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例えばネコと申す獣は

2023年07月23日 16:58

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/07/23(日) 13:38:35.95 ID:ccTnDEmC
例えばネコと申す獣は、取り立ての主をも知らず、キレイな囲炉裏の中にも糞をし、或いは
飼鳥を狙うような、悪儀のケダモノであるのだが、ネズミを捕る時は一段といさぎよい。

また、ネズミという物は、大事な物の本をも切り破り、障子の絵も遠慮なく食い破る。
このような時はどうにかして退治したいと思うのだが、俄に退治することも出来ない。

しかしかのネコをけしかけて悉く取り尽くした時は、ネコについてのその他の悪しき事を忘却し、
ただネコは重宝とばかり思うものである。

甲陽軍鑑



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数寄者と茶湯者は

2023年05月03日 19:36

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/03(水) 18:56:35.17 ID:bGCWxSuH
高坂弾正が申されたことに

「四国牢人の村上源之丞と申す者が、堺の(武野)紹鴎の雑談を聞いたとして、それを私に語った。
それによると、数寄者と茶湯者は別なのだという。

茶湯者とは、手前よく茶を点てて、料理よくして、いかにも塩梅よく茶湯を座敷にて振る舞う人の事を申す。

一方、数寄者というのは、振る舞いに一汁一菜なりとも仕り、茶は雲脚(品質の悪い茶)であっても、
心の綺麗な者を数寄者と名付けて呼ぶ。
元来数寄は禅僧から出た考え方であり、よってそのようになっているのだ。

仏教諸宗では「仏語」という所を、禅宗は「仏心」といって意地を重視しており、誠多き心象で執り行う
人の点てる茶こそが数寄者の振る舞いなのだと、村上源之丞は語った。
すなわち、数寄者と茶湯者は各々別物なのだと考えるべきなのだろう。」

そう、高坂弾正は語った。

甲陽軍鑑



842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/03(水) 19:16:27.48 ID:VO4Kw0mB
馬のションベンが茶の代わりと豪語していた武田侍はとんだ数奇(スキ)者よ

人を馳走する時、悪しき事が三ツある

2023年04月29日 19:13

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/29(土) 18:55:55.05 ID:LCBDHzIG

高坂(虎綱)がある時、このように言った

「人が人を馳走する時、悪しき事が三ツある。

一つは、医者に相談することなく薬を与えること。
二つに、過馬(荒くて乗ることのできない馬)に人を乗せること。
三つに、フグを振る舞うこと。

この三ヶ条にて(馳走をした)傍輩に怪我が有った場合、腹を斬らねば見苦しい。
しかし死ぬというのも嫌なことで有るのだから、こういった事については常々遠慮をしておくのが尤もである。

甲陽軍鑑



839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/29(土) 19:10:52.21 ID:Z5d0rWeP
>>838
全て当てはまる神の君

高坂弾正の分別立ては、

2023年01月11日 19:17

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/10(火) 23:45:44.82 ID:L1ZwVHoT
永禄十二年八月下旬に、武田信玄公は甲府を御立ちなされ関東へ御発向あり、北条氏康・氏政父子の
領分を大方焼き払い、小田原へ押し詰め、侍宿地下町も少しも残らず放火するよう仰せ付けになり、
その上、同年十月八日に相州三増峠において、信玄公は勝利を得られた。

都合四十四日の御働きで北条家を鎮め、信玄公は駿河を治められた。それを妨げていた氏康が
これに手を出せなくする防戦を遂げられ、甲府に御帰陣となった。

この時信玄公は、高坂弾正を召されて仰せになった
「小田原表における、この信玄の勝利をどのように見たか」

高坂は申した
「御勝ちなされて、御怪我でありました。その仔細は、例えて言いますが、仮に数万の人数が
甲州に侵入した場合、当方の御運がよくよく尽きて五十、六十の人数に成ってしまえば
是非にも及びませんが、五百、千ほどの人数もあれば、御館である躑躅ヶ崎まで来る敵を、
間違いなく撤退させることが出来るでしょう。

この例えを用いて分別すると、今回小田原城には松田尾張を始め、その他人数八千あまり在りながら、
二万を少し越えたほどの武田勢に蓮池まで押し込まれ、さらに何事もなく引き取らせ、その上
三増峠においてあのように戦勝を得られました。
弱敵に勝たれて、大いなる御不覚かと存じ奉ります。

近年、若き者である三河岡崎の家康は今川氏真公を掛川に押し詰め、氏真公の衆、歴々の覚えの者を
競り合いのたびに討ち取り、終に氏真を関東へ押し払いました。若者であるとは言え、かの家康に
北条氏康御父子の人数のうち三分の一も預けたならば、よほど敵として御手に立ったでしょう。
また信州侍衆に対して我々は、相手が百騎、二百騎の人数であってさえ、五、六年づつ御手間を
とらされました。」

これを聞いて信玄公は
「高坂弾正は小田原陣の前に申ごとく、今に諍を怖く申し候」
(高坂弾正は小田原への出陣の前にもそう言ったが、今もこのように恐ろしい諫言をする)
と、御笑いなされたという。
若き衆は「高坂弾正の分別立ては、今に始まったことではない。」と沙汰した。

甲陽軍鑑



私は高坂弾正と申して

2022年09月17日 19:10

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/16(金) 20:13:10.82 ID:Fv/jrH4D
私は高坂弾正と申して、武田信玄公被官の内で、一の臆病者である。
仔細は下々において童子供の戯言に『保科弾正鑓弾正、高坂弾正にげ弾正』と申しならわしているほどである。

私の元来を申せば、父は春日大隅といって甲州伊澤の大百姓であった。私が幼少の時、父大隅と死に別れ、
姉婿と田地の公事(裁判)があったが、私は負けた。
その時、公事の場より「召し使わるべし」との上意が有り、信玄公御年二十二歳、私は十六歳にて、御奉公に
罷り出、御小人として働いたことが良き仕合であったために、廿人衆に成るようにと、もっとの外に
出頭し、三十日の間に近習となされ、殊更に奥へ召し寄され、御膝下にて御奉公仕った。
何たる機縁を結び奉った事だろうか。

私は信玄公の御意などに相違し、仮にひと月も引き籠るような事は無かった。
連々御奉公いたし、春日弾正と号せられ、雨飾の城に差し置かれ、只今は海津の高坂の跡目となり、
高坂弾正と呼ばれている。

