織田三七殿の侍・二宮千太郎は

2016年06月02日 10:45

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/02(木) 02:37:34.31 ID:oHeDRgaS
織田三七殿(信孝)の侍・二宮千太郎は、これも博打に打ち負けて馬や物具まで取られ、
どうしようもなく三七殿の御前へ参り、

「私は不心掛けにより博奕を打ち、このような次第となりました。相手の者に様々に
詫びましたが、馬も具足も貸してはくれません。このうえは彼と果たし合いしようかと

思いましたが、私がこのようになってもきっと御用には立つだろうというのに、この時に
果たし合いをしたとしても、いよいよ不忠でございます。このうえで、御慈悲を頂ければ、
御検使を受けて切腹仕りたく存じます」と、申し上げた。

三七殿は、「お前の申すことは、理解できることも少しはある」とのたまい、黄金2枚と
具足や馬までも与えなさった。それから、二宮は次の日の合戦で組討ちをして高名を
極めた。そのため、三七殿も御機嫌を直しなさったということである。

――『備前老人物語』



スポンサーサイト

幸田彦右衛門尉とその母

2015年05月29日 17:05

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/28(木) 18:26:02.21 ID:4mhNMucy
幸田彦右衛門尉は、織田信孝の家臣であった。

天正年中、賤ヶ岳の戦いの前、信孝は羽柴秀吉によって激しく攻められ、信孝は力尽きて
和睦を受け入れ、その母及び幸田の母を人質として送った。

しかし程なく和睦は破れた。秀吉は怒ってその人質を殺そうとした。幸田彦右衛門尉は孝子であったため、
この事態に心揺れ動いた。これを聞いた母は、書状をしたため彦右衛門尉を諭した

『お前が、この老婆の身の上を思って二心を懐かないように。
お前は硬く節を守って、我が君を補翼せよ。
然らば君に忠、母に孝であり、であれば幸いにも忠孝両全と成る。

私は殺されても悔いることはない。』

これによって幸田は志を決して、秀吉に叛いた。
秀吉は怒り、その母を磔にした。幸田はますます信孝に忠勤して、尾張内海で信孝が自殺した時、
奮戦して潔く戦死した。

(明良洪範)

我らの主なるデウスの御摂理

2014年09月20日 20:14

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 21:08:08.82 ID:JyLJUgo+
織田信長の没後、その家臣で羽柴筑前守(秀吉)と称する者が天下の政治を
司る事になった。

彼(秀吉)は優秀な騎士であり戦闘に熟練していたが気品に欠けていた。
信長は彼をして毛利の諸国の攻撃に従事させ、既に4,5ヶ国を武力で占領していた。

羽柴秀吉には高貴さと武勲において彼よりも優れた二人の競争相手がおり、
彼はその競争相手を亡き者にしようと決意を固めた。そして先ず越前国の主君である
柴田殿(勝家)と一戦を交えてこれを滅ぼし、5,6千名の兵を殺した。
柴田自身は城に立てこもり、放火させ、城中の家臣たちとともに切腹して果てたのである。

第2の敵は信長の息子の三七殿(信孝)であった。
三七殿には、かつての父の家臣であった羽柴に臣従することは、到底耐え難いことであった。
彼は美濃国の君主であり、2度にわたって羽柴に対して軍を起こした。
しかし羽柴勢が攻撃してくると、彼はそれに対向する軍勢を有しなかったので、
それまでいた兄弟に当たる殿(信雄)の城(岐阜城)を捨て、身内の武将のもとへ
援助を求めて逃走した。だが同行していたその家臣が、羽柴に忠誠を示すことによって
顕著な報酬に与ろうとして、途中三七殿を殺害してしまったのである。

これは明らかに、我らの主なるデウスの御摂理によることを示していた。

と言うのは、先にデウスはこの三七殿にキリシタンの教えについて大いなる喜びと
光と知識を授け給い、また彼自身も、キリシタンになる意向を度々表明し、
自分が征服した諸国では我らの聖なる教えが大いに広まるよう協力しようと言っていながら、
少しばかり栄えるとデウスに背を向け、心は全く悪に染まり、デウスに扶助を
求めるどころかそれを拒否し、魔術師のヴォミト(吐物)を求め、偶像を拝みに
走ったのである。

