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獺野原(うそのばる)の戦

2011年08月21日 23:00

498 名前:sage[] 投稿日:2011/08/21(日) 10:54:02.85 ID:O54MV1ow
獺野原(うそのばる)の戦い~1

1559年人吉城詰衆の若侍、児玉・早田・深水の三人が、それぞれ人吉奉行である丸目頼美の屋敷に仕える
侍女たちに惚れた。
互いに相思相愛となり密かに逢瀬を重ねていたが、見つかったら処罰を受ける。
女は欲しい、だが処分は嫌だ、何とか惚れた女を連れ出したいと考えた児玉たち。
丸目屋敷を取り仕切るのは丸目の母親で相良家中から「徳深き人物とあり、侍女を多く抱えていた」とある。
徳が多いから侍女が多かったのか、侍女が多いから徳深いのか、そのへんは解らないが、とにかく
丸目の母がキッチリしてるので侍女を連れ出すなど到底無理。
困った三人は宗慶寺の僧組・智勝に相談した。

智勝「侍女らが仕える丸目と同役でライバルの東長兄を争わせ、その隙に侍女を連れ出せば良い」
三人は後先を考えず、その話に乗り手分けして実行に移した。

児玉が東長兄の元へ、早田と深水が丸目の元へ訪れ「○○が貴方様を陥れようとしています」とウソを吹き込んだ。
東と丸目の二人は同じ人吉奉行とはいえ元々不仲だったので、最初は半信半疑だったが相手の言動が
イチイチ気になり、本当にケンカになったしまう。
そして二人の不仲が主君である相良頼房(後の義陽)と、その生母・内城の耳に届くころには、
どちらも抜き差しならぬほど拗れてしまっていた。



499 名前:sage[] 投稿日:2011/08/21(日) 11:04:39.55 ID:O54MV1ow
獺野原(うそのばる)の戦い~2

主君の頼房は若干16歳、重臣同士のケンカを収める政治力は未だ無いため、
生母である内城が、丸目の縁戚である東直政(湯前城主)に仲裁を依頼した。

東直政は、どういうわけか「仲裁がダメなら丸目を討つということだな」と思い込んでいたらしく、
内城に「二人が元の鞘に収まれば、それで良いのです」と言われると、張り切っていた分、ガッカリ。

丸目の元へ出向くと「拙者は丸目殿へ味方致します!」と勝手な振る舞いをした。
仲裁役(のはず)東直政の言動は、丸目のケンカ相手である東長兄の耳に入った。
「このままではワシが不利」と危機感を覚えた東長兄は、相良頼房と内城に拝謁すると

東長兄「仲裁役が丸目の縁戚では、拙者を不忠者とするでしょう。このままでは某に残された道は
謀反しかありませぬ!」
と、泣き脅しをかけた。

500 名前:sage[] 投稿日:2011/08/21(日) 11:11:40.73 ID:O54MV1ow
その3

謀反をチラつかれては、目の前の東長兄の言葉に従うほかない。
相良頼房と生母・内城は言われるままに仮病を使う羽目になる。
東長兄が頼房と内城に仮病を使わせたのは、二人に他者が目通りするのを防ぐ為で、
内城は「気分が優れない」、頼房は「腹の調子が悪い」として、屋敷の奥に引っ込み続け、
そして夜中に東長兄の手配で人吉城を出た。
主君と生母が赤池城へつくと、赤池城から人吉城へ向け篝火を焚いて「二人の無事確保」の合図を送った。
篝火を確認すると東長兄家臣60余人が、丸目屋敷に火をかけて攻撃開始!