誠に私は御奉公に罷り出てから、二十四、五までは諸傍輩の沙汰に「あのようなほれ者(愚か者)を
お取立てになるのは、偏に信玄公の御目違いである。」と、上下の沙汰を承った。
これが我が等身の薬となった。御前を違え、信玄公の御目違いだと言われないようにと、一層
御奉公に精を出したのだ。

甲陽軍鑑

高坂弾正の前半生の述懐



深く慎め慎め。件の如し。

2019年06月01日 17:13

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 18:36:38.03 ID:lX7j0Ovy
『偽のなき世なりせば世の間に たが誠をもうれしからまし(『いつわりのなき世なりせばいかばかり
人の言の葉うれしからまし』の派生)』という歌を人に習って、高坂弾正がここに記し申すのは、

この書き置きがもし落ちて人々が見給うとしても、盛んな家において奉公衆の大小上下ともに心入った
武士が御覧になれば大いに笑いなさるであろう。しかし、これはまたそのような良き人へは深く、この
ようにして衰える家の無穿鑿な奉公衆へは心付け参らせるためで、いかにも愚痴な書物である。以上。

高坂弾正が申す。まことに私めは文盲第一でまったく一文字を引くこともできないが、傍輩の中で深く
分別に達した大剛の名人に親しく雑談を常に聞き、百に一ばかりは覚えていて少しは心付いてもいる故
か、また余の傍輩衆で良き程の人々が申されたことまで聞き書き仕り、只今紙面に表したのは、

今年長篠で勝頼公が後れを取りなされた故に、良き武士百人は98人が討死した。その人々は皆生まれ
変わるので、そのために書き置き参らせる(よき武士百人は九十八人うち死して、みな生れかはりにて
候間、其為にかき置まいらする)。

長坂長閑・跡部大炊助殿は必ず人に見せなさるな。もしまたは見せなさるとも、当御家に二代も奉公致
す子供数多の人には見せなさるとしても、牢人衆に見せなさっては中々高坂にとって現世来世までもの
恥であり、かつまた御家の傷になる。深く慎め慎め。件の如し。

――『甲陽軍鑑(品第四十上 石水寺物語)』



91 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/01(土) 08:34:42.68 ID:tqmeloYc
>>89
さすがは元百姓、譜代の重鎮に向かって何たる言い草
まさに分別違い、その上老害ときたか

さすが信玄の遺烈かな

2018年11月02日 20:26

441 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 14:41:24.53 ID:9OUQeKKj
(長篠の戦い敗戦後)

ここに越後の押さえとして信玄時代より信濃海津城を守っている高坂弾正昌信(原注:一説に虎綱)は
さる老剛の宿将なり。3年以前に信玄が死去した時から勝頼は血気の勇にはやり必ずこのような大敗を

引き出すだろうと推察し、青貝の持槍に小熊の垂れの槍印20本、亀甲の槍2本、槍持の陣羽織までも
緞子で作って用意していた。高坂は長篠大敗の風説を聞くと等しく城には雨宮・小諸・寺尾・小田切・

屋代らを残し置いて自身は手勢8千余騎を従えて、かねてより用意していた長柄の槍などを引き具して
駒場(原注:一説に小満場)まで出迎えて勝頼を警衛し、見苦しくないように旗本備を取り繕った。
そうして勝頼を甲斐へ帰陣させた高坂の老功は「さすが信玄の遺烈かな」と感心しない者はいなかった。

今回、武田家で鬼神の如く呼ばれた老功武勇の将卒は馬場・山県・内藤・土屋・原・真田を始めとして
数を尽くして討死したため、これより武田家の武威は大いに劣ってしまった。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・甲陽軍鑑・武徳編年集成)』




442 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 17:16:34.46 ID:UO7P84D4
このあと古者がいなくなったから若者を起用して見事な再編成をやってのけるんだっけ

443 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 18:11:39.40 ID:/0+6zNZ4
若いイメージがあったけど、真田の兄弟も30代か

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:02:18.33 ID:Fv7735ki
>>443
嫡男いたのに、なぜか養子に出ていた武藤喜兵衛が出戻って家督を継ぐことに

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:08:01.35 ID:9eOVVS3q
流石にまだ家督継いでバリバリ活動するには早いし…
平時ならともかく情勢が厳しい武田家では真田家が活動力低下するのは困るし
もともと昌幸の器量が傑出してたから腐らせないように別家を立てた訳で
真田家を継ぐならそれはそれで武田家としては問題無いし

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:16:33.91 ID:x5p+lKo9
>>442
徳川に合流した旧武田家臣は強かったの?

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 19:24:26.53 ID:TNsgMF27
>>444
娘以外全員幼少だったんだよ、きっと…

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 22:44:08.25 ID:lOaOtw/w
>>446
信玄の眼といわれた曽根内匠がいる

450 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/02(金) 23:46:38.44 ID:HhKi4wnv
>>446
依田、城、庵原、曲淵あたりかな活躍したのは

451 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 05:35:24.91 ID:IcnH0ZmW
依田さんもちっと長生きしてればな

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/03(土) 10:10:51.44 ID:VYjY1n+E
>>444
御屋形様の命ですが?

とかく高坂のことを讒言し妨げたので

2018年08月27日 18:34

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 18:32:10.13 ID:23LKJVS7
天正も5年(1577)丁丑にうつり、織田信長卿は去年の11月に大納言より内大臣に登られ、
威勢はますます盛んとなった。このため甲斐武田方では、いよいよ北条を頼まんと、

一昨年の結縁の後、常々小田原に使者を送り氏政を尊敬することは大方ならず、とにかく妹君と
一日も早く婚儀を行うことを急いだ。氏政も縁組のことを約束しながら織田家を憚ったのか、

今年まで延滞していたのだが武田方よりしきりに催促もしがたく、今年正月下旬に至って小田原
より輿入れとなった。早野内匠助・清水又八郎・剣持与左衛門が輿添として参った。

勝頼は婚儀を滞りなく行い、両家合体の盟約は定まったため甲斐でも相模でも喜ぶこと限りなし。

その中でも高坂弾正(昌信)は「長篠より3年この方、今夜初めて心安く寝入ったのは小田原より
御輿入りとなったゆえぞ」と喜んだ。弾正は「とにかく武田家の長久を思えば、このうえは謙信

