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人と交わる時、

2013年10月25日 19:08

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 17:21:16.40 ID:4Y/L2yAU
人と交わる時、「世の中に何の望みも無い」と言う人と深く付き合ってはならない。

貴賎ともに、人に望みが無いという事はない。望みが有るからこそ、
すなわち今日の行跡を慎んで乱れないのである。

ところが何事も望みが無いと言う人は、己の心を基本として我儘で気随なものである。
今日は心よく付き合うとしても、明日には勝手な振る舞いが表れて極まるものと知るべし。

――『山本道鬼入道百目録聞書』





418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 21:53:07.08 ID:8Fc0tuzc
>>414
ひろゆきの言う「無敵の人」みたいなもんだね

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 10:46:07.76 ID:DzMsDEuO
>>414
「金もいらぬ、命もいらぬ、名誉もいらぬという者は始末におえない。だがそういうものでなければ大事はなせない」
By 勝海舟

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 13:02:16.53 ID:UJJpVPKX
>>414と>>427どちらの言葉にも当てはまる人物

『心知らぬ人は言わば言え
身をも惜しまじ名をも惜しまじ』

明智光秀

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 13:30:51.41 ID:x4oVNex5
>>427
あれ?それ西郷の言葉じゃなかった?

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 13:36:43.12 ID:UJJpVPKX
~西郷隆盛が山岡鉄舟を評した言葉~

431 名前:勝海舟[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 16:57:12.52 ID:DzMsDEuO
うるせえ。 江戸っ子っが細けえことを気にすんな

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 17:25:40.19 ID:IW6UAmv8
嘘でもいいから本当の事を言ってくれ

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 17:34:43.78 ID:Hu1FX0cx
なんか西郷が泥舟を評した言葉とも聞いたことがあるが
三舟どれでもいいや

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/27(日) 10:32:22.48 ID:OSATyEou
>427、命は大事だよと我らの天庵さまは申しておりますが

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/27(日) 17:51:27.63 ID:CpyCjo5J
天庵様の本体はネコだからな。
人の姿の命など、仮初めのものに過ぎない。

山本勘助、召し抱えられる

2013年10月13日 19:05

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/13(日) 10:15:15.14 ID:3sbmom2J
天文12年(1543)正月3日、武田家の家老衆が集まり、その年の武田晴信(信玄)公の軍備について
会議が行われた。

そこで話し合われたことに、諏訪、佐久、小縣という敵味方の境に城を構える場合、
その構え方さえ良ければ千人の敵兵に対して味方300で持ちこたえることが出来る。
これには城の縄張りが重要である。

このような城の縄張りについて良く知っている剛の者が、駿河の今川義元の家来である庵原安房守の
身内に居る。彼は義元に奉公したいと望んでいるが、義元の方では召抱えようとしない。
この者は三河牛久保の侍であるが、四国、九州、中国、関東までも巡り歩いた。

この大剛の武士の名は、山本勘助という。

板垣信方はこの勘助を呼び寄せ、お召し抱えに成るよう晴信公に提言した。それにより
その年の3月、知行100貫という約束で駿河から勘助を呼び出した。

勘助からお礼の挨拶を受けられた晴信公は、即座にこう仰られた

「勘助は片目であり、数カ所の負傷で手足も少々不自由のように見え、しかも色は黒い。
これほどの醜男でありながら、高い名声を持っているのじは、よくよく能力に優れた誉れ高い武士であると
思われる。そのような武士に100貫では少ない!」

そうして勘助に、倍の200貫をくだされた。

その年の暮れ、11月中旬に晴信公は信濃に出陣された。
11月の下旬から12月15日までに、9つの城を陥とし晴信公が手に入れられたが、これは全て
山本勘助の武略によるものであった。
時に晴信公、22歳の頃である。

(甲陽軍鑑)

良い話なんですけど、晴信公、初対面の勘助さんに醜男言い過ぎですw




476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/14(月) 08:23:06.12 ID:t2jqhrbE
男でも色の黒いのはダメなのか・・・「しかも」ってw

