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山本勘助と申す大剛の兵は

2023年02月17日 18:45

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/17(金) 15:22:56.61 ID:JlT8fkiM
武田信玄公が二十八歳の時の事。

山本勘介と申す大剛の兵(つわもの)は、武道の手柄ばかりではなく兵法上手であった。
ある時、信州諏訪に於いて南部(宗秀)殿の内の者であった石井藤三郎という男を南部殿が
成敗しようとしたが、失敗しこの者は斬り回り逃げようとした。

その頃、山本勘介はこの南部殿の元へ来ており、彼が近くに居た座敷に、この藤三郎が
斬り押し込んできた。

これに勘介は刀を取り合わさず、そこに棒があったのを取ると、向かい受けて組みころばし、
縄をかけて南部殿へ渡した。この時少しばかり、三ヶ所を負傷したが、負傷と申すほどのものでもなかった。
何故なら三十日の内にすべて平癒したからである。

惣別、勘介は武辺の時も放し討ちの時も数度において少しずつ負傷し、八十六ヶ所の疵があった。
その事を先の南部殿は悪しく沙汰していたのだが、この時は何も言われなかった。

甲陽軍鑑



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大将が誤れば家老も誤り

2022年10月22日 16:37

459 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/22(土) 11:17:14.81 ID:qF9HUZG8
武田晴信公が山本勘助に問われた
「さて、諸国の人の様子はどのようなものだろうか。」
勘助は申し上げた

「東西南北共に、人が名を申すほどの大将は、大方一つの傾向にありますが、国によって
初め、中は違いがあり、治まり方は一つではないと聞いています。」

「大将はその通りであろう。しかし諸侍から各下人まで、国によって変わるのか。」

「私は諸国を歩き、国々の家風を見てきました。その上今川義元公の御家を望んで駿河に九年在る間に、
諸国の牢人と交流し様々なことを見聞きしました。その経験より、私の本国であり三河より東の人々は、
大方一つです。
また尾張より和泉あたりまでも一つの気質であり、四国、中国、九州は、気質大方同じです。
筑紫の奥は、奥州衆に似ています。

先ず、尾張から上方にかけては、十人中九人、慇懃であることは稀であり、横柄であることを隠さず、
贔屓の人であれば不足や欠点があっても誉め、仲が悪ければ手柄の人でも誹り、武士の上中下の働きの
穿鑿も無く、首を一つ取れば覚えとし、押し出しが強く悪口も早く、国郡の主が世に落ちた場合、
その被官を主として、被官の名字を請けて名乗ることも多いため、無穿鑿に見えます。

被官が立身し主の名字を名乗るのは手柄であります。「今川は吉良に上がり、吉良殿は公方へ上がる」と
承っています。

さて、東国においては被官が仕上がり主の名字を申し受けることはありますが、仕下げたると申して、
被官を主として本名を捨て、被官の名字に成る事はありません。
関東においては結城は主でありながら小身であり、多賀谷は被官でありながら大身ですが、結城と対面する時、
大身の多賀谷は畏まります。」

ここで、晴信公は金言を申された
「上方の諸人が無穿鑿なのは、諸人の誤りではない。大将が誤れば家老も誤り、家老が誤れば諸役者誤り、
諸役者が誤れば下々も誤るものだ。」

甲陽軍鑑

諸国の気質についての対話。
なにげに「御所が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」の元ネタらしきものがありますね。



460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/22(土) 12:33:27.28 ID:1mTUQqSV
ハッタリかましてるけど、西はせいぜい尾張までしか知らないってばれてるぞ勘助

山本勘助と申す、大剛の武士である

2022年10月18日 15:52

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/17(月) 22:30:50.64 ID:GJZgmUi9
天文十二年正月三日に、武田の家老衆は打ち寄って、その年の武田晴信公の御備について談合した。
「諏訪、或いは佐久、小縣の敵味方の境において味方の城を構築する場合、その城の設計を能く致せば、
千の人数で保持する城であっても、三百で保つ事が出来る。これは城の取り様、縄張りに奥義がある
ためである。

このような城の設計を能く存じたる剛の者が、駿河の今川義元公の御一家、庵原殿の亭衆に居る。
彼は今川殿の直臣と成ることを望んだが、義元は召し抱えなかった。

かの者は三州牛久保の侍だが、四国、九国(九州)、中国、関東までも歩き廻った侍であり、
山本勘助と申す、大剛の武士であると聞く。この勘介を召寄せお抱えあるべきである。」

この事は板垣信方より晴信公へ申し上げられ、これにより、知行百貫の約束にて、その年三月、
駿河より勘介を召し寄された。

勘介の御礼を受けられ、晴信公は即座に仰せ付けられた

「勘介は一眼、さらに手傷を数ヶ所負っているため、手足も少々不自由に見える。
色黒く、これほどの無男でありながらその名が高く聞こえるのは、能々ほまれ多き侍であると覚える。
このような武士に百貫は少分である。」

との儀にて、二百貫を下された。

さて、その年の暮、霜月(十一月)中旬に晴信公は信州へ御出馬あり、下旬より十二月十五日までの間に、
城九つ落ちて晴信公の御手に入ったのだが、これは偏に山本勘助の武略の故であった。

晴信公二十二歳の御時の事である。

甲陽軍鑑



軍配者と神変について

2022年09月14日 19:17

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/13(火) 20:05:30.38 ID:c5IXSckZ
甲州に小笠原源與斎という軍配者がいた。彼は様々な奇特を表し、風呂に入って戸を押さえさせたのに、
人々に気づかれずに外に出、或いは夜、各々が会合した時、座席の向かいに山が見れれば、
「向かいの山に火をいくつか立てよう。各々見よ」
と言って、人の好むように火を立てるほどの者であった。
おおよそ軍配をよく伝授すれば、その軍配の余精を以て、様々な奇特を致す。