とも和睦して御入魂あらば、いよいよ頼もしく安心でありましょう」と諫めたのだが、勝頼は血気
の猛将で人に遜順することを好まず、長坂・跡部両奸臣は弾正の諫めが行われれば我々の身の上が

危ういと思い、とかく高坂のことを讒言し妨げたので高坂の忠言も空しく用いられなかった。国中
の士民は一同に長坂・跡部を憎まぬ者はいなかった。

――『改正三河後風土記(甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 19:32:21.87 ID:Z2N5Ltql
軍鑑は嘘っぱちだからなあ

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 01:35:48.43 ID:J6YW16a4
大上段に嘘っぱちと切り捨てるのももはや古い見方だけどな
とはいえ勝頼跡部長坂辺りの事績は大概信用度低い記述だけど

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 18:26:37.59 ID:FERgEUgq
甲陽軍鑑の史料としての評価について詳しく出ているので読んでおくといい

創られた“軍師”山本勘助 丸島 和洋
第2回 見直された『甲陽軍鑑』
http://kaze.shinshomap.info/series/kansuke/02.html


60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 19:15:57.07 ID:R3lRzHIU
>>59
>『甲陽軍鑑』同士の比較検討が重要となるのだが、信頼できないという色眼鏡が存在したために、
>このような地道で手間のかかる作業には手がつけられていなかった。
ほー、まだまだ研究の余地がありそうだな、国がやってくれれば…ってそんな金はないか。

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 07:01:04.62 ID:GowozpsS
じゃあお前が独りでやっとけよ

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 08:09:16.13 ID:8OTbo6hr
なにをすねてるんだ?

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 10:12:49.07 ID:67sGtWik
>>62
色眼鏡おつ

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 13:59:54.23 ID:JVmjndk4
袋叩きから再評価は歴史学のお約束
目立ちたい学者や作家が無責任に変なこと言い出すのが困る

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:10:45.17 ID:xpYgg4E/
なので武功夜話が一級資料に返り咲く日も近いわけだ

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:17:44.99 ID:AIzY42hF
>>65
ありゃ明らかな創作やん…。

まあ、世の中には東日流外三郡誌を真書と認めないと迫害した史学会の重鎮とか
いたりしたから、あからさまな偽書・創作でも評価する輩は出るけどさ。

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 20:28:08.07 ID:fWfpQ1LT
甲陽軍鑑は創作だこれって10年前にいい悪いスレで見たぞ

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 20:53:07.73 ID:ItPA1KAf
>>67
その10年間で研究が進んだ

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 21:26:13.55 ID:vtjT338y
評価してもいい部分もあるんじゃってのが近年の流れだっけ?

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 23:45:46.02 ID:3ekIDmZ7
信頼できる史料だからとすべて信用するのが間違い
逆もまた然り

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 00:35:09.34 ID:uGdurO6l
江源武鑑「せやせや」

五ヶ条の意見

2015年06月16日 16:05

930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 11:08:50.33 ID:cMKL/ioB
天正3年(1575)、長篠の戦いに敗北した武田勝頼に対し、重臣である高坂弾正は五ヶ条の
意見を申し上げた。

一、駿河、遠江は北条氏に割譲し、北条氏政の幕下となって、勝頼公は甲州、信州、上野三ヵ国にて、
  氏政の先鋒を勤める、という姿勢を見せることが尤もと考えます。

一、その上で、北条氏康の御娘子がおられると承っております。これを武田家に迎え、
  勝頼公は北条氏政の妹婿となられるべきです。

一、木曽氏を上野小幡に、小幡上野を信州木曽にそれぞれ転封なさるべきです。

一、現在、足軽大将が見な人数持ちとなっています。長篠で討ち死にした馬場、内藤、山縣の三人の子供らを
  初めとして、みな同心を取り上げ奥近習になだれ、小身にて召し使われるべきです。もし明日にも私が
  果てましたら、息子の源五郎も小身になされ、私が現在従えている同心を、誰なりともお預けなされようと、
  尤もなことだと考えます。

一、典厩(武田信豊)、穴山殿(信君)には腹を切らせるべきです。穴山殿の処分を典厩に仰せ付けられ、
  その後典厩の処分を私に仰せ付けられるのが良いでしょう。


このように申し上げたが、勝頼はこれらに首肯せず、五ヶ条のうち、北条氏政の妹婿に成ることだけには
同意した。また長篠で戦死した諸将の家に介入したのは、真田源太左衛門の跡に弟喜兵衛(昌幸)を据えた
ばかりであった。

(甲陽軍鑑)



932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 11:34:07.90 ID:axgfOGho
転封ったって小幡のが大身で木曽じゃ足りないよな

こういう素人レベルの『俺様が考えた理想の武田家』なところが嫌いだわ甲陽軍鑑

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 11:37:04.05 ID:Q3zfaRYo
木曽と小幡を入れ替えてたら歴史変わってたかな。

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 14:49:46.69 ID:IGpsxmOD
木曾が先祖伝来の土地を離れるとは思えませんがね
だいたい織田に走る要因になってしまう

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 19:29:31.33 ID:PDfzcvuj
>>934
武田裏切りと討伐軍返り討ちで木曽を含めた筑摩郡と安曇郡を恩賞に貰い
嬉々として松本に本拠移したよね

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 20:02:04.23 ID:Rd8qqwng
>>936
そして、3ヶ月で木曽に逃げ戻った…

高坂の臆病分別

2015年06月15日 18:28

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 18:25:24.09 ID:TFr5nDKH
天正2年。武田勝頼は徳川方の高天神城を降伏させ、遠江の城東郡を手に入れた。
これについて甲府御館で御祝いがあり、召しだされた侍大将衆に盃が下された。
高坂弾正(春日虎綱)は盃を下された後、立ちながら長坂長閑に向かって言った

