146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/01(月) 22:35:34 ID:RLKeOabC
足利義政の奉公衆(将軍直轄軍)に、東常縁と言う人がいた。
彼は美濃国郡上郡、山田庄を領する国人であったが、関東における鎌倉公方足利成氏と
関東管領上杉房顕の戦い、享徳の乱の勃発により、幕府の命により関東管領の支援の為
関東へと派遣された。
さて、この常縁が関東の戦乱に飛び回っている中、都において、応仁の乱が勃発する。
その戦乱は美濃へも飛び火し、東軍方であった常縁の所領は、西軍の美濃守護代
斉藤妙椿の軍勢に、攻め取られてしまった。
派遣先の関東でこの報を聞いた常縁は驚き嘆いた。
「承久の乱の軍功で拝領して以来二百五十年、山田庄は一度も他人の手に渡らなかったのに、
今遠い関東において、我が領地落城を聞くとは!」
常縁はこの嘆きを歌にし、ともに関東に派遣された同僚の浜春利にそれを送った。
『あるがうちに かかる世をしも見たりけり 人の昔のなおも恋しき』
常縁の東家は、先祖の重胤が鎌倉三代将軍実朝の近臣であり、実朝とともに、歌聖、藤原定家に
歌を学んで以来、歌の上手の家として知られており、常縁もまた、多くの大名を歌の弟子に
するほどの名人であった。
この歌に春利は感心し、京にいる兄の康慶にこれを書いて送った。
するとこの歌、康慶を経て京の文化人の間でたちまち評判となり、関東で13年間も苦労しながら
所領を横領された常縁に、同情が集まった。
さて、その横領した斉藤妙椿、彼もまた文化人として有名であり、また足利義政の奉公衆として、
常縁の同僚ですらあった。
妙椿もこの歌を知り、その内容に心を痛めた。そこで康慶にこう伝えた
「同じ歌道に親しむ身として、非道な事はできない。にす常縁殿が私の為に歌を詠んでくれるのなら、
奪った領地はお返ししよう。」
これを春利を通じて聞いた常縁、早速に歌を詠んだ。しかも十首も。
『堀川や 清き流れを隔てきて すみがたき世を歎くばかりぞ』
『いかばかり 歎くとかしる心かな ふみまよふ道の末のやとりを』
『かたはかり 残さむ事もいさかかる うき身はなにと しきしまの道』
『思ひやる 心の通ふ道ならで たよりもしらぬ古郷のそら』
『たよりなき 身をあき風の音ながら さても恋しきふるさとの春』
『さらにまた たのむに知りぬうかりしは 行末とをき契りなりけり』
『木の葉ちる 秋の思ひにあら玉の はるに忘るるいろを見せなむ』
『君をしも 知るべとたのむ道なくば なを古郷や隔てはてまし』
『みよし野に なく雁がねといざさらば ひたふるに今君によりこむ』
『吾世経む しるべと今も頼むかな みののお山の松の千とせを 』
これに感動した妙椿は
『言の葉に 君か心はみづくきの 行すゑとをらば 跡はたがはじ』
(あなたの誠意は良くわかりました。今後もそのお気持ちが変わらないのなら、領地は返還しましょう)
そう、歌を返した。
そうして、領地横領の翌、文明元年、将軍の許しを得て京に戻った常縁は、妙椿と対面し、
無事、領地を返還された。
戦国の始まりの頃、歌で領地を取り戻したお話。
149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/01(月) 23:28:29 ID:r46mTe6N
ひ孫は自身で内ヶ島さんと一緒に埋まってしまうんだよなぁ
153 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/02(火) 00:37:51 ID:eO0lTGft
帰雲城の内ヶ島さんは外国人に地震の何たるかを教えるのにぴったりな素材だよな
所在不明&埋蔵金でインパクト大
154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 01:22:12 ID:ICE+oGJa
>146
本領である下総東庄の紛争を鎮めてるときのことじゃなかったかしらん
155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 01:45:56 ID:X2Lj3t70
>>146
( ;∀;) イイハナシダナー
こう言うもののふのあはれが廃れてそのうち
武者は犬とも言え、畜生とも言え勝つことが本にて候
に変遷していくのかと思うと
平家物語で号泣していた天徳寺宝衍とか既に時代遅れな人だったんだな
156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 04:31:53 ID:GkvZZPbZ
>>155
武者が負ければ女子供が泣くというのも道理だから、
朝倉宗滴が間違っているとも思えない・・・というかこの話にその喩えは合わない気がする。
歌で返して貰える場合なら朝倉宗滴だってわざわざ血を流さないだろう。
157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 10:14:55 ID:e4cDV2ky
常縁さんにとっては、武力よりも歌力のほうが威力があったわけだ。
自分の得意な力を使って勝ったんだから、見事な武士だよ。
158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 10:52:57 ID:j6RLhA0S
一方、薩摩には物騒な歌で敵を追い返した人が。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1754.html
159 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/02(火) 10:56:36 ID:p1dnaOyE
細川三歳さまの御父君も和歌の才能で関ヶ原を生き抜いたしな
それも常縁さんがいなかったらどうなってたことやら…
常縁さん…古今伝授の家柄のお人です
160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 11:27:33 ID:xtVNuhza
