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蘆名盛隆殺害事件

2020年03月05日 18:00

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/05(木) 15:18:45.62 ID:9PH4zRef
蘆名盛隆公が大庭三左衛門に討たれ給うたのどのような理由によるか、と言えば、
ある年、盛隆公が八丁目に出馬され陣を貼り、伊達政宗公と決戦されて、伊達の軍悉く破れて引き退いた。
蘆名勢はこれを急追し、伊達の兵を数多打ち取って勝鬨を作り、そこから戻って御帰陣の時、二本松の宿を
通った。

この宿では貴賤群衆して蘆名勢の凱旋を見物したが、この時、ある町家の内に十四、五歳の容儀勝れた童が、
片手に色有る花を一枝持ち、前に書物を広げていたのを、盛隆公が見つけた。
盛隆公は少しの間、この町家の前に馬を留めると、その主人に、使いを以てその子を御所望された。
彼の父母には否やという言葉はなく、御所望にお任せすると応えると、盛隆公は御悦び斜め成らず、両親に
物の具を給わり、少年を自らの引き替えの御馬に乗せて会津へと共に帰城した。この少年が大庭三左衛門であった。

盛隆公が大庭三左衛門を寵愛し給う事限りなかった。
しかし愛楽の互いに替わることは、紅の栄えから?して落ちる樹に例えられる。まもなく君の寵愛も廃れ、
御志も枯々となった。

これに大庭三左衛門は恨みを含んでいたが、家中の譜代相伝の子たちは、三左衛門に権を取られると
安からぬ事に思い、妬ましいと思っていた所に、これを見て悦び、三左衛門に聞こえぬ所で、彼を
『鴨汁』と渾名を付けて笑っていた。これは「醒めては喰われぬ」という意味であった。
後になって三左衛門はこの事を密かに聞いて、胸塞がり心迷い、跳ね上がったように大息をついて、
昼夜これを思うに骨髄に徹し、忍びがたきこと限りなかった。

このような所に、ある人が三左衛門に向かって「今朝の(盛隆の御前での)御鴨汁の御料理に御参りになるように」
と言ってにっこりと笑った。
三左衛門はこれを聞くと、毒矢を胸に受けたよりも甚だしく堪忍に及ばず、彼を一刀に斬って憤りを休んじ、返す刀で
切腹しようと思いきったが、大汗を流してそこは堪忍した。

「これは他の誰が言ったわけではない、屋形(盛隆)の仰せである。咎なき奴を殺し徒に命を捨てるより、屋形を
一太刀討ち申し恨みを泉下に報ぜん」
と思い定めた。

「明日、盛隆公を討ち奉らん」と考えていたその晩、三左衛門は知音朋輩達を呼び集めて丁寧に振舞った。
彼は交わりを深くして酒を進め、にっこりと笑いながら客に向かってこのように言った

「昨夜の夢に、私の望みが叶う事を見ました。その内容は三日過ぎて各々に語りたいと思いますが、確かな吉夢で
ありましたので、これを喜ぶために、今朝にもと考えましたが、昼間は互いに公用重ければ、座席を急いで
立ててしまうと心残りも多いと思い、大した饗しも出来ませんが、一盃奉る饗応のために、このような夜中に
申し入れました。緩々と過ごして頂ければ辱き次第です。」
そう言って、色々と様々な肴を調え、盃を指しつ指されつ、舞い、謡い、いかにも亭主ぶり、結構華奢に興を催し、
快く酒宴を終え、夜に及んでも明朝死ぬと思う気色は少しも見えなかった。
客人が座席を立って帰る時、彼が「名残惜しい」言った言葉の意味を、客たちは後になって思い知った。

夜も明け十月十日の早朝に、三左衛門は沐浴焚香し、出仕の衣装を美麗に着、袴をつけて御広間へ出た。
丁度その時、盛隆公は御鷹を据えられ椽の柱にもられられていた。御前に近習の者達も居らず、ただ一人御座していた。
三左衛門は椽を一礼して通ったが、普段は刀を抜いて、差さずに通るのだが、この時は刀を指したまま通り、
そして振り返りざまに声を出して、一刀斬りつけ奉った。盛隆公は深手であったが「心得たり!」と御腰の刀を
過半抜かれた所を、三左衛門が二の太刀を継ぎ、斬り伏せ奉った。