「武田の御家滅亡と定められた御盃はこれである。」

「弾正の言っていることは話にならない」
長坂は言い返した。

その後、内藤修理と高坂弾正の共に、3年の内に当家滅亡と発言した。人々がその理由を尋ねると、
内藤も高坂も同じように語った
「東美濃において数カ所の城を落とし、その上高天神城を落城させ、城東郡を手に入れられた。
しかしこの成功のため勝頼公は、家老衆の意見を御取り上げすることがなくなり、長坂長閑、跡部大炊介の
言うがままになってしまった。
やがて信長家康の両軍を相手にして、勝頼公は無理な御一戦を遂げられることに成るだろう。
その時は面々方々、みな討ち死にすてその後武田家滅亡疑いない。
この原因は、東美濃、遠州城東郡の両所における御手柄、しかも1年の内にこのように成った故である。」

人々はこれを聞くと、「高坂、内藤は臆病分別である」と笑った。さらにこの話は、長坂、跡部より
勝頼に伝えられ、勝頼も内々に、高坂、内藤を悪しく思うように成った。しかしそうは言っても
信玄以来の侍大将であったため、高坂は勝頼の近くに参り、周りの人を下がらせて意見を述べた

「東美濃を、信長の子息でこの甲府におられる御坊に下され、彼を誰か近き御親類衆の聟になされ、
信長と和平を結び、また城東郡を、家康の弟源三郎が信玄公の時代に人質に召し置かれていましたが、
彼は甲州より脱走しました。しかし和平の扱いをする上は万事を差置き、信玄公の御息女である
おきく御料人、信玄公はこれを伊勢の長島に嫁がせると決めて居られましたが、この御料人を
家康の舎弟へ嫁がせましょう。

こうして信長、家康と和睦した上で、北条に対し攻めこむべきです。そうなれば家康は領地を返還されたことを
信長からの恩以上に忝く思い、加勢を申し出るでしょうし、更に信長も、都の敵に対処するのに
当家との御無事を喜び、加勢を差し寄越すこと疑いありません。
こうして当方の所領する国に、小田原北条氏の持ち分を加え一つに御支配なされれば、以後勝頼公の
思し召しに叶わぬことなどなくなると、私は分別しております。」

後で勝頼はこの高坂の申し出について、長坂長閑に相談した。長坂はこれを聞くと
「勿体なき弾正の分別違いです。都へのお望みをなくして向かってくる敵と和睦し、今まで味方である
北条殿を敵にするというのは全く心得ることの出来ない義であります。
取った国郡を人のほうに渡すというのは、下劣な喩え話に『猫に鰹節を預ける』などといいますが、
おおかた弾正の分別もそのたぐいの事です。」

勝頼は長坂の判断を尊重していたので、これにより弾正の意見を取り上げることはなかった。

(甲陽軍鑑)



919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 19:22:12.63 ID:ZwfcSEVp
普通なら打ち首だろ
主家の滅亡を予知するなんてな

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 19:31:32.84 ID:zYQMxmTq
戦がなくなった江戸時代は切腹をも厭わない諫言が最大の忠義みたいになってましてこんな話ばかりです
あ、別に黒田家譜を名指ししてるわけでは有りません

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 19:32:59.65 ID:6paD1heP
典型的な事後予言かと思われます

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 19:33:32.07 ID:n+THu5Ck
これだけ言われても何もできない勝頼さんかわいそう

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 20:06:23.37 ID:ciLV2POB
もし仮にこの記述が本当のことだとしてだ、
高坂弾正にせよ内藤修理にせよ現在進行形で戦争してる相手に領土を割譲、和睦の上、
その和睦相手の為に先鋒務めろとか内通疑われて殺されても文句言えないよなw

ていうか、「勿体ない」って、
「とんでもない」とか「途方もない」とかそういう意味でも使ったんだ。

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 22:16:29.77 ID:55JkhUFl
つーか天目山で最期まで付き従った長坂長閑、跡部大炊介が何故ここまでこきおろされなきゃならんのだ!?

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/15(月) 22:55:53.42 ID:5I8D26Wu
大久保彦左衛門「だってあいつ嫌いだしー」

926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 03:15:50.77 ID:md4jrR7f
>>923
もともとが仏教の『勿体(物体)』が無いってこと否定的な言葉。
そこからさらに勿体は尊いものって考えから惜しいとかおそれ多いって意味でも使われるようになった。

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 08:12:33.18 ID:8ssKM7dD
扱いにくい老臣っているよね
長篠で一掃した勝頼は策士といっていい

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 08:24:11.99 ID:5lmlGBWs
つまり策士、策に溺れる、か

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 10:43:35.80 ID:YGT/T4l7
川中島あたりのせいもあるが、武田って重臣が討ち死にしすぎなイメージがある

実際にちゃんと調べてはないから偏見だけども
なにか軍制に欠陥があったんでは?とも思っちゃうな

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/16(火) 11:18:10.62 ID:5lmlGBWs
>>918
なんか松姫を信忠に送り届ければすべて上手くいくような気がしてきた


人を卑しまず

2015年01月28日 18:55

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/28(水) 00:07:45.64 ID:MjY3Egu+
 今から二十年前に、都の妙心寺に大休(宗休)という名僧がいた。
この和尚の前で、人が人を誉めれば、和尚はその人は死んでいるかと聞きなさる。
今は存命であると申すと、大休は、
「誉めてはならぬ。(今後)どのような失敗をするかわかぬであろう。」
と仰る。
 またある人が人を悪く言えば、大休はその人は死んでいるかと仰せられる。
今は生きていると申すと、大休は、
「謗ってはならない。これからどのような手柄を立てるかわからぬではないか。」
と仰る。
「人の善悪は死後にならないと言うべきではない。」
と大休和尚はいつも言っていたと、策彦(周良)和尚は信玄公に語ったことがある。
 武士はなおのことその心がある。
失敗したものは、此の次こそ是非に。と思うから、卑しめてはならない。
失敗していないものは、上手く行っているので、今後も失敗の無いように心がけるので、なおのこと卑しめてはならない。
そのように思って人を卑しまず、極めて自分の心に当てはめるので、猛き武士は人を腹立たせるようなことをせず、
どのような小者・中間にも、それぞれに慇懃な態度なのである。
(甲陽軍鑑)




刀・脇差しと扇・鼻紙

2014年12月31日 17:45

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 22:11:32.08 ID:/ob9LCCD
ある時、曽根内匠高坂弾正に問うた
「良き大将なのに無行儀である事があります。逆に悪しき大将なのに行儀が良いこともあります。
これはどういう事でしょうか?願わくば高坂殿のご意見をお聞かせいただきたい。」