今川義元が山本勘助を召し抱えなかった事は

2013年10月01日 19:40

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/30(月) 20:12:18.09 ID:gcrJMB/f
駿河での今川義元公の時代に、山本勘介が三河国、牛窪(愛知県豊川市)より、今川殿への
奉公を望んで参上したのであるが、この山本勘介は散々な醜男で、その上に隻眼であり、
指も足も不自由であった。しかし彼は大剛の者であったので、義元公が召し抱えられるように、
勘介の知己であった朝比奈兵衛尉が彼のことを

「この山本勘介という者は、大剛であり、特に城取り、陣取りといった軍法は良く鍛錬されています。
剣術も京流の上手であり、軍配も良く知っています」

と申し上げたが、義元公がお抱えになることはなかった。
駿河の人々の噂では、あの山本勘介は第一片輪者であり、それに城取り陣取りの軍法を鍛錬したと
いうが、自分の城を持ったこともなく、兵を持ったこともない者が、どうしてそのような事を
知れるものだろうか。彼は今川殿に奉公したいがために虚言を言っているのだ、と言い合った。

それから勘介は9年も駿河にいたけれど、今川殿が召し抱えることはなかった。
この9年のうちに剣術のことで2,3度手柄があったが、この当時は新当流(塚原卜伝の流派)
の兵法こそ本物であり、勘介の京流はそれに劣るものだと、人々は噂した。

加えて、勘介は牢人の身であったため、草履取りすら一人もつれておらず、彼について
非難するものこそ多かったが、良く言うものなど一人もいなかった。

しかし、この事は実は、今川殿の御家が万事にわたって活力を失い、御家が末に傾き、
武士の道の見極めが浅く無案内であったために、山本勘介の身の上のことにまで、
悪い評判が及んだのであろう。
(甲陽軍鑑)




409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/30(月) 21:04:30.32 ID:bdUHqgFH
歴史小説そのままのノリだな

我が子の不行跡を

2013年06月28日 19:52

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/27(木) 23:57:14.04 ID:v/iNQOjd
我が子の不行跡を他人に頼って異見させる親は甚だ僻言である。
愚かな子を他人に披露するのは親子の情にあらず。

自分の分身の子なのだから、何度も教訓すべし。
再三教導しても聞き入れない放埒無頼の者ならば見切って勘当すべし。

――『山本道鬼入道百目録聞書』






召仕の男女にもし密会の不埒があれば

2013年06月13日 19:51

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/13(木) 00:09:53.00 ID:fOs1Muei
召仕の男女にもし密会の不埒があれば、双方とも斬罪とするのが古今とも武家の重き定法である。
とはいえ、色情は富貴の名主も下賤の者も陰陽合躰の道、人たる者に変わりはない。

そのような事があれば主人は勘弁して双方を呼び出し、当座の戯れなのか夫婦の契約なのか聞き届けるべし。
死生ともに申し合わせた契りだというのならば宥免して罪の程を許し、所帯を持たせよ。

そうすれば男女とも心魂に徹してありがたく思い込み、事ある時には先途の用に立つこともあるだろう。

今川了俊の条目にも「恩の為に死ぬ者は少なく、情の為に死ぬ者は多し」と書かれている。

――『山本道鬼入道百目録聞書』






寝所へ呼びつけてはならな

2013年06月11日 19:50

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/11(火) 17:28:20.66 ID:7JDtOc0/
数年召し仕えた譜代恩顧の男女であっても寝所へ呼びつけてはならない。
止むを得ず用事があるならば、老女か少女へ申し付けるべし。

取り分け、金銀を出し入れする所を見せてはならない。

下人は信有って義無く、目に触れて一念発起の欲心より、邪の悪事をする事がある。

――『山本道鬼入道百目録聞書』




822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/11(火) 17:48:24.80 ID:eIqPdM5w
一瞬小山田さんに恨みでもあるのかと思った

人を討って立ち退き逃げるのは非強至極なり

2013年06月10日 19:50

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 18:30:20.33 ID:bD9bkyb7
武士たる者、人を討って立ち退き逃げるのは非強至極なり。

なりゆきで討ち果たしてしまったならば、その意趣を書き記して腹切るべし。

ただし、親がいるならば一旦立ち帰り、親たちへ事情を申し述べ、検使を受けて
その上に真気を静め、それぞれへ挨拶して腹切るべし。

――『山本道鬼入道百目録聞書』




815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 18:35:45.85 ID:W6c3jPw9
水野さんに対する挑戦ですね

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 19:12:56.13 ID:L6BHVRIx
趣旨を説明したら運が良きゃ腹切らなくてすむかもしれんからな
まあ江戸時代になるとまず切腹だろうけど

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 19:48:42.64 ID:Wa7n11n/
周り近所に大音声で討った理由を述べたあと、
その場で立ったま腹を切り、腸を撒き散らして心意気を表現するんじゃないのか?

