今よりここは我が城

2017年09月06日 19:22

203 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/09/06(水) 16:25:33.95 ID:IJXRMizk
永禄6年上杉謙信は越中の隠尾城を落とすべく軍を進めていた。
城を守る南部尚吉は徹底抗戦の意志を固めていたが尚吉の娘婿である
新開右衛門尉以下主だった者たちは謙信にはとても敵わじと尚吉に開城を勧める。
右衛門尉は妻を遣わしてまで説得するが、尚吉の決意は変わらなかったため
謙信に内通の使者が送られることになった。使者が携えていた書状には

「城を取り囲んで3日目の夜に城門の閂を外しておくので粛々と先頭は小勢にて攻め込まれよ」

と記してあった。これを披見した謙信は

「さしたる要害でもないのだから落とすに謀は要らぬ。また不義の者たちに与するものまた不義である。
しかも尚吉の扱いを如何するか記されていないのは不審である」

として使者を追い返そうとした。しかし近習の者が

「小敵と侮って思いがけぬ戦いになった例は古今数知れず。勝ち易きに勝つを選ぶは軍兵のためでもある」

と諌めたところ謙信も承知した。
しばらくして手筈通りの夜襲によって城は混乱に陥った。尚吉は館に籠って奮戦し
十人ばかり討ち取るも最期は上杉兵によって討ち取られた。
右衛門尉は

「今よりここは我が城。本意を遂げたり」

と大笑し謙信に会うため馬に乗ろうとした。
ところが雷鳴も無いのに馬が突然立ち上がり、落馬した右衛門尉はそのまま息を引き取った。
これを知った右衛門尉の妻は悲嘆して自害しようとしたが制止され、後に仏門に入った。
これを聞いた謙信は

「天命ほど恐ろしいものはない。少しでも行いを誤れば大きな報いを
受けることになり見通すことも難しいものである」

と自戒した。

204 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/09/06(水) 16:27:06.94 ID:IJXRMizk
(越中古城並雑書記)より



205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/06(水) 19:23:52.22 ID:0Z+k4yXe
何を誤ったのかが全然分からないのだが

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/06(水) 19:51:57.20 ID:lZpFGl/I
右衛門尉が舅を裏切ったことじゃないの
で謙信の理屈だと自分から唆した訳ではないとはいえ不義に味方するのも不義ということなので
いつ自分に報いが返ってくるかわからないから気をつけようということでは

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/06(水) 22:28:32.01 ID:L8yC5R5O
>>「今よりここは我が城。本意を遂げたり」

あー、これですわ

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/06(水) 23:42:50.79 ID:tXZXKWik
基本的にこの時代の武士なんて>>207みたいのばっかだと思うんだが

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/07(木) 00:09:13.41 ID:RBdQCurE
???「今より我は毘沙門天。本意を遂げたり」

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/07(木) 13:29:38.50 ID:Jr2Nz9xv
>>208
でも妻の父親だし、本意を遂げたってことは前から狙ってたっぽいしなぁ。

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/07(木) 23:40:11.58 ID:h8hsbPLy
>>203
> ところが雷鳴も無いのに馬が突然立ち上がり、落馬した右衛門尉はそのまま息を引き取った。

十河「えっ」
ホウ統「なにそれこわい」
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我に組み付くほどの者は有るべからず

2017年09月01日 17:14

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/01(金) 15:44:00.98 ID:Bz4Hb9x8
徳川家康が落馬した時、馬の手綱が手にかかったままであったのを、供奉の侍の内、素早く気づいた
者が居て、走りより抜き打ちに手綱を切った。これは馬が駆け出して家康を引きずるのを防ぐためである。
家康は彼に「状況に応じた的確な判断であった」と褒美を与えた。

上杉謙信が馬で川を越す時、中ほどにて落馬したが、供のものがこれを抱きとめた。
謙信は岸に上がると、この者を即座に成敗した。

「我に組み付くほどの者は有るべからずと思っていたのに、このような事、甚だ憎き次第なり。」

そう言ったという。

(士談)



90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/01(金) 16:11:50.62 ID:kbfuy3yN
女謙信

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/01(金) 16:35:22.46 ID:gCjqVHM7
ほっとけばよかったんか?

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/01(金) 16:49:17.56 ID:RBdXbDLf
>>89
女性説に信憑性が出てしまう逸話だ。

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/01(金) 19:30:33.94 ID:MY8HDl+b
つうかさ
近仕の侍を手打ちにできる女性って芳我台さんや古の巴さんみたいな人か?