高坂これに
「それは、例えば侍が急の用で家を出る時、刀・脇差しを挿したものの、扇・鼻紙を忘れる
事がある。しかしこの時、刀・脇差しは忘れていない。それと同じように、良き大将は無行儀であっても
主人として名を得ること、あるいは徳ある儀に関して少しも問題はないのである。

例えば、織田信長は行儀の荒い人物ではあるが、人の目利き上手であり、池田・柴田・滝川・木下・丹羽・
河尻・佐久間などと言う者共、武辺がなければ分別が優れ、いずれも小身である者達から目利きをし、
取り立てて一廉の侍と、近国、他国まで名を響かせた。
すなわち信長は、扇・鼻紙を忘れても刀・脇差しを忘れぬ心を持っているのである。

さてまた、中国の大内殿は文ありて行儀は良いが、人の目利きが下手であり取り立てられるほどの侍でも、
10人中9人まで役に立たない。しかしそんな者達に沢山の知行を与え、人に対する詮索も不行儀であり、
仕置も悪しくあったために、重臣の陶という家老に国をかすめ取られた。この事で、大内殿は行儀がいいが
悪しき大将と人に言われる。すなわち扇・鼻紙を正しく忘れないが、刀・脇差しを忘れる心の
持ち主であるということなのだ。」

(甲陽軍鑑)

それにしても甲陽軍鑑は、大内をdisる時、何故かくも情熱的なのか。





127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 22:18:08.31 ID:bR3TdRI4
そりゃ大内ほどのわかりやすい反面教師はそうそういないからな

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/31(水) 10:03:50.41 ID:xypsizFZ
義隆って元々そういう性質なのかな
それとも息子を失ったことで変わってしまっただけなのかな
元親も信親を失ってからだいぶ変わってしまったみたいだよね

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/31(水) 11:09:42.11 ID:xypsizFZ
文弱の素質はあったけど、晴持死なせるまでは上手く文武のバランスとって他国圧倒してたよね>義隆
人生どこに落とし穴があるかわからん

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/31(水) 21:48:16.67 ID:kYm45lMl
大内は急進的な拡張主義者
だからつかえる人材も使えない人材をバカスカ入れて勢力を拡張する
10人取り立てて半分無能でも半分ものになったらそれでいいや、というタイプ
こういうタイプは攻勢にはいいが、守勢に陥ると弱い
なんでかってリストラが下手だからだ
一方信長や秀吉は、味方だろうが何だろうが苛烈に首を切ることを恐れなかった
まあそれで恨みも買ったわけだが

南蛮流

2014年12月24日 18:54

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/24(水) 12:46:43.77 ID:HxV7pn93
中国牢人の井上新左衛門と申す侍が、雑談にこのようなことを言った

「唐ではどうして、賤しい者であっても心が至っていれば良き人だと褒めるのでしょうか?
南蛮においては、値の高価な小袖を着て、綺羅をよく飾る人の事を良き人と申すそうです。」

これを聞いた高坂弾正は、こう感層を述べた
「なるほど、末になった家の家人への評価は、南蛮流になるという事なのだな。」

(甲陽軍鑑)

南蛮人というものに、とにかく派手に着飾る人達、という印象があったらしい



81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/24(水) 18:28:25.74 ID:SZ1LYYAu
実際西洋の騎士道はそんな傾向があったらしい<派手に着飾る
地味な格好の騎士は「もっと派手な格好するべき!」と
主君から手紙で諭されたっていう話読んだことある

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/24(水) 22:44:27.74 ID:qceWfv8x
ラスボスにケンカ売ってんの?

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/24(水) 23:45:15.58 ID:esU+ghwv
この頃の日本の兜もたいがいのような気も…

それはともかく、中国への評価も含め、雑談ながらも微妙な後味、
ちょっと悪い話の真骨頂と感服つかまつりました。
中国牢人というのがよくわかりませんが、この井上なる者、
見聞が広いですなあ

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 00:08:22.99 ID:bOSKA9Mw
中国=日本の中国地方でしょう。間違いなく。

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 02:37:38.48 ID:PzZGYbI7
井上っていえば毛利だよな

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 03:00:09.15 ID:g1yonbhp
大陸浪人か何かだと思ったのか……

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 03:34:46.68 ID:p6+nfb/S
それは伊達さん家

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 08:27:40.47 ID:qxXtWW9z
小学だか中学だかで障害事件を起こしたんだっけ?

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/25(木) 12:35:16.33 ID:sB4PfAt3
姜ハンも
「虚仮威しの日本の鎧兜にビビんじゃねー」
と書いてたなそういや

当代日本の四大将、十三大将

2014年10月21日 18:51

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/20(月) 20:08:14.63 ID:kfPo7VuV
>>529
ここにあった四大将、十三大将の詳しい内容があったので。


当代日本の四大将は、御歳が上の方から先に記す

一、伊豆国平氏大聖院北条氏康公は、56歳にて元亀元年10月3日に他界。病死であった。
一、甲州源氏法性院大僧正武田信玄公は、53歳にて天正元年4月12日に他界。病死であった。
一、越国管領入道上杉謙信輝虎公は、49歳にて天正6年3月13日に他界。病死であった。
一、尾州平氏織田右大臣信長公ばかり存生している。

右に続く大将衆大小、老若共に名高き武士は

一、丹波・赤井悪右衛門(赤井直正)
一、四国土佐・長宗我部(元親)
一、同伊予・来島(村上通康)
一、安芸毛利家・吉川(元春)
一、越前・朝倉叔父金吾(朝倉宗滴)
一、安芸・小早川(隆景)
一、江州北ノ郡・浅井備前(長政)
一、三好家・松永弾正(久秀)
一、徳川家康
一、安房里見家・柾木大膳
一、上杉家・大田三楽
一、会津・(蘆名)盛氏
一、上総・万喜少弼(土岐為頼)

合わせて13人。この他、さきの四大将の下に形の如き武士はあれども、主を持っている以上大将とは言わない。
ただし十三大将の中にも主持はあるが、それはその主君が軽い存在で、家臣我儘となりて斯くの如しなり。

(甲陽軍鑑)




576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 03:50:22.56 ID:5Z8fl2kS
赤鬼はまあなんとなく判るが来島はその筋に有名だったんか?

