予め慎む心得のある人は

2016年12月31日 20:35

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/31(土) 14:18:50.97 ID:LohlZohC
一、往来はなおさらのこと、在宿であっても、咎人が行き過ぎる時に
目を見合わせてはならない。

罪人は死刑に迷って正気転変するので、「あれこそ、知り合いの人だ!
罪科の次第を知っている!」などと、妄語することがある。

その時は、役人も捨て置かずに糾明する。もちろん言い逃れたとしても、
見聞人の口は塞ぎ難い。

主人のいる者は、これによって疑いを蒙るのである。これは妻子や下人
にも、よく言い含めておくべきことである。

およそ災難に遭うのを“時節到来”とは、はなはだ僻事である。予め慎む
心得のある人は、不慮の災難を受けることはない。

――『山本道鬼入道百目録聞書』



480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/31(土) 15:57:49.61 ID:CTZiu4gC
>>479
>、役人も捨て置かずに糾明する。
いい迷惑だけど偉いなw
スポンサーサイト

主君に不意に召された時、

2016年11月04日 00:12

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/03(木) 02:12:04.73 ID:SO4PLe6Q
主君に不意に召された時、慌てて出てはならない。

まずは御召しの御答えをして、次の間で胸からへその下(丹田)へ心気を静めて、
2,3度撫で下ろし、しとやかに罷り出よ。

自分の思いもよらぬことを主君がお尋ねになる時、胸を突かれてうろたえるものだ。

主君の内心に“慌て者”と見限られれば、自身の立身の差し障りとなるものである。

――『山本道鬼入道百目録聞書』



子の善悪邪正は、親たる者のしつけによるもの

2016年10月12日 14:10

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 03:39:37.53 ID:xxCUF+E/
一、子の善悪邪正は、親たる者のしつけによるものである。

3歳以後は言語を教え、5歳以上は起居動静を指南し、7歳からは手習いを
勧め、8歳からは読書を習わせ、10歳に至っては身の行いを第一とし、

主に忠、親に孝、他人であっても老を敬うこと、兄弟の差別はもちろんのこと、
子を慈しんでよく教え、人の応対・送迎・式礼を合点させるのだ。

貴賎ともに教導がしつけの第一だ。年頃になり、生物知りになっては時後れ
(“時すでに遅し”か)である。

――『山本道鬼入道百目録聞書』




信玄は殊の外に立腹し、笑った人々を

2016年08月17日 12:37

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 10:00:01.01 ID:DrAt9iHp
大将というものは、大きなことも小さなことも、小人の善悪をよく見知って置かなければ、
何の意味も有りません。
召し使う侍たちであっても、義心直道の者も、軽薄佞人のたぐいも同じように見られ、悪しき士に
家権を取らせてしまえば、軍合戦するまでもなく、平穏な世の中でもその家は破滅してしまうでしょう。
老若によらず、心のしれた親しい者を御取立すべきではありません。
第一、佞人は人を妬み、心中賤しく人をたばかり、諸事に付け悪口を申すものです。

武田信玄が甲州にあった頃、三河牢人の山本勘助と申す片端者が、軍の道をよく知っている者ということで、
信玄はこれを召し抱えました。この新参者に対し、家中では悪口に、彼の体を見て、山本を「半体」と呼び、
城中においても後ろ指を指して笑い草にしました。

この事は目付けが、信玄に報告しました。
信玄は殊の外に立腹し、笑った人々を、その一門まで追放したのです。

(松のさかへ)


井伊直政への重臣たちからの諫言書より、武田信玄が、山本勘助の障害を笑った者を追放したというエピソード。



997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 10:38:51.88 ID:IEKNGEwp
山縣についてはふれてないな
顔より体つきが重んじられてたのか

勘助うちわ

2015年09月05日 06:00

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 17:53:14.67 ID:ZoXY4Ml6
 武田信玄の家臣として知られる山本勘助は主君の命により、河内の国の三好勢の様子を探りに行った。
三好の本拠地の小山城の城下にやってきた勘助は正体を悟られぬために名前を浅野文吾と偽り、
潜伏中の生活のためにうちわを作ることにした。
 勘助の作るうちわは丈夫で柄を下に置いても倒れず、涼しい風を送ることに優れていたのですぐに評判となり、
人々は珍しがってうちわは良く売れた。勘助はおよそ二年の間、うちわを作って売りながら河内の国の様子を
調査した。無事に調べ終えた勘助はいよいよ甲斐の国に帰ることにして、帰り際に城下で世話になった家の者に
自分の正体を明かし、世話になった礼としてうちわの作り方を伝授した。
 その家の者たちはその後、浅野文吾の名を取って「浅野屋」という屋号で店を開いてうちわを売り出した。
それは「小山の勘助うちわ」と呼ばれてこの地方の名産品となった。