誠の忠臣と言うものは

2017年04月30日 21:04

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/29(土) 21:30:59.16 ID:D4Uk5VwP
上杉謙信が小姓より引き立てた侍の内、河田豊前守長親という人物は、元近江国守山の、地侍の子であった。
永禄四年三月、謙信は上洛し将軍足利義輝に謁見したが、この時清水において、この河田が、当時14歳であったが
これを召し連れ越後に帰国し、後には四十万石の知行を与えた。
これは男色の寵が類無かった故である。

ある時、謙信は河田を叱責し、刀を抜いて今にも成敗せんとしたが、河田はその場を退かなかった。
謙信は刀をおさめて言った

「私が河田をこれ程秘蔵に思っているのに、これを成敗すると言い出せば、『私が身代わりに成ります!』と
言って出て来る者があるべきなのに、誠の忠臣と言うものは居ないものだ。」

そこに一人出て「某を誅されよ!」と、頸を差し出して出た。謙信はこれを赦免したという。

(士談)


759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/01(月) 10:30:34.60 ID:baWek3vu
実際にはどれ位の知行だったんだろ河田?

768 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/10(水) 14:50:03.20 ID:JI8gJ8Gs
>>758
謙信が女犯を退けて男色を愛したのは、全き美談なれど、
後から忠信面をして頸を差し出す家来の話は嫌らしいな。
よって、ここに入れられたのか。
して『士談』の何巻に此の話は入っているのぢやろう?
包まづ教えて下さらぬかのう。

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/10(水) 15:13:07.23 ID:Cwe02d0j
貞観政要 巻五 誠信第十七
貞観の初め、太宗(李世民)にある者が「佞臣を見分ける方法をお教えします」と上申してきた。
太宗「朕が任命しているものは皆賢臣と思い任じているのだが、お前は誰が佞臣かわかるのか?」
ある者「陛下がわざとお怒りになった時、あえて直言・諫言してくるものがあればそれは賢臣で、
阿諛追従するものがあれば佞人です」
太宗は側近に「君主が自ら偽れば臣下もそのようにするだろう、源泉が濁れば下流の水も濁る、道理に合わない。
朕はかねてから魏武(曹操)を詭弁の多い者だと嫌っている」と話し、
「朕は天下に信頼が行き渡ることを望み詭弁は行わない、お前の言葉は善といえども実行することはできぬ」と書いて送った。

謙信も李世民を見習うべき

770 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/05/10(水) 15:26:15.88 ID:JI8gJ8Gs
謙信は敢えて作り怒りを演じたのでは無かろうて。

疎漏なる言は相成らぬぞよ。

よいな。

上杉謙信自画併辞世詩

2017年01月09日 17:45

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/08(日) 23:33:24.59 ID:OigyhAof
上杉謙信自画併辞世詩

ある人が語った。
先年越後総持寺の僧が、謙信自筆自像という一幅を持ち出していた。
これは上杉侯〔米沢〕の請願があったためだという。
この像は謙信が没しようとする二三日前に自ら図を描き、人に示しゆだねて

「これは我が遺像である。これで我が身を後に見るようにせよ」

と言ったそうだ。

 幅上に黒雲がある。中には金色の五鈷竪(五鈷杵?)が四方に黄耀霊光を放っていた。
雲下に一つの大朱杯があって酒が満ちている。
また辞世の語としたものが添えていた。

『四十余年一夢裡 一用事業一杯酒』

この句は謙信卒去の後に病床の下から出た物だという。
謙信は不犯の人で嗣子がなく、一生の間素食していたという。
しかしこの語を見れば一人の酒徒ではあったのだろう。

 白石の『藩翰譜』には、
この年二月の半ばから何となく体の具合が悪くなり、
同じく三月十三日、年四十九歳にして卒したという。
 註の『夏目か記』に葬送のことを執り行おうと枕の下を見れば、
辞世の詞とみえる

『我一期栄一杯酒、四十九年一酔間、生不知死亦不死、歳月只是如夢中』

ということを自ら書いて押し入れて置かれていたという。

(甲子夜話)

この絵、見たいですね



しかし上杉謙信は天主の称を憎んで

2016年08月03日 17:54

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/03(水) 04:44:07.30 ID:J5G5X7Nr
天守とは以前は天主と書いて、櫓の上層に天帝を祭ることであったとか。
しかし上杉謙信は天主の称を憎んで、これを改めて天守とし、
須弥の天守は毘沙門であるとして、この神を祭ったことから、今は皆天守と書いてきていると。
(甲子夜話)

謙信が天主を憎んだというのは、バテレンの事ですかね
天守は南蛮の影響?