そして大手の方へ走り出たが、これを追いかけ討ち留めようとする者も無く、諸人驚き騒ぎ、慌てて屋形の死骸の御傍に
群がり集まった。そのうちに侍一人が三左衛門を追って行くと、跡から人数多続き、三左衛門は二町余り逃げ延びたが
追い詰められ、打ち殺された。
彼の体を見ると、下には白き絹の衣装を着け、六文銭と数珠を首に掛けており、逃げて生き延びようとは思わなかった
ようである。
いかなる因果の報いもて主君を討ち給わったのか。さても余りある次第である。

そしてその後、盛隆公には御子が無く、会津の御家を継ぐ御方が無かったために(実際には嫡子亀王丸が有ったが夭折)、
佐竹屋形の御子に、義宣の御弟義広(蘆名義広)と申す人を御名代に立て申し、御入部ありて義広公の御代となった。

藤葉榮衰記

大庭三左衛門による蘆名盛隆殺害事件について



892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 08:05:37.78 ID:jxfsYbE9
>>886
お持ち帰りして飽きたらポイーってそら恨まれるわ

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/06(金) 22:17:40.32 ID:RxaGC4uW
>>886
痴情のもつれか
武家の子じゃないから家臣としてはうまく使えなかったのかな
美少年だからって適当に手を出したらいかんな
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蘆名盛隆と美麗な小姓

2018年05月15日 21:02

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/14(月) 19:27:57.57 ID:l7ZwV+IQ
蘆名盛隆の麾下であった二本松義継の小姓に非常に美麗な者があり、盛隆はこれを貰い受けたいと
伝えた所、義継は「あの小姓は随分甲斐甲斐しいのだが、悪しき所もあり、やめたほうが良いと
思います」と答えた。

盛隆は義継があの小姓を手放すことを惜しんでそのよう事を言うのだと思い、不満を漏らした。
しかし義継としては、惜しむような気持ちは一切なかったので、「そこまで思われているのなら」と、
かの小姓を盛隆の元へ遣わした。

盛隆は2,3年はこれを寵愛したが、次第に疎となり、またこの小姓の噂を、近侍の医者に
色々と申し聞かせ、この医者がさらにこの事を様々に語った。
これをかの小姓は深く恨んだ。

ある時、蘆名盛隆は鷹を据えて縁の柱に寄りかかり、近くの者たちにこれを見せていた所、
かの小姓が通りかかった。盛隆は小姓の名を呼び、「お前もこの鷹を見よ」と進めた。
小姓は「心得候」と返事をするや、刀を抜いて盛隆を二刀斬りつけるとそのまま走り去った。
この時盛隆の周りには武士が5,60人居たのであるが、皆狼狽えたのか慌て、かの小姓を
討ち止める者は居なかった。

小姓はさらに、噂を広めた医者の所へ向かい門を走り抜けようとした所、門番が不審に思い
彼を止めた。そこに追手の者達が追いつき、小姓を討ち取ったという。

(老士雜談)




754 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/05/14(月) 20:39:11.24 ID:u5qrCqxx
小姓「衆道とは修羅道と見つけたり」

蘆名盛隆の悪い癖で

2017年04月22日 17:04

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/22(土) 16:59:17.93 ID:hu64FrmF
会津の蘆名盛隆に、三左衛門(大庭三左衛門)という小姓があった。
彼は18歳までに3度、敵と鑓を合わせたことから、三左衛門と号した。

はじめは二本松家に仕えていたが、蘆名盛隆が気に入り、これを所望した。
二本松側は「心を見届けて居ない者であり、如何かとも思いましたが、たっての御所望ですので
遣わします。」と、会津に彼を遣わした。