勘助は即座に暇を告げた

2013年03月14日 19:53

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 00:02:03.89 ID:33Xk3Rsh
大永7年(1527)、毛利元就31際の時、厳島参拝の折に棚守房顕の屋敷に立ち寄ったが、そこで初めて
山本勘助に出会った。

元就は勘助の容貌を奇として、どこから来たのかを尋ね、さらにをの所志を質問し、しばらく考えた後
帰城したが、5,7日ほど後、使者を遣わして棚守にこう伝えた

『先日一見した所の京都牢人(勘助)は、早くこの地から去らせるのだ。そして日本国中を遍歴させるべし。』

棚守はこの意を受けて、勘助に他所の土地へ興味を向けようと考え、関東の諸将の威烈を語った。
山本勘助はこれを聞くやいなや、棚守に暇を告げて立ち出ようとした。

棚守は勘助があまりに早く暇を告げたことを怪しみ、止めてそのわけを聞いた。
勘助曰く

「私はこの国に仕官を求めるために来ました。貴方もまた、私を推挙してくれたではありませんか。
ところが今、関東の諸将の威烈を語られました。これは貴方の御心が、既に変わったことを表しています!」

「な、何故そう思ったのだ!?」

「関東とは”還当”、すなわち”還る当し(かえるべし)”と読めます。これが私が暇を乞うた理由です!」

棚守は勘助のあまりの明敏さに、感嘆したとの事である。
(軍人頓智叢談)

なにか噛み合っていない気がする。気のせいだろうか?w




908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 00:11:36.94 ID:K6cpGKyN
駄洒落か

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 00:12:54.95 ID:NOytU+1x
民明書房だよな

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 00:20:54.12 ID:3A123S6K
関東が還当とかこじつけなくても、他の地域の武将の話をしだせばいらないって言ってるも同然な気が

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 00:30:07.69 ID:4pi1deYS
大御所臭がするんだが・・・

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 15:23:25.12 ID:FrjM3yl+
腹黒さんがうちで捕獲できないなら殺してしまえな椰子じゃなくてよかったな


山本勘助の毛利家就職失敗談

2012年06月27日 21:00

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/26(火) 23:23:00.18 ID:F9iZz8Wh
山本勘助晴幸は近江の本居を去って京に行き室町将軍家に仕官を求めたが、将軍家の権威は
日々衰える有様だったので
「ここは功名を立てる場所ではない。」言って京都を去った。
次に中国地方に行って名を全国に轟かせようと思い、まず諸将の賢否を人に聞いたところ仕えるなら
安芸の毛利元就しかありえないということだった。

安芸に着くとまず毛利家に仕官する縁を祈ろうと思い、厳島神社に参拝し神主と会見し京都の消息を語った。
神主は珍しいと思い勘助を元就に推挙した。元就はこれを聞くと何の答もせず、2、3日後に神主を呼び出した。
「先日の京都の浪人を長くこの地に留めないように。私はその人を登用することはできません。
登用しなければまた他国で仕官するでしょう。他国へ行けば安芸の毛利は兎にも角にもと評判します。
知らなければどうしようもなく、批判もできないでしょう。速やかにここを立退かせて下さい。」と
命じられたので
神主もその意を汲んで、勘助に「関東までの間に功名を立てることができる地があるでしょう。
西田舎での仕官は無益同然でしょう。」と言うと
勘助はすぐにこの意味を悟って、即日厳島を出発し東へ向かいましたとさ。

山本勘助の毛利家就職失敗談




190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/27(水) 04:14:47.34 ID:KQKTF81u
仕官断られた恨みから、悪評垂れ流す可能性があると思うんだが

