず御頼りあるべき旨を、懇ろに御堅約された。

去る年、子七月四日、三好修理太夫長慶が病死した。三好一門、家人はこれを秘して喪礼を致さず、
病中と申す沙汰を致したのだが、これが密々に公方の上聴に達し、不審に思われている内に、反逆の
様子が徐々に顕れた故に、公方は大和兵部少輔を御使として越後に下され、早々に謙信が上洛するよう、
密々に御内書を下された。しかしこれを三好が聞きつけ、
「謙信が上洛すれば中々叶うべからず。その前に取り掛かるべし。」
と、俄に思い立ち逆心し、公方を弑し奉ったのだと云われた。

太祖一代軍記



輝虎は斯くの如くの

2021年08月21日 17:56

940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/21(土) 16:43:19.91 ID:cQDwS0uU
永禄二年の四月上旬、上杉景虎は二度目の上洛をした。

(中略)

同月二十六日に、上使大館左衛門佐輝氏が御内書持参にて、景虎の文の裏書き、並びに
塗輿、朱柄傘を御免になり、屋形号、並びに「輝」の字を下され、斯波、細川、畠山の三管領に
準ずると云々。景虎はこれを拝受した。その御礼として宿舎より京に入った。これより景虎を改め、
輝虎と号した。

その御礼に向かう途中において、三好の家来の士と松永弾正少弼久秀の家人が馬上にて行き合い、
無礼であったために輝虎は怒り従士に下知して、たちまち討ち捨て頭を刎ねた。
近年三好、松永の威勢強く、これに並び立てるような者も無かったのだが、輝虎は斯くの如くの
対応をし、これに貴賤上下、輝虎を恐れること斜め成らずであった。
そして三好、松永はこれに一言も云うことが出来なかった。

(中略)

世に伝わる話に、堺に宿泊した折、旅宿の主人が草足袋を履いて見目に出たことに、輝虎は
「その体無礼なり」と怒り、その主人を手討ちにした。これに堺の者達千人ほどが怒って輝虎の
旅宿を囲んだ。そこで輝虎はその家に火を懸け切って出て彼らを追い散らした後、静かに京へと
帰った。輝虎の懸けた火は延焼し、堺において数千軒が焼失した。

太祖一代軍記

二度目の上洛でいろいろ大暴れしたらしい謙信公



謙信と猛猿

2021年08月20日 16:52

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/20(金) 16:04:56.65 ID:R9Sq4sPr
天文二十二年、二十四歳、閏二月、長尾景虎は上洛した。

伝に云う、この時将軍である足利義輝公は宣われた
「景虎は若年より弓箭を取って、その武名は世に知らないものは居ない。
ちょうど今、土佐の長宗我部元親が献上してきた猛き猿がある。これは世に稀な猛獣であり、
檻に入れ、鉄でその檻を包んでいるほどだ。そこで景虎出仕の際、これを檻より出して路次に
繋ぎ置き、景虎の勇を試みよう。」

この猿は行き交う人を見ては必ず牙を鳴らして躍り上がり、叫声も凄まじいものであった。
この猿を以て景虎を試すという事は洛中に聞こえ、世の人は皆、景虎出仕の日を待って見物した。

景虎は洛中に間諜を置いていたので、この事を素早く聞きつけ、近習の士である鬼小島弥太郎という
大力の兵に下知して、巡礼の姿をさせて猿の餌食を持たせ、かの檻の方へ遣わした。

鬼小島は往来の人に交わり、番所に近づくと番士に話しかけ、件の猿に近づくと、猿は鬼小島を見つけ、
牙を鳴らし喚き叫んだ。そこで鬼小島は餌食を出しこれを与えると、猿は喜んでこれを食うこと三度にして
猿も殊の外静まった。この時、鬼小島はまた餌食を、今度は檻の外に置いた。

猿はこれを見て格子より手を出して取ろうとしたが、鬼小島は無双の大力であり、去る年、
越府往下の橋を修理した時、三十人持の大木を軽々と持ち上げた。これ故に世の人は彼を「鬼小島」
と呼んだのである。このような大力故に、猿の手をむずと捕らえ、格子の角木に押し当てて、
しばらく押し付けると、大力に痛めつけられ猿は涙を流して苦悩した。鬼小島は手を離さず、
半時ばかり痛めつけると、猿は弱って地に伏して啼いた。そして鬼小島は旅宿に還った。