 勘助うちわの作り方は一子相伝で後世に伝えられたが、昭和45年に最後の後継者が亡くなったことで
うちわ作りの伝統は途絶えてしまった。しかし、近年になって地元の藤井寺市ではこのうちわ作りを
復活させようとする活動が始まっているようである。




662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 19:24:50.79 ID:Nusp8EWX
勘助扇風機も欲しい所だな

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 20:34:19.85 ID:lm0fmTk1
こうして三好の領地で団扇を作っていた人々が十河の香川にいって
日本の9割の団扇を作っている丸亀を本拠地に
って話はないのか

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 22:35:15.09 ID:SI6t+mtc
真田の真田紐といい武田家の武将は芸達者だなw

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 23:35:59.62 ID:FqdL8LFr
商人になる奴だっているんだから侮れない

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/05(土) 03:10:56.89 ID:tBoF3EZS
温泉宿を経営したものもいるな

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/05(土) 07:16:38.43 ID:hfftT60N
真田職業訓練校開設まったなし

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/05(土) 11:17:11.72 ID:FWbGzfwy
「勘助うちわは、わてのところだけで作らせてもらいますわ」
「何、言うてんねん。わての所も勘助はんにはよう世話させてもろうたわ…独り占めすんなや」
「これこれ、内輪揉めはいかん」

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/05(土) 15:12:58.19 ID:tcrYQkNJ
勘助のだじゃれに、天を仰ぐ(扇ぐ)御館様

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/05(土) 15:15:34.35 ID:lB30KJ/g
うちわがダメなら扇子にすればいいじゃないか、うわっなにをすry

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/05(土) 16:34:54.11 ID:ShhLJWcK
もうファンやめます

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/05(土) 17:21:22.91 ID:SvZ2m+do
>>670
センスイイね

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/05(土) 18:48:22.26 ID:tBoF3EZS
>>672
褒美をとらす!

御朱印を取らなかった訳

2015年04月16日 17:53

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/15(水) 22:46:08.85 ID:vxDRLaV5
天分15年7月21日、武田晴信は山本勘助を召して、足軽を新たに50付け、始めの足軽と合わせて75人、
知行も五百貫加増し、始めの三百貫と合わせて八百貫となった。
この事を報告するため、勘助は少しの間暇をいただき、駿河の今川家、庵原殿の元に参った。
かつて抱え置かれたことのお礼を申し上げた上

「晴信公が私を甲州に召される時、百貫の約束をされた事に、庵原殿はご異見として、
晴信公から約束を書いた御朱印を取った上で甲州に行くべきだとおっしゃいました。
私はそれに背き、あの時、朱印は取らないと申しました。

その理由として、私はちんばで、片目で、色黒く、醜男で、しかも無人前でありましたから、
いざ対面すれば、このような者に百貫の知行は過ぎたものだと思われかねず、実際に知行を
下されない事態になれば、私が他国に走り、晴信公は虚言を仰る屋形であると言われないように
打ち殺すであろうから、御朱印は取らないのだ、と申しました。
しかしそれは、皆偽りだったのです。

あの時私は、御朱印を取って参れば、私をどのように評価されても百貫限りと考えられ、
加恩を頂くことが出来なくなると考えたのです。私は晴信公を、日本の若手の中でも名大将に
なられるべき屋形だと思っていたので、御朱印を取らずに参りました。

私が召されたことへの御礼を申し上げると、晴信公はその場で、二百貫の書き出しを下されました。
その上で

『勘助が醜男であるのに諸人にその名を呼ばれているの。それは何か良きことの証拠があるからこそ、
名も高いのであろう。名高きものが無手である事はない。』

と仰せに成りました。当時23歳で、これほどの大将はどこの国にも稀です。
そして今や、私が召し出される前に考えていたように、政道賢き名大将になられました。

名将は必ず、人の取りなしにも男ぶりにも構われず、武士道の武略知略の侍を第一として、馳走し
崇敬なされる物でありますから、私も晴信公の御意に是非とも取り入り申すべきと、兼ねて覚悟した如く
仕り、今まで4年間の手柄によって、八百貫の知行を拝領いたしました。」

と、申した。彼は5日間駿府に逗留し、甲府へと帰った。
駿府においては、それまで山本勘助を褒めるものは誰も居なかったが、以後は褒め称えられるように成ったという。

(甲陽軍鑑)



850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/20(月) 08:37:54.93 ID:a9WdlWE3
>>834
勘助の男ぶりが?悪いことが逆にいい印象を与えたのかもね

852 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/04/20(月) 19:35:39.87 ID:6JTcovex
すごい醜男として有名だったとは考えなかったのだろうか