931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/03(水) 06:55:06.85 ID:vkcP4WKm
井上章一「南蛮幻想」だと
江戸時代から明治にかけて「安土城はキリスト教の大聖堂だった」
という説がかなり信じられていて、「天守閣」は「天主(デウス)」を祀っていたと思われていたとか。

上杉謙信の武勇

2016年06月01日 18:23

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/31(火) 20:44:57.83 ID:feHDenPf
伝わることによると、昔上杉謙信織田信長が、越前府中において合戦あるという時、越後の諸将は
謙信をこう諌めた

「信長は大身故に、軍勢は味方の5倍有ります(この時謙信は僅かに6千、信長は3万であった)、平場で
戦うのはいかがかと思います。殊に敵は鉄砲数千挺を装備し、味方は僅かです。
君は長篠の合戦の事をお聞きになっていないのでしょうか?織田家は鉄砲三千挺を以って武田の堅陣を破り、
勝頼は譜代の臣を失い、信玄以来経験したことのない敗北をいたしました。よくよくご思慮を巡らせるべきです。」

しかし謙信はカラカラと笑い
「長篠の合戦は徳川勢の働きが優れていたこその勝利であったのだ。信長は信玄の一代は武田家へ向かって
顔を出すことも出来なかった。勝頼の代に至って、織田徳川の両家を以って若き勝頼に、しかも鉄砲ずくめにて
勝ったからといって、それは実の勝利ではない。

あのような戦いで勝頼は利を失ったとしても、この謙信は巧者であるぞ。
見ておけ、一戦に織田勢を蹴散らし、上方において毛雪踏を履いている公家侍どもに、輝虎の武勇を
見せてやろう。」

謙信の陣に潜んでいた織田家の細作はこれを聞くや走り帰り、この事を報告した。
すると信長はどう思ったのか、その夜の内に府中の陣を引き払い十余里後退した。
謙信は翌日押し寄せて敵が引いたのを見るや、打ち笑って
「さてさて逃げ足の早い巧者である。その仕方はこれが織田軍法と言うべきか。」
そう大いに嘲笑した。

上杉謙信の武勇は天下の許す所であったが、この一言によって敵を退かせたというのも、また奇なる
事であろう。

(慶元記)

それに比べて、豊守は

2016年02月15日 13:50

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 12:00:49.33 ID:bOA+vfct
上杉謙信が越中に出陣していた頃、春日山城は留守役として甥の景勝(この頃はまだ喜平次顕景と名乗っていた)に守らせ
謙信の筆頭家老山吉豊守を年若い甥っ子に補佐役として付けていた。
しかし武田信玄が謙信の留守中に信濃から春日山に攻めいるつもりであると噂を聞いた謙信は酷く心配し
春日山城へ書状を何度もしたためた。

「喜平次へ
心のこもった再報が届いてとても嬉しかったです。
細かな気遣いが本当に心に染み入りました。
それに比べて、豊守は私がこんなに心配しているというのに、一度も手紙を寄越さないんですよ。
喜平次は何度も連絡をくれるので、本当にありがたく思います」

この書状を見た喜平次は慌てて豊守に書状を書かせたらしく
この後謙信から「喜平次のおかげで豊守から手紙が来たよ!ありがとう!」という書状が届いている。



153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 14:12:22.47 ID:CF6lY/QG
上杉謙信オカン説がはかどるな

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 14:55:44.45 ID:ff+fCwcY
>>152
かわいいw

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 15:20:22.31 ID:8kGl8Ch8
軍神謙信返信に安心

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 15:30:29.28 ID:ByMwmBOM
恋文かよ

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 16:01:54.84 ID:2IrJApji
言い難い事は子供を使って言わせる。まさにどっかのオカン

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/15(月) 20:48:23.95 ID:jVA8ZplL
謙信のいい話やん。ほっこりした。

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/16(火) 00:34:21.48 ID:lkeFR4n3
補佐役で喜平次と一緒に在城してるのに
謙信に喜平次宛で愚痴を書かれた山吉豊守の決まりの悪い話かな思って

すると謙信は機嫌が直り

2016年02月05日 12:41

266 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/04(木) 22:14:55.41 ID:3DvQj37O
新発田尾張守長敦の弟である新発田因幡守治時(重家?)は剛強第一の兵にして、多くの武功をあげた。
謙信が小田原城を攻めた時のこと、明日ここを引き払うとしてそのための備えを示した。
するとまだ十六歳だった因幡守はこれを見て「この備えはよろしくない」言った。
謙信はことのほか不快に思い、散々に叱り飛ばした。
しかし因幡守は少しも屈せず、「であれば私にお暇をくだされ。そうしたら小田原に入り、
北条氏康に兵を借りて越後勢を追撃しましょう。この備えであれば打ち勝つことができ、
酒匂川の辺りでお屋形様を打ち取れるでしょう」と言った。
すると謙信は機嫌が直り、因幡守の言うとおりに備えを直した。