翌日、景虎出仕の時、鬼小島も側に供した。洛中の貴賤は景虎が猿に遭った時の剛臆を見ようと
群衆した。公方家の諸士も景虎の出仕の様子、また猿の有様を見ようと皆々伺候した。
景虎は猿の前を洋々と通るが、猿は側に在る鬼小島を見知っていたため、恐怖した様子で
地に伏した。鬼小島は猿を睨んで通ったが、猿は頭を垂れ平伏した。

これを見た公方も管領も三好一門も奇特の思いを成し、御前首尾よく退出して帰られたが、
公方を初め奉り、細川右京太夫氏綱、三好筑前守長慶以下も
「景虎は若年より弓馬のみに心を寄せ、礼儀など知らないと思っていたが、出仕の礼神妙であった」
と褒め称えたと云われる。

太祖一代軍記

猛猿のお話の上杉謙信バージョン。長宗我部元親は天文八年生まれなのでこの時十四歳ですね。
家督もまだ継いでないので足利義輝に猿を贈るのはちょっと難しいかな。




445 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 21:22:23.14 ID:QWEeROo3
>>444
> 猛猿のお話の上杉謙信バージョン

やいこの縮緬坊主エテ公一匹躾けンのに子分の手ェ借りるたァ臍が茶ァ沸かすぜ若僧それっくれェも手前ェで出来ねえくせに軍神様が聞いて呆れらァ第一(でーいち)手前ェァ不敗だ何だ豪傑風ェ吹かしてやがるが本当(ふんと)ァ何遍も負けてベソかいて逃げてやがんの知ってんだぞこの童貞野郎こちとらァ本物の生涯(しょうげー)負け無しだあんな猿なんざ自分(てめえ)で四つに畳んで座布団に敷いちまわァ手前ェみてぇな張子の蛇のお兄ィさんたァお兄ィさんが違うんでぃ解ったか篦棒奴解ったら一昨日出直して来やがれっ。

※太田道灌は江戸者なので一切噛まず一息で二秒以内にこの啖呵を切ります。

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/20(金) 23:05:45.08 ID:46XUOyEh
その太田道灌、山吹の歌を家来に聞かされたら
「なな屁、や屁?なんだかくさそうな感じだなあ」
とか言いそうだ

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/20(金) 23:23:43.09 ID:BUA5xDqI
>>445
そのセリフ読んでたら森山未來が出てきた

448 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 23:34:44.65 ID:ewp9KiJx
>>446
おいおい、坂東武者は土蜘蛛や蝦夷の類じゃないんだぜ。

449 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 07:22:08.67 ID:unjCq8w5
>>444
猛猿注意
https://i.imgur.com/ZaqmVog.jpg
ZaqmVog.jpg


451 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 13:17:17.10 ID:2oZ3rl14
>>447
> 森山未來

何者だ其奴ぁ?と思って調べたら関西者じゃねえか。
口跡が薄汚く粘る関西弁じゃこの啖呵ァ切れやしねェよ。

453 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 17:36:18.57 ID:unjCq8w5
>>451
烏にゃ越えられぬ、富士より向こうのお国言葉は大層威勢が良いですね。人が沢山下って
合い集まる東国ならではの江戸っ子気質に溢れチャキチャキの威勢に満ちた、大
衆文化の新境地。鎌倉から戦国期に戊辰戦争、数々の大戦を経て育まれた土地ならではですね。

その言葉を忘れ給うな

2021年08月17日 17:51

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/17(火) 16:56:24.58 ID:rvMo7SwV
天文六年、八歳にして長尾景虎は勇猛にして兄三人を凌いでおり、その頃下越後の領主、
加地安芸守春綱に実子が無かったため、景虎を養子と定めた。そして景虎に、この家督を継ぐべき旨を
為景が直に申し聞かされたのだが、景虎はこれを悦ばず了承しなかったため、為景は怒って
屋形である上杉定実に訴えて諸老臣と談じ、景虎を下越後へと追い下した。

これにより景虎は府内を出て、米山を越した。傅役の金津新兵衛を始め四、五人が供であった。
この米山は上り四里下り四里で、峠に薬師堂があり、米山寺といった。この堂より見下ろすと、
越後の国中が眼下に見えた。この堂の縁で休み、景虎にも破子(弁当)を進めた。
景虎は八歳であったが、年頃よりは少し大人びていた。堂の縁を遊び廻り、金津新兵衛に向かって言った

