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646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/16(土) 19:32:10 ID:LrzJ8vOo
関ヶ原の決戦が終わった後
徳川家康は自分に味方した諸大名と、大阪において対面したのだが、その中に一人、
三成の地元近江において、三成の誘いをはねつけ西軍と対立したにもかかわらず、
出仕をしてこない者がいた。
近江の名族の末、六角義郷である。
そこで家康は近江の義郷の元に使者を送り、急ぎ出仕するように言ったが、
義郷は、このような書状をもって返した。
『ご使者を派遣いただき、真に過分の至り。弓矢の面目、これに過ぎたものはありません。
ですが、内府の仰せに従い、義郷が只今まかり出ましたならば、世間は三つの事を
噂するでしょう。
一つは、三成達が秀頼公の頼みであるからと、北国表に軍勢を出せと言った事を了承せず、
これに軍を出さなかった事、これを世間は、我々が臆病者だからだと言う事でしょう。
次に、我々は今まで内府とは、殆ど関係を持ちませんでした。にも拘らずご恩に預かれば、
時の勢いに従う追従者と言われることでしょう。
三つ目に、我が家は(秀次事件に連座したため)浪々の身であります。それ故に世間は、
食料も乏しく難儀の余り内府にへつらったと、そう申すでしょう。
大海は防げても、人の口は防ぎがたしと、古人も言われたそうです。
そのようなわけですので、家の名を惜しむため内府の命に従わざること、どうかご理解いただきたい。』
この書を読んで家康は、
「六角家の人々は、今の世の聖人とも言うべき方々だ。」
と、深く感動したそうである。
欲得の世間において、家の名誉のみを考えた、ある名家のお話。
648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/16(土) 21:50:58 ID:emU9y0Lj
>>646
丁度勝った勝った恩賞恩賞と目の色変えてる連中に取り囲まれてるところだったから
余計心を打つものがあったんだろうな
関ヶ原の決戦が終わった後
徳川家康は自分に味方した諸大名と、大阪において対面したのだが、その中に一人、
三成の地元近江において、三成の誘いをはねつけ西軍と対立したにもかかわらず、
出仕をしてこない者がいた。
近江の名族の末、六角義郷である。
そこで家康は近江の義郷の元に使者を送り、急ぎ出仕するように言ったが、
義郷は、このような書状をもって返した。
『ご使者を派遣いただき、真に過分の至り。弓矢の面目、これに過ぎたものはありません。
ですが、内府の仰せに従い、義郷が只今まかり出ましたならば、世間は三つの事を
噂するでしょう。
一つは、三成達が秀頼公の頼みであるからと、北国表に軍勢を出せと言った事を了承せず、
これに軍を出さなかった事、これを世間は、我々が臆病者だからだと言う事でしょう。
次に、我々は今まで内府とは、殆ど関係を持ちませんでした。にも拘らずご恩に預かれば、
時の勢いに従う追従者と言われることでしょう。
三つ目に、我が家は(秀次事件に連座したため)浪々の身であります。それ故に世間は、
食料も乏しく難儀の余り内府にへつらったと、そう申すでしょう。
大海は防げても、人の口は防ぎがたしと、古人も言われたそうです。
そのようなわけですので、家の名を惜しむため内府の命に従わざること、どうかご理解いただきたい。』
この書を読んで家康は、
「六角家の人々は、今の世の聖人とも言うべき方々だ。」
と、深く感動したそうである。
欲得の世間において、家の名誉のみを考えた、ある名家のお話。
648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/16(土) 21:50:58 ID:emU9y0Lj
>>646
丁度勝った勝った恩賞恩賞と目の色変えてる連中に取り囲まれてるところだったから
余計心を打つものがあったんだろうな
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