諏訪家無事再興、めでたしめでたし

2015年02月17日 18:46

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 23:55:25.75 ID:49Ji2BZi
(諏訪頼重が死に)諏訪の家は断絶したが、頼重の十四歳になられた娘は尋常かくれなき美人であられた。晴信公はこの娘を妾にと望まれたところ、
板垣信形、飯富兵部(虎昌)、甘利備前(虎泰)の三人を始め、各家老達が晴信公に向かって、
「退治なさった頼重の娘を召し抱えることは、女人といえど敵にあたるゆえいかがなものでしょうか。」
とお諌め申し上げた。
ところが、三年前から駿河から召し寄せられた三河牛窪生まれの侍、山本勘介がささやいて板垣・飯富・甘利殿の三人の侍大将に申すには、

「晴信公の御威光がたいしたことでなければ、諏訪の者達も,公に伝手があることを悦び、よからぬ策略を立てるかもしれませんが、
晴信公のご威光は浅くありません。
私は日本国中を大方見聞きいたしましたが、中国安芸の毛利元就は、本の知行七百貫から弓矢を取って過ごして、
今では中国の大方を切り従え、四国九州にまでその威光が及んでおります。既に天下にご意見申し上げる三好長慶さえ元就の機嫌をとっていることは隠れもない事実です。
晴信公は二十五歳前でありながら、この元就にもさほど劣っておられないご威光の方であると、駿河にいた頃から承って、恐れながら私の考えでは日本国中第一の若手の武将と存じ上げてまいりました。
私が甲府に参りまして二年余りおります間に、晴信公の御言葉を承り、また敵との戦いの様子拝見致しますに、
この屋形様は、ご長命でさえいらっしゃれば、将来は必ず日本無双文武二道の名大将と呼ばれましょう。
したがって、諏訪家の親類被官たちも、いかなる謀略をも考えつくことはありますまい。
そうであるなら、頼重の息女を召し抱えることを諏訪衆悦び、
そのお腹に御曹子が誕生されれば諏訪の家を立てるかもしれないと望みをかけ、
武田譜代の人たちに劣らないご奉公をつとめるでありましょう。そのためには頼重の息女を召されることはけっっこうなことと存じます。」
であると。

この山本勘介の工夫した意見により、晴信公は頼重の息女を召し置かれることになった。
勘介の考えのように、諏訪衆は皆これを悦び、人質を甲府へ進上した。
次の年、天文十五年丙午四郎殿が誕生されたので諏訪衆は屋形様を大切にすること、譜代衆同然であった。
(甲陽軍鑑)

諏訪家無事再興、めでたしめでたし



634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/17(火) 01:56:07.65 ID:9ScnZUiE
寅王丸で事足りるやんけ

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/17(火) 02:34:55.27 ID:J+6lBEkp
殿いつの勘助で再生しちゃってニヤニヤしてしまう

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/17(火) 05:34:11.04 ID:73jvdcnR
四郎は丙午だったんか

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/19(木) 09:37:45.76 ID:Mmj+3LMy
勘助は本当にお屋形さまLOVEだよね

駿河今川家の噂

2014年10月24日 18:51

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 00:27:12.10 ID:Tai7vUmf
山本勘助が駿河から甲府に、初めて召し寄せられた時、武田信玄は勘助に、駿河今川家の噂を尋ねた。
勘助は申し上げた

「義元公の御家は昔から高家とされています。つまり京の公方家が絶えれば吉良がその後を継ぎ、
吉良も絶えれば今川が継ぐとの謂れがあり、家風何れも少しも欠けるものは有りません。
しかも駿河・遠江・三河三ヶ国の主であれば、様子気高く、物の名人が他国より集まり、
殊更良き家老集も沢山あり、その配下は中名、小名まで武道を心がけていること、言うまでも有りません。

その上臨済寺雪斎が義元公の補佐をし、公事沙汰万事の指引浅からざるゆえ、尾張国織田弾正なども
駿府に出仕いたすようになったので、末々は京都までも義元公が御仕置きなさるようになると、
各々風聞されています。

ですが、私は一段危ういと考えています。

どういう事かといえば、仮に雪斎が明日にでも亡くなれば、その後家老衆の政務のさばきが
たとえ良かったとしても、雪斎の政治の印象があまりに鮮やかであったため、彼が補佐していた時代より
政務の裁きは劣っていると、諸人は考えてしまいます。

だからといって雪斎のような物事をよく知る長老にまた頼るようであれば、今川家について、
尽く坊主がいなくては成り立たぬ家であると諸人の批判を浴びるでしょう。

これが私の考える今川家の危ういことです。」

信玄はこれを聞いて、
山本勘助は聞こ及んだ事に違わぬ分別・才覚の持ち主であり、工夫の智略も宜しく思案する
広才人である、たとえ一文字も書けなくても、学問がなくても、物識りと呼ぶべきはこの勘助である。
彼はただ、智者と申すべき人物だ。」