「この度の無念を晴らし本望を達するには、この山が能き陣所であるから、この筋にて合戦をすべし。
頸城、古志、府内の城を眼下に見下ろす、能き陣場である。」

これを聞いた新兵衛は涙を流し、
「その言葉を忘れ給うな。頼もしく候。」
と悦んだ。果たして十一年後の天文十六年五月、景虎は兄晴景と一戦し、大利を得られ、越後を
切り取られたが、その時この米山が合戦場であった。

太祖一代軍記



436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/17(火) 18:10:18.04 ID:I/VKUdaS
>>435
こういうのがあるからたまに謙信がなろう系転生者の小説主人公になるんだよな

神童繋がりで、転生したら厩戸王子だったというのもあってもいいな

晴信の戦術は例えば

2021年08月13日 17:02

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/13(金) 14:43:58.43 ID:upLtH4SS
長尾景虎は越後へと亡命した村上義清に対して尋ねた。

「私は多年に渡り、甲州に限らず諸方に間者を遣わし置き、国々の風俗、国政の善悪、
軍事の勝劣を聞いている。村上殿は武田晴信と多年、数度戦っておられる。
そこで彼の戦術の法の詳細を、私に聞かせていただきたい。詳しくこれを聞きたいのだ。」

義清が答えて曰く
「晴信の戦術は例えば、水の漏れる船に乗って、風雨を凌ぐ如きものです。
戒め慎んで、軽率に戦を欲しません。」

景虎はこれを聞くと
「晴信は正兵である。私がこれに向かうには、必ず奇兵を以て、倫強にして進み懸かって、
これを討つに如くはない、」
と言われた。

春日山日記



416 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/13(金) 15:07:30.31 ID:L6mwb0mW
>>415
謙信、人をして北條氏を諜せしむ。
氏康戦ふ毎に奇を用ふと聞いて、曰く「彼は奇を用ふ。吾は正を用ふるなり」と。
(日本外史)

相手によって態度を変える軍神様。
臨機応変変幻自在と云やぁ聞こえは良いが、結局北條にも武田にも負けてんだから世話ァ無ぇ。

「私は伊豆箱根の者である。」

2021年08月10日 17:35

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/10(火) 13:02:03.40 ID:L7JNtLpE
長尾為景の次男とは、後に長尾弾正少弼景虎、後年剃髪して権大僧都謙信と呼ばれた人物である。
享禄三年に誕生され、童名を猿松丸と言った。しかしながら幼年の頃。戯翫に異様であるのを好み、
長するに及んで膽気剛腹にして、老臣の諫言をも用いず、その行跡は尋常の人ではなかった。
故に老臣たちは彼を悪み、疎み捨てたという。

異説に曰く、為景の内室が不思議な夢を見た。その夢は、年齢二十歳ばかりの客僧が、内室の枕上に立って
このように言った

「私にしばらくの間、その方の胎内を貸されよ」

内室は夢の中で返答した、「たしかに客僧の仰せに任せ、私の胎内をお貸しするのは安きこととは言え、
夫の下知を受けなければ叶い難いものです。」

「さあらば、為景に語られよ。為景同心に於いては重ねて来るべし。」

その言葉も言い終わらぬ内に、夢はたちまち覚めた。早朝に起きて、内室はこの夢の模様を
為景に語った。為景は夢の様子を詳しく聞かれ

「これはただ事ではない。天の加護によって、英雄の男子を授与され給うと覚えたり。
重ねて夢の中に彼の人が来れば同心するように。」
と、心に祝い、重々に沙汰された。

その夜、また内室の夢ともなく現ともなく、先夜の僧が来て枕に立ち寄り、
「過ぎし夜に約した事、為景に語られたか」
と尋ねられると、内室は返答に
「夫に語り聞かせた所、いと安き御事であると言われました。ところで御僧は何方より
来られたのでしょうか」
そう問うと、僧は打ち笑って

「私は伊豆箱根の者である。」

と言い終わらぬ内に、内室の左の懐中に入ると感じ、たちまち夢は覚めた。
それより程なく懐妊あり、享禄三年、男子が誕生した。これが即ち景虎である。
この事は世間にあまねく隠れなく、世間では彼が箱根大権現の化身であると
語り合ったという。