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/27(水) 05:46:24.85 ID:6ApX9gmP
>>189
厳島の神主の日記にこのことが記されていれば勘助は存在が証明できたのになあ。

山本勘助と氏真

2011年10月30日 22:00

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 13:27:32.26 ID:7hXNx9WP
では流れを変えるためにも武田信玄の良い話でも。

当時浪人中であったが名の知れた武士であった山本勘助は、
駿河太守の今川氏真に仕官しに行った。
しかし…
氏真「お前カッコ悪いから不採用」
まぁ外見だけ見たら無理も無い。
勘助は色黒、隻眼、戦傷が体中にあり片足が不自由、背も低く痩せている…
と、とにかく見た目が悪い男であった。
実にテンプレ的な山本勘助である。

その後、山本勘助は当時若干20歳の武田信玄に会いに行き、
勘助の高名を聞いた信玄に即百貫で取り立てられた。
その後、実際に勘助に対面した信玄は、
異相であるにも関らず有名な勘助を只者ではないと感じて更に加増し、
戦話を聞いてはその博識を敬うといった具合に、
山本勘助を厚遇したという事だ。
名君と暗君の差はかくも甚だしき物があるということよ。
めでたしめでたし。

…これだけなら良い話なんだけど、酷い所が一箇所。
お前ら歳の差を考えろとw
氏真と信玄じゃ、どう考えても信玄の方が年上です。
この逸話、江戸初期成立の物なので、
その当時から既に氏真暗君論が唱えられてて、
逸話に混入しちゃったんだろうなと感じさせる、氏真にとっての悪い話。




618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 14:12:46.80 ID:H6nI7fe+
途中まで読んでツッコミを入れそうになったぜぇwww
品川さん、武将というか主君としてはダメかもしれいけど人間的にダメってエピソードあるんかな?

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 16:02:56.01 ID:USXGCf+w
>>616
氏真→義元のエピソードはよく聞くよね

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 16:20:58.78 ID:VXP80smS
勘助はようわからんな。一時期は存在疑問説が流れたりしたし
最近じゃいたらしい、なんて意見が強まってるし。まったく、嘘ほんとが入り乱れて困る

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 17:02:01.80 ID:17zPE6cd
>>620
勘助存在説は、市川文書でちゃんと名前書いてあるから確定だと思っているんだけど
(ただし、勘助じゃなくて管助だが、この頃は当て字当たり前だからあまり問題なさそう)
これじゃまだ弱いかなあ

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 17:39:48.68 ID:5rUOcYJU
>>622
山本勘助という人物が居たことは確定だけど、
その人が我々が知るような山本勘助であるかどうかは別問題

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 17:49:31.14 ID:Xa9ox33z
水戸黄門みたいなもんだろ。徳川光國は実在したけど、諸国漫遊はしてない的な。

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 17:55:19.56 ID:6+e9uvtm
よくわからんけど今でもそんなに勘助神格化されてる?
毎回この話題になると勘助を否定するor別人とかコメあるけど
逸話でなにかあるならせっかくだから
こりゃねーよって感じのでもいいから山本勘助の話がみたいです

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 17:55:31.33 ID:17zPE6cd
>>623
なるほど 軍師と伝わっている確実な史料はあるのかな
でもあの当時の軍師って、陰陽師みたいなもんなんだっけ

勘助は諏訪の高島城の鍬立てをやったと、駒井高白斎の『高白斎記』という史料に書いてるらしい
鍬立てってのは地鎮祭のようなものだけど、あの頃の地鎮祭は今よりももっと重要視されているんだよね
祟りや呪いを真剣に受け止めていたりするし

だから勘助は軍師は軍師でも、呪術型の軍師なんだろうなと思ってる

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 17:58:38.98 ID:y3ze+cCA
当時の軍師って、呪術は知ってて当たり前じゃないのか

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 18:08:03.32 ID:tv2LC+Yt
山本勘助(菅助)は軍事作戦についての事で信玄の使番として行動している記録が残っているので、
軍使かどうかはともかく、信玄の近習の一人だったのは間違いなかったと考えられる。

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 18:28:06.45 ID:5rUOcYJU
>>628
×軍師
○軍使
か、なるほど!