そう申して信虎の時代より二代にわたって仕えた4人の足軽大将にこの勘助を加え、その年から
五人衆として再編したのである。

(甲陽軍鑑)

山本勘助、信玄に最初の面接で感銘を与える、というお話。



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 18:59:57.58 ID:Dl1Xuhoc
>尾張国織田弾正なども駿府に出仕いたすようになったので

この織田弾正って信秀の事ですか?
信秀が太原雪斎の存命中に今川家に仕えるようなことってあったんですかね
それとも尾張に別の織田弾正と呼ばれる人物がいたのか
ただ単に甲陽軍鑑が甲陽軍鑑しちゃっただけなのか

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 20:54:58.03 ID:rzrzqaQX
そのころの織田は一枚岩じゃなかったんだよ

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 23:39:44.54 ID:ZgMX+YPR
捕まった信広のことだったりして

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 00:17:10.28 ID:TkDS1XRG
甲陽軍鑑にいちいち突っ込み入れてどうすんのさ

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 02:21:32.03 ID:DjH7tebX
雪斎の没年が1555年か
信秀はもう死んでるし、信長は状況的に駿府に行くどころじゃないよね

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 02:53:57.40 ID:j6b+ZBu0
雪斎生きてる時の話、ということになってるが

南部下野の改易

2014年10月14日 18:53

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 19:29:03.19 ID:PNmC/KAZ
武田信玄家臣・南部下野殿(宗秀)が改易されたのは、信玄公28歳の時であった。

山本勘助という大剛のつわものは、武道の手柄ばかりではなく、兵法の上手であり、
ある時、信州諏訪においてこの南部殿の家臣、石井藤三郎という者を南部殿が成敗しようとして失敗し、
石井は斬り合いをしながら逃亡した。

その頃、山本勘助はたまたまその近所の家に滞在していたのだが、その座敷に石井が刀を抜いたまま
入り込んできた。これに勘助は刀を取らず、そばにあった棒を取るとこれに向かい合い、石井が
斬りかかってきたのを受けて組ころばし、縄をかけて南部殿へと引き渡した。

この時、勘助は3ヶ所ほど少しばかり負傷した。それは負傷というほどのものではなく、30日ほどで
疵も消えたほど軽いものだった。そもそもこの山本勘助は戦場での武辺の時も、罪人を放し討ちする時も
数度にわたって少しずつ負傷し、86ヶ所の疵があった。

ところがこの時勘助が負傷したのを、南部殿は悪しざまに言い立てた。

この南部下野殿は武田家において甘利備前、板垣駿河、小山田備中、飯富兵部少輔の四人の衆に
続く人で、少しは武辺の覚えがあるのだが、心変わりしやすく常に無穿鑿なことばかり言い、
遠慮もなく明け暮れに過言を言い、嘘をついた。無分別な人でこの山本勘助を憎み、
国郡を持たぬのに城取り、陣取りを行う実力の持ち主で、また外科医者も深い傷ではないというのに

「兵法使いのくせに手を負うとは!」

などと言って、山本勘助に尽く悪口を言っていた。

この事を目付衆、横目衆が信玄に報告し、長坂長閑、石黒豊後、五味新右衛門を使いとして
書面を以って南部下野殿に仰せ付けた。
その内容は、山本勘助という大剛のつわものへの悪口の事を穿鑿するものであった。

『一、山本勘助が小身者であるから彼の城取り、陣取りのやり方も正しいものではない、と言っていた
   件であるが、これは物を知らい言い様である。昔唐国は周の文王が崇敬していた太公望は
   大身ではなかったではないか。

 一、兵法使いのくせに手を負ったなどと申すのは、一層武士道不案内である。兵法とは
   負傷しないということではない。負傷しても相手を仕留めるのが本物の兵法である。
   殊更、その方の被官である石井藤三郎が白刃を構えていた所に棒で立ち向かい組み倒したというのは
   勘助がたとえそこで死んだとしても、その屍の上にまで誉れがあるというのに、嫉むとは
   無穿鑿なる事である。

 一、其方南部は、手柄が実は家中の者である笠井と春日両人が仕ったものであるのに、自分の手柄のように
   申していたと聞き及んでいる。

 この三ヶ条の罪を以って成敗してしまおうと考えたが、それでは山本勘助も定めて迷惑に思うであろうから、
 ここは勘助に免じて命を助けるので、遠き国へと参れ。』

そう命ぜられ改易となった。彼は奥州会津へと行き、飢え死には免れた。
彼のもとにあった70騎の足軽、旗本、その他は家中の者達に分け与えられた。
ちなみに春日左衛門、笠井備後はこの南部下野殿の二人の家老の子である。

(甲陽軍鑑)

南部下野の改易についてのお話




525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 09:35:05.78 ID:2o0XIMaR
勘助かっけぇな