会津において彼は盛隆に寵愛された。しかし、後になるとその寵愛も衰えた。

蘆名盛隆の悪い癖で、彼は初めに寵愛した小姓も、成長のあとは必ず悪く云い、噂も色々と言い立て、
嘲弄することを好んだ。
三左衛門もこの仕打ちを受け、深く憤った。

ある朝、盛隆が鷹を手に据えて居た所に出てきた三左衛門に対し、彼を侮り嘲った。
三左衛門、一刀にて主人を殺し、逃走を図った。

蘆名家の家老たちはその座に居ながら、呆然として三左衛門を仕留めることはできなかった。
その次の間まで切って出たときも、ここに居た24,5人の番人たちは仕留められず、彼は
そこから駆け出た。しかし蘆名家の者たちも追々集まり、遂に打ち留めたという。

(士談)


蘆名盛隆が大庭三左衛門に討たれるに至ったのは

2011年12月01日 22:00

219 名前:1/2[sage] 投稿日:2011/12/01(木) 17:48:27.07 ID:9ujpDut+
蘆名盛隆大庭三左衛門に討たれるに至ったのは、このような理由があった。

有る年のこと、蘆名盛隆が八丁目という土地で伊達政宗と戦いこれを大いに破り、追撃をして
伊達の将兵数多討ち取り勝鬨をあげ、居城へと帰陣する途中、二本松の宿を通っていた時である。

ここで群集大いに集まり盛隆の凱旋を見物した。
そんな中、ある町家の中に、14・5歳の容貌優れたる少年が、片手に色美しい花を持ち、前に書物を広げ、
表の騒ぎも気にかけず読書をしていた。

盛隆はこの少年に気が付き、その家の前に馬を止め、彼の両親に伝える
「あの少年を貰い受けたい。」

突然のことに驚いた両親であったが、元より辞するという言葉も無く「ご所望にお任せします」と答えれば、
盛隆は多いに喜び両親に物の具を与え、少年を自分の変え馬に乗せて騎乗した。
この少年が大庭三左衛門であった。
蘆名盛隆は三左衛門を深く愛し、その寵愛は限りがないかのようであった。

しかし紅に栄える葉もやがて黄となり木より落ちるもの。時が経つと共にその君寵も衰えていった。
これを三左衛門が恨みに思っていたところを、彼が君寵によって取り立てられたことを妬ましく思っていた
譜代の若者たちは、その失落を喜び、三左衛門の居ない所で彼を『鴨汁』と仇名して笑っていた。
その意味は「冷めては食われぬ」ということであった。
後で三左衛門は自分がそう呼ばれていることを知り大変なショックを受け、昼夜深く悩み、このような屈辱に
耐え忍ぶことが出来なかった。

そんな時に、ある人が三左衛門に伝えに来た。

「御屋形様(盛隆)が、今朝のお食事は鴨汁なのであなたも参るように、とのことです。」

そう言って、ニッコリと笑った。


220 名前:2/2[sage] 投稿日:2011/12/01(木) 17:48:59.72 ID:9ujpDut+
三左衛門はこれを聞くと、毒矢が胸に刺さったよりも激しい心の痛みを感じた。この者を斬ってこの憤りを晴らし
返す刀で自分も腹を斬って果てよう。とっさにそう思ったが、尋常ならぬ努力でこれを耐えた。彼はこう考えたのだ

『この事は他の誰が言ったのでもない、御屋形様がそう仰せられたのだ。ならば罪なきものを殺し徒に命を捨てるより、
御屋形様を一太刀討ち申し、恨みを泉下に報じよう!』

そして明日、盛隆を討ち果たそうと心に決め、その夜知人友人を呼び集め酒肴を振舞った。彼は客人に
「実は昨夜、我が望みが叶う夢をみたのです。夢の内容は三日後に語ろうと思いますが、突然の吉夢であったため、
これを祝おうと皆様をお呼びしたのです。」
そう言って盃を指しさされ、舞い謳い、実に楽しい酒宴を主催した。

翌、天正12年(1584)10月6日、早朝

大庭三左衛門は沐浴し香を焚き、出仕の衣装を美麗に着こなし城の大広間の方へと向かった。
この時、蘆名盛隆は丁度、広間において鷹を据えて柱に寄りかかっており、まわりに近習もおらずただ一人で居た。