だが、デウスは突如としてそのような彼との絆を絶ち給い、それによって彼は
無残な死を遂げ、その記憶は人々の許から消滅してしまったのだ。

ルイス・フロイス『日本史』)

織田信孝が滅んだのはキリスト教から離れたからだ、というフロイスの記述である。




307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/19(金) 22:22:30.77 ID:sUxkV9mz
死者には厳しいフロイスさん。ぶれないねぇ

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 05:26:42.96 ID:5hFl6qT+
>>307
死者に厳しいのではなく、フロイスは人物評は基本的にその人物の死後に書くことにしている
フロイスいわく「日本では情勢の変化が激しすぎるからリアルタイムでは人物評なんか書けない」

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 06:54:20.06 ID:DLha5Ble
入信してもいつ棄教するかわからないから、という気がするが

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/09/20(土) 09:28:39.06 ID:B86Odyjt
>>309
それは逆にはっきり書かなければならない事だから

津田信澄殺害

2014年04月09日 18:46

914 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/09(水) 02:32:41.57 ID:LF7xZMN8
(本能寺の変が起こった)当時、信長の三男の三七殿(織田信孝)はまだ堺にいて、彼の父が所領として
与えたかの四つの国(四国)を兵士たちとともに占領に赴く準備を整えていた。彼は父と兄への謀反及び
その訃報に接するや、引き返してその件に復讐するための準備を直ちに開始し、まず従兄弟の
七兵衛殿(津田信澄)を血祭りにあげて身辺を固めようと欲した。

七兵衛は信長の兄(原文ママ)の息子であり、信長が父の遺産の相続者に成ろうとしたため、七兵衛の父は
殺害されたのであった。この若者は信長の殺された者の息子であるとともに、明智の一女を娶っていたので、
彼が義父と組んでこの謀反を企てたのだと思わぬものは居なかった。

この若者は当時、信長の命令によって、丹羽五郎左衛門(長秀)と名乗る他の武将とともに、堺から
二里半ほどの所にある大阪城を警備していた。

信長の三男、三七殿の軍勢は、四国の諸国の征服に向かう彼に伴うべく、各々異なった地方から集合し
編成されていた。しかしそのため、謀反の報に接するや、兵士たちの多くは彼から離れ逃げ去っていった。
三七殿はそのため焦燥感をいだき、復讐という希望の実現が遅延することを非常に悲しんだが、自らの元に
とどまった軍勢を率い、信長の息子の親友である他の武将(丹羽長秀)と従兄弟(信澄)の居る大阪に
向かった。

この時、従兄弟は自分が殺されはしまいかと恐れ、三七殿が入ってこないように内部から盛んに懇請し
奔走していたが、様々な交渉の末、五郎左衛門の好意によって三七殿は大阪に入った。
そして二日間滞在したあと、三七殿は五郎左衛門と協議し、トルレ(塔)の最上段から出ようとせず
しきりに身辺を警戒していた従兄弟をいかにして殺害するかについて結論を下した。

彼らが考案した策略は、五郎左衛門が三七殿を船まで送るという、ごく普通の行為を装い、そこで三七殿と
五郎左衛門の家臣の間で騒動が起こるように仕組み、七兵衛の家臣らは城から出ようとせず、
七兵衛自身に至ってはなおさらで、疑いが現実になるのを恐れ外に出なかったので、この偽りの騒動で
五郎左衛門の家臣が敗北したように見せかけ城内に逃げ込んだところを、三七殿の家臣も追跡して入り、
一団となって塔の内部の七兵衛の居る場所を襲撃することであった。

その策略が実行されたあと、同所では、ある人々は七兵衛が自らの手で切腹したと言い、他の者達は
若い身分ある武士たちが彼を殺害したと述べている。

これにより三七殿が勇気と信用を獲得すると、ただちに河内国のあらゆる有力者たちは彼の元を訪れ、
主君として認めるに至った。
彼は従兄弟の首級を堺の街近くに晒すように命じた。事実、この七兵衛という若者は異常なほど残酷で、
誰もが彼を暴君とみなし、彼が死ぬことを望んでいたからである。

(ルイス・フロイス『日本史』)

織田信孝による、津田信澄殺害についての、フロイスによる記録である。





915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 02:44:00.10 ID:JFOd6dae
信澄討ったのって上田宗箇だっけ?