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 10:12:32.28 ID:9b0wE0oR
刀ではなく棒で応戦するという謎の選択

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 10:53:55.92 ID:XnD+a83e
殺さず捕えるためだろ

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 11:39:41.01 ID:eXxXvJuk
流浪時代に宝蔵院で槍術を学んでたのかもとか妄想してみる

毎夜夜中に屋敷内を見廻るべし

2013年10月30日 19:11

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 23:09:23.55 ID:OuNCHzC2
一、毎夜夜中に屋敷内を見廻るべし。下人の寝所、ともしびなどをうかがえ。
もし他所の者が入り交じっていたならば追い払え。

こちらの下人は翌日異見せよ。深く憎んで道理に反する事を起こす時には、かえって
夜盗の手引きなどをするものだ。主命に背いて異見を用いないならば、手討にすべし。

一、是非もなき次第が起きて自分の家来を手討にしようとする時には、

先に誠意ある家人を一人呼んで次の間に控えさせて一方をあけてあき、手討にする者を
呼び出して、しかじかの理由を申し聞かせて得とくさせ、声をかけて討ち果たすべし。

怒りに乗じて急き込むと討ち損じ、取り逃した時には主人は汚名を得て、人前の交わりで
後ろ指をさされることだろう。

また、強勇の家人はかえって主人を討って立ち退くことがある。そのような時は、
子孫永々の恥となることであろう。

――『山本道鬼入道百目録聞書』




619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/30(水) 08:27:05.22 ID:+CaBbXaN
>>618
誰?

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/30(水) 11:33:57.67 ID:XcdFqZgl
甲陽軍鑑で今川家ディスるためのダシにされてる片目で色黒で醜い人では

人と交わる時、

2013年10月25日 19:08

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 17:21:16.40 ID:4Y/L2yAU
人と交わる時、「世の中に何の望みも無い」と言う人と深く付き合ってはならない。

貴賎ともに、人に望みが無いという事はない。望みが有るからこそ、
すなわち今日の行跡を慎んで乱れないのである。

ところが何事も望みが無いと言う人は、己の心を基本として我儘で気随なものである。
今日は心よく付き合うとしても、明日には勝手な振る舞いが表れて極まるものと知るべし。

――『山本道鬼入道百目録聞書』





418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 21:53:07.08 ID:8Fc0tuzc
>>414
ひろゆきの言う「無敵の人」みたいなもんだね

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 10:46:07.76 ID:DzMsDEuO
>>414
「金もいらぬ、命もいらぬ、名誉もいらぬという者は始末におえない。だがそういうものでなければ大事はなせない」
By 勝海舟

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 13:02:16.53 ID:UJJpVPKX
>>414と>>427どちらの言葉にも当てはまる人物

『心知らぬ人は言わば言え
身をも惜しまじ名をも惜しまじ』

明智光秀

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 13:30:51.41 ID:x4oVNex5
>>427
あれ?それ西郷の言葉じゃなかった?

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 13:36:43.12 ID:UJJpVPKX
~西郷隆盛が山岡鉄舟を評した言葉~

431 名前:勝海舟[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 16:57:12.52 ID:DzMsDEuO
うるせえ。 江戸っ子っが細けえことを気にすんな

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 17:25:40.19 ID:IW6UAmv8
嘘でもいいから本当の事を言ってくれ

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/26(土) 17:34:43.78 ID:Hu1FX0cx
なんか西郷が泥舟を評した言葉とも聞いたことがあるが
三舟どれでもいいや

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/27(日) 10:32:22.48 ID:OSATyEou
>427、命は大事だよと我らの天庵さまは申しておりますが

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/27(日) 17:51:27.63 ID:CpyCjo5J
天庵様の本体はネコだからな。
人の姿の命など、仮初めのものに過ぎない。

山本勘助、召し抱えられる

2013年10月13日 19:05

475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/13(日) 10:15:15.14 ID:3sbmom2J
天文12年(1543)正月3日、武田家の家老衆が集まり、その年の武田晴信(信玄)公の軍備について
会議が行われた。

そこで話し合われたことに、諏訪、佐久、小縣という敵味方の境に城を構える場合、
その構え方さえ良ければ千人の敵兵に対して味方300で持ちこたえることが出来る。
これには城の縄張りが重要である。

このような城の縄張りについて良く知っている剛の者が、駿河の今川義元の家来である庵原安房守の
身内に居る。彼は義元に奉公したいと望んでいるが、義元の方では召抱えようとしない。
この者は三河牛久保の侍であるが、四国、九州、中国、関東までも巡り歩いた。