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 18:39:19.22 ID:N3Ivz//v
当時の従軍陰陽師は「軍配師(軍配者)」だね
三国志に出てくるような軍事参謀的な職としての「軍師」は厳密には存在しなかった筈
参謀的な役割の人はいただろうけどね


631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 18:43:19.37 ID:17zPE6cd
>>627
そうなのか そこまで詳しく調べてないんだ ごめん

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 18:52:26.86 ID:2aqRBeZV
呪術師というか出陣式とか首実験なんかの段取りつくる役目な気がする
誰が掛け声かけるかで斬り合いになるんだし(家中序列の問題にもなるから)

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 19:41:27.37 ID:H6nI7fe+
軍師やら軍配者やらを、今売りの雑誌でそんなん特集してるよね?

名探偵、山本勘助

2011年06月13日 00:00

83 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/06/12(日) 15:47:51.63 ID:G8BFWHS/
ある時、山本勘助の屋敷で囲炉裏に据えた五徳(鉄瓶等を乗せる金具)がひとりでに動き出すという怪現象が起きた。
その様子を熟視した勘助は、鉄製の五徳を銅製の物に取り替えて動かない事を確かめた上で、国中の山伏を招集。

「この現象を止められる者はいないか。」

と尋ね、名乗り出た山伏が祈祷を行って五徳の動きを止めると、犯人として縛り上げた。
問い詰められた山伏は

武田信玄公に取り立ててもらうには勘助殿と知り合うのが得策と考え、料理人を抱きこんで
天井に強力な磁石を仕掛けさせました。」

と白状した。その後この山伏がどうなったかは不明である。
名探偵、山本勘助怪奇現象を見事解決したお話。




84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 16:04:00.15 ID:9HKX78Bg
この時代に磁石なんてあったんだな

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 16:25:38.43 ID:Zocw9gU7
古代ギリシャの頃から磁石の存在は確認されてたらしいし、
アジアでも中国は宋の時代に、沈括という学者が磁石化した針を
水に浮かべて指南針として活用する方法を記述している。
戦国時代ならもう伝わってたんじゃないかなあ。

学研の漫画で忍者が水溜りに針を浮かべて方角を確認するって
一コマがあったような。


86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/12(日) 16:37:10.61 ID:e36bx8l+
祈祷の力があると偽って自分を売り込もうとしたわけか
その山伏はどうなったか知らないけど間諜として採用されたのか
あるいは敵国のスパイなのか審議され加藤段蔵のように始末されたのか

南部下野守処分

2011年05月08日 00:00

452 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/07(土) 10:18:17.39 ID:3NWP63AF
武田家に仕える南部下野守が、家臣を成敗しようとして失敗し、逃亡され追い回していたときの事である。
その家臣が刀を手に逃げ込んだ屋敷に偶然居合わせた山本勘介は、刀を抜かずに近くにあった木の棒で応戦、
3ヶ所ほど軽い手傷を負ったものの、相手を捕らえた。ところが、本来であれば礼を言う立場の下野守は、

「兵法家を名乗っていながら手傷を負うとは口ほどにもない。」

と悪口を言いふらした。これを知った信玄は、

「傷を負ってでも敵を倒すのが本当の兵法である。刃を持った相手に木の棒で立ち向かった勘介を
 嫉むとは許し難い!」

と激怒した。
本来なら処刑する所だったが、それでは勘介も迷惑だろうからと下野守を甲斐から追放したのだった。




453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 15:45:43.32 ID:MvNXsYxd
兵法家の山本勘介は実在してないんでしょ?

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 15:55:08.99 ID:+GeF6mwg
三国志的な軍師、兵法家としての山勘は怪しいけど、
戦国時代の兵法家は剣術等の武芸者のことだから、信憑性に問題はない。

このスレ的には実在してなくても問題ないんだけど。

455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 15:56:08.01 ID:h0fH9uAZ
軍鑑そのままの山本勘介ならね

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 16:16:32.97 ID:iQ/Gjd2a
冗談抜きでこのスレの逸話の90%は後世の作り話

457 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/07(土) 19:02:30.35 ID:EYdKoaqb
しかも出典がないのが大半だから近現代の小説が混じっててもおかしくないしな。