また永禄四年に川中島合戦の時討ち死にした山本勘介は、信玄公旗本において足軽大将の中の
五人に優れた名人と呼ばれ、これも軍配鍛錬の者であった。
この山本勘介入道道鬼の軍配は、宮、商、角、微、羽の五つより分けて見る、雲気、烟気、その他
ゑぎ、さご、すだ、来たり様、行き様、これらの外も口伝が有るが、勘介流は一段短かった。
但し小笠原源與斎のような奇特は無かった。

しかしながら、源與斎も云っていたが、奇特は軍配の神変であるという威光までのもので、
勝負の利には成らぬものである。
その謂れは、人に望まれて山に松明を立てるくらいなら、自分が暗き道で火に事欠いている時、
松明を立てて道を見て行けるのならば然るべきであるが、そのようには中々成らず、
ただ人に望まれてよそに火を立てるばかり。これは術である。
術は座興であり、まことに道に至って弓矢の計略、計策などの用に立たない。
然れば、敵味方対陣の時節は、勘介も源與斎も同前である。

馬場美濃守(信春)は、「神変は尤もなものだが、それは人によっての事。
武士が弓矢のために軍配を習って、神変致した場合、武道のためとはいいながら、
『かの奇特する人よ』とあだ名を呼ばれ、禰宜や山伏のように申されてしまう。
そのうえ正法に奇特無しと聞こえており、であれば神変は更に要らざるものである。」
と申していた。

甲陽軍鑑

軍配者と神変について



山本勘助の神之峰攻略

2022年02月10日 15:31

330 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/09(水) 20:48:55.87 ID:Dw9mTBTQ
山本勘助の神之峰攻略

>>323の続き

ジタジタ松、またはジタジタ峠にて知久氏らの籠る神ノ峰の難攻不落の堅牢さ、あるいは城兵の余裕の態度に
ジタジタを踏んだ勘助であったが、彼とて一軍の指揮を任される軍師である。このままで終わるわけにはいかない。

そんな勘助が如何様にこの城を落としたか?幾つかの話が伝わっている。

1.大鹿のおばあさんの案内。

勘助は家来を薬売りに化けさせると上久堅大鹿の民家を訪ねさせた。薬売りに化けた家来に言わせた口上はこうである。

( ゜Д゚)「私は薬売りだが知久の兵に頼まれて薬を届けに来たのだが、武田軍が城を囲んで城に入ることが出来なくて困っている。どこか城に入る道は無いものか?」

その言葉にある民家の老婆がこう答えた。

(*´∀`)「あの城は3方は険しくなっているが、東の方から行くと楽に行けるよ。」

( ゜Д゚)「婆さんありがとうね。」

城は落ちた。


2.久七の案内。

勘助ら武田軍は久七という名の老人を捕えて尋問したところこのように答えた。

(;´Д`)「あの城は西、北、南は急な道しかなく登るのが大変だが東側は平な尾根がありますだ」

城は落ちた。

現代の特殊詐欺もかくやという感じの話である。今も昔も御老人というのは人が好いというかなんというか・・・。

飯田市ホームページ
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/kannomine.html



331 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/09(水) 21:03:22.07 ID:BYb0sKEV
>>330
> 今も昔も御老人というのは人が好い

老人は親切にも、勘助に道を教える為に右手で絵図を描いた。
描きながら左手は掌を上に向けて人差し指と親指で意味有り気に輪っかを作りつつ勘助の鼻先に突き出していた。
老人が後に黒田如水と名乗ったのはまた別の物語である。


333 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/10(木) 08:20:36.16 ID:8EfNC8Nv
>>330
尋問された老人はともかく

_人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人_
> 若い男に道を尋ねられたら素直に答えるしかないじゃない <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄

https://i.imgur.com/RUwZ5Op.jpg

山本勘助物見の松 異聞と提灯づるね

2022年02月10日 15:30

332 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/09(水) 21:13:26.24 ID:Dw9mTBTQ
山本勘助物見の松 異聞と提灯づるね

山本勘助物見の松より南西の方向、下久堅虎岩と接する尾根筋一帯に提灯づるねとか提灯ずるねと呼ばれる公園がある。
勘助は物見の松に上って神ノ峰城の様子を偵察すると夜襲をしかけて城に火を放って一気に攻略したという。

この時、城の西側に位置するこの場所に沢山の提灯をつるして大軍が居るように見せかけて、敵の注意をこちらに引きつけ、城の東側から
攻め込んだともいわれている。

余談ではあるが同じような逸話が毛利元就にもある。

謀神の佐東銀山城攻め
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8468.html


こちらも、毛利元就が1541年に安芸武田氏が支配する堅牢な佐東銀山城を攻めるのに搦手に位置する長楽寺(広島市安佐南区)を調略したのち、
城の大手門側に位置する太田川へ地元住民に油に浸した千足の草鞋を作らせて夜に火をつけて流し、城兵の注意を大手門側に引き付けたのち、
搦手から攻め上って城を落としたというものである。
ただの偶然なのか後世にどちらかを参考に作られた逸話なのか?