春日山日記

毘沙門天だけではなく箱根権現の化身とも言われたりしていたんですね、謙信公



403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/10(火) 13:31:38.84 ID:1sued4HW
どうせなら関東管領になる、まで予言したことにすれば

謙信公が遺言の如く、弓箭の神と成り給い

2021年07月20日 17:31

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/20(火) 16:26:19.98 ID:iLrxlNOV
天正十七年(1589)、上杉景勝による佐渡攻めの時のこと

景勝公は六月十日、佐渡国沢根の湊に御着岸され、先衆の構築していた陣城に御旗を立てられた。
直江、泉澤、島津、小倉喜八郎、そして景勝公が御渡海と聞いて、吉井城の城主はその前からの
先陣からの攻撃にさえ手こずっていたためこれを恐れ、早々に城を開いて羽持へ逃げていった。

十一日、十二日は御休息。十三、十四の両日、河原田佐渡守をはじめ、北佐渡衆は景勝公に
御礼を申し上げた。
十六日、南佐渡を御退治あるべしと決定された。

そのような所に、越国御留守大将である甘糟近江守(景持)より、奇異の注進があった。
去る十三日暮れ方、毘沙門が夥しく鳴動した後、五尺(約150センチ)廻りほどの光る物体が
一つ飛び出た。その跡から大小五、六千の光る物が列をなして続き、佐渡の方へ飛んでいった。
これは越国の諸人が、確かに見たものである。

「これは定めて、謙信公が遺言の如く、弓箭の神と成り給い、光を輝かせ加護されること明瞭である。
今度の戦は全く御勝利疑いなし。」

そう、下民に至るまで喜悦謳歌したという。この事は広く申し上げられた故に、敵味方ともに知らぬ者は
無かった。この事口伝。

管窺武鑑

軍神謙信公出撃の模様。



311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/20(火) 16:31:34.88 ID:oSNL/R0z
故光瀬龍が知ったらこのネタを元にSFを書きそうな話だな

312 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/20(火) 16:56:47.72 ID:FdJyY6Im
時期的にみずがめ座η流星群か、うしかい座流星群とかかな?

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うぬは北斗七星の横に蒼く輝く星が見えるかな?

上杉家の旗印について

2021年06月17日 18:54

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/17(木) 16:24:27.90 ID:Jbj8xrvS
上杉謙信の頃には、家の旗が無かった。紺地に朱の日の丸の四半のものが一本、
白地に黒で「毘」の字の四半一本、何れも五幅の懸けであった。

後に白地に「無」の字を書いた四半を仕立てられ、気に入っておられたが、
城意庵(景茂)が謙信の気に背き、甲州に逃亡して武田の家人と成ると、白地に無の字を書いて
指物とした。これに謙信は大変に怒り「是非とも意庵をうつべし!」と、合戦の度に下知した。
それ故に自分の無の字の旗は用いることを停止した。

景勝の代に、秀吉公の御意により「上杉家に馬印を仕るべし。」と、直に仰せ付けに成った。
その座に家康公が居られたため、景勝はこのように申し上げた

「そういう事でありましたら、家康公の、扇の御印を申し受けたく存じます。」

そう所望した。これを聞いた家康公は御機嫌にて

「であれば、我が馬印は金であるので、色を変えられるように。」

との御意にて、上杉は浅黄の扇となった。現在も当家は、浅黄の扇の馬印である。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

上杉家の旗印について



264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/17(木) 20:31:35.44 ID:7ymAEE9O
城氏って源平のときの城氏か

輝虎越後より出陣と聞くと、敵も味方も恐れて

2021年06月12日 18:01

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/12(土) 01:54:01.55 ID:mFfvZ2t0
佐野天徳寺が、江戸御城において、上杉弾正大弼定勝に向かってこのように語った

「あなたの御祖父である謙信公の御武勇の威勢は、兎角の言葉で表現できるものではありませんでした。
私が若き時分には、佐野は謙信公の御旗本でありました。

輝虎公が越後より上州厩橋城に御着になると、二、三日人馬を休め、それから関東筋へ打って出て、
縦横に働かれました。その、或いは五十日、或いは七十日の間は、例えば大雷があって夕立が降った
時の如く、敵も城外に打って出ること叶いませんでした。