人吉城下・丸目屋敷で火の手が上がったのにビビったのが、侍女を連れ出そうとした三人の若侍だ。
「ちょっとした騒ぎが起きてくれれば・・・」のつもりが「リアル市街戦勃発」。
三人は自分たちのウソがバレルのを恐れて職場放棄(人吉城・詰衆)し遁走する。

501 名前:sage[] 投稿日:2011/08/21(日) 11:29:00.69 ID:O54MV1ow
その4
突然の攻撃に、何の準備もない丸目屋敷では抵抗できず、丸目頼美は一族・郎党を連れて、
縁戚で仲裁役で「味方します」宣言してた東直政の湯前城に逃げ込んだ。
(ちなみに騒動の元になった侍女たちも同行)
東直政は驚いた、迷ったが自身の後見役にも諭され「主君に弓引く籠城戦」を決意する。

なりゆきで籠城になったで兵糧が足りない。
そこで兵糧を運ぶために人夫と護衛兵を出した。
その情報を入手した相良頼房は、帰り新参の犬童頼安に攻撃を命じる。

犬童は謀反に加担して敗れて逃亡、日向など転々としていたが1556年に帰参を許された。
彼にとって罪を許した主君への恩義に報いる絶好の機会。
犬童は「奥野一度橋」で兵糧を運ぶ湯前城兵を迎え撃った。

話が籠城前に戻るが、目が屋敷を逃亡した時に、丸目のもう一人の同役・深水頼金の末っ子左近が従っていた。
深水左近は湯前城に行く前に、友人の佐牟田の屋敷に出向き、最期の暇と手拭いを形見の意味で交換した。
で、湯前城でこれを同僚らにシミジミ~と話すと、
同僚「敵として相まみえる可能性の者と形見の取り替えは聞いたことがない。むしろ差し違えるべきだったろう」と
笑われ、
確かにそうだったと深水は納得し、心中深く決意した。

湯前城から出兵した兵糧の護衛兵の中には、同僚に笑われた深水左近がいた。
奥野一度橋で戦闘が始まると、深水は友人佐牟田の前で手拭い放って「自分がいる」ことを知らせた。
二人は互いに槍を合わせ、双方ともに討死したそうだ。

502 名前:sage[] 投稿日:2011/08/21(日) 11:45:25.59 ID:O54MV1ow
その5「獺野原の戦い」の前哨戦である「奥野一度橋の戦い」は籠城側の勝利となった。
犬童頼安は敗れ手傷を負ってしまう。
犬童が怪我したのは、殿の中にいた宮原(謀反⇒逃亡⇒流浪⇒帰参を共に行動していた仲間)が
負傷し動けなくなったのを助けようとしたためだ。

兵糧は入手できたが、このままでは心許ない。
湯前城主・東直政は日向から那須氏を援軍に呼ぶ。
さらに東直政の元へ「人吉城から多良木城へ兵が入り、湯前城を総攻撃する」という情報(実は誤報)が入った。
東直政は攻撃される前に先手を打とうと、恒松蔵人を多良木城攻撃に向かわせた。

多良木城主は岩崎と言うのだが、実は甥が籠城する湯前城に入っていた。
岩崎の甥は「このまま不意打ちを受けたら叔父が討死するかもしれない」と心配し、
自身の侍女を城外へ出して「出兵情報」を多良木城へ漏洩してしまう。

内乱だから敵も味方も親戚・知人が入り乱れているので、何ともはや流れが悪い話。
多良木城側は、さっそく伏兵を配置したが、恒松蔵人は難なく撃破。
この勢いで多良木城を攻撃するが、落城までには至らず、已む無く獺野原に陣を布いた。

503 名前:sage[] 投稿日:2011/08/21(日) 11:58:14.08 ID:O54MV1ow
その6~1559年8月16日、獺野原で東直政・丸目頼美・恒松蔵人・日向の那須氏の連合軍と
犬童率いる人吉勢・深水(人吉奉行の深水とは別人)率いる多良木勢が激突する。

決戦前、犬童頼安は多良木城兵を率いた深水に「人吉衆が大軍に当たるので、多良木衆は横から攻めて欲しい」と
言った。
すると深水は「これまで籠城して我慢してきた。自分らに先陣を任せてくれなければ、これから
恥ずかしくて戦など出来ない」と反論する。
犬童は深水を説得しようとすると深水が逆切れした。
「なら勝手に攻め込んで討ち死にする!」犬童と険悪な状況になった。
だが犬童は帰り新参の上、奥野一度橋で敗退しているので、それ以上強く出ることが出来ず、
深水に先陣を譲ることとした。