この大剛の武士の名は、山本勘助という。

板垣信方はこの勘助を呼び寄せ、お召し抱えに成るよう晴信公に提言した。それにより
その年の3月、知行100貫という約束で駿河から勘助を呼び出した。

勘助からお礼の挨拶を受けられた晴信公は、即座にこう仰られた

「勘助は片目であり、数カ所の負傷で手足も少々不自由のように見え、しかも色は黒い。
これほどの醜男でありながら、高い名声を持っているのじは、よくよく能力に優れた誉れ高い武士であると
思われる。そのような武士に100貫では少ない!」

そうして勘助に、倍の200貫をくだされた。

その年の暮れ、11月中旬に晴信公は信濃に出陣された。
11月の下旬から12月15日までに、9つの城を陥とし晴信公が手に入れられたが、これは全て
山本勘助の武略によるものであった。
時に晴信公、22歳の頃である。

(甲陽軍鑑)

良い話なんですけど、晴信公、初対面の勘助さんに醜男言い過ぎですw




476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/14(月) 08:23:06.12 ID:t2jqhrbE
男でも色の黒いのはダメなのか・・・「しかも」ってw

今川義元が山本勘助を召し抱えなかった事は

2013年10月01日 19:40

408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/30(月) 20:12:18.09 ID:gcrJMB/f
駿河での今川義元公の時代に、山本勘介が三河国、牛窪(愛知県豊川市)より、今川殿への
奉公を望んで参上したのであるが、この山本勘介は散々な醜男で、その上に隻眼であり、
指も足も不自由であった。しかし彼は大剛の者であったので、義元公が召し抱えられるように、
勘介の知己であった朝比奈兵衛尉が彼のことを

「この山本勘介という者は、大剛であり、特に城取り、陣取りといった軍法は良く鍛錬されています。
剣術も京流の上手であり、軍配も良く知っています」

と申し上げたが、義元公がお抱えになることはなかった。
駿河の人々の噂では、あの山本勘介は第一片輪者であり、それに城取り陣取りの軍法を鍛錬したと
いうが、自分の城を持ったこともなく、兵を持ったこともない者が、どうしてそのような事を
知れるものだろうか。彼は今川殿に奉公したいがために虚言を言っているのだ、と言い合った。

それから勘介は9年も駿河にいたけれど、今川殿が召し抱えることはなかった。
この9年のうちに剣術のことで2,3度手柄があったが、この当時は新当流(塚原卜伝の流派)
の兵法こそ本物であり、勘介の京流はそれに劣るものだと、人々は噂した。

加えて、勘介は牢人の身であったため、草履取りすら一人もつれておらず、彼について
非難するものこそ多かったが、良く言うものなど一人もいなかった。

しかし、この事は実は、今川殿の御家が万事にわたって活力を失い、御家が末に傾き、
武士の道の見極めが浅く無案内であったために、山本勘介の身の上のことにまで、
悪い評判が及んだのであろう。
(甲陽軍鑑)




409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/30(月) 21:04:30.32 ID:bdUHqgFH
歴史小説そのままのノリだな

我が子の不行跡を

2013年06月28日 19:52

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/27(木) 23:57:14.04 ID:v/iNQOjd
我が子の不行跡を他人に頼って異見させる親は甚だ僻言である。
愚かな子を他人に披露するのは親子の情にあらず。

自分の分身の子なのだから、何度も教訓すべし。
再三教導しても聞き入れない放埒無頼の者ならば見切って勘当すべし。

――『山本道鬼入道百目録聞書』






召仕の男女にもし密会の不埒があれば

2013年06月13日 19:51

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/13(木) 00:09:53.00 ID:fOs1Muei
召仕の男女にもし密会の不埒があれば、双方とも斬罪とするのが古今とも武家の重き定法である。
とはいえ、色情は富貴の名主も下賤の者も陰陽合躰の道、人たる者に変わりはない。

そのような事があれば主人は勘弁して双方を呼び出し、当座の戯れなのか夫婦の契約なのか聞き届けるべし。
死生ともに申し合わせた契りだというのならば宥免して罪の程を許し、所帯を持たせよ。

そうすれば男女とも心魂に徹してありがたく思い込み、事ある時には先途の用に立つこともあるだろう。

今川了俊の条目にも「恩の為に死ぬ者は少なく、情の為に死ぬ者は多し」と書かれている。

――『山本道鬼入道百目録聞書』






寝所へ呼びつけてはならな

2013年06月11日 19:50

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/11(火) 17:28:20.66 ID:7JDtOc0/
数年召し仕えた譜代恩顧の男女であっても寝所へ呼びつけてはならない。
止むを得ず用事があるならば、老女か少女へ申し付けるべし。

取り分け、金銀を出し入れする所を見せてはならない。

下人は信有って義無く、目に触れて一念発起の欲心より、邪の悪事をする事がある。

――『山本道鬼入道百目録聞書』




822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/11(火) 17:48:24.80 ID:eIqPdM5w
一瞬小山田さんに恨みでもあるのかと思った