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 19:03:10.99 ID:4w+ddfVk
>>456
割合もっと高いと思うよw

永年甲陽軍艦の有効性を研究してきた平山優は、山本管介を、
信玄の外交官として西上野や信濃で活躍したそれなりの身分の武将としている。
逆に、懐疑的な笹本正治は、山管は武田の使いっぱしり説を堅持してる。

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 20:01:08.38 ID:qnp9Mh1B
それなりの身分じゃないと使いっ走りもできないんじゃないの?w

460 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/07(土) 20:05:50.20 ID:0AFeg59n
子孫の五十六もだけど軍師ならもっとマシな死に方してくれんかと。

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 20:26:41.07 ID:1DZnSr9I
五十六は子孫だったのか??

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 20:30:18.72 ID:sBPae0tq
使番って重要機密預かるから、身分の大小よりむしろ君主との個人的信頼じゃないかね。

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 20:30:57.88 ID:eMeQapDI
>>461
高野家から山本家の養子だけどね(高野五十六ときくと、某仮想戦記を思い出す)、
長岡藩の山本家は三河山本氏からで、
三河山本氏は山本勘助の弟・山本帯刀の子孫ってことになっているらしい

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/07(土) 20:59:29.89 ID:0dQDWWEr
だからなのかな、前から山本勘介の墓が岡崎市にひっそりとあるのが不思議だった

http://hattoris2.sakura.ne.jp/sookazakikannsuke070415.htm
476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/08(日) 00:18:23.40 ID:Qp/mPuqf
>>464
へー岡崎にもあるんだ。
豊川にも勘助の墓があるよ。

http://www.aichi-c.ed.jp/contents/syakai/syakai/tousan/tou051.htm

山口と武田家のあの人

2009年07月27日 00:04

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 15:22:11 ID:cREjXz9l
山県さんに続いてもういっちょ、山口と武田家のあの人


山口に「山本家」という、大内氏の頃から続く古い家がある。
この家に残る伝承に言う

「山本家の先祖は、讃岐の国に居た。
この讃岐の、六ヶ村の庄屋の子に、勘助と言う男が居た。
この勘助は子供の頃から猪狩りの名人であったが、ある狩の最中、猪の反撃をくらい、片目を失い、
片足が不自由になった。

その勘助、成人すると武者修行に出、美作を経由して、山口に来た。
そしてその才能を認められ、大内義隆に仕えた。
彼は山口の矢原という所に住み、そこで一家を構えた。これが山口矢原の山本氏の祖となった。

ところが、それからしばらくして勘助は、

「ワシはもっと武者修行がしたいのだ!」

と言い出し、家族を残し、山口を一人出奔してしまった。やがて東国へと赴き、武田氏に仕え、
その後は皆さん、ご存知のとおりである。

この、山口と山本勘助との関係は、後に毛利家の家臣になった、矢原山本氏の分家、
三隅山本氏より毛利家に提出された、「山本家言伝之覚」にも記録されている。

これが事実かどうかは無論、わかりませんが、>>806の山県昌景のお話ともども、
甲斐武田家と大内家の、奇妙な縁を感じるお話。





852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 15:38:52 ID:A3BaQzcX
出自にいろんな説があって胡散臭い人って結構いるんだな

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 15:47:11 ID:e4j3zuz/
甲斐武田家と大内家の、奇妙な縁…といえば、
信玄の義父(三条の方の父親)は大内家に身を寄せていたところを
内乱に巻き込まれて殺されてるんだよな。

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 18:54:42 ID:TBHE6o1P
>>851
どの辺がいい話なんだろ?
むしろ家族残して出奔した悪い話では?

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 20:34:37 ID:eEAsTWf1
大内氏というより安芸守護武田氏と若狭、甲斐は同族だし、
そっち方面の繋がりじゃないの?