面白いのは元就が作らせた千足の草鞋から来る千足、勘助が提灯を吊るさせたづるね(ずるね=尾根を意味する)
いずれも現代に地名として残っているのである。

飯田市ホームページ
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/kannomine.html



山本勘助物見の松(またはジタジタ松)

2022年02月09日 18:19

323 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/08(火) 20:31:57.01 ID:Br8S5Cy5
山本勘助物見の松(またはジタジタ松)

天文22年(1553年)、村上義清ら北信濃国人衆の要請を受けた長尾景虎が川中島へ攻め入った。
信濃先方衆として下伊那の支配を任されていた秋山信友が高遠城を離れた隙に下伊那の知久頼元と座光氏は
知久氏の居城である神ノ峰に兵を集め武田方に反旗を翻した。

翌天文23年(1554年)、下伊那に戻った秋山の説得を断固拒否した反武田勢と武田軍で戦端が開かれ、敗れた反武田勢は
知久氏の居城である神ノ峰に籠城。この攻略を任された一人である山本勘助であったが、彼は城を一望できる松の木によじ登って
城の様子を伺ったが守るに易く攻めるに難い城の様子を見て彼は悔しがって松の上でジタジタを踏んだという。

このことからこの松は山本勘助物見の松とかジタジタ松と呼ばれることとなった。

この松は第二次大戦中の昭和19年に地震で倒壊し、根本は松根油として供出されたが敗戦で役に立たず、現在そこに立つ松は3代目の松であるという。
別にジタジタ峠(飯田市上久堅下平)という場所もあり、そこにも山本勘助が神ノ峰を攻略する際の似たような伝承が残っているが、
この松はまた違う場所(飯田市上久堅柏原)に生えている。

飯田市ホームページより
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/kannomine.html



325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/08(火) 21:30:09.24 ID:EhFZQJMw
>>323
ここにも白米城伝説があるのか

329 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/09(水) 05:45:50.53 ID:Dw9mTBTQ
>>325
確かに白米城伝説はこの城にもあるんだけど、前にジタジタ峠の逸話を投稿した際に飯田市のホームページを見たら城内には御手洗池と天気池と言う湧水もあるし、
飲料水には苦労しそうにない感じもあるのよね。普通は山城の山頂付近に戦時以外は人が住むようなことは無いらしいけど、城主の知久氏が山頂付近に居住してた極めて珍しい山城とも書かれてるし。

ジタジタ峠

2021年08月28日 15:37

986 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/28(土) 10:07:39.68 ID:c9ZQ43xS
ジタジタ峠

またはジダジダ峠。ジタジタというと鹿児島弁でじめじめ。じとじと。湿気のあるさま。を指すというが今回は
南信濃のお話。

天文11年(1542年)に諏訪頼重が武田信玄に滅ぼされたのち、武田家の軍門に下って従属した下伊那郡の
諸領主であったが天文22年(1553年)に村上義清ら北信濃国人衆の要請を受けて長尾景虎が川中島へ攻め入ったことで
信濃先方衆として当地の支配を任されていた秋山信友が高遠城を離れた隙に下伊那の知久頼元と座光氏は
知久氏の居城である神ノ峰に兵を集め武田方に反旗を翻した。

天文23年(1554年)4月、秋山信友は川中島から戻って知久氏らの説得にあたったものの使者が斬られるに至り遂に
武田と知久氏・座光寺氏らによる戦いとなった。秋山信友率いる三千の武田軍は鈴岡城の小笠原信定を破り、
知久氏もよく戦ったものの頼元の嫡男・頼康が討ち取られ、居城の神ノ峰城へ籠城することとなる。

この時、神ノ峰城の攻略を任されたのは山本勘助であった。勘助は神ノ峰城と玉川を挟んだ対岸の峠に立って城の様子を
伺った。
( ゚Дメ)「この城を力攻めするのは良くないなぁ」
( ゚Д゚)「そうっすね」

( ゚Дメ)「水を断って城内を干上がらせるために城から玉川へ降りてくる道に兵を伏せ、城兵が水を汲みに来たら討ち取るのだ」
( ゚Д゚)「そうっすね」

それから5~6日、何事もなく日々が過ぎるのみだった。

( ゚Дメ)「城の奴らは全く川に出て来ないのか?」
( ゚Д゚)「そうっすね」         

( ゚Дメ)「どういうことだ?」
( ゚Д゚)「知らんがな」

奇異に思い峠に立って城の様子を伺う勘助であったが、その時峠から見える神ノ峰城の出丸にある篝岩では城兵が集まって馬を洗う姿が勘助の目に映った。
城兵達は勘助が玉川に兵を置いていることはお見通しだったのである。また、この時馬を洗っているように見せたのは白米を流してその様に見せかけていたのであるが・・・

     (`Дメ ∩ < う わ ぁ あ あ あ あ あ ん!!!城内水いっぱい有るじゃねーか!時間無駄にしちゃったー!!!
     ⊂   (
       ヽ∩ つ  ジタジタ
         〃〃

と、勘助はジダジダ(地団駄)を踏んで悔しがり、そこにはそれ以降草木が生えなくなったという。
このためこの場所をジダジダ峠と呼ぶようになった。

参考サイト
飯田市ホームページ
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/kannomine.html
南信州お散歩日和
https://blog.nagano-ken.jp/shimoina/culture/50.html
城の記2.0 ジタジタ峠(当地の看板の文書あり)
https://blog.goo.ne.jp/yuukatan/e/ee59adb20120c70bdae3e30c6ce372fd

山本勘助の神ノ峰城攻略についてはまたその内・・・
今宵はこれまでにしとうございます。

988 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/28(土) 13:15:28.76 ID:c9ZQ43xS
>>986追記
城内の頂上から少し降ったところにある上久堅郷土歴史資料館の近くには御手洗池(みたらしいけ)があり、この池は干魃でも水が枯れないと言われ今も清水がこんこんと湧いていると言う。

