池田市郎兵衛の清節

2015年12月03日 07:31

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/03(木) 02:07:07.72 ID:qBLGZ1M9
寺沢家に仕えた池田市郎兵衛は度々戦功のあった人で、黒田家や細川家にも
望まれた人である。(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6879.html)

彼の清節は世人の及ぶところではなかった。

池田は常に隣家などへ行く時でも鎖具足と2,3日分の兵糧を挟箱に入れて持たせた。

夜寝る時には上から糸を下げて、枕元まで槍を吊っておいたのである。槍を取る時は
糸が切れてまったく支障がない。池田の平生の心がけは万事この類であった。

――『明良洪範』

武具を吊っておくといいという話ってちょいちょいあるんですな。
(ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9607.html)



75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/03(木) 09:17:46.96 ID:UTzrdV/G
ダモクレス「そうだな」
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千賀五助、人喰馬を

2014年02月08日 19:24

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/08(土) 17:25:26.50 ID:mYm7n5SY
寺沢志州の家に千賀五助という武士がいた。千賀の力は人よりも優れていた。

正月二日、志州は唐津城下で馬揃をして見物した。この時、何としたことだろうか、
人喰馬が轡を脱して駆けて来た。

千賀はこれを見て袴のももだちを高くとって馬場の中に走り向かい、片膝をついて待った。
この馬が千賀を見て眼を開き牙を剥いて飛び掛ったところを、

千賀は立つやいなや馬の平首を抱いて押し伏せて膝で平首をしき、手を挙げて馬副を招くと、
口を割って轡をはめさせた。

――『武将感状記』




徳容の普段の心掛け

2013年12月15日 19:18

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/14(土) 23:47:26.20 ID:wVoCp08T
熊沢勝右衛門正英は、寺沢志州がいまだ身分の低かった時からの姉婿である。

生国は尾張の瀬部であるが、後に志州が唐津に招いて最も篤く接待した。
剃髪して徳容と号し、嫡子三郎右衛門は禄二千石を受けて長臣となる。

ある夜、盗人があり、そこだぞここだぞと騒ぎになった。宅地の隅には高木が屏の上に
枝を垂れているところがあり、徳容は「盗人があらば、ここをたよりにして越えるだろう」
と、日頃から見定めていたので、ただちにその屏の陰に走って盗人を待った。

思った通り、盗人はその屏に登って逃げようとしたので、徳容は簡単に盗人を斬り留めた。

志州はこれを聞いて「壮年の者がかえって七十有余の徳容に殺されたのは、少しも
(壮者の)つたなさからではない。まさしく(徳容の)普段の心掛けに基づくのだ」と戒めた。

――『武将感状記』





884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/16(月) 13:26:14.26 ID:2+k2fDbU
>>883
現代にも通じるな
まあ押し込み強盗は稀だけど、災害時の逃げ口なんかは想定しておくとよいかも

倹を守りて士を引く

2013年12月01日 19:17

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/30(土) 22:36:39.53 ID:mad9NJaP
倹を守りて士を引く
寺沢広高は肥前唐津の城主となった。12万石の大名になったのに、その奥方は木綿の衣服を着た。
年始などの儀式であっても塩魚又は乾魚を用いた。このように倹約とするかと思えば、部下には千石取りの者を40人を養った。
広高は常に我を通さず人の意見に耳を傾け、技能ある者を招いた。故に豪傑の武士は先を争って集まったという。

(武人百話)




788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/01(日) 20:42:01.14 ID:zgqj0oIQ
>>778
千石取り40人だとそれだけで1/3か
石高のうち大名自身というか藩の取り分ってだいたい何割くらいなんだろ

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/01(日) 20:50:33.37 ID:21AFGnTx
>>788
蔵入地の割合は大名によってバラバラだね
時代の経過とともに藩財政の立て直しの為に蔵入地を増やす傾向にはあるけど

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/01(日) 23:29:44.00 ID:SLkGZeGO
最上や鍋島なんかは事情が事情とはいえ少なすぎるよねえ

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/01(日) 23:48:26.29 ID:21AFGnTx
まあ、豪族連中がちゃんと軍役や普請役を担ってくれれば問題ないんだけど
島津みたいになっちゃうと酷いことに