ヤル気満々の深水は戻った自陣で「討ち死にする覚悟のある人間」を呼び出した。
その者らに酒を一杯ずつ振る舞って出陣、途中にある川を「三途の川」に準える張り切りぶり。

深水率いる多良木衆は、その「三途の?川」を渡って獺野原の敵陣に向かう坂を登る途中で交戦!
緒戦で壊滅した。
気分を盛り上げすぎて注意力散漫になったのか、初めから死ぬ気だったのか、将の深水も討死したでござる。

「なにやってんだアイツらは・・」と犬童が思ったかは知らないが、彼は彼で行動していた。


504 名前:sage[] 投稿日:2011/08/21(日) 12:09:54.38 ID:O54MV1ow
その7
犬童頼安、自軍を率いて密かに敵の背後にある坂を登らせ、背後から敵を攻撃。
タイミングはバッチリだったのだが、交戦し始めたら互いに見知った顔ばかり。
ついこの間まで、杯を交わしていた友人・親戚らの腹へ槍を突きだす気になれない。
本気が出ないので決着がつかず、だらだらと交戦状態が続いたが、
そうこうしているうちに、連戦の恒松兵に疲れが出て腰が引いて来た。
そこへ人吉勢が押し出し、一気に乱戦となる。

東直政の軍が壊滅し、東直政と恒松蔵人を含めた180余人が討死する。
丸目頼美は戦場を脱出し日向へ落ち延びると、伊東家へ仕えたが「木崎原の戦い」で戦死したそうだ。
留守を預かる湯前城代は、敗戦の知らせに城に火をかけ自害。
丸目の母、件の侍女も自害した。

505 名前:sage[] 投稿日:2011/08/21(日) 12:22:24.19 ID:O54MV1ow
その8
翌年の1560年、そもそもの発端である、児玉・早田・深水の三人と、
彼らに入れ知恵した宗慶寺の僧侶・智勝が捕えられた。

若侍たちは、惚れた女が自分達の浅はかな行動の巻き添えで自害したので、完全に自暴自棄だったそうだ。
4人は人吉城下を引き回しの上、斬首。首は罪人として晒された。
これで一件落着・・・・のはずが困った事が起きた。

宗慶寺へ向かう道に、斬首された智勝が、生首だけの姿で夜な夜な化けて出るようになったそうだ。
智勝は僧侶だが、よほどの強い未練が残っていたのか、調伏することができず、
宗慶寺では止む無く寺を移転する羽目になったそうだ。

ソースは八代日記ですが、ネットから拾ったので細かいとこは相違があるかもしれません。
長文にお付き合い感謝です。




506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 12:39:36.98 ID:gM7ZYZWJ
ファミリー台子

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 13:30:27.48 ID:PDvgSchI
一時間半もかかるとは思わなかった

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 13:49:20.49 ID:UZKhShry
長いよッ!!w

しかしまあ、あんな四方敵みたいな立地でこんなアホこの上ない理由で
同士討ちまでしでかしたってのに大名として生き残ったのは大したもんだな

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 14:07:45.36 ID:y78mz2mD
わかりやすくて面白い文章だったけど長いな
いくつかのエピソードに分割して続き物にした方が読みやすいかもしれない

しかし助言の件といい化けて出る事といい、どんだけよこの腐れ坊主w

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 17:51:42.11 ID:yBhJ4BtY
情報を全部説明しようとするから長くなるんだよな
肝心なのは嘘がこじれて合戦になったくだりだけ
あいだあいだの小エピソードは省いてよし

511 名前:sage[] 投稿日:2011/08/21(日) 18:22:15.29 ID:vxpql5QG
>>510殿、参考になり申した。

発端のウソが拗れたのが1559年の5月の話で、
合戦になったのが8月のことなんで、
どこで区切るか迷って、つい欲張って小ネタも全部入れてしまいました。
構成力が及ばなかったorz
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アソ氏バイバイ・相良義陽の史書伝説・悪い話?