これを見た三左衛門は一礼をして縁を通ろうとした。ただ、本来ならここは刀を刺さずに通るべき所であったのを、
この時は刺したままで通る。と、その瞬間、「キエーーーーー!」叫び声と共に振り返り、盛隆を一刀、斬った。
深手ながら未だ意識がある。盛隆は腰の刀を抜こうとした。その前に三左衛門の二の太刀。盛隆は絶命する。
すると三左衛門は大手門の方に走っていく。

蘆名家の家臣たちはこの騒ぎを聞きつけ集まったが、三左衛門を追いかけ討ち取ろうと言う者はなく、ただ
盛隆の死骸の周りに集まり周章狼狽するばかりであった。
が、ようやく一人の侍が三左衛門を追いかけ走った。これをきっかけに人々次々と彼の後を追う。
三左衛門はニ町(約200メートル)ほど逃げ延びたものの、ついに追いつかれ討ち殺された。

三左衛門の死体を改めると、出仕着の下には絹の死装束を着、六道銭と数珠を首にかけていた。
これを見た人々

「死ぬ覚悟をしていたのは明らかなのに、どうして逃げて生き延びようとしたのだろう。
いったいどんな因果の報いで、主君を討つようなことをしたのだろう。
何もかも理解出来ないことばかりだ。」

と、この事件をどう受け止めれば良いのか、皆、悩んだということである。
(藤葉栄衰記)




221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/01(木) 18:12:57.57 ID:745KC2vW
僕のおしりじゃもうダメなんだ…っていう悲愴な思いがひしひしと伝わってくる

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/01(木) 18:28:02.89 ID:tpbQ213m
戦国の武人で今日死ぬって心を決めててもいざとなったら気が動転してしまうのかあ

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/01(木) 18:43:29.03 ID:bBtxXZOC
前日談の異聞
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2418.html
>この後、二人がどうなったのかは知ってのとおりである。
これを読んだ時、コメントしている人のように続き書いてくれよ、とつっこみたくなったからありがたい

ついでに
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1866.html
この時つかまえた鴨を汁にしようとしたのかな
つまり、鴨つかまえて死んだのはただの偶然じゃなかったと


225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/03(土) 00:03:53.23 ID:eQ57+vaX
このスレ見てると男同士の恋愛の縺れは男女よりドロドロしてる気がする・・・

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/03(土) 07:49:36.13 ID:2jMGGzRD
>>225
当時の男女間の話は政治的なものが関わることがよくあったからね
己を抑えて終わらすことも多いのでは
 
男同士だとそういうのが少し緩かったんだろう

16歳の謀反

2010年02月25日 00:01

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/24(水) 16:07:53 ID:drpOKt5v
16歳の謀反

会津蘆名家家臣、松本太郎行輔は天正12年(1584)、主君蘆名盛隆の留守中,若干16歳で謀反を企てた。
それにはこんな経緯があったと言う。

太郎11歳の時のことである。
太郎の父松本図書助氏輔は天正7年(1574)に討死した。ちなみに松本図書助と言えば、信長の野望、武将風雲録で
その能力値のあまりの低さにネタキャラとされた人である。

寡婦となった母はしかし、その容貌美しいこと有名で、家中の平田氏が彼女を妻に請い、主君盛隆もそれを許可。
彼女は平田氏と再婚する運びとなった。
太郎はまだ幼少であったため、このような話の進んでいることは知らされず、彼は母の婚姻が決まってから、
初めてそのことを知った。

太郎は驚き怒った。
「私は、例へお屋形様の御意に背くことになろうとも、この事を畏まり候と言うことは出来ない!
私がいかに若年だと言っても、父の遺産を相続した身である。そうである以上、どうして母を他所に
嫁がせるようなことができようか!」

この怒りは家中に伝わったが
「なにぶん太郎はまだ子供である。上意であると強く言えば、すぐに心変わりするだろう。」
と、軽く考え、周りの大人達は彼を脅かすことにした