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 03:05:08.24 ID:cUyWbTYT
信澄には信包や森くっつけて九州任せようとしてたんじゃ無いかと密かに思ってる

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 08:01:01.67 ID:Wq+OPh5f
信澄って暴君だったのか?

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/09(水) 08:53:08.44 ID:T6RTPCLC
キリシタンに興味を示せば・で仏教徒なら×
そんなもんだろ

三七殿と称する信長の次男は

2014年03月15日 18:59

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/15(土) 15:29:40.99 ID:m5glyeEn
三七殿(織田信孝)と称する信長の次男は、ただキリシタンになるための素質のみならず、それらの
大支柱になり得る素質を備えていた。しかし後日人が変わり、後述するように極めて悲しく不運な末路を
たどることになった。

信長の多くの息子に中にあって、彼は全ての武将たちから最も好かれ、愛されていた。彼は安土の司祭や
日本人に修道士たちと交際し始め、しばしばデウスの掟について説教を聞く内に、たとえキリシタンで
あったとしてもそれ以上望み得ないほどの愛情と親近感を我らの修道院に対して抱くようになった。

彼は週に1,2度は必ず修道院に姿を見せ、ロレンソ修道士が、それに劣らぬほど頻繁に彼の家に
来訪することを希望した。また種々の贈物を度々司祭らに届け、万事において彼らに対する大いなる愛情と
親切を示した。彼は司祭らを自らの教師とみなしていると公言し、大物の武将たちの前で、深い尊敬を込めて
デウスの掟について語り、司祭らに対しては極めて恭順の意を示したので、異教徒たちは驚愕した。

彼は仏教の宗派は欺瞞と迷信であるとしてこれを軽蔑し、我らの聖なる掟だけが真理と道理にかなっており、
真理を弁えるいかなる者も、デウスの教えを聞いては未リシタンにならずにはおれぬと述べ、
多くの言葉を以ってそれを激賞した。彼自身も、いくつかの事情から延期を余儀なくされていなければ、
既にキリシタンになっていた所であり、その数名の家臣は彼の説得により、既に受洗していた。

彼は修道士にコンタツ(ロザリオ)を求め、それで祈りたいと言い、時々それを腰に帯びていた。
彼は大きな邸宅と相当の封禄を付与されていたが、時節が到来するまで、彼の父はまだいかなる国をも
与えていなかったので、父がいずれかの領地を与えるのを、当然の事として待機していたのであった。

彼は既に25歳になっていたであろう。父から気に入られ、城中の一同から愛されていた。
この若者は、父が喜ぶか、少なくとも悪く思わぬということを示唆するまでは、キリシタンになることを
留保していた。何故なら信長は、その子供たちに対しても顧慮することがなく、子供たちからさえ
恐れられていたので、進んで彼と話そうとするものはなく、誰も皆、彼の気に触るようなことは
避けるように注意していた。

三七殿は父の重臣たちと親しく交際していたが、彼らに向かっては、キリシタンになりたいと公言し、
父がそれをどう思うか知ろうとして、父がそれについて考えてくれるよう手をつくしていた。
三七殿は我らのことを母親に話していたので、彼女も2,3度説教を聞き、デウスの教えに愛着を感じていた。

ルイス・フロイス『日本史』)

ルイス・フロイスによる、織田信孝についての描写である。




637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/15(土) 16:38:55.30 ID:xNY1rIaH
フロイスさんお得意の手のひら返しが怖い

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/15(土) 16:53:51.93 ID:ed+AMNJw
キリスト教はなんらかの魅力があるんだろうね
聖書は家にあるけど個人的にはなかなか読み進まない書物だ

高杉晋作が聖書を読んだときの感想が、
『「キリスト教は陽明学に似ている。我が国の分解は此を以て始まらん」
維新の志士として有名な長州の軍略家、高杉晋作は、
長崎にて始めて基督教聖書を調べて、然う叫んだ』(内村鑑三、代表的日本人より抜粋)
だそうですね。
内村鑑三がキリシタンだから信憑性は謎
ところでキリスト教ってどういう思想なの?