池田市郎兵衛の自負

2012年10月11日 20:22

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 18:05:01.86 ID:up+DWCw2
>>727の池田市郎兵衛さんのお話

池田市郎兵衛と言えば度々の戦功を重ね、首供養(33人の首を獲った者のみが許される、自分が命を奪った者への
鎮魂の法要)をした程の武士であったが、牢人して困窮に陥った時、寺沢広高がこれを招き、茶料として四百石を
無役として与え、さらに鉄砲足軽20人を、「これは並の足軽ではないが、人数少なく色々と不便であろうから使われよ」
と言って預けられた。

ところでこの池田市郎兵衛は、かねてから黒田長政と細川忠興も召抱えたいと探していたのだが、
彼が既に寺沢広高の召し抱えられたことを知ると非常に残念がり、彼らはそれぞれ、市郎兵衛に対し
三千石で召抱えたいといってきた。

しかし市郎兵衛
「私が牢人し餓寒に及ぼうとしていた時に、主君広高の恩恵を蒙り、今にいたって妻子を豊かに育めております。
三千石はかたじけない事ですが、その高禄に心惹かれて他家に参るというのは、武士の本懐ではありません。」
と伝えて、両家の誘いを断った。

寺沢広高はこの話を漏れ聞き、「他人が高禄を以って池田市郎兵衛を招いたのに、彼は利を貪らず私に
義理を立てた。それを私が知らぬ顔で捨て置くというのは、道に背く行為である。」
そう考えて市郎兵衛に三千石を与えようとした。

が、これに市郎兵衛
「私はもとより、禄の多少を論じてはいません。ただ殿からの処遇の浅からざるを悦んでいるのです。
今頂いている所領にて、衣食の用は充分に足りています。ですからその他は毛頭望むところではありません。

もし殿に誘っていただいた時、その身上が不足だと考えていたら、たとえ餓死しても始めからそれに応じる筈も
ありません。
その上当家に参ってから、私には何の功労もなく、懸命な御奉公を勤めたいという気持ちばかり募りますが、
些かも御恩に報いることは出来ていません。そんな私が今更どうして、過分の御加増を受けられるでしょうか?」

池田市郎兵衛、なんと殊勝な物言いであろうか。ところが

「ただし」

市郎兵衛は続けた

「私のこれまでの武功に応じた所領を与えたい、とお考えなのなら、例えば御家では、御家老の平野源右衛門殿には
八千石を下されておりますね。しかし彼は、武功において私と同列に語れるような者ではありません。
もし源右衛門殿と同じ基準で武功を評価していただくのなら、私には一万石下されても、未だ充分だとは思いません。

殿?なまなかな気持ちで手をお付けなされては、私が成してきた功績に傷をつけてしまいます。
ですから却って今のままのほうがいいのですよ。」

そう言って断った。

家臣が主君に「仕えてやっている」とはこういう事か、と思わせる、池田市郎兵衛の自負である。
(武士道美譚)




786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 19:00:04.64 ID:UbHGOshQ
よりによって、主君が寺沢だしなぁ…

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 19:02:15.14 ID:BnOD9kal
黒田と細川でも三千石なのにw

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 19:06:27.44 ID:kqIHIRh5
前半だけならいい話なのになぁw

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 19:23:40.99 ID:nYwPNFgq
まあ悪い話・・・と言う程でも無いんじゃないかw

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 21:36:09.80 ID:8cksYRGk
この強烈な自負こそ天下に隠れ無きもののふの心意気

池田市郎兵衛の腹蔵なき心中

2012年10月07日 19:18

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/06(土) 20:02:51.19 ID:8YI+CqXD
高名な勇者であり、関ヶ原の後寺沢広高に仕えた池田市郎兵衛に、こんな話がある。

有るときの戦で大いに負け、市郎兵衛は殿として引き退いていた事があった。
その時池田がふと見ると、田の畦にかねてから知っているものが座っていて、市郎兵衛に気がつくと
声をかけてきた