「上杉諸士書上」より



上杉謙信「我が国の武徳も衰えたものだ!」

2016年01月19日 18:18

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/19(火) 09:41:28.27 ID:sbbHpyFn
上杉輝虎が、石坂検校に平家物語を語らせこれを聞いていた時、鵺の段にてしきりと落涙した。

側に居た者達が不思議に思うと、輝虎はこのように言った

「我が国の武徳も衰えたものだ!
昔、鳥羽院の時代、禁中に妖怪があったが、八幡太郎義家が弦を鳴らして『鎮守府将軍源義家!』と
名乗っただけで、妖怪はたちまち消えたという。
その後源頼政は、鵺を射てもなお死なず、伊野隼人が刺し殺して止めを刺したと聞く。

義家が鳴弦したのは天仁元年のことだ。鵺の出たのは近衛院の仁平3年であるから、この間
僅か46年だというのに、武徳は既にこれほどまでに落ちている。

現在は頼政の時代から450年。私自身も頼政の武徳からはるか遠く劣っておる。なので、思わず涙を
流したのだ。」

(常山紀談)



992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/19(火) 11:15:01.83 ID:lo0+gfwY
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6549.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5189.html
一応既出、出典が違うけど

すると猿松が

2016年01月12日 18:22

179 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/01/11(月) 22:09:57.64 ID:iWayTfBO
長尾為景の治めていた府内の城外では、盗賊が出て人々を脅かしていた。
そこで為景はその盗賊を斬って首を獄門にかけた。

そんなある夜、為景が近侍のものに「あの盗賊を首を取ってこい」と命じたが、
皆恐れをなして取りにいこうとはしなかった。
すると猿松(謙信)が「自分が行こう」と言い出した。
為景は猿松に小刀を与えたが、彼は傘だけさして雨夜の中盗賊の首を取って、
(複数いたのか)その髪をつなぎ合わせて引き摺り引き摺り府内へ帰ったそうだ。



187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/13(水) 13:08:11.73 ID:TjaJYsFf
>>179
水戸光圀の伝記で同じような話を見たが
(刑場から父の命令で幼少の頃夜に罪人の首を持ってくる)
度胸試しとしてありふれてたのか、それともどっちかがもう一つの逸話をもとにしたのか

しかしこの宇佐美の説は信用出来ない

2015年12月13日 12:34

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/12(土) 17:53:38.04 ID:4J3NGZ8K
宇佐美定祐(越後流軍学者)の記した『北越軍記』によると、上杉謙信は兄の六郎を討った後、
「兄を殺して国を得れば嫡を奪うようなものだ。私は国に望みはない」そう言って出家し、宗心と
号して高野山に赴こうとしたが、家臣たちに諌められ止められた。そこで
「兄を殺してその世嗣を絶った以上、わたしも世嗣を絶つべき!」と堅く誓い、また兄を殺した罪を
懺悔して、肉と色を絶ち、一生持戒し、後に謙信と改めるとある。
(中略)

しかしこの宇佐美の説は信用出来ない。兄を殺してそのまま出家した、というのもいかがなものか。
輝虎は初め弾正大弼に任じられ、従四位下に叙し、天文20年、管領職に補任されたあと、入道して
謙信と号し、権大僧正の位に任じられている。

また肉と色を絶った事は、夏目定房の記録(上杉記)の中には
『謙信常に持戒して潅頂を行うことおおよそ4度。或いは護摩を修し、或いは参禅して
肉と色を絶ったため、子無し。』
と書かれている。ここからは家を簒奪したという疑いを避けてそのようにしたとは見えない。

私が考えるに、弓矢の冥助を祈ってこのような外法を行うのは、昔の人にはよくあった
習俗である。それに謙信の遺言、葬る有様、また、現在の上杉家において、謙信の像に
仕える儀範を聞けば、彼が罪障懺悔のために持戒したなどとはとても思えない。
あまりにも弓矢の冥助を深く思いいれて、あのような行法をしたのだと推定される。

そうであるのに、兄を殺したためだなどと言われるのは、不幸な事だと言うべきであろうか。

(藩翰譜)

新井白石先生、上杉謙信にまつわる俗説を斬る。




念のための作法

2015年11月12日 14:14

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/12(木) 08:31:09.89 ID:SFiCjdnq
上杉謙信の元にあった人質一人を、密かに脱出させる密謀があった。
この時、家来の侍二人に口論をさせ、そのまま刺し違えさせ、検死を乞うて死骸ふたつを見せ
「今夜この死骸を番所から出す」と約束した。

そうして死骸のうち1つを密かに埋め隠し、人質になっていた者を死骸のように包み、
今一つの死骸とともに都合2つ分にして、夜に入って番所を出ようとした。

この時番兵が言った
「今日のことは全て見ていたので、疑う事も無いのだが、大事の番を仕っている以上、
念のための作法として、今一度確認してから通す。」

そこで運び役の者達は、死骸に付いていたものをいろいろ見せた。
これに番兵は納得し、最後にこう言った

「よろしい。では死骸を上から二槍ずつ突いてここから出そう。」

(武功雑記)



626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/12(木) 09:37:15.78 ID:V5/AoWjG
北斗の拳でこんな場面あったな

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/12(木) 09:49:17.24 ID:mn5fUPnF
そうして死骸を突いた後、その上で屈伸運動を…

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/12(木) 09:56:11.98 ID:fp/ojzzc
それ…突いたん…?

