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神保長誠の戦国

2009年04月10日 00:13

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/09(木) 01:17:08 ID:iUOWs9pi
い話・悪い話とは一線を画すとは思うが、越中に勢力を張っていた
神保氏。

隣国の越後からは長尾(上杉)氏、加賀からは一向一揆等に
攻められてなんとなくヘタレな大名家のように思われるが、その中に
逸材と言われる人物が一人・・・

神保長誠(じんぼう ながのぶ)


戦国時代の始まりとも言われる「応仁の乱」のキーマンになった。

畠山政長に仕えていた折に畠山家で家督争いが勃発する。
長誠は政長の家督相続を支持し、政長が畠山家の家督を相続する。
その後、政長は管領職に就任し隆盛を極めるまでに至った。

しかし、家督相続を争った畠山義就が山名持豊(宗全)から再び擁立され
政長は管領職を罷免される。収まりの着かない政長は細川勝元を頼り
ついに京都上御霊社において挙兵。
足利将軍家や斯波氏の争い(武衛騒動)と関連して応仁の乱が勃発。

実は上御霊社での挙兵は長誠が強く勧めた節があり、この挙兵がなければ
応仁の乱まで発展しなかった可能性もある。

応仁の乱時、長誠は各地で奮戦し、扇谷上杉定正にその武勇を激賞されるなど
目覚しい活躍ぶりを見せた。
その後、長誠は越中へ戻り、倉垣荘など寺社本所領を押領して自身の勢力拡大
に努め、また政長の右腕として京へも足しげく通う日々であった。

1493年(明応2)に、細川政元などが10代将軍足利義材(義植)を廃立し
明応の政変が起る。主君政長はこの政変で自害。
長誠は中風を煩って越中に帰国中だったため難を免れるが、
この政変で長誠の部下越中衆の多くが政長に殉じた為大打撃を受ける。

廃立された義材(義植)が京都の幽閉先を脱して、長誠を頼ると
これを迎えて放生津の正光寺を将軍御所として改装し、義材は越中公方と呼ばれた。

これに怒った政元は越中へ長誠追討の軍勢を差し向ける。
しかし、長誠は細川政元派の畠山基家軍(畠山総州家)の越中侵攻をたびたび撃退し
軍事力を誇示する一方、被官鞍河某に数千貫の料足を持たせて京に送り、
義材の将軍復帰工作に尽力するなど和戦双方の手で義材の上洛を支援した。

しかし、義材何を勘違いしたのか政元と和睦交渉が進展したという勝手な認識を持ち
明応8年(1499年)に長誠の断りなく越前へ移り入京の準備を始める。
しかし政元に和睦意識はなく、義材は軍事行動で上洛を図るが失敗し、周防の大内義興を頼った。

いくら将軍とはいえこんな身勝手をされた場合普通は見捨てるところだが
このとき長誠は息子、慶宗に兵を率いさせ周防まで同行させている。
無事に義材が大内義興の元に着いたのも束の間1501年(文亀元年)病没。


少しは神保氏の見方が変わる・・・かも?




614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/09(木) 23:31:41 ID:gwPgCuZ2
>>602
神保氏って面白いよね、長誠のせがれの慶宗の代で長尾にコテンパンにやられて、
一時再起不能なくらいにまで落ちぶれるけど、
そのあとの長職がまた勢力を一気に復興、椎名氏と越中の覇権を争うまでに復活。
でもその争いの調停に入った長尾の言うことを聞かないもんだから、またやられて。

まぁなんというか、戦国大名化できなかった守護代の典型例というかw俺は好きだけどねw
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