一方信長の御父君は連歌仲間を(ry
足利義政の奉公衆(将軍直轄軍)に、東常縁と言う人がいた。
彼は美濃国郡上郡、山田庄を領する国人であったが、関東における鎌倉公方足利成氏と
関東管領上杉房顕の戦い、享徳の乱の勃発により、幕府の命により関東管領の支援の為
関東へと派遣された。
さて、この常縁が関東の戦乱に飛び回っている中、都において、応仁の乱が勃発する。
その戦乱は美濃へも飛び火し、東軍方であった常縁の所領は、西軍の美濃守護代
斉藤妙椿の軍勢に、攻め取られてしまった。
派遣先の関東でこの報を聞いた常縁は驚き嘆いた。
「承久の乱の軍功で拝領して以来二百五十年、山田庄は一度も他人の手に渡らなかったのに、
今遠い関東において、我が領地落城を聞くとは!」
常縁はこの嘆きを歌にし、ともに関東に派遣された同僚の浜春利にそれを送った。
『あるがうちに かかる世をしも見たりけり 人の昔のなおも恋しき』
常縁の東家は、先祖の重胤が鎌倉三代将軍実朝の近臣であり、実朝とともに、歌聖、藤原定家に
歌を学んで以来、歌の上手の家として知られており、常縁もまた、多くの大名を歌の弟子に
するほどの名人であった。
この歌に春利は感心し、京にいる兄の康慶にこれを書いて送った。
するとこの歌、康慶を経て京の文化人の間でたちまち評判となり、関東で13年間も苦労しながら
所領を横領された常縁に、同情が集まった。
さて、その横領した斉藤妙椿、彼もまた文化人として有名であり、また足利義政の奉公衆として、
常縁の同僚ですらあった。
妙椿もこの歌を知り、その内容に心を痛めた。そこで康慶にこう伝えた
「同じ歌道に親しむ身として、非道な事はできない。にす常縁殿が私の為に歌を詠んでくれるのなら、
奪った領地はお返ししよう。」
これを春利を通じて聞いた常縁、早速に歌を詠んだ。しかも十首も。
『堀川や 清き流れを隔てきて すみがたき世を歎くばかりぞ』
『いかばかり 歎くとかしる心かな ふみまよふ道の末のやとりを』
『かたはかり 残さむ事もいさかかる うき身はなにと しきしまの道』
『思ひやる 心の通ふ道ならで たよりもしらぬ古郷のそら』
『たよりなき 身をあき風の音ながら さても恋しきふるさとの春』
『さらにまた たのむに知りぬうかりしは 行末とをき契りなりけり』
『木の葉ちる 秋の思ひにあら玉の はるに忘るるいろを見せなむ』
『君をしも 知るべとたのむ道なくば なを古郷や隔てはてまし』
『みよし野に なく雁がねといざさらば ひたふるに今君によりこむ』
『吾世経む しるべと今も頼むかな みののお山の松の千とせを 』
これに感動した妙椿は
『言の葉に 君か心はみづくきの 行すゑとをらば 跡はたがはじ』
(あなたの誠意は良くわかりました。今後もそのお気持ちが変わらないのなら、領地は返還しましょう)
そう、歌を返した。
そうして、領地横領の翌、文明元年、将軍の許しを得て京に戻った常縁は、妙椿と対面し、
無事、領地を返還された。
戦国の始まりの頃、歌で領地を取り戻したお話。
149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/01(月) 23:28:29 ID:r46mTe6N
ひ孫は自身で内ヶ島さんと一緒に埋まってしまうんだよなぁ
153 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/02(火) 00:37:51 ID:eO0lTGft
帰雲城の内ヶ島さんは外国人に地震の何たるかを教えるのにぴったりな素材だよな
所在不明&埋蔵金でインパクト大
154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 01:22:12 ID:ICE+oGJa
>146
本領である下総東庄の紛争を鎮めてるときのことじゃなかったかしらん
155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 01:45:56 ID:X2Lj3t70
>>146
( ;∀;) イイハナシダナー
こう言うもののふのあはれが廃れてそのうち
武者は犬とも言え、畜生とも言え勝つことが本にて候
に変遷していくのかと思うと
平家物語で号泣していた天徳寺宝衍とか既に時代遅れな人だったんだな
156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 04:31:53 ID:GkvZZPbZ
>>155
武者が負ければ女子供が泣くというのも道理だから、
朝倉宗滴が間違っているとも思えない・・・というかこの話にその喩えは合わない気がする。
歌で返して貰える場合なら朝倉宗滴だってわざわざ血を流さないだろう。
157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 10:14:55 ID:e4cDV2ky
常縁さんにとっては、武力よりも歌力のほうが威力があったわけだ。
自分の得意な力を使って勝ったんだから、見事な武士だよ。
158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 10:52:57 ID:j6RLhA0S
一方、薩摩には物騒な歌で敵を追い返した人が。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1754.html
159 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/02(火) 10:56:36 ID:p1dnaOyE
細川三歳さまの御父君も和歌の才能で関ヶ原を生き抜いたしな
それも常縁さんがいなかったらどうなってたことやら…
常縁さん…古今伝授の家柄のお人です
160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/02(火) 11:27:33 ID:xtVNuhza
一方信長の御父君は連歌仲間を(ry
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