2009年04月23日 00:07

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/21(火) 23:44:47 ID:BQp8uWKN
アソ氏バイバイ・相良義陽の史書伝説

皆さんは「求麻外史」という史書を御存知でしょうか?
これは延宝3年(1675年)までの人吉・相良氏の歴史を人吉藩家老・田代政輔が
記した文献のことです。
今日はその「求麻外史」に書かれていたこんなお話。

ときは天正9年9月23日、耳川で大友氏に大勝したばかりの島津軍により、
人吉の相良氏が逼迫を受けていた頃の事です。
このとき島津軍は、正に相良家臣・犬童頼安が護る水俣城を包囲していました。
この事態に当主・相良義陽は臣下の溝口半五郎という者を、水俣城への
使者として遣わします。
半五郎は夜陰に紛れて水俣の地に入り、島津の陣を抜けて城に入ろうと試みます。
しかし、そうはうまくいくはずもなく半五郎は島津の衛兵に捕らえられて
しまうのです。
ここで半五郎、咄嗟に言い訳をします。
「私は球磨の住人で、城中にいる身内の者を訪ねてやってきたものです」と。

下手な言い訳云々はさておき、衛兵はこれを信じません。結果、半五郎は
真意を問い質され拷問を受けてしまいます。
そこへ、水俣攻めを一任されていた新納忠元が現れます。
新納は、そなたが城に向かって『義陽様は、悪戯に兵を失わないよう速やかに
城から退去するよう頼安様に命じられました』と言えば、そなたの命を救って
やると言いました。
半五郎はこれを承知したので、城の下へと連れられて来ます。
ところが半五郎はこの約束を破り、城内に向けて「自分は八代からの使者です。
ここ数日にも義陽公は球磨、八代の兵を率いて救援に駆けつけます」。
と叫んだのです。

当然これに腹を立てた島津軍は、半五郎の首級を竿の先に刺し貫き、城内の者に
見える様に高々と掲げられました。
しかし半五郎のこの命を賭けた行いは甲斐もなく、相良氏は島津氏に事実上降伏、
新納の言わせようとした通り城は島津に明け渡されてしまうのです。

ですが、ここで不思議な事が一つあったのです。

これと同じような出来事が、なんと天正3年の長篠で起こっていたのです。
たった6年の間に日本の中央と西で起こった偶然、これを奇跡と言わずして
何と言いましょうか。正に神の悪戯と言うべき出来事です。
この事実は人吉藩家老・田代政輔に偶然にも伝わり、更に享保5年までの相良氏の
歴史を記した「南藤蔓綿録」へも受け継がれ、今日にまで語り継がれることが
出来ました。

以上、信じるか信じないかはあなた次第。




848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/21(火) 23:48:12 ID:7xBQMDXP
東に忠臣あれば、西にも忠臣あり。

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/22(水) 13:58:32 ID:dn4P13Qk
>>847
ちなみにそれらの逸話と若干似た話が、中国の五代十国時代の南唐でも起こっている。

南唐の皇帝は快進撃を続ける後周軍と和睦するため、宰相の孫晟を後周の皇帝柴栄に遣わすと、
柴栄は和睦の交換条件として、寿州を割譲することを求めた。
寿州は柴栄、趙匡胤らが束になっても土をつけられなかった不敗の名将、劉仁贍の守る地である。
柴栄は寿州の開城のため、その使者として孫晟自身に説得するよう求めた。
後周軍の監視の中、孫晟は寿州城下から城壁上に立つ劉仁贍の姿を認めると、叫んだ。

「公が国から受けた厚恩を思うなら、決して門を開けて賊を入れてはならない!」

柴栄は孫晟の言葉を聞くと大いに怒り、これを斬ろうとすると、
孫晟は「臣は唐の宰相である。何故節度使を叛かせることができようか。」と言った。
忠心に感心した柴栄は、彼を許した。

以上、参考は『五代史平話』。
…史実では確か孫晟を殺してから悔やんでるってのは内緒。

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/22(水) 20:19:01 ID:4AuTd2kk
>>861
いやこれ、何かおかしくね?