白米城伝説は残っているけど、実際には水にあまり困ってはいなかったかも知れない。



南部下野殿改易は

2019年06月27日 16:42

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/27(木) 16:33:56.02 ID:s44NIbyz
南部下野殿(宗秀)改易は信玄公28歳の時。山本勘介と申す大剛の兵は、武道の手柄ばかりでは
なく兵法上手であった。ある時に信州諏訪において南部殿家中の者・石井藤三郎という男を南部殿
が成敗致し、切り損なって藤三郎は逃げ回った。

折しも勘介はその近所に居当たり、勘介のいる座敷へ藤三郎が切って押し込んだ。勘介は刀を取り
合わせず、そこにあった薪雑棒を取り向かい受けて組転ばし、藤三郎に縄を掛けて南部殿へ渡した。
少しずつ手傷3ヶ所を負ったが、手傷と申す程のことでもない。子細は30日の内に平癒したから
である。とりわけ勘介は武辺の時も放し討ちの時も数度少しずつ手負い、86ヶ所の傷跡があった。

それを南部殿は悪しく沙汰なされるも勘介は何も言われなかった。この南部下野殿も甘利備前(虎
泰)・板垣駿河(信方)・小山田備中に続いて、少しは武辺の覚えもあるといえど噂で常に無穿鑿
なことばかり言い、遠慮もなく明け暮れ過言を申され、嘘をつきなさる。

無分別で山本勘介を憎み、「国郡を持たぬ者の城取・陣取。外科医者も大したことはないものだと
思うが、ましてや兵法使いが手傷を負っている」(国郡をもたぬ者の城取陣取、又外科医者もふか
き事あるまじきと思ふに、まして兵法つかひにて手を負たる)などと言って山本勘介を尽く悪口な
された。

目付衆・横目衆はやがてこれを御耳に立てた。信玄公は聞こし召し長坂長閑(光堅)・石黒豊前・
五味新右衛門を御使になされ、すなわち書立をもって仰せ下された。その御書の趣は「南部下野が
山本勘介という大剛の兵を悪口したのは無穿鑿である」とのことである。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』


山本勘介は一代で手傷を蒙ること63ヶ所なり。この内20ヶ所は信玄公の御家においてである。
子息(二代山本菅助)も若いながら2,3度良き事があった。一昨年に長篠において討死なり。

――『甲陽軍鑑(品第四十三 軍法之巻)』



206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/27(木) 23:54:43.76 ID:vCWOOG6J
>>205
先祖の話だわ
これだけは今の時代まで親族から伝え続けてるわ
肥後守がまともな人で良かったと感謝もしてる

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/28(金) 00:11:30.82 ID:DTOY7Kmh
>>206
肥後守って南部宗秀の息子の河西肥後守満秀か

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/28(金) 00:48:38.43 ID:f3R5LZ75
>>207
そそ、肥後守が先祖なので自動的に下野守も先祖なんだわ

山本勘介と申す大剛の武士と聞く

2019年06月06日 15:40

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/05(水) 19:43:17.74 ID:q6z+kKQZ
一、天文12年(1543)正月3日に武田の家老衆は打ち寄り、その年中の晴信公(武田信玄)御備へ談合
  致す。諏訪郡、あるいは佐久・小県の敵味方の境に味方の城などを取りなされ、城構えを良く致して1千
  の人数で持城を3百持つのは、城の取り様や縄張りに大事の奥義ある故なり。

  その城取りをよく存じている剛の者が駿河の義元公の御一家である庵原殿の亭衆になっていた。今川殿の
  御家を望めども、義元は召し抱えなさらず。この者は三河牛窪の侍であるが、四国・九国・中国・関東ま
  でも歩き回った侍で、山本勘介と申す大剛の武士と聞く。

  この勘介を「召し寄せて御抱えあれ」と板垣信形(信方)が晴信公へ申し上げられたことにつき、知行百
  貫の約束でその年3月に駿河から勘介を召し寄せられた。御礼を受けなさりその場で晴信公は仰せられ、

  「勘介は一眼で手傷を数ヶ所負っているので、手足もちと不自由と見える。色黒いこれほどの無男(醜男)
  でありながら名高く聞こえるのは、よくよく誉れ多き侍と思われる。これほどの武士に百貫は少分なり」

  とのことにより2百貫を下された。さてまた、その年の暮れ霜月中旬に信濃へ御出馬あり。下旬より12
  月15日の間に城は9つ落ちて晴信公の御手に入ったことは、ひとえにこの山本勘介の武略の故なり。晴
  信公22歳の御時なり。

一、(前略)ひととせ前代、駿河において今川義元公の時、山本勘介は三河国牛窪より今川殿へ奉公の望みに
  参るも、かの山本勘介は散々の夫男(醜男)で、そのうえ一眼にして指も叶わず、足もちんばなり。

  しかしながら大剛の者なので、義元公へ召し置かれるようにと庵原が勘介の宿になった故、大人の朝比奈
  兵衛尉(信置)をもって申し上げるには、「かの山本勘介は大剛の者なり。ことさら城取り陣取り一切の
  軍法を良く鍛錬致し、京流の兵法も上手なり。軍配をも存知仕る者であります」と申せども、義元公は抱
  えなさらなかった。

  駿河での諸人の取り沙汰には「かの山本勘介は第一片輪者。城取り陣取りの軍法とはいうが、自身の城を
  ついに持たず、人数も持たずしてどうして左様な事を存じているだろうか。今川殿へ奉公に出たいと虚言
  を言っておるのだ」と各々申すことにより、勘介は9年駿河にいたけれども、今川殿は抱え給わず。
  