856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 21:01:23 ID:hBtY/dUn
まあ家臣団も甲斐から引き連れていくんだから当然だわな

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/26(日) 21:24:22 ID:bFuFJjvl
萩藩閥閲録って1720年ごろに纏められたんだよな
やっぱり武田家の有名どころを起源に据えることで
徳川家と言うか幕府に対して優位にしたい気持ちがあったのかもね


山本勘助と「乳松」・いい話

2009年06月14日 00:09

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 00:12:40 ID:noxDAH/C
武田信玄が小笠原長時と戦った桔梗ヶ原の戦いには武田の軍師、山本勘助
も従軍していた。

戦いのさなか、勘助は赤子の泣き声を耳にした。そこで勘助は四方を
飛び交う弓弾をものともせずに赤子のもとに駆け付け、片手に抱き上げると
そのまま敵軍と戦ったのである。しかし、勘助は手や足が不自由である。
赤子と一緒では共倒れになりかねない。

窮した勘助はとりあえず赤子を隠すことにした。あたりを調べると塚の上に
松があるのを見つけた。勘助は松の根本に赤子をそっと降ろすと「松よ。
この赤子をかえすがえす頼むぞ」と語りかけて戦場に戻っていった。

やがて小笠原軍が退散すると勘助は一目散に松のもとに戻ってきた。
すると赤子はなにやら喜んでいる様子である。なぜならば松の葉から滴る
雫をまるで母乳のごとく赤子が口に含んでいたからだった。勘助の願いを
聞き届けた松が母親のごとく赤子に接したのだろうか。

それから半世紀たって一里塚が作られた。人々はその松こそが、乳松だ、
勘助子育て松だと今日まで伝えている。実物が見たい方は塩尻市にどうぞ。





457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/13(土) 16:50:19 ID:36/x7Nf/
>>432
勘助優しいな 乳松ってネーミングもすげーw


山本勘助の上杉憲政分析・いい話

2009年05月04日 00:04

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/03(日) 04:16:50 ID:NGAVX0Iz
「山本菅助」への信玄書状を発見
群馬県安中市の民家 褒美与える内容など2通
http://www.sannichi.co.jp/local/news/2009/05/01/2.html

こんな大ニュースがあった記念、武田信玄と山本勘助のお話

ある時武田晴信が、山本勘助にこのようなことを問われた
「他国を占領した際、その国の侍達を皆斬り捨てるか追放をし、一人も召抱えることなく元からの
自分の配下達だけに、その国の知行を分けるという事はいかがであろうか?」

勘助これに答えるに
「それはその大将が手柄を誇り、将来への配慮もなく、外聞を気にしての浅はかな判断だと
申せましょう。
その措置には先ず、国持ち大名として無くてはならない慈悲の心がかけております。
これでは天より憎しみを受け、必ずや災いを呼ぶでしょう。
私もそのような例を、いくつも見聞きしております。」

又、晴信は問うた
「関東の上杉憲政の様子はどうか?」

「はい。憲政は新規の人を召抱え大切に扱います。しかしこれは、そう言う外聞を大切にすれば、
各国各郡から四方にこの事が宣伝され、諸国から大いに人が集まってくることを、
期待してのものです。
人多く集まり憲政に奉公すれば、関東管領としての上杉憲政の威光が上がり、
北条氏康やその支配下の者たちもこれを恐れる。そう言う目論見の元に、大身の親類、或いは
遠国の牢人がやってくれば、これを抱え厚遇しているのです。
このため上杉家中では新参の者が幅を利かし、知行を過分に取り、働いております。

ですが、そのせいで譜代の人々で、上杉家のため熱心に働くものは、十人に一人もいないという
有様になっております。」

晴信はこれを聞いて笑い
「憲政は後先を考えず新参を厚遇するため、古参の者は恨みを抱いて役に立たず、
新参は思い上がって主君を軽んじているため、これも役に立たない。それで双方忠功を怠る。
そんな事だから北条氏康の少数の兵に切り崩され、合戦に敗れるのだ。

憲政のやり方は、下手糞な医者が工夫を間違え、薬を毒にしてしまったようなものだ。
『薬は人を殺さぬ、医者が人を殺す。』と言うやつだな。

大将の人の使い方が悪ければ家臣もまた悪くなる。
世の中にはそれを勘違いをして、家臣が悪くなった事を、家臣の責任だとする者達がいるが、
この武田晴信は、絶対にそのようには考えないと、御旗盾無に誓おうぞ。」

この晴信の言葉に勘助、かたじけなく、感じ入ったとの事である。