「これはお屋形様の御意も既に定まられたことである!なのにお前が今になってとやかく申すので
ご心象を甚だ悪くされ、切腹せよと検使をおつかいなされたぞ!」

そう言うと一人の侍を呼び入れた。ここまでされれば太郎も命押しさに震え上がり、前言を撤回すると
思ったのだ。が

「この様にお屋形様の意に背いたことを言っていた以上、基より覚悟の上でござる!」

と、いささかの怯えた様子も無く身を清め装束を整え、今まさに切腹をしようとした。

大人たち、「この子はどのように脅したところで心変わりするようなことはない」と恐れ、その後は
とにかく色々と騙しすかして、母を平田氏のもとに嫁がせた。


しかしその後も、太郎は継父との交流を拒絶し、盛隆の措置を恨んだ。
この恨みが後の謀反につながったのだと言う。

子供であれ、武家の当主には意地も誇りもあるのだ。そんな事を考えさせるお話である。




789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/24(水) 18:05:41 ID:RuxDV+sY
>>787
その盛隆も同年十月には大庭に叛かれて死んでるし、美貌のわりには人望のない殿様だったんだなぁ


791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/24(水) 20:27:54 ID:sQzKy9U9
蘆名氏にとって重臣の謀反は季節性インフルエンザみたいなものです

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 00:40:35 ID:Q9fNAjel
>>787
待ってました松本図書助

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 00:47:46 ID:SLv4aaG9
と、図書助だと・・・

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 01:16:03 ID:Q9fNAjel
あの本を殿に届けてくれよ! あれは、いいものだぁ!!
って言いながら死んだらしいな

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 02:52:22 ID:1EbwdmTz
>>787
宿老の家でありながらも餓鬼ではしようがないってんで三の丸にあった屋敷も取り上げられたんだよね

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/25(木) 13:52:55 ID:KeDSFW0l
播磨屋さんのサイトで会津松本氏の経歴見てきたんだけどさ。
行輔くん、母のこと以外も恨みに思わないはずが無い酷い仕打ちを盛隆から
受けているじゃないか。
粛清のためにわざと冷遇したのかもしれないけど、結果的に蘆名の柱を1本
折って滅亡への歩みを早めているよね。

身をば只野に捨てられて

2010年02月15日 00:00

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/14(日) 22:32:10 ID:DYPPJzsP
身をば只野に捨てられて


会津は仙道に只野と言う国人が有り、蘆名に対して反抗の姿勢を見せたため
蘆名盛隆が自ら出馬して成敗せんとする。
これに只野はすぐに詫び言をし、妻を人質に出して降伏した。

ところがこの後に只野は再び蘆名に対して反抗、
哀れ、只野の妻は見せしめのため、串刺しとされた。

この妻は、最後に歌を残した。

『浅ましや 身をばたヽのに捨てられて 寝乱れ髪かくしのつらさよ』

これを聞く人皆、その哀れに涙を禁じ得なかったとのことである。




566 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/02/14(日) 23:22:56 ID:NPqwzrkm
こういう屑に社会的制裁はなかったんだろうか?

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/15(月) 00:24:42 ID:5Z0e8rxk
それでも仙道なら…

『奥羽永慶軍記』より、蘆名盛隆の男色に付いて

2009年07月12日 00:03

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/10(金) 23:05:34 ID:eLx41NIz
『奥羽永慶軍記』の現代語訳の本に、盛隆の男色についての悪い話があったので書いてみる。