  9年の内に兵法で手柄を2,3度仕るも、「新当流の兵法こそ基本の事である」との皆人の沙汰であった。
  とりわけ勘介は牢人で草履取りさえ1人も連れていないので、謗る人こそ多くとも良く申し立てる人はい
  なかった。

  これは今川殿御家において万事を執り失い、御家は末となり武士の道は無案内故、山本勘介の身上の批判
  は散々悪しき沙汰となったのであろう。(後略)

――『甲陽軍鑑』


  山本勘助噂五ヶ條の事

一、山本勘介入道道鬼斎。本国三河牛窪の者なり。

二、26歳で本国を出て武者修行、あるいは行流の兵法などを教えて日本国を歩くことまさに10年の間なり。
  明応9年庚申(1500)の生まれなり。

三、11年目より駿河へ参り、今川義元公の御家老・庵原殿と申す侍大将の介抱を受け、9年間駿河にいたが
  義元の御抱えなき故、甲斐の信玄公へ召し寄せられた。

四、勘介は甲斐へ44歳で参る。その時分の信玄公は23歳なり。

五、信玄公31歳で御法体の時、勘介52歳で法体仕り“道鬼”に罷りなり候。62歳の時、川中島合戦で討死
  仕るなり。甲斐において、城取りその他の軍法はすべて山本勘助の流なり。

――『甲陽軍鑑末書』



予め慎む心得のある人は

2016年12月31日 20:35

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/31(土) 14:18:50.97 ID:LohlZohC
一、往来はなおさらのこと、在宿であっても、咎人が行き過ぎる時に
目を見合わせてはならない。

罪人は死刑に迷って正気転変するので、「あれこそ、知り合いの人だ!
罪科の次第を知っている!」などと、妄語することがある。

その時は、役人も捨て置かずに糾明する。もちろん言い逃れたとしても、
見聞人の口は塞ぎ難い。

主人のいる者は、これによって疑いを蒙るのである。これは妻子や下人
にも、よく言い含めておくべきことである。

およそ災難に遭うのを“時節到来”とは、はなはだ僻事である。予め慎む
心得のある人は、不慮の災難を受けることはない。

――『山本道鬼入道百目録聞書』



480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/31(土) 15:57:49.61 ID:CTZiu4gC
>>479
>、役人も捨て置かずに糾明する。
いい迷惑だけど偉いなw

主君に不意に召された時、

2016年11月04日 00:12

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/03(木) 02:12:04.73 ID:SO4PLe6Q
主君に不意に召された時、慌てて出てはならない。

まずは御召しの御答えをして、次の間で胸からへその下(丹田)へ心気を静めて、
2,3度撫で下ろし、しとやかに罷り出よ。

自分の思いもよらぬことを主君がお尋ねになる時、胸を突かれてうろたえるものだ。

主君の内心に“慌て者”と見限られれば、自身の立身の差し障りとなるものである。

――『山本道鬼入道百目録聞書』



子の善悪邪正は、親たる者のしつけによるもの

2016年10月12日 14:10

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/12(水) 03:39:37.53 ID:xxCUF+E/
一、子の善悪邪正は、親たる者のしつけによるものである。

3歳以後は言語を教え、5歳以上は起居動静を指南し、7歳からは手習いを
勧め、8歳からは読書を習わせ、10歳に至っては身の行いを第一とし、

主に忠、親に孝、他人であっても老を敬うこと、兄弟の差別はもちろんのこと、
子を慈しんでよく教え、人の応対・送迎・式礼を合点させるのだ。

貴賎ともに教導がしつけの第一だ。年頃になり、生物知りになっては時後れ
(“時すでに遅し”か)である。

――『山本道鬼入道百目録聞書』




信玄は殊の外に立腹し、笑った人々を

2016年08月17日 12:37

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 10:00:01.01 ID:DrAt9iHp
大将というものは、大きなことも小さなことも、小人の善悪をよく見知って置かなければ、
何の意味も有りません。
召し使う侍たちであっても、義心直道の者も、軽薄佞人のたぐいも同じように見られ、悪しき士に
家権を取らせてしまえば、軍合戦するまでもなく、平穏な世の中でもその家は破滅してしまうでしょう。
老若によらず、心のしれた親しい者を御取立すべきではありません。
第一、佞人は人を妬み、心中賤しく人をたばかり、諸事に付け悪口を申すものです。

武田信玄が甲州にあった頃、三河牢人の山本勘助と申す片端者が、軍の道をよく知っている者ということで、
信玄はこれを召し抱えました。この新参者に対し、家中では悪口に、彼の体を見て、山本を「半体」と呼び、
城中においても後ろ指を指して笑い草にしました。

この事は目付けが、信玄に報告しました。
信玄は殊の外に立腹し、笑った人々を、その一門まで追放したのです。

(松のさかへ)


井伊直政への重臣たちからの諫言書より、武田信玄が、山本勘助の障害を笑った者を追放したというエピソード。



997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 10:38:51.88 ID:IEKNGEwp
山縣についてはふれてないな
顔より体つきが重んじられてたのか