「そこを通るのは池田殿か!わしは深手を負ってもう退くことも出来ない。どうか助けてくれ!」

これに市郎兵衛は「心得た」と、彼を自分の馬に乗せ、自らは徒歩となり馬の口を取って退いた。
が、そこに敵三人が追いすがってくる。市郎兵衛は踏みとどまり、槍にて一人を突き殺し、
残り二人を追い払った。するとその後追ってくるものはなく、無事、本陣まで帰り着いた。

この市郎兵衛に助けられた男は後に黒田長政に仕え、この事を長政に話した。
長政はいたく感動し、ある時寺沢広高の元に訪問した時、この話をして池田市郎兵衛を呼び出してもらい
寺沢広高に向かって

「この様に強い働きをしたものがあるとは!寺澤殿、あなたはこの事を知っていましたか?」

そう問うと広高

「いやいや、この池田は抜群の戦功であってすら、常に自ら語るということをしない者でして、
その話は全く承知していませんでした。黒田殿、よく語っていただいた!」
と、大いに喜んだ。
ところが市郎兵衛は喜ぶどころか、困惑した顔をして申し上げる

「その話に関して私は、恥じ入るより他ありません。
実はあの時、『助けてくれ』と言ってくる声を聞いて、これは難儀なことだと、先ず驚き、困り果てました。
何故なら敵はしきりに後から追いすがってきていました。それに対して私に続こうという味方は
一人もおりません。

『ここに捨て殺しにしても、どうせ知る人はいないのだ。』

私はそう考え、助けを求める声も聞こえぬ体でその場を通りすぎようとしました。
ですが、そこでふと気がついたのです

『もしも私より後に残っている士があって、この男を助けるようなことがあったら、
見捨てたことが暴露され、武士として二度と男を立てることが出来なくなる。』

そう思い返し、どうしようもなく彼を助けたのです。」

長政はこれを聞くとますます感心し、「この腹蔵なき心中こそ、百人の首を斬るよりも難しいことである。」
と賞賛した。

そうして御前を退き次の間に下がった池田市郎兵衛に、寺沢家中の者達は集まり聞いた

「どうしてあのように、ありのままを答えたのか。その時の貴殿の心中など、知る者が居るはずもないのに。」

これに市郎兵衛
「私には若い頃から一つの嗜みがある。それは仮初にも表裏の言行あるまじき、という念願である。
そうであるので私は、未だかつて口に嘘を言わず身に偽りを行わずに生きてきた。
今日、両将の御前において些かでも欺くようなことを申しては、かねてからの念願の心に恥じる事に
なってしまう。だから、ああ言ったのだ。」

池田市郎兵衛の腹蔵なき心中、という逸話である

悪い(気持ちを告白した)話、ってことで
(武士道美譚)




743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 15:15:08.83 ID:DYe0YDIK
>>727もNGMSが好みそうな話しだな

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 22:05:40.83 ID:o/ss4l/M
>>727
考え方はは↓の逸話と同じなんだな。当時の武士って、そういうもんだったのかねぇ

渡辺半蔵、三方原の撤退にて
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4991.html

名将の備え

2011年09月07日 22:26

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/07(水) 10:46:40.03 ID:KUKgR7vu
名将の備え

関が原の戦い前夜、家康が桃配山に到着するまで諸侯は思い思いに陣取っていたが、ある夜、諸陣が
にわかに騒がしくなることがあった。寝入っていた寺沢広高も、「ご注進!」の声に起こされたが、広高は
「もう聞いとるわい。」と言って再び寝てしまった。

実は広高、騎馬の士六人、徒歩の者六人を『物聞き』と称して、三交代で四六時中見張らせており、
戦場のわずかな異常も逃さず、その夜もいち早く、夜討ち等ではない事を知ったのだという。



この騒ぎの翌晩、加藤嘉明の陣で、一人の不審者を捕らえた。
「怪しい奴め!忍びが当家を探りに来たか、それとも火付けでもする気だったか?
いずれにせよ殿、斬って捨てましょう!」

「いいや。その者は主君のために死をも恐れず、わが陣に入り込んで来たのだ。許してやれ。
ところで、わが陣は備えを怠っているのか?」
「…いいえ………」
「ならば、なおさら斬る必要はあるまい。こやつが如何にしようと、わが陣を窺い知る事は出来ぬからな。
一人放したところで、勝敗は変わらぬわい。」(常山紀談)





寺澤広高の武士論・いい話?