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 06:47:01.10 ID:hcgNTIxT
TERU 「『主君が軽い存在』…」

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 08:41:19.28 ID:g4cr/wW1
また柾木大膳か! たしか朝倉宗滴もなぜかその名前を挙げてて唐突すぎる…って空気読めない柾木大膳か!

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 09:17:18.30 ID:tFKhZDfj
>>575
徳川家康だけなぜ徳川家康?

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 12:19:52.60 ID:A8BRs30w
両川は納得としても、千葉県武将が二人もランクインしてるのは興味深いところだね
来島通康は味方に付けたら海戦必ず勝つる、ってくらい地味に西国じゃ重要な制海番長だけど、
東国まで名が知られてたとはちょっと意外

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 14:27:34.75 ID:5Z8fl2kS
鑓大膳よりも息子のほうが本当はやり手だったようにも思えるが

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 14:36:56.98 ID:AreZlHCo
憲時のことか?

村上通康は河野通直の婿で一族に列したし経歴的には妥当でしょ

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 15:13:20.85 ID:RmqB/YLm
村上ではやはり因島が一番知名度がないか

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 15:22:23.01 ID:K7knQcDA
一次史料で最も古くから活動が確認されてるのは実は因島村上なんだよね
だがまあ如何せん来島の通康や能島の武吉らのネームバリューには伍し難い

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 01:33:31.68 ID:vWKROlyd
九州勢がいないのは遠いから?


586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 01:50:58.43 ID:ArfTlqLq
>>585
>>575に続く文章が

『右四大将よりも大身の衆は、日本国において中国には毛利殿、筑紫に大友殿、関東に上杉殿とあったが、
もはや生まれ変わって前代ほどの勢力はなく、よって現在は先の四人が大領の持ち主である。
そしてこの四大将に次の十三大将を合わせた十七人の大将衆を、この頃の扶桑国の名将として
その名を呼ぶ。』

とあるので、九州は大友氏が衰退したという認識はあったみたい。


587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 06:46:11.98 ID:N9GXbLcM
脳筋は眼中にないと

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 07:13:37.01 ID:Y3gINTJz
>>575
>> ただし十三大将の中にも主持はあるが、それはその主君が軽い存在で、家臣我儘となりて斯くの如しなり。

TERU・・・。

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 08:44:49.56 ID:PoKFTnPg
朝倉義景「…」
上杉憲政「…」

里見義堯「!?」

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 12:16:39.85 ID:r7lBZQqQ
宗運さんの名声が天下に響くのはいつになりますか

高坂弾正の立身

2014年01月16日 19:12

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/16(木) 07:41:36.23 ID:RJKrsCC3
拙者、高坂弾正と申すは、武田信玄公の臣下の中で一番の臆病者である。

下々の者から子供たちまでからかって、
『保科弾正鑓弾正、高坂弾正逃げ弾正』(保科弾正は他人を先に”やる”弾正、高坂弾正は逃げ出す弾正)
と言いふらされたものだ。

私の家は春日源五郎の名を代々継いでいたと言っても、父は春日大隅という甲州井沢の大百姓の
出身であり、私は幼少から故郷を離れ、姉婿と田地のことで公事(訴)に及び、私が負けた時に、
この公事の場からご奉公の命を頂いた。

この時信玄公は22歳、わたしは16歳で、最初は小人(雑役)であったのに、幸運にも廿人衆(徒歩で
軍隊の先導をする下級武士)を経て、はからずも1ヶ月も経たないうちに近習の地位に任じられ、
信玄公の側近く、御膝元に奉公する身となったのだ。なんという幸運な機会に恵まれたことだろう。

その後は、ご意向に沿うことが出来ず仮にも一月もの間仕事を与えられない、などという事もなく、
無難に引き続き奉公いたし、春日弾正と称して尼飾城主に任じられ、今は海津城主の高坂家を継いで
高坂弾正と呼ばれるに至った。

まことに、ご奉公に出仕してから24歳までは、同輩には「あのようなマヌケ者の弾正を昇進させるのは
ひとえに信玄公の見込み違いだ」などと、あちこちから言われたものであった。しかし、この事は
私にとって薬となり、信玄公の意に沿うように。一段とご奉公に精を入れたのだ。

(甲陽軍鑑)




101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/16(木) 20:34:42.42 ID:9idnpS5s
高坂殿の尻穴が大変な事になってる事について一切触れられていないとはどういうおつもりか!!

102 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/16(木) 21:18:55.21 ID:QyqN7lNg
高坂はケツの穴の小さい男じゃないからだろ!
言わせんな恥ずかしい!

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/16(木) 21:36:55.83 ID:0WnoPM87
やっぱりこういう流れになるのかよ!

104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/16(木) 21:56:03.48 ID:XRYkZD9m
一応言っておくと、例の武田信玄の書状は、宛名に「春日源助」とあるのが、「春日」の部分が後世の書き足しだと
判明していて、なおかつ高坂弾正は「源助」と名乗ったことはないので、この書状は高坂弾正宛ではないと
現在はほぼ証明されてる。

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/16(木) 23:08:01.59 ID:A2ZHz1rm
信玄の書状でも無い?

106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/17(金) 11:27:50.79 ID:ME3V0Bit
なんで相手の意見を否定するのに証拠を相手に出させようとするんだよw

「敵に敬意」を

2013年09月29日 19:07

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 20:23:44.23 ID:nMAxIXjX
敵方であっても国持大名ほどの人には、侮蔑して足軽大将とか何とかと呼ぶことはせず、ただ「大将」と呼ぶべきである。

敵の大将を口汚くいうのは、弱将の下に属する未熟な兵達の作法だ。
大体一国の大将ならば、敵味方にかかわりなく、話すときでも書面でも、敬意を表すのが礼というものだ。

何故なら、日本全体でも一国の将と言えるのは百人に満たず、66人にすぎない。
だからこそ、一国の将で古来から続いている大将には、その家柄を思い敬うべきであり、
同様に新たに興った国持大将には、その知恵や強運を思えば、下卑するのは非礼で良くない事である。

敵を謗るというのは、自分の国が逆に弱いからである。
(甲陽軍鑑)

高坂弾正の言葉とされる、「敵に敬意」を求めた文章である。




213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 21:50:28.48 ID:EG2E+pLz
関係ないけど何でいつも66なんだろう
語呂のよさか?