629 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/11/12(木) 14:36:20.49 ID:l9LZ3qQm
>>628さん
同じ話が、
上杉謙信の下から脱出!・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/1711-1d593d9c

にありますが、記録にないそうです。

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/12(木) 15:14:16.84 ID:PZKUBCOV
人質一人助けるのに二人犠牲にするなんてな、残酷だわ
番兵が刺すときってすごくゆっくりと刺すんだろうな、拷問のように

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/12(木) 16:05:28.19 ID:fp/ojzzc
番兵張り倒して逃げてるとええな
何か勝手に人質側に感情移入してるけどw

雑談・上杉兵が

2015年08月03日 18:41

148 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/03(月) 06:11:29.53 ID:zkAscLCz
上杉兵が

「上杉兵が 来た 奪った 焼いた そして 去った」
「下野の昔話」

「来た、壊した、焼いた、殺した、奪った、去った」
(モンゴル軍)

字面からは大差が無い様な…

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/03(月) 07:31:41.60 ID:jhniYpaG
謙信だけじゃないけど、話や記録が残ってる連中はよほど酷かったんだろうな
犬ちゃんとか



150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/03(月) 08:01:19.74 ID:8cuYQDrS
>>148
遊牧民が冬場の出稼ぎに農耕民族を襲うのと原理的に同じだし

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/03(月) 11:35:26.08 ID:laUmkp4o
モンゴルと違って同じとこで略奪するから
焼きはするけど復興できない徹底的な破壊はしないんだな

とは言っても、謙信もまだ30に足りない若者であるから

2015年07月10日 13:27

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/09(木) 19:34:11.71 ID:rRcJJjxo
武田信玄公が他国の大将に対して語られる時は、よろずその作法を聞かれた。それは実際にその大将と戦った時、
この方の勝利をどう得るかという工夫をもっぱらに考えられた故である。

永禄元年の春、上杉謙信は、信濃の犀川が雪解け水で増水しているにもかかわらず、無理に馬で乗り込んだため、
彼に従う兵士を多く殺した。しかもその中には良き侍、覚えの武士もあったというのに、河で死んだのだ。
謙信自身も馬を乗り放ち、流れてきた大木にしがみついてようやく岸に上がったという。
信玄公はこの話を聞いて

「謙信は弓矢においては無類の侍だが、分別が無い。何事も至れば臆病という言葉があるが、それも道理である。
どういう事かと言えば、増水した河に乗り込むの程なら、そこで死ぬ事こそ尤もである。
馬を乗り放してようやく河から上がるほどなら、増水した河の前で待って、水量が落ちた時に渡って
然るべきものなのだ。

ただし、謙信はたけき武士であるから、自分の家臣に対しても、何の道であってもたけく見られたいとの
意識もあるのだろう。それとても、いらぬ自意識は国を持つ者にとって非義である。

とは言っても、謙信もまだ30に足りない若者であるから、ああなのだろう。」

そのように仰った。

(甲陽軍鑑)



50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/09(木) 22:53:16.45 ID:5fvJZDBF
>>49
>上杉謙信は、信濃の犀川が雪解け水で増水しているにもかかわらず、
>無理に馬で乗り込んだため、彼に従う兵士を多く殺した。

この時の経験が手取川で活かされるのは後の話である

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/09(木) 22:59:42.19 ID:rCYb6xZt
>>50
生き残ってそれを次に生かせたから名将の誉れもあるが、この時水死していたらバカ殿スレの有名人だったかもね

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/10(金) 00:08:42.19 ID:xrBTqrdP
船が転覆して溺死した人ならいたね

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/10(金) 12:45:20.92 ID:2+x9+M/t
赤座「ちょっと川の様子見てくるわ」

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/10(金) 12:55:10.44 ID:lsuNbcP2
長尾政景「解せぬ」

五年以内に輝虎も死ぬだろう

2015年07月06日 13:37

29 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/07/05(日) 20:29:32.52 ID:VFcLBEJh
武田信玄公がご他界されたころより、織田信長上杉謙信を敬い、かつて信玄公に対してそうであったように、
1年に7度づつ節句を祝う使者を寄越し、佐々権左衛門という譜代の侍を越後に詰めさせ、都の絵図を
狩野に書かせ、謙信に信長より進上されました。
これに対し謙信は1年に1度も信長に使いをよこすことはありません。2年に1度ばかりがようやくです。