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/15(土) 16:58:03.46 ID:IxH71Qmz
ハビアンによれば
この世は神が創った
人間中心
魂の永遠性
が儒教、仏教、神道とちがうところとか

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/15(土) 17:02:24.35 ID:t5w+v5cY
人を殺すのは悪魔でなく神

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/15(土) 17:17:26.26 ID:ed+AMNJw
宗教ってのは行動する際の心理的な担保なのかもしれないね
陽明学なら良知とか心即理
南無阿弥陀仏なら善悪とか成否の迷いを阿弥陀仏に任せてしまうんだろう
キリスト教ならGODか…
なんでもそうだが一歩間違えると危ないな

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/15(土) 22:30:35.80 ID:Nz9Y3ylS
>>638
エキゾチックなのが良かったのかもね

報いを待てや 羽柴筑前

2010年05月22日 00:07

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/21(金) 16:08:33 ID:Gmz7NAcf

じゃあ良い話を一つ、神戸信孝の話なんだが

織田信孝は1582年に四国征伐の総司令官に任ぜられ(以下略)

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/21(金) 16:30:58 ID:Gmz7NAcf
手直しを少し入れればそれらしくなると思うんだ。

「織田信孝と○○」
(まずはタイトル)

織田信孝は四国征伐を命ぜられ、渡海の準備をしている際に本能寺の変が勃発した。
(前文は簡潔に)

しかも信長の死により逃亡兵が相次ぎ、混乱もあって従兄弟の津田信澄を殺害に及び方面軍として単独では動けず
中国帰りの羽柴軍に合流し、「名目上」は総大将として山崎の戦いに参戦。仇である明智光秀を撃破した。

清洲会議で、その存在を秀吉に無視され、 織田後継者は甥の三法師に決定した。
信孝は兄・信忠の遺領美濃を与えられ、後に秀吉に兵を起こすが
降伏せざるを得なくなり、人質を出し秀吉に屈した。

賤ヶ岳の戦いでは再度挙兵。
しかし居城の岐阜城を包囲され、頼みの柴田勝家も北ノ庄城で敗れると自身も降伏。
信孝は尾張国知多郡大御堂寺に送られ、秀吉に迫られて自害した。享年は26という。

辞世の句は「昔より 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」

この辞世が現実のものとなるのは、それから32年後のことであった。

ただ辞世が後に叶ったが、信孝の句と「どういう因果」で「羽柴(豊臣)が滅んだのか」を書かないと
(説明できないと)良い話にも悪い話にもならない。


まぁ、他人の話を聞くのも一種の社会勉強だと思いましょう。




167 名前:人間七七四年[sage ] 投稿日:2010/05/21(金) 17:57:49 ID:WSXi5zMa
>>164
これだと、「やっぱり信孝の辞世の句ってインパクト
有るよな。その後の秀吉の運命も含めて凄い句だわ。」
とか感想を持つよ。
しかし、最初の投稿者も未だに粘着してるし凄い執念。
信孝並みに「報いを待てや」状態?

秀吉が信孝を憎んだ理由

2009年09月01日 00:07

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/30(日) 22:54:39 ID:dnKN7ZfH
奇説の域を出ない話ですが…

信長の息子の一人、信孝。
彼は本能寺の変ののち、秀吉と対立して切腹してしまうのだが、
秀吉が信孝を憎んだ理由の一つにこのようなものがある。


絶世の美女と歌われたお市の方は
夫・浅井長政が死んで後家になった。
お市は30歳を過ぎても22、3歳にしか見えないほど若く美しかったという。

本能寺の変後、お市の再嫁先を探すことになったが、
柴田勝家と羽柴秀吉、この二人が「それがしの妻に」と立候補した。
が、信長の息子・信孝は
「筑前には正室いるじゃん。
 まさか信長公の御妹を側室にするわけ?ねーよw」
と秀吉の願いをはねつけ、正室のいない勝家にお市を嫁がせてしまった。
秀吉はこれを恨み、のちに信孝と対立することになる。