美男子で知られる盛隆だが、男色も好んでいた。
何せ、ラブレターを送ってきた鬼義重と和議を結んでしまうほどである。
重臣が諫めても聞く耳持たないほど好んでいた。
ある時、松本太郎という十三歳の少年が初陣に出たいと願い出た。
この少年は蘆名四天の一人松本源兵衛尉の嫡子で、幼いころに父が戦死した。
しかし、蘆名盛氏のはからいにより、十五歳になったら正式に四天の一人として跡を継ぐことになっていた。
故に彼としては今のうちに戦で手柄を立てて、要職に就くことを家中に認めてもらおうとしたのである。
さて、出陣間際で忙しい盛隆が太郎に目通りしてみると…何とこれまで寵愛したどの少年よりも美しいではないか!
盛隆は彼を合戦に出すには惜しいと思い、彼に黒川城の警固を命じた。(もちろん、戻った後の楽しみ的な意味で)
だが、まさかそんなことを思われてるとは知らない太郎は盛隆を恨み、登城も拒むようになった。
意地でも太郎が欲しい盛隆だが、ある時、小姓の一人からこんな話を聞いた。
「松本太郎は森代の地頭栗村下総守と男色の関係らしいですよ」
それを聞いて怒った盛隆は二人を誅そうとする。が、側近により止められた。
だが、太郎に対する恨みがおさまらない。この後、盛隆は松本家が代々住んでいた三の丸の邸を取り上げ、
さらに、太郎が若年であることを理由に跡目相続を取りやめにしたのである。
これに怒った太郎は、たまった鬱憤を晴らすため栗村とともに盛隆の留守を狙って、黒川城を占拠するが、
それから間もなく反乱は鎮圧され、この二人は殺されたのであった。

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/10(金) 23:07:38 ID:eLx41NIz
さて、男色好きのせいで起きた家臣の反乱の後なので、流石の盛隆も少しは自粛…しなかった。
ある時、二本松義継が美しい小姓と一緒に黒川城を訪れた。
盛隆は小姓に一目惚れした。太郎を失ったばかりだったので、意地でも手に入れようとした。
義継は最初断ったが、二本松に戻ってからもしつこく使者を送ってくるので、しぶしぶその小姓を送った。
遂に念願かなった盛隆。周りも目をそらさずにはいられないほど寵愛した。
だが、一人嫉妬に燃えていた男がいた。盛隆の腰物番の大場三郎佐衛門(十九歳)である。
彼は武勇と美貌で側小姓に取り立てられた人物だったが、十九歳になって旬も過ぎた彼は盛隆に相手にされなくなっていた。
周りの目も冷たくなり、挨拶もされなくなった。さらに、盛隆自身が大場を小馬鹿にするようにまでなった。
大場は無念に思ったが、どう晴らしようもなかった。
ある時、盛隆に「大場が殿を恨んでいる」と告げ口をした者がいた。カチンときた盛隆は一つのイタズラを思いついた。
さて、盛隆に呼ばれた大場は薄気味悪い気持ちでやってきた。何せ、近頃ほとんど呼ばれることがなかったからである。
とりあえず、用意された火鉢の前に坐った大場は火箸を使おうとした。その瞬間、
「あっ!」
と声を上げた。その火箸は柄が白くなるほど焼けていたのである。
「うっ、畜生め、やりやがったな!」(←引用元の本のセリフそのまま)
実は盛隆は彼が火箸で灰を掻きならす癖を知っていたのである。
そこで、熱さのあまり慌てる大場を見て笑ってやろうと思ったのだが、大場は耐えた。
何気ない態度で、肉が焼けて白煙が出るぐらいまで耐えた。
結局、盛隆も興が冷めてしまい、大場も指の骨まで焼きついた火箸を引きはがし、一礼して去っていった。


この後、二人がどうなったのかは知ってのとおりである。




265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/11(土) 00:48:15 ID:ZZKVYCh3
>>260
>さらに、盛隆自身が大場を小馬鹿にするようにまでなった。

ひどいや・・
男同士の関係は肉欲の占める部分が大きいからドライと
聞いたことがあるがそのせいかな
詳しくは分からんが

268 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/07/11(土) 00:55:58 ID:So0g9w9T
>>261
最後まで書いてくれよ。

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/11(土) 01:10:08 ID:TnXIhpzf
最後まで書かないからいいんじゃないか


270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/11(土) 02:02:57 ID:OUplpiVN
なんていうか
西国無双の大内、東国無双の蘆名って感じだな

ただし西は突っ込む方で東は受ける方みたいだが

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/11(土) 06:36:15 ID:PbsRp4jU
大内葦名で関が原
戦国のやり収め

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/11(土) 07:34:39 ID:NfB59gF9
>270
やりの字が「槍」でなし「ヤリ」なのね……アゥアゥ