勘助うちわ

2015年09月05日 06:00

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 17:53:14.67 ID:ZoXY4Ml6
 武田信玄の家臣として知られる山本勘助は主君の命により、河内の国の三好勢の様子を探りに行った。
三好の本拠地の小山城の城下にやってきた勘助は正体を悟られぬために名前を浅野文吾と偽り、
潜伏中の生活のためにうちわを作ることにした。
 勘助の作るうちわは丈夫で柄を下に置いても倒れず、涼しい風を送ることに優れていたのですぐに評判となり、
人々は珍しがってうちわは良く売れた。勘助はおよそ二年の間、うちわを作って売りながら河内の国の様子を
調査した。無事に調べ終えた勘助はいよいよ甲斐の国に帰ることにして、帰り際に城下で世話になった家の者に
自分の正体を明かし、世話になった礼としてうちわの作り方を伝授した。
 その家の者たちはその後、浅野文吾の名を取って「浅野屋」という屋号で店を開いてうちわを売り出した。
それは「小山の勘助うちわ」と呼ばれてこの地方の名産品となった。

 勘助うちわの作り方は一子相伝で後世に伝えられたが、昭和45年に最後の後継者が亡くなったことで
うちわ作りの伝統は途絶えてしまった。しかし、近年になって地元の藤井寺市ではこのうちわ作りを
復活させようとする活動が始まっているようである。




662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 19:24:50.79 ID:Nusp8EWX
勘助扇風機も欲しい所だな

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 20:34:19.85 ID:lm0fmTk1
こうして三好の領地で団扇を作っていた人々が十河の香川にいって
日本の9割の団扇を作っている丸亀を本拠地に
って話はないのか

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 22:35:15.09 ID:SI6t+mtc
真田の真田紐といい武田家の武将は芸達者だなw

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/04(金) 23:35:59.62 ID:FqdL8LFr
商人になる奴だっているんだから侮れない

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/05(土) 03:10:56.89 ID:tBoF3EZS
温泉宿を経営したものもいるな

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/05(土) 07:16:38.43 ID:hfftT60N
真田職業訓練校開設まったなし

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/05(土) 11:17:11.72 ID:FWbGzfwy
「勘助うちわは、わてのところだけで作らせてもらいますわ」
「何、言うてんねん。わての所も勘助はんにはよう世話させてもろうたわ…独り占めすんなや」
「これこれ、内輪揉めはいかん」

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/05(土) 15:12:58.19 ID:tcrYQkNJ
勘助のだじゃれに、天を仰ぐ(扇ぐ)御館様

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/05(土) 15:15:34.35 ID:lB30KJ/g
うちわがダメなら扇子にすればいいじゃないか、うわっなにをすry

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/05(土) 16:34:54.11 ID:ShhLJWcK
もうファンやめます

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/05(土) 17:21:22.91 ID:SvZ2m+do
>>670
センスイイね

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/05(土) 18:48:22.26 ID:tBoF3EZS
>>672
褒美をとらす!

御朱印を取らなかった訳

2015年04月16日 17:53

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/15(水) 22:46:08.85 ID:vxDRLaV5
天分15年7月21日、武田晴信は山本勘助を召して、足軽を新たに50付け、始めの足軽と合わせて75人、
知行も五百貫加増し、始めの三百貫と合わせて八百貫となった。
この事を報告するため、勘助は少しの間暇をいただき、駿河の今川家、庵原殿の元に参った。
かつて抱え置かれたことのお礼を申し上げた上

「晴信公が私を甲州に召される時、百貫の約束をされた事に、庵原殿はご異見として、
晴信公から約束を書いた御朱印を取った上で甲州に行くべきだとおっしゃいました。
私はそれに背き、あの時、朱印は取らないと申しました。

その理由として、私はちんばで、片目で、色黒く、醜男で、しかも無人前でありましたから、
いざ対面すれば、このような者に百貫の知行は過ぎたものだと思われかねず、実際に知行を
下されない事態になれば、私が他国に走り、晴信公は虚言を仰る屋形であると言われないように
打ち殺すであろうから、御朱印は取らないのだ、と申しました。
しかしそれは、皆偽りだったのです。

あの時私は、御朱印を取って参れば、私をどのように評価されても百貫限りと考えられ、
加恩を頂くことが出来なくなると考えたのです。私は晴信公を、日本の若手の中でも名大将に
なられるべき屋形だと思っていたので、御朱印を取らずに参りました。

私が召されたことへの御礼を申し上げると、晴信公はその場で、二百貫の書き出しを下されました。
その上で

『勘助が醜男であるのに諸人にその名を呼ばれているの。それは何か良きことの証拠があるからこそ、
名も高いのであろう。名高きものが無手である事はない。』

と仰せに成りました。当時23歳で、これほどの大将はどこの国にも稀です。
そして今や、私が召し出される前に考えていたように、政道賢き名大将になられました。

名将は必ず、人の取りなしにも男ぶりにも構われず、武士道の武略知略の侍を第一として、馳走し
崇敬なされる物でありますから、私も晴信公の御意に是非とも取り入り申すべきと、兼ねて覚悟した如く
仕り、今まで4年間の手柄によって、八百貫の知行を拝領いたしました。」

と、申した。彼は5日間駿府に逗留し、甲府へと帰った。
駿府においては、それまで山本勘助を褒めるものは誰も居なかったが、以後は褒め称えられるように成ったという。

(甲陽軍鑑)



850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/20(月) 08:37:54.93 ID:a9WdlWE3
>>834
勘助の男ぶりが?悪いことが逆にいい印象を与えたのかもね

852 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/04/20(月) 19:35:39.87 ID:6JTcovex
すごい醜男として有名だったとは考えなかったのだろうか