関白に就任した秀吉は、お市の娘・茶々を側室にしているが、
茶々にお市の面影を見ていたのか、それは不明である。




815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/30(日) 23:22:37 ID:9bLqg/Eo
山風の妖説太閤記思い出したわw

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/30(日) 23:40:33 ID:VHndk0be
事実かどうかはともかく、言っていることは正しい

ただ、当時の信孝に、市の嫁ぎ先の決定権があったのか?という疑問が。

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/30(日) 23:59:42 ID:8A0mH/Dz
故高柳教授の研究によると、勝家が堀秀政に宛てた覚え書きの一条に
自分は秀吉との申し合わせに違背していない、縁辺の儀いよいよその分である

のようなことが書いてあって、この縁辺の儀とはお市との結婚を指し、
(おそらくは)以前からの決定事項であった縁談をそのまま進めることは清洲会議で
秀吉達と確認してあることだということらしい


818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/31(月) 00:05:08 ID:c+sLr8sf
>>817
まあ清洲会議自体、講談やドラマなどであるような勝家と秀吉の対立の場ではなく、
特に摩擦なく、織田家重臣たちの協調を確認して終わったシャンシャン会議だったらしいしね。
秀吉が天下取りに乗り出すのは、会議の後、信孝と信雄の対立が表面化しはじめたあたりからだね。

819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/31(月) 01:07:26 ID:yJTaqSgW
まあ、幼いとはいえ嫡孫がいるってのに信雄や信孝がどうのってのはさすがにねーわな。

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/31(月) 01:10:46 ID:HK4aalzW
>>819
三法師は信忠から、生前に嫡男として認められてはいなかったので、実は織田家の跡継ぎとしての
正当性は微妙だったようです。

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/31(月) 01:18:37 ID:ifqorgiE
つまり松との間にできた子供を跡取りにしたかったわけか

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/31(月) 01:43:13 ID:GkjM+ozH
正室は内親王じゃね?


織田信孝家臣、幸田彦右衛門とその乳母・悪い話?

2009年05月08日 00:06

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/07(木) 03:18:00 ID:xfYmfLNA
賤ヶ岳の合戦の勃発により、織田信孝が羽柴秀吉に対し、再度の挙兵を行った折のことである。

この時秀吉は、かねて信孝方より取っておいた人質を、磔とすることにしたが、
人質の中には、信孝の乳母もいた。

この乳母の子が、信孝の侍大将の一人、幸田彦右衛門であった。

磔の前、秀吉は人質を預けた信孝の重臣達に工作をし、信孝の重臣、岡本下野守などは、
人質の命と引き換えに、信孝からの寝返りを行った。
当然、幸田の下にも秀吉からの寝返りの要請があった。
が、この時幸田の下に、母より密かに書状が届けられた。
その書状に言う

『私が今、空しくなること、どうかゆめゆめ、嘆かないで下さい。
親とは必ず、子に先立つものなのですから。
あなたは唯、忠義を守って、主君に背かないようにしてください。』

この後、母は磔となった。
そして子の彦右衛門も、それから間もなくの天正十一年四月十八日、
織田信雄軍との抗戦において、潔く討ち死にをした。

戦国乱世の、ある母子の物語。




241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/07(木) 05:20:02 ID:yyFm0AAN
秀吉が主筋から人質を取っていた悪い話ですか

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/07(木) 14:30:15 ID:xfYmfLNA
秀吉云々以前に、どうにもやるせない話と解釈していただければw

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/07(木) 18:36:40 ID:2uQmKyTF
>>242
時代によって価値観は変わるんだろうけれど、「悪い話」というよりは寧ろ「良い話」ではないかとw

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/07(木) 20:13:01 ID:Z6QMCmBq
信孝自体が悲劇的だしな
その家臣で母子そろって死んじゃうとか、運命としては悪い話だな