2009年05月17日 00:13

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/16(土) 12:23:38 ID:LrzJ8vOo
>>635
こういう中馬のような人に対する、一方の見解


寺澤志摩守広高の客分に、堀江宗信と言う者がいたのだが、
この人は泉州堺の生まれで、上方の侍に知り合いが多かった。

ある時この堀江が寺澤に、大和の何某と言う侍が、関が原において
見事な討ち死にをした顛末を語った事があった。

この大和の侍、何某と言う者、自分が銭をどれほど所持しているかも、
米がどれだけあるかも知らないという男で、

「真の武士と言うべき男でござった」

と、堀江が言うと、これに寺澤

「そのような者を、真の武士と言うべきではない。
世をうかうかと過ごす、益体無しと呼ぶべきである。
そのような者は、十年も世が治まれば飢えと寒さに苦しめられ、武具ももてないほど
落ちぶれるに決まっている。

当節、人への観察眼や自分の家の経営のことも知らないような者を、よき侍だ、などと言うことが
流行っている。
そう言う人間が運よく戦に当たり、討ち死を遂げられれば幸せ者だと言っていいが、
そんなもの、めくら打ちをして、たまたま当たっただけの話だ。」

そう、批評した。

戦う事しか考えられぬ様な者が武士なのではない。いざと言う時の為にも、自分の家を
きちんと経営出来る者こそ真の武士なのだ。

そんな寺澤広高の武士論。




638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/16(土) 14:36:19 ID:YldkzTVV
>>637
苦労人の某お兄ちゃん思い出した・・・

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/16(土) 16:33:32 ID:3kr+qTeA
寺澤広高に領国経営のなんたるかを説かれてもなぁ。
住民弾圧しすぎで天草一揆を引き起こして、息子の代には改易ってことは自分も同類。

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/16(土) 17:24:15 ID:N7hk9jpK
>>639
唐津での寺沢は名君として有名だぞ。天草の場合は飛び地で実入りも低いので、
唐津ほど熱心に民政しなかったとも言われているし。
ついでに言えば、寺沢の場合は島原の乱では減封処分だったはず。
で、当主がそれを苦に自殺して嗣子がいなかったので断絶。

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/16(土) 17:52:12 ID:BYkzEHse
>天草の場合は飛び地で実入りも低いので、
>唐津ほど熱心に民政しなかったとも言われているし。

全く駄目ジャン、地元の身贔屓で名君と呼んでるだけかよw

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/16(土) 18:35:13 ID:3kr+qTeA
>>640
天草を弾圧して搾り取ったおかげで唐津は繁栄したとも言われているらしいよ。
その結果があの一揆につながったとの見方もあるみたいだし。
少なくとも鈴木重成の切腹事件の内容を見る限り、寺澤氏はまともな政策を行っていないことは明白。

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/16(土) 19:25:08 ID:vkBEPTzY
>>640
せいぜい二万石がいいとこの天草を四万二千石で徴税したのは広高じゃん

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/05/16(土) 19:32:31 ID:2PR8y5RU
まぁ一揆に参加しなかったら焼き討ちされるんだから参加せざるを得なかったんだろうな

寺沢広高、虹の松原・いい話

2009年02月09日 04:57

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/08(日) 15:14:46 ID:Fv8HOdC0
ついでに、作兵衛の友達の寺沢広高の逸話をWikiより引用


虹の松原

唐津藩の藩主となった寺沢広高は、新田開発の一環として、防風林・防砂林として植樹を行った。
藩の庇護の下、禁伐の掟(伐採は死罪)はもちろんのこと、燃料としての落葉の採取も厳しい制限が課せられていたという。
後年、藩主の改易や移封により主家が変わっても手厚く管理され、「日本三大松原」の一つとして現存している。

ちなみに、寺沢広高は「この中に自分が愛してやまない松が7本だけある。」と言ったというが、どの松とわざと指定しなかった。
これは住民に「もし自分が粗末にした松が、殿様の愛したその7本のどれかだったら。」と思わせることで、全ての松を大事にせざるを得ない
ように、心理的に圧力をかけたものといわれている。