諏訪家無事再興、めでたしめでたし

2015年02月17日 18:46

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/16(月) 23:55:25.75 ID:49Ji2BZi
(諏訪頼重が死に)諏訪の家は断絶したが、頼重の十四歳になられた娘は尋常かくれなき美人であられた。晴信公はこの娘を妾にと望まれたところ、
板垣信形、飯富兵部(虎昌)、甘利備前(虎泰)の三人を始め、各家老達が晴信公に向かって、
「退治なさった頼重の娘を召し抱えることは、女人といえど敵にあたるゆえいかがなものでしょうか。」
とお諌め申し上げた。
ところが、三年前から駿河から召し寄せられた三河牛窪生まれの侍、山本勘介がささやいて板垣・飯富・甘利殿の三人の侍大将に申すには、

「晴信公の御威光がたいしたことでなければ、諏訪の者達も,公に伝手があることを悦び、よからぬ策略を立てるかもしれませんが、
晴信公のご威光は浅くありません。
私は日本国中を大方見聞きいたしましたが、中国安芸の毛利元就は、本の知行七百貫から弓矢を取って過ごして、
今では中国の大方を切り従え、四国九州にまでその威光が及んでおります。既に天下にご意見申し上げる三好長慶さえ元就の機嫌をとっていることは隠れもない事実です。
晴信公は二十五歳前でありながら、この元就にもさほど劣っておられないご威光の方であると、駿河にいた頃から承って、恐れながら私の考えでは日本国中第一の若手の武将と存じ上げてまいりました。
私が甲府に参りまして二年余りおります間に、晴信公の御言葉を承り、また敵との戦いの様子拝見致しますに、
この屋形様は、ご長命でさえいらっしゃれば、将来は必ず日本無双文武二道の名大将と呼ばれましょう。
したがって、諏訪家の親類被官たちも、いかなる謀略をも考えつくことはありますまい。
そうであるなら、頼重の息女を召し抱えることを諏訪衆悦び、
そのお腹に御曹子が誕生されれば諏訪の家を立てるかもしれないと望みをかけ、
武田譜代の人たちに劣らないご奉公をつとめるでありましょう。そのためには頼重の息女を召されることはけっっこうなことと存じます。」
であると。

この山本勘介の工夫した意見により、晴信公は頼重の息女を召し置かれることになった。
勘介の考えのように、諏訪衆は皆これを悦び、人質を甲府へ進上した。
次の年、天文十五年丙午四郎殿が誕生されたので諏訪衆は屋形様を大切にすること、譜代衆同然であった。
(甲陽軍鑑)

諏訪家無事再興、めでたしめでたし



634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/17(火) 01:56:07.65 ID:9ScnZUiE
寅王丸で事足りるやんけ

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/17(火) 02:34:55.27 ID:J+6lBEkp
殿いつの勘助で再生しちゃってニヤニヤしてしまう

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/17(火) 05:34:11.04 ID:73jvdcnR
四郎は丙午だったんか

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/19(木) 09:37:45.76 ID:Mmj+3LMy
勘助は本当にお屋形さまLOVEだよね

駿河今川家の噂

2014年10月24日 18:51

109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 00:27:12.10 ID:Tai7vUmf
山本勘助が駿河から甲府に、初めて召し寄せられた時、武田信玄は勘助に、駿河今川家の噂を尋ねた。
勘助は申し上げた

「義元公の御家は昔から高家とされています。つまり京の公方家が絶えれば吉良がその後を継ぎ、
吉良も絶えれば今川が継ぐとの謂れがあり、家風何れも少しも欠けるものは有りません。
しかも駿河・遠江・三河三ヶ国の主であれば、様子気高く、物の名人が他国より集まり、
殊更良き家老集も沢山あり、その配下は中名、小名まで武道を心がけていること、言うまでも有りません。

その上臨済寺雪斎が義元公の補佐をし、公事沙汰万事の指引浅からざるゆえ、尾張国織田弾正なども
駿府に出仕いたすようになったので、末々は京都までも義元公が御仕置きなさるようになると、
各々風聞されています。

ですが、私は一段危ういと考えています。

どういう事かといえば、仮に雪斎が明日にでも亡くなれば、その後家老衆の政務のさばきが
たとえ良かったとしても、雪斎の政治の印象があまりに鮮やかであったため、彼が補佐していた時代より
政務の裁きは劣っていると、諸人は考えてしまいます。

だからといって雪斎のような物事をよく知る長老にまた頼るようであれば、今川家について、
尽く坊主がいなくては成り立たぬ家であると諸人の批判を浴びるでしょう。

これが私の考える今川家の危ういことです。」

信玄はこれを聞いて、
山本勘助は聞こ及んだ事に違わぬ分別・才覚の持ち主であり、工夫の智略も宜しく思案する
広才人である、たとえ一文字も書けなくても、学問がなくても、物識りと呼ぶべきはこの勘助である。
彼はただ、智者と申すべき人物だ。」

そう申して信虎の時代より二代にわたって仕えた4人の足軽大将にこの勘助を加え、その年から
五人衆として再編したのである。

(甲陽軍鑑)

山本勘助、信玄に最初の面接で感銘を与える、というお話。



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 18:59:57.58 ID:Dl1Xuhoc
>尾張国織田弾正なども駿府に出仕いたすようになったので

この織田弾正って信秀の事ですか?
信秀が太原雪斎の存命中に今川家に仕えるようなことってあったんですかね
それとも尾張に別の織田弾正と呼ばれる人物がいたのか
ただ単に甲陽軍鑑が甲陽軍鑑しちゃっただけなのか

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 20:54:58.03 ID:rzrzqaQX
そのころの織田は一枚岩じゃなかったんだよ

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/24(金) 23:39:44.54 ID:ZgMX+YPR
捕まった信広のことだったりして