この頃においては、越中の侍である神保が信長の妹婿であるため、内々合力し、謙信に対し盾を付けと申し寄越し、
謙信に隠れて山道を整備し、信長はそれを援助しました。

信玄公の時は、信長は織田掃部、佐々権左衛門を甲府に年に8,9度は差し寄越しながら、家康に対し
内々に取り込み、信玄公に対し盾を突くように申し送りました。
その頃と同じように、信長は今謙信の機嫌を取り、様々に軽蔑を受けているといえども、そんな中
神保を取り込んだことに謙信は腹を立て、神保を抑えおき、加賀国松任城の長という侍が信長方であったため、
この城に攻め寄せると、信長は了見無く、長を助けるため後詰の軍勢を出しました。

その大将は柴田修理、以下佐久間玄蕃、丹羽五郎左衛門、長谷川お竹、前田又左衛門、木下藤吉、徳山五兵衛、
大垣の卜全、滝川伊予、都合4万8千の軍勢で、右の後詰と称し出陣し、松任まで一里半ほどの川を越し、
信長勢が陣取った所、謙信既に、松任城を攻め落とし長の頸を取っており、信長の後詰勢が来たと聞くと、
早々に夜中に出陣し、明朝卯の刻(午前6時頃)合戦と定めました。一の鐘に諸軍集合し、二の鐘に武具を付け、
三の鐘に打ち出よとの命を下しました。

ところが織田軍は謙信が出馬したとの情報を聞くや、尽く敗軍して、後先もなく夜に逃げ出し、
川を越す時に徒歩の兵が多く溺死までして、信長勢は越前まで引き込みました。
謙信は卯の刻にかの川端まで進んで付近に住人に何が起こったかを詳しく尋ねると、大いに笑って

「さすがの信長勢かな!そのまま罷り有れば蹴散らして川へ攻め落としたのに、一段巧者かな」と
褒め、その後謙信は信長に書状を出しました。その内容は

『信長は謙信よりも一段上であるようだ。奥州の長鑓担ぎの侍のようだとは少しも思わない。
聞く所によると信長は居住している都周辺の、京皮草履を履いて川を渡ったそうだ。

(信長が主に敵対していた)公方家の侍衆の挨拶は、輝虎の合戦とは少々違うものであるので、
互いにたしなみ、来年越前において一戦つかまつろう。であれば、我が生国越後は雪深き国であるので、
3月より前には出来ない。3月15日には、必ず輝虎も越後を出るので、その時分に信長も安土を出馬し、
実否を決める一戦をしようではないか。

武田信玄他界の後、その子四郎(勝頼)に数カ所の要害を信長は攻め取られたが、その後信長の武勇よろしき故か
四郎勝頼に勝って、勝頼のことは三河の家康に任せ、去年より近江安土に居住しているのは、定めて
謙信の上洛を妨げるためとの事、疑いない。』

この書状の使いはしんや源介という謙信旗本の侍で、謙信の出頭人である河田豊前からも曽根平兵衛という者が
差しよこされていた。謙信から信長への音物は越後布二千端でありました。

30 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/07/05(日) 20:30:26.64 ID:VFcLBEJh
信長は謙信の使者に言われた
「武辺は誰でも致すといえども、謙信の弓矢は摩利支天の技である。謙信が御上洛の折は越前までは防ぐが、
それでも防ぐことが出来なければ、近江長浜まで引取り、その上で私は長浜で扇一本を腰に挿し、
一騎乗り込み、『信長にて候。降参申す』と言って、都に案内するだろう。そうなればさすがの謙信も、
信長が骨折りして取った天下を召し上げるとは言い出さないだろう。その時和平を結び、信長は西国、
謙信は東を治め、日本国を両旗にて意見仕り、公方様を取り立てよう」

そう、いかにも構わぬ返事でした。
謙信の使いが帰国してこれを報告すると、謙信は
「信長は敗北し、本当に我々に立ち向かってこないように聞こえても、彼は27歳の時、
八百ばかりの人数で二万の今川義元を打ち取り、伊勢の国司(北畠)をおしつめ、縁者を組んでは
その上で殺し、美濃の斎藤龍興を討ち、勝頼には木の柵を巡らせて勝ち、即時に岩村に打ち寄せ、
叶わなければ捨て、やりやすい越前の朝倉を、その年六月に出陣し7月中に滅ぼし、世間において
鬼神のように言われる。