214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 21:58:05.48 ID:Yr2aFeBO
日本に66国あるからじゃないの?

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 21:59:02.96 ID:WXmCcbYa
律令国が66と普通されてるのは知った上で
壱岐対馬をなぜ含めないのか、てこと?

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 22:43:42.10 ID:Yr2aFeBO
いや、壱岐とか対馬とかの領主を国主と認めるのは無理がねえか?
面積的にも人口的にも。

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/28(土) 22:46:47.43 ID:TLyaxDR1
陸奥国はざっくりし過ぎ

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 00:12:36.73 ID:OXNdQZbX
佐渡や淡路だってあるし志摩なんかどうすんだ

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 00:32:07.75 ID:dAO5GwXk
>>216
壱岐と対馬は普通に一国だけど?

220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 00:41:38.30 ID:BEFIsqj9
隠岐も一国やね
八丈島は知らん

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 00:43:45.37 ID:dAO5GwXk
ああ、江戸時代の国持ち大名の事かな
としても対馬宗氏は一応国主大名

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 00:57:48.59 ID:0fYBd+Sd
話がかみあってねえな

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 02:19:55.46 ID:BEFIsqj9
>>213
唐の律令制の影響だろう
壱岐国、対馬国入れる場合は備前、備中、備後をまとめて吉備国とし六十六国にするらしい

無理矢理感が強いので書状ではたいてい『日本六十余州』って書かれているね

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/29(日) 08:25:11.43 ID:neBnQWq3
>>219
いや、ルールとしては国だし、国主だけどさ。
それで実質的に大和の国主とかと戦国武将として同格か、と言われるとなんか違うだろ。
この逸話の場合は、それなりの力のある人として国主を語ってるんだし。

高坂昌信と「山伏」

2012年06月05日 21:00

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/04(月) 21:11:41.31 ID:YzbW0Z0G
高坂昌信の幼女が一日外で遊んで帰ってきたところ重い病気になってしまった。
昌信が「いったい何があった」と尋ねると幼女は「山伏を見た」と言った。

そこで昌信がその山伏を連れてきて祈祷させると、すぐに平癒したので
その日は謝礼を渡して山伏を帰した。ところがその後も幼女は発病し、山伏が
治療するということが続き、三度に及んだ。

その後、実はあの山伏は犬神を使うらしいと聞いた昌信は山伏に料理を振る舞い、
「これは快気の謝礼だ」と金子を渡した。そして昌信は山伏が喜んで金子に
気をとられたところを一太刀で首を刎ねた。その日から幼女が発病することはなかった。




774 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/04(月) 21:59:59.35 ID:G/uSAnB/
>>771
高坂△

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/04(月) 22:12:05.22 ID:laKVpQs2
>>771
幼女「ひとめぼれした山伏さんに来て欲しいから病気のふりしてたのに…」

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/04(月) 23:38:19.30 ID:ExFAbJVo
>>771
なるほど、つまり

山伏「幼女に催眠術かけて何度も合うように仕向ければ……グフフ」

……という事か

高坂昌信、織田信長を例に上げ

2011年12月16日 22:01

11 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/12/16(金) 18:14:42.13 ID:kHDjjHyU
高坂昌信はある時、同僚の曽根昌世に品行の良し悪しと大将の優劣について問われた事があった。
その際、昌信は織田信長を例に挙げ

「あの男は粗野だが、人の目利きは上手で有能な家臣を取り立てている。扇や鼻紙は忘れても、刀や脇差は忘れない
 タイプだ。その点、行儀は良いが家臣の陶晴賢に国を乗っ取られた大内義隆は信長とは全く逆だ。」

と話した。これに真田昌幸

「では、信長の領地の治め方はどうでしょうか?」
と尋ねると

「有能な家臣に大国を与えている為に非常に危うい。もし信長が死ねば、そうした家臣たちが長男の信忠を
 破るだろう。ただ、信忠や次男の信雄も優秀であるから、信長がうまく対処しておけば問題なく国は治まるだろう。」

と語ったという。 高坂弾正の信長に対する評価がわかる逸話である。




12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 18:16:28.43 ID:Xc9z9sap
>>11
信雄が・・・優秀・・・だと?

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 18:19:44.38 ID:8hQi/I4Z
ノブオは戦下手だけど、領地経営ってどんな感じだったっけ?

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 18:25:20.26 ID:zYbBIeJ1
信雄は、尾張・伊勢、伊賀統治時代の検地では、後の太閤検地以上に詳細に行われていて、
支配の浸透という意味では非常に強力だったと評価されている。
内政という面では優秀といっても良かったんじゃないかな?

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 18:37:00.70 ID:8hQi/I4Z
ほー内政は優秀だったんだな
もしも信雄が家康の元領地を引き受けていたら、どうなっていたんだろうか

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 18:57:30.83 ID:uOu9t0Zn
戦国を生き残っただけでも優秀



って山名豊国さんが言ってました

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 20:01:50.86 ID:V6rUBrdy
でも豊国さんも氏真さんも天寿をまっとうしてるだけでも立派だよな~

雨宮十兵衛家次の帰参

2011年06月07日 00:01

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 00:33:46.00 ID:WLpP+f1l
ちょっと武田家のマイナーネタを
(1/2)


永祿七年(1564)、駿河侵略に異を唱えた嫡男義信を捕えて監禁し、翌年正月に飯富兵部を自害させた事件の時

当時、義信に近習として使えていた八十騎も同様に、処刑または追放されていた
これらは義信衆といわれ、いずれも優れた若武者で構成されていたうえに
義信を慕い傾倒していた者が多かったので、信玄もやむなく処断するしかなかったという

義信衆で追放された者の中に、雨宮十兵衛家次 という若い武士がいた
彼は義信の妹が嫁いでいる、小田原の北条家に身を寄せた
とりあえず、そういった関係もあったので北条家は十兵衛を快く迎えたという


926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 00:34:50.13 ID:WLpP+f1l
(2/2)

で、少し後のことになるが、この十兵衛
合戦ごとに実に良く戦場を駆け回り、氏康・氏政親子から3年間で感状を7通貰った
しかも手柄のうち4つが一番槍という暴れっぷり
その噂は山間を越え、高坂弾正の耳に届く