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 00:17:10.28 ID:TkDS1XRG
甲陽軍鑑にいちいち突っ込み入れてどうすんのさ

116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 02:21:32.03 ID:DjH7tebX
雪斎の没年が1555年か
信秀はもう死んでるし、信長は状況的に駿府に行くどころじゃないよね

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/25(土) 02:53:57.40 ID:j6b+ZBu0
雪斎生きてる時の話、ということになってるが

南部下野の改易

2014年10月14日 18:53

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 19:29:03.19 ID:PNmC/KAZ
武田信玄家臣・南部下野殿(宗秀)が改易されたのは、信玄公28歳の時であった。

山本勘助という大剛のつわものは、武道の手柄ばかりではなく、兵法の上手であり、
ある時、信州諏訪においてこの南部殿の家臣、石井藤三郎という者を南部殿が成敗しようとして失敗し、
石井は斬り合いをしながら逃亡した。

その頃、山本勘助はたまたまその近所の家に滞在していたのだが、その座敷に石井が刀を抜いたまま
入り込んできた。これに勘助は刀を取らず、そばにあった棒を取るとこれに向かい合い、石井が
斬りかかってきたのを受けて組ころばし、縄をかけて南部殿へと引き渡した。

この時、勘助は3ヶ所ほど少しばかり負傷した。それは負傷というほどのものではなく、30日ほどで
疵も消えたほど軽いものだった。そもそもこの山本勘助は戦場での武辺の時も、罪人を放し討ちする時も
数度にわたって少しずつ負傷し、86ヶ所の疵があった。

ところがこの時勘助が負傷したのを、南部殿は悪しざまに言い立てた。

この南部下野殿は武田家において甘利備前、板垣駿河、小山田備中、飯富兵部少輔の四人の衆に
続く人で、少しは武辺の覚えがあるのだが、心変わりしやすく常に無穿鑿なことばかり言い、
遠慮もなく明け暮れに過言を言い、嘘をついた。無分別な人でこの山本勘助を憎み、
国郡を持たぬのに城取り、陣取りを行う実力の持ち主で、また外科医者も深い傷ではないというのに

「兵法使いのくせに手を負うとは!」

などと言って、山本勘助に尽く悪口を言っていた。

この事を目付衆、横目衆が信玄に報告し、長坂長閑、石黒豊後、五味新右衛門を使いとして
書面を以って南部下野殿に仰せ付けた。
その内容は、山本勘助という大剛のつわものへの悪口の事を穿鑿するものであった。

『一、山本勘助が小身者であるから彼の城取り、陣取りのやり方も正しいものではない、と言っていた
   件であるが、これは物を知らい言い様である。昔唐国は周の文王が崇敬していた太公望は
   大身ではなかったではないか。

 一、兵法使いのくせに手を負ったなどと申すのは、一層武士道不案内である。兵法とは
   負傷しないということではない。負傷しても相手を仕留めるのが本物の兵法である。
   殊更、その方の被官である石井藤三郎が白刃を構えていた所に棒で立ち向かい組み倒したというのは
   勘助がたとえそこで死んだとしても、その屍の上にまで誉れがあるというのに、嫉むとは
   無穿鑿なる事である。

 一、其方南部は、手柄が実は家中の者である笠井と春日両人が仕ったものであるのに、自分の手柄のように
   申していたと聞き及んでいる。

 この三ヶ条の罪を以って成敗してしまおうと考えたが、それでは山本勘助も定めて迷惑に思うであろうから、
 ここは勘助に免じて命を助けるので、遠き国へと参れ。』

そう命ぜられ改易となった。彼は奥州会津へと行き、飢え死には免れた。
彼のもとにあった70騎の足軽、旗本、その他は家中の者達に分け与えられた。
ちなみに春日左衛門、笠井備後はこの南部下野殿の二人の家老の子である。

(甲陽軍鑑)

南部下野の改易についてのお話




525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 09:35:05.78 ID:2o0XIMaR
勘助かっけぇな

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 10:12:32.28 ID:9b0wE0oR
刀ではなく棒で応戦するという謎の選択

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 10:53:55.92 ID:XnD+a83e
殺さず捕えるためだろ

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/14(火) 11:39:41.01 ID:eXxXvJuk
流浪時代に宝蔵院で槍術を学んでたのかもとか妄想してみる

毎夜夜中に屋敷内を見廻るべし

2013年10月30日 19:11

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 23:09:23.55 ID:OuNCHzC2
一、毎夜夜中に屋敷内を見廻るべし。下人の寝所、ともしびなどをうかがえ。
もし他所の者が入り交じっていたならば追い払え。

こちらの下人は翌日異見せよ。深く憎んで道理に反する事を起こす時には、かえって
夜盗の手引きなどをするものだ。主命に背いて異見を用いないならば、手討にすべし。

一、是非もなき次第が起きて自分の家来を手討にしようとする時には、

先に誠意ある家人を一人呼んで次の間に控えさせて一方をあけてあき、手討にする者を
呼び出して、しかじかの理由を申し聞かせて得とくさせ、声をかけて討ち果たすべし。

怒りに乗じて急き込むと討ち損じ、取り逃した時には主人は汚名を得て、人前の交わりで
後ろ指をさされることだろう。

また、強勇の家人はかえって主人を討って立ち退くことがある。そのような時は、
子孫永々の恥となることであろう。

――『山本道鬼入道百目録聞書』




619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/30(水) 08:27:05.22 ID:+CaBbXaN
>>618
誰?

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/30(水) 11:33:57.67 ID:XcdFqZgl
甲陽軍鑑で今川家ディスるためのダシにされてる片目で色黒で醜い人では