だが、信長は三万にて浅井備前三千に突き立てられ、十町あまり逃げて小身の、しかも当時若大将であった
家康のおかげで利運したが、その姉川合戦は信長の勝利としか言わない。
金崎に出陣した時は一騎だけで逃げた。若狭には家康を頼み越したのに、その家康をも捨てて退いた。
信玄の時代には様々に手を入れ、手切れをした後も甲府に人を付け置いて関係を繕っていたことを、
手柄の上は誰も言わない。長篠において勝頼に勝てば、信長の勝利とばかり言う。
木の柵を結って勝ったということも、よくよく弓矢の詮索のある侍こそ言うが、殆どの人は
細かなことは知らぬものだ。

来春輝虎が上洛するにおいては、この謙信の鋭鋒の先に信長が立ち向かうことは出来ない。
しかし五年前、信玄が他界する時言っていたそうだ。
『私が死んだ後は、謙信意外に信長を押し詰める者は日本に居ない。信長は果報強きものであるから、
信長と取り合いをしたため、私も早くに死することとなったのだ。
輝虎も信長と取り合いをするようになれば、弓矢においては輝虎は、信長よりはるかに上であるが故に、
五年以内に輝虎も死ぬだろう。』

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑より、手取川の戦いとその後の謙信と信長のやりとりについてである。



31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/06(月) 02:31:32.38 ID:lx9vSX1P
これは勉強になった

信玄は謀の多い人物であったので

2015年05月05日 17:48

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/04(月) 19:34:38.52 ID:OR4L9oM+
一大決戦と成った永禄4年(1561)の第四次川中島合戦の後のこと。
上杉謙信が家老衆と、合戦の様体を分析していたおり、このように言った

「私はあの時、おそらく武田信玄であろうという人物を見つけたが、信玄は謀の多い人物であり、
自分に似せた法師武者を大勢仕立てていると聞いていたため、もしただの侍と組み打ちをして
逆に生け捕られては如何かと思ったため見逃してしまった。

しかし今思うと、馬から降りて信玄と手合わせをし組み伏せることが出来なかったのは、口惜しい限りである。」

(甲陽軍鑑)

上杉謙信、信玄の策にかかることを警戒して、組み打ちを諦めた、というお話。



739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/05(火) 09:53:36.43 ID:7eSWUcGE
それ以前に、大将が敵の本陣でウロウロしてる事自体如何なものか

竹股兼光

2015年03月16日 18:36

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/15(日) 21:46:10.43 ID:fqXGeGvU
竹股兼光

上杉謙信の佩刀として有名な竹股兼光は、元越後の農民が、この刀を差して山中に入った折に、
雷激しく鳴り響き、今にも頭に落ちるかと思い、刀を抜いて頭に押し当て、目をつぶっていた。
うあがて空晴れたが、刀の切っ先より血が流れてきた。一体どうしてそうなったのかは解らなかった。

またある時、小豆を袋に入れて肩にかけて帰ると、袋がほころんでいて、豆ひとつぶがこぼれたが、
刀の鞘に当って二つに割れた。怪しんで調べてみると、鞘が割れていて刀の刃がわずかに出ていたところに、
豆が触れたためであるとわかった。

これらが世上の評判となり、その地の領主であった竹股三河守が所望してこれを買い取り、
主君である上杉謙信に献上した。

謙信は川中島の合戦にはこの兼光を帯びて出陣したが、何度めかの戦いの折、謙信が武田の陣へと乗り込んだ時、
公衆の望月平太夫という者が、間近くから鉄砲で狙っているのを見つけると、馬を駆け寄せ一刀で斬り伏せて
駆け通った。後で甲州の兵たちがこれを見ると、望月は甲冑ごと切り捨てられており、持っていた鉄砲も、
筒が両断されていた。これには、「いかなる刀で有ればこのように斬れるのか」と評判したという。

慶長のはじめ、上杉景勝の代になって、この刀を京都に上らせ研がせ、それが出来ると直ぐに越後に持ち帰らせた。
上杉家中の人々集まってこれを見て、「流石に京の水で研ぎあげただけあって、一層見事に見えます、」と
喜んでいた所、竹股三河守はじっと見て、

「この刀は偽物です!何故かといえば、先代に差し上げた兼光には、ハバキの上1寸あたりに、
馬の毛が通るほどの穴がありました。しかしこれには穴がありません。」

皆々大いに驚き、「ならば竹股を京に上らせ吟味すべし」となった。早速竹股三河守は上京し、石田三成を頼り、
京都大阪を捜索させた所、清水の南坂より本物の兼光の刀が発見された。
そこから厳しく捜査され、偽物を作った者達、研師を始め13名が召し捕られ、日ノ岡峠にて死刑になった。
竹股は急ぎ越後に持ち帰り、馬の毛を穴に通して景勝に見せ、本物であることを証明した。