さて、謙信公が関東での働きを終えられると、厩橋に帰城され、方々の仕置に十日余りかけられ、
その後越後に帰陣されました。

謙信公が猿ヶ京を過ぎて越後路に入ったという情報を聞くと、関東中の北条方、武田方の敵城は申すに
及ばず、上杉殿旗下の城々も安堵の思いを成し、「最早心易し」と悦びました。
逆に輝虎越後より出陣と聞くと、敵も味方も恐れて、安心が有りませんでした。」

この座に在った酒井讃岐守忠勝、阿部対馬守重次を始め、列座の大名、小名はこれを聞き、
感じ入られたという。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

敵が恐れるのはともかく、味方も恐れるというのはどういう状況なのだろうか。
あと佐野天徳寺は慶長六年に死去しているので、この話が実際にあったとすれば、
天徳寺の養子の佐野信吉が、義父から伝え聞いた話を語った、とかですかね。
阿部重次に至っては慶長三年生まれだし。

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/12(土) 02:01:03.71 ID:mFfvZ2t0
いやそもそも上杉定勝が慶長九年生まれだわ



その他の注進状は、皆偽作と見え、

2021年06月01日 18:12

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/01(火) 15:07:35.12 ID:K4eUfYaZ
近年、世間に出ている記録を見るに、当家(上杉家)に於いて、嘗て聞いたこともないものが多い。
川中島合戦を、公方(足利)義輝公に注進した書状という物が有るが、みな後世の人の偽作である。

ただし、天文二十二年霜月二十八日、川中島下米宮での合戦(第一次川中島合戦)の次第を、
京都の大館伊予守(大舘晴光か)方へ書き付け送られた書状は、真の書状であり、実物が京都にある。

この内容は横田源助、武田大坊、坂垣三郎、穴山主膳、半菅善四郎、粟田讃岐守、染田三郎左衛門、
帯兼刑部、并びに駿河今川よりの加勢・朝比奈左京進、武田飛騨守などを始め、五千余騎を討ち取った、
という文言である。この書状は確かなる本物である。その他の注進状は、皆偽作と見え、信用なり難い。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記



車懸りの陣について

2021年05月31日 18:28

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/31(月) 15:28:14.54 ID:PkbNsYg0
第五度目の、最後の川中島合戦は、永禄四年九月十日であった。この次第は別巻に註する故これを略す。

総じて近年、世上において『車懸り』という手立てを、川中島合戦で上杉謙信が用られ、それは
いく廻り目にて、旗本と敵の旗本が打ち合いをする手立てであるのだという。
これについて、当家上杉方においては、遂に聞いたことがない。

尤も、家の法に車懸りという、備えの懸け方がある。これは、敵が戦地に先立って備えを立ち固めており、
我が方は行き懸かりに押しかけつつ、備えを立てようとする所を、敵が待ち受けて、我が方が
備えを立てるため軍の形が変化する所を、敵が打とうと企んでいる、という場合において、
我が方が車懸りという手立てで備えを懸ければ、その事によって、備えを立てるために変化した所に、
敵が打とうと懸かってきても、返って我が方の大利となり、遂に勝利を得るという秘術である。

されども、五度目の川中島合戦で謙信がこのような車懸りをしたという事は無い。
但し、第三度目の弘治二年三月二十六日、川中島合戦の退き口に、謙信が「車返し」という手立てにて、
武田信玄方を引き包んで打ち取り、戦に勝ったことを、聞き誤って言い伝えられているのではないだろうか。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

寛文元年(1661)二月十三日の奥書のある、上杉家家臣、丸太左門友輔が著したとされる記録より、
車懸りの陣について



790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/31(月) 22:01:12.30 ID:EIPAA98W
乃至政彦説だと村上義清の上田原合戦の戦法をヒントに
第四次川中島で兵種別編成を整えた謙信が信玄の首を狙ったところ
信玄がわざと「車懸かり」と由緒ありそうな名前をつけて
上田原合戦での苦戦を想起させないようにさせただけで
上杉家では「車懸かり」という名前など徳川時代になるまで知らなかったとか書いてたっけ

神保の刺客

2021年05月29日 18:31

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/29(土) 16:47:04.01 ID:868aPDef
越中国の住人である神保越後(筆者注:越中守長住の事か)は上杉輝虎公に度々攻められ領地を放火され、
互いに敵対してその遺恨は肺肝(心の奥底)にまで達するものであった。