人を討って立ち退き逃げるのは非強至極なり

2013年06月10日 19:50

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 18:30:20.33 ID:bD9bkyb7
武士たる者、人を討って立ち退き逃げるのは非強至極なり。

なりゆきで討ち果たしてしまったならば、その意趣を書き記して腹切るべし。

ただし、親がいるならば一旦立ち帰り、親たちへ事情を申し述べ、検使を受けて
その上に真気を静め、それぞれへ挨拶して腹切るべし。

――『山本道鬼入道百目録聞書』




815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 18:35:45.85 ID:W6c3jPw9
水野さんに対する挑戦ですね

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 19:12:56.13 ID:L6BHVRIx
趣旨を説明したら運が良きゃ腹切らなくてすむかもしれんからな
まあ江戸時代になるとまず切腹だろうけど

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/10(月) 19:48:42.64 ID:Wa7n11n/
周り近所に大音声で討った理由を述べたあと、
その場で立ったま腹を切り、腸を撒き散らして心意気を表現するんじゃないのか?

勘助は即座に暇を告げた

2013年03月14日 19:53

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 00:02:03.89 ID:33Xk3Rsh
大永7年(1527)、毛利元就31際の時、厳島参拝の折に棚守房顕の屋敷に立ち寄ったが、そこで初めて
山本勘助に出会った。

元就は勘助の容貌を奇として、どこから来たのかを尋ね、さらにをの所志を質問し、しばらく考えた後
帰城したが、5,7日ほど後、使者を遣わして棚守にこう伝えた

『先日一見した所の京都牢人(勘助)は、早くこの地から去らせるのだ。そして日本国中を遍歴させるべし。』

棚守はこの意を受けて、勘助に他所の土地へ興味を向けようと考え、関東の諸将の威烈を語った。
山本勘助はこれを聞くやいなや、棚守に暇を告げて立ち出ようとした。

棚守は勘助があまりに早く暇を告げたことを怪しみ、止めてそのわけを聞いた。
勘助曰く

「私はこの国に仕官を求めるために来ました。貴方もまた、私を推挙してくれたではありませんか。
ところが今、関東の諸将の威烈を語られました。これは貴方の御心が、既に変わったことを表しています!」

「な、何故そう思ったのだ!?」

「関東とは”還当”、すなわち”還る当し(かえるべし)”と読めます。これが私が暇を乞うた理由です!」

棚守は勘助のあまりの明敏さに、感嘆したとの事である。
(軍人頓智叢談)

なにか噛み合っていない気がする。気のせいだろうか?w




908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 00:11:36.94 ID:K6cpGKyN
駄洒落か

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 00:12:54.95 ID:NOytU+1x
民明書房だよな

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 00:20:54.12 ID:3A123S6K
関東が還当とかこじつけなくても、他の地域の武将の話をしだせばいらないって言ってるも同然な気が

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 00:30:07.69 ID:4pi1deYS
大御所臭がするんだが・・・

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/14(木) 15:23:25.12 ID:FrjM3yl+
腹黒さんがうちで捕獲できないなら殺してしまえな椰子じゃなくてよかったな


山本勘助の毛利家就職失敗談

2012年06月27日 21:00

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/26(火) 23:23:00.18 ID:F9iZz8Wh
山本勘助晴幸は近江の本居を去って京に行き室町将軍家に仕官を求めたが、将軍家の権威は
日々衰える有様だったので
「ここは功名を立てる場所ではない。」言って京都を去った。
次に中国地方に行って名を全国に轟かせようと思い、まず諸将の賢否を人に聞いたところ仕えるなら
安芸の毛利元就しかありえないということだった。

安芸に着くとまず毛利家に仕官する縁を祈ろうと思い、厳島神社に参拝し神主と会見し京都の消息を語った。
神主は珍しいと思い勘助を元就に推挙した。元就はこれを聞くと何の答もせず、2、3日後に神主を呼び出した。
「先日の京都の浪人を長くこの地に留めないように。私はその人を登用することはできません。
登用しなければまた他国で仕官するでしょう。他国へ行けば安芸の毛利は兎にも角にもと評判します。
知らなければどうしようもなく、批判もできないでしょう。速やかにここを立退かせて下さい。」と
命じられたので
神主もその意を汲んで、勘助に「関東までの間に功名を立てることができる地があるでしょう。
西田舎での仕官は無益同然でしょう。」と言うと
勘助はすぐにこの意味を悟って、即日厳島を出発し東へ向かいましたとさ。

山本勘助の毛利家就職失敗談




190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/27(水) 04:14:47.34 ID:KQKTF81u
仕官断られた恨みから、悪評垂れ流す可能性があると思うんだが

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/27(水) 05:46:24.85 ID:6ApX9gmP
>>189
厳島の神主の日記にこのことが記されていれば勘助は存在が証明できたのになあ。