これに感心した弾正は、すぐに信玄に言う
「お館様、義信様のご家人には、罪があってないようなものでございます
雨宮十兵衛家次と申す者、小田原に仕えて短き間に感状を7通もとりました
武士のほまれでございましょう」

「ふむ」

「そのことで罪は消えていると思います
呼び戻し、わたくしの隊に預けて頂けませんか?」

信玄も、あたら若き義信衆を無下に切り捨てたことに未練があったのだろうか
弾正の言にはすぐに返答した
「そうだな、そのほうの好きにいたすがいい」

ただちに、高坂弾正より呼び戻しの使いが飛び、十兵衛は槍を担いで古巣に戻ってきた
義信衆八十騎の中で再び帰参の陽の目にあったのは彼一人だったという



なお、この雨宮十兵衛は村上義清の傍流で、家紋も同じかつ出自は信州、現長野県更埴市付近、
つまり、“川中島”近辺
実際、第4次川中島合戦にて上杉謙信が千曲川を渡った場所は
“雨宮”の渡しと呼ばれ、その近辺には雨宮十兵衛家次の菩提寺と、雨宮日吉神社が今でもあります




927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 00:48:54.44 ID:/WujR3c5
いい話か…?

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/06(月) 01:02:10.44 ID:aCFDZqDc
愛人には甘い信玄であった

高坂弾正、武士の職分を解らせるには・いい話

2009年06月07日 00:02

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/06(土) 16:46:55 ID:9ifeAUDT
武田家において、ある時土屋昌続が高坂弾正に尋ねた

「武を勤めるのは武士の職分と言いますが、家臣たちに、武道に励め、と言うと
喧嘩ばかりするようになり、作法を良くせよと言えば、武道をおろそかにして
武士の職分を果たしません。これはどういう風にすればいいのでしょう?」

高坂、これを聞いて
「それは、各々が腰に差している刀、脇差のようにせよ、と言えばよいのです。」

土屋、しかしその意味が良くわからない
「それは一体どういうことなのでしょうか?」

「刀や脇差を磨いで、これを差しているのは人を斬る為です。
ですが、常に鞘に入れていなければ差す事ができません。

人を斬るものだからと言って、抜き身のままで差せば、差す人の身も傷付け、
刀脇差も錆びて使い物にならなくなります。
だからと言って刃を付けない刀を差しても、それは人を斬る事も出来ないなまくらですよね。
磨いで刃をつけて鞘に入れて、それで初めて刀、脇差と言うものは、携帯する
武器として機能するのです。

武士の家の者だからといって、武道を嗜み過ぎて喧嘩ばかりするのは、刀を抜き身で差すのと
同じ事、そして武道に無関心になるのは、刃を磨いでいないなまくら刀と同じ事。

よって、家臣たちに武士としての職分を解らせるには、腰に指す刀、脇差のようにせよ、
と言えばよいのです。」

高坂弾正の、武士の本質を表した言葉。





287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/06(土) 17:09:37 ID:Qr8f4+ty
>>286
あー・・・これはいい話

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/06(土) 17:30:35 ID:YpT5Vg9c
そして当人は御館様の鞘に(ry

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/06(土) 19:28:11 ID:Ka/ZyZ4f
誰が上手いこと言えと(ry

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/06(土) 20:19:33 ID:meSztt4X
元百姓とは思えない。すごい。

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/06(土) 20:27:41 ID:1arl4rj9
>>288
鞘を普通にタコと読んで???となってしまった_| ̄|○
疲れてるのか俺・・・・

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/06(土) 20:36:53 ID:ILf2CHGn
武士が喧嘩で一度刀を抜いたら殺すか殺されるかのどっちか
それを仲裁に入られるようでは武道の心得がなっとらんから
両方成敗する法律あったよね 本当武士は半端ないぜ

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/06(土) 20:39:46 ID:DxhpNy4A
>>290
百姓といっても地侍クラスだったんじゃねえの?
秀吉みたいに。

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/06(土) 20:44:27 ID:WZhg0q3z
>>291
               l^丶
               |  '゙''"'''゙ y-―, あ ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう    
               ミ ´ ∀ `  ,:'     
             (丶    (丶 ミ   いあ    いあ
          ((    ミ        ;':  ハ,_,ハ   ハ,_,ハ
              ;:        ミ  ';´∀`';  ';´∀`';, ,
              `:;       ,:'  c  c.ミ' c  c.ミ  
               U"゙'''~"^'丶)   u''゙"J   u''゙"J

            /^l
     ,―-y'"'~"゙´  |   それ  るるいえ うがふなぐる ふたぐん
     ヽ  ´ ∀ `  ゙':
     ミ  .,/)   、/)    いあ    いあ
     ゙,   "'   ´''ミ   ハ,_,ハ    ハ,_,ハ
  ((  ミ       ;:'  ,:' ´∀`';  ,:' ´∀`';
      ';      彡  :: っ ,っ  :: っ ,っ
      (/~"゙''´~"U    ι''"゙''u   ι''"゙''u

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/06(土) 22:03:59 ID:1arl4rj9
>>294
ちょw邪神召喚すなww
でもちょっと元気になった自分は変だ。ありがと。

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/06(土) 22:43:16 ID:c8lfJZtv
高坂の出自は諸説あるが、夜に掘ったり掘られたりの農耕作業が得意だから百姓で合ってるだろう。

297 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/07(日) 00:01:56 ID:Y7ss74og
武士だろうが百姓だろうが男は死狂い
みんな頑張ろうぜ!!

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/07(日) 00:03:48 ID:9id80Ibe
>>296
ここは大喜利をする場所ではござらぬw

299 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/07(日) 00:56:07 ID:vp+uov0f
瀬戸内百姓

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/07(日) 01:06:07 ID:JSepw3CN
>>297
一瞬男狂いにみえたw
流れ的にまちがってないしw

301 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/07(日) 03:15:56 ID:068Sws0v
>>288
>>296
座布団1枚ずつやろうw

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/07(日) 04:48:42 ID:ASupsDAk
えぇい、出会え出会えい!!

303 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2009/06/07(日) 05:20:31 ID:Xsy0d/Wa
むしろお前らもちつけ。
士農が分かれていない時代なんだから。

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/07(日) 08:59:46 ID:gWPlt4mh
逃げ弾正もお屋形様からは逃げ切れなかったのか