ある時、神保は輝虎公への計略として、自分の家老の内、或いは外様の諸士、その他領分内の地下人で
あっても、誰に寄らず、見目形優なる若衆を探した所、東国牢人(名字、名、切れて見えず)の持つ子に
一人、誠にその容姿、優なるを選びだした。
そして神保はこの子に向かって言った

「汝を頼み、命を貰いたい。」

その時、かの少年はこのように答えた
「いかようにも、御意次第」

神保は満足して、この少年を結構に仕立てて、その上で申し含めた
「貴殿、越後に行って才覚をめぐらし、輝虎を頼み奉公を遂げ、その透きを窺って、輝虎を脇差の
一突きにて刺殺するように。もしこれが成れば、貴殿の父に越中半国を与える。」

少年はこれを聞くと、未だ十六歳であったが、いかにも機嫌よく申した
「誠に、私をこのように見つけて頂いたこと、偏に天の恵みと申すべきでしょうが、これも
弓矢の家に生まれついた道でもあります。どうにか、智略を廻らしてみます。」
と、委細を申し受け、越後国へ牢人した、

さて、その後にかの少年は越後春日山に来たりて、兎角を計ったものの、中々法度が厳しく、
一夜の宿すら借りることが出来ず、ようやく春日山の近郷、長峯という所の小寺に入り、
無為に過ごしていたのだが、ある時、輝虎公が海へ舟遊山に出られた所に、かの少年が
御蹄の前に罷り出て、「是非御奉公を」と望んだ。
輝虎公はこの少年を見られると、安田という侍に預けられ、「本国はどこの者か、父は何という者か、
所縁を委しく調べ、その首尾を以て召し使うかどうかを決める。」と宣われた。

安田承り、少年に本国、先祖を尋ねた。それについて彼はこのように答えた
「本国は関東の者でありますが、国乱れるによって信州へ牢人仕った所に、父は去る年、
こあらま合戦(天文九年の小荒間合戦ヵ)にて討死仕り、今は母一人居ります。」

また安田は問うた
「その母は現在何処に在るか」

「信州更科と申す所に居ります」

安田は委細を聞いて、直ぐに信州に飛脚を出し、事の様子を尋ねさせた所、少年の言ったような人物は
一人も無かった。そして飛脚の者は罷り帰ってそのことを報告すると、それを聞いた安田は、
再び少年に問うた。かの少年は、未だ若年の余りであろうか、これを聞いて色を変じ、それまでと
様子が一変した。

それらの事どもを一々に言上すると、輝虎公は疑念を発せられ、少年を領内から追放した。
その後上杉領国の法度はますます厳しくなり、神保は本意を遂げることが出来なかった。

謙信家記



783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/29(土) 17:12:10.86 ID:8JRDqXqH
菊門責めを期待してたのに拍子抜けだぜ

785 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/30(日) 14:26:20.55 ID:ciHKv8b6
>>782
戦国時代って、処刑や自害強要が当然に思える相手でも「追放」が多いなと
昔から思うけど、戦でもないのに矢鱈と人を殺すものではないという観念だったのか?

諸国の大将の心底、或いは政道、或いはその国の勢の多少

2021年05月28日 17:07

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/28(金) 15:34:09.94 ID:tPN35S3f
では江戸中期頃の成立ということを把握した上で読んでください。

ある時、上杉輝虎公は家老衆を召し寄せられ、仰せに成った
「私が諸国の大将の心底、或いは政道、或いはその国の勢の多少、又は城郭、山川の剣難について、
今も詳細には知らざる事、偏に智の足らぬ所である。

これを知るための方法を考えるに、頼もしき侍を商人と成して諸国に遣わし、商いを催す様にして、
その国の絵図を記させ、勢の多少迄を聞き極めて、胸中に治めるべきだと思っている。

そもそも一国に、人数がいかほど有るか無いか、また政道は仕置の在り方などは大方知れるものでは
あるが、正確な情報を知らなければ、危ぶむべきところであっても、悪しく判断してしまう。
また人が唱えている事であっても、間違っている事もあり、また正しい事も有るものなのだから、
これも正確な情報を知らなければ、心もとなきものである。いかがであろうか。」

これに家老共、「尤もに御座候」とて、譜代の頼もしき侍十二人に仰せ付けられ、諸国を巡見し、
諸大将の政道、或いは勢の多少、或いは国の剣難、城郭まで、委細に書き付けて、その年中に
罷り帰った、これは輝虎が三十歳以前の事である。