この話を太閤秀吉が聞き、一見したいとの上意で、内々所望したいとの事だったので、景勝より秀吉に
献上された。しかし元和元年大阪落城により、この刀も紛失し、行方不明と成った。
徳川家康も、かねてより聞き知っている名刀であったので、これを捜索させた所、大阪城から
落ちた者が、この刀を取り出し和泉国に逃げたという事が解った。そこで
『この刀を探しだして進上した者には黄金三百枚を与える』
との高札を立てたが、ついに刀は出てこなかったという。

(刀剣談)



572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/16(月) 14:05:54.68 ID:vY5Ou9Yd
黄金三百枚はすごいなw

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/16(月) 18:53:41.17 ID:WvCMDBZr
ケチの家康公に黄金三百枚って言われると
何かの罠かと思ってしまいそう。

長尾謙信輝虎公十三の御年の時に

2015年02月11日 17:25

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/11(水) 05:21:45.39 ID:2NZUPEZN
 長尾謙信輝虎公十三の御年の時に
「我が父為景にはなれるほどではないが、私は父の恩によって一国を保つ者となった。
だから、一州を治めることをしでかせる侍ではない。
親から譲られた者は一切の苦を知らない、なので善悪を知らない、善悪を知らないと何事も悪くなるだろう。」
と仰られて、その一年中六十六部の聖を連れて奥州出羽国関東そのほかのところで修業なされた。
これは輝虎公御年十三のころである。
翌年十四歳で姉婿(長尾政景)と合戦があった。輝虎公人数二千ばかりで、敵の人数四千余である。
誠に勢いは約二倍であったが、城郭へ押し寄せ輝虎公無理強いして下知を加えて合戦に勝利された。
これは御年十四のときである。著語していうに、

「入凡入聖」

(甲陽軍鑑)

著語とは禅における短評のようなもの
入凡入聖は捨凡入聖をもじったものでしょう




峯澤某謙信を撃たんとせし事

2015年02月02日 18:45

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/01(日) 20:41:19.18 ID:TB2SCMP7
峯澤某謙信を撃たんとせし事

謙信の許に峯澤某とう士がいたが、罪を犯して、越中の椎名に奉公した。
謙信が越中へ戦に出られたとき、彼は草むらに隠れて、鉄砲を持って窺っていたが、
突然鉄砲を側に投げ捨てて泣きだした。
謙信は彼を見つけて、
「どうした、峯澤とは珍しい。」
と言われたら、峯澤は、
「これほどの仁君知将を討とうした事が、悔しくりました。
今遥かに見て、先に屋形の心に背いて、またこのような計画を企んだことはこの上もない大罪です。
早々に首を刎ねてください。」
と言って平伏すれば、謙信は笑って、
「吾に智仁とはふさわしくない虚名である。早く帰って椎名によく仕えよ。」
と言われたが、峯澤は越後に帰って、農夫となって一生を終わったとか。
(常山紀談)

さても越後の輝虎様は

2014年11月29日 18:46

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/29(土) 03:47:33.64 ID:WE4+AOvd
いづれの家でも,勝利を失った大将を,諸人誉めても軽んじる.
まず信州平賀成頼,なかなかの名大将との評判であったが,武田二十六代目信虎公に討ち負けて討ち死にすれば,その名は伝わらなかった.
越後長尾為景,越中のはっきりした大将がないばらばらの侍共と戦って討ち死にしたので,子息輝虎の十分の一も四方に名を知られていない.
信州更科の村上殿,浅からぬ覚えの大将と言われども,武田二十七代目の信玄入道晴信公に打ち負けて,自分の持分を捨てて越後へ立ち退き,
自分より若い輝虎頼みなさったので,諸人村上殿をほめない.
しかし長尾輝虎,越中・加賀の衆に負けられても,どうしてか名高く言われているのかと思うであろう.
それは,輝虎後に工夫して,加賀・越中の大将の居ないばらばらの侍を,北条氏康・武田信玄などのようにまともにあたったので,後れを取ったのであり,
かかる一揆にはみだりに攻めるべきだと,輝虎は家中の者を勝手気ままに攻めさせたので,翌年の合戦は大いに輝虎は勝たれて,
加賀の尾山というところまで追い討ちなされた.
是は尋常ではない弓矢の上手で,日本国中の末代までの手本となるだろう.
しかれども,下劣なる者は武勇がわからず,歌を作って歌った.
その歌は,「さても越後の輝虎様は,関東おもてはおてらしあげるな,加賀の鑓にはおくもりあり候候」と歌う.
(甲陽軍鑑)

たとえ謙信でも負け戦で馬鹿にされるもんなんだなあ