山本勘助と氏真

2011年10月30日 22:00

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 13:27:32.26 ID:7hXNx9WP
では流れを変えるためにも武田信玄の良い話でも。

当時浪人中であったが名の知れた武士であった山本勘助は、
駿河太守の今川氏真に仕官しに行った。
しかし…
氏真「お前カッコ悪いから不採用」
まぁ外見だけ見たら無理も無い。
勘助は色黒、隻眼、戦傷が体中にあり片足が不自由、背も低く痩せている…
と、とにかく見た目が悪い男であった。
実にテンプレ的な山本勘助である。

その後、山本勘助は当時若干20歳の武田信玄に会いに行き、
勘助の高名を聞いた信玄に即百貫で取り立てられた。
その後、実際に勘助に対面した信玄は、
異相であるにも関らず有名な勘助を只者ではないと感じて更に加増し、
戦話を聞いてはその博識を敬うといった具合に、
山本勘助を厚遇したという事だ。
名君と暗君の差はかくも甚だしき物があるということよ。
めでたしめでたし。

…これだけなら良い話なんだけど、酷い所が一箇所。
お前ら歳の差を考えろとw
氏真と信玄じゃ、どう考えても信玄の方が年上です。
この逸話、江戸初期成立の物なので、
その当時から既に氏真暗君論が唱えられてて、
逸話に混入しちゃったんだろうなと感じさせる、氏真にとっての悪い話。




618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 14:12:46.80 ID:H6nI7fe+
途中まで読んでツッコミを入れそうになったぜぇwww
品川さん、武将というか主君としてはダメかもしれいけど人間的にダメってエピソードあるんかな?

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 16:02:56.01 ID:USXGCf+w
>>616
氏真→義元のエピソードはよく聞くよね

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 16:20:58.78 ID:VXP80smS
勘助はようわからんな。一時期は存在疑問説が流れたりしたし
最近じゃいたらしい、なんて意見が強まってるし。まったく、嘘ほんとが入り乱れて困る

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 17:02:01.80 ID:17zPE6cd
>>620
勘助存在説は、市川文書でちゃんと名前書いてあるから確定だと思っているんだけど
(ただし、勘助じゃなくて管助だが、この頃は当て字当たり前だからあまり問題なさそう)
これじゃまだ弱いかなあ

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 17:39:48.68 ID:5rUOcYJU
>>622
山本勘助という人物が居たことは確定だけど、
その人が我々が知るような山本勘助であるかどうかは別問題

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 17:49:31.14 ID:Xa9ox33z
水戸黄門みたいなもんだろ。徳川光國は実在したけど、諸国漫遊はしてない的な。

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 17:55:19.56 ID:6+e9uvtm
よくわからんけど今でもそんなに勘助神格化されてる?
毎回この話題になると勘助を否定するor別人とかコメあるけど
逸話でなにかあるならせっかくだから
こりゃねーよって感じのでもいいから山本勘助の話がみたいです

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 17:55:31.33 ID:17zPE6cd
>>623
なるほど 軍師と伝わっている確実な史料はあるのかな
でもあの当時の軍師って、陰陽師みたいなもんなんだっけ

勘助は諏訪の高島城の鍬立てをやったと、駒井高白斎の『高白斎記』という史料に書いてるらしい
鍬立てってのは地鎮祭のようなものだけど、あの頃の地鎮祭は今よりももっと重要視されているんだよね
祟りや呪いを真剣に受け止めていたりするし

だから勘助は軍師は軍師でも、呪術型の軍師なんだろうなと思ってる

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 17:58:38.98 ID:y3ze+cCA
当時の軍師って、呪術は知ってて当たり前じゃないのか

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 18:08:03.32 ID:tv2LC+Yt
山本勘助(菅助)は軍事作戦についての事で信玄の使番として行動している記録が残っているので、
軍使かどうかはともかく、信玄の近習の一人だったのは間違いなかったと考えられる。

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 18:28:06.45 ID:5rUOcYJU
>>628
×軍師
○軍使
か、なるほど!

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 18:39:19.22 ID:N3Ivz//v
当時の従軍陰陽師は「軍配師(軍配者)」だね
三国志に出てくるような軍事参謀的な職としての「軍師」は厳密には存在しなかった筈
参謀的な役割の人はいただろうけどね


631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 18:43:19.37 ID:17zPE6cd
>>627
そうなのか そこまで詳しく調べてないんだ ごめん

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 18:52:26.86 ID:2aqRBeZV
呪術師というか出陣式とか首実験なんかの段取りつくる役目な気がする
誰が掛け声かけるかで斬り合いになるんだし(家中序列の問題にもなるから)

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 19:41:27.37 ID:H6nI7fe+
軍師やら軍配者やらを、今売りの雑誌でそんなん特集してるよね?