謙信家記



三将三色

2021年05月26日 19:08

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/26(水) 18:26:29.28 ID:ggHkqOzq
ある時上杉輝虎(謙信)公が、侍大将、或いは心安き侍衆を召し寄せて茶の会をなされ、その後に仰せに成った

「信玄、氏康、信長の三将は、坂東に於いて名のある大将である、この三人の政道、或いは軍の執行は
同じ色であろうか、またはそれぞれ、色々違っているか、何れも思う所、一人づつ申すように。」

これに対し、甘粕近江(景持)がこのように申し上げた
「私のような者が推参ではありますが、朝暮にこの三将について推量し、また私が相模牢人、甲州牢人、
尾張牢人に政道の道々を相尋ね申した所、三将三色であると考えます。」

輝虎公はこれを聞かれ
「三色であるという謂れは如何に」と尋ねられた

「智・策・武の三略と言われるものが、軍法の眼目であると承っております。
であればこの三将には一略ずつ得られた道が有ります。」

「その一略ずつ得ているとはどういうことか。」

北条氏康公は、智略十分にして策五分、武三分の大将であります。
また武田信玄公は、策略十分にして、智略は五分です。武については信玄公と打ち合いを
したことが一度もない故、計りかねます。ただし承り及んでいる限りでは、氏康公と
同程度だと思われます。
しかしながら織田信長公については、弱敵とばかり迫合をしているので、委細については
述べ難いと考えます。」と申し上げた。

輝虎曰く、
「然らば、三将それぞれ、ニ略に叶い、一略が欠けていると見えるが、如何か」

「尤も、御諚の通りであります。推参ではありますが私が申し上げた意趣は、屋形様(謙信)は
これらを合わせて、智策武の略を分別なされる事が尤もであるという事です。
智略は氏康公、策略は信長公、武略は信玄公の、この三将の要を御胸中に納められる事こそ、
尤もであると考えます。」と申し上げた。

輝虎公聞かれて、打ちうなずき、何れへも酒を下された。

謙信家記



235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/27(木) 03:46:47.32 ID:9al/gcVO
信玄は策略十分で武略は氏康と同程度って言ってるのに
なんで策略は信長で武略は信玄って言ってるんだ?

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/27(木) 08:46:38.24 ID:azca3Em1
信玄の武は分からんけど三分の氏康レベルって推論から急に信玄の武は要と言われても困るわ

238 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/27(木) 18:38:04.45 ID:X0+FupZm
>>234
謙信家記は原典の後書きに書いてあるけど、春日山八幡宮に宇佐美勝正が納めたという文書を
享保元年(1716)に源忠寛が書写したもの

信憑性はまあ考えてみよう

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/27(木) 22:44:35.85 ID:8rHOi5Ox
>>238
ここは史料を上げるスレじゃないんだから信憑性にこだわっても意味なくない?
それを言い出したら信長公記だって全面的に信用していい内容じゃないし。

240 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/28(金) 10:50:11.05 ID:yYcJ36ve
神主に就任したらすごいの見つけちゃったからこりゃ広めないとなあ(棒
って後書きなんだけど
まあ、当時の雰囲気と一般認識はわかるよな

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/28(金) 11:02:39.30 ID:3QU4AlIO
宇佐美勝正
宇佐美勝興(越後流軍学の祖、宇佐美定満の孫を自称)と関係が?

上杉謙信の青竹

2021年03月23日 18:50

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/23(火) 16:01:53.24 ID:Dtj72xDC
上杉謙信は、背丈はさほど高くなく、左の足に気腫があって、歩く時足を引くように見えたという。
物の具を着ることは少なく、黒き木綿の胴服を着て、鉄で作った小さな車笠をかぶり、采配を取ることも
少なく、青竹を三尺ばかりにして杖のごとく提げ持って、それにて士卒を下知した。
梁の韋叡の「竹如意(僧が読経や説法の際などに手に持つ、孫の手のような形をした道具)」の
遺風であるという。

(北魏の兵が鍾離城を攻めた時、梁は韋叡を以て後援させた。北魏の将である揚大眼は勇将で、
数万騎を率いて戦ったが、韋叡は素木にて造った輿に乗り、白角の如意を執って
軍兵を下知し、切り勝った事が史書に見える)

常山紀談