軍を撤兵する交換条件で、土地割譲を出して、一国の使者である宰相はそれを呑んだわけでしょ?
それでいざ城の明け渡しの段になってから反故にするってのは、美談にもならないと思うんだが。
鳥居のエピのように、脅迫されて嘘を言わされようとしたってわけでもない、そもそも自分が約束
したことでしょうに。



相良義陽と甲斐宗運の友情・いい話

2009年02月04日 00:27

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/03(火) 00:38:58 ID:jTmDSBDf
こんな友情のお話もありますよ「命を賭して友情とお家を守り通した相良義陽のお話」 

南肥後の戦国大名相良義陽と阿蘇家の宿老甲斐宗運は大友方として父の代から親交を深めた盟友であり、阿蘇神社(阿蘇領)と
白木妙神社(相良領)にそれぞれ誓紙を収め不可侵の誓いあった親友であった。しかし耳川で島津が大友を破ったことで事態は
変化する。島津氏の猛攻で相良氏の水俣城は降伏。こんどは逆に島津方はとして相良氏は甲斐宗運と戦うことになったのである。

島津義久からの阿蘇領への出陣命令が下りついに決断を迫られる義陽。宗運と戦えば誓紙の誓いを破り信義・友誼に反する。
一方、義久に逆らえば相良氏の滅亡は避けられない。苦悩する義陽だが戦国大名としてまた、相良家当主として彼が選んだ
道は宗運に戦って彼に討たれることであった。

義陽は出陣にあたり白木妙神社に収めてあった宗運との不可侵の誓紙を焼き捨て詫びこう神官にこのような祝詞をあげさせている。
「今度の出陣は拠所なき儀にて、子孫長久の為に討ち死にをしにいくものである、どうか我が子孫が後世栄えるますように・・・」
そして阿蘇方の堅志田城、甲佐城を攻略し宗運との決戦におよぶのだった。

一方の甲斐宗運だが始めのうちは義陽出撃の報を信じなかった。しかし堅志田城よりの報告でこれが真実であることを知る。
「これまでは義陽が島津を防いでいたので阿蘇家は安泰だったが、もはや誓紙を破ること是非もない。
神罰により両家とも滅亡し、九州はやがて島津のものになるだろう。」と言って阿蘇神社の誓紙を神池に沈めさせて出陣する。

決戦の地、肥後響野へ着陣した義陽。この響野は四方が開けた守りにくい土地であり、はじめ宗運は義陽が響野に着陣したとの
報告を「それは義陽の陣法とは思えぬ」と言って信じなかった。やがてそれが真実と知り「さては相良の命運も尽きた。自ら」
死地を選んだとしか思われぬ」と義陽の心中を察し天を仰いだという。

戦いは事前の予想通り、宗運の圧勝に終わる。義陽は床几に腰掛け団扇を握りしめたまま、刀を抜くこと無く討ち死にしている。
また義陽に従い出陣した相良勢は1000名のうち400名が討ち死にするというありさまであった。しかしこの相良勢の壮絶な戦いは
島津義久の心を打ち、義陽の子忠房に家督を認め、人吉城を返し義陽戦死に対する感状をも与えている。

こうして鎌倉以来の名家相良家は幕末まで存続。一方、宗運は義陽戦死にあたり「相良を失い阿蘇家も3年うちに滅亡するだろう」
と言い義陽の命運を祈る。その後、宗運の言通り阿蘇家は島津氏の猛攻に合い、3年の後に滅亡するのであった。 




196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/03(火) 03:21:53 ID:nzTiYOE5
>>195
この話か…
どっちもカッコヨス

義陽って意外と周囲からの高評価の逸話多いよな

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/03(火) 06:54:39 ID:cBiJ3DG8
確か、甲斐宗運が亡くなった後に阿蘇氏は滅亡してるんだよな。




関連
相良義陽と甲斐宗運の友情、宗運側の史料では
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2330.html

戦国の結婚詐欺・悪い話

2009年02月04日 00:12

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/03(火) 12:43:26 ID:ZVcbMoua
結婚詐欺の禁止

いい話のほうで話題になっていた相良氏の分国法「相良氏法度」に
「後家を妻にすると言っておきながら、売り払ってはいけない」という条項がある。
当時も結婚詐欺が有ったらしい、という悪い話。