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/11(土) 07:37:47 ID:wkwr2CcG
アゥアゥというよりアッー!アッー!だがなw

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/11(土) 08:25:07 ID:xuTwlUaD
            /\
       /\/__\
   /\/__.\*‘ー‘从
 /__\*‘ー‘从━∪━⊃━━<>
 从*‘ー‘从━∪━⊃━━<>
 /━∪━⊃━━<>
 し'⌒∪


275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/11(土) 08:55:00 ID:Gry9JFKr
信玄「家内での鞘当てとはみっともないのお、もっともワシも高坂とよく鞘当てをしてたもんじゃが」



279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/11(土) 11:20:33 ID:tboTy9Qg
>>261
これわっるいなー大場に武勇があるなら普通にお小姓なんか卒業させて
侍として重用してやればいいじゃないおもちゃじゃないんだから

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/11(土) 19:46:56 ID:ki0mRaL8
>>261
>盛隆の腰物番の大場三郎佐衛門(十九歳)である。

戦国板にいて腰物の意味を知らない訳では無いが
この一文にΣ(*´∀`*;)アッー!としてしまったら、いい男


佐竹義重と蘆名盛隆の、ラブ&ピース!

2009年06月28日 00:06

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 02:22:37 ID:i31hCh32
美男子と言うと、すごい有名な話だけどまだ出てないようなので書き込んでみる


蘆名盛隆公は武勇の大将としても有名であったが、なにより、
絶世の美少年として名が高かった。

蘆名が佐竹との合戦に及んだ時のことである。
佐竹の大将、佐竹義重は、合戦の最中、この盛隆を見て、衝撃をうけた。

一目惚れをしてしまったのだ。

その晩、義重は思いのたけをつづったラブレターを書き、送った。敵の大将に。
盛隆もこれを読み、義重の自分への想いに感動した。

そんなこんなで双方、書状をやり取りしているうちに、ついに合戦は止み、和議がなった。
愛が戦争を止めてしまったのだ。

そんな戦国の、ラブ&ピースのお話。




830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 02:33:33 ID:8A9V4Iuo

でも、結局男色のもつれで死ぬんだよな

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 03:22:55 ID:Xm0CccBk
ちなみに盛氏は盛興の後室を養女にして盛隆を婿にした
妻は元主君の内室である、しかもこの室は彦姫といい伊達晴宗の四女で
盛隆の母の妹にあたり叔母だったのだ
盛隆は抱く前に平伏して「ご免」と言ったとか
このあたりは兼続と舟に通ずるいい話

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 03:30:23 ID:4lNd8l5V
>>829
なにその戦国ランスw

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 11:42:07 ID:TLN5qwiH
>>833
アレは鬼畜イケメンと姫武将がラブってコメるファンタジーだけど
コレは太田三楽や真壁氏幹を飼ってる鬼とショタのアーッ!なリアルである件


二羽の鴨・悪い話

2009年04月19日 00:06

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/17(金) 23:05:15 ID:MC3q6x/Q
二羽の鴨

蘆名盛氏が岩崎の向羽黒山城で隠居の頃、鷹狩りで、鷹が一度に二羽の鴨を捕えた事があった。
それから間もなく、盛氏は死んだ。

後を継いだ蘆名盛隆も鷹狩りの際、秘蔵の鷹が一度に二羽の鴨を捕えた事があった。
盛隆はこの年、家臣によって殺された。

そして会津に移封されてきた蒲生氏郷も、塩川での鷹狩りで一度に二羽の鴨を捕えた事があり、
その年に死んだ。


つまり会津では鷹狩りの際、一度に二羽の鴨を取ると、死亡フラグなのだ。
会津の人、鷹狩りの際は気をつけて!




737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/17(金) 23:45:43 ID:2yxDX7be
そうカモな

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 00:07:28 ID:3UZhcpqZ
>>737

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 00:25:43 ID:5TVpKKrF
>>737

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 00:29:04 ID:3p4zWcSZ
>>737

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 01:05:15 ID:awLEZejE
>>737は一言で三羽の鴨を釣